2016年12月19日月曜日

日本認知科学会にテクニカルレポートを提出しました。

日本認知科学会にテクニカルレポートを提出しました。受理され、インターネットで発行されることになりましたが、私のサイトからも同じものをダウンロードできるようにしました。ファイル名は異なりますが、内容は同じです。

なお、認知科学会のダウンロードサイトでは恐らく技術的な問題で、まだ発行されていませんが、近日中に発行されるとのことです。

私のサイトから:
http://www.te-kogei.com/kagaku/Kyozo_Shikuukan_J_Tanaka.pdf

日本認知科学会のダウンロードサイト
 http://www.jcss.gr.jp/contribution/technicalreport/states.html

この論文は前回、2,014年の論文を発展させたものです。今回も前回同様、学会誌への投稿を目標に作成したのですが、査読の結果で採録されず、前回同様、テクニカルレポートとして投稿することになった次第です。

内容と表現上の問題に関して言えば、どうも投稿論文としては多くの内容を盛り込みすぎたようです。この点ではこれまで鏡像問題の考察では取り上げられなかった要素や、重視されてこなかったようなな要素を考察、説明する必用がありました。列記すると次のような問題です。

① 等方的な思考空間と異方的な視空間についての説明(マッハとカッシーラーによる)
② 鏡像認知(鏡映反転ではなく)のメカニズムの一部に触れること
③ 鏡像認知と鏡映反転との関係を分析すること
④ 鏡像問題で考察される「逆転」そのものを詳細に分析すること
⑤ 鏡像問題自体の再定義と体系化


端的に言って、いわばこれまでの鏡像問題の考察では表面に現れてこなかったいくつもの基本的な問題を掘り起こして考察し、説明することから始める必用があり、そうなってくると単に鏡映反転の問題を超えることにもなり、それらをすべて漏れなくかつ判りやすく説明するには一冊の本が必用で、一つの投稿論文にまとめて理解してもらうには無理があったということだと、自分では考えている次第なのです。

最終的に、投稿論文としてまとめた草稿にかなり長めの注釈をいくつか追加したうえで、いったん長さに制限のないテクニカルレポートとして提出することにしました。

今後の方向としては、雑誌に投稿できるような長さで鏡映反転の問題に焦点を絞った新しい論文をかくことと、鏡像問題を超えた広範なテーマで本を書きたいという、二つの方向性を考えています。特に後者の方は実現が難しそうですが、一応は目標にしています。

以上。 
田中潤一

2016年12月18日日曜日

鏡像の意味論その12 ― 鏡像問題における記憶の意義

このシリーズで、前回は平面パターンと立体の認知の問題について再考してみましたが、この問題を掘り下げるには記憶の問題について多少とも考察せざるを得なることに気付きます。端的に言って記憶力なし視覚認知自体が他の認知問題と同様、存在しないでしょう記憶はあまりにもあらゆる認知に深く関わっている故、記憶力そのものがテーマとして研究され、記憶力自体の研究が目的ではない他の分野では、記憶力はあらゆる認知において遍在するものとして、表面に浮上することは少ないのではないかと考えられます


ヒトの視覚では原理的に物の表面しか見ることができません。だからといって、立体を見る場合でも目に見える部分だけで形状を認識しているとは言えずたとえ人物の正面だけしか見なくても、その姿を人間として認知している以上は三次元の立体像として見ているのであって、正面だけの張り子のような表面として認識しているわけではありません。当然、目に見えない部分を想定して認知しているのであり、家族のような身近な人物の場合はいつでも前後左右あるいは上下についても良く記憶している上に特定の時点を取ってみても、その直前まで後ろ姿を見ていたのならまず間違いなくかなりの正確さで立体としての全体像を把握していいます

都会の往来を歩くときなどはたいていそうですがまったくの他人始めて見る場合でも衣服や髪型などを含め、正面から見るだけでかなり正確な全体像を認知ているといえます。記憶には長期記憶と短期記憶とがあると言われていますが、このような場合は長期記憶が大きく作用しているに違いありません。 

