2010年8月9日月曜日

イメージとメディアまたは(画)像と媒体

(はじめに)
イメージは一種の「意味」であると言えます。今日からこのブログのラベル(カテゴリー)に「イメージ」を加え、このカテゴリーでの記事を追加してゆくことにしました。主として次の3つの契機によります。

1.最近に始まったわけでもありませんが、イメージに関わる論議が盛んです。そのなかで最近特に目立つのがスマートフォンと電子書籍にまつわる話題と論議です。電子書籍は文字が中心ですが、文字であってもフォントの問題とか、縦書き横書き問題などを考えてみてもイメージの問題が中心であることは画像の場合と変わりありません。

2.「3Dテレビ」が実用化され、「3D」映画のヒットもきっかけに3D論議が盛んになってきています。将来、映像はすべて3Dになるだろうなどと言う人も少なくありません。しかし一方で3Dテレビや3D映画の不自然さが目や身体の、少なくとも一時的な疲労を起こすことが問題になり、長期的な健康に及ぼす影響についても問題にされ始めています。とにかく「3D」論議自体は盛んになっていますがその割りに立体視とは何か、視覚とは何かという問題意識はそれ程深まってきているようには思えないところがあります。

3.個人的に、筆者が今年、映像に関わる特許を出願しました。これを紹介するページを以下のHP(http://www.te-kogei.com/patent/koho_imageglass.html)に掲載しましたが、こういう考えもあるという事を多くの方々に理解して欲しいと考えますので、「意味」の一種でもあるイメージを扱うものでもあり、このブログでもそれにちなんだ問題を取り上げた次第です。


イメージとメディア、または画像と媒体

■ 「像」と「イメージ」に関わる熟語と用語法から興味深いものが見えてくる

英語の単語である「image」は、基本的に日本語の「像」とよく対応しています。語源や歴史的な考察はともあれ、現在ではどちらも視覚像を表す言葉として最も抽象的あるいは包括的な言葉であると言えると思います。ただ造語性の面で日本語の「像」と英語の「イメージ」ではちょっと異なった処があります。

日本語では「像」から派生して多くの熟語が作られています。画像、彫像、映像、この3つ、特に現在、画像と映像とが代表的ですが、また異なったカテゴリーの熟語として心像、想像、肖像、人物像、神像、仏像などがあります。また光学用語では実像と虚像が基本にあり、これらは専門用語としても一般語としても使われています。固有名詞にも付けられ、例えば麗子像といった芸術作品もありますね。これらを見回して分かることは、「像」単独では具体的な、あるいは物質的な存在を表すのではなく、姿、形そのもの、つまり人間の感覚あるいは知覚作用の産物であり、結局のところ「像」はすなわち「視覚像」あるいは「知覚像」であると言って良いのでは無いでしょうか。これはちょうど英語の「イメージ」についても言えることであると思います。
しかし、日本語の場合、画像、彫像、映像、その他のように限定する語が付けられた熟語となった場合、それらの熟語の意味と「像」の意味はどのような関係になっているのでしょうか。この関係を考えてみると、画像、彫像、映像の場合はメディア、すなわち媒体と一体になった像またはイメージと言って良いように思われます。心像、想像の場合はまたこれとは異なります。さらに仏像とか麗子像などもこれとは違います。こうしてみてみると、今のところ「像」の付く熟語は大体3通り、もしくは4通り、あるいは更に多くのカテゴリーに分けられ、その1つは媒体すなわちメディアと一体になったものを指すといって差し支えなさそうです。

(像を含む熟語の分類)
【1】メディア(媒体)に関わる語と組み合わされた熟語: 
画像、映像、彫像、銅像、石像、鏡像
【2】イメージに表現されている実物(特に人格を持つ存在)と組み合わされた熟語: 
神像、仏像、人物像、肖像、全身像、胸像、麗子像
【3】形を持たない存在で、イメージに表現されている内容と組み合わされた熟語:
  心像、想像、幻像(心理的)
【4】イメージの科学的な性質を説明する語と組み合わされた熟語:
虚像、実像 (光学的)
【5】感覚の種類と組み合わせた熟語:
視覚像(視覚イメージ、心理学的)
音像(音イメージと言えばまた違った意味になる)、触覚像(触覚イメージの方が一般的)、嗅覚増(嗅覚イメージの方が一般的)、

