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2021年11月11日木曜日

名前と概念のどちらが問題なのか? ー 西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その7

前々回、前回と、人工知能(AI)と呼ばれるものは『(機械使用)集合知能』と呼ぶことが相応しいと考える趣旨を述べたけれども、これは単なる呼び名であっていまや『AI』で通用しているところをわざわざこんなまどろっこしい呼び名に言い換える必要がどこにあるのか、という反論がありそうである。しかし、そもそもこのような呼び名は必要があって案出され使われるようになったのであろうか、という疑問を、筆者は最初から持っていた。

例えばAIの主要分野として筆頭に挙げられていたエキスパートシステムの場合、そのまま「エキスパートシステム」と呼び続けて一向に差し支えないし、一般のユーザーにとっては、そもそもそのような名前など必要はない場合も多いのである。先に実例として挙げた「AIの〇〇子さん」という、ウェブ上でユーザーの質問に自動で対応するチャットシステムの場合など、なにもそのような名前を付ける必要はないし、「AIの」と断る必要もない。単に「自動」あるいは「機械」や「ロボット」などの言葉で十分である。ただ、擬人化すると分かりやすいから、回答者らしい人物のイラストを付けるようなことは昔から行われてきた。それで十分ではないか。

という訳で、人工知能、AIという用語は実用上の必要からではなく、あくまでもその概念あるいは理念を追求すると同時に喧伝するために案出され導入されたと考えるべきであろう。この点ではかつての「人工頭脳」も同様である。「人工知能」と「人工頭脳」との違い、関係については、すでに考察したとおり。また概念としては「人工頭脳」の方が自然であり、「人工知能」の方はその理念が破綻しているとの考察は、すでに述べた通りである。

以上のように、その概念を分析して考究すると同時に、その理念を喧伝するという目的で導入された言葉であるからには、その命名は的確でなければならず、単なる日常的、実用的な便利さや手軽さを趣旨とした安易な名付け方であってはならず、その理念が破綻していることが判明したとなれば、もっと的確に概念を表現する言葉を見つける必要がある。それが当面、前回までに提案した集合知能ないしは機械使用集合知能(Machine-aided Artificial Intelligence)という表現に行き着いたわけである。
 
 
以下、前回記事の繰り返しになるが、仮想現実を通じて現実を理解し、研究し、技術開発を進めることが危険なことは、鏡像を例にとってみるだけで明らかになるだろう。すぐわかることは鏡像では鏡像問題として知られるような左右逆転のような現実との差異が生じることである。2枚の鏡で生じている像の場合はそうならないが、それは対象が鏡像であることがわかっている場合の話である。より根本的には、鏡像は虚像(Virtual Image)であり、あくまで視覚的な認知にとどまるものであり、触覚や嗅覚、その他の感覚を必要とするような認知や操作はできないのである。

これは一つの重要な結論ともいえるが、人工知能とされているものを知能という概念の下で考察することは、人物の鏡像を虚像と認識することなく現実の人物として観察し考察し、操作することに等しいか、それに近いのである。機械使用集合知能という概念の下では、いわば虚像(単なる視覚像)という仮想現実に対応する本来の現実に相当する人間の知能、さらには知能に限らす知能を生み出している人間性そのもの、あるいは人間の全体に迫って認識と考察、ひいてはシステム開発の支援を行うことが可能になると思われるのである。

2020年6月4日木曜日

鏡像問題の議論に見られる英語表現の問題点について考える ― 「ブログ・発見の発見」の記事を転載します

以下は昨日、別ブログ「発見の発見」に掲載した記事ですが、もともと当ブログで扱っていたテーマを継承した問題でもあり、特に多くの読者に読んでもらいたく思っている内容なのですが、最近ではなぜか、そちらのブログへのアクセス数が伸びなやんでいることもあり、こちらの方にも転載することにしました。また昨日の記事への追記部分もあります:

 鏡像問題の議論に見られる英語表現の問題点について考える


筆者はある時期から英語翻訳を仕事にしてきたということもあり、英語表現の得失、平たく言えばいろんな局面において英語と日本語の優劣について考える機会は多かったのですが、ある時期から仕事とは別に、鏡像問題に関心を持って深くかかわるようになり、その方面で英語の論文や著作物に触れる機会が多くなり、挙句の果て、自分で英文の論文作成を試みるまでになってしまいました。そんなわけで、それまで何となく断片的に考えていた英語使用の得失、とくに科学的な考察における英語使用の得失、メリットとデメリットがかなり明確に意識できるようになってきたように思います。今回、取り合えず急いでまとめてみたいと思い、あまり時間をかけて多面的に考察することもできないので、1つの問題についてのみ、1、2の例を挙げるだけで整理してみたいと思います。この問題に限って言えば英語のメリットではなくむしろデメリットに該当します:

結論として端的に言えば、現在の英語、文章として使われている英語は、技術的な目的では極めて論理的かつ効率的に考察も表現もできるように発達しているように思いますが、真に深く意味を掘り下げ、追究するという意味では、行き過ぎた名詞的表現と、潜在的な擬人的表現により、決して小さいとも浅いとも言えない陥穽に陥る可能性を無視できないように思います。確かに一部の知識人がよく云うように、優れた英文は抽象的な概念において洗練され、論理的に見通しよく整理されているかもしれませんが、そういう見かけ上整った論理性や洗練された抽象表現の中身自体が、そもそもどれほどのものなのか、反省してみることも必要ではないでしょうか。言い換えると形式論理よりも意味論に注目すべきではないかと言えるかもしれません。

ここで鏡像の問題では欠かすことにできない用語である「Reflection」について考えて見たいと思います。この用語を岩波理化学辞典で引いてみると「Reflection=鏡映」と「Reflection=反射」という二つの項目に出会います。「鏡映」の方は数学的な定義のようで、同じ英語でも「Mirror operation」という別の用語が併記されています。この意味で日本語の用語は「反射」ではなく「鏡映」となっているのも意味深いですね。つまり、この翻訳語を考えた人物は、この意味では「反射」という用語は不適当であると判断し、賢明にも「鏡に映す」という表現を選択したことがわかります。

以上からわかることは、鏡の機能としては通常、物理的な光の反射が考えられ、日本語でも英語でも同様に「反射」が使われるのですが、英語の場合は視覚イメージについても反射という言葉が使われるということです。日本語では普通、「人の姿が鏡に映る」とは言いますが、反射するとは言いません。そういう人がいるとすれば、たぶん英語の影響でしょう。また日本語では鏡を主語にしてこういう意味のことを表現することはあまりないと思います。「映す」という他動詞も使えますが、普通は人が主語で、鏡に自らの姿を映すというような表現であって、鏡が主語になってものの姿を「映す」というような表現はあまりしないように思います。ある日本語の鏡像問題論文で鏡を主語にして「映す」という表現に遭遇したことがありますが、この場合は相当に英語表現の影響を受けた上での表現だと思います。

