2012年10月14日日曜日

横書きの漢字熟語は、明朝系のフォントがゴシック系よりも読みやすい ― 縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題その5

このタイトルの記事は「その4」で「まとめ」としていったん終了していますが、その後ちょっと気の付いた断片的一事例です。

気の付いたことというのは、横書き表示される日本語フォントでは、漢字の場合、縦横ともに単純な棒状の線で構成されるゴシック系のフォントよりも、横線の右側に上向きの三角(ウロコと呼ばれるそうですが)のついた明朝系の方が読みやすいのではないか、ということです。少なくとも個人的にはインターネット記事を見ているときなど、それを感じます。

これはこの三角形、うろこが必ず右側にあるために、左から右に向かう動きという方向性が感じられるためと考えられます。明朝体というのは「楷書の諸要素を単純化したものが定着している」そうですが、楷書の筆順では横線の場合、筆を左から右に向かって引くためにその動きが横線の形に表現されています。

前回までの記事で述べてきたように、左右の感覚は基本的に上下のような絶対的な方向性を持たないために、文字の横書きでは一定の規則や習慣によって左から右への方向が定められているわけですが、この横線の形態に現れた心理的な方向性によって、規則で定められた方向性が強化されているといえます。

さらに言えば、漢字の場合、横線の筆順、左から右への筆順は右利きに由来すると考えれば、この現象も人間の右利きに由来するといえるかもしれません。また横線のウロコに限らず、全体としての線の抑揚も筆順に由来するものであるため、抑揚が強いフォントの方が横書きに向いているように思われます。


◆ただし、読みやすさというのは単に横書きの場合の方向性だけではないので、上記のことは単に一つの要素にすぎないといえます。一つ一つの文字の読みやすさやその他の要素に比べてどれ程の比重を持つかについてはこれだけで何とも言えないものがあるように思います。









2012年7月12日木曜日

歴史書と哲学書そして現代思想書(思想家の思想とは限らず)

今年の冬ころから思い立ってカントの純粋理性批判を読み始めたが、春頃には忙しくなったため中断した。その後、時間が取れるようになってもなかなか再開できない。とりあえず一つのまとまりである(先験的原理論の第一部門となっている)「先験的感性論」は何とかその場限りの文脈的理解というか、文脈上は「自分なりに」理解して読めたような気がする。しかし中断してから数か月ともなると忘却は如何ともしがたい。続いて「先験的論理学」の「先験的分析論」の途中までは読んだが、今からしおりの位置に戻っても読み続けることができるだろうか?たぶんできないだろう。ということで、なかなか再開できずにいる。


その代り歴史書がしきりに読みたくなり、何冊か読んだり、読み直してみたり。もとより基礎的な背景知識はこういう本を読む素人としても少ない方なのでそうやすやすと読めるわけではない。

それにしても哲学書と歴史書の表現はある意味で対極、極度に対照的である。


哲学書は端的に言って「〇〇とは何か?」の集積であるとも言えるのに対して歴史書は端的に言って「〇〇が何をしたか?」の集積である。さらにここでの〇〇はだいたいが固有名詞である。おおよそ哲学的とは言えないのである。悪く言えば下世話な挿話の集積であるともいえないこともない。ある意味では歴史書を読むのは哲学書を読むよりも格段に楽であり、楽しいともいえる。もちろん難しい過去の用語、政治経済法律がある。固有名詞にしてもおびただしい数の固有名詞を識別しなければならない。

包括的に、あるいは専門的に研究するのであれば、頭をフルに回転させなければならないという点ではどちらも同じようなものかもしれない。しかしそれにもかかわらず哲学者から見れば歴史家は安易で気楽に見えるのではないだろうか?歴史書にも面白くない、退屈なものも多いだろうが、楽しみながら読める歴史書は多いし、歴史家自身が楽しんでいることも多い事だろう。もちろん苦しみもあるだろうが、哲学の場合とは相当に性質は異なるように見える。他方、哲学者は楽しみながら哲学をできるだろうか。もちろん幸福と楽しみとは別である。


たとえば哲学者の梅原猛氏の場合、仏教など宗教についての本はたくさんあるが、専門的な哲学の書物、あるいは解説書なども、少なくとも一般向けには出されていないようだ。それに対して古代史関係の書物では有名な研究書がいくつかある。


哲学者が歴史に興味を持ち、歴史研究と何らかの関わりを持つことは当然ありうることだし、哲学と歴史の両方に興味を持ち、同じ比重で研究する学者も当然ありうる。あるいは一般に思想家というのはそういうケースが多いのかもしれない。中国や日本で昔から「学問」とされてきたものはそういうものだったのだろうか。

しかし少なくとも哲学的なものに一切の興味を持たずに歴史の研究に没頭することはできるし、歴史書を読むことも可能である。その場合はやはり、一方を忘れている、あるいは一方に対して盲目である、あるいは置き去りにしているということになるだろうか。


とはいえ、歴史と哲学の両方に目を配ったとされる、あるいはそう考えられている類の「思想」は、どうも浅薄で拵えものくさいのだ。たとえば唯物史観など。

いずれにせよ、哲学と歴史の両者の始点、あるいは原点に人間が位置することは間違いがない。「〇〇とは何か」、「〇〇が何をしたか」、いずれの始点にも人間が位置するのである。


カッシーラーが「人間」というタイトルの書物を書いたのもそういう意味だろうと思われる。

こういう始点あるいは原点という考え方とは別に、哲学と歴史の接点は他にもある。その最たるものはもちろん、言葉と神話、そして科学。それらこそ、カッシーラーの主著と言われる「シンボル形式の哲学」の内容そのものである。




ところで最近読み始めた本に、過去に購入したままこれまで読まずにいた二冊の本がある。
一冊は:
『アースマインド』ポール・デヴェロー、ジョン・スティール、デヴィッド・クブリン著、青木日出夫訳、1991年

もう一冊は:
『新しい科学論』村上陽一郎著、ブルーバックス、1979年第1刷発行、1996年第10刷発行

前者は当時購入したものの、なぜか今までまったくと言っていいほど手に取ることもあまりなかった。いま読み始めると、少なくとも最初の方だけで判断する限り、物質とは異なる霊的なものの存在をはっきりと前提にしているようだ。「アースマインド」という以上、それは当然なことかもしれない。


後者は、昨年頃、古書店の店外売り場で見つけたもので、200円で購入。

村上陽一郎さんの本はかつて1冊ほど薄い本を購入したことはある。それよりも、今は昔、NHKラジオの音楽番組で長期にわたって週一回のレギュラー出演者だったので親しみを感じていた。しかしなぜか同じNHKの科学番組でお目にかかることが殆どなかったのは不思議である。今は読む機会もないが朝日新聞の文化面などの評論でもお目にかかったことがあるような記憶がある。ということで科学史関連では日本の代表的な研究者なのだろうという印象は持っていたが、それにしては一般的な知名度は高くなく、マスコミ関係でも引用が少ないのではないかという印象もあった。


この本の発行は1979年(今回古書で購入したのは1996年の第30刷)で、著者の40代にあたるので比較的初期の著作になる。序文では中学生にもわかるように心がけたが、そのことで不当に内容の水準を落としてはいないとのこと。以前に読んだ薄い本は、少々物足りないというか、どっちつかずという印象があったように記憶している。そちらは「中学生にも」というより、特に若年層向きに書かれていたのかもしれない。


とりあえず目下、この2冊を早く並行して読んでゆこうか。ちなみにいずれも「現代思想書」に該当とするのが自然だろう。


2012年6月6日水曜日

「LED電球の光がまっすぐに進む」と言われることと「鏡像問題」との奥深い関係


当ブログで先日、「LED電球の光が真っ直ぐに進むのは当たり前」という記事を書き、この場合に「真っ直ぐに進む」、あるいは「直進性が強い」といった表現が不適切であるという考えを述べました。LED電球の光に限らず、光そのものが直進するものと認められている現在の科学において言葉の一義的な使用を前提とするなら、LED電球の光に限って、あるいは従来の電球の光に比べて直進性が強いということは、あらゆる光が直進するという前提を否定することになるからです。現実には、真正面方向の明るさが強く、それに比べて側面方向が暗くなるということをこのように表現しているわけですが、これは明らかに言葉の意味が一義的でなければならないという科学的表現の原則に反しているわけです。

ただしかし、多くの人がこういう表現を違和感なく使っているということは、それなりに理由がありそうです。また、それ自体が興味深い問題であるとも言えるように思います。もちろんこういう言い方が不適切だという考えに変わりはありませんが。

そういう次第でこの問題をもう少し考えてみたのですが、それは本ブログや『ブログ・発見の「発見」』で取り上げてきた鏡像問題とも深いところで関わっているところの、科学と言葉に関する本質的な問題であることがわかってきたように思います。