こうして分類した像を含む熟語を見回してみると、色々な事を考えさせられ、興味深い考察に導かれるように思われますが、、とりあえず表題「イメージとメディア」に従って最初の画像、映像、彫像等についてイメージ自体との関係を考察してみたいと思います。なお、以下、「像」と「イメージ」との使い分けはその時の感覚で自然に出てくる方を用いることにします。あるいはむしろ意図的に両方の用語を統一せずに使用します。


■ イメージと媒体とを分離して認識することは難しい

英語の場合は日本語とは異なり、image がそのまま画像、彫像、映像の意味にも使われるようです。もちろん、picture とか、sculpture とか、screen とか、別の、もっと具体的な用語があり、こちらが使われる場合もあります。また picture image という表現もあり、そのまま「画像」に対応する表現もあるようですが、あまり使われることがないようです。いずれにしても「イメージ」が非常に多様な意味で使われることは確かで、そういった意味で使われる「イメージ」が日本語化しているだけに、非常に奇妙な日本語の熟語が作られ、使われるようなことにもなっています。「イメージ画像」とか「イメージ図」などという言葉に何となく居心地の悪さを感じるのは私だけでしょうか。確かに「イメージ図」と言わずに「想像図」と言ったりするとまた意味が多少異なってくるようにも思われ、「イメージ図」なる用語が使われるのも仕方のないことかなという気もしますが。

イメージという語が日本語に取り入れられ頻繁に使われるようになった原因の1つは、それに当たる「像」という語が、単独では使いにくいという事情があるように思われます。動物の象と同じ音であり、字も似ているという事もあります。また「像」はどうしても人物など、人格を持つ対象を連想しやすいということもあるかも知れません。しかしそれよりも画像、彫像、映像など、それら自体が一体のものであり、像とその媒体とを切り離すことができないものであるというところに起因しているようにも思われます。英語で「image」がそのまま画像や彫像や映像に使われるのも、同じ理由によるものではないでしょうか。結局のところ、画像、彫像、映像などは、イメージそのものと媒体とを切り離して考えることが極端に難しいものであるという事でしょう。


■ 「虚像」、特に鏡像の場合は、媒体とイメージとを切り離して認識することが容易

しかし、媒体と像とを切り離して認識することが比較的容易な場合もあります。それは光学的な虚像の場合です。つまり、レンズやプリズム、鏡などでできる虚像の事です。ただしこれはレンズ、プリズム、鏡などを媒体、メディアと考えた場合ですが。

眼鏡やルーペなどの場合はちょっと難しいですが、プリズムや鏡の像を見た場合、現実には実物が存在しないところに対象のイメージが見えることが誰にでも分かります。それは、イメージには距離感、あるいは位置の感覚が伴うからとも言えます。眼鏡やルーペの場合もそれらを通して見ているイメージは、裸眼で見ているイメージとは若干、距離が異なっていることが分かります。ところが驚くべき事に、虚像である鏡像は3次元ではなく2次元であると言い張る人がいます。その人はルーペで見る像や眼鏡でみる光景も2次元像であると思っているのでしょうか。たぶんそうは思わないでしょう。恐らく鏡面という平面から絵や写真、あるいは映像を連想し、絵や写真のイメージを2次元像であることが自明であるという考えに引きずられているのでしょう。しかし絵や写真のイメージを2次元イメージと呼ぶことは極めて普通の事ですが、本当にそう考えて良いのでしょうか?絵や写真のイメージは2次元イメージと呼ぶべきものなのでしょうか?媒体が2次元であるという事に過ぎないのではないでしょうか。媒体が2次元であることを問題にするのであれば、眼の網膜の表面も2次元です。網膜も広い意味で媒体の1つです。

絵や写真のイメージと鏡など光学製品による虚像との最も顕著な違いは、絵や写真は保存イメージであるという事でしょう。絵や写真のイメージは固定しています。動画の場合も1秒あたり何十枚もの画像1つごとにイメージは固定しています。これに対して光学製品による虚像は鏡やレンズなどに固定しているものではなく、「実物」に対応しています。その光の届くところに「実物」が存在しています。実物を直接見るのとは見え方が違いますが、本質的に実物を裸眼で直接見るのとそれ程の違いはありません。違いは大きさ、鮮明度、鏡像の場合は左右の反転、などでしょう。鮮明度は、光学製品の品質が一定以上のものであれば殆ど実景との差は見られません。近視のように視力が低下した人の場合、むしろ虚像の方が鮮明度は高いのです。近視などの眼鏡の事を考えてみると分かるように、虚像と肉眼イメージとの間に本質的な差はないと言えます。