一方、日本語ではボールなどが平面の物体にぶつかって反発する際にも「反射」を使うことがあります。これは物理的に考えても極めて自然なことだと思います。物体は引力の影響を受ける点で光線とは違いますが、現象的には、客観的に観察できるという点で、光線の反射と殆ど同じような現象であると思うのですが、なぜか英語ではreflectという言葉ではなくbounceという言葉を使うようです。

要するに、英語では光と像(視覚像、視覚イメージ)を区別していないのです。これは視覚イメージに関わる問題を考える場合に致命的ともなり得る誤解に導かれる可能性があるように思われます。そもそも光は物理的存在ですが、像は人に認知されて初めて像となるのであって、観察者なしでは存在し得ないものです。光の場合、ボールのような物体と同様、明るい窓や光源から出た光線を鏡で反射させて暗いところに向けることができますが、像についてそのようなことができるでしょうか。像はヒトが認識するコンテンツであって、ヒトの意識内にのみ存在するものです。ある人が鏡の向こうに自らの姿を認めることができたところで、横から見ている別人が鏡の背後に、当の観察者が自らの鏡像を認識しているその位置に、そのような鏡像を見ることができるでしょうか?その位置にそのような姿を持つ本体が実在しているかのような推論をすることは、鏡像の擬人化あるいは物質化に他なりません。そうして実際、英国人心理学者によって英語によって記述された鏡像問題の研究でそのような、結果的に鏡像を擬人化しているとしか思えないような考察が見つかっている訳なのです。例を挙げると、グレゴリー説がそうですが、それ以外に物理的な光線の幾何光学のみによって説明している同じ英国人のヘイグ説も結果的にそれに該当するように思えます。ヘイグ説は光線の幾何学のみによって説明しているので一見、擬人化とは無関係のように見えますが、鏡映反転という視覚イメージの問題を光線の幾何学のみで説明しているという点で、結局のところ光と視覚イメージを同一視していることになり、擬人化と同じことであると言わざるを得ません。
[グレゴリー説の方は、良く知られていると思いますが、要するに光学的な条件を否定し、観察者やまたは物体の物理的な回転のみで鏡映反転を説明する説です。これは観察者が見ている視覚像が何らかの鏡像であるか実物の像であるかに関係なく成立する説明なので、対象が人の場合、鏡を取り払って鏡像の位置に別人が入れ替わったとしても成立し、結果的に鏡像の問題ではなくなるわけです。しかしいかにももっともらしい説明に見えるので、今でも、少なくとも部分的に正しい説として通用しているように見えます。実を言えば私自身その擬人化に気づかず、これがすべてを説明する完全な説明ではないものの、部分的に有効な説明であるという印象を持っていました。しかし本当に根本的な原因を説明するという意味では、今となっては完全否定すべき説明だと考えています。(6/4 追記)]

有名な高野陽太郎東大名誉教授は、英語の論文においても、グレゴリー説やヘイグ説を正しく批判し、彼らの論旨を正当に否定していると思います。しかし、氏はグレゴリー説やヘイグ説が鏡像の擬人化ないし物質化に陥っていることには気づいておらず、擬人化においてむしろ両者の上を行くような複雑な論旨を展開しているように見えます。これは氏が英語表現からの強い影響を受けていることにもよるのではないか、というのが私の見方です。

もちろん鏡像は本質的に、単独で見る限り鏡像ではない姿と区別できないものであり、鏡像を擬人化するような考え方は言語に関わらずごく自然に起こりえることです。しかし鏡像の問題を科学的に考察すべき科学者までがそのような擬人化に陥ることは多分に言語表現のシステムに関わることであり、私見では、英語は学術的な表現においてもこのような点でむしろ、日本語よりもプリミティブな面があるのではないかという疑いを禁じ得ないのです。

そもそもこういう鏡像の擬人化は見方を変えると、鏡そのものを擬人化することに始まっているとも言えます。そもそも人以外の物体を主語にして他動詞を用いて何らかの現象を表現すること自体が擬人化と言えなくもありませんが、そこまで突き詰めることは今は避けたいと思います。ただし、例えば「光を反射する」というように物理的なものを対象とするのではなく視覚イメージのような物理的ではないものを対象として、鏡を主語にして表現するとなれば、これはもう限りなく擬人化に近づいて行く可能性があります。視覚イメージの場合、日本語でも「鏡が姿を映す」とは言いますが、「鏡が姿を反射する」とは言いません。英語ではそれがあり得るように思われます。英語で「映す」は「project」になるでしょうか。しかし鏡の場合に「project」を使うと何か不自然ですね。

鏡を擬人化するといえば、例えば白雪姫の童話のように鏡に人格を与えたり、「鏡よ、鏡よ」と鏡に呼び掛けたりすることを想像しがちですが、こういうあからさまな擬人化の話は、聞く方でもそれが擬人化であることがわかります。しかし単に主語として使われるだけの場合、それが擬人化であっても普通はそうとは気づかれないですね。ですからこういう場合は潜在的な擬人化の可能性とでもいうべきかと思います。問題なのはこういう表現は日常の表現よりもむしろ学術的あるいは科学的な言語表現で使われる場合が多いことです。冒頭の方で述べたように、英語では特に著しいように思いますが、簡潔な名詞的表現とよばれるところの、何であっても名詞的に表現される概念が次々と生産され続ける傾向です。いったん名詞化されたものは簡単に主語として使われるようになります。それが英語らしい、いかにもスマートな表現として定着することになります。

以上のような問題は自然科学と社会科学ではまた異なった分析をする必要があるかもしれませんが、いずれにしても難しい問題です。ただし、少なくとも英語の優れた表現にはこのような、決して小さくはない陥穽もが潜んでいることにも、特にこれから英語に取組まなければならない若い人たちにも注目してもらいたいと思います。
(昨日に投稿した記事ですが、[]内を追記し、タイトルも少々変更しました。6月4日)

2018年11月4日日曜日

鏡像の意味論、番外編その8 ― 像の[認知]から[表現]へ ― 表現手段としての方向軸

一種の想起実験のような考察をしてみようと思います。

まず観察者に一人の人物の後姿を真後ろから見せるとします。その際に右か左かの半身を隠して片側だけを見せるようにします。見えるのが人物の右半身か左半身かを尋ねると大抵の観察者はすぐに正しく答えられると思われます。

次に同じ後ろ姿で上半身か下半身の何れかを隠した場合、観察者は同様に後姿の上半身であるか下半身であるかを答えられない人は言葉を知っている限りいないでしょう。

以上の二つの場合を比べてみて、右半身か左半身かを判断する場合と上半身か下半身かを判断する場合で何らかの違いがあるでしょうか。少なくと形状の違いを見て直観的に判断している点で違いはないと思われます。