ちょうど一昨日、かなり長期間にわたって少しづつ読み進んでいたエッカーマン著、「ゲーテとの対話」を読み終えたところなのですが、前日に読んだ終わり近くの箇所で、1831年6月20日に、ゲーテは次ようなことを語っています(この日の対話者はエッカーマンではなく、ジュネーブ出身で自然科学に造詣が深かったソレという名前の人物とのことです)。

「すべての言語は人間の手近な欲求や、人間の仕事や、人間の一般的な感情や直感から生じるものだよ。もしも今いっそう高次の人間が、自然の不思議な作用や支配について予感や認識を得るとすれば、彼に与えられた言語では、そういう人間的なことから完全に隔絶したものを表現するにはとても十分ではないのだ。それ特有の観察をみたすためには、魂の言語が自由自在に駆使できなければならないだろう。しかしながらそうすることができないので、異常な自然状況を観察しながらもたえず人間的な表現によるより仕方ないわけだ。そのときほとんどどんな場合でも舌足らずになり、その対象を引き下げるか、あるいはまったく傷つけてしまうか、台なしにしてしまうかなのさ」(山下肇訳)。

 「光が真っ直ぐに進む」という表現も、改めて考えてみれば実に人間的な表現であることがわかります。

先日の記事で述べたように、「LED電球の光が真っ直ぐに進む」と言われることをもっと正確に表現すれば、「LED電球の光は拡散性が小さく、側方に比べて前方に進む光量が多い」ということにでもなろうかと思いすが、人間について言えば、前に向かって、つまり前方に進むことがそのまま「真っ直ぐに進む」ことであり、直進することでもあるといっても違和感がないからです。

実際、光について語る場合も言葉の本質上、ゲーテの言うように、つねに人間から離れた表現を使うことはできないのでしょう。光が「進む」という表現自体、擬人的といっても差し支えないもののように思われます。普通、人間や動物にとって「進む」とは、さらに「直進する」とは、真っ直ぐ前に向かって前進することと同義語のように使われていると思います。その表現がそのまま、LED電球の光について使われているということでしょう。

「ゲーテとの対話」の先ほどの箇所で、ゲーテの言葉に続いて対話者のソレ氏が次のような考えを述べ、ゲーテに褒められています。

「・・・ドイツ語は・・・比喩の力を借りねばならぬとしましても、それでもかなり言わんとすることには近づけるでしょう。しかしフランス語は、私たちに比べて、大変不便です。フランス語では高次な自然現象を表現しようとすると、ふつう技術から得た比喩によってなされますから、すでに物質的になり、卑俗になってしまいますので、高次な観察にはまったく適しておりません。」
「なかなかうまくいいあてるね。」とゲーテは口をはさんだ、・・・・。

LED電球はまさに現代の高度技術の産物です。その仕組みも構造もそれ自体が人間が夜間の環境を照明する目的で開発された技術の産物にほかなりません。その目的に沿って作られた電球の構造には前、すなわち前方があり、側方があります。だいたい道具に限らず人間が作ったものには何らかの方向性があります。たいていのものには少なくとも前と後ろ、あるいは表裏は持っている。多くの場合はそれに加えて上下の方向性もあります。電球の場合、通常はねじがついていますから、左右の方向性を持っているといえるかもしれません。

その方向性を持った道具である電球の、前方あるいは真正面に向かう光量が多いことが人間が前に進むことの比喩、あるいは擬人化から、「LED電球の光はまっすぐに進む」と表現されることになるのではないかと思われます。

しかしこれは明らかに、いわゆる光の直進性の原則からは外れたおかしな表現です。LED電球の光に限って直進性が強いというのは、あらゆる光は直進するという原則とは矛盾することになります。自然科学における用語の一義性からいえば明らかにおかしい。したがってこの場合の用語法は科学的ではない、科学ではないということになります。

特に、「真っ直ぐに進む」という表現はまだ日常語的な、おおざっぱなニュアンスがありますが、「直進性が強い」といった、いかにも科学的で厳密な印象を与える表現は、明らかに人を誤った方向に向かわせるようなところがあるように思います。こういう表現を疑似科学的表現と言えるかもしれない。疑似-科学的-表現です。いわゆる「疑似科学」ではありません。

当然のことながら、LEDランプは高度技術の産物であり、人工の道具ですが、光そのものはそうではなく、純粋な自然そのものの最たるものでしょう。

この場合、たとえ「LED電球の」と限定されているにしても、なんとか工夫して「光」ではなく、「電球」を主語にした表現を工夫すべきではないかと考えます。人間が作ったもの、道具や機械はいわば人間の延長であり、分身ともいえます。その最たるものがコンピューターやロボットで、これらはもう、擬人的表現なしには説明することも、使うことも不可能になっています。つまり、道具を主語にするのであれば人間的な、あるいは擬人的な表現でも問題は少ないということです。

もちろん、自然物にも上下左右前後を持つものは沢山ある。火山は上に向かって噴火するし、噴煙を上げる。しかしそういう上下はすべて人間にとっての上下を基準に定められたものであり、火山という単位も一つの人間が切り取った認識の単位に他なりません。
そこで、上記、つまりあくまで人間の認識に基づいた基準であるという事実を踏まえたうえで自然界のもろもろの上下、前後、左右を考察してみることから何か興味深い展開がもたらされるような気もします。

たとえばいま例に挙げた火山は基本的に上下の構造を持っているといえます。それに対して河川は上下に加えて前後(流れ方向)と左右(左岸と右岸)をも基本的な要素として持つと言えそうです。

天体は、地球に対する方向性を別にすれば、基本的に方向性はないように見えますが、太陽系や銀河系になると上下の方向性が出てくるようにも思われます。あるいは一つの天体でも回転することで方向性が出てきそうです。

分子構造でも対掌体と呼ばれる右型と左型のセットがあることは有名な事実であるし、特に素粒子の世界で対称性が問題になっているらしいことは、数年前にノーベル賞を受賞した日本人研究者による「自発的対称性の破れ」で有名になっています。この辺りの問題になると敷居の高い高度な数学の問題になり、ここで私は立ち止まらずを得ないわけです。

気になることは、こういう問題が人間的なものとどのようにかかわっているのか?ということ。「鏡像問題」の次元では問題が人間的なもの、生命的なもの、認識論的なものと関わっていることが見えるように思えるのですが、素粒子論などになるとそれがまったく見えてこないということ。今のところ筆者には取り付く島がないというところでしょうか。

2012年5月16日水曜日

「LED電球の光が真っ直ぐに進む」のは当たり前

LEDランプの光が従来の白熱電灯とは異なって「真っ直ぐに進む」とか「直進性が高い」とか、よく言われます。

先日もガラス工芸をやっている人と話した際、LEDの光は真っ直ぐに進むので、ランプシェードに使うにしても、今のところかなり工夫しなければ使いづらい、というような話がありました。LEDランプに関してこういう認識はかなり一般的になっているようです。しかしよく考えるとこういう表現はおかしな話で、光が直進するということは誰でも小学校の理科の時間に習って知っているはずです。光はどんな光であっても直進するのは当たり前ではありませんか?

ネットで検索してみると指向性と拡散性という表現を使っている例もあります。これが正しい表現でしょう。つまり、電球の正面方向に向かう光量が多く、側面の方は暗くなるということであて、これは「光の直進性」とは何の関係もない筈なのですが。


これは恐らくLEDランプの発光体の構造によるものでしょう。とくに以前からあるようなイルミネーションや機械のパイロットランプに使われる豆ランプ型のLEDではなくて電球として使われる白色のLEDランプではLEDに蛍光物質の発光体が組み合わされていて、それが平面状であるため、前方に向かう光の光量が多いのだと思います。

ところで、「直進性」は光自体の持つ性質といえるように思われますが、「指向性」に関して光そのものにそのような指向性があるとは考えにくい話です。どう考えても光そのものではなく、光を発する発光体の構造や仕組みに原因があるとしか考えられません。LEDの原理、仕組み事体にそのような要素があるのかというような専門的なことはわかりませんが、少なくとも現在のLEDランプの構造にそのような要因があることは確かに思われます。

しかし殆どの人はLEDランプそのものではなく、あくまでも「光」を主語にして話をします。それで「真っ直ぐに進む」ではなく「前方への指向性がつよい」と適切な表現をする場合でも「光」を主語にするために何か光自体が指向性を持っているかのような印象になってしまいます。

個人的にはこのこと、つまり「光」を主語に指向性や拡散性を云々することに違和感を持つものですが、少なくとも「(白熱灯に比べて)真っ直ぐに進む」とか「直進性が強い」というような表現は止めてもらいたいと思います。

最初にこういう表現をしたのはやはりジャーナリストなのでしょうか。技術関係の評論家かジャーナリストなのでしょう。あるいは技術者自身が素人にわかりやすく説明するためにこのような表現をしたのでしょうか。

