「意味」にまつわる意味深長で多様なテーマを取り上げています。 2011年2月13日から1年間ほどhttp://yakuruma.blog.fc2.com に移転して更新していましたが、2011年12月28日より当サイトで更新を再開しました。上記サイトは現在『矢車SITE』として当ブログを含めた更新情報やつぶやきを写真とともに掲載しています。
2012年2月29日水曜日
測定と時間(温暖化問題における)
一般に科学的な測定には大抵、時間が何らかの形で関わっている。第一、測定事体に時間がかかる。例えば温度計を読み取るにしても、厳密には絶えず変化しているし、温度計事体、周囲の温度に追随するのに時間がかかる。まあ気温などの場合、こういうことは気にすることはないが、精密な計測では非常に難しい問題になってくるであろう。私自身は素人なのでわからないが、計測装置の設計にとっても非常に難しい問題であろうと推察できる。
多くの技術的な問題ではこれは非常に短い時間の場合が多いだろうが、時間の問題が重要なことは逆に地質学のような時間スケールの長い分野でも難しい問題になってくることには変わりがない。しかしともすればこのことは忘れられがちなのではないだろうか。
また、端的に言って測定そのものは科学である以上に技術の問題であって具体性が何よりも大切であり、測定装置から、測定者、想定の場所や時間、測定サンプル、さらには統計計算の問題、言葉の問題をも含めた表現方法にいたるまで多様であり、その多様さは分野、あるいは業界の慣習に大きく関わっている事が多い。その意味で自分の専門分野以外、狭い意味での専門分野以外の問題に関わる場合はよほど注意が必要なのではないかと思われる。これは純然たる素人にとってよりもむしろ自然科学の他分野の専門家にとって重要なのではないかと思う。
いきなり結論めいた事に踏み込んでしまったようだが、話を最初から始めると、先日NHKオンデマンドで「いのちドラマチック」というシリーズ番組の「ミドリムシ 植物と動物のあいだ」というのを見た。結構おもしろいので何度かこのシリーズを見ているが、基本的に食べ物に関係のある科学番組のようだ。しかしよけいなことかも知れないが「いのちドラマチック」というタイトルはそれだけでは何のどういう番組なのか、さっぱりわからない。こういう番組はもっと端的に、即物的なタイトルにして欲しいと思う。
それはともかく、このシリーズ番組には毎回分子生物学者の福岡伸一先生が登場することになっているようで、今回もそうであった。
この先生の著書は一冊半ほど読んだことがある。一冊目は「生物と無生物のあいだ」、もうひとつは「世界は分けてもわからない」である。こちらの方は半ばくらいまで読んだままでなぜか忘れてしまっていた。なぜ読むことになったかといえば、もちろん書店でかなり目立つところにつまれていたからでもあるが、いまは昔NHKFMラジオ番組の「日曜喫茶室」のゲストとして出演されていたのを聞いた記憶があって、とにかく話し上手な科学者という印象もあり、本も面白く読めそうな気がしたことは確かである。
この本の主たるテーマについてははっきりした印象の記憶を持てなかった。難しい問題で、理解したとも言えないし、この本を読んだだけでどうこう言えるような問題ではないと思う。ただ、もちろん専門的でわからない部分が多いものの、著者のスタンスがいくらか中途半端かなという印象はあった。それはともかく、本題以外に読み物として、DNA発見に関わる科学者たちの話題、とくに著者が研究生活を送ったたロックフェラー大学の歴史や印象、そこに胸像が飾られているという野口英世に関するあまり芳しくない話題などに多くのページが割かれていて全体として面白い本ではあった。
次の「世界は分けてもわからない」の方は読みかけたもののいつの間にか続みつづけるのを忘れてしまっていた。どうもなかなか話の核心に進んで行かず、まどろっこしいところがあったのかもしれない。非常に興味深い問題を扱っていることは確かなので、最後まで読み直さなければならないと思っている。ただ表題には少々違和感がある。(世界が)「わかる」にしても「分ける」にしてもあまりにも漠然としている。第一、単に「分ける」だけで「世界がわかる」とは誰も思っていないのではないだろうか。本のタイトルとはこういうものかも知れないが、やや我田引水的なタイトルだと思う。
いずれにせよ、断片的にも興味深く面白い話題を沢山提供できる著者であることは確かな印象であり、テレビ番組に登場するようになったのもわかるような気がする。
ただ、最近刊行されたかなり分厚い著書を書店で少し立ち読みしてみたことがあるが、温暖化問題に触れている個所があった。そして、この先生も温暖化問題について的確な判断をしていないことがわかり、この分子生物学教授に対していくらか興ざめ感を持っていたところだった。
さて、本題ののテレビ番組の内容は、葉緑体を持つ植物と動物の両方の特長を備えたミドリムシの食物や燃料としての利用の可能性について紹介されていたのだが、ここでもCO2温暖化対策が登場してくる。ミドリムシを生産して食料や燃料にすることでCO2削減に貢献できるという話題である。
燃料としてなら、つまり化石燃料の代替としてなら、実効性はともかく、CO2削減と結びつけるのもわからないでもないが、食料としての段階でCO2削減に結びつけるというのはあまりにも牽強付会としか言いようがない。CO2の吸収速度が早いというのだが、食用にして食べてしまうのであれば、そんなことはCO2削減と何の関係もない。普通なら「成長が速い」というべきところを「CO2の吸収が速い」と言い換えたのであろう。利用という面からは「成長が速い」という方がよほど意味深いと思う。専門の権威ある科学者がそんな話題に共感するとすればまさに興ざめである。
予想しないでも無かったが、ここで福岡先生によるCO2温暖化の解説が始まる。「いのちドラマチック」という訳のわからない番組のタイトルも関係しているようだ。つまり番組の趣旨が何なのかわからないのである。融通無碍ともいえるが。
それはともかく、ここでの教授の説明もまたさらに興ざめそのものだった。それは、数十万年前から現在に至るまでを通してのCO2濃度のグラフを元にしての説明で、この数十万年をとおして、この18世紀ころから急激に大気中CO2濃度が一方的に増加し、過去数十万年を通して一度も達したことがない400ppmに近づきつつある。従って大気中CO2濃度の増加が人為的な原因によるもので温暖化の原因でもあるというものである。
この種のデータあるいはグラフに問題があることは筆者も何度もブログで触れている。例えば、http://d.hatena.ne.jp/quarta/20110401#1301656569 。この機会にもう一度この問題を掘り下げてみたい。
基本的に重要な問題は、このグラフでは十万年を超える前から現在にいたるまで一つづきのグラフで表現されているのだが、横軸の同じ長さの時間スケールが地質時代と18世紀以降ではまったく異なっている。その差は100倍くらい異なっているであろう。当然測定方法のみならず測定手続き、測定サンプル事体がまったく異なることはもちろんであり、その種のことにまったく疑問を持たないか言及しないとすれば科学の専門家の態度としては問題があると言わざるを得ないのである。あらゆる測定は測定方法と切り離すことはできないからである。
筆者の知見によれば、この種のグラフには少なくとも3通りのまったく異なった測定が繋ぎ合わされている。いずれも根本順吉氏の著書で知り得たものである。
一つは1958年から1988年までの間、キーリングという科学者がハワイのマウナロア山頂で定期的に測定を始めた連続的なデータである。
次は18世紀から前記1958年までのデータで、これは根本順吉氏の著書では南極のデータとなっているので、氷からサンプリングしたものかも知れないが、詳しくは書かれていない。この間の増加率は、前記1950年代以降の急激な増加に比べると著しく緩慢である。
もう一つは「南極のボストーク基地で得られた2000メートルの氷柱の分析から、過去16万年の気候変化が明らかにされたことである」。この分析では「1m毎にとったサンプルを真空中でくだき、そこからとりだした過去の時代の大気成分について、ガス・クロマトグラフィーを用いた分析が行われ、CO2の変化が明らかにされた」。
16万年で2000メートルとすると、1mあたり80年になる。つまり、この間のCO2濃度は80年間の平均を意味している。80年の間には、キーリングの分析が始まった1958年から現在までの約50年はすっぽり入ってしまう。
現在気象庁などで行なっている分析データは月単位で公表されている。キーリングの分析もそのようで、実際、年間における月単位の数値の変化は結構大きく、夏と冬とではかなりの差があり、曲線はギザギザになっているのが普通である。
以上の事実から、先ほどのグラフから単純に現在と10万年前とで比較できないことは明らかだが、以上の事実を知らなくても、この種のことはグラフ横軸の時間スケールの違いからも疑いを持つのが科学者であれば当然ではなかろうかと思うのである。私自身は、根本氏の本を読んでいなければ気づかなかったかも知れない。
改めて思うことだが、あらゆる測定には異なる時間が関わっていることに思い知らされなければならない。
最初に書いたことだが、これは少しでも専門を外れた分野の問題に言及する場合には特に重要な問題だと思う。素人にとって以上に、他分野あるいは隣接分野の科学者には気を使ってもらいたいものだと思う。
個人的に、あまり専門性を強調したくはないと思う。私自身、事実上すべての化学分野で素人である。ただし、権威ある科学の専門家が専門科学者の資格で権威を背景に科学の問題を語る時、やはり専門外の問題を語ることは控えることが良心的といえるのではないかと思う。もちろん一概に言うことはできない。
少なくとも聴衆、受け取る側はこのことを十分に意識すべきだろう。
(蛇足)先日この番組を見た日、外出したら、直ぐ近くの自然食品の店に張り紙がしてあるにに気がついた。曰く、「みどりむし入荷しました」。
2012年2月14日火曜日
「再生」と「再生可能」および「エネルギー」と「エネルギー資源」
前回2度目に「再生可能エネルギー」の言葉上の問題を取り上げたときは、「可能」と「可能性」とのニュアンスの違いについて述べましたが、この件では「再生」と「再生可能」との違いについても考える必要があるようです。
前回考えたように、「可能」という言葉には主語としての人間の存在が暗黙のうちに想定されていると言えます。人間の能力として、あるいは人為的に、あるいは任意に可能というニュアンスがあり、総体的に「任意に可能」であることが本来の「可能」の意味ではないでしょうか。
それに対し、「可能」がとれた単なる「再生」エネルギーの場合は印象として「自然に再生する」という意味になるように思われます。風力と太陽光の場合は、どちらかと言えばこちらのほうがより適切といえるかも知れません。
この場合あくまでも再生を自然に頼るわけですから、任意に利用が可能というわけには行かないことが意識されるように思います。
また、さらに、この場合は再び「エネルギー」と「エネルギー資源」の違いが問題になってくるように思われます。
前回、エネルギーとエネルギー資源の違いについて言及した際、エネルギー資源は再生し得るがエネルギーそのものは再生不可能であるといった原理的なことに言及した次第ですが、それよりも実際的な、言葉の効果といった面で重要な違いがあるように思われます。
「エネルギー資源」という場合、それがあくまでも資源にとどまっており、エネルギーとして利用する前段階であることが意識されるはずです。つまり、実際に使用可能なエネルギーに変換する工程の存在が意識されるはずなのですが、単に「エネルギー」では、その部分が見えなくなってしまい、天然のエネルギー資源がそのままエネルギーとして利用できるかのような印象を与えるように思います。
結局、風力や太陽光の場合は「自然再生エネルギー資源」、バイオ燃料の場合は「人為再生可能エネルギー資源」と呼べば一応は納得できるように思います。もっとも化石燃料も広い意味で「自然再生エネルギー資源」に含まれるわけですが。前回も書いたように風力と太陽光の場合は気象エネルギーと呼ぶのが最もその性格をよく表すと思われることに変わりありません。
なお、この件で前回、「再生可能」に対応する英語をreproducible と考えましたが、それは間違いでrenewableのようです。語感としてはたしかに「自然再生」に近いかなという印象はあります。
またウィキペディアを見ると「広義には、太陽・地球物理学的・生物学的な源に由来し、自然界によって利用する以上の速度で補充されるエネルギー全般を指す」というIPCCで用いられているという定義が紹介されていますが、これもあくまでIPCCの定義であり、各国各団体によって定義の仕方は様々なようです。
特に、「利用する以上の速度で補充される」とはどういう意味なのかまったくわかりません。少なくとも現在、風力も太陽光も一定の場所で利用せざるを得ないわけですが、いずれも天候によって刻々と変化する風や太陽光にこのようなことがどうして言えるのか、意味不明としか言いようがありません。
いずれにせよ、「再生エネルギー」、「再生可能エネルギー」という言葉があまりにも安易に使われ、あたかもそれが倫理的に優れたエネルギー資源であるかのような印象を伴いながら善意あると思われる人々によって頻繁に使われていることにやりきれない思いがします。
前回考えたように、「可能」という言葉には主語としての人間の存在が暗黙のうちに想定されていると言えます。人間の能力として、あるいは人為的に、あるいは任意に可能というニュアンスがあり、総体的に「任意に可能」であることが本来の「可能」の意味ではないでしょうか。
それに対し、「可能」がとれた単なる「再生」エネルギーの場合は印象として「自然に再生する」という意味になるように思われます。風力と太陽光の場合は、どちらかと言えばこちらのほうがより適切といえるかも知れません。
この場合あくまでも再生を自然に頼るわけですから、任意に利用が可能というわけには行かないことが意識されるように思います。
また、さらに、この場合は再び「エネルギー」と「エネルギー資源」の違いが問題になってくるように思われます。
前回、エネルギーとエネルギー資源の違いについて言及した際、エネルギー資源は再生し得るがエネルギーそのものは再生不可能であるといった原理的なことに言及した次第ですが、それよりも実際的な、言葉の効果といった面で重要な違いがあるように思われます。
「エネルギー資源」という場合、それがあくまでも資源にとどまっており、エネルギーとして利用する前段階であることが意識されるはずです。つまり、実際に使用可能なエネルギーに変換する工程の存在が意識されるはずなのですが、単に「エネルギー」では、その部分が見えなくなってしまい、天然のエネルギー資源がそのままエネルギーとして利用できるかのような印象を与えるように思います。
結局、風力や太陽光の場合は「自然再生エネルギー資源」、バイオ燃料の場合は「人為再生可能エネルギー資源」と呼べば一応は納得できるように思います。もっとも化石燃料も広い意味で「自然再生エネルギー資源」に含まれるわけですが。前回も書いたように風力と太陽光の場合は気象エネルギーと呼ぶのが最もその性格をよく表すと思われることに変わりありません。