では次に同じモデル人物を正面から、つまり前から右半身か左半身を隠して観察者に見せ、見えるのが右半身か左半身か何れであるかを尋ねるとします。この場合、後姿の場合のようには即時に答えられない被験者も出てくるのではないでしょうか。また被験者によって逆の答え、あるいは一方からすれば間違った答えかたをする場合も出てくるように思われます。

以上の例から察するに、右半身か左半身かを判断する場合に混乱が生じるとすれば、それは前から観察するか後ろから観察するかに起因ものであって、前後軸そのものと左右軸そのものの性質に起因するものではないことがわかります。上半身か下半身かはどちらの場合も同じですが、右半身か左半身かは、前から見る場合は逆転するからです。またこれが人間以外の道具などの場合、たとえばノートパソコンやグランドピアノなどの場合、左右は普通、人間とは逆転することも一つの原因でしょう。

上半身と下半身の場合にそういうことが生じないのは、人が向きを変えるときに上下軸を中心に回転するからにほかなりません。これは上下軸そのものの性質ではなく、ある意味偶発的な条件だと思います。

この、いわば認知上の現象を人体の左右対称性と関係づける見方もあります。確かにヒトのように左右が面対象の立体では左右の形態的特徴は全く同じで区別できません。しかし砂時計のように前後のないものは別として、ヒトのように前面と背面で異なる形状を持つ立体の場合、左半身と右半身の形状を明確に区別できることは上述の想起実験自体が示すように自明であるともいえます。

なおこの種の実験、例えばモデル人物を横たえて同じことをするとか、穴から右手か左手だけを出して実験するとか、いろいろ興味深い考察ができると思いますが、問題が複雑になるので、とりあえず今回は最初の実験だけで考察できることだけで進めて行くことにします。

左右対称だけがこの種の紛らわしさ、間違いやすさの原因ではないことは、例えばモデル人物に片手を上げてもらうなどして左右を非対称にした状態で同じ実験をした場合を考えてもわかることです。この場合、見た目の形状は明確に左右が非対称であるにも関わらず対面する人物の左右を示すのに戸惑いや間違いが生じます。またグランドピアノなど、左右が非対称ですが、やはり前後軸との関係で人間とは逆の左右が慣習的に与えられています。ですからやはり、左右対称と左右判断の難しさ、曖昧さ、あるいは間違いやすさとは無関係なのです。

とはいえやはり、人体などの左右対称性は何らかの形でこのような左右の特性と何らかの関連性があるのではないかという直観的な印象は完全に拭いきれないものです。現に人体の左右の特徴、形状の違いを表現することは困難で、単に右側か左側かという言葉で表現するしかないのですから。

端的に言って、鍵は「表現」にあります。「認知」は「表現」とは異なります。しかし、認知した内容は言葉で表現しなければその後が始まりません。たとえ他人に伝える必要がなくても意識的な思考を続けるには的確な言葉を見つける必要があります。この意味で「識別、特定、同定」、英語で言えば「Identification」といいった意味において「認知」と「表現」は表裏一体です。すなわち、認知内容というシニフィエを特定するためには表現手段というシニフィアンが必要である」と言えます。

面対象の立体を視覚で認知した場合、両側でそれぞれ認知されるシニフィエは確かに異なっているのですが、通常は同じシニフィアンでしか表現できない、ということになります。この際、人体のように外形が左右対称形の場合は右か左かという言葉を追加せざるを得ないというわけです。(この際に付加される右または左の根源はヒトの知覚空間にあり、それは異方的であり、上下・前後・左右は空間に固定されているということです)。

上半身と下半身の場合、上半身は頭のある方で、頭のてっぺんが最上位にあります。また足の裏が最下部です。上半身と下半身では明らかに形状の持つ意味内容が明確に異なり、頭とか足などの異なるシニフィアンで表現できます。しかし右半身と左半身ではどちらも人の半身であるとしか言いようがなく、区別するには右か左かをつけるしかありません。この点で左右対称は意味を持っています。左右対称の人体は相対的にしか左右の違いを表現できません。幾何学的に違い自体は相対的に表現できるわけで、これは対掌体の対と同じですね。どちらも相手との関係でしか表現できないのです。頭の形とか足の形などは別に他方と無関係な概念ですから、上下や前後は形状の持つ意味が異なるので簡単に言葉でも区別できるわけです。

ところが上下・前後・左右という表現自体もシニフィアンである以上、それら自体のシニフィエというものがあるはずです。そうしてシニフィアンに対するシニフィエの入れ替わりなどの混乱要因が生じてきそうですね。

いまシニフィアンとシニフィエの関係でこれ以上の考察を進める余裕はありませんが、とりあえず時間系列で言えばシニフィアンよりも先にシニフィエが成立することは明らかです。認知と表現の関係でいえば順序として認知が先にあり、表現が後です。 

このような認知と表現の時系列は気付かれにくいところがあるように思われます。むしろ上下、前後、左右の認知に時系列があるように錯覚されやすいのではと思われるのです。しかし仮に時系列差があったとしても認知される内容自体に変化が生じるわけではありません。ところがいったん明確な言葉で表現されると次の考察に影響を与えます。この点で表現、あるいは認知と表現の微妙な関係に着目することが重要だと思います。

なお、今回の考察も番外編のつづきで、鏡像問題、鏡映反転については触れていません。もちろん関係はありますが、そのまま、これだけで鏡像問題に適用できるわけではないと考えています。
(2018年11月5日 田中潤一)

2018年6月30日土曜日

鏡像の意味論、番外編その7 ― 異方空間は意味の空間であること ― 対称性は異方空間だけでは成立しないこと

前回「左右軸の従属性」の分析で示された重要な点は、人体の外的形状が左右対称的であるという印象と認識は、人類としての共通する生物学的あるいは解剖学的な外形によるものであって、個性を持った個々の人物が特定の動作と衣服やアクセサリーを伴った個々の状況における一時的な状態によるものではないことです。外部からの観察対象としての人体の上下と前後はこのような人類共通の形状に基づいているわけで、要するに左右軸の従属性は、むずかしく言え人の外的な姿を生物学的、解剖学的な意味で把握した場合に言えるわけですが、人の姿を見てそれが誰であるか、どのような衣服やアクセサリーを身に着けているか、どのような姿勢をしているかいった偶発的な意味で把握している場合には必ずしも適用されるとは限らないということになります。これは通常の感覚に基づいた知覚空間と視空間において、人は幾何学的な形状そのものではなく形状の持つ意味を認知しているからであるといえます。端的にいって幾何学的な形状がシニフィアンであるとすれば知覚空間で認知するのはシニフィエになるということです。幾何学的な分析は、シニフィアンとしての形状の分析でありシニフィエとは関係がないということになります。