そもそも知らない人でも人間として、さらには男女や人種やその他諸々の特長の記憶により、そういう人物として認識できるのはやはり人間として、その種の人物としての特長を記憶しているからに他ならないでしょう。そう認識できると言うより、実際そのようにしか認識できないでしょう。これは対象を直接見る場合も鏡やレンズを介して見る場合もなんら異なることがないのは、前回(その11)検討してきたとおりです 

このように直接見る像にしても鏡像にしても同様に記憶、詳しく言えば長期記憶と短期記憶の両方が関わっているのですから、鏡映反転の原因あるいはメカニズムにおいて記憶が重要な要因となっているということは考えにくいことです。鏡映反転は二つの像を比較することで成立する現象ですから、どちらの認知にも同様に機能している記憶の問題は消去されるはずです

2007年の毎日新聞で取り上げられ、鏡映反転を説明する理論として有名な「多重プロセス理論」と呼ばれる髙野陽太郎東大名誉教授の理論では、文字が鏡で左右反転して見えるプロセスを特別に「表象反転」と名付け、この場合に限って記憶が主要な役割を果たしているとしています。確かに、文字のような記号の場合、一般的な記号としての形状を認識していることが特徴ですから、一見、この説には人の興味を引くところがあります。しかし文字ではなく人物像の場合でもヒト一般の特徴、頭が上にあり脚が下にあって二足歩行し、大抵は衣服を着けているという特徴、詰まるところ記号に他ならず、すでに見てきたとおり、記憶に基づいています。何も文字に限られているわけではないのです。左右の特徴にしても、例えば男性用のジャケットでは必ず左側に胸ポケットが付いています。日本の道路では車は左側通行です。普通の人はこういうことは記憶していますから、注意して鏡を見れば左右が逆になっていることに気付くは気づくでしょう。

こう見てくると鏡映反転の機構を説明する概念として記憶を主要因とする「表象反転」表象反転という用語にも疑問があります)には意味がないことが分かります。確かに文字の場合に認知プロセスにおいて長期の記憶が主要な役割を果たしていることが多いのは事実ですが長期記憶だけでは間違える場合も当然あります。世の中にはレオナルド・ダヴィンチも使ったと言われるいわゆる「鏡文字」というものがあり得ます。またアルファベットのEの左右を反転するとカタカナのヨになります。ですから、正確には鏡像は直接見る像と比較しなければ差異を判別できないものです。これは文字であってもなくても関係ありません

別の面から言えば、何らかのプロセスを説明し得たところで原因を突き止めたことにはなりません。そのプロセスのどこに原因があるか、そのプロセスに原因が含まれているかを示す必用があるでしょう。

また文字の場合の鏡映反転に付いて特に着目すべき点は、それが記号であるということではなく、二次元の形状であること、それと、形状上下と左右のあり方に特徴があることといえます。しかし今回のテーマは記憶なので、この問題についてはこれまでにしておきます

次回は鏡映反転において対掌体の性質が持つ意義について考えてみたいと思います。

2016年11月6日日曜日

昨日の補足(鏡像の意味論その11)

以下、昨日の補足で、最後から続きます。

【画像の場合】
画像の場合も一定の条件付きで平面ではなく立体像であるといえる。なぜなら、画像として表現されたイメージ自体は立体像である以上、それは立体と見なさなければならない。

人が画像を見る場合、同時に2つの異なるものを見ているのである。一つは物質としての二次元的表面であり、もう一つは画像に表現されている像である。上質の画像を正面から見るとき、鏡像と同様に、三次元の本物と間違うこともまれではない。そのときは、画像の表面を見ていないのである。紙の場合はアート紙や、ビニール張りなど、光沢を付けるのは表面を見えなくするための努力に他ならない。映像の場合も、ひたすら表面を見えなくするための努力が続けられて来たといえる。