なお、この件で前回、「再生可能」に対応する英語をreproducible と考えましたが、それは間違いでrenewableのようです。語感としてはたしかに「自然再生」に近いかなという印象はあります。
またウィキペディアを見ると「広義には、太陽・地球物理学的・生物学的な源に由来し、自然界によって利用する以上の速度で補充されるエネルギー全般を指す」というIPCCで用いられているという定義が紹介されていますが、これもあくまでIPCCの定義であり、各国各団体によって定義の仕方は様々なようです。
特に、「利用する以上の速度で補充される」とはどういう意味なのかまったくわかりません。少なくとも現在、風力も太陽光も一定の場所で利用せざるを得ないわけですが、いずれも天候によって刻々と変化する風や太陽光にこのようなことがどうして言えるのか、意味不明としか言いようがありません。
いずれにせよ、「再生エネルギー」、「再生可能エネルギー」という言葉があまりにも安易に使われ、あたかもそれが倫理的に優れたエネルギー資源であるかのような印象を伴いながら善意あると思われる人々によって頻繁に使われていることにやりきれない思いがします。
2012年2月5日日曜日
「可能性」の可能性、多様性
(先回、「再生可能エネルギー」の意味論めいたものを書きましたが、その続編です)
前回は主として「エネルギー」を「エネルギー資源」とすべきだという趣旨に重点を置いていたと言え、そのため「再生可能」の「可能」の意味についての掘り下げが不足していたように思う。
「再生可能」の構成要素である「再生」の方も相当にあいまいで怪しげな言葉である。元来日本語の「再生」は生物学用語なのではないだろうか。「再生可能エネルギー」の場合の再生は生物学的に使われているとは思えない。かといって物理学的でも化学的でもない。それはともかく、今問題にしたいのは「可能」の方である。
「再生可能」は英語のreproducibleに相当すると考えてよさそうだが、英語の接尾辞ableは日本語では、「可能」よりも「可能性がある」に近いように思われる。だいたい可能性を表す場合、日本語では基本的に可能動詞を使うのが本来だろうし、英語でも助動詞を使う場合が多く、さまざまなニュアンスで語られるものであり、微妙な表現を要求されるものなのである。
とりあえず今は「可能である」と「可能性がある」との違いについて考えてみたい。
どちらも専門用語のように厳密に意味が定められているわけではないだろうが、端的に言って「可能である」は正確には「任意に可能である」に近いと思われる。それに対して「可能性がある」は、「可能な場合もあり得る」に近いといっても良いだろうと思う。
つまり、一方の極に「任意に可能である」があり、もう一方の極に「可能な場合もあり得る」という意味があり、単に「可能である」は「任意に可能である」に近く、「可能性がある」は「可能な場合もあり得る」に近いと思われるのである。
「任意に可能である」とは、具体的には主語、この場合は人間の意志によって任意に可能という意味で良いと思われる。その気になればいつでも可能ということである。一方、「可能な場合もあり得る」の「場合」を考えてみみると、これは実に多様であり、時間的、空間的、その他千差万別の条件であることがわかる。
例えば、風力を考えてみた場合、実用的には一定の地点における「再生」を考える必要がある。つまり、かなり長期間の平均を取ってみれば、場所により、再生は「任意に可能」に近づくが、秒~時間~日単位の平均をとれば「可能な場合もある」にとどまり、安定した再生はむしろ「不可能」と言うべきである。太陽光も同様である。どちらも天然の気象に依存しているからである。
一方の対極にあると思われている、すなわち「再生可能」ではないとされている石油の場合、一定地点、発電所などの使用現場における供給は、条件が整えば、秒単位ではもちろん日単位、月単位、あるいは年単位でも継続使用が可能であろう、ということは ― 使用現場における刻一刻の ― 再生が可能だということである。もちろんそれには一定の条件が必要だが、少なくとも現時点では人為的な努力でそれが可能だということである。
化石燃料の場合は埋蔵量の問題とともに、天然に生成する地点における自然再生が可能かどうかという問題は石炭を除いてまだ解明されていないようである。しかしいずれも過去にそれらの資源が生成したメカニズムが今も継続していないとはいえない。燃料ではないが、石灰岩など、今も海の中でさんご礁や貝殻の沈殿物が元になって遠い将来の生成過程に繋がっている。
金やレアメタルなど希少元素にしても、人間が消費した所で地球上から消えるわけでもない。金は消費するうちに拡散する分があるにしても、基本的に昔からリサイクルが常識である。資源のリサイクルは最近のエコ思想、運動に始まるわけでは全くない。
エネルギーは消費されるが、エネルギー資源はすべて何らかの意味で自然再生しているといえる(核燃料を除いて)。もちろんその大本はすべて太陽に由来する。
上記(エネルギーは消費されるがエネルギー資源は何らかの形で再生し得るということ)を考慮すれば、エネルギーとエネルギー資源は厳密に区別する必要があるといえる。
バイオ、とくに栽培植物、穀物や、海藻、藻類などの場合は人間の栽培によるのであるから、明らかに人為的再生が可能といえる。しかし、必ずしも任意とは言えず、一定の条件が必要なことは言うまでもない。まあ強いて言えば、常識的な判断で「再生可能」という言葉がニュアンス的に最も相応しいのはこの種の資源のことと言えるかも知れない。
以上のような次第で、いずれにせよ、事実上あらゆるエネルギー資源は「再生可能エネルギー」資源ということになるのであり、その「可能性」は各エネルギー資源の性質により千差万別としか言い様がなく、「再生可能」なる区分はまやかし以外の何者でもない。今とくに問題になっている風力発電と太陽光発電を一緒にする必要があるのであれば「気象エネルギー」が適当であろう。水力の場合はもう少し長期的に考える必要があり、気候エネルギーと呼べないこともない。いずれにせよ、具体的に風力発電、太陽光発電、水力発電と呼ぶに越したことはないのである。
ちなみに、
ウィキペディアで見たのだが、食用塩に「天然塩」とか「自然塩」と表示することは公正取引委員会で禁止されているそうである。また、「ミネラル豊富を意味する表記は不当表示となる」そうである。これに対比するに、「自然エネルギー」や「再生可能エネルギー」のような用語が法律に使われるという現実をどう考えれば良いのであろうか。
前回は主として「エネルギー」を「エネルギー資源」とすべきだという趣旨に重点を置いていたと言え、そのため「再生可能」の「可能」の意味についての掘り下げが不足していたように思う。
「再生可能」の構成要素である「再生」の方も相当にあいまいで怪しげな言葉である。元来日本語の「再生」は生物学用語なのではないだろうか。「再生可能エネルギー」の場合の再生は生物学的に使われているとは思えない。かといって物理学的でも化学的でもない。それはともかく、今問題にしたいのは「可能」の方である。
「再生可能」は英語のreproducibleに相当すると考えてよさそうだが、英語の接尾辞ableは日本語では、「可能」よりも「可能性がある」に近いように思われる。だいたい可能性を表す場合、日本語では基本的に可能動詞を使うのが本来だろうし、英語でも助動詞を使う場合が多く、さまざまなニュアンスで語られるものであり、微妙な表現を要求されるものなのである。
とりあえず今は「可能である」と「可能性がある」との違いについて考えてみたい。
どちらも専門用語のように厳密に意味が定められているわけではないだろうが、端的に言って「可能である」は正確には「任意に可能である」に近いと思われる。それに対して「可能性がある」は、「可能な場合もあり得る」に近いといっても良いだろうと思う。
つまり、一方の極に「任意に可能である」があり、もう一方の極に「可能な場合もあり得る」という意味があり、単に「可能である」は「任意に可能である」に近く、「可能性がある」は「可能な場合もあり得る」に近いと思われるのである。
「任意に可能である」とは、具体的には主語、この場合は人間の意志によって任意に可能という意味で良いと思われる。その気になればいつでも可能ということである。一方、「可能な場合もあり得る」の「場合」を考えてみみると、これは実に多様であり、時間的、空間的、その他千差万別の条件であることがわかる。
例えば、風力を考えてみた場合、実用的には一定の地点における「再生」を考える必要がある。つまり、かなり長期間の平均を取ってみれば、場所により、再生は「任意に可能」に近づくが、秒~時間~日単位の平均をとれば「可能な場合もある」にとどまり、安定した再生はむしろ「不可能」と言うべきである。太陽光も同様である。どちらも天然の気象に依存しているからである。
一方の対極にあると思われている、すなわち「再生可能」ではないとされている石油の場合、一定地点、発電所などの使用現場における供給は、条件が整えば、秒単位ではもちろん日単位、月単位、あるいは年単位でも継続使用が可能であろう、ということは ― 使用現場における刻一刻の ― 再生が可能だということである。もちろんそれには一定の条件が必要だが、少なくとも現時点では人為的な努力でそれが可能だということである。
化石燃料の場合は埋蔵量の問題とともに、天然に生成する地点における自然再生が可能かどうかという問題は石炭を除いてまだ解明されていないようである。しかしいずれも過去にそれらの資源が生成したメカニズムが今も継続していないとはいえない。燃料ではないが、石灰岩など、今も海の中でさんご礁や貝殻の沈殿物が元になって遠い将来の生成過程に繋がっている。
金やレアメタルなど希少元素にしても、人間が消費した所で地球上から消えるわけでもない。金は消費するうちに拡散する分があるにしても、基本的に昔からリサイクルが常識である。資源のリサイクルは最近のエコ思想、運動に始まるわけでは全くない。
エネルギーは消費されるが、エネルギー資源はすべて何らかの意味で自然再生しているといえる(核燃料を除いて)。もちろんその大本はすべて太陽に由来する。
上記(エネルギーは消費されるがエネルギー資源は何らかの形で再生し得るということ)を考慮すれば、エネルギーとエネルギー資源は厳密に区別する必要があるといえる。
バイオ、とくに栽培植物、穀物や、海藻、藻類などの場合は人間の栽培によるのであるから、明らかに人為的再生が可能といえる。しかし、必ずしも任意とは言えず、一定の条件が必要なことは言うまでもない。まあ強いて言えば、常識的な判断で「再生可能」という言葉がニュアンス的に最も相応しいのはこの種の資源のことと言えるかも知れない。
以上のような次第で、いずれにせよ、事実上あらゆるエネルギー資源は「再生可能エネルギー」資源ということになるのであり、その「可能性」は各エネルギー資源の性質により千差万別としか言い様がなく、「再生可能」なる区分はまやかし以外の何者でもない。今とくに問題になっている風力発電と太陽光発電を一緒にする必要があるのであれば「気象エネルギー」が適当であろう。水力の場合はもう少し長期的に考える必要があり、気候エネルギーと呼べないこともない。いずれにせよ、具体的に風力発電、太陽光発電、水力発電と呼ぶに越したことはないのである。
ちなみに、
ウィキペディアで見たのだが、食用塩に「天然塩」とか「自然塩」と表示することは公正取引委員会で禁止されているそうである。また、「ミネラル豊富を意味する表記は不当表示となる」そうである。これに対比するに、「自然エネルギー」や「再生可能エネルギー」のような用語が法律に使われるという現実をどう考えれば良いのであろうか。
2012年1月12日木曜日
「再生可能エネルギー」の意味 ― 「胡散臭い」ひびき?
再生可能エネルギーという言葉が使われる頻度が着実に増してきているようだ。
去年、この言葉を使用した法律案が提出される頃の話、ある日曜日、昼のテレビ番組でコメンテーターのK氏がこの法案について「胡散臭い」という表現をしていたのが記憶に残っている。
たしかに、脈絡なしでこの言葉を聞いただけでも何か胡散臭いという感じがする言葉である。もちろんこのような言葉はいくらでもある。極端な話、言葉、言語そのものが胡散臭いといえば言えないこともないが、それを言ってしまえばお終いということになろう。
ともかく法律にまで使われている言葉である。きちんと意味を明らかにしておく必要がある筈である。
ちょうど昨日読み終わった書物、内橋克人著「浪費なき成長」に、この言葉が次のように定義されている。
「地球の自然環境のなかで繰り返し再生している現象を利用する無限に近いエネルギー。風力や、バイオマス、太陽光・熱発電など」
この定義は一応、論理的な定義であると思う。これによれば「再生可能」というのは「自然現象」にかかる修飾語であり、エネルギー自体を修飾しているのではないことがわかる。しかし普通に使われている「再生可能エネルギー」あるいは「再生エネルギー」という言葉をそのまま聞いた印象ではエネルギー自体が再生されるとかいう意味になり、実際多くの人はそのような印象を受けるであろう。
この場合、エネルギーという言葉が物理的なエネルギーを指していることに疑う余地はないが、物理的なエネルギーについてはエネルギー保存の法則という大原則がある。その不滅である筈のエネルギーが再生するとか再生可能であるということの奇妙さがまずある。まだ「再生可能」ではなく「再利用可能」であれば何らかの意味があるのだが、それはこの場合当てはまらない。
次に、先の内橋氏の定義が正解であるとすればそのような現象、つまり風や太陽光・熱などが再生しているというのはわかるが、「再生可能」というのは意味不明ではないだろうか?風は地上の何処かで自然に吹き荒れているし、太陽光は常に何処かに降り注いでいる。何が「可能」だというのであろうか?「可能」をつけることにどの様な意味があるのだろうか?
いずれも自然に再生されているとは言えるが、また自然に途切れる場合もある。特定の場所で風は止むこともあり、太陽は雲に隠れることもある。それらのコントロールが「可能」であるならそれは大した技術であるといえるのだが。ちなみに水力はダムによってこのコントロールが可能になっていると言える。
要するに「再生」あるいは「再生可能」が自然現象にかかる修飾語であるとしてもおかしいし、エネルギーにかかる修飾語としてもおかしいのである。
結局この「エネルギー」を「エネルギー資源」とすれば分かりやすくなる。エネルギー資源を簡単にエネルギーと言うのだという事かもしれないが、エネルギーとエネルギー資源は全く異なった概念である。略称という考え方もあるが、略称の場合はちゃんとした正式な名称があってのことである。また「再生」であるのか「再生可能」であるのかも決まっていないようだ。
この場合は日本語と英語のニュアンスの違いによる面があるかも知れない。英語では恐らく「reproducible」に決まっているのだろう。
しかし端的に無尽蔵エネルギー資源とでも言えばそれで済むことではないだろうか、「再生可能エネルギー」とは何か思わせぶりで「胡散臭く」思われても仕方が無いだろう。とりあえず少なくとも「資源」を付けて「再生(可能)エネルギー資源」と呼ぶべきだろうと思う。
そこで「再生可能エネルギー資源」と変えた場合、印象はどの様に変わるだろうか?