 【異方空間である知覚空間は意味の空間であること】
ヒトが視覚で人の姿を認知するとき、単に人間としてしか認知しない場合もあれば、男女の区別やおおよその年齢や、さらには具体的にそれが誰であるか、また何をしているところなのかに注目したりなど、実に様々な認知の仕方があります。もちろんそれが誰であるかを認知した場合は同時に人間であることをも認知しているはずで、認知する意味は重層的であるともいえます。それでも、具体的なさまざまな属性を認知する前にそれが鳥でも猿でもなく人間であることの認知が前提になっているわけですから、少なくとも人間であること以外に何の特徴も認知する手立てがなかったり、必要もなかったりする場合で上下前後左右を判断する場合は左右ではなく上下と前後を判断し、左右の特徴は特に気に留めることもないでしょう。しかし逆立ちをしていたり横になっていたり、ヴァイオリンを弾いていたりすると頭頂部以外の方向を上方と見ることや、最初に左右の特徴の違いに気づくこともあり得ることです。また、「右向け右」の号令をかけられた直後の部隊の人物を見ていたのなら、真っ先に右側の特徴に目が行くはずですね。このように、上下前後左右の特徴は、見ている対象をどのような意味で認知しているかによって異なってきます。単に人間という意味でしか見ていないか、誰であるかという意味で見ているのか、何をしているかという意味で見ているのか?― というわけで、人は知覚される形状が持つ意味から下前後左右を判断しているのであって、幾何学的な要素、長さや角度など、あるいは対称性などから上下前後左右を判断したり決めたりしているのではないことがわかります。もちろんIttelson(2001)が実験研究を行ったように純粋に幾何学的な形状で任意に上下前後左右を決められる場合は人体との類似性などから、上下前後左右を判断することはあると思いますが。
 さらに観察者の対象物に割り当てられるべきオリジナルの上下前後左右は観察者の感覚質であって定義するまでもなく、幾何学的な概念とは無縁のものです。
 という次第で、異方空間で認知するのは形状が持つ意味、つまりそれが何であるか、誰であるか、なにをしているのか、等々、実に様々な意味を認知しているのであって、幾何学的な測量をしているのではないということです。もちろん長さや角度や対称性などを認知する場合もありますが、それはその時点ですでに等方空間を想定していることになります。

【対称性は異方空間で認識される性質ではないこと】
いわば幾何学的な形状やパターンそれ自体がシニフィアンであるとすれば、異方空間で直観的に認知されるのはそのシニフィエです。幾何学的な要素は思考空間である等方空間で規定され、思考されるわけで、対称性もそれに含まれる幾何学的な要素あるいは属性ということになります。
 現実に知覚空間の中で左右対称あるいは面対象の形状として認知される対象があるではないかと思われる向きもあるかと思います。例えばよく例に挙げられる宇治の平等院のような建築ですね。たしかにその形状から受ける印象は左右対称という表現で語られることが多いです。しかし現実に平等院の右側と左側を、一方を手で隠すなどして別々に見た場合、同じものに見えるわけでも同じ印象を受けるわけでもありません。また砂時計の容器の上半分と下半分を別々に見た場合の印象も相当に異なり、実際、機能的にも異なっています。左右対称あるいは上下対称という表現自体が、本来は上部と下部、また右側と左側を区別して認知していたからこその表現であって、この表現を分析すれば、もともと別物として認知される右側と左側、上部と下部が幾何学的に分析すれば対称性を持っているという意味であり、左右対称という概念自体が数学的な思考プロセスに由来しているのではないでしょうか?
 ということは、ヒトは普通に視空間でものを見ている場合でもかなりの程度、等方的な思考空間を使用している、あるいは併用しているといえるように思われます。特に鏡像認知の場合は等方空間の使用が顕著に現れてくるように考えられます。

  【カッシーラーによる等方空間と異方空間の定義がそのまま対称性の概念につながる】
異方空間ではすべての位置(点)が異なる価値を持つというカッシーラーによる定義は、異方的な知覚空間で対称性が成立しないという帰結に直接つながります。なぜなら、鏡面対象性は二つの点が幾何学的に同じ価値を持つことに帰着するからです。異方空間でリアルに認知された形状であっても、対称性が認知されるには必ず等方空間が想定されていることになります。
 (2018年7月2日 田中潤一)

2018年6月24日日曜日

鏡像の意味論、番外編その6 ― 「左右軸の従属性」の精密化と再定義

まず前置きです。ここ数回にわたって『鏡像の意味論、番外編』というタイトルで続けてきましたが、番外編としたのは、鏡像問題や鏡映反転の問題に関係はもちろんありますが、単に鏡映反転の問題ではなくもっと根本的で意義深い問題を考えていることを示したいからに他なりません。前回、認知科学会に提出したテクニカルレポートの元になる論文を提出した際も、タイトルでそれを表現したつもりだったのですが、単に鏡映反転のケースを説明するという視点でしか評価なさらない先生がおられたのが残念です。

さて、「左右軸の従属性(Subordination of the right-left axis)」 はTabata-Okuda(2000)において提起された表現で、Corbalis(2000)でも同様の趣旨が提起されているとされるわけですが、最初この理論を日本認知科学会誌の鏡像問題特集に含まれる日本語論文で読んだときから直観的に、これは真実に近いものと感じられました。それにも関わらずどこか隙があるような印象は拭えませんでした。「左右軸の従属性」自体は鏡映反転を説明する原理ではなく、簡単にいって上下前後左右と名付けられる三つの軸方向のセットにおいて左右軸の性質を表現しているのであって、ここで左右軸の意味は非常に抽象的です。今にして言えることは、「左右軸」というシニフィアンのシニフィエがはっきりしないのです。ただ説明の具体的な根拠として使用されているのは人体の形状です。そしてその表現は、両者で微妙に異なりますが、また英語と日本語でも微妙に異なるのは当然ですが、論理的な構造はだいたい同様で、対象物の上下前後左右を定義する順序において左右軸が最後に定義される点で、左右軸が従属的であるとされています。しかし人体の上方が頭頂の方向であり下方が足下の方向、前が視界の開ける方向、という風に常識的に考えると、人体の上下前後左右のどれについてもだれが定義したともいえず、最初から完全に定義済みであるという他はなく、新たに定義する必要はないはずです。とはいえ、例えば人体の状態を客観的に表現する場合、上方は、普通は頭頂の方向と重なるものの、天に向かう方向を意味するのではないでしょうか?そして人はいろんな姿勢をしますから頭頂部が常に天の方を向いているわけではありません。これは前回までにシニフィアンとシニフィエとの関係で考察したところです。ですから、確かに人体に対して新たに上下前後左右を定義する可能性は確かにあるとは言えます。また人体以外の対象物やイメージに対しては何らかの基準で定義する必要が生じてくるでしょう。しかしこれはむしろ、やはり前回までに明らかにされたように、ある特定のシニフィエに対応してすでに定義済みのシニフィアンを当てはめるという意味で、「定義(define)」ではなく「適用(apply)」あるいは「割り当て(assign)」という用語を使用する方が正確であるといえます。そして割り当てられるオリジナルのシニフィエは観察者の知覚空間、体性感覚と視覚とが結びついた知覚空間の上下前後左右と考える他はないことは、先に考察したとおりです。ただし体性感覚とは別に重力方向の感覚があり、これは上下方向という一軸だけしか想定できません。