いずれにせよ、科学的な考え方を理解するにしても、科学そのものについて考えるにしても、このようないい加減な言い方は努力して是正してゆくべきではないでしょうか。

ジャーナリストや評論家の責任は大きいと思います。

【2013/8/29 追記】
次回の記事「LED電球の光がまっすぐに進む」と言われることと「鏡像問題」との奥深い関係」(2012/6/06)も是非お読みください。







2012年5月13日日曜日

科学と言葉―ブログ記事へのコメント

ブログ『TED'S COFFEEHOUSE 2』 様へのコメントが掲載され、ご返事を頂きました。当ブログで関心を持っている問題であり、記事にリンクさせて頂きます。
以下、コメントのみ再録。
科学と文学の文章におけるこの違いについてのご指摘は、大変示唆的に思います。
科学文では一義的な解釈しか許されないということは、科学の精密性を保証するものですが、他方、それは科学が「言葉の枠内に閉じ込められていると」とも表現できるように思うのです。文学ではなく哲学書ですがカッシーラーが次のように言っています。「哲学は、言語という媒体と言語的諸概念という乗り物に分かちがたく結びつけられている単なる科学が達成し得ない事を達成してみせる。」つまり、哲学は科学とは違って、言葉の枠を超えられると言っているわけですが、文学も哲学とは異なったあり方で、言葉の枠を超えようとしているとも言えるのかも知れません。

2012年5月11日金曜日

驚くべき本のタイトル「製造業が日本を滅ぼす」

書店で驚くべきタイトルの新刊本が目に止まった。「製造業が日本を滅ぼす(野口悠紀雄著)」。人によって受け止め方は様々だろうが、私にはとんでもない非常識で乱暴なタイトルであるように思える。

例えば「製造業の重視が日本を滅ぼす」とか、同じ著者の以前の本のように「ものづくり信仰が日本を滅ぼす」というようなタイトルであればまだ、ひとつの意見として聞いてみようかという気にもなるが、「製造業が日本を滅ぼす」という乱暴な表現にはまず反感を覚えざるを得ないだろう。

特に製造業に対する非礼と忘恩が印象づけられる。

一言に「製造業」といってもあまりにも意味範囲が広いし、比喩的な意味合いも様々ではあろうが、端的に、ストレートに解釈して製造業が日本を滅ぼすということはありえないとも言えるし、そのようなことがあってはならないとも言える。多少とも理性的に表現するつもりであれば、せめて「製造業が日本を滅ぼすことにならないように」とでもタイトルをつけるべきだろう。

内容的には恐らく傾聴すべきところもあるのだろうとは想像できるが、このような、製造業に対して非礼で忘恩的なタイトルでは反感が先に立ってしまうだろう。ちょっとページを繰ってみたが、アップル社を例にあげてアメリカの企業と経済政策の先進性をいつものように繰り返し主張している箇所が目につき、もちろん、そこに一定の真実が含まれているにせよ、いつもそのような一面ばかりが主張されていることにはうんざりしてしまう。

端的に言ってこのタイトルは、理性的な学者が本のタイトルとして使うような類のものではないと思う。

2012年3月12日月曜日

関裕二著「蘇我氏の正体」を読む


最近、近所の書店店頭に現れた「応神天皇の正体」という新刊本に興味をそそられたが、同じ著者の著作が文庫本でたくさん出ている。同じ書店の文庫本コーナーには新潮文庫で沢山並んでいる。また電子書籍でもPHP文庫で沢山でている。結局一昨日の夕方、新潮文庫の「蘇我氏の正体」をとりあえず購入し、この土曜日の夜から日曜日だいたい1日をかけて読了した。

この本は前半と後半とに大きく分けられ、前半では大化の改新の時代を扱っており、その時代の蘇我氏と聖徳太子、そして中臣鎌足と中大兄皇子らの関係に限られているため、比較的難なく読み進むことができた。

この前半の結論は、大化の改新という事件では蘇我氏の側に正義があったというものである。端的に言ってこの説にはかなり説得力があるように思われた。

というのは、古代史にしてもこの時代に限っても、特別に興味を持っていたわけでも、沢山の本を読んでいたわけでもなかったが、ただ、この本でも言及されている梅原猛著「隠された十字架」を過去に読んでいたからでもある。また竹澤秀一著「法隆寺の謎を解く」も、比較的最近に読んでいた。後者は法隆寺に関する梅原説を否定したとされているが、著者は建築家であって、ただ法隆寺の仏教建築としての様式が伝統に則ったものであって特別に異常なものではないという事から、梅原説のいう怨霊封じ込め説を否定しただけであって、聖徳太子や蘇我氏にまつわる歴史的な問題については何も考究しているわけではなかったように記憶している。少なくともこの二冊を読んだ記憶を考え合わせると、本書の前半の結論はかなり説得力のあるものと思われた。

後半の方は表題の本題である蘇我氏のルーツを扱ったものであり、こちらの方は時代的にも長期間、地理的にも朝鮮半島を含めた広範囲に及び、夥しい数の人名、神名が登場するため、かなり読むのに骨が折れるし、正直なところこの本の後半を読むだけでは殆ど把握できなかった。

結論的には次のようになっている ― 蘇我氏のルーツは古事記に書かれているとおり武内宿禰であるが、武内宿禰は同時に応神天皇の父親である。従って蘇我氏は天皇家であるということになる。その武内宿禰は天之日矛であり、天之日矛のルーツは「浦島太郎」であると考えられる ―。

この、後半部を理解するには古代史全般について相当な知識が必要だろうと思われるし、著者のその他の数多くの著書を読む必要もありそうである。

ここでも邪馬台国論争が関係している。個人的に邪馬台国論争に詳しいわけでは全くないが、比較的最近、森浩一著「魏志倭人伝を読みなおす」を読んだことは、邪馬台国に関係する部分では比較の対象になった。

「魏志倭人伝を読みなおす」では魏志倭人伝の原文も引用され、かなり難しい本であって、十分に理解も記憶もしていないのだが、邪馬台国に対する魏、すなわち当時の中国の影響あるいは干渉が相当に大きなものであったことが述べられている。中国から派遣された役人が邪馬台国の政変に関与していたということになるだろうか。そういう、この時代の中国の影響力についてはそれまで聞かされたことが無かったので、今までの歴史認識を変えなければならない様な気がしたものである。

「蘇我氏の正体」の方では、卑弥呼の後を継いだ台与が、そのまま神功皇后に重ねられている。ただその神功皇后のルーツがヤマトなのであるが、そのヤマトの実態が、この本ではブラックボックスになっているといえる。纒向遺跡が想定されているのかも知れない。「魏志倭人伝を読みなおす」では、台与は文字通り卑弥呼の後を継いだ女王であるが、卑弥呼は魏の役人の干渉もあって死に追い込まれたとされていた。「蘇我氏の正体」では、卑弥呼は天之日矛と台与によって討たれたことになっている。

この辺りの問題は、件の新刊本である「応神天皇の正体」では進展があるのかも知れない。ただしこの関連での読書はしばらくお預けにしておこうと思う。

2012年3月10日土曜日

写真と文字、音楽と工芸




二か月ほどまえ、ちょっとしたついでの折に、携帯のカメラで何枚かの写真を撮った。それというのは、以前購入したガラス工芸作家の小品である小さな盃に白ワインを注いでみたのである。そうすると、うす黄色い透明なワインが注がれると、いかにもぶどうの果実を思わるように見えたのである。といっても普通の赤紫色をしたぶどうの外観色ではなく、皮をとったぶどうの粒か、それともマスカットのような色である。とにかくその器に注いだものをみるとぶどうの粒のような感じがして面白いものだなと思い、ちょっと写真をとってみたのである。しかし器が小さいのでそれひとつを撮るのも寂しいと思って、近くにあったものをとり合わせて何枚かとってみたのだが、撮った結果を見るとその時はどれもつまらない写真にしか見えず、そのままにしておいた。それをつい最近、携帯電話の画面で何気な見てみたところ、結構いいではないか、と思うのが一枚だけあった。それがこの写真である。もちろん自分でちょっといいなと思っただけで、他人が見てもいい写真に見えるとは思っていない。ただ、下にまとめた4枚の写真よりは写真として出来がいいと思ってもらえるのではないかと思う。


なぜこれだけがいいと思ったのか、考えてみると、他の写真と同様にCDケースと組み合わせて撮っているのだが、これだけは実はCDボックスであり、テーブルの上に立てることができたのだった。それでBEETHOVENの文字が上部の正面から右半分を占め、はっきりと読むことができ、写真全体のタイトルであるかのようにさえ見える。少なくとも文字の意味するところのベートーベンという人物のことが直ぐにわかるようになっている。CDボックスの四角い形とあいまって、その時はなにかモニュメントか墓碑のように見えたのかも知れない。そしてワインの盃はお供えのように見立てられたのである。撮るときはそんなことまで考えたことはなかったのだが。