もちろん鏡像が立体であるのと同じ条件で立体とはいえない。正確に認知するには真正面から見る場合に限られるし、画像に表現されていない部分は絶対に見ることはできないのはもちろんである。網膜による像の認知もある意味これと共通する要素があるかもしれないが、網膜の場合は表面を見ることは絶対に不可能である。

従って、真正面から上質の画像を見る限り、立体像という点で条件付きで鏡像と比較することもできよう。

2016年11月5日土曜日

鏡像の意味論 その11、鏡像と虚像 ― 鏡像は平面パターンであるという初歩的な誤解 ― 鏡像は単独では直接の像と区別できないこと


「鏡像は平面パターンである」と考える人が結構いることは以前から分かっていたが、そう思っている人は意外と多く、それも科学者、もちろん光学の専門家ではないが、理科系の科学者や学生でもそういう人はまれではないかもしれない。とすれば人文系の科学者ではなおさら多いことは不思議ではないが、最近はこの問題で、ある意味、ショックを受けている。ある意味仕方のないことかもしれないが、しかし仮に心理学、視覚を扱う知覚心理学の分野で指導的な学者が幾何光学についてこの程度の認識しか持っていないとすれば、そういう分野自体が少々心許ないことになる。鏡像が虚像であるという幾何光学の説明はおそらく現在でも中学か、少なくとも高校の物理で習っている筈と思う。

【画像と鏡像の比較】

とりあえず鏡像が立体であり、二次元パターンではないことを、簡単に図示してみよう。次の図は前面が写真などの画像になっているパネル状の物体を上から見たところとする。前面前害が画像である。


当然、Aの位置とBの位置ではそれぞれ異なって見えるが、特に大きく異なるのは全体の横幅である。しかし描かれている画像は平面パターンだから全体が見えることに変わりなく、正面向きの顔が表現されているとすれば、どこでも同じ正面向きの顔が見えることに変わりはない。これは図を描くまでもなく分かることである。

一方、鏡像ではどうだろうか?下の図は鏡像の説明である。ちなみに矢印付き直線は光の進行を表し、波線は上図と同様、視角を表している。





人物Bは真正面から自分の鏡像を見ているのに対し、Aの位置では斜め横向きの顔が見える。AにはB君の右ほほにある斑点は見えないだろう。逆にB君は四角い顔の両側面は本人には見えないだろう。しかしA君にはB君の左側側面がよく見える。

視角に着いて言えば、上図の画像の場合、Aの位置ではBの位置でよりも狭くなっているが、下図のAの位置では逆にBの位置でよりも大きくなり、画像の場合とは逆になっている。もちろんこれは常にそうなるのではなく、像の形状によるものではあるが。

確かにヒトの視覚では物の表面しか見えない。しかしこれは鏡像であることとは関係がない。同時に顔の正面と横顔を同時に見ることはできないが、これも鏡を通さず直接見る姿でも同じことである。

またこの絵の状況では確かに鏡に映った顔の後ろや上から見た姿も見ることはできない。 しかし直接他人を見る場合でもそのような状況はきわめて普通である。どちらの場合も光源の位置と目の位置を動かすことで、どの角度からも見ることができるのである。要するに、鏡を介さずに見ている対象が立体であるといえるのであれば、鏡像も立体であり、鏡像と鏡を介さない像とを区別することはできない。

【虚像について】

光学、正確に言えば幾何光学では鏡像は虚像と呼ばれる。鏡像は虚像の一種である。虚像とは何か、要するに目に見える物と目との間に光を反射あるいは屈折させる物体が介在するだけのことである。だから鏡像はもちろん虚像だが、ルーペで見る像も虚像と呼ばれる。鏡像とルーペで見る像が虚像であればメガネで見る像も虚像ということになる。当然、近視や乱視のメガネもそうである。どんなに度のゆるいメガネであっても、始めてメガネをかけたとき、肉眼だけで見るときとは異なった距離に見えるものである。だから肉眼で見るのとは異なる像を見ていることになる。これはれっきとした虚像である。