■ 虚像と肉眼像との間に本質的な差はない

実物本体とそのイメージとの関係で言えば、直接眼で見るイメージと虚像に本質的な違いはありません。つまり、リアリティーの点で何れかが本物で何れかが偽物であるという差はありません。鮮明度で言えば、裸眼の方が鮮明な場合もあり、逆の場合もあります。裸眼で直接見るイメージであれ、虚像であれ、何れもイメージは実物それ自体とは異なる存在ではあるが、つねに実物と眼という感覚器官による人の知覚の双方によって成立する存在と言えます。

この実物とイメージとの関係は先にみたような、例えば画像とそのイメージのような、イメージとその媒体という関係とはまったくの別物であって、それは哲学的な問題になってしまいます。


■ 画像(写真や映像)と裸眼像との関係

では、写真や映像のイメージと実物との関係はどのような関係なのでしょうか。よく「カメラの眼」で見た姿とかイメージ、「カメラの眼」を通して捉えたイメージなどと言いますが、カメラが眼に例えられるのはその構造だけです。カメラという単なる構造物と人の視覚そのものとは何の共通点もありません。このような言い方はただカメラを擬人化しているに過ぎません。

先ほど写真や映像は保存固定したイメージであると言いましたが、実はそれは写真や映像の1つの特質ではありますが、保存するからには保存する内容が無ければなりません。その保存する対象のイメージは何でしょうか。というのも、人や物の姿を写真フィルムや記録媒体を通さずに直接レンズでスクリーンに映し出すこともできるからです。テレビの生放送はまさにそれに当たります。そのイメージの元はレンズの作り出す「実像」と呼ばれます。

写真や映像などの画像一般と、鏡やレンズやプリズムなどを使った虚像との違いには、まず、光学的な実像と虚像の違いがあることが分かります。

【ここでの結論】
◆ 鏡像や望遠鏡、双眼鏡、ルーペ、眼鏡などのイメージは虚像であり、それに対して画像(のイメージ)は実像である。


■ 実像の本質

ところで一方、望遠鏡や顕微鏡など、対物レンズと接眼レンズを用いる光学系では、対物レンズによってできた実像を、接眼レンズによって虚像として見ているといわれます。しかし結果的に、これらの場合は対物レンズによってできた実像というのは単なる光の通過点の集合であり、人が見る像はあくまで虚像であると言えます。しかしその箇所にその大きさの実像ができていることには間違いがありません。ではカメラの画像、すなわち写真と、望遠鏡などの実像はどこが違うのでしょうか。


■ 虚像と実像との違い

実像といえども、それは人間の眼で捉えて始めて像になるのであって、それ自体は光の通過点の集合に過ぎないわけであり、それ自体は像でもイメージでも無い訳ですが、虚像の場合はそれは光の通過点でさえないのであって、その点での虚像との比較において、実際に存在する実像と見なすより他はありません。


■ 写真のイメージは実像に由来するが、実像そのものでは無い

写真のイメージは、正確には実像そのものとは言えません。それは実像をいったん特殊な平面で受け止め、それを化学物質なり、デジタルデータなりで分析、記録、処理したものを人が肉眼で眺めたときに生じるイメージです。写される対象を直接肉眼で見た場合と異なるのはもちろんですが、カメラの内部に生じた実際の実像を直接眺める場合ともまた異なります。カメラの内部に生じる実像は、望遠鏡や双眼鏡で見る実像と同じものです。その実像ができる位置は平面ではありません。対象が近距離の場合、実像を平面で受け止めると、正確に焦点が合っている部分以外はピンぼけになります。しかし対象が遠景であれば事実上平面と言って差し支えありません。いずれにしても眼の網膜に映る場合と同じです。ですから、平面で受け止められる実像は真の実像そのものと事実上同じものと考えて差し支えありません。この実像をそのまま肉眼で見る場合と、実像ではなく実景を直接肉眼で見る場合とを比較した場合、その違いは大きさ、上下左右の反転などに現れますが、それ以外の点では変わりありません。従ってもう少し複雑な光学系を加えて大きさ、上下左右の反転を修正し、結果的に網膜に映る映像が直接対象を見ているときと同じ大きさと方向に映るようにできる筈です。ただし明るさや色合い、焦点の合う距離範囲などに差が出てくる可能性がありますが、遠景の場合も近景の場合もリアリティーという点では問題になりません。