下の、CDが写った写真では、構図的にも収まりが悪いが、ただありあわせのCDをなんとなく、特に意味もなく組み合わせただけという感じで、大した意味が感じられない。

やはり写真も、より具体的な意味が読み取れることでこそ、美しく見えるのだということに改めて気付かされたような気持ちである。とくに文字が映される場合、文字の意味がやはり重要な意味を持つのだなということである。文字の意味といってももちろん受取り手によって様々である。これがベートーベンとは気づかれない場合もあるだろう。しかしその場合でも、その位置と大きさ、書体などから何らかの重みのある意味を感ぜられるということはあると思う。

奥のほうに写っている陶器はどのように見られるだろうか。これは急須であって、機能的な意味ではあまり前の盃ともCDボックスとも関係がなく、偶然に写ったように見えるかも知れない。実際、取るときは本当によく考えもせず、構図に入れただけである。第一これは急須で合って、機能的にはワインともベートーベンとも、まったく別世界のものである。ただここでは急須には見えず、ただ陶器であることだけは誰にも見て取れると思われる。ただし一応は意識的に入れたように記憶している。ただ構図上、何かなければ寂しいと思ったのかも知れない。それにしても普通には、意味が感じられないと思われる。

ところが、後から気がついたのだが、これも意味的に、CDボックスに関連付けることができるのである。ただ、それは殆ど100パーセント、私個人による勝手な意味づけに終わるようなものである。しかし、説明を加えれば多少は分かってもらえる可能性のあるような意味づけであると言える。というのは、

BEETHOVENの下の行にやや小さい文字で、「ピアノフォルテのためのソナタ集」とフランス語で書かれている。その下にさらに小さい文字で書かれているのは古楽器による演奏という意味だろう。これは日本では「フォルテピアノ」と呼ばれるところの、ベートーベン時代の複数の古楽器によるベートーベンのピアノソナタ全集(演奏はパウル・バドゥラ=スコダ)だからである。

最近はCDといえば中古しか買わず、ボックス入りの全集などもまったく買うこともないのだが、最近はフォルテピアノの音色に魅せられているところがあって、かなり高価なボックスを購入してしまったのであった。なぜか、もちろん四六時中ではないにしてもピアノの音色に対する興味が頭から離れないのである。音楽のプロでも、アマチュアでもなく、楽器としてのピアノに関わりがあるわけでもなく、音楽の鑑賞者としてもマニアックには程遠いのだけれども、そうなのである。これについては1月6日の記事に書いている。

そのフォルテピアノの音色は陶器に例えられると思ったのである。現代ピアノの音を磁器に例え、それに対してフォルテピアノの音を陶器に例えるのがふさわしい、フォルテピアノの音色をうまく表現できるのではと思っていたのである。もっとも陶器の持つ土の感触はピアノの音色に比較するにはちょっと違和感があるかも知れないが、磁器を現代ピアノに比し、対にして考えれば結構当を得ているのではと思う。こんなことを考えていた事が無意識的に働いて、写真をとるときにこの陶器を配置したのかも知れない。

テーブルの材質が木目印刷の合成樹脂で味わいの乏しいのが大きなマイナス点。構図的にもおそらくイマイチだろうと思う。同じ構図で何枚も取っていれば多少はもう少し良いのが撮れたかも知れない。



2012年2月29日水曜日

測定と時間(温暖化問題における)


一般に科学的な測定には大抵、時間が何らかの形で関わっている。第一、測定事体に時間がかかる。例えば温度計を読み取るにしても、厳密には絶えず変化しているし、温度計事体、周囲の温度に追随するのに時間がかかる。まあ気温などの場合、こういうことは気にすることはないが、精密な計測では非常に難しい問題になってくるであろう。私自身は素人なのでわからないが、計測装置の設計にとっても非常に難しい問題であろうと推察できる。

多くの技術的な問題ではこれは非常に短い時間の場合が多いだろうが、時間の問題が重要なことは逆に地質学のような時間スケールの長い分野でも難しい問題になってくることには変わりがない。しかしともすればこのことは忘れられがちなのではないだろうか。

また、端的に言って測定そのものは科学である以上に技術の問題であって具体性が何よりも大切であり、測定装置から、測定者、想定の場所や時間、測定サンプル、さらには統計計算の問題、言葉の問題をも含めた表現方法にいたるまで多様であり、その多様さは分野、あるいは業界の慣習に大きく関わっている事が多い。その意味で自分の専門分野以外、狭い意味での専門分野以外の問題に関わる場合はよほど注意が必要なのではないかと思われる。これは純然たる素人にとってよりもむしろ自然科学の他分野の専門家にとって重要なのではないかと思う。

いきなり結論めいた事に踏み込んでしまったようだが、話を最初から始めると、先日NHKオンデマンドで「いのちドラマチック」というシリーズ番組の「ミドリムシ 植物と動物のあいだ」というのを見た。結構おもしろいので何度かこのシリーズを見ているが、基本的に食べ物に関係のある科学番組のようだ。しかしよけいなことかも知れないが「いのちドラマチック」というタイトルはそれだけでは何のどういう番組なのか、さっぱりわからない。こういう番組はもっと端的に、即物的なタイトルにして欲しいと思う。

それはともかく、このシリーズ番組には毎回分子生物学者の福岡伸一先生が登場することになっているようで、今回もそうであった。

この先生の著書は一冊半ほど読んだことがある。一冊目は「生物と無生物のあいだ」、もうひとつは「世界は分けてもわからない」である。こちらの方は半ばくらいまで読んだままでなぜか忘れてしまっていた。なぜ読むことになったかといえば、もちろん書店でかなり目立つところにつまれていたからでもあるが、いまは昔NHKFMラジオ番組の「日曜喫茶室」のゲストとして出演されていたのを聞いた記憶があって、とにかく話し上手な科学者という印象もあり、本も面白く読めそうな気がしたことは確かである。

この本の主たるテーマについてははっきりした印象の記憶を持てなかった。難しい問題で、理解したとも言えないし、この本を読んだだけでどうこう言えるような問題ではないと思う。ただ、もちろん専門的でわからない部分が多いものの、著者のスタンスがいくらか中途半端かなという印象はあった。それはともかく、本題以外に読み物として、DNA発見に関わる科学者たちの話題、とくに著者が研究生活を送ったたロックフェラー大学の歴史や印象、そこに胸像が飾られているという野口英世に関するあまり芳しくない話題などに多くのページが割かれていて全体として面白い本ではあった。

次の「世界は分けてもわからない」の方は読みかけたもののいつの間にか続みつづけるのを忘れてしまっていた。どうもなかなか話の核心に進んで行かず、まどろっこしいところがあったのかもしれない。非常に興味深い問題を扱っていることは確かなので、最後まで読み直さなければならないと思っている。ただ表題には少々違和感がある。(世界が)「わかる」にしても「分ける」にしてもあまりにも漠然としている。第一、単に「分ける」だけで「世界がわかる」とは誰も思っていないのではないだろうか。本のタイトルとはこういうものかも知れないが、やや我田引水的なタイトルだと思う。

いずれにせよ、断片的にも興味深く面白い話題を沢山提供できる著者であることは確かな印象であり、テレビ番組に登場するようになったのもわかるような気がする。

ただ、最近刊行されたかなり分厚い著書を書店で少し立ち読みしてみたことがあるが、温暖化問題に触れている個所があった。そして、この先生も温暖化問題について的確な判断をしていないことがわかり、この分子生物学教授に対していくらか興ざめ感を持っていたところだった。

さて、本題ののテレビ番組の内容は、葉緑体を持つ植物と動物の両方の特長を備えたミドリムシの食物や燃料としての利用の可能性について紹介されていたのだが、ここでもCO2温暖化対策が登場してくる。ミドリムシを生産して食料や燃料にすることでCO2削減に貢献できるという話題である。

燃料としてなら、つまり化石燃料の代替としてなら、実効性はともかく、CO2削減と結びつけるのもわからないでもないが、食料としての段階でCO2削減に結びつけるというのはあまりにも牽強付会としか言いようがない。CO2の吸収速度が早いというのだが、食用にして食べてしまうのであれば、そんなことはCO2削減と何の関係もない。普通なら「成長が速い」というべきところを「CO2の吸収が速い」と言い換えたのであろう。利用という面からは「成長が速い」という方がよほど意味深いと思う。専門の権威ある科学者がそんな話題に共感するとすればまさに興ざめである。



予想しないでも無かったが、ここで福岡先生によるCO2温暖化の解説が始まる。「いのちドラマチック」という訳のわからない番組のタイトルも関係しているようだ。つまり番組の趣旨が何なのかわからないのである。融通無碍ともいえるが。

それはともかく、ここでの教授の説明もまたさらに興ざめそのものだった。それは、数十万年前から現在に至るまでを通してのCO2濃度のグラフを元にしての説明で、この数十万年をとおして、この18世紀ころから急激に大気中CO2濃度が一方的に増加し、過去数十万年を通して一度も達したことがない400ppmに近づきつつある。従って大気中CO2濃度の増加が人為的な原因によるもので温暖化の原因でもあるというものである。