単にエネルギーというのではなく「エネルギー資源」になると、かなり具体性が出てくるように思われる。そしてさらに具体的にその資源とは何をさすのであるかという問題が浮かび上がってくるように思われる。
この問題を考える場合に及んで始めて「再生」と「再生可能」との違いが意味を持つようになってくるといえる。太陽光や風力、あるいは水力の場合は「再生」という表現が最適であるとは思えないが、まあとりあえず自然に、不規則ではあるが「再生」されているとは言える。「再生可能」にあたるのはバイオ燃料のことであろう。とくに穀物や燃料用作物を栽培する場合は「可能」が重要な意味を帯びてくる。
天然林の薪などを使う場合はまたこの「可能」の意味合いも異なってくる。天然の森林は人間がコントロールして再生しているとは言えないからである。それでも常に再生はしている。
さらに、石油石炭、天然ガスなどの化石燃料の場合も「再生可能」ではなく自然に「再生」される範疇に入ると考えられる。ただし地質学的スケールで進行する現象だけに、人間的スケールでは「再生」とも「再生可能」とも言うことはできないということであろう。しかし埋蔵量のことなどを含め、わからないこと、解明されていないこと、あるいは隠されていること、公表されていないことなどが多すぎる。
この様に見てくると、事実上、すべてのエネルギー資源は再生エネルギー資源または再生可能エネルギー資源といって差し支えない。ところが、例の再生エネルギー関連の法律では事実上太陽光発電と風力発電のことを意味しているとみなさざるを得ない。再生可能エネルギー資源といってもその意味合いは千差万別であるから、この様なカテゴリーを使うことに科学的な意味は無いのである。
具体的に風力発電とか太陽光発電などといえば良いのである。風力発電と太陽光発電の2つをまとめる必要があるのであれば「気象エネルギー」という言い方が適当だと思われる。いずれも気象に左右されるからである。
いずれにしてもエネルギー資源を「再生可能エネルギー」と「非再生可能エネルギー」の2つに分ける二分法には何の意味もなく誤解や欺瞞が入り込む隙間だらけであるといえる。
2012年1月4日水曜日
元旦に見た報道番組2本の印象
(テーマ別に複数のブログサイトを持っているせいで、どのブログに投稿しようか迷うことがあります。今回の記事は特に迷いましたが、とりあえずここに落ち着きました)
1日の午後、NHKオンデマンドで衛星放送の報道系番組2本を続けて見た。1つは「ソビエト崩壊20年」という番組で、プーチンのロシアシリーズの1つである。国際共同制作というのでどういう意味があるのかと思ったが、Brook Lappingという名前が出ているだけで、何処の国のどういう団体であるのかも分からない。ネットで調べるとロンドンにあるイギリスのテレビ番組制作会社であることがわかった。このような場合、イギリスの制作会社であるBrook Lappingとの共同制作といえば良いのであって、何も国際共同制作などという大げさな言い方はしないほうが自然ではないのだろうかと不審に思う。見た印象では、実質的にBrook Lappingで制作された番組といって良さそうな感じだったが、最後の字幕をみると、結局はBrook Lappingで製作された番組の日本語版を日本で作成したというだけのように見える。英語版と日本語版以外にもあるのだろうが、別に日本のスタッフとは関係あるとは思えない。そうであるなら、イギリスのBrook Lapping制作番組の日本語版として放送すべきだろう。という次第で、世界的にマスコミの偏向報道が問題になっている昨今、こういう触れ込みでの放送は印象が悪い。内容的にどうこういうだけの見識を私は持たないが、ただ最近の日本のドキュメンタリーで過剰に使われる音楽が一切使われていなかっとことは気持ちが良かった。その分映像テクニックが目立ってくる。それとナレーションだ。ただ見終わっても大した充足感がない。断片的な映像や政治家の発言を切り離して参考に出来るだけの識見がある人が見ればそれなりに得るところがあるかも知れないが、結局ナレーターが話すストーリーと解釈を聞かされるだけという印象。
続いて見たもう一本は経済評論家の内橋克人氏への長時間インタビュー番組である。世界と日本の現在の政治と経済への批判が基調になっていて、いずれも納得できる内容で、大いに氏への共感が持たれるわけだが、その解決策として氏が提唱する「理念型経済」の説明のところまでくると、端的に言って失望である。「理念型経済」の思想そのもは個人的に良く理解していないし、おそらく豊かで示唆的なものを多く含むものであろうと推察するものの、具体的な方策となるともう、はっきり言ってエコロジー運動にみられる欺瞞をそのまま受け継いでいるように思えるからである。本ブログの先般の記事「梅棹忠夫著「文明の生態史観」再読で「エコ」運動について考える」で考察した大きな問題を孕んだところの、言葉を換えると、欺瞞に立脚したところのエコ思想そのものである。
内橋克人氏も少なくとも次の3つの大なる欺瞞をその思想の主要な砦としているように見える。すなわち、CO2温暖化論と放射線リスク直線仮説、そして太陽光発電と風力発電をメインとする「再生エネルギー」に対する過剰な期待である。少なくともこの3つを砦とせざるを得ないとすればそのような思想あるいは「理念」はかなりいい加減なものと言わざるを得ないと思う。
氏自身は「夢ものがたりと思われるかも知れないが」というが、遠い未来の夢物語でもそれはそれで「理念」として存在価値があるかも知れないが、欺瞞を根拠に現在でも実現可能というのであればそれは否定せざるを得ない。
この辺りが本来の自然科学者でも科学技術者でもない人文科学系の文化人の一つの限界のように思われる。もちろん絶対的な限界というわけではないものの、一つの壁かもしれない。
ネットで氏の「理念型経済」を検索してみると「浪費なき成長―新しい経済の起点」という氏の著書がアマゾンのサイトでヒットし、マーケットプレースに中古品が1円で出品されている。送料を入れて251円で購入できるので注文した。もうすこしこの辺りのことを考えてみたい。内橋克人氏のような人物がこういった欺瞞にしがみついているのは本当に残念なことだと思う。
2011年12月28日水曜日
梅棹忠夫著「文明の生態史観」再読で「エコ」運動について考える
(この記事は http://yakuruma.blog.fc2.com にて公開済みです)
CATEGORY: 読後メモ
DATE: 12/17/2011 15:47:19
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(この記事は最初、読後のちょっとしたメモとして、簡単に1日で仕上げるつもりでしたが、書き始めると一向にまとまらず、結果的にかなりの長期間にわたって筆者の時間を奪うものになってしまいました。またかなり長いものになってしまい、文脈的にも整合されたものになっていませんが、とりあえずこの辺りでひとまず打ち切ってアップしておきたいと思います。)
先月、表記の本が真新しい表紙で書店の文庫本コーナーで平積みにされているのを見て、他の購入予定であった本と併せて衝動的に購入してしまった。もちろんこの有名な著作のことは知っていたが、内容についてはっきりとした記憶がなかったので、この際読んでおこうという気になったのかもしれない。購入後数日たってから思い出したように読み始めたら非常に早く読める。一気に2日程で読んでしまったのだが、それもそのはずで、確かに昔、同じ内容を読んでいたのだった。しかし全く同じ本ではなかったように思う。章句を思い出したわけでもなかった。少なくともかつて読んだ本よりは、今回は分量が増えているようだ。前の本を捨てたはずは無いので、探せば見つかるだろうが、必要もないので探さなかった。ただちょっとネットで過去の版を調べるには調べてみた。
というわけで、大体の内容は過去に読んでいたのでそれを思い出したといっても良いのだが、しかし今回は再読したから思い出したのであって、「文明の生態史観」のコンセプトはこういうことだという概念が身についていたわけでもなかった。今回再読しなければ、「文明の生態史観」というタイトルを読むだけではその概念を思い起こすことはできなかった。
【文明の生態史観とエコロジー】
その程度の記憶ではあるが、それでも覚えていることと覚えていないことがある。あるいは今回の本に含まれていて以前の本には含まれていない内容があったことも確かである。どちらでも良いけれども、今回始めて気づいたことの一つは、著者の元来の専門分野が本来の、つまり生物学の一分野である生態学であったということだった。著者はよく、自分は理科系の出身であるということを発言されていたように思うけれども、実際どの分野であったのかは記憶がなかった。今回始めて、著者が生物学者として出発し、生態学が専門であったことに気づいた次第である。
今回、私がこのことに注目したのはやはり昨今、なにかと生態学、というよりエコロジーが問題になることが多く、私自身も関心を持ち、つい最近になって、特に最近の日本ではエコロジストとして言及されることの多い南方熊楠に関する本、それも特にエコロジーとの関連で、エコロジストとして南方熊楠をテーマとした本を2冊程読んだばかりでもあったからでもある。
梅棹忠夫自身はしかしエコロジーというカタカナ語はつかってはおらず、この本以外のところでも「エコロジー」について発現されているのを見たり聞いたりした記憶があまりない。どうも今流行のエコロジー運動とは無縁であった学者文化人であったように思う。という次第で、著者がエコロジー運動についてどういう考えていたのかに興味を持ち、詮索したくなったのである。
今回読んだ文庫本(中公文庫)には「生態史観から見た日本」という講義録が収録されているが、それには次に引用する章句が含まれている。
【文明の生態史観は「べき」、「ゾレン」、「当為」の議論ではない】
『しかし、読んでくださればわかるように、「生態史観」は「べき」の議論ではございません。それは、世界の構造とその形成過程の認識の理論であって、現状の価値評価ないしは現状変革の指針ではございません。それは、ザインの話であって、ゾレンの話ではないのであります。そこからは、どんなにきばってもみても、「べき」の話はでてこないのであります。』
『私はむしろ、そのような「べき」の立場にたたなかったからこそ、生態史観のようなものができたのであるとかんがえているのです。わたしにも、一般的な実践について、あるいは「べき」について関心や意見がまったくないわけではありません。しかし、この問題に関しては、わたしはやはり、区別ははっきりしておいたほうがいいとおもうのです。』
『ところが、「生態史観」を発表して以来、よせられた反響のひじょうにたくさんの部分が、この「べき」を問題にしているのであります。』
『生態史観というようなものは、私は、なによりも単なる知的好奇心の産物であるとかんがえています。』
以上に引用した個所は非常に重要な問題を含んでいるように思われる。端的に言って著者の考え方は正しいと思う。「べき」の問題、つまり倫理や政治的な問題は学問的、とくに科学的な問題とは区別しなければならない。
但し著者自身は、「区別ははっきりしておいたほうがいいとおもう」とは言うもののそれに対してそれ以上に熱を入れて非難することもなく、そういう傾向を打破すべく活動を始めることもなく、その事自体に興味を持って次のように考察を始める。
【政治と知識人】
「わたしはむしろ、日本の知識人たちが、理論的関心よりも、実践的関心のほうを、よりつよくもっているという現象そのものに興味をそそられるのであります。」
という文脈につらなり、知識人のこういう態度を日本とヨーロッパに共通する特徴であるとして「文明の生態史観」のなかに、知識人の「生態」とは言わないまでも学問的姿勢を組み込むような考察を始める。そして「生態史観の応用的展開の一部としての比較知識人論、ないしは比較教育論へのいとぐちにすることができるかもしれないと、こうおもうのであります」という抱負を語ることでこの講義を終えている。
ただここで、著者は考察をさらに進めるにあたって「べき」の問題、「当為の主張」の問題を「政治指向」の問題に置き換えている。「当為の主張」という広い範囲の問題を政治の問題に限定あるいは狭めているとも言えるが、問題をそらせている訳ではないし、政治が重要な問題であることには変わりがない。
なお、著者は当為を表す言葉として最初にカッコつきの「べき」という言葉を使い、次にドイツ語のゾレンをつかい、あとから「当為」という言葉を使っているが、この記事では以降「当為」を使うことにしたい。
【「文明の生態史観」と「エコロジー思想、運動」との平行関係】
この「比較知識人論」の契機になった問題というのは、著者が提起した「文明の生態史観」に対する知識人側からの反響であった。著者自身が純粋に知的好奇心の産物と考えていた生態史観に、現状の価値評価ないしは現状変革の指針を見ようとした知識人層を見てのことであって、今問題になっているエコロジーの問題、エコロジー思想やエコロジー運動については何も語っていない。
けれども、著者の生態史観も、世界的なエコロジー思想や運動も共に、基本的に、言葉どおり生物学の生態学に由来しているわけであるから「文明の生態史観」とエコロジー思想との間に何らかの並行的な見方ができる筈である。
すなわち、梅棹忠夫はその本来の専攻分野である生物学の一部門である生態学から出発し、それを人間の歴史に応用して「文明の生態史観」を提起したが、一方でちょう時期的にもそれと平行して同じ生物学の生態学をやはり人間に関する問題に応用したと言えるエコロジー思想あるいはエコロジー運動が展開してきたと見ることができるわけで、見方によっては同じ生態学に由来し、それを人間に適用する際の二通りの道が示されたとも言える(二通りしかあり得ないという意味ではなく)。
そして、著者がその一方の道として提起した「文明の生態史観」に対する反響が「知識人の政治指向」に由来するものであると著者が考えたわけだが、その同じ「知識人の政治指向」が、文明の生態史観と平行して展開していたエコロジー運動に大きく関わっていたと見ることができるわけである。
【文化系知識人が目立つエコロジー運動】
そう考えるには当然、根拠がある。著者がここで知識人と言っているのは主として人文科学系の知識人のことを指しているといって間違いはないだろう。エコロジー運動の方も、推進しているのは、少なくとも日本の学者知識人でエコロジー思想を喧伝しているのは、目立つのは社会学者や文化人類学者など文化系の学者や文化人の方である。
【当為の主張が入ることでエコロジーが文化系知識人のものになった】
専門的な生態学や地球科学系の出身者よりもむしろ社会学者や文化人類学者やその他の文化系学者、あるいはジャーナリストなどの活動が目立っている。またエコロジー運動の活動家は学者というよりも文字どおりに「活動家」でしかないようなケースも多いだろうし、知性派的な芸術家や芸能人の創作活動に取り込まれたりという場合も多い。職業的な芸術家や芸能人の創作活動とは即ビジネスである。当然いずれも生物学や地球化学を基礎とした生態学や環境科学の本格的知識を持っているとは思えない。もちろん中にはそれなりの勉強をしている人もいると信じるが、あくまで当為が先に立ち、偏見のない自由な、それこそ純粋な知的好奇心から勉強をしているとは考えられない。そのような立場の人の場合は当然、当為、「べき」の方が出発点になっているからである。
つまり、人文科学系出身の学者や芸術家や芸能人などが本来の生態学や地球科学を専門的に勉強することがあっても、エコロジー運動からその分野に入って行く場合はもはや先入観を持たずに純粋な知的興味から知識を取り入れることができにくくなくなっているのである。もちろんこれは傾向としてである。
【本来のエコロジー以外の自然科学者が主導するエコロジー運動】
また自然科学系の知識人であってもエコロジー運動に積極的に関わっている人物はむしろ本来の生態学や地球化学からは隔たった分野の専門家が多いように思われる。例えば今エコロジー運動の最たるものは地球温暖化対策という問題といってよいと思われるが、私見では地球温暖化問題に最も関係の深い自然科学の特定分野があるとすればそれは地球化学をおいて他にはないと思っている。もちろん気象学も、気象学がその一分として含まれると言われる地球物理も関係が深いが、地球化学はそれらをも包含するものだと思う。もちろん、生態学もそれなりの関わり型で関係していることも確かである。
ところが、自然科学系の専門家で、特にエコロジー的な発想で地球温暖化対策に熱心で発言機会が目立つのは計算科学者、物理学者、原子力工学の出身者などで、本来の生態学者も地球化学者も、あるいは地球物理、地質学など地球科学一般の専門家も一向に目立つところに姿を現さないように見えるのである。もちろん政府所属の研究機関などに所属する専門家は別である。
【エコロジー思想に取り込まれた地球科学、特に温暖化問題】
それはこういうことだと思う。地球温暖化問題がエコロジー問題となることで、この問題を扱うのに最も相応しい分野は何かという問題からフォーカスが外されることになるのである。覆い隠されるとも言える。そこでこの問題に高い関心を持ち、エコロジー運動に熱心な他の分野の科学者が主導的な意見を主張することが不自然ではなくなる。この問題が、当為の議論を含むエコロジーの問題となり、エコロジストの扱うべき問題ということになり、「現状の価値評価」、「現状変革の指針」を含むエコロジーの権威が強調され、ありのままの現状認識の問題が副次的な問題とされてしまい、フォーカスを外されてしまうのである。こういう現象自体が梅棹忠夫のいう「知識人論」の対象となるような知識人の生態とも言えるような事態が生じている。
要するに自然科学系専門家の場合も人文系の学者や芸術家、芸能人の場合と同様である。
一般に自然科学者の間では、分野の違いによる専門の独立性を尊重する気風が文化系の学者よりも強いのではないかという印象がある。お互いの専門性を尊重し、他の専門分野に立ち入ることを差し控えるような傾向が強いのではないだろうか。その結果、自分の専門ではない分野については、自分の頭で考えることを放棄してしまうのは文化系の学者や芸術家の場合と変わらない場合も多いように思われる。むしろ学問的な専門分野を持たない一般人のほうが公平に、真実に近づきやすい面もないとは言えないと思う。
他方、政治の立場からすれば環境問題は重要な問題であり、政治が、環境問題への回答を自然科学の様々な分野に求めるのは当然のことである。当然、好むと好まざるとに関わらず、科学者も政治に向けて何らかの対応を迫られる。その相手は狭い意味の政治家に限らず、それ以上に行政組織、さらに利益団体とか、イデオロギー団体とか、活動家など、あらゆる政治的な立場から自然科学者の方に向けられる働きかけに対応せざるを得ない。
このように地球科学がエコロジーに取り込まれた、というか飲み込まれたような形になっているが、それは正当なことなのかが問題になってくるのである。
【物質科学、生命科学、人文科学、歴史と科学】