以上のように、「左右軸の従属性」原理における上下前後左右の「定義」という用語は、対象物または対象の像への、人間知覚の上下前後左右のシニフィエの「適用」または「割り当て」と言い直すことで、この原理の前提となる条件が確定できるように考えられます。ここで新たにシニフィエを割り当てられる対象物は固体物体または三次元的形状の安定した像であり、固体が占有する空間のような異方空間とみなされることは前回のとおりです。その異方空間の性質は前回明らかになったように方向軸で表現され、三次元的な三つの方向軸のうちで新たに定義できるのは二つの軸のセットであり、残りの一軸は他の二つの軸に対して固定されていることも前回あきらかにされたとおりです。従ってこの残りの一軸は「最後に定義される軸」というよりも最初の二つの軸と同時に自動的に割り当てられる軸であり、その意味で「従属性」という表現は全く適切です。ただしそれが常に左右軸になるかどうかは、また別の問題であるといえます。

他方、人体の形状が左右対称に近いことが左右軸の従属性の理由であるとされ、対称性の大きさあるいは程度という量的な側面が問題にされていますが、現実の偶発的に観察できる人物が左右対称に近いことはそれほど多くはありません。歩くときの両脚の位置は常に非対称であるし、両手の動きも大抵は、例えばバイオリンやギターを弾いているときなど完全に非対称です。またアクセサリーや持ち物が左右対称であることは稀でしょう。ただし、人類に普遍的に共通する形としては、少なくとも外見は左右対称であるといえます。Corbalis(2000)ではこれを「canonical(正規の)」と表現していますが、この言い方は正確ではないと思います。つまり個人ではなく人類共通の特徴というべきでしょう。ですから観察者が特定の他人を認知する場合、まず誰であるかよりも先にそれが人間であることを認知していることは確かです。人間一般の特徴としては外見上の左右差は見られないので、方向としてはまず上下と前後が認知されることは確かでしょう。その意味で左右軸の従属性は確かに否定できません。しかし次のような場面も想定できます。

例えば暗がりや逆光の中で人の姿はわかるが影絵のようにどちらを向いているかがわからない場合、左右を判別することで前後の向きを判断するしかありませんね。よく知っている人であれば何らかの左右の特徴が基準になるかもしれません。昔の侍なら刀を差している方が左ということになるでしょうか。これは人の場合ですが、一般に人以外のものに上下前後左右を判断する場合は、さらに左右軸の従属性が弱くなるものと思われます。

という次第で、「左右軸の従属性」原理は下記のように精密化し、さらに再定義する必要があるように考えられます:
  1.  上下前後左右の各軸の「定義(define)」の用語を「適用(apply)」または「割り当て(assign)」に変更
  2.  割り当てられるべきオリジナルの上下前後左右の「シニフィエ(signified)」は観察者の知覚空間(異方的)の上下前後左右のシニフィエであること
  3. 特定軸の「従属性」は、割り当ての順序が最後になることではなく、観察者の判断による割り当ての不可能性、もしくは他の二つの軸の割り当てによる自動決定を意味すること
  4. 左右軸の従属性は人体の場合に優勢ではあるが絶対的ではなく、人間以外の、特に道具などではそれほど顕著とは言えないこと
もう一つ重要な点は、この原理自体は鏡像問題、特に鏡映反転の問題とは無関係に定義できる原理であって、鏡映反転の問題に適用する場合はさらに別の考察が必要になることは言うまでもないことで、対掌体の性質はその一つですがそれだけともいえないように思われます。それにしても左右軸の従属性は鏡像問題とは離れて、人間の視覚認知のうえで認識論的にも非常に奥深い問題ではないだろうかと思う次第です。
(2018年6月25日 田中潤一)

2018年6月16日土曜日

鏡像の意味論、番外編その5 ― 等方空間を表現する「座標系」と、異方空間を表現する「方向軸」

今回は最初から端的に表題の件について説明したいと思います。

「座標系(coordinate system, reference system)」は英語でも日本語でも極めて明確な意味を持ち、かつよく使われる概念であるように見えます。一方の「方向軸(directional axis)」は、英語でも日本語でも、あるにはあるが、使われる頻度が少なく、多くの分野で共通するような定義は見られないように思います。ここで私は方向軸を、表題のように、異方空間の方向を表現する軸であると定義したいと考えます。そうすることで、等方空間と異方空間との違いを極めて簡潔にわかりやすく表現できるようになると考える次第です。ちなみにWikipediaを見ると「方向(Orientation)」と「向き(Direction)」について数学上と物理学上の定義がありますが、数学用語の素養がないために読んでも分からず、この際無視するしかありませんでした。


 【等方空間における座標系】

  • 座標系で等方空間を表現できるのは、ひとえに座標系が原点ないしはゼロ点を持つ必要があるからであるといえます。座標系では、空間内のすべての点が原点または他の点との相対的な位置関係でしか表現できません。
  • 各々の位置は各座標軸における原点からの距離で表現されるわけですが、原点のどちら側であるかによって+か-の符号が付けられます。この際、原点からの一方はすべて+であり、同じ側にある位置はすべて同様に+であり、どちらがより大きく+であるとか、より多く-であるということはできません。ですから+と-とは方向としての意味を持つわけではなく、相対的に反対であるという区別を示すのみであって、+と-を入れ替えても何も問題はありません。財務でいう黒字赤字のような、また電気の正負のような意味上の差異はありません。x軸上の同じ側にある二つの位置は、変数であるxの数値の大きさの差異のみで示されます。
  • x軸とかy軸とかz軸はどれも特定の方向を示すのではなく、相対的に90度の開きがあることを示すのみです。これらは変数を表す符号であって、方向は紙面に描く場合の約束事にすぎません。

