2013年3月11日月曜日

『唯脳論』(養老猛司著、澤口俊之解説、ちくま学芸文庫)の読後感とその基本前提となる主張への疑問


本書の難解さ
本書を通読して言えることの一つに、非常に難解だということがある。難解であることに原因が考えられるとすれば、当然、その責任は読者側にあるか、書物、すなわち著者の側にあるか、あるいはその両者に原因があるかの三通りが考えられる。巻末解説者の脳科学者である澤口俊之氏によれば、氏自身もこの唯脳論をよく理解できないことを認めたうえで、その原因、難解である原因はひとえに読者側に、つまり読者の理解力不足あるとしているように見える。ちなみに氏は唯脳論を数千年に一度の画期的な理論であるとみなしておられる。

私の印象では、もちろん私の理解力不足に原因があるには違いないが、著者側にもこの本を難解にしている原因は間違いなくあるように思う。一回通読したうえでのおおざっぱな印象をいえば、全体的に論理構造が不明瞭で、錯綜しているといってもいいような印象を受ける。さらに言えば、論理構造の不明瞭さ、あるいは論理的な矛盾は、この著作自体に含まれるほかに、この著作で前提とされている脳科学における現在の一般的な、あるいは主流とされるような考え方そのものにも含まれている印象を受けた。というのは脳科学者である解説者が現在の脳科学の常識として指摘している本書中の主張そのものにその矛盾を私が感じるからである。まずその主張について考察してみたい。

本書の基礎となる主張
この『唯脳論』では、その主張は最初の「心身論と唯脳論」という節で、次のように表現されている。「心とは実は脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。―中略― 心臓血管系と循環とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。」
要するに、心臓血管系の機能が血液の循環であるのと同じ意味で、脳の機能が心である、いう主張である。

また著者は、「脳」は「心臓血管系」と同様に「構造」であり、構造と機能との並行関係という視点でとらえている。したがって、「構造」という概念と「機能」という概念についての理解あるいは認識が鍵となるように思われるが、どちらについてもこの本ではそれ以上の分析がされていないように思われる。
いま「構造」について論じることは難しいが、「機能」という概念について、私なりに分析してみたいと思う。


機能が意味するもの
脳や心臓など、臓器について言う場合、「機能」という言葉と同様に「作用」とか、「活動」とか、「働き」とかの用語が良く使われる。この種の言葉は科学、特に自然科学の領域でも重要な箇所でよく使われる言葉だが、意外と無反省に使われている傾向があるように思われる。何れも非常に抽象的な表現ではあるが、これらの中で「機能」は比較的に具体性が高く、分析しやすいように思われるし、この本の中でも基本的に「機能」が使われているので「機能」について考察してみたい。

心臓血管系の場合、機能は「血液の循環」である(著者は簡単に「循環」と言っているが)。
一般に、「機能」は何らかの目的と不可分の関係であることが多い。心臓血管系の持つ血液の循環という機能の場合、それは人間の生命の維持という目的と不可分の関係にあるといえる。つまり、血液の循環は、人間の生命を維持するために必要な限りでの、心臓血管系が関わる生理現象であるといえる。心臓血管系が関わる生理現象や、さらに物理化学的に還元されるすべての現象を挙げればそれらは無数の現象から成り立っている。熱も発生するし、電波や音波などの波動も発生している。そういった無数の現象のすべてが心臓血管系の機能であるわけではなく、人間の生命維持に必要とされる血液の循環に関わる限りでの生理現象の総体が、心臓血管系の機能であるといえる。

もちろん、このように考えると、他方の「構造」に対応する概念とは言えなくなるかもしれない。しかし、著者が「機能」に対応させている「構造」の方にも同様のことが言えるのであって、人間の生命維持に必要な血液循環機能に関わる限りでの「構造」であって、考え得るあらゆる構造とは言えないのではないだろうか。