ここまで、梅棹忠夫の「文明の生態史観」と「エコロジー思想」とをただ、当為の立場に立っているかいないか、あるいは当為の立場であるか、単なる知的好奇心の立場からであるかという点における違いのみを問題にして比較してきた。著者は自らの生態史観を「世界の構造とその形成過程の認識の理論」であり、「現状の価値評価ないしは現状変革の指針」ではないと言っている。一方、エコロジー思想は「現状の価値評価ないしは現状変革の指針」に該当しているので、これまで見てきたようにこの2つの思想を単純に当為の立場であるか当為の立場を含まないかという点だけで比較してきたわけだが、それでもこれら2つの思想にはその点以外にも大きな違いがあり、またそれらのコンセプトには違いがありすぎるとも言える。
というのも、何よりも人間の当為の議論を含んだ、あるいは当為の指針を求めるとも言える「エコロジー思想」は、本気で考えればあまりにも、途方もなく壮大なものになる筈だからである。
「文明の生態史観」の方は、もちろんこれも壮大ではあるが、ただ生態学の方法を人類の歴史の理解に応用するということであって、地球全体としての理解などは含まれていない。ここでは地球環境は人類史の外部にあるシステムであって、地球環境への人間からの働きかけについては、基本的に考察の対象外であるように見える。
他方のエコロジー思想の方は恐らく、人間を含めた地球全体を人間の立場を離れて考察しようとする立場であろう。その中では自然に対する人間からの働きかけが含まれる。この辺りの事情から「地球に優しく」とか、「地球を愛する」とか、「地球が好きだ」とか、「すべてを地球のために」といったキャッチフレーズが飛び出すようになったのだろう。
しかし、生態学という生物学の段階ですでに生命現象を取り扱っているわけだが、人間活動をも含めるとなると、一体どうなることか。生物学の段階ですでに物理化学現象を主題として扱っているわけではなくなっている。それに人間の文明をも含めるとなると一体どういうことになるのだろう。
【歴史でつながる生物学と地球科学】
元来生物学には地球という概念は存在しない。少なくとも表面には登場せず、学問のテーマそのものではない。環境という概念なら当然、生態学にはあるのだろうが、しかしそれも主題ではなく、あくまで背景あるいはシステムの外にあることは「文明の生態史観」の場合と同じである。物理的な物体や化学的な物質を扱っているわけではない。地球を物理的な物体または化学的な物質として扱うのは地球物理や地球化学である。「文明の生態史観」が物理的、化学的な物質としての地球を研究対象とせず、またできないのと同様に、生物学の生態学も生態学の枠内で地球を物理科学的に研究することはできないのである。
ただ、地球科学には歴史の概念がある。地質学の目的は地球の歴史を明らかにするものであるという考え方がある。その地球には当然、生物と人間も含まれ、生物と人間が物質としての地球に何らかの足跡を残し、地球の歴史と重なる部分があることから伝統的に地球科学と生物学はつながってきたといえる。ダーウィンは地質学者として出発したが、生物の進化を研究することによって結果的に生物学者に転向したという事になった。
このように生物学と地球科学が繋がっているとはいえ、それはあくまでも別物が繋がっているだけであって、決して1つの纏まった統一体に統合されたものであるとは言えない。
もしも統一体であると言えるとすれば、空間的にも時間的にも、生物も人類も地球のごく一部として包含されることになる。しかし、地球を物理的な物体、化学的な物質として扱う地球科学が、生命や精神現象を扱う生物学や人文科学を包含することはできないことは言うまでもない。という次第で、地球科学と生物学はこれまで一体のものであったことはなく、なりそうにも思えない。
【エコロジーの現在と可能性または幻想】
ところが、エコロジー思想によって地球と生物、人類が一体のものとして把握できるような印象、気分が醸成されてきたように思われる。確かにこれは興味深い問題ではある。しかし精神的な要素を含めて地球全体を科学的に理解するような方法は現在存在しない。
精神的なものが物理現象に影響を与えることやその逆の現象について、例えば超心理学や物理学あるいは哲学的に研究されたり考究されたりしていることに関しては、色々と情報があり、興味深いことは確かである。しかし現在のエコロジー思想や運動に、すでにそういった方面の成果が取り入れられているわけではない。今のところ地球と生命を持つ生物、精神性を持つ人間を一体のものとして統一的に理解できるというのは幻想といったほうが良いのではないか。宗教的直感というものもあるかも知れないが、まあ今のところは幻想であり、少なくとも科学ではない。
要するに現在のエコロジー思想は、本来一体のものではない地球科学と生態学とが一体であるかのように装い、エコロジーを地球全体に拡張しているのだといえる。
【地球の人格化】
一方で、生態学に人間をも含めることになれば、梅棹忠夫の「文明の生態史観をも、またそれこそ「比較知識人論」まで、さらにありとあらゆる社会学的なものをも包含させなければならない。それは途方も無いことである。ところが現在のエコロジー運動は人間の歴史とか社会学とかではなく、当為の主張、あるいは政治的、倫理的なものの方に偏って取り込んできたといえる。その結果、地球の擬人化が始まった、というか、むしろ人格化が始まったとも言える。これは本来科学思想というか科学的言語全般に含まれている擬人的な要素とは別次元の擬人化あるいは人格化である。
大地の神格化なら古くからある。しかし今のエコロジー運動は神格化ではなく人格化に近い。
しかし現実に、表層で行われている議論は、実際に地球が神であるとか人間のような心を持っているかといった議論とは別の次元で行われている。というのは、現在のエコロジー運動が実際に地球が神であるとかまたは地球が心を持っているというようなことを認めた上で科学的議論をしているわけではないからである。少なくともIPCCのようなCO2温暖化説のオーソリティーがそのような議論をするわけもなく、一般の科学者でもCO2温暖化説を支持している層はとくに、神秘主義を批判することにも熱心である場合が多い。さらに工学的な発想が加わり、CO2を地中に圧入して自然をコントロールしようという、自然を改変することに批判的であるはずのエコロジー思想とは大いに矛盾しそうな発想を実行に移そうとする。
要するに、矛盾に満ちているのである。まともで論理的な議論が行われていないように見える。
【地球の人格化ないし神格化が当為と結びつく】
(この部分は再考の予定)
・・・・そういった諸々の結果、エコロジー思想を構成する当為の要素が、地球化学の問題であり、地球化学の問題として解釈できるはずであり、実際に解決済みである地球温暖化の原因論にまで影響力を行使しようとしているとも言えるのである。
もちろん一方で生態学的知見、他方で人間社会の福利、また信仰や精神性からの要請で自然保護や動物の愛護が主張されるのは自然なことであってそれはそれで尊重し、議論が必要であれば議論が必要なことは言うまでもない。しかし、梅棹忠夫が生態史観について述べたように、当為の問題と現象とははっきりと区別しなければならない。そうでなければ結果的に政治とビジネスに翻弄されることになる。現にそうなっているように見える。
地球化学は人間活動をも含めたすべての生命現象をもすべて化学現象に還元(還元という言葉に語弊があるとすれば、むしろ解消または消去)して地球全体を把握することと理解しており、今のところ地球全体を科学的に理解するには地球化学が最も適切な分野であると思われる。
【南方熊楠】
最初の方で触れたとおり、少し以前、南方熊楠の解説本を2冊ほど読んだ。鶴見和子著[南方熊楠」および中沢新一「森のバロック」。非常に難解だが、南方熊楠がこういった問題、つまり自然科学と人文科学の統一といった問題に迫っていることはなんとなくわかる。
しかし南方熊楠のエコロジー思想にそのような展開の可能性があるからと言って、熊楠思想の研究から現在の段階で政治的な当為が出てくるであろうか。
すでに見てきた通り、今の政治的なエコロジー運動は当為、倫理的な先入観による予断と偏見から客観的な地球科学ないし地球化学現象を歪めて解釈する可能性を孕み、政治とビジネスに翻弄される可能性が多々あるところの未熟で歪んだものである可能性が高く、現にCO2温暖化説という誤った学説を強硬にサポートし続けるという欺瞞に陥っている。それ以外にもそのような欺瞞が多々あるようなことが言われている。
ましてエコロジー思想家、活動家の多くは専門の生態学すなわち本来のエコロジーの専門家でもない場合が多いようなのだ
このような状況で、難解な南方熊楠の思想の研究が即、政治的に有効な運動に転化できるとはとても思えない。そこから地球温暖化の原因論に到達できるわけでもないし、エネルギー問題の技術的、経済的、政治的な解決策が得られるとも思えない。地球温暖化問題の場合はすでに地球化学的にメカニズムが明らかになっているのである
今必要なことはむしろ、現在の未熟なエコロジー思想による予断と偏見から地球科学ないし地球科学的知見、さらに本来の生態学を救出し、取り戻すことではないだろうか。
熊楠がエコロジーと民俗学の立場から神社合祀令の反対運動を行ったのは熊楠が精通していた森林のエコロジーと地域の民俗に直接関わる問題であって、同時に時の政府がそれを知らなかったからであると思う。それ以上でも以下でもないと思われる。熊楠の基本的な態度は恐らく純粋な知的好奇心を動機とした学問という、梅棹忠夫の立場に近いものではなかっただろうか。
難解な神秘思想で言葉で表現できないものであるからとも言われているが、南方熊楠がそういう体系を理論化しなかったのは、それが時期尚早であるか、あるいは学問としては不可能であると思ったのではないか。
少なくとも今の時点では、現象の理論と当為とを統一したように見えるエコロジー思想を現実の政治に持ち込むことは政治とビジネスのプロにに翻弄されるだけである。
もちろん学問とビジネスとの結びつきは避けることはできないし、必要である。しかしそれは目に見える形でなければならない。今のエコロジー運動ではそれが内在化されてしまうのである。
【理論を道徳的に判断するイデオロギーの可笑しさ】
今の地球温暖化問題はまさに「当為の主張」を含んだエコロジー思想が地球科学を飲み込むという無理な、少なくとも今の時点では途方もなく無理なことによって発生した歪のような印象である。その結果、一時はCO2温暖化説を否定することが悪徳であるかのような気風さえ醸し出されていた。
同じような現象が放射線問題でも出てきている。医学は元々、当為に関わる倫理的な要素に支配される。低線量の放射線リスクにしきい値があるという主張をすると、それだけで倫理にもとると受け取られかねない雰囲気が醸しだされている。
古くはマルサスの人口論が非人間的で非道徳的だという理由で非難されていたことがある。科学(技術ではない)と道徳を一緒くたにして議論をしてしまうイデオロギーの可笑しさ。そこに技術も加わる。
以上のような現状を見ると、梅棹忠夫が専門学者、あるいは科学者として、純粋に知的興味を動機として研究活動を行うことに強い意志とこだわりを持っていたことに、非常に重要な意味があるのではないかと思う。
【学問は最高の道楽―梅棹忠夫】
昨年出版された「梅棹忠夫語る」の第六章は「学問は最高の道楽である」という表題が付けられ、実際にその通りの意見が語られている。ポイントは、「学問は道楽である」ではなく「学問は最高の道楽である」ということである、つまり「最高の」が付けられていることは重要であると思う。いまそこまで意味を深く詮索する必要もないが、道楽としての学問がその純粋性を保証している面がある。
そのような純粋に知的興味から行う学問は、直接には社会に何ももたらさないように見える。またそう思われやすい。しかし芸術や芸能と同様、そういうものは人々の心を豊かにする上で不可欠のものである。梅棹忠夫が博物館づくりに奔走したのもそういう意味でのことであったように思われる。
筆者にとって梅棹忠夫の最大の功績と映るものは、「学問とは最高の道楽である」という生き方を、身をもって示したことにあるのではないかと思う。
【エコロジー思想へのあこがれ】
以上のように、当為の主張、指針を包含したエコロージー思想、運動の中に様々な矛盾と混乱を抱え込んでいることが見て取れるように思う。
しかしこのような現在のエコロジー思想ないし運動が多くの人々の心をとらえていることは重要な事実である。実際、科学と当為が統合されているように見えるエコロジー思想は1つの理想であり、究極の知識と言えるのかも知れない。理想的、究極のそれは人生の指針となり、生きがいとなり、絶望からの救済とも映る。
他方、「学問は最高の道楽」という梅棹忠夫の立場も1つの救済ではないだろうか。道楽は遊びとは少し異なったニュアンスがある。南方熊楠の態度も梅棹忠夫の立場と誓いものであったような気がする。
ところで、道楽とは何だろう?
CATEGORY: 読後メモ
DATE: 12/17/2011 15:47:19
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(この記事は最初、読後のちょっとしたメモとして、簡単に1日で仕上げるつもりでしたが、書き始めると一向にまとまらず、結果的にかなりの長期間にわたって筆者の時間を奪うものになってしまいました。またかなり長いものになってしまい、文脈的にも整合されたものになっていませんが、とりあえずこの辺りでひとまず打ち切ってアップしておきたいと思います。)
先月、表記の本が真新しい表紙で書店の文庫本コーナーで平積みにされているのを見て、他の購入予定であった本と併せて衝動的に購入してしまった。もちろんこの有名な著作のことは知っていたが、内容についてはっきりとした記憶がなかったので、この際読んでおこうという気になったのかもしれない。購入後数日たってから思い出したように読み始めたら非常に早く読める。一気に2日程で読んでしまったのだが、それもそのはずで、確かに昔、同じ内容を読んでいたのだった。しかし全く同じ本ではなかったように思う。章句を思い出したわけでもなかった。少なくともかつて読んだ本よりは、今回は分量が増えているようだ。前の本を捨てたはずは無いので、探せば見つかるだろうが、必要もないので探さなかった。ただちょっとネットで過去の版を調べるには調べてみた。
というわけで、大体の内容は過去に読んでいたのでそれを思い出したといっても良いのだが、しかし今回は再読したから思い出したのであって、「文明の生態史観」のコンセプトはこういうことだという概念が身についていたわけでもなかった。今回再読しなければ、「文明の生態史観」というタイトルを読むだけではその概念を思い起こすことはできなかった。
【文明の生態史観とエコロジー】
その程度の記憶ではあるが、それでも覚えていることと覚えていないことがある。あるいは今回の本に含まれていて以前の本には含まれていない内容があったことも確かである。どちらでも良いけれども、今回始めて気づいたことの一つは、著者の元来の専門分野が本来の、つまり生物学の一分野である生態学であったということだった。著者はよく、自分は理科系の出身であるということを発言されていたように思うけれども、実際どの分野であったのかは記憶がなかった。今回始めて、著者が生物学者として出発し、生態学が専門であったことに気づいた次第である。
今回、私がこのことに注目したのはやはり昨今、なにかと生態学、というよりエコロジーが問題になることが多く、私自身も関心を持ち、つい最近になって、特に最近の日本ではエコロジストとして言及されることの多い南方熊楠に関する本、それも特にエコロジーとの関連で、エコロジストとして南方熊楠をテーマとした本を2冊程読んだばかりでもあったからでもある。
梅棹忠夫自身はしかしエコロジーというカタカナ語はつかってはおらず、この本以外のところでも「エコロジー」について発現されているのを見たり聞いたりした記憶があまりない。どうも今流行のエコロジー運動とは無縁であった学者文化人であったように思う。という次第で、著者がエコロジー運動についてどういう考えていたのかに興味を持ち、詮索したくなったのである。
今回読んだ文庫本(中公文庫)には「生態史観から見た日本」という講義録が収録されているが、それには次に引用する章句が含まれている。
【文明の生態史観は「べき」、「ゾレン」、「当為」の議論ではない】
『しかし、読んでくださればわかるように、「生態史観」は「べき」の議論ではございません。それは、世界の構造とその形成過程の認識の理論であって、現状の価値評価ないしは現状変革の指針ではございません。それは、ザインの話であって、ゾレンの話ではないのであります。そこからは、どんなにきばってもみても、「べき」の話はでてこないのであります。』
『私はむしろ、そのような「べき」の立場にたたなかったからこそ、生態史観のようなものができたのであるとかんがえているのです。わたしにも、一般的な実践について、あるいは「べき」について関心や意見がまったくないわけではありません。しかし、この問題に関しては、わたしはやはり、区別ははっきりしておいたほうがいいとおもうのです。』
『ところが、「生態史観」を発表して以来、よせられた反響のひじょうにたくさんの部分が、この「べき」を問題にしているのであります。』
『生態史観というようなものは、私は、なによりも単なる知的好奇心の産物であるとかんがえています。』
以上に引用した個所は非常に重要な問題を含んでいるように思われる。端的に言って著者の考え方は正しいと思う。「べき」の問題、つまり倫理や政治的な問題は学問的、とくに科学的な問題とは区別しなければならない。
但し著者自身は、「区別ははっきりしておいたほうがいいとおもう」とは言うもののそれに対してそれ以上に熱を入れて非難することもなく、そういう傾向を打破すべく活動を始めることもなく、その事自体に興味を持って次のように考察を始める。
【政治と知識人】
「わたしはむしろ、日本の知識人たちが、理論的関心よりも、実践的関心のほうを、よりつよくもっているという現象そのものに興味をそそられるのであります。」
という文脈につらなり、知識人のこういう態度を日本とヨーロッパに共通する特徴であるとして「文明の生態史観」のなかに、知識人の「生態」とは言わないまでも学問的姿勢を組み込むような考察を始める。そして「生態史観の応用的展開の一部としての比較知識人論、ないしは比較教育論へのいとぐちにすることができるかもしれないと、こうおもうのであります」という抱負を語ることでこの講義を終えている。
ただここで、著者は考察をさらに進めるにあたって「べき」の問題、「当為の主張」の問題を「政治指向」の問題に置き換えている。「当為の主張」という広い範囲の問題を政治の問題に限定あるいは狭めているとも言えるが、問題をそらせている訳ではないし、政治が重要な問題であることには変わりがない。
なお、著者は当為を表す言葉として最初にカッコつきの「べき」という言葉を使い、次にドイツ語のゾレンをつかい、あとから「当為」という言葉を使っているが、この記事では以降「当為」を使うことにしたい。
【「文明の生態史観」と「エコロジー思想、運動」との平行関係】