このように見てくると、肉眼で見る像もつまるところ、虚像に他ならないのである。あらゆる像は虚像である。結局のところ、すべて網膜に映った像から知覚している像に他ならない。

【網膜像について】

網膜に映った像が平面パターンであるから、結局のところヒトが認知する像自体も立体ではないと考える向きがある。しかしヒトは自分の目の網膜像を見ているのではない。

いったい、自分の目の網膜像、正確には曲面ではあるが、とりあえず網膜上の平面パターンを見た人がいるだろうか。網膜像を平面パターンとして見るには網膜を別の眼で見なければならない。

普通、網膜像が平面パターンであるということは、人は知識として知っているだけであって、実際にそのようなものを見た人はいない。

網膜像は眼の解剖学的な知見と、凸レンズの幾何光学的知見とから想定される概念以上のものではない。 もちろん、概念として厳然として存在することは確かである。しかし、目で見える像(image)ではないし、まして、上記のように自分の目の網膜像を見られる筈もない。

このように、人は平面的な網膜像というものを知っているが、それは解剖学と幾何光学の先達の遺産をそのまま意識せず、感謝もせずに受けとっているだけなのである。
鏡像の場合も同様。鏡の幾何光学をよくよく理解することなく、鏡像の問題を語ることはできないのである。

2016年4月27日水曜日

『ブッダは実在しない(島田裕已著、角川新書)』を読んで

この本のタイトルには確かに一定のインパクトはある。しかし一方で少々違和感を感じさせることも事実である。一つには、人物について「実在しない」という用語を、しかも現在形で語ることにも多少の違和感を感じるが、それ以上に、「ブッダ」という微妙な言葉が「実在しない」の主語として使用されている点にも違和感が伴う。

というの、歴史上の仏教の開祖とされる人物については一般の日本人は「お釈迦さま」という名前で馴染んできたし、今もそうである。一方のブッダは近代の学問的なカタカナ語であり一般の日本人はあまり使わないことばであるが、 ブッダが「仏さま」という言葉に相当することはだれでも気が付く。というのも「仏陀」という言葉も昔から知られているからである。いずれにせよ、仏(ホトケ)が固有名詞ではなく、この本で「ブッダ」について語られているように「悟った人」に類する意味を持っていることは一般の日本人にとっては常識であるといってもよいと思う。そういう点で、「ブッダは実在しない」という表現は、「実在」という用語自体の違和感と相まって、せっかくのインパクトが少々抑えられた感じがする。

この本が直接論証しようとしている事柄は、いわゆるお釈迦さま、仏教の歴史的な開祖としての個人が実在しなかったということである。だから、もっと分かりやすく即物的に言えば「お釈迦さまは実在した人物ではなかった」ということになるだろうか。

この本でカタカナ語の「ブッダ」が使われているのは、著者が宗教学、仏教学の学者であって、近代仏教学の文脈で語っているからに他ならない。というのも近代仏教学はパーリ語やサンスクリットの原典を解読することから始まっているからである。その原典を追う文脈ではお釈迦様をブッダという言葉で表さざるを得なかったのであろう。

同様の、ヨーロッパ経由で、従って近代仏教学経由で日本に入ってきたところのお釈迦様の名前に「ゴータマ・シッダルタ」という言い方がある。読んだことはないがドイツ文学『シッダルタ』というヘッセの作品があるのは有名である。ところが、本書の著者によると、「ゴータマ」も「シッダルタ」も、必ずしも固有名詞とは言えないらしい。またこの本には江戸時代以前にもそれに起源をもつ言葉が使用されていて、例えば歌舞伎の勧進帳に「クドンシャミ(漢字は省略)」という名前が使われていたり、江戸時代に読まれていたブッダの伝記で「悉達(シッダ)太子」という表現などもあり、江戸時代以前にお釈迦さまがどのように認知されていたか、興味深い。