これは人間の作った道具に例えることでわかりやすくなる。機能という用語は、生物の臓器などと同様に、道具や機械について特に用いられる用語である。

例えばスピーカーという道具の機能は普通、簡単に言ってしまえば「音を出す」ことと考えられている。しかし、もちろんのこと、どんな音でもよいわけではない。何かが箱にぶつかって出る音はスピーカーの機能に含まれない。他方、スピーカーは熱も出す。また光を反射しているので見ることができるが、こういう現象もスピーカーの機能には含まれない。つまり、スピーカーの機能を正確に言えば、スピーカーを使用する人間が何らかの目的で電気信号を流すことで、その電気信号に従った音波を発生することにある。言い換えると、スピーカーの機能とは、人間が音楽を再生したり、通信に用いたりする用途に合致するように音波を発生することに関わる限りで、スピーカー内で生じる物理現象のすべてを指すといえるだろう。

他方、スピーカーの構造とは、そのような目的で人間が設計した限りでの構造を意味するといえる。
その場から人間が去ってしまえばそれはもうスピーカーではなくなる。

脳と心臓血管系についても同様のことが言える。いずれの機能についても、その背後と前方に人間という全体的存在が欠かせない。この意味で、血液の循環が心臓血管系の機能であるというのは自然であり、誰もが納得できることである。しかし、脳と心について同じことだいえるであろうか。

まず、心が人間の生存、生命を維持するうえで重要な働きをしていることは否定できない。しかし、常にそうであるといえるだろうか。人間は自殺することがある。また自分ではなく他人の生命を維持するために働くこともあれば、殺人を犯すこともある。こういう行為に「心」が関わっていないなどとは誰も言えないであろう。

こう考えてくると、心臓血管系の血液循環機能の場合も生命の維持ではなく生命を破壊する方向に作用する場合もあるのではないかという疑問が持たれるかもしれない。確かに、血液循環機能はがん細胞の増殖をも促進することで、結果的に生命を脅かすことにもつながる。しかしここで改めて言葉の意味について分析してみる必要がある。血液循環機能というのは人間が作り出した生理学、あるいは生物学上の概念なのである。物理学や化学にはこのような概念はない。

試みに、ウィキペディアで「生理学」を調べてみると、「生命現象を機能の側面から研究する生物学の一分野」となっている。「機能」を辞書で調べてみると、例えば次のような定義が見つかる。「器官・機械などで相互に関連し合って全体を構成する個々の各部分が、全体の中でになっている固有の役割(大辞林第三版)」この定義は生理現象などについては適切な定義と言えると思われる。

意味するものと意味されるもの
つまり、血液循環機能は血液循環という生命現象のひとつを機能という見方で把握した概念であるともいえる。血液循環という現象、つまり血液循環現象そのものは、いわば「意味されるもの」であり、血液循環機能という場合は血液循環という現象を生理学的な機能という観点で把握したところのいわば「意味するもの」だといえる。

血液循環機能を「生命を維持するための機能」ととらえるのは生理学的な機能を端的に、わかり易く表現したまでで、生理学的な機能と完全に一致するというわけではないとも言える。

「心」に対して以上のような意味的な分析が可能であろうか。

これに関して、「心」について、著者は次のように述べている。「心を脳の機能としてではなく、何か特別なものとして考える。―中略― それはおそらく間違いである。」
ここで、「心を脳の機能として考える」のは著者の立場であり、「なにか特別なものとして考える」のは著者が「おそらく間違いである」として批判の対象にしている人々の立場であるといえる。ここで著者が指摘するような脳と心臓血管系との対応関係を適用すれば、著者の立場は血液循環機能と同様、「心という機能」として、つまり「意味するもの」として使用していることになる。これはひとつの概念である。心とはそれ自体が概念なのであろうか。心それ自体が概念と言えるであろうか。

「心」という言葉は、日本語でもそれ以外の言葉でも、生物学や生理学が確立されるよりはるか以前からある。それに対して、歴史的に、血液の循環は、「心臓は人間を含む動物の生命現象においてどのような役割を果たしているのであろうか」という疑問、要するに生物学や生理学的な探究の結果として発見された現象であり、「血液の循環機能」はその現象を機能として意味づけるために作られた新しい生物学ないし生理学上の用語なのである。

ここで最初に引用した著者の基本的な主張をもう一度確認してみたい。それは次のとおりである。「心とは実は脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。―中略― 心臓血管系と循環とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。」