この種のデータあるいはグラフに問題があることは筆者も何度もブログで触れている。例えば、http://d.hatena.ne.jp/quarta/20110401#1301656569 。この機会にもう一度この問題を掘り下げてみたい。

基本的に重要な問題は、このグラフでは十万年を超える前から現在にいたるまで一つづきのグラフで表現されているのだが、横軸の同じ長さの時間スケールが地質時代と18世紀以降ではまったく異なっている。その差は100倍くらい異なっているであろう。当然測定方法のみならず測定手続き、測定サンプル事体がまったく異なることはもちろんであり、その種のことにまったく疑問を持たないか言及しないとすれば科学の専門家の態度としては問題があると言わざるを得ないのである。あらゆる測定は測定方法と切り離すことはできないからである。

筆者の知見によれば、この種のグラフには少なくとも3通りのまったく異なった測定が繋ぎ合わされている。いずれも根本順吉氏の著書で知り得たものである。

一つは1958年から1988年までの間、キーリングという科学者がハワイのマウナロア山頂で定期的に測定を始めた連続的なデータである。

次は18世紀から前記1958年までのデータで、これは根本順吉氏の著書では南極のデータとなっているので、氷からサンプリングしたものかも知れないが、詳しくは書かれていない。この間の増加率は、前記1950年代以降の急激な増加に比べると著しく緩慢である。

もう一つは「南極のボストーク基地で得られた2000メートルの氷柱の分析から、過去16万年の気候変化が明らかにされたことである」。この分析では「1m毎にとったサンプルを真空中でくだき、そこからとりだした過去の時代の大気成分について、ガス・クロマトグラフィーを用いた分析が行われ、CO2の変化が明らかにされた」。

16万年で2000メートルとすると、1mあたり80年になる。つまり、この間のCO2濃度は80年間の平均を意味している。80年の間には、キーリングの分析が始まった1958年から現在までの約50年はすっぽり入ってしまう。

現在気象庁などで行なっている分析データは月単位で公表されている。キーリングの分析もそのようで、実際、年間における月単位の数値の変化は結構大きく、夏と冬とではかなりの差があり、曲線はギザギザになっているのが普通である。

以上の事実から、先ほどのグラフから単純に現在と10万年前とで比較できないことは明らかだが、以上の事実を知らなくても、この種のことはグラフ横軸の時間スケールの違いからも疑いを持つのが科学者であれば当然ではなかろうかと思うのである。私自身は、根本氏の本を読んでいなければ気づかなかったかも知れない。

改めて思うことだが、あらゆる測定には異なる時間が関わっていることに思い知らされなければならない。

最初に書いたことだが、これは少しでも専門を外れた分野の問題に言及する場合には特に重要な問題だと思う。素人にとって以上に、他分野あるいは隣接分野の科学者には気を使ってもらいたいものだと思う。

個人的に、あまり専門性を強調したくはないと思う。私自身、事実上すべての化学分野で素人である。ただし、権威ある科学の専門家が専門科学者の資格で権威を背景に科学の問題を語る時、やはり専門外の問題を語ることは控えることが良心的といえるのではないかと思う。もちろん一概に言うことはできない。

少なくとも聴衆、受け取る側はこのことを十分に意識すべきだろう。

(蛇足)先日この番組を見た日、外出したら、直ぐ近くの自然食品の店に張り紙がしてあるにに気がついた。曰く、「みどりむし入荷しました」。

2012年2月14日火曜日

「再生」と「再生可能」および「エネルギー」と「エネルギー資源」

前回2度目に「再生可能エネルギー」の言葉上の問題を取り上げたときは、「可能」と「可能性」とのニュアンスの違いについて述べましたが、この件では「再生」と「再生可能」との違いについても考える必要があるようです。


前回考えたように、「可能」という言葉には主語としての人間の存在が暗黙のうちに想定されていると言えます。人間の能力として、あるいは人為的に、あるいは任意に可能というニュアンスがあり、総体的に「任意に可能」であることが本来の「可能」の意味ではないでしょうか。

それに対し、「可能」がとれた単なる「再生」エネルギーの場合は印象として「自然に再生する」という意味になるように思われます。風力と太陽光の場合は、どちらかと言えばこちらのほうがより適切といえるかも知れません。

この場合あくまでも再生を自然に頼るわけですから、任意に利用が可能というわけには行かないことが意識されるように思います。

また、さらに、この場合は再び「エネルギー」と「エネルギー資源」の違いが問題になってくるように思われます。

前回、エネルギーとエネルギー資源の違いについて言及した際、エネルギー資源は再生し得るがエネルギーそのものは再生不可能であるといった原理的なことに言及した次第ですが、それよりも実際的な、言葉の効果といった面で重要な違いがあるように思われます。

「エネルギー資源」という場合、それがあくまでも資源にとどまっており、エネルギーとして利用する前段階であることが意識されるはずです。つまり、実際に使用可能なエネルギーに変換する工程の存在が意識されるはずなのですが、単に「エネルギー」では、その部分が見えなくなってしまい、天然のエネルギー資源がそのままエネルギーとして利用できるかのような印象を与えるように思います。

結局、風力や太陽光の場合は「自然再生エネルギー資源」バイオ燃料の場合は「人為再生可能エネルギー資源」と呼べば一応は納得できるように思います。もっとも化石燃料も広い意味で「自然再生エネルギー資源」に含まれるわけですが。前回も書いたように風力と太陽光の場合は気象エネルギーと呼ぶのが最もその性格をよく表すと思われることに変わりありません。


なお、この件で前回、「再生可能」に対応する英語をreproducible と考えましたが、それは間違いでrenewableのようです。語感としてはたしかに「自然再生」に近いかなという印象はあります。

またウィキペディアを見ると「広義には、太陽・地球物理学的・生物学的な源に由来し、自然界によって利用する以上の速度で補充されるエネルギー全般を指す」というIPCCで用いられているという定義が紹介されていますが、これもあくまでIPCCの定義であり、各国各団体によって定義の仕方は様々なようです。

特に、「利用する以上の速度で補充される」とはどういう意味なのかまったくわかりません。少なくとも現在、風力も太陽光も一定の場所で利用せざるを得ないわけですが、いずれも天候によって刻々と変化する風や太陽光にこのようなことがどうして言えるのか、意味不明としか言いようがありません。


いずれにせよ、「再生エネルギー」、「再生可能エネルギー」という言葉があまりにも安易に使われ、あたかもそれが倫理的に優れたエネルギー資源であるかのような印象を伴いながら善意あると思われる人々によって頻繁に使われていることにやりきれない思いがします。

2012年2月5日日曜日

「可能性」の可能性、多様性

(先回、「再生可能エネルギー」の意味論めいたものを書きましたが、その続編です)

前回は主として「エネルギー」を「エネルギー資源」とすべきだという趣旨に重点を置いていたと言え、そのため「再生可能」の「可能」の意味についての掘り下げが不足していたように思う。

「再生可能」の構成要素である「再生」の方も相当にあいまいで怪しげな言葉である。元来日本語の「再生」は生物学用語なのではないだろうか。「再生可能エネルギー」の場合の再生は生物学的に使われているとは思えない。かといって物理学的でも化学的でもない。それはともかく、今問題にしたいのは「可能」の方である。

「再生可能」は英語のreproducibleに相当すると考えてよさそうだが、英語の接尾辞ableは日本語では、「可能」よりも「可能性がある」に近いように思われる。だいたい可能性を表す場合、日本語では基本的に可能動詞を使うのが本来だろうし、英語でも助動詞を使う場合が多く、さまざまなニュアンスで語られるものであり、微妙な表現を要求されるものなのである。

とりあえず今は「可能である」と「可能性がある」との違いについて考えてみたい。

どちらも専門用語のように厳密に意味が定められているわけではないだろうが、端的に言って「可能である」は正確には「任意に可能である」に近いと思われる。それに対して「可能性がある」は、「可能な場合もあり得る」に近いといっても良いだろうと思う。

つまり、一方の極に「任意に可能である」があり、もう一方の極に「可能な場合もあり得る」という意味があり、単に「可能である」は「任意に可能である」に近く、「可能性がある」は「可能な場合もあり得る」に近いと思われるのである。

「任意に可能である」とは、具体的には主語、この場合は人間の意志によって任意に可能という意味で良いと思われる。その気になればいつでも可能ということである。一方、「可能な場合もあり得る」の「場合」を考えてみみると、これは実に多様であり、時間的、空間的、その他千差万別の条件であることがわかる。

例えば、風力を考えてみた場合、実用的には一定の地点における「再生」を考える必要がある。つまり、かなり長期間の平均を取ってみれば、場所により、再生は「任意に可能」に近づくが、秒~時間~日単位の平均をとれば「可能な場合もある」にとどまり、安定した再生はむしろ「不可能」と言うべきである。太陽光も同様である。どちらも天然の気象に依存しているからである。