この「比較知識人論」の契機になった問題というのは、著者が提起した「文明の生態史観」に対する知識人側からの反響であった。著者自身が純粋に知的好奇心の産物と考えていた生態史観に、現状の価値評価ないしは現状変革の指針を見ようとした知識人層を見てのことであって、今問題になっているエコロジーの問題、エコロジー思想やエコロジー運動については何も語っていない。
けれども、著者の生態史観も、世界的なエコロジー思想や運動も共に、基本的に、言葉どおり生物学の生態学に由来しているわけであるから「文明の生態史観」とエコロジー思想との間に何らかの並行的な見方ができる筈である。
すなわち、梅棹忠夫はその本来の専攻分野である生物学の一部門である生態学から出発し、それを人間の歴史に応用して「文明の生態史観」を提起したが、一方でちょう時期的にもそれと平行して同じ生物学の生態学をやはり人間に関する問題に応用したと言えるエコロジー思想あるいはエコロジー運動が展開してきたと見ることができるわけで、見方によっては同じ生態学に由来し、それを人間に適用する際の二通りの道が示されたとも言える(二通りしかあり得ないという意味ではなく)。
そして、著者がその一方の道として提起した「文明の生態史観」に対する反響が「知識人の政治指向」に由来するものであると著者が考えたわけだが、その同じ「知識人の政治指向」が、文明の生態史観と平行して展開していたエコロジー運動に大きく関わっていたと見ることができるわけである。
【文化系知識人が目立つエコロジー運動】
そう考えるには当然、根拠がある。著者がここで知識人と言っているのは主として人文科学系の知識人のことを指しているといって間違いはないだろう。エコロジー運動の方も、推進しているのは、少なくとも日本の学者知識人でエコロジー思想を喧伝しているのは、目立つのは社会学者や文化人類学者など文化系の学者や文化人の方である。
【当為の主張が入ることでエコロジーが文化系知識人のものになった】
専門的な生態学や地球科学系の出身者よりもむしろ社会学者や文化人類学者やその他の文化系学者、あるいはジャーナリストなどの活動が目立っている。またエコロジー運動の活動家は学者というよりも文字どおりに「活動家」でしかないようなケースも多いだろうし、知性派的な芸術家や芸能人の創作活動に取り込まれたりという場合も多い。職業的な芸術家や芸能人の創作活動とは即ビジネスである。当然いずれも生物学や地球化学を基礎とした生態学や環境科学の本格的知識を持っているとは思えない。もちろん中にはそれなりの勉強をしている人もいると信じるが、あくまで当為が先に立ち、偏見のない自由な、それこそ純粋な知的好奇心から勉強をしているとは考えられない。そのような立場の人の場合は当然、当為、「べき」の方が出発点になっているからである。
つまり、人文科学系出身の学者や芸術家や芸能人などが本来の生態学や地球科学を専門的に勉強することがあっても、エコロジー運動からその分野に入って行く場合はもはや先入観を持たずに純粋な知的興味から知識を取り入れることができにくくなくなっているのである。もちろんこれは傾向としてである。
【本来のエコロジー以外の自然科学者が主導するエコロジー運動】
また自然科学系の知識人であってもエコロジー運動に積極的に関わっている人物はむしろ本来の生態学や地球化学からは隔たった分野の専門家が多いように思われる。例えば今エコロジー運動の最たるものは地球温暖化対策という問題といってよいと思われるが、私見では地球温暖化問題に最も関係の深い自然科学の特定分野があるとすればそれは地球化学をおいて他にはないと思っている。もちろん気象学も、気象学がその一分として含まれると言われる地球物理も関係が深いが、地球化学はそれらをも包含するものだと思う。もちろん、生態学もそれなりの関わり型で関係していることも確かである。
ところが、自然科学系の専門家で、特にエコロジー的な発想で地球温暖化対策に熱心で発言機会が目立つのは計算科学者、物理学者、原子力工学の出身者などで、本来の生態学者も地球化学者も、あるいは地球物理、地質学など地球科学一般の専門家も一向に目立つところに姿を現さないように見えるのである。もちろん政府所属の研究機関などに所属する専門家は別である。
【エコロジー思想に取り込まれた地球科学、特に温暖化問題】
それはこういうことだと思う。地球温暖化問題がエコロジー問題となることで、この問題を扱うのに最も相応しい分野は何かという問題からフォーカスが外されることになるのである。覆い隠されるとも言える。そこでこの問題に高い関心を持ち、エコロジー運動に熱心な他の分野の科学者が主導的な意見を主張することが不自然ではなくなる。この問題が、当為の議論を含むエコロジーの問題となり、エコロジストの扱うべき問題ということになり、「現状の価値評価」、「現状変革の指針」を含むエコロジーの権威が強調され、ありのままの現状認識の問題が副次的な問題とされてしまい、フォーカスを外されてしまうのである。こういう現象自体が梅棹忠夫のいう「知識人論」の対象となるような知識人の生態とも言えるような事態が生じている。
要するに自然科学系専門家の場合も人文系の学者や芸術家、芸能人の場合と同様である。
一般に自然科学者の間では、分野の違いによる専門の独立性を尊重する気風が文化系の学者よりも強いのではないかという印象がある。お互いの専門性を尊重し、他の専門分野に立ち入ることを差し控えるような傾向が強いのではないだろうか。その結果、自分の専門ではない分野については、自分の頭で考えることを放棄してしまうのは文化系の学者や芸術家の場合と変わらない場合も多いように思われる。むしろ学問的な専門分野を持たない一般人のほうが公平に、真実に近づきやすい面もないとは言えないと思う。
他方、政治の立場からすれば環境問題は重要な問題であり、政治が、環境問題への回答を自然科学の様々な分野に求めるのは当然のことである。当然、好むと好まざるとに関わらず、科学者も政治に向けて何らかの対応を迫られる。その相手は狭い意味の政治家に限らず、それ以上に行政組織、さらに利益団体とか、イデオロギー団体とか、活動家など、あらゆる政治的な立場から自然科学者の方に向けられる働きかけに対応せざるを得ない。
このように地球科学がエコロジーに取り込まれた、というか飲み込まれたような形になっているが、それは正当なことなのかが問題になってくるのである。
【物質科学、生命科学、人文科学、歴史と科学】
ここまで、梅棹忠夫の「文明の生態史観」と「エコロジー思想」とをただ、当為の立場に立っているかいないか、あるいは当為の立場であるか、単なる知的好奇心の立場からであるかという点における違いのみを問題にして比較してきた。著者は自らの生態史観を「世界の構造とその形成過程の認識の理論」であり、「現状の価値評価ないしは現状変革の指針」ではないと言っている。一方、エコロジー思想は「現状の価値評価ないしは現状変革の指針」に該当しているので、これまで見てきたようにこの2つの思想を単純に当為の立場であるか当為の立場を含まないかという点だけで比較してきたわけだが、それでもこれら2つの思想にはその点以外にも大きな違いがあり、またそれらのコンセプトには違いがありすぎるとも言える。
というのも、何よりも人間の当為の議論を含んだ、あるいは当為の指針を求めるとも言える「エコロジー思想」は、本気で考えればあまりにも、途方もなく壮大なものになる筈だからである。
「文明の生態史観」の方は、もちろんこれも壮大ではあるが、ただ生態学の方法を人類の歴史の理解に応用するということであって、地球全体としての理解などは含まれていない。ここでは地球環境は人類史の外部にあるシステムであって、地球環境への人間からの働きかけについては、基本的に考察の対象外であるように見える。
他方のエコロジー思想の方は恐らく、人間を含めた地球全体を人間の立場を離れて考察しようとする立場であろう。その中では自然に対する人間からの働きかけが含まれる。この辺りの事情から「地球に優しく」とか、「地球を愛する」とか、「地球が好きだ」とか、「すべてを地球のために」といったキャッチフレーズが飛び出すようになったのだろう。
しかし、生態学という生物学の段階ですでに生命現象を取り扱っているわけだが、人間活動をも含めるとなると、一体どうなることか。生物学の段階ですでに物理化学現象を主題として扱っているわけではなくなっている。それに人間の文明をも含めるとなると一体どういうことになるのだろう。
【歴史でつながる生物学と地球科学】
元来生物学には地球という概念は存在しない。少なくとも表面には登場せず、学問のテーマそのものではない。環境という概念なら当然、生態学にはあるのだろうが、しかしそれも主題ではなく、あくまで背景あるいはシステムの外にあることは「文明の生態史観」の場合と同じである。物理的な物体や化学的な物質を扱っているわけではない。地球を物理的な物体または化学的な物質として扱うのは地球物理や地球化学である。「文明の生態史観」が物理的、化学的な物質としての地球を研究対象とせず、またできないのと同様に、生物学の生態学も生態学の枠内で地球を物理科学的に研究することはできないのである。
ただ、地球科学には歴史の概念がある。地質学の目的は地球の歴史を明らかにするものであるという考え方がある。その地球には当然、生物と人間も含まれ、生物と人間が物質としての地球に何らかの足跡を残し、地球の歴史と重なる部分があることから伝統的に地球科学と生物学はつながってきたといえる。ダーウィンは地質学者として出発したが、生物の進化を研究することによって結果的に生物学者に転向したという事になった。
このように生物学と地球科学が繋がっているとはいえ、それはあくまでも別物が繋がっているだけであって、決して1つの纏まった統一体に統合されたものであるとは言えない。
もしも統一体であると言えるとすれば、空間的にも時間的にも、生物も人類も地球のごく一部として包含されることになる。しかし、地球を物理的な物体、化学的な物質として扱う地球科学が、生命や精神現象を扱う生物学や人文科学を包含することはできないことは言うまでもない。という次第で、地球科学と生物学はこれまで一体のものであったことはなく、なりそうにも思えない。
【エコロジーの現在と可能性または幻想】
ところが、エコロジー思想によって地球と生物、人類が一体のものとして把握できるような印象、気分が醸成されてきたように思われる。確かにこれは興味深い問題ではある。しかし精神的な要素を含めて地球全体を科学的に理解するような方法は現在存在しない。
精神的なものが物理現象に影響を与えることやその逆の現象について、例えば超心理学や物理学あるいは哲学的に研究されたり考究されたりしていることに関しては、色々と情報があり、興味深いことは確かである。しかし現在のエコロジー思想や運動に、すでにそういった方面の成果が取り入れられているわけではない。今のところ地球と生命を持つ生物、精神性を持つ人間を一体のものとして統一的に理解できるというのは幻想といったほうが良いのではないか。宗教的直感というものもあるかも知れないが、まあ今のところは幻想であり、少なくとも科学ではない。
要するに現在のエコロジー思想は、本来一体のものではない地球科学と生態学とが一体であるかのように装い、エコロジーを地球全体に拡張しているのだといえる。
【地球の人格化】
一方で、生態学に人間をも含めることになれば、梅棹忠夫の「文明の生態史観をも、またそれこそ「比較知識人論」まで、さらにありとあらゆる社会学的なものをも包含させなければならない。それは途方も無いことである。ところが現在のエコロジー運動は人間の歴史とか社会学とかではなく、当為の主張、あるいは政治的、倫理的なものの方に偏って取り込んできたといえる。その結果、地球の擬人化が始まった、というか、むしろ人格化が始まったとも言える。これは本来科学思想というか科学的言語全般に含まれている擬人的な要素とは別次元の擬人化あるいは人格化である。
大地の神格化なら古くからある。しかし今のエコロジー運動は神格化ではなく人格化に近い。
しかし現実に、表層で行われている議論は、実際に地球が神であるとか人間のような心を持っているかといった議論とは別の次元で行われている。というのは、現在のエコロジー運動が実際に地球が神であるとかまたは地球が心を持っているというようなことを認めた上で科学的議論をしているわけではないからである。少なくともIPCCのようなCO2温暖化説のオーソリティーがそのような議論をするわけもなく、一般の科学者でもCO2温暖化説を支持している層はとくに、神秘主義を批判することにも熱心である場合が多い。さらに工学的な発想が加わり、CO2を地中に圧入して自然をコントロールしようという、自然を改変することに批判的であるはずのエコロジー思想とは大いに矛盾しそうな発想を実行に移そうとする。
要するに、矛盾に満ちているのである。まともで論理的な議論が行われていないように見える。
【地球の人格化ないし神格化が当為と結びつく】
(この部分は再考の予定)
・・・・そういった諸々の結果、エコロジー思想を構成する当為の要素が、地球化学の問題であり、地球化学の問題として解釈できるはずであり、実際に解決済みである地球温暖化の原因論にまで影響力を行使しようとしているとも言えるのである。
もちろん一方で生態学的知見、他方で人間社会の福利、また信仰や精神性からの要請で自然保護や動物の愛護が主張されるのは自然なことであってそれはそれで尊重し、議論が必要であれば議論が必要なことは言うまでもない。しかし、梅棹忠夫が生態史観について述べたように、当為の問題と現象とははっきりと区別しなければならない。そうでなければ結果的に政治とビジネスに翻弄されることになる。現にそうなっているように見える。
地球化学は人間活動をも含めたすべての生命現象をもすべて化学現象に還元(還元という言葉に語弊があるとすれば、むしろ解消または消去)して地球全体を把握することと理解しており、今のところ地球全体を科学的に理解するには地球化学が最も適切な分野であると思われる。
【南方熊楠】
最初の方で触れたとおり、少し以前、南方熊楠の解説本を2冊ほど読んだ。鶴見和子著[南方熊楠」および中沢新一「森のバロック」。非常に難解だが、南方熊楠がこういった問題、つまり自然科学と人文科学の統一といった問題に迫っていることはなんとなくわかる。
しかし南方熊楠のエコロジー思想にそのような展開の可能性があるからと言って、熊楠思想の研究から現在の段階で政治的な当為が出てくるであろうか。
すでに見てきた通り、今の政治的なエコロジー運動は当為、倫理的な先入観による予断と偏見から客観的な地球科学ないし地球化学現象を歪めて解釈する可能性を孕み、政治とビジネスに翻弄される可能性が多々あるところの未熟で歪んだものである可能性が高く、現にCO2温暖化説という誤った学説を強硬にサポートし続けるという欺瞞に陥っている。それ以外にもそのような欺瞞が多々あるようなことが言われている。
ましてエコロジー思想家、活動家の多くは専門の生態学すなわち本来のエコロジーの専門家でもない場合が多いようなのだ
このような状況で、難解な南方熊楠の思想の研究が即、政治的に有効な運動に転化できるとはとても思えない。そこから地球温暖化の原因論に到達できるわけでもないし、エネルギー問題の技術的、経済的、政治的な解決策が得られるとも思えない。地球温暖化問題の場合はすでに地球化学的にメカニズムが明らかになっているのである
今必要なことはむしろ、現在の未熟なエコロジー思想による予断と偏見から地球科学ないし地球科学的知見、さらに本来の生態学を救出し、取り戻すことではないだろうか。
熊楠がエコロジーと民俗学の立場から神社合祀令の反対運動を行ったのは熊楠が精通していた森林のエコロジーと地域の民俗に直接関わる問題であって、同時に時の政府がそれを知らなかったからであると思う。それ以上でも以下でもないと思われる。熊楠の基本的な態度は恐らく純粋な知的好奇心を動機とした学問という、梅棹忠夫の立場に近いものではなかっただろうか。
難解な神秘思想で言葉で表現できないものであるからとも言われているが、南方熊楠がそういう体系を理論化しなかったのは、それが時期尚早であるか、あるいは学問としては不可能であると思ったのではないか。
少なくとも今の時点では、現象の理論と当為とを統一したように見えるエコロジー思想を現実の政治に持ち込むことは政治とビジネスのプロにに翻弄されるだけである。
もちろん学問とビジネスとの結びつきは避けることはできないし、必要である。しかしそれは目に見える形でなければならない。今のエコロジー運動ではそれが内在化されてしまうのである。
【理論を道徳的に判断するイデオロギーの可笑しさ】
今の地球温暖化問題はまさに「当為の主張」を含んだエコロジー思想が地球科学を飲み込むという無理な、少なくとも今の時点では途方もなく無理なことによって発生した歪のような印象である。その結果、一時はCO2温暖化説を否定することが悪徳であるかのような気風さえ醸し出されていた。
同じような現象が放射線問題でも出てきている。医学は元々、当為に関わる倫理的な要素に支配される。低線量の放射線リスクにしきい値があるという主張をすると、それだけで倫理にもとると受け取られかねない雰囲気が醸しだされている。
古くはマルサスの人口論が非人間的で非道徳的だという理由で非難されていたことがある。科学(技術ではない)と道徳を一緒くたにして議論をしてしまうイデオロギーの可笑しさ。そこに技術も加わる。
以上のような現状を見ると、梅棹忠夫が専門学者、あるいは科学者として、純粋に知的興味を動機として研究活動を行うことに強い意志とこだわりを持っていたことに、非常に重要な意味があるのではないかと思う。
【学問は最高の道楽―梅棹忠夫】
昨年出版された「梅棹忠夫語る」の第六章は「学問は最高の道楽である」という表題が付けられ、実際にその通りの意見が語られている。ポイントは、「学問は道楽である」ではなく「学問は最高の道楽である」ということである、つまり「最高の」が付けられていることは重要であると思う。いまそこまで意味を深く詮索する必要もないが、道楽としての学問がその純粋性を保証している面がある。
そのような純粋に知的興味から行う学問は、直接には社会に何ももたらさないように見える。またそう思われやすい。しかし芸術や芸能と同様、そういうものは人々の心を豊かにする上で不可欠のものである。梅棹忠夫が博物館づくりに奔走したのもそういう意味でのことであったように思われる。
筆者にとって梅棹忠夫の最大の功績と映るものは、「学問とは最高の道楽である」という生き方を、身をもって示したことにあるのではないかと思う。
【エコロジー思想へのあこがれ】
以上のように、当為の主張、指針を包含したエコロージー思想、運動の中に様々な矛盾と混乱を抱え込んでいることが見て取れるように思う。
しかしこのような現在のエコロジー思想ないし運動が多くの人々の心をとらえていることは重要な事実である。実際、科学と当為が統合されているように見えるエコロジー思想は1つの理想であり、究極の知識と言えるのかも知れない。理想的、究極のそれは人生の指針となり、生きがいとなり、絶望からの救済とも映る。
他方、「学問は最高の道楽」という梅棹忠夫の立場も1つの救済ではないだろうか。道楽は遊びとは少し異なったニュアンスがある。南方熊楠の態度も梅棹忠夫の立場と誓いものであったような気がする。
ところで、道楽とは何だろう?