以上のとおり、等方空間ではすべての点が平等であり、互いに相対的な位置関係でしか区別されないことが、座標系の概念によって示されているように考えられます。


【異方空間における方向軸】 

以上の座標系に対し、方向軸は異方空間に特有なものです。異方空間では最初から空間内の個々の位置が決まった価値を持っています。それは固体分子の個々の位置が確定していることからの類推であるとマッハは考えたようです。いわば一定の外形を持つ物質塊であって、人体のような上下前後左右の方向を持つ個々の物体やその像を外部から見る場合にはその外形から判断して、正立する人物像であれば頭の方が上、足の方が下というように軸方向が判断されます。このような軸は+と-で方向が判断されるわけではなく、個々の位置が方向を示す極性を持っているわけです。ですから、
  • 両側を+側と-側に分けるような原点ないしゼロ点は必要ありません。磁石のS極とN極と同様にゼロ点が無く、各位置が矢印で表される極性を持つということができます。
  • 原点が無いので同じ方向軸は無数に存在しています。
  • また上や前や右などは固有の形状から判断されるものであり、いったん確定した以上は、各点の位置は絶対的に定まっているものであって、相対的に動かしたり、入れ替えることはできません。軸を動かすことは固体の塊と同様、その全体を動かすことであり、一つの方向軸を中心に回転させると全体が回転します。直行する他の二つの軸も一緒に回転します。ですから一つ目の軸を任意の位置で確定した後は、その軸を中心とする回転平面の中でもう一つの軸を確定すると、残りの軸は同時に固定されています。これは上下前後左右の軸を任意に決定する場合、二つの軸しか決定できないことに対応しています。
こうしてみると、固有座標系という概念は、ひとえに等方空間と異方空間の概念、区別がよく理解されていなかった状況において案出された必然的な帰結であったといえるのではないでしょうか?
 
というわけで、簡単に一言でいえば、異方空間で定義できる「方向軸」は、少なくとも極性を持つ点で座標系とは異なることになります。

何度も述べていますが、等方空間と異方空間の差異を(おそらく) 最初に見出したのが物理学者で心理学者でもあったマッハであるにも関わらず、その後に続いた心理学者がマッハのこの発見の重要さと本質に気づかず、極めて皮相的にしか空間の異方性を考察していないように見られることは極めて重大なことのように思われます。

もう一つ重要なことは、これは特にカッシーラーが(マッハはそれほどでもなく)強調していることですが、等方空間は幾何学空間と呼ばれるように、あくまで思考空間であって直接感覚的に、視覚や触覚のように感覚器官をとおして認知できるような空間ではないということです。座標系を利用して対掌体を作図したり、面対称の図形を作図したりすることは可能で、これは「変換」とも呼ばれますが、これはあくまで数学的な思考プロセスであって、現実に感覚をとおして知覚される空間でこのような「変換」が生じているとは言えないと思います。鏡像関係を光学的な変換とみなすことは伝統的な考え方のようですが、決して光学的に、一方が他方に変えられるわけではない。ただ鏡像と直視像とを見比べて一方が他方の数学的な変換に相当するに過ぎないのです。 
(2018年6月16日 田中潤一)

2018年4月26日木曜日

シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(iv)(鏡像の意味論、番外編その4)―― 「定義」と「割り当て」をシニフィアン・シニフィエで解析する

いくつもの英語の鏡像問題論文を調べてみて気づくことの一つに、defineという用語が頻繁に出てくるということがあります。当然日本語の論文でもそれに対応して「定義する」という表現が頻出しているわけですが、どういう局面でそれが出てくるかといえば、要するに目に見える人や物の上下前後左右を決めることをdefineと言っているわけです。また上下などの方向、あるいは方向軸を決める場合もあります。一方で、ごく頻度は少ないですがassign「割り当てる」という用語も同じような局面でわずかに使われています。ただし使用頻度としては1/50くらいの差があるのではないでしょうか。日本語の論文でも対応して「割り当てる」とか「当てはめる」とかを使っている場合もあるようです。

ところでIttelson(1991)の論文で、有名な哲学者・心理学者のW. James(1890)が引用されているのですが、そこでJamesは、一個のキューブの前後上下左右を決めるのにLabelという用語を使っています。Jamesはそこでの考察として興味深いことに、「左右」は赤や青などの色のようなものであると述べています。これは感覚質、あるいは以前有名になった言葉で、クオリアですね。

ジェームズは、人間ではなく単なるキューブに上下前後左右のラベル付けすることを言っているわけですが、このlabel という表現は日常的な表現に近いといえます。例えば木彫の彫刻家が木のブロックで最初に上下前後左右を決めたりする場合、日本語では普通は「決める」とか「決定する」などと言うと思いますが、「割り当てる」というのも不自然ではないし、ジェームズのように「ラベル」付けするという言い方もあると思います。しかし日常的にはこういう場合「定義する」とはまず言わないし、英語でも、日常語としてdefineとはあまり言わないのではないでしょうか。また木のブロックなどではなく、人物の姿や人物以外でも上下前後左右を持つように見える物体の上下前後左右を判断する場合に「定義する」というのは不自然に思われるのではないでしょうか?

ここでシニフィアンとシニフィエを使って「定義する」と「割り当てる」を分析してみようと思います。 

端的に言って「定義する」という言葉は本来、未だに確定したシニフィアンを持たないシニフィエに、確定したシニフィアンを与える、ということではないでしょうか?要するに、科学の分野でも、科学ではなくても、まだ名前のない新しい概念に名前を付けるということです。特に例を挙げるのも面倒だし、必要もなく、お分かりいただけると思います。それに対して「割り当てる」は、すでに確定したシニフィアンとシニフィエのセットとしての言葉を特定の対象に当てはめること、ということだといえます。

彫刻家が木のブロックの方向を決める場合、 少なくとも普通の正面向きの人物立像である場合、人物の上下前後左右として「確定したシニフィアンとシニフィエのセット」を木のブロックに「割り当てる」ことになると思います。

とすれば、少なくとも正立した人間の場合、上下前後左右のシニフィアンとシニフィエのセットは最初から確定しているのであり、わざわざ定義などする必要はないはずです。ですから、正立した人物の姿に新たに上下前後左右を「定義する」というのも不自然です。しかし、確定しているからと言って、直ちに他人の上下前後左右を、少なくとも左右を認識できるかと言えばそうでもないでしょう。また横たわっている人物や倒立している人物にもこれらがすべて確定しているとは言えないように思われます。

そこで人物像の場合は一般的に表現するなら「定義する」よりも 「見つける」の方が、英語の場合はfindが最も適切な表現ではないかと思います。 さらに彫刻や映像作品ではよくあることですが向き合って抱擁したり、格闘したりといった集合的な人物の場合はどうでしょうか?こういう場合は観察者独自の判断によるしか定義のしようがないでしょう。芸術作品の場合は作者が決めることであるし、生け花や盆栽なども審美的に決まるものでしょう。そういう場合は「定義する」がふさわしいように思われるかもしれません。しかしこの場合は対象が人間ではあっても一人ではなく複数の人間であるし、芸術作品になればそれはなおさら別物であり、つまるところ彫刻素材の木のブロックに上下前後左右を割りてるのと同じことであり、すでに他の対象(すなわち一人の人間)で確定した(定義済みの)のシニフィアンとシニフィエのセットとが割り当てられたものと言えます。これは横たわっていたり倒立していたり、という正立していない一人の人間の場合にも言えることだと思います。