一方の対極にあると思われている、すなわち「再生可能」ではないとされている石油の場合、一定地点、発電所などの使用現場における供給は、条件が整えば、秒単位ではもちろん日単位、月単位、あるいは年単位でも継続使用が可能であろう、ということは ― 使用現場における刻一刻の ― 再生が可能だということである。もちろんそれには一定の条件が必要だが、少なくとも現時点では人為的な努力でそれが可能だということである。

化石燃料の場合は埋蔵量の問題とともに、天然に生成する地点における自然再生が可能かどうかという問題は石炭を除いてまだ解明されていないようである。しかしいずれも過去にそれらの資源が生成したメカニズムが今も継続していないとはいえない。燃料ではないが、石灰岩など、今も海の中でさんご礁や貝殻の沈殿物が元になって遠い将来の生成過程に繋がっている。

金やレアメタルなど希少元素にしても、人間が消費した所で地球上から消えるわけでもない。金は消費するうちに拡散する分があるにしても、基本的に昔からリサイクルが常識である。資源のリサイクルは最近のエコ思想、運動に始まるわけでは全くない。

エネルギーは消費されるが、エネルギー資源はすべて何らかの意味で自然再生しているといえる(核燃料を除いて)。もちろんその大本はすべて太陽に由来する。

上記(エネルギーは消費されるがエネルギー資源何らかの形で再生し得るということ)を考慮すれば、エネルギーエネルギー資源は厳密に区別する必要があるといえる。


バイオ、とくに栽培植物、穀物や、海藻、藻類などの場合は人間の栽培によるのであるから、明らかに人為的再生が可能といえる。しかし、必ずしも任意とは言えず、一定の条件が必要なことは言うまでもない。まあ強いて言えば、常識的な判断で「再生可能」という言葉がニュアンス的に最も相応しいのはこの種の資源のことと言えるかも知れない。

以上のような次第で、いずれにせよ、事実上あらゆるエネルギー資源は「再生可能エネルギー」資源ということになるのであり、その「可能性」は各エネルギー資源の性質により千差万別としか言い様がなく、「再生可能」なる区分はまやかし以外の何者でもない。今とくに問題になっている風力発電と太陽光発電を一緒にする必要があるのであれば「気象エネルギー」が適当であろう。水力の場合はもう少し長期的に考える必要があり、気候エネルギーと呼べないこともない。いずれにせよ、具体的に風力発電、太陽光発電、水力発電と呼ぶに越したことはないのである。

ちなみに、
ウィキペディアで見たのだが、食用塩に「天然塩」とか「自然塩」と表示することは公正取引委員会で禁止されているそうである。また、「ミネラル豊富を意味する表記は不当表示となる」そうである。これに対比するに、「自然エネルギー」や「再生可能エネルギー」のような用語が法律に使われるという現実をどう考えれば良いのであろうか。


2012年1月18日水曜日

「ゲーテとの対話、第二部」読了


エッカーマン著「ゲーテとの対話」(山下肇訳、岩波文庫)の第二部、文庫本の中巻を読み終わった。日記形式で書かれているので、電車の中など、毎日すこしずつ読むのに最適であった。この巻の最終日の記事にゲーテの死が描かれている。と言っても著者がゲーテの臨終に立ち会ったわけではなさそうだが、ゲーテの亡骸に対面している。顔だけではなく、裸の胸や手足まで布をとって見せてもらい、美しさに感動したという。

この日の記述に含まれているゲーテの語った内容は、死の数日前にエッカーマンに語った言葉なのであろう。それに相応しく重要なことが語られていると思う。この書物に含まれるゲーテの思想の中でも特に有意義な内容ではないだろうか。

その中から少し抜書をしてみる。
「詩人が政治的に活動しようとすれば、ある党派に身をゆだねなければならない。そしてそうなれば、彼はもう詩人でなくなってしまう。その自由な精神と偏見のない見解には別れをつげ、そのかわりに偏狭さと盲目的な憎悪を耳まですっぽりかぶらねばならなくなってしまうのさ」

ここでゲーテは詩人という言葉で文学者一般について語っているのだが、ここで語られていることはそのまま科学者にも、学者一般についても当てはまることだろうと思う。

もっとも、学問といっても経済学や政治学、さらに詳細な実践的な部門になればどういうことになるのかはちょっと判断に困るのではあるけれども。

とにかくこの問題は現在の日本の状況においても切実な事柄であるように思われる。

ソ連邦の崩壊以降、社会主義、共産主義のイデオロギーも崩壊したように言われている。それ以降、社会主義だけではなくイデオロギー一般というかイデオロギーそのものに対して疑惑の眼が向けられるようになった傾向がある。しかし現在の状況をみると相変わらず各種のイデオロギー活動は盛んであるように見える。

端的に言って今、反原発運動がイデオロギー化しているように感じられる。もう少し幅が広くなるがエコロジー運動もそうである。

科学者や文化人が党派的になっている傾向が強く感じられるのである。

ひとたび反原発の陣営に組み入れられると少しでも原発推進派に有利に働くと思われる事柄はすべて否定しなければならなくなってしまう。その典型的な例が低線量の放射線リスクの問題である。現在の時点で閾値とされる値よりもはるかに少ない低線量を問題にして危険を云々するのは愚かにみえるのが健康な常識人からみた印象であろう。

ゲーテが詩人について語った先ほどの引用個所の「詩人」を「科学者」に置き換えてみよう。

「科学者が政治的に活動しようとすれば、ある党派に身をゆだねなければならない。そしてそうなれば、彼はもう科学者でなくなってしまう。その自由な精神と偏見のない見解には別れをつげ、そのかわりに偏狭さと盲目的な憎悪を耳まですっぽりかぶらねばならなくなってしまうのさ」

2012年1月12日木曜日

「再生可能エネルギー」の意味 ― 「胡散臭い」ひびき?


再生可能エネルギーという言葉が使われる頻度が着実に増してきているようだ。

去年、この言葉を使用した法律案が提出される頃の話、ある日曜日、昼のテレビ番組でコメンテーターのK氏がこの法案について「胡散臭い」という表現をしていたのが記憶に残っている。

たしかに、脈絡なしでこの言葉を聞いただけでも何か胡散臭いという感じがする言葉である。もちろんこのような言葉はいくらでもある。極端な話、言葉、言語そのものが胡散臭いといえば言えないこともないが、それを言ってしまえばお終いということになろう。

ともかく法律にまで使われている言葉である。きちんと意味を明らかにしておく必要がある筈である。

ちょうど昨日読み終わった書物、内橋克人著「浪費なき成長」に、この言葉が次のように定義されている。
「地球の自然環境のなかで繰り返し再生している現象を利用する無限に近いエネルギー。風力や、バイオマス、太陽光・熱発電など」

この定義は一応、論理的な定義であると思う。これによれば「再生可能」というのは「自然現象」にかかる修飾語であり、エネルギー自体を修飾しているのではないことがわかる。しかし普通に使われている「再生可能エネルギー」あるいは「再生エネルギー」という言葉をそのまま聞いた印象ではエネルギー自体が再生されるとかいう意味になり、実際多くの人はそのような印象を受けるであろう。

この場合、エネルギーという言葉が物理的なエネルギーを指していることに疑う余地はないが、物理的なエネルギーについてはエネルギー保存の法則という大原則がある。その不滅である筈のエネルギーが再生するとか再生可能であるということの奇妙さがまずある。まだ「再生可能」ではなく「再利用可能」であれば何らかの意味があるのだが、それはこの場合当てはまらない。

次に、先の内橋氏の定義が正解であるとすればそのような現象、つまり風や太陽光・熱などが再生しているというのはわかるが、「再生可能」というのは意味不明ではないだろうか?風は地上の何処かで自然に吹き荒れているし、太陽光は常に何処かに降り注いでいる。何が「可能」だというのであろうか?「可能」をつけることにどの様な意味があるのだろうか?

いずれも自然に再生されているとは言えるが、また自然に途切れる場合もある。特定の場所で風は止むこともあり、太陽は雲に隠れることもある。それらのコントロールが「可能」であるならそれは大した技術であるといえるのだが。ちなみに水力はダムによってこのコントロールが可能になっていると言える。
要するに「再生」あるいは「再生可能」が自然現象にかかる修飾語であるとしてもおかしいし、エネルギーにかかる修飾語としてもおかしいのである。

結局この「エネルギー」を「エネルギー資源」とすれば分かりやすくなる。エネルギー資源を簡単にエネルギーと言うのだという事かもしれないが、エネルギーとエネルギー資源は全く異なった概念である。略称という考え方もあるが、略称の場合はちゃんとした正式な名称があってのことである。また「再生」であるのか「再生可能」であるのかも決まっていないようだ。

この場合は日本語と英語のニュアンスの違いによる面があるかも知れない。英語では恐らく「reproducible」に決まっているのだろう。

しかし端的に無尽蔵エネルギー資源とでも言えばそれで済むことではないだろうか、「再生可能エネルギー」とは何か思わせぶりで「胡散臭く」思われても仕方が無いだろう。とりあえず少なくとも「資源」を付けて「再生(可能)エネルギー資源」と呼ぶべきだろうと思う。

そこで「再生可能エネルギー資源」と変えた場合、印象はどの様に変わるだろうか?