自然、または地球の「意味」と気象 ― 芸術が欺瞞に陥らないように
(この記事は http://yakuruma.blog.fc2.com にて公開済みです)
CATEGORY: 日常と社会
DATE: 10/23/2011 23:16:39
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自然、または特に昨今では地球という言葉で人々が意識する意味の範囲はその時どきの文脈で大きく異なる。人間を自然に含めるかという大問題はこの際、問わない。また生きた生物も含めないようにしよう。それでも状況によって自然の意味範囲は随分異なるものである。
ごく普通に自然という言葉を使う時、多くの場合は地表の環境、便利な定義を使えば「気象」に関わる範囲内といえるのではないだろうか。
少なくとも昼間はそうだろう。夜になって星空が見えるようになれば、宇宙の一部も視野に入ってくるかも知れない。まあだいたいそんなところだろう。要するに殆どの場合は目にみえる範囲しか入っていないのである。
このように考えると、昨今、「自然エネルギー」という言葉が意味するものが通常、風力と太陽光のエネルギーを意味するようになったことも納得できるというものである。だいたい気象に関わる範囲内の自然を単に「自然」と称しているといえよう。しかしそれが合理的であるということにはならない。
本来の自然、少なくとも「地球」全体を考えるのであれば、気象に関わる部分は表面のごく一部であることは自明のことである。マントルや地球の中心部まで行かずとも、地殻や地下資源、エネルギー関連では石炭石油も自然の一部である。ガンマ線やアルファ線などの放射線も自然の一部である。当然自然放射線も、宇宙線も紫外線も、太陽光と同様に自然の一部である。
多くの人にとって自然という言葉をつかうとき、実際に目にみえる部分あるいは五感の感覚で直接感じる部分しか視野になく、意識していないということを銘記すべきだろう。これは芸術家の場合も同様である。むしろ芸術家こそこの陥穽に陥りやすいのではないだろうか。
多くの芸術家はその限界に気づく機会が少ないのではないだろうか。であるからこそ科学が必要であり、また経済学や倫理学や社会科学が必要なのである。もちろん科学ですべて事足りるというわけではない。
視野の狭さは欺瞞につながる。芸術が欺瞞に陥る事なかれ。
この文章は今夜、NHK・Eテレの日曜美術館「風の彫刻家 新たな挑戦~新宮晋~」を見た後の感想の一部です。
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自然、または特に昨今では地球という言葉で人々が意識する意味の範囲はその時どきの文脈で大きく異なる。人間を自然に含めるかという大問題はこの際、問わない。また生きた生物も含めないようにしよう。それでも状況によって自然の意味範囲は随分異なるものである。
ごく普通に自然という言葉を使う時、多くの場合は地表の環境、便利な定義を使えば「気象」に関わる範囲内といえるのではないだろうか。
少なくとも昼間はそうだろう。夜になって星空が見えるようになれば、宇宙の一部も視野に入ってくるかも知れない。まあだいたいそんなところだろう。要するに殆どの場合は目にみえる範囲しか入っていないのである。
このように考えると、昨今、「自然エネルギー」という言葉が意味するものが通常、風力と太陽光のエネルギーを意味するようになったことも納得できるというものである。だいたい気象に関わる範囲内の自然を単に「自然」と称しているといえよう。しかしそれが合理的であるということにはならない。
本来の自然、少なくとも「地球」全体を考えるのであれば、気象に関わる部分は表面のごく一部であることは自明のことである。マントルや地球の中心部まで行かずとも、地殻や地下資源、エネルギー関連では石炭石油も自然の一部である。ガンマ線やアルファ線などの放射線も自然の一部である。当然自然放射線も、宇宙線も紫外線も、太陽光と同様に自然の一部である。
多くの人にとって自然という言葉をつかうとき、実際に目にみえる部分あるいは五感の感覚で直接感じる部分しか視野になく、意識していないということを銘記すべきだろう。これは芸術家の場合も同様である。むしろ芸術家こそこの陥穽に陥りやすいのではないだろうか。
多くの芸術家はその限界に気づく機会が少ないのではないだろうか。であるからこそ科学が必要であり、また経済学や倫理学や社会科学が必要なのである。もちろん科学ですべて事足りるというわけではない。
視野の狭さは欺瞞につながる。芸術が欺瞞に陥る事なかれ。
この文章は今夜、NHK・Eテレの日曜美術館「風の彫刻家 新たな挑戦~新宮晋~」を見た後の感想の一部です。
白洲正子の西行、ソローの森の生活、コンノケンイチの宇宙論 、・・・・― 読後、読書中断、読書中、その他予定など
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CATEGORY: 読後メモ
DATE: 10/02/2011 02:08:27
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このブログではこれまで毎回一応は1つのテーマでまとまった内容を書いているつもりだったので、今回のような日記風のまとまりのない記事はちょっとそぐわず、フェースブックの近況とかで書くのに向いているかもしれない。しかしすべて、一応は本と読書に関わることなので、読後メモのカテゴリーを含むこのブログで書くことにしようと思う。今のところフェースブックだけよりは多くの人の眼に触れることでもあり・・・。
白洲正子の「西行」は、この真夏から9月の中頃にかけて、だいたい毎夜、寝る前にシャワーを浴びてから髪が乾く程度の時間読んでいたように思う。髪が乾くといっても今のこの頭髪では数分間でしか無いが、別にきちんと測って決めていたわけでもない。ページ数で10ページ読めることはあまりなかったような気もする。こういう読み方だったので仕事で忙しかった時期も続けて読むことができた。予想よりも密度の濃い本で、引用された西行その他の短歌や文章も読みつけていない古文なので難しい。やはり自分にとって古文は難しいことを思い知らされた。一口に古文といっても難しさは千差万別である。必ずしも旧いほうが難しいというわけでもないだろう。西行の場合は一部のよく知られた歌を除いて、歌も文章も相当難しくて著者の白洲さんの解説なしには皆目分からない場合が多かった。西行個人の歴史を含め、歴史的な知識も相当必要である。その歴史的な知識をこの本でかなり教えられたことはありがたかった。ちょうど司馬遼太郎の小説やエッセーのような感じで西行の個人史を含め、当時の日本史が断片的に再現される用な感じ。そういえばこの本の文体、ではないが、手法とでもいうか、書き方は「街道をゆく」に似たところがあるように思われた。多面的で自由な書き方であるといえると思う。
この本の前にはやはり同じような時間帯に鶴見和子著、および中沢新一著それぞれの南方熊楠関連本を読んでいた。こちらの方は必ずしも寝る前の短時間というわけでもなかったが。これらの読後感はツイッターに一度簡単に書いた。もちろんその短かさに比例して軽い印象だったわけではない。とりあえずという形である。そのときのつぶやきをコピーすると次のとおり。yakuruma
2011.08.14 20:44
鶴見和子著「南方熊楠」と中沢新一著「森のバロック」を読了。両者ともに素晴らしい本でした。名著だと思います。それにしても同じ著者(後者ですが)による最近の対談本「大津波と原発」で感じられた軽薄さと粗雑さは一体、何によるものなのだろうか。 via ついっぷる/twipple
「西行」のあと、偶然の手伝いもあって、同じ時間帯にソローの「森の生活」を読み始めた。偶然の手伝いというのは、たまたま大型書店の玄関先に設営していた古書コーナーで、250円の岩波文庫版を見つけて衝動買いをした結果である。何夜か読んだあと、翻訳だから仕方がないとも言えるが、文体が馴染めなくなった。思いついてグーグルを検索したら英語の原文は無料で読める。しかもイラスト付き原本の画像データもテキストデータも選択できる。しかし、この時間にはパソコンで読みたくないし、辞書も引きっぱなしというのも辛い。そこで今は電子書籍用端末かスマートフォンの選択のことで結構頭が一杯になっている。別にこの本を読みたいというわけではなく多目的で購入を検討している電子書籍向きのタブレット端末のことに気を取られてしまうのである。
それはそうと、西行とソローとの間の共通点または異質点を考えるのも面白いと思う。興味深い点は個人よりもむしろ社会的なものだ。ソローにとっては絶対に選択することはできなかったが、西行が選択できた出家という選択肢は当時の日本の支配階級に特有の制度だったような気がするが、この出家という制度は実に興味深いものに思われる。仏教国にはどこにもあるかもしれないが、しかし当時の日本の出家はインドやネパールやタイの出家とも随分異なっているのではないだろうか。日本文化と深い関係がありそうだ。
そうこうしているうちに、7、8、9月、と途絶えることがなく結構忙しかった仕事が一段落して時間ができたので、懸案の書籍をアマゾンに注文したのである。コンノケンイチ著「宇宙論の超トリック暗黒物質の正体」という本である。発刊されたのは数ヶ月前で、宣伝を見てかなり買う気になっていたのだが、店頭に置いている書店があまり見つからず、当時の財政事情もあり、購入を控えたいた処をこのような次第で他の2冊と一緒に注文した。
他の2冊というのは、カントの純粋理性批判の岩波文庫版とハイデッガーの存在と時間のちくま文庫版、何れも上巻のみである。これらは昔からいつかは読む気でいたのだが、読める状況になってから購入するつもりでいた。いつまでたっても読む状況にならず、今に至るまで購入する機会がなかった次第。今回、宅配注文ついでにとりあえず両方の上巻のみを購入しておこうという気になった。もっと具体的にこの両者を本気で読む気になったきっかけは、2年ほど前に1年位の期間をかけてカッシーラーの「シンボル形式の哲学」をひと通り、少なくとも字面を読んだ事による。この本は何らかの形で、両者の影響を受けていると言われることも、当然、1つの理由であり、一方その後、この書物の翻訳者である木田元氏の最近の著書を何冊かまとめて読んだことによる影響もある。実は氏がハイデッガーの専門家で権威でもあるということなど、それまで知らなかった。ハイデッガーその人についても正直言ってそれまでそれほど予備知識も興味もなかったのである。もちろん、カントの方はそうでもなかったが。
という状況で、昨日の土曜日は金曜日に到着した3点の書籍の中からコンノケンイチ氏の本を読むのに費やし、半分くらいまでを読み、さらに巻末にある著者と副島隆彦氏との対談を読んだ。
この本はアインシュタインの特殊相対性理論とビッグバン理論と、ホーキングの宇宙論を批判し、否定し、さらに著者独自の理論を展開した本であるが、特殊相対性理論と一般相対性理論を批判し、否定した本は昔、何冊か購入したことがある。まだパソコンもインターネットも普及していない頃だったが、少なくとも3冊ほどこの種の本を購入して、大雑把に読んだ経験がある。当時、コンノケンイチ氏の本も書店の店頭で何度も見ていたが、何故か、購入することはなかった。その後はあまりこの方面のことに興味を持たないようにし、この問題でそんなに何冊も本を購入する気もなくなっていたからかもしれない。ただ、この機会をきっかけに、特殊相対性理論が崩壊することに期待する気持ちを持ち始めたことは確かである。
という次第で、発刊のニュース以来、何れ購入するつもりでいたにせよ、先日注文することになった直接のきっかけは、もちろん、最近、多くのマスコミで伝えられた処の、高速を超えるニュートリノ粒子が発見されたとされるニュースである。今回このニュースが主要マスコミで伝えられ、世界的に話題になった理由の1つは間違いなく、この研究がCERNの大型加速器関連で行われた世界的な共同研究グループの研究と発表であったからだろうと思う。もしも、こういった発見が別の目立たないところで行われたとすれば、こんなにマスコミで取り上げられることはなかったのでは無いだろうか。
かつて読んだ何冊かのこの種の本を含め、この本の内容や最近の発見のニュース記事などの印象やそれらを読んで考えたことなど、また、別の場所でまとめてみたいと思う。ただ、1つ、今回改めて強く思い起こしたことは次のことである。カッシーラーの哲学ないし科学思想(すなわち、シンボル形式の哲学など)は今後、このような問題に係り合うに際しても、増々重要性を持つようになるのではないか、ということである。できればコンノケンイチ氏や対談をしている副島隆彦氏がカッシーラーの哲学についてどのように考えておられるか、あるいは考えられるかを知りたいものである。
もうひとつ、最初の「西行」に戻ってしまうが、この本で西行が平泉の藤原秀衡の下で義経に会っていたという話を始めて知った。会ったという証拠があるわけではないそうだが、状況から考えて会っていたに違いない。それにしてもこれまでに見たり聞いたりした義経の物語やドラマで義経と西行との邂逅の場面を見たことが無いのは何故なのだろうか、とふと思った。それで良いのかもしれないが、そういうことがあっても良いのではないかと思う。小説ではあるようだ。
何故か最近、義経のことが気になりだした。何故か、と書いたが、きっかけはある。去年だったか、義経伝説をかなり詳しく取り上げたブログ記事に遭遇したからである。http://intec-j.seesaa.net/category/8271869-1.html
このブログ記事では義経=ジンギスカン説とともに義経=清朝祖先説がかなり詳しく説明されていた。個人的にこういう諸説を多少とも具体的に知ったのは始めてであったので、この時には強い印象を受けた。それ以来、義経伝説も頭から離れない事柄の1つになっている。このブログの著者自身は、義経は少なくとも北海道までは落ち延びたということに80パーセントの信ぴょう性を感じているとのことだ。先ほどの相対性理論の問題などとは全く別の問題には違いないが、これもアカデミズムと諸説との関係という共通項はあるといえばある。
最近の読書体験という括りで、日記風に脈絡もなく書き連ねてきたが、日記のつもりでついでにもう一件、メモしておこう。今、最近リリースされたCDで、ピアニスト、バドゥラ=スコダがベートーベン作曲当時のピアノを用いて録音したピアノソナタ全集9枚組のボックスを購入したくなったのである。しかし3万円近くという価格に躊躇している。欲しい理由は3つある。一つは今だにベートーベンのピアノソナタ全曲を聴いたことがなく、全曲を聞きたいという思いは前からあった。次の一つは、フォルテピアノと呼ばれる旧い形式のピアノの音が好きだということ。ただ、ベートーベンの音楽をフォルテピアノで聞きたいとは思っていなかった。特にフォルテピアノの音色にとりつかれたのはシューベルトとシューマンの歌曲伴奏の音の美しさに魅了された時からだった。それでも幾つかのレビューを見てみるとフォルテピアノによるベートーベンも良さそうである。後の一つはバドゥラ=スコダというピアニストに信頼がおけること。このピアニストの演奏では、昔、LPレコードでシューベルトのピアノ曲のレコード1枚か2枚を購入して好感をもった以後、ラジオで何度か聞いたことがある程度である。これまで演奏批評とかレコード批評で、彼のベートーベン演奏の話題を見たり聞いたりした記憶がない。しかし信頼できるピアニストだと思えるし、ネットでレビューを見ても評判がいい。
・・・・・それにしても現代の日本人は忙しく、お金もかかる。一方で古典の西行も読まねばならず、一方でベートーベンを聴かねばならず・・・・。
CATEGORY: 読後メモ
DATE: 10/02/2011 02:08:27
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このブログではこれまで毎回一応は1つのテーマでまとまった内容を書いているつもりだったので、今回のような日記風のまとまりのない記事はちょっとそぐわず、フェースブックの近況とかで書くのに向いているかもしれない。しかしすべて、一応は本と読書に関わることなので、読後メモのカテゴリーを含むこのブログで書くことにしようと思う。今のところフェースブックだけよりは多くの人の眼に触れることでもあり・・・。
白洲正子の「西行」は、この真夏から9月の中頃にかけて、だいたい毎夜、寝る前にシャワーを浴びてから髪が乾く程度の時間読んでいたように思う。髪が乾くといっても今のこの頭髪では数分間でしか無いが、別にきちんと測って決めていたわけでもない。ページ数で10ページ読めることはあまりなかったような気もする。こういう読み方だったので仕事で忙しかった時期も続けて読むことができた。予想よりも密度の濃い本で、引用された西行その他の短歌や文章も読みつけていない古文なので難しい。やはり自分にとって古文は難しいことを思い知らされた。一口に古文といっても難しさは千差万別である。必ずしも旧いほうが難しいというわけでもないだろう。西行の場合は一部のよく知られた歌を除いて、歌も文章も相当難しくて著者の白洲さんの解説なしには皆目分からない場合が多かった。西行個人の歴史を含め、歴史的な知識も相当必要である。その歴史的な知識をこの本でかなり教えられたことはありがたかった。ちょうど司馬遼太郎の小説やエッセーのような感じで西行の個人史を含め、当時の日本史が断片的に再現される用な感じ。そういえばこの本の文体、ではないが、手法とでもいうか、書き方は「街道をゆく」に似たところがあるように思われた。多面的で自由な書き方であるといえると思う。
この本の前にはやはり同じような時間帯に鶴見和子著、および中沢新一著それぞれの南方熊楠関連本を読んでいた。こちらの方は必ずしも寝る前の短時間というわけでもなかったが。これらの読後感はツイッターに一度簡単に書いた。もちろんその短かさに比例して軽い印象だったわけではない。とりあえずという形である。そのときのつぶやきをコピーすると次のとおり。yakuruma
2011.08.14 20:44
鶴見和子著「南方熊楠」と中沢新一著「森のバロック」を読了。両者ともに素晴らしい本でした。名著だと思います。それにしても同じ著者(後者ですが)による最近の対談本「大津波と原発」で感じられた軽薄さと粗雑さは一体、何によるものなのだろうか。 via ついっぷる/twipple