ここで著者は「心臓血管系」を「脳」に対応させ、また「循環」を「心」対応させているのであるが、ここでの「循環」と「心」は共に「意味されるもの」を指しているものと考えざるを得ないのである。しかし、以上に見てきたように、それ以降で展開される著者の議論では、「心」を「意味するもの」として使用していると考えられるのである。ここに重大な矛盾が存在する。

【「心」は単に名前なのか
このような次第で、血液循環機能とは血液循環現象に与えられた概念であり、換言すれば血液循環現象を意味するものとしての「名前」ともいえるのである。

一方、「心」が血液循環機能に対応する脳の機能に対して与えられた「名前」以外の何物でもないとは、たいていの人は承服できないのではないだろうか。

他方、著者が批判の対象としているところの、心を「なにか特別なものとして考える」立場では、「心」という単語自体は名詞であり、何らかの対象に与えられた、対象を意味するところの名前であることは確かだが、その意味する対象は「心」という言葉でしか表現できないところの「何か特別なもの」なのであるといえる。この「何か特別なもの」が「意味されるものである」

この「心」という言葉によって「意味されるもの」は、「心」(あるいはそれと類縁の言葉、例えば精神とか、外国語の相当語句など)という言葉でしか表現できないものであるが、いろいろな性質は考えられる。たとえば意思(自由であるかどうかはともかくも)や感情を持つことなどである。であるからこそ、生命現象の本来の機能に反するような自殺を意図したり、他人の身体や生命に影響を及ぼしたりもできるのである。

脳機能の内容
一方、それでは著者によって「心」という名前が与えられたところの、「意味される」対象である脳機能はどういうものだろうか。それは現在に至るまでの脳科学あるいは神経系に関する学問分野の直接の研究内容のすべてと言えるのだろうが、それに「心」という名前を与えるに値するだけの内容を持つといえるだろうか。

心臓血管系における血液循環機能と同様の生理現象的な部分でわかっていることは、神経細胞を流れる信号(何らかの電気的な現象や化学的な現象)の他、脳波などの物理現象ということになるのではないだろうか。

脳の場合、こういう電気的あるいは化学的な信号に意味的なものが加わっている。意味的なものが加わっているからこそ、信号と言えるわけであり、著者を含めて多くの科学者がさらにそれを「情報」と表現している場合が多い。脳という器官自体がそれらの意味を理解しているかどうかは証明不能であろう。あくまで比ゆ的に用いられているに過ぎない。コンピューターが情報の意味内容を理解しているといえないのと同様にである。それらの信号に「意味」を見ているのは、考察している人間以外の何物でもない。

著者は本文最初の「唯脳論とはなにか」という節の冒頭近くで、「ヒトが人である所以はシンボル活動にある」と述べている。これは「人間はシンボルを繰る動物である」とするカッシーラーの定義と同じであるが、著者を含む多くの脳関連の科学者は「脳」を主語にした行為として生理現象を説明することで、「人間」を「脳」に置き換ええる。

シンボル活動を行う主体としての「人間」は自明な存在と言える。カッシーラーが人間をシンボルを繰る動物として定義し、「人間(邦訳)」という書物を書いたのは、人間がシンボルを繰る主体として自明な存在であったからであると思われる。これに対して臓器に命令したり、臓器の機能をつかさどったり、制御したり、知ったりする主体としての脳は自明な存在とは程遠い。

「脳が命令する」とか、「脳がつかさどる」とか「脳がコントロール」するとかの表現はすべて比喩に過ぎない。こういう比喩は個々のメカニズムや機能を説明するには有用な表現であろうけれども、こういう比喩を前提に論理を積み上げてみたところで、出来上がった理論も所詮は比喩に過ぎない。
言い換えると、脳を人間に例えて語っているに過ぎない。つまり脳の擬人化と言える。

以上は本書の冒頭節『唯脳論とはなにか』で、本書全体で展開される唯脳論の基本前提とされている「心は脳の機能である」という主張に対する疑問ないしは反論である。非常に広範囲に及ぶ問題について考察されている本書の全体については、また再読する機会があれば、部分的にでも感想を述べてみたいが、広範で複雑な内容だけに困難なものになりそうである。

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