 以上のように著者はパーリ語などの文献をたどることで仏教の開祖としての歴史的なただ一人のブッダは、複数のブッダ達から神話的に形成された象徴的な存在であると結論付けている。どうやらこれは著者が初めて主張する新しい知見のようである。もちろんいくつかの先行研究が挙げられているが、本書の主張は近代仏教学でも初めての主張であるらしい。著者は文献調査の結果として次のように述べている。「近代仏教学が、歴史上の存在としてのブッダの姿を十分に明らかにしたとは必ずしも言えないのである。」
 
確かに、 近代仏教学が確立されてからも、西洋でも日本でもお釈迦さま個人が実在したことが疑われたことはなさそうである。例えば、私がその昔読んだ小冊子で『日本人と日本文化(司馬遼太郎+ドナルド・キーン著)』という本があり、読みやすく面白い本だったのでいまだにいくつかの表現が記憶に残っているが、断片を拾うと、例えば空海を話題にした章で仏教について次のような談話があるので、ちょっと司馬遼太郎が語った断片を列挙してみよう。

「密教というのはあれは本当は、仏教ではなくバラモン教でしょう。お釈迦様が教主じゃありませんね。」
「仏教のようにお釈迦さんという一個の天才が土俗の中から一つの結晶体を取り出した・・・」
「親鸞も日蓮も、ほとんどお釈迦さんとは関係のない人ですね。極端にいえばお釈迦さんという世界性がどうであれ、・・・」

ここで語られている真言密教や鎌倉仏教についてはさておき、明らかに釈迦という個人が本来の仏教を作ったのだという、つまり今までの日本に栄えてきた様々な形の仏教とは異質の、釈迦という個人が生み出した明確に区別のできる本来の仏教というものが確実に存在することを前提として語られている。その意味で司馬遼太郎も近代仏教学の現在の成果の上に立っているともいえる。本書の著者はそのような近代仏教学で得られたとされる知見に変更を迫るものといえる。

学問的にはそういうことだが、しかし著者のこの新しい見解は、仏教に対して様々な新しいアプローチを提供するものではないだろうかと著者自身考えているようだし、私もそのように思う。

一つの重要なインパクトは、本書でも重要なテーマとして扱われているとおり、いわゆる大乗仏教と、小乗仏教といわれる上座部仏教との関係に対するものである。それは近代仏教学の影響もあって小乗仏教が本来の仏教、お釈迦さまの仏教に近いものと考えられているが、釈迦の存在が実在の個人ではなく神話的に形成されたものであるとすれば、いわゆる小乗仏教あるいは上座部仏教と言われている仏教も、実在したとされる仏教の開祖、あるいは始祖の教えにより忠実であるとは言えなくなるということで、著者も本書の中で、実際にその種の仏教(ちなみにテーラワーダ仏教とも呼ばれることを初めて知った。)が必ずしも原始仏教に最も近いとは言えないことを検証している。

著者はこういう点で仏教が持つキリスト教やイスラム教とは異なった、ユニークさを強調するとともに、小乗仏教に対する大乗仏教の優位性をも指摘しているように見える。そして、それには共感できるものがある。 

本書の第5章に、「日本で一番読まれている仏教の経典は『般若心経』」という小見出しがあり、そこで般若心経の成立について触れているが、そこで著者は、「般若心経は実は大乗仏教の立場からの小乗仏教批判の性格を持っている。というよりも、そこにこそ般若心経の本質があるともいえる。」と書いている。 

それにしても日本でだけ般若心経が特別に尊重され、一般にも広く読まれてきたということは興味深いである。本書によると、般若心経のサンスクリット語原典が伝わっているのは日本だけで、それは法隆寺にあるのだそうである。大乗仏教がこれだけ栄えてきた日本特有の事情についても興味がわいてくるというものだ。

最後に著者は次のように締めくくっている。「私たちは開かれた宗教としての仏教に、いささかの誇りをもってよいのではないだろうか。」 、なるほどそうかもしれないなと思う。