単にエネルギーというのではなく「エネルギー資源」になると、かなり具体性が出てくるように思われる。そしてさらに具体的にその資源とは何をさすのであるかという問題が浮かび上がってくるように思われる。

この問題を考える場合に及んで始めて「再生」と「再生可能」との違いが意味を持つようになってくるといえる。太陽光や風力、あるいは水力の場合は「再生」という表現が最適であるとは思えないが、まあとりあえず自然に、不規則ではあるが「再生」されているとは言える。「再生可能」にあたるのはバイオ燃料のことであろう。とくに穀物や燃料用作物を栽培する場合は「可能」が重要な意味を帯びてくる。

天然林の薪などを使う場合はまたこの「可能」の意味合いも異なってくる。天然の森林は人間がコントロールして再生しているとは言えないからである。それでも常に再生はしている。

さらに、石油石炭、天然ガスなどの化石燃料の場合も「再生可能」ではなく自然に「再生」される範疇に入ると考えられる。ただし地質学的スケールで進行する現象だけに、人間的スケールでは「再生」とも「再生可能」とも言うことはできないということであろう。しかし埋蔵量のことなどを含め、わからないこと、解明されていないこと、あるいは隠されていること、公表されていないことなどが多すぎる。

この様に見てくると、事実上、すべてのエネルギー資源は再生エネルギー資源または再生可能エネルギー資源といって差し支えない。ところが、例の再生エネルギー関連の法律では事実上太陽光発電と風力発電のことを意味しているとみなさざるを得ない。再生可能エネルギー資源といってもその意味合いは千差万別であるから、この様なカテゴリーを使うことに科学的な意味は無いのである。

具体的に風力発電とか太陽光発電などといえば良いのである。風力発電と太陽光発電の2つをまとめる必要があるのであれば「気象エネルギー」という言い方が適当だと思われる。いずれも気象に左右されるからである。

いずれにしてもエネルギー資源を「再生可能エネルギー」と「非再生可能エネルギー」の2つに分ける二分法には何の意味もなく誤解や欺瞞が入り込む隙間だらけであるといえる。


2012年1月6日金曜日

ピアノの音色について



多くの人と同様、私は音楽が好きでピアノ音楽も好きだが、もちろんピアニストでもなくピアノが弾けるわけでもない。またピアノという楽器に関わる仕事を経験したこともないし、楽器を購入する予定があるわけでもない。また、どのような意味でも音楽のプロではなく、素人としてでも音楽活動といえるような体験はなく、音楽のマニアと言えるほどの趣味人でもない。

クラシック音楽が好きだが、正直なところ鑑賞能力が高いとは思っていない。難解な曲が鑑賞できるようになるまでには相当な年月がかかった。いつまでたっても馴染めないような曲も多い。

第一耳、あるいは音感と呼ばれるものがそれほど良くないのだろう。単に耳とか音感といってもいろいろな意味合いがあるが、音痴ではないものの、和音を聞き分ける能力とか、リズムを聞き分ける能力といった高度なものから、単に聞こえる周波数範囲といった即物的なものにいたるまであまり高級な耳を持っているとは言えない。

また「耳」とは別に、精神的な集中力がないという点が致命的な欠点がある。集中力は特に音楽に関係が深いように思われる。

そういう人間であるにもかかわらず、私の中で音楽の占める重要度は相当に大きい。考え事をする時も、その中に音楽について考えることが占める割合はかなり大きいのである。もっともこういうことは断るまでもない事かもしれない。ジャンルが何であれ、一般人が切実に音楽を求めるからこそ職業音楽家が存在できるわけであるのだから。

最近はピアノの音色についてあれこれと考えることが多い。具体的にいえば、特に現代ピアノの音とフォルテピアノと呼ばれる旧式のピアノの音色の違いについてよく考える。もちろん実際の楽器の音を聞く機会はめったに無いし、特にフォルテピアノの実演を聞いたことは恐らくない。もう昔になるが、東京の何処かで開催されたベートーベン記念の展覧会を見に行ったことがあり、ベートーベンが使用したピアノを見たことがある。しかし記憶ではその演奏を聞くことはできなかった。

という次第で、当然すべて録音での話であるが、旧式のピアノを聞いた記憶は相当古くから、若い頃からあるにはある。ただ、やはり古い音だなあ、というか中途半端な音だなあという程度の印象しか持ってなかったところ、たまたま購入した歌曲のCDの伴奏でフォルテピアノの音に接した時に、その音色に魅了される経験をした。そのCDは手放してしまったが、エリー・アメリンクのソプラノ独唱、ピアノ伴奏がイエルク・デムス、そしてクラリネットがダインツァーという人の演奏であった。その、デムスが弾いていた楽器がフォルテピアノで、シューベルトとシューマンの、女声向けの優雅で優しい歌曲に実によく合っていた。ただ、この時はこういう曲には合っているなという印象をもったことと、一般家庭で使用するピアノはこういう音色のほうが良いのではないかと思ったが、ベートーベンやショパンなどの多くの名曲がこういうピアノで演奏されるべきだとまでは思わなかったし、今もそう思うわけでもない。

そんな時、別の切り口からバッハの鍵盤音楽と楽器との関係について考えるこ機会が出てきた。といってもバッハの鍵盤音楽を色々聞き比べた結果として考えるようになったわけではない。だいたい私にとってバッハはあまり馴染みやすい作曲家ではなかった。もちろんバッハの曲にも、一度聞いただけで好きになれた曲も沢山ある。ブランデンブルク協奏曲のような管弦楽曲や協奏曲はどれもそういう曲風である。フルートなど管楽器のソナタもそうだ。しかし、バイオリンやチェロの無伴奏組曲などは鑑賞して楽しめるようになるまで随分年月を要した。そして鍵盤音楽もその部類であった。

鍵盤音楽の場合、馴染めなかった理由の1つはやはりフーガの難しさである。もちろん音楽技法の知識が無いこともあるだろうが、やはり集中力のなさによるところが大きいのだろう。しかしフーガではない場合も何か抵抗を感じる場合が多かった。比較的最近になってそれはピアノの音色によるものではないのかなと思うようになったのである。それは、思い出したのはフォルテピアノの音色の魅力に目覚めた以降のことである。

平均律ピアノ曲集など、バッハの鍵盤音楽をラジオ放送などで時どき聞くことはあったが、バッハのこの種の音楽のピアノ演奏に限って何かいたたまれない寂寥感を感じていたのである。それはもしかしたら現代ピアノの音色のせいではないかと思うようになった。それで昨年、中古CDショップで平均律クラヴィーア曲集の第一巻をレオンハルトによるチェンバロの演奏で、第二巻をアンドラーシュ・シフによるピアノ演奏で、購入して時どき聞き比べてみたのである。同じ曲ではなく、片方を第一巻、もう一方を第二巻とするところなど、我ながらけちで欲張りだなと思う。

気まぐれな聴き方だが、折りを見てこの2つのアルバムを聞いているが、どうしてもチェンバロの演奏の方を聞きたくなるのである。ピアノの演奏は音色の冷たさからくる寂寥感が耐えられないようなところがある。もっと本質的な部分を聴きとるだけの鑑賞力が無いからかもしれないのだが・・・。というのもフーガをよく鑑賞することはやはり、今もできない。

もっとも、チェンバロの音色がそれほど好きだというわけでもない。チェンバロの音が嫌いだという人は多いようだが、私にもその気持はわかる。はっきり言って音量が大きくなるとガシャガシャとした音がうるさい。しかし、ピアノにない荘重さを持っていることも確かである。そして何よりも現代ピアノの冷たい音色ではなく温かみがあり、現代ピアノの演奏で聞くときの何とも言えない寂寥感が消えているといってもいい。

あの寂寥感は何なのだろうか。曲が本来持っていない内容、この場合は寂寥感がピアノの音色だけから生じるのだろうか・・?バッハの音楽との相性でそうなるのだろうか・・?わからない。またこんなことを感じるのは私だけなのだろうか?一般に平均律クラヴィーア曲集はピアノによる演奏が圧倒的に多そうである。どうもわからない・・・。

そんな訳で、現代ピアノよりも温かい音色であるフォルテピアノによるバッハを聞いてみたいと思うようになった。

そんなとき、パウル・バドゥラ=スコダ演奏のフォルテピアノによるベートーベン、ピアノソナタ全集の広告が目に入った。バッハをフォルテピアノで聞いてい見たいと思っているときで、ベートーベンをフォルテピアノで聞きたいと思っていたわけではなかったが、宣伝文につられて、めったに買わない高額のCD九枚組セットを注文してしまった。

このアルバムに関するコメントはまたいつか改めてまとめてみようと思うが、このCDを聞いてから思いついたことのひとつに、シューベルトのピアノ曲をフォルテピアノで聞けばどうだろうか、ということがある。

というのは、シューベルトのピアノ曲、ソナタや即興曲や連弾曲、その他の小品など、若い時にLPレコードでよく聞いたが、ある時期から聞かないようになった。それというのも、どの曲にも、長調の明るいはずの曲にも潜んでいるあまりにも冷え冷えとした深い孤独感に耐えきれない気持ちになってきたのである。それはもちろんピアノ曲だけではない。弦楽四重奏や五重奏曲にもいえる。もちろん歌曲にもいえるし、交響曲にも言える。しかしピアノ曲にはピアノの音色独特の寂寥感がやはり感じられたように、いまになって思うのである。当時はそういう次第でシューベルトの曲は段々と聞かないようになり、ブラームスをよく聞くようになった。ブラームスの曲もそういう要素が無いわけではないが、まだ生ぬるさというと言葉が悪いが、そういうところがあり、シューベルトの場合ほど落ち込むことはないような気がする。

こういう次第で、シューベルトのピアノ曲、つまり独奏曲や連弾曲などをフォルテピアノで聞けばどういう印象だろうかという興味が沸き起こってきた。確かに最初の方で触れたフォルテピアノによる女声歌曲の伴奏では現代ピアノには無い暖かさ、優しさが感じられたことは確かなのである。

そんな時、やはり垣間見た音楽雑誌の記事でリュビモフというロシア人ピアニストが旧式のピアノで演奏したシューベルトの即興曲のCDが出ていた事を知った。またその後訪れた中古CDショップでそれが見つかったのである。中古にしては高い方だったが、とにかくタイミングがよかったこともあり購入した。

今もあり、かつて聞いていたこの曲のLPレコードはエッシェンバッハによる演奏のもので、この曲の演奏として文句のないものであった。一ヶ所だけだが今も鮮烈に耳に残っている箇所がある。ロザムンデのメロディーによる変奏曲の最後から2番目の変奏曲の終わり、消え入るような弱音の箇所である。

今回のリュビモフの演奏は、基本的にこのLPで聞いていたエッシェンバッハの演奏とそれほど異なるという印象はない。使用された楽器の音色は解説にもあるように入念に選ばれたようで、フォルテピアノの中でも特別に美しい音色の優れた楽器が選ばれていることはわかる。ただ、この曲集全体、隅々まで行き渡っている冷え冷えとした音色はやはり、この曲集の曲想自体が持つところの本来のものだろう。フォルテピアノであるからといって、曲自体が明るく朗らかな音調になるということはないようだ。

しかし、やはり、フォルテピアノ独特の潤い、温かみというものは感じられるのであって、それは純粋な曲想に付加されたものといえる。但しそれが作曲者の意図を超えて付加されたものとは思わない。作曲者のシューベルト自身はあくまでフォルテピアノの音色を聞きながら作曲していた筈である。逆に言えば、純粋な曲想自体は作曲者の意識していたイメージとも別物であるかも知れないのである。

この音質、音色は言葉ではどう表現すれば良いのだろうか。簡単にいえば何度も言っているように温かみがあるといえることは確かである。もちろん不満もある。響きの深さ、厚み、純度、密度といったものは確かに現代ピアノの方で得られるものだと思う。

もう少し立ち入って表現してみれば、次のようにも言えると思う。何か人々の社会的な空間、といったものを感じるのである。シューベルトはいつも友人に取り囲まれて生活していたそうだが、そういう生活空間のようなものが音色から感じられるのである。それは純粋な、あるいは抽象的な曲の本質とはまた別のものであるかも知れないのだが、あくまで作曲者自身のイメージにあった音調であったに違いないと思えるのである。

こう考えてくると、バッハの場合とシューベルトの場合とは事情が異なるようだ。バッハの場合はあくまで現代ピアノの冷たい音色が余計な付加物を付け加えているのではないかと思うのである。もちろん、これは特にフーガの部分などを含め、私の個人的な鑑賞能力の及ばない広大な領域を無視した、狭い世界での印象に過ぎない。


ただ、この一文はバッハの音楽論でもシューベルトの音楽論でもなく、強いて言えば「音色と音楽」論、あるいは「音色と音楽の意味論」とでも言いたい内容と考えているので鑑賞力の不足はこの際容認されるものと思う。

楽曲の本質とは別のところで、楽器の音色自体に由来する寂寥感、冷たさというものはあるのではないかというのが一応の結論である。それが個々の曲調、作曲者による曲調によって独特の現れ方、異なった発現のしかたがあるのではないかと思うのである。

さらに、現在のピアノは音色の点でまだ変化、進化の余地があるのではないかという期待感もある。

2012年1月4日水曜日

元旦に見た報道番組2本の印象


(テーマ別に複数のブログサイトを持っているせいで、どのブログに投稿しようか迷うことがあります。今回の記事は特に迷いましたが、とりあえずここに落ち着きました)


1日の午後、NHKオンデマンドで衛星放送の報道系番組2本を続けて見た。1つは「ソビエト崩壊20年」という番組で、プーチンのロシアシリーズの1つである。国際共同制作というのでどういう意味があるのかと思ったが、Brook Lappingという名前が出ているだけで、何処の国のどういう団体であるのかも分からない。ネットで調べるとロンドンにあるイギリスのテレビ番組制作会社であることがわかった。このような場合、イギリスの制作会社であるBrook Lappingとの共同制作といえば良いのであって、何も国際共同制作などという大げさな言い方はしないほうが自然ではないのだろうかと不審に思う。見た印象では、実質的にBrook Lappingで制作された番組といって良さそうな感じだったが、最後の字幕をみると、結局はBrook Lappingで製作された番組の日本語版を日本で作成したというだけのように見える。英語版と日本語版以外にもあるのだろうが、別に日本のスタッフとは関係あるとは思えない。そうであるなら、イギリスのBrook Lapping制作番組の日本語版として放送すべきだろう。という次第で、世界的にマスコミの偏向報道が問題になっている昨今、こういう触れ込みでの放送は印象が悪い。内容的にどうこういうだけの見識を私は持たないが、ただ最近の日本のドキュメンタリーで過剰に使われる音楽が一切使われていなかっとことは気持ちが良かった。その分映像テクニックが目立ってくる。それとナレーションだ。ただ見終わっても大した充足感がない。断片的な映像や政治家の発言を切り離して参考に出来るだけの識見がある人が見ればそれなりに得るところがあるかも知れないが、結局ナレーターが話すストーリーと解釈を聞かされるだけという印象。


続いて見たもう一本は経済評論家の内橋克人氏への長時間インタビュー番組である。世界と日本の現在の政治と経済への批判が基調になっていて、いずれも納得できる内容で、大いに氏への共感が持たれるわけだが、その解決策として氏が提唱する「理念型経済」の説明のところまでくると、端的に言って失望である。「理念型経済」の思想そのもは個人的に良く理解していないし、おそらく豊かで示唆的なものを多く含むものであろうと推察するものの、具体的な方策となるともう、はっきり言ってエコロジー運動にみられる欺瞞をそのまま受け継いでいるように思えるからである。本ブログの先般の記事「梅棹忠夫著「文明の生態史観」再読で「エコ」運動について考える」で考察した大きな問題を孕んだところの、言葉を換えると、欺瞞に立脚したところのエコ思想そのものである。

内橋克人氏も少なくとも次の3つの大なる欺瞞をその思想の主要な砦としているように見える。すなわち、CO2温暖化論と放射線リスク直線仮説、そして太陽光発電と風力発電をメインとする「再生エネルギー」に対する過剰な期待である。少なくともこの3つを砦とせざるを得ないとすればそのような思想あるいは「理念」はかなりいい加減なものと言わざるを得ないと思う。

氏自身は「夢ものがたりと思われるかも知れないが」というが、遠い未来の夢物語でもそれはそれで「理念」として存在価値があるかも知れないが、欺瞞を根拠に現在でも実現可能というのであればそれは否定せざるを得ない。

この辺りが本来の自然科学者でも科学技術者でもない人文科学系の文化人の一つの限界のように思われる。もちろん絶対的な限界というわけではないものの、一つの壁かもしれない。

ネットで氏の「理念型経済」を検索してみると「浪費なき成長―新しい経済の起点」という氏の著書がアマゾンのサイトでヒットし、マーケットプレースに中古品が1円で出品されている。送料を入れて251円で購入できるので注文した。もうすこしこの辺りのことを考えてみたい。内橋克人氏のような人物がこういった欺瞞にしがみついているのは本当に残念なことだと思う。