 では、その、正立している人間の上下前後左右は一体いつだれが定義したのでしょうか?これはもう、日本語として言語的に、あるいは辞書的に定義されているとしか言いようがありません(例えば人が北を向いた時の東が右)。言語的な直観とでもいえるようにも思われます。ではそのシニフィアンに対応するシニフィエは一体何でしょうか?それを考えるときに問題になるのは、そのシニフィエはいつでも常に上下前後左右というシニフィアンと対応しているとは言えないことです。これは前回の話題になったように、あるシニフィエは常に同じシニフィアンにくっついているとは限りません。前回は自分の視空間の立場で考察してみたわけですが、他人を見ている場合も仰向けに寝ている人を見れば、普通は顔やお腹の方を上と見るのではないでしょうか。横になったり、逆立ちしたりというだけではなく、よじったり、腰を曲げたりすることができるし、絶えず動き回り、位置と姿勢が変化しています。そういう問題を避けるために位置や姿勢とは関係のない頭部だけを取り出して考察してみることもできます。他方、あらゆる人間に共通する要素を取り出してみるとすればやはり正立して動きのない状態の人間で考察すべきかもしれません。ただ簡単のために、ここでは頭部で考察を進めてみたいと思います。

しかし、単純化のために頭部だけを取り出してみても、何が上下前後左右などの方向軸あるいは方向性の(究極の)シニフィエなのかということは、色と同様、結局はそれを指し示すことでしか表現できないわけですが、やはり色もいくつかの指標で表現されているのと同様、 何とか言語的に表現しない限り話になりません。結論を言ってしまえば、それが知覚空間であり、幾何学空間の等方性に対して異方的な性質を持つということになるのだと思います。しかしその結論に至るまでを説明しようとすると、それはちょっと一筋縄ではゆかないように思います。ですから知覚空間、視空間の性質から逆にたどって他人というか、具体的な人間の身体へと対応付けてゆく方法をとるのも一つの方法だと考えます。

単に形状などのイメージと考えれば彫刻や人形と同様、それは人間そのものの写しでしかないわけです。ただしそこには人間という存在の意味が込められているわけです。ですから、それらの方向軸は先に考えたとおり、「定義された」ものではなく(意味が)「割り当てられた」ものです。ですから少なくとも外的な形状そのものではないことは確かです。第一、外的な形状では、左右について方向が区別できません。しかし知覚空間と考えるならば、左右についてもはっきりとした違いがあります。左右を逆にした文字列が読みづらいことは上下を逆にした場合と同様です。視空間の全方向的異方性についてはこれで十分だと思います。


こうしてみると、具体的な個々の人間(の身体)の方向軸のシニフィエも他の物体やイメージと同様に「定義する」ものでも「定義された」ものでもなく、「割り当てる」ものであり、その割り当てられるオリジナルのシニフィアンとシニフィエのセットは、視空間のものであるということができます。

というわけで上下前後左右に相当する(常に上下前後左右という言葉で表現されるとは限らないものの)究極の、根源的なシニフィエは幾何学的な形状が持つものでも、物質的な身体のが持つものでもなく、視空間という知覚空間が持つ方向感覚が反映されたものと思われます。ではそれは何に由来するのかといえば視覚自体に由来するとは言えないと思います。それは身体感覚か、生理学や医学で言われる体性感覚などに由来するとしか考えられません。というのも、視覚を持たない人にも、目を閉じているときでもそのような感覚はあるからです。

視覚自体もそうですが、こういった知覚は主観的なもので、他人の知覚をそのまま認知することはできないものです。そこで、端的に言って、他人の姿、つまり像に自分を重ねて、擬人的に推定するしか比較しようが無いものです。この点で、高野陽太郎先生が鏡像問題の議論において鏡像を擬人化して左右を判断しているのは自然なことであり、そのこと自体は良いとしても、それで鏡像問題、鏡映反転の問題が解決したといわれてもねー?ということですね。そこから鏡像問題よりも視空間の問題へと広がれば良かったと思うのですが。全般に鏡像問題の論文で、少なくとも意識的に、「視空間」という用語を使用して考察を進めたものがなかったことも問題であると考えています。
(2018年4月26日 田中潤一)

2018年4月4日水曜日

(続続続)シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― 多様なシニフィアンとシニフィエの対応関係

ここで一つの例を考えてみます。人が仰向けに寝ころんでまっ直ぐ正面を見ているとします。空を見ているにしろ、天井を見ているにしろ、たいていの人はこういう場合、上の方を見ていると意識するものです。ではこの場合、この人は自分の頭頂部の方向をどのように意識するのでしょうか?この人に尋ねてみると、やはり正立しているときと同様に「上」というでしょうか?これは表現力の問題にもつながりますが、もっと即物的に「頭頂部の方向」ということもできます。足元の方向も同様に、「下の方」というよりも「足元の方向」と表現することが正確でしょう。そうしてみると、仰向けになっている場合は「上の方」も「正面の方向」という方が正確で誤解を防げるように思われます。視空間で考えてみると、この人が正立しているときの視空間の前方が、この場合には上方になっているわけです。

こういう場合、この人が正立している場合の「前」のシニフィエは、知覚される重力方向による「上」 というシニフィアンに引っ張られてくっ付いてしまったようです。そうして、正立しているときの「上」のシニフィエは、別の言葉(シニフィアン)である「頭頂部の方向」に乗り換えてしまいました。同様に「下」のシニフィエであったものが、「足元の方」というシニフィアンに乗り換えてしまったことになります。もはや「前」と「後ろ」、そして「下」というシニフィアンは無用になってしまったようです。しかしこの人が仰向けになったままで本を見たり、スマホなり他のディスプレイなどで映像を見るとしましょう。再び正立しているときの「前」、「上」、「下」というシニフィアンが復活しそうです。

見方を変えてみると、上下・前後・左右の各シニフィアンには絶対的にひとつづつが1対1で対応するシニフィエというものは無いと考えた方がよさそうです。例えば英語では日本語の上下にそのまま対応できるような言葉はありません。「上」の場合、topがあてられることもありますが、aboveとかonとか、別の表現が求められる場合が多いですね。「後ろ」も少なくともbackとかrearの二とおりがあります。日本語でも、特に「上下」の場合は「天地」が使われる場合が多々あります。ところが面白いことに左右だけは日本語でも英語でも常に右と左、rightとleftなんですね。

では左右のシニフィアンが常に、絶対的に不動かといえばそうではないと思います。視空間の場合に限っても、上述のように仰向けではなく横になって、例えば右を上にして横になっている場合、正立しているときの視空間の「右」のシニフィエはやはり、仰向けの場合の前方と同様に「上」というシニフィアンに引っ張られて乗り換えることが多いのではないか思います。ただしこの場合は「右」というシニフィアンが残る場合も多いのではないでしょうか。両者のシニフィエが同時に共存しているのかもしれません。実験のテーマになるように思います。