「西行」のあと、偶然の手伝いもあって、同じ時間帯にソローの「森の生活」を読み始めた。偶然の手伝いというのは、たまたま大型書店の玄関先に設営していた古書コーナーで、250円の岩波文庫版を見つけて衝動買いをした結果である。何夜か読んだあと、翻訳だから仕方がないとも言えるが、文体が馴染めなくなった。思いついてグーグルを検索したら英語の原文は無料で読める。しかもイラスト付き原本の画像データもテキストデータも選択できる。しかし、この時間にはパソコンで読みたくないし、辞書も引きっぱなしというのも辛い。そこで今は電子書籍用端末かスマートフォンの選択のことで結構頭が一杯になっている。別にこの本を読みたいというわけではなく多目的で購入を検討している電子書籍向きのタブレット端末のことに気を取られてしまうのである。
それはそうと、西行とソローとの間の共通点または異質点を考えるのも面白いと思う。興味深い点は個人よりもむしろ社会的なものだ。ソローにとっては絶対に選択することはできなかったが、西行が選択できた出家という選択肢は当時の日本の支配階級に特有の制度だったような気がするが、この出家という制度は実に興味深いものに思われる。仏教国にはどこにもあるかもしれないが、しかし当時の日本の出家はインドやネパールやタイの出家とも随分異なっているのではないだろうか。日本文化と深い関係がありそうだ。
そうこうしているうちに、7、8、9月、と途絶えることがなく結構忙しかった仕事が一段落して時間ができたので、懸案の書籍をアマゾンに注文したのである。コンノケンイチ著「宇宙論の超トリック暗黒物質の正体」という本である。発刊されたのは数ヶ月前で、宣伝を見てかなり買う気になっていたのだが、店頭に置いている書店があまり見つからず、当時の財政事情もあり、購入を控えたいた処をこのような次第で他の2冊と一緒に注文した。
他の2冊というのは、カントの純粋理性批判の岩波文庫版とハイデッガーの存在と時間のちくま文庫版、何れも上巻のみである。これらは昔からいつかは読む気でいたのだが、読める状況になってから購入するつもりでいた。いつまでたっても読む状況にならず、今に至るまで購入する機会がなかった次第。今回、宅配注文ついでにとりあえず両方の上巻のみを購入しておこうという気になった。もっと具体的にこの両者を本気で読む気になったきっかけは、2年ほど前に1年位の期間をかけてカッシーラーの「シンボル形式の哲学」をひと通り、少なくとも字面を読んだ事による。この本は何らかの形で、両者の影響を受けていると言われることも、当然、1つの理由であり、一方その後、この書物の翻訳者である木田元氏の最近の著書を何冊かまとめて読んだことによる影響もある。実は氏がハイデッガーの専門家で権威でもあるということなど、それまで知らなかった。ハイデッガーその人についても正直言ってそれまでそれほど予備知識も興味もなかったのである。もちろん、カントの方はそうでもなかったが。
という状況で、昨日の土曜日は金曜日に到着した3点の書籍の中からコンノケンイチ氏の本を読むのに費やし、半分くらいまでを読み、さらに巻末にある著者と副島隆彦氏との対談を読んだ。
この本はアインシュタインの特殊相対性理論とビッグバン理論と、ホーキングの宇宙論を批判し、否定し、さらに著者独自の理論を展開した本であるが、特殊相対性理論と一般相対性理論を批判し、否定した本は昔、何冊か購入したことがある。まだパソコンもインターネットも普及していない頃だったが、少なくとも3冊ほどこの種の本を購入して、大雑把に読んだ経験がある。当時、コンノケンイチ氏の本も書店の店頭で何度も見ていたが、何故か、購入することはなかった。その後はあまりこの方面のことに興味を持たないようにし、この問題でそんなに何冊も本を購入する気もなくなっていたからかもしれない。ただ、この機会をきっかけに、特殊相対性理論が崩壊することに期待する気持ちを持ち始めたことは確かである。
という次第で、発刊のニュース以来、何れ購入するつもりでいたにせよ、先日注文することになった直接のきっかけは、もちろん、最近、多くのマスコミで伝えられた処の、高速を超えるニュートリノ粒子が発見されたとされるニュースである。今回このニュースが主要マスコミで伝えられ、世界的に話題になった理由の1つは間違いなく、この研究がCERNの大型加速器関連で行われた世界的な共同研究グループの研究と発表であったからだろうと思う。もしも、こういった発見が別の目立たないところで行われたとすれば、こんなにマスコミで取り上げられることはなかったのでは無いだろうか。
かつて読んだ何冊かのこの種の本を含め、この本の内容や最近の発見のニュース記事などの印象やそれらを読んで考えたことなど、また、別の場所でまとめてみたいと思う。ただ、1つ、今回改めて強く思い起こしたことは次のことである。カッシーラーの哲学ないし科学思想(すなわち、シンボル形式の哲学など)は今後、このような問題に係り合うに際しても、増々重要性を持つようになるのではないか、ということである。できればコンノケンイチ氏や対談をしている副島隆彦氏がカッシーラーの哲学についてどのように考えておられるか、あるいは考えられるかを知りたいものである。
もうひとつ、最初の「西行」に戻ってしまうが、この本で西行が平泉の藤原秀衡の下で義経に会っていたという話を始めて知った。会ったという証拠があるわけではないそうだが、状況から考えて会っていたに違いない。それにしてもこれまでに見たり聞いたりした義経の物語やドラマで義経と西行との邂逅の場面を見たことが無いのは何故なのだろうか、とふと思った。それで良いのかもしれないが、そういうことがあっても良いのではないかと思う。小説ではあるようだ。
何故か最近、義経のことが気になりだした。何故か、と書いたが、きっかけはある。去年だったか、義経伝説をかなり詳しく取り上げたブログ記事に遭遇したからである。http://intec-j.seesaa.net/category/8271869-1.html
このブログ記事では義経=ジンギスカン説とともに義経=清朝祖先説がかなり詳しく説明されていた。個人的にこういう諸説を多少とも具体的に知ったのは始めてであったので、この時には強い印象を受けた。それ以来、義経伝説も頭から離れない事柄の1つになっている。このブログの著者自身は、義経は少なくとも北海道までは落ち延びたということに80パーセントの信ぴょう性を感じているとのことだ。先ほどの相対性理論の問題などとは全く別の問題には違いないが、これもアカデミズムと諸説との関係という共通項はあるといえばある。
最近の読書体験という括りで、日記風に脈絡もなく書き連ねてきたが、日記のつもりでついでにもう一件、メモしておこう。今、最近リリースされたCDで、ピアニスト、バドゥラ=スコダがベートーベン作曲当時のピアノを用いて録音したピアノソナタ全集9枚組のボックスを購入したくなったのである。しかし3万円近くという価格に躊躇している。欲しい理由は3つある。一つは今だにベートーベンのピアノソナタ全曲を聴いたことがなく、全曲を聞きたいという思いは前からあった。次の一つは、フォルテピアノと呼ばれる旧い形式のピアノの音が好きだということ。ただ、ベートーベンの音楽をフォルテピアノで聞きたいとは思っていなかった。特にフォルテピアノの音色にとりつかれたのはシューベルトとシューマンの歌曲伴奏の音の美しさに魅了された時からだった。それでも幾つかのレビューを見てみるとフォルテピアノによるベートーベンも良さそうである。後の一つはバドゥラ=スコダというピアニストに信頼がおけること。このピアニストの演奏では、昔、LPレコードでシューベルトのピアノ曲のレコード1枚か2枚を購入して好感をもった以後、ラジオで何度か聞いたことがある程度である。これまで演奏批評とかレコード批評で、彼のベートーベン演奏の話題を見たり聞いたりした記憶がない。しかし信頼できるピアニストだと思えるし、ネットでレビューを見ても評判がいい。
・・・・・それにしても現代の日本人は忙しく、お金もかかる。一方で古典の西行も読まねばならず、一方でベートーベンを聴かねばならず・・・・。
自然とエネルギーの意味論
(この記事は http://yakuruma.blog.fc2.com にて公開済みです)
DATE: 06/24/2011 16:18:43
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自然とエネルギーという二つの言葉が飛び交っている。端的に言って「自然エネルギー」という熟語が飛び交っているが、キーワードとしては「自然」と「エネルギー」という二つの言葉として分析される事を、言葉自体が望んでいるかのように見える。とりあえず、「エネルギー」という言葉、概念について・・・。
(日常語あるいは政治経済的用語としてエネルギーという言葉は「エネルギー資源」と「動力源」との二つの意味で使用されているということ)
エネルギーという言葉は、歴史的にはともかく、現在では基本的に、日常語としても、物理学的な用語での意味が基礎となっているように思われる。非常に抽象的な概念だと思うが、更に抽象的に、哲学的な意味あるいは神秘的な意味を持たされる場合もあると言える。とにかく最高度に抽象的な言葉である。このエネルギーという言葉が日常語として、特に政治経済用語として盛んに用いられる用になったのそんなに古いことでは無いのではないだろうか。はっきりと記憶しているわけではないが、石炭や石油、或いは電力等の意味でこの言葉が使われるのを始めて体験したときには少し違和感を感じたような印象をもっている。今は誰もが極めて普通にこの言葉を使ってはいる。
つまり、エネルギーという言葉を燃料という意味で使っている訳である。しかし今は電力が活躍する時代であり、電力には水力も使われるので燃料を普遍的に表現するという意味でエネルギーという抽象的な言葉が使われるようになったのであろう。しかしエネルギーでは抽象化しすぎであるように思われる。最も適切な言葉は「エネルギー資源」であろう。要するにそこからエネルギーを得るところの資源である。エネルギーは修飾語であり、主体は資源である。資源というかなり具体的なものにエネルギーという最高度に抽象的な言葉を当てているところに違和感を感じたのでは無いかと思う。
しかしエネルギー問題におけるエネルギーのすべてがエネルギー資源の意味で使われているかというとそうでもない。エネルギーを取り出す資源を意味すると共に、取り出して使用する、更に具体的なエネルギーそのものに対しても使われていると考えられる。つまり、エネルギー資源ではなくエネルギーを消費する直前のエネルギーの状態を指す場合がある。電力そのものとか、自動車に使うガソリンとか、アルコールどか、家庭で使用する都市ガスなどである。都市ガスなどは殆ど元のエネルギー資源そのままである。
以上のとおり、エネルギー問題においてエネルギーと呼ばれているものには二つの意味があるのといえる。ただ実際のモノとしては同じものを指している場合もあるので、このことに気づきにくいのである。
一方の、エネルギー資源の意味でのエネルギーについて考えて見よう。前記のようにエネルギーという言葉がエネルギー資源のことを指していることに気がつけば、最近の政治経済上の焦点ともなっている「自然エネルギー」なる用語のおかしさにはすぐに気付くはずである。そもそも天然資源はすべて自然に由来する。エネルギー資源も同様である。先に例をあげた天然ガスなど、殆ど採掘されたそのままの状態で家庭に運ばれてエネルギー源となっている。風力と太陽光が自然で、天然ガスやいわゆる化石燃料が自然ではないとする区別する必然性は全くない。風力と太陽光を共通して特徴付ける要素があるとすれば、気象に由来し、左右されるという意味で気象エネルギー資源とでも言うべきだろうと思う。
自然と人工的あるいは人為的との区別が有効であるとすれば、それはエネルギー資源ではなく他方の、「エネルギーとして消費する直前のエネルギーの状態」の意味で使われる場合であろう。このように考えると、電力エネルギーはすべて人為的である。そもそも自然には電気エネルギーとして取り出せるものとしては雷ぐらいしか考えられない。雷を電力として利用しようなどと考える人はいないだろうから資源とは言えない。
電力以外の殆どは燃焼エネルギーであって、燃焼の工程が人為的であるとすれば、これも人為的エネルギーとなる。この意味で自然エネルギーといえるのは力学的エネルギーを粉ひきにそのまま利用している風車とか水車ぐらいで、現在では無視できる程度のものである。事実上、現在では、消費する直前のエネルギーはすべて人為的だと考えて良さそうである。
なぜ、発電向けエネルギー資源としての風力や太陽光が自然エネルギーと呼ばれるようになったのか、これを分析するには「自然」の意味論を展開しなければならない。簡単に済むよな問題ではないが、何となく、前回を含めてこれまでこのブログで取り上げてきたようにエコロジー思想が大きく関わっていることは想像がつく。すでに言ったことの繰り返しにすぎないが、科学と信仰あるいは宗教と政治ビジネスが複雑に絡み合っている問題であることは容易に想像がつく。
― 以上、とりあえず今回はエネルギーの意味の一端について考察してみました。
DATE: 06/24/2011 16:18:43
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自然とエネルギーという二つの言葉が飛び交っている。端的に言って「自然エネルギー」という熟語が飛び交っているが、キーワードとしては「自然」と「エネルギー」という二つの言葉として分析される事を、言葉自体が望んでいるかのように見える。とりあえず、「エネルギー」という言葉、概念について・・・。
(日常語あるいは政治経済的用語としてエネルギーという言葉は「エネルギー資源」と「動力源」との二つの意味で使用されているということ)
エネルギーという言葉は、歴史的にはともかく、現在では基本的に、日常語としても、物理学的な用語での意味が基礎となっているように思われる。非常に抽象的な概念だと思うが、更に抽象的に、哲学的な意味あるいは神秘的な意味を持たされる場合もあると言える。とにかく最高度に抽象的な言葉である。このエネルギーという言葉が日常語として、特に政治経済用語として盛んに用いられる用になったのそんなに古いことでは無いのではないだろうか。はっきりと記憶しているわけではないが、石炭や石油、或いは電力等の意味でこの言葉が使われるのを始めて体験したときには少し違和感を感じたような印象をもっている。今は誰もが極めて普通にこの言葉を使ってはいる。
つまり、エネルギーという言葉を燃料という意味で使っている訳である。しかし今は電力が活躍する時代であり、電力には水力も使われるので燃料を普遍的に表現するという意味でエネルギーという抽象的な言葉が使われるようになったのであろう。しかしエネルギーでは抽象化しすぎであるように思われる。最も適切な言葉は「エネルギー資源」であろう。要するにそこからエネルギーを得るところの資源である。エネルギーは修飾語であり、主体は資源である。資源というかなり具体的なものにエネルギーという最高度に抽象的な言葉を当てているところに違和感を感じたのでは無いかと思う。
しかしエネルギー問題におけるエネルギーのすべてがエネルギー資源の意味で使われているかというとそうでもない。エネルギーを取り出す資源を意味すると共に、取り出して使用する、更に具体的なエネルギーそのものに対しても使われていると考えられる。つまり、エネルギー資源ではなくエネルギーを消費する直前のエネルギーの状態を指す場合がある。電力そのものとか、自動車に使うガソリンとか、アルコールどか、家庭で使用する都市ガスなどである。都市ガスなどは殆ど元のエネルギー資源そのままである。
以上のとおり、エネルギー問題においてエネルギーと呼ばれているものには二つの意味があるのといえる。ただ実際のモノとしては同じものを指している場合もあるので、このことに気づきにくいのである。
一方の、エネルギー資源の意味でのエネルギーについて考えて見よう。前記のようにエネルギーという言葉がエネルギー資源のことを指していることに気がつけば、最近の政治経済上の焦点ともなっている「自然エネルギー」なる用語のおかしさにはすぐに気付くはずである。そもそも天然資源はすべて自然に由来する。エネルギー資源も同様である。先に例をあげた天然ガスなど、殆ど採掘されたそのままの状態で家庭に運ばれてエネルギー源となっている。風力と太陽光が自然で、天然ガスやいわゆる化石燃料が自然ではないとする区別する必然性は全くない。風力と太陽光を共通して特徴付ける要素があるとすれば、気象に由来し、左右されるという意味で気象エネルギー資源とでも言うべきだろうと思う。
自然と人工的あるいは人為的との区別が有効であるとすれば、それはエネルギー資源ではなく他方の、「エネルギーとして消費する直前のエネルギーの状態」の意味で使われる場合であろう。このように考えると、電力エネルギーはすべて人為的である。そもそも自然には電気エネルギーとして取り出せるものとしては雷ぐらいしか考えられない。雷を電力として利用しようなどと考える人はいないだろうから資源とは言えない。
電力以外の殆どは燃焼エネルギーであって、燃焼の工程が人為的であるとすれば、これも人為的エネルギーとなる。この意味で自然エネルギーといえるのは力学的エネルギーを粉ひきにそのまま利用している風車とか水車ぐらいで、現在では無視できる程度のものである。事実上、現在では、消費する直前のエネルギーはすべて人為的だと考えて良さそうである。
なぜ、発電向けエネルギー資源としての風力や太陽光が自然エネルギーと呼ばれるようになったのか、これを分析するには「自然」の意味論を展開しなければならない。簡単に済むよな問題ではないが、何となく、前回を含めてこれまでこのブログで取り上げてきたようにエコロジー思想が大きく関わっていることは想像がつく。すでに言ったことの繰り返しにすぎないが、科学と信仰あるいは宗教と政治ビジネスが複雑に絡み合っている問題であることは容易に想像がつく。
― 以上、とりあえず今回はエネルギーの意味の一端について考察してみました。
内田樹×中沢新一×平河克美著「大津波と原発」を読んで
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DATE: 06/09/2011 18:30:57
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BODY:
表記の本を購入し、先の週末に読み、今日ざっと繰り返して再読した。この4月5日にラジオ放送された鼎談に加筆修正された本であるとのことで、私は普段あまり新刊本を買う人間ではないのでこのような緊急出版という類の本は滅多に買わないのだが、この本を買ったのは第一に薄いペーパーバックで安い本であったこと(とは言っても収益の一部を被災地に寄付とのこと)もあるが、主に次のような理由による。ひとつはこの本の複数の著者に一定の関心があった事、もう一つは目次を見ると「エコロジーを超えて」という表現があり、それが気になったからである。というのも最近エコロジーについて考える事が多く、当ブログの前回記事でもエコロジーについて触れたからでもある。そういう事もあって、エコロジーの大家とも言える中沢氏がどのようなことを発言をされているかに興味が持たれたのである。
中沢新一氏の本は一冊半ほど読んだことがある。一冊というのは「チベットのモーツァルト」で、その感想は当ブログの初期にも書いたように、比較的近年になってのことで、文庫本が出ていたからでもある。もっと昔、中沢氏の新刊書を幾つか購入したり書店などで手に取ってみたことは何度もあるが、どうも難解で馴染めず、読み通せなかった。ただ、最近では南方熊楠に関心をもつエコロジーの喧伝者でもあるという印象が強かった。私自身はエコロジーに関心はあったものの、敬遠していたが、初期のチベットのモーツァルトをとにかく読み通し、難解ながらも一定の深い印象を与えられたことがあり、改めてその著者にも関心を持つようになっていたというところだろうか。
内田樹氏の本は一冊も読んだことは無かったが、断片的な文章はネットその他の媒体で読んだことはあった。中沢氏とは反対に、比較的平易な文章だと思っていたが、逆にそのために敬遠していた面がある。しかし人気の高い人であるだけに気にはなっていた。
この本を読む契機については以上の様なところである。そして読後の結果だが、興味深い論点あるいは思想的な断片とでもいうべきものがいくつかはあるが、一言で言って失望の方が大きかった。最後の方になるとむしろ不愉快にさえなってきたのである。
まず、対談だから仕方のない面もあるが、かなり軽率でいい加減な発言や意識が感じられた。例えば次のような発言がある。
中沢:原子力の開発の初期、放射性物質の研究をおこなっていたころのこと、キュリー夫人は身をもって、というか手づかみで実験して、最後は全身ガンだらけでなくなったそうですよ。
内田:そうでしたねえ。
キュリー夫人の娘が書いた彼女の伝記が今も手元にあったので確認して見たが、死因は赤血球と白血球が減少する貧血の一種で、骨髄の機能が放射線の影響を受けたのだろうということであった。ウィキペディアを見ても再生不良性貧血とあり、放射線の影響が疑われていることは確かであるが、全身ガンだらけというのは不適切というより、間違いというべきだろう。ラジオ放送の対談でもあり、多少は大まかな記憶をしゃべってしまうようなこともあろうが、一応後から加筆されている筈であるし、第一、問題が本書の基本テーマにも関わる内容である。私自身はちょうどこの対談が行われていた頃、キュリー夫人のことを思い出し、ウィキペディアで調べていたのである。私は他の大多数の人達と同様、職業学者でもなく、当然中沢氏のような思想史上の豊富な知識もないし、影響力もない。そういう殆どの人間にとってやはり気になるのは同じ科学でも核物理学よりも放射線医学の方であろう。そして私の場合、主としてインターネットに限られるが、低線量放射線のリスクの問題について多少の専門的な論文を含めて読んで見たのである。それは筆者の別のブログhttp://d.hatena.ne.jp/quarta/に報告している。これらの資料に当たってみて気付いたことは、私たちはいままで如何ににこの問題に付いて漠然としたイメージでしか知ることがなかったのかということに気付かされたことだと思っている。漠然としたイメージで単純に放射線は怖い、人間には相容れないものである、といった印象を持っていただけで、数値的なデータなどの具体的な事については何の知識もなかったのである。本書読後の印象では、著者の三氏ともにこの点では以前の私とそう変わらなかったのではないかと思われる。だからこそ、キュリー夫人の最後についてあのような思い違いをしていたのであろう。私自身にしても昔読んだ伝記であるから正確に記憶していたわけではないので、この機会に確認することがなければ、人に聞かれると中沢氏と同じような軽率な話をしたかも知れない。
これと関連するが、本書の初めのほうで中沢氏はこの頃「ずっと東京にいて原子核物理学の本を沢山読んでました。ですから気分的には、もう最前線にいたんですけれども。」と発言している。原子核物理学の本を沢山読むなら放射線医学の本はなぜ読まなかったのであろうか?と思うのである。もちろん読まれたのかも知れないが、放射線医学に興味をもち、キュリー夫人の話が出てくるくらいであれば、キュリー夫人の死因について調べ直すくらいのことは当然のことだと思えるのである。
中沢氏にしてみれば今回の原発問題をどうしても思想の問題として捉えなければならず、許容値とか閾値といった具体的な問題にかかずらうのは次元の低いことに思えたのであろう。「思想」の問題にするにはどうしても核物理学という高度で物質についての根源的とも言える学問分野でなければならなかったのだろう。しかしこの問題は国民の健康に関わる重大な問題である。「思想」にも影響を与えかねない問題なのである。
本書では確かに思想的に興味深い視点や論点が幾つか提示されている。後でそれについて私なりに検討しなければならないのだが、本書の最後の方で、思想の帰結という事になるのだろうが、その思想を実現する現実的な対応ないし行動という問題に及んでくると、「綠の党(みたいなもの)」の結党が提案されることになり、その内容はといえば、最初の方で暗示的に批判されていたとも受け止められる処の、現行の原子力と自然エネルギーとの二者択一の枠組みでの自然エネルギーを選択するという、現在巷間とネットを賑わしている論調に落ち着いているのである。それが技術的、経済的な合理的な根拠も示されずに提案されているところは、昨今の普通の(学者ではない)ジャーナリストや活動家や著述家らの主張、提言、提案と何ら変わるところがないのであり、ただ、自身がこれまで(そんなに本格的にでもなく)運動を進めてきたということを背景に、技術的・経済的な根拠も示さずにただ太鼓判を押すだけというのも同じなのである。「孫正義さんにお金を出して貰いましょう」という発言が飛び出してくることまでも全く同じである。
さて、その問題の「思想」については回を改めて検討して見たい。本書を読むことになった主な動機が中沢氏のエコロジーに対する考え方の変化についての興味にあったわけで、その点では期待どおり、エコロジーを中心に展開されていると言える。しかし、重要な点で、私の期待しているような方向とは基本的に正反対のようだ。
・・・・次回に続く予定。
DATE: 06/09/2011 18:30:57
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表記の本を購入し、先の週末に読み、今日ざっと繰り返して再読した。この4月5日にラジオ放送された鼎談に加筆修正された本であるとのことで、私は普段あまり新刊本を買う人間ではないのでこのような緊急出版という類の本は滅多に買わないのだが、この本を買ったのは第一に薄いペーパーバックで安い本であったこと(とは言っても収益の一部を被災地に寄付とのこと)もあるが、主に次のような理由による。ひとつはこの本の複数の著者に一定の関心があった事、もう一つは目次を見ると「エコロジーを超えて」という表現があり、それが気になったからである。というのも最近エコロジーについて考える事が多く、当ブログの前回記事でもエコロジーについて触れたからでもある。そういう事もあって、エコロジーの大家とも言える中沢氏がどのようなことを発言をされているかに興味が持たれたのである。
中沢新一氏の本は一冊半ほど読んだことがある。一冊というのは「チベットのモーツァルト」で、その感想は当ブログの初期にも書いたように、比較的近年になってのことで、文庫本が出ていたからでもある。もっと昔、中沢氏の新刊書を幾つか購入したり書店などで手に取ってみたことは何度もあるが、どうも難解で馴染めず、読み通せなかった。ただ、最近では南方熊楠に関心をもつエコロジーの喧伝者でもあるという印象が強かった。私自身はエコロジーに関心はあったものの、敬遠していたが、初期のチベットのモーツァルトをとにかく読み通し、難解ながらも一定の深い印象を与えられたことがあり、改めてその著者にも関心を持つようになっていたというところだろうか。
内田樹氏の本は一冊も読んだことは無かったが、断片的な文章はネットその他の媒体で読んだことはあった。中沢氏とは反対に、比較的平易な文章だと思っていたが、逆にそのために敬遠していた面がある。しかし人気の高い人であるだけに気にはなっていた。
この本を読む契機については以上の様なところである。そして読後の結果だが、興味深い論点あるいは思想的な断片とでもいうべきものがいくつかはあるが、一言で言って失望の方が大きかった。最後の方になるとむしろ不愉快にさえなってきたのである。
まず、対談だから仕方のない面もあるが、かなり軽率でいい加減な発言や意識が感じられた。例えば次のような発言がある。
中沢:原子力の開発の初期、放射性物質の研究をおこなっていたころのこと、キュリー夫人は身をもって、というか手づかみで実験して、最後は全身ガンだらけでなくなったそうですよ。
内田:そうでしたねえ。
キュリー夫人の娘が書いた彼女の伝記が今も手元にあったので確認して見たが、死因は赤血球と白血球が減少する貧血の一種で、骨髄の機能が放射線の影響を受けたのだろうということであった。ウィキペディアを見ても再生不良性貧血とあり、放射線の影響が疑われていることは確かであるが、全身ガンだらけというのは不適切というより、間違いというべきだろう。ラジオ放送の対談でもあり、多少は大まかな記憶をしゃべってしまうようなこともあろうが、一応後から加筆されている筈であるし、第一、問題が本書の基本テーマにも関わる内容である。私自身はちょうどこの対談が行われていた頃、キュリー夫人のことを思い出し、ウィキペディアで調べていたのである。私は他の大多数の人達と同様、職業学者でもなく、当然中沢氏のような思想史上の豊富な知識もないし、影響力もない。そういう殆どの人間にとってやはり気になるのは同じ科学でも核物理学よりも放射線医学の方であろう。そして私の場合、主としてインターネットに限られるが、低線量放射線のリスクの問題について多少の専門的な論文を含めて読んで見たのである。それは筆者の別のブログhttp://d.hatena.ne.jp/quarta/に報告している。これらの資料に当たってみて気付いたことは、私たちはいままで如何ににこの問題に付いて漠然としたイメージでしか知ることがなかったのかということに気付かされたことだと思っている。漠然としたイメージで単純に放射線は怖い、人間には相容れないものである、といった印象を持っていただけで、数値的なデータなどの具体的な事については何の知識もなかったのである。本書読後の印象では、著者の三氏ともにこの点では以前の私とそう変わらなかったのではないかと思われる。だからこそ、キュリー夫人の最後についてあのような思い違いをしていたのであろう。私自身にしても昔読んだ伝記であるから正確に記憶していたわけではないので、この機会に確認することがなければ、人に聞かれると中沢氏と同じような軽率な話をしたかも知れない。
これと関連するが、本書の初めのほうで中沢氏はこの頃「ずっと東京にいて原子核物理学の本を沢山読んでました。ですから気分的には、もう最前線にいたんですけれども。」と発言している。原子核物理学の本を沢山読むなら放射線医学の本はなぜ読まなかったのであろうか?と思うのである。もちろん読まれたのかも知れないが、放射線医学に興味をもち、キュリー夫人の話が出てくるくらいであれば、キュリー夫人の死因について調べ直すくらいのことは当然のことだと思えるのである。
中沢氏にしてみれば今回の原発問題をどうしても思想の問題として捉えなければならず、許容値とか閾値といった具体的な問題にかかずらうのは次元の低いことに思えたのであろう。「思想」の問題にするにはどうしても核物理学という高度で物質についての根源的とも言える学問分野でなければならなかったのだろう。しかしこの問題は国民の健康に関わる重大な問題である。「思想」にも影響を与えかねない問題なのである。
本書では確かに思想的に興味深い視点や論点が幾つか提示されている。後でそれについて私なりに検討しなければならないのだが、本書の最後の方で、思想の帰結という事になるのだろうが、その思想を実現する現実的な対応ないし行動という問題に及んでくると、「綠の党(みたいなもの)」の結党が提案されることになり、その内容はといえば、最初の方で暗示的に批判されていたとも受け止められる処の、現行の原子力と自然エネルギーとの二者択一の枠組みでの自然エネルギーを選択するという、現在巷間とネットを賑わしている論調に落ち着いているのである。それが技術的、経済的な合理的な根拠も示されずに提案されているところは、昨今の普通の(学者ではない)ジャーナリストや活動家や著述家らの主張、提言、提案と何ら変わるところがないのであり、ただ、自身がこれまで(そんなに本格的にでもなく)運動を進めてきたということを背景に、技術的・経済的な根拠も示さずにただ太鼓判を押すだけというのも同じなのである。「孫正義さんにお金を出して貰いましょう」という発言が飛び出してくることまでも全く同じである。
さて、その問題の「思想」については回を改めて検討して見たい。本書を読むことになった主な動機が中沢氏のエコロジーに対する考え方の変化についての興味にあったわけで、その点では期待どおり、エコロジーを中心に展開されていると言える。しかし、重要な点で、私の期待しているような方向とは基本的に正反対のようだ。
・・・・次回に続く予定。
政治とビジネスに取り込まれた科学
(この記事は http://yakuruma.blog.fc2.com にて公開済みです)
DATE: 04/29/2011 21:03:27
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今日、大型書店内の科学書籍の売り場を見回して気付いたことだが、「物理学」や「生物学」などは伝統に従って以前のように分類されているのだが、なぜか「環境」という分野がいやに幅をきかせている。そこではいまだにCO2温暖化説の新刊書が溢れている。「環境」という分類の他に「農業・環境」という分類もある。こういうのは単に「農学」でいいのではないか。なぜわざわざ「環境」をつける必要がある?それに比べて地球科学系の分野は「宇宙・気象」という分類の配下の小項目として地学と地球化学があるのみで地球化学も地質学もない。普通に自然を尊重する立場からの感覚では「宇宙・地球科学」とでも題した分類の配下に、気象学も入るのではないかと思われるのだが。
あまりにも実用と実利に傾きすぎているのではないかという印象。もとより人間生活を離れた純粋な自然科学というのもあり得ないにしても、こういった傾向は今のあまりにも政治とビジネスに取り込まれてしまった科学の現状を示しているのではないかという印象を受ける。
機械工学や電気工学は早くから工学として自然科学そのものから分けられてきた。それに比べると現今の自然科学における「環境」ののさばり方には辟易するものを感じる。まだ少し前はこの種の分野は「環境工学」として工学分野に入れられていたのではないだろうか。現今では工学よりもむしろビジネスと政治に傾いてきた結果、工学から離れてきたのだろうか。それならばこの種のものはビジネス書と政治書の棚に入れてしまえば良いのではないか。
自然を愛し、自然を科学したいのであれば地球科学を学び研究すればよい。地球科学にもいろいろ分野がある。地球物理学、地球化学、地質学、気象学、等々。
環境という言葉は人間中心の不純な概念であることに気付くべきではないだろうか。環境の科学は勿論大切なことである。しかし環境と言う概念は自然とも地球とも全くことなること、エコロジーとも全く異なること、この辺の整理がなければ今後のの科学の真の発展はないのではないかと思えるのだが。
DATE: 04/29/2011 21:03:27
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今日、大型書店内の科学書籍の売り場を見回して気付いたことだが、「物理学」や「生物学」などは伝統に従って以前のように分類されているのだが、なぜか「環境」という分野がいやに幅をきかせている。そこではいまだにCO2温暖化説の新刊書が溢れている。「環境」という分類の他に「農業・環境」という分類もある。こういうのは単に「農学」でいいのではないか。なぜわざわざ「環境」をつける必要がある?それに比べて地球科学系の分野は「宇宙・気象」という分類の配下の小項目として地学と地球化学があるのみで地球化学も地質学もない。普通に自然を尊重する立場からの感覚では「宇宙・地球科学」とでも題した分類の配下に、気象学も入るのではないかと思われるのだが。
あまりにも実用と実利に傾きすぎているのではないかという印象。もとより人間生活を離れた純粋な自然科学というのもあり得ないにしても、こういった傾向は今のあまりにも政治とビジネスに取り込まれてしまった科学の現状を示しているのではないかという印象を受ける。
機械工学や電気工学は早くから工学として自然科学そのものから分けられてきた。それに比べると現今の自然科学における「環境」ののさばり方には辟易するものを感じる。まだ少し前はこの種の分野は「環境工学」として工学分野に入れられていたのではないだろうか。現今では工学よりもむしろビジネスと政治に傾いてきた結果、工学から離れてきたのだろうか。それならばこの種のものはビジネス書と政治書の棚に入れてしまえば良いのではないか。
自然を愛し、自然を科学したいのであれば地球科学を学び研究すればよい。地球科学にもいろいろ分野がある。地球物理学、地球化学、地質学、気象学、等々。
環境という言葉は人間中心の不純な概念であることに気付くべきではないだろうか。環境の科学は勿論大切なことである。しかし環境と言う概念は自然とも地球とも全くことなること、エコロジーとも全く異なること、この辺の整理がなければ今後のの科学の真の発展はないのではないかと思えるのだが。
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