2019年8月17日土曜日

象徴的なものと言葉たち ―(1)血の象徴性―その4、血とアイデンティティー

 血統や血筋といった類の熟語や文脈において、これまで3回にわたって血の象徴性をみてきたわけですが、血が象徴するもの ― 言葉の上でも現実の血そのものにおいても ― は、それらの熟語や文脈、さらには言葉を使う人自身の意図によって相当な違いがあることがわかります。例えば最初の回で見たように、血脈という語は語源から言えば、仏教の師弟関係という、普通の意味での血統とは全く無関係の精神的な系譜を意味していたわけで、ある面では正反対の意味となるようにも思えます。しかし、こういった多様な血の象徴性を用いた表現において共通する核となる象徴性があるはず、と考えると、つまるところ血が象徴するもの、血において象徴されるものは、個人や何らかの集団のアイデンティティーというべきものではないかと思われるのです(本ブログ7月10日の記事参照)。次にいくつかの例を挙げてみます。
  1. 親子における「血のつながり」の文脈において血が象徴するものは、その親子とういう集団のアイデンティティーであるということができる
  2. 一般的に用いられる意味での「血統」は端的に言えば家系図において確認できる繋がりに他ならず、この場合に血という文字で象徴されるものは家系図で示される集団のアイデンティティーであるということができる
  3. 本来あるいは古語としての「血脈」において血が象徴するものは師弟関係という集団のアイデンティティーであるということができる。
  4. 血統血縁血筋血脈血盟血を引く、等々、多様な異なる熟語や表現に関わらず、親族関係や家系とは関係なく精神的なつながりを意味する集団のアイデンティティーとみることができる

 ところで昨今はDNAゲノムといった言葉が特に(1)のような文脈で、時には(2)や(3)の文脈においても、血を使った表現の代わりに使われます。DNAやゲノムは化学物質の構造や組合せによる遺伝情報を意味するものと考えられますが、それでも、親子が全く同じDNAまたはゲノムを持っているわけではないことは、親子に同じ血が流れているわけではないのと同様であって、何らかの象徴として使われているという点では、血と、何ら異なることはないと思います。その象徴するものの究極はアイデンティティーという概念的な言葉で表現されるものではないかと思えるわけです。しかしアイデンティティーという言葉が使われることは、特に上述のような熟語として使われることは、殆どありません。熟語、とくに漢字を使った簡潔な熟語を作るという点ではDNAもゲノムも使うことは難しいというより、事実上不可能でしょう。
 熟語としてではなく単独で使う場合にはDNAやゲノムが使われることも多くなったとは言えるかもしれません。それでも「血を引く」というような表現で「DNAを引く」などとはちょっと言えませんね。まして「アイデンティティーを引く」などと言えば何のことかさっぱりわからなくなっていしまいそうです。

 アイデンティティー、すなわちidentityという名詞は抽象名詞で、英語としても比較的新しい、少なくともbloodよりははるかに新しい言葉であることは明白であり、遺伝子もそうですがDNAゲノムともなればはさらに新しく、20世紀にできた言葉でしょう。ですからこういう言葉ができるまではそのような概念もなかったわけですが、しかし洋の東西を問わず、あるいは共通して血で象徴されるところの何者か、あるいはシニフィエというべきもの — 平たく言えば意味ですが — は、だれにも直感できるものであったに違いありません。この象徴性は広く言えば神話的象徴といえるものだと思います。もっと即物的で科学的に見えるDNAも、すでに述べた通り、象徴的ということでは変わらないと思います。科学的象徴性というべきでしょうか。ただし、やはり実感を伴う象徴性としては血の象徴性には及ばないように思えます。

 血は液体であって決まった形を持たず、赤色という、これまた強烈な象徴性を持つ色を持っています。血が身体の中を流れ、充満していることは人々にとって直観的といっても良いほどの知識であり、血管は皮膚の上からでも透けて見え、脈打っていることも分かり、血液循環のメカニズムは知らなくても、心の臓器とされる心臓から送り出されていることくらいは、昔からわかっていた筈で、多量に失われると命にかかわることも知られていた筈。ということで、生命の象徴でもあり、こういったイメージの力は強烈であって、単に文字と発音のイメージしか持たない「アイデンティティー」で完全に置き換えることはできないものです。ただしDNAと言えば今どきはマスコミでも紹介されているらせん状の分子構造体のイメージが換気されそうです。このイメージは血のイメージとは全く異なりますね。しかし視覚的イメージであることには違いありません。

 こうしてみると、血の象徴性について考えて見る事は、神話的な象徴性は科学的な認識の中にも生きているというカッシーラーの思想の一端を感得できる良い例になるのではないかと思います。

2019年8月10日土曜日

「です」の代わりとして使われる「になります」という表現の問題

「何々です」といえば済むところを「何々になります」という表現が頻繁に使われることに対する違和感や不快感を示す人は多いようで、私もその一人である。このことをもって日本語の崩壊の徴候とまで決めつける人までいるようだ。そういう心配はわかるし、ある意味同感だが、そういう苦言を呈するご本人が、私から見れば不愉快なカタカナ英語を使うことがわかって一時落胆したことがある。具体的にいうと「リスペクトする」という表現であり、これは私個人的にではあるが、最も不快感を感じるカタカナ英語の代表格なのである。その理由は「リスペクト」がカタカナ英語であること自体ではなく、単純に日本語として音が汚く耳障りであるという点に尽きるが、さらに付け加えるとすれば、普通の英語教養のある日本人でもリスペクトという発音を聞いてその意味内容、あえてカタカナ術語を使えば、シニフィエを実感できるとは思えないからでもある。簡単にいえば空虚なのだ。
 話を戻すと、問題の「です」というべきところを「になります」と言い換える表現が蔓延してきた由来を、単に日本語崩壊の徴候と短絡的にとらえるだけでなく、なぜこの表現が蔓延してきたかを考察する労を惜しまないことも大切ではないかと思う。 有能で献身的に活動する多忙な人達がいちいちそういう労をとることはできないと思われるので、こういう問題を重要なテーマと考える本ブログで少々考察してみたいと思う。
 問題の表現は店舗やあるいはコマーシャルで商品の選択肢を説明する文脈で使われ始め、使われ続けていることが多いと思われる。そう考えるとある程度その理由は次のように推し量ることができる:
  1. 会話に丁寧さと過度の婉曲表現や勿体を付け加えるために、ことさら冗長な表現を求める
  2. 言葉のリズム感
  3. 複数の選択肢から特定の商品を選択する際、他の商品ではなくその商品の選択を選択すべきである場合に、その商品であることを強調する意図が込められる。別の商品から当該商品への(意思の、目的の、適正の)移行という意味で「~になる(become)」という表現が選択されうる。うがった見方をすれば、英語の「become」には「似合う」という意味があるので、ある意味英語の影響かという見方もできる(文法的には錯綜しているが)
上記(1)について言えば、まさにこの点が聞く人に不快感を与える理由の一つともいえる。しかしこういう過剰な丁寧さと勿体を付けた表現に流れる傾向はある意味で非常に日本語的な特性であるともいえるのではないだろうか。煩雑な敬語表現の体系を持つのは日本語の美点でもあるだろうが、多大に欠点でもあると、私は考えている。

 ここでこの問題に限ってこれ以上多面的に掘り下げることはあまり効率のよい作業になるとも思えないので、今回の記事はこれで打ち切りたいと思う。ただ、日本語について、とくにその価値、貴重さやメリットや貴重さを論じたりする場合にもあまり大雑把で安易な議論はしてほしくないと思うものである。