上記は左右の特殊性というより、むしろ上下の特性に由来しているように思います。というのは重力方向の知覚には上下だけしかないからです。

実は、今回の稿は重力方向の知覚と視空間の上下の問題について考えていたことがきっかけだったのですが、シニフィアン・シニフィエの関係で前回の続きのようにになってしまいました。

重力方向の知覚と鏡像問題の関係は興味深い問題ですが、しかし鏡像問題とくに鏡映反転の問題に限った場合、実際の現象に適用するにはあまりにも複雑になりすぎるように思われ、今の段階であまり追求しても仕方がないように思います。鏡像問題、特に鏡映反転の問題では視空間の上下前後左右ではなくむしろ対象となるイメージ、つまり像の上下前後左右が問題であり、この場合の上下前後左右は観察者が独自の基準で像に割り当てるものだからです。ただし完全に任意に割り当てることができるのではなく、2つの軸だけしか任意に割り当てることができないということです。これが多幡-奥田説の「左右軸の従属性」の本質であるように考えています。ただ今回のテーマは鏡像問題から離れていますのでこの問題についてはこれまでにしておきます。

視空間の問題に戻ると、視空間自体の方向性は上下前後左右という抽象的な、シニフィエが浮動しやすい方向性ではなく、身体の構造、外形に現れる構造あるいは機能に由来するものであることが明らかになってきたようです。

今後は基礎的な知覚あるいは感覚そのものの研究で、シニフィアンとシニフィエの視点による考察の展開が望まれるような気がします。実は少し前、先週ですが、次の研究をネットで見つけました。

『重力方向知覚における視覚刺激の過T向きと種類および身体の傾きの影響』根岸一平・金子寛彦・水科晴樹、東京工業大学大学院理工学研究科物理情報システム専攻 ― 光学 38, 5 (2009) 266-273
https://annex.jsap.or.jp/photonics/kogaku/public/38-05-kenkyuronbun.pdf。

十分に読んではいませんが、改めて重力方向の知覚について感覚器官との関係などを含めて興味深い知見を得ることができました。ただこの種の実験的研究で特徴的なことは常に角度などの数値的なデータをとることに重点が置かれていることです。ですから有名なI.Rockの研究と同様、身体を機械的に傾けるといった多少大掛かりな装置が用いられています。とにかく現在の科学では実験に基づく定量的な研究が主流であることを物語っているように思います。それに対してシニフィアン・シニフィエの視点による意味分析の方が、さらに本質的な問題に切り込んで行けるのではないかと思うものです。
(2018/04/05 田中潤一)

2018年3月8日木曜日

(続々)シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― シニフィアンならぬシニフィエの一人歩き

【今回の結論】 
  1. 視空間の全体(前方半分しか見えないが)は見える世界全体のイメージと重なっているが、それぞれの上下前後左右のフィニシエは両者で一致することなく常に移ろっている。
  2.  視覚像全体の上下前後左右は視空間の上下前後左右とは独立しているものの、無関係ではない。なぜなら環境としての視覚像の中心には常に観察者が存在し、観察者なしで存在しえないからである

上下・前後・左右に関してシニフィアンとシニフィエの関係は考えれば考えるほど奥が深く、まことに複雑で微妙なものがあります。先にシニフィアンの独り歩きを考えてみましたが、逆のシニフィエの独り歩きも考えなければならないまでになってきたようです。

同じ「上」でも視空間の上と視覚像の上とは別物で、つまり同じ「上」でもシニフィエは異なることになります。例えば視空間の上の方向は当人がまっ直ぐに立っている場合は当然頭上の方向になり、同時に通常は当人が見ている対象に割り当てる「上」と同じ方向になるといえます。

ここで当人が、例えば畳や長椅子の上などで左側を下に横になって室内とテレビ台上のテレビなどを眺めている状況を考えてみます。こういう時はたいてい腕枕などをしているものですが、この際、頭も真横になっているとします。このとき彼は、室内全体とともに机の上面もその上のテレビもテレビに映っている人物についても、彼がまっ直ぐにしているときと同様に「上」を割り当ててそう認識していると考えるのが自然でしょう。このとき彼の身体の右側は立っている他人が見るともちろん上ですが、当人自身も自分の身体の右が上を向いていると考えることでしょう。この場合、視空間についてはどうでしょうか。まあ普通は視空間などというものは意識しないものですが、しいて言えばやはり身体の感覚に合わせて頭部の右側に相当する側を右とみなすように思われます。ところが視空間の頭頂部の方向や足元の方向についてはどのようにみなすでしょうか。どうも「上」や「下」とはみなし難いのではないでしょうか。例えばテレビのなかで人物がこちらを向いているているとすれば、その人物の方向に合わせて右または左とみなすのではないかと思われます。しかし当人の視空間の頭頂部の方向というフィニシエ自体は同じものなのです。ですからこの場合はもともと彼の視空間の「上」に相当するフィニシエが視空間内の対象イメージのフィニシアンにほうに引っ張られ、そちらの方に移動してしまったと見ることができます。

このように言葉の意味はまことに移ろいやすく同時にシニフィアンとシニフィエとの結びつきも移ろいやすいものだといえます。シニフィアンとシニフィエとの関係は目に見えないものであるだけに何らかの学問体系でいかに厳密に定義しても完全には統御できないもののように思われるのです。しかし逆に言えば、シニフィアンとシニフィエの関係はまたとない意味分析の手段であるともいえるかと思われます。実を言えば、個人的にシニフィアンとシニフィエについてはかなり昔、新書版程度の薄い入門書で知った記憶があるだけで、最近まで忘れていたのですが。

― 内側から見た環境あるいは世界のイメージは事実上、視空間と重なっている ― 
こうしてみると視空間と、視空間で見る個々の物体ではなく環境全体のイメージとは完全に重なっているといえます。ただし室内空間の場合は室内という内部空間ということもできますが、青天井は文字通り天井ではなく、下方の大地もむしろ大地の表面を外側から見ているという感覚でしょう。いずれにしても視空間と完全に重なる全体としても視覚像に想定される上下前後左右は視空間の上下前後左右とは一致することなく独立していると考えざるを得ません。

しかし、環境の上下前後左右と視空間の上下前後左右を互いに独立したものと考えることはできないと思います。なぜなら環境の上下前後左右も視空間と同様に観察者の存在なしには考えられないからです。客観的な環境と考えるとつまるところ地球の形状を想定せざるを得ず、地球のこちら側と裏側では互いに逆向きになってしまいますからね。ただし個々の観察者ではなく集合的な人間集団というもの考えられると思いますが。

もう一つ重要なことは、上述のような全体としての視覚像には決して観察者自身の全体としての姿は含まれないということです。 少なくとも頭部を含む全体像については。
(2018年3月8日 田中潤一)

2018年1月28日日曜日

(続)シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― シニフィアンの一人歩き