という訳で、実像の場合も虚像と同様、それを直接眺めている限りは、肉眼で直接実景を見ているのとはリアリティーの点で全く差はありません。リアリティーの点で、実像もそれ自体では虚像と何ら相違はないと言えます。

【この項の結論】
光学的虚像と実像それ自体にリアリティーの点で差はない


■ 像と虚像との違いは、画像ではそこに表現されているイメージと一体になった媒体(紙、スクリーン、他)自体が新たなイメージソースになることにある。

本質的な違いは、実像を保存し、再生するところから始まります。あるいはテレビの生放送のように、実像を処理して新たな媒体に再現するところから始まります。実像を保存し、再生するところから、元のイメージは媒体と一体のものとなり、その媒体、物質的な媒体自体がひとつのイメージソースとなることです。これは虚像ではあり得ないことです。つまり実像ではそこに光が到達し、何らかの物理的な表面上に光が物理化学的変化を残す事ができるからですね。


■ 画像を見るということは、同時に2つの異なったイメージを見ることである

結論の1つとして言えることは、人が写真を見る場合、まったく素性というか、起源の異なる2つのイメージを同時に眺めることになるということです。1つはカメラによって捉えられた対象のイメージ、もう1つは媒体、すなわちメディアそれ自体のイメージです。本来の目的である被写体のイメージから言えば媒体自体のイメージは余計なもの、ノイズに他なりません。

「平面画像」ないし二次元イメージといった言い方は、本来別物であるこの2つのイメージを区別せずに一体のものとして認識した言い方であると言って良いと思われます。もう少し正しく表現するとすれば、「平面の媒体上に表現されたイメージ」というべきかも知れません。表現されている元のイメージの内容が二次元であればそのイメージも二次元であり、三次元であればそのイメージも三次元です。

ただし以上はすべて単眼のカメラと単眼の肉眼についての観察についての考察です。大体はこのまま両眼について当てはまるとしても、当てはまらない部分もありそうです。

【1つの結論】
平面像」ないし「二次元像」という言い方は、イメージの媒体としての画像を指す場合は意味があるが、表現されているイメージの内容自体は平面とは限らないのであって、誤解を招く表現である。


■ 画像媒体の、ノイズとしての効果は低減することが可能である。

この媒体に起因するノイズを低減するために行われてきた、といえる対策の最たるものは画面の大型化でしょう。大型化という事はすなわち、遠距離による鑑賞を可能にすることです。劇場用映画ではこれが早くから実現し、現在では家庭向けのテレビ画面で大型化が進んでいます。しかし家庭では見る距離に限界があり、当然大型化にも限界があります。劇場向け映画ではそれ程一般化しなかった立体映画、今言われる3Dが家庭用テレビで実現され、メーカーが力を入れているのは、家庭では大型化に限界があるからのような気もします。

いわゆる「3D映画や3Dテレビ」、すなわち立体映像技術も画像媒体のノイズを低減する方法の1つという面がありますが、立体映像技術の1つの特長は同時に2つの異なった画像を使用すると言う事です。本来、元のイメージは1つなのです。そこに不自然さが入り込んでくるのではないでしょうか。

一方、印刷物や書籍では電子書籍を含め大画面化は最初から限度があり、むしろ小型化も進んでいます。上述の特許出願
は小画面に対応し、媒体に起因するノイズを低減する1つの方法の提案になっています。

参考
◆http://www.te-kogei.com/patent/koho_imageglass.html

筆者による関連ブログ記事
◆http://d.hatena.ne.jp/quarta/20100221#1266739280
「3D」映画と眼の疲労、身体の不調
◆http://d.hatena.ne.jp/quarta/searchdiary?word=%2A%5B%B6%C0%C1%FC%CC%E4%C2%EA%5D
鏡像問題


以後、イメージとメディアに関して以下のような問題を続けて検討して行きたいと考えています
☆ 両眼視と両眼視差の問題 ― 両眼視差は立体視に貢献する以外にも視覚に様々な影響を与えている。
☆ 鏡像問題と縦書き横書き
☆ 絵画と写真
☆ イメージの起源 ― (科学的)物体と光、(心理的)心、神秘的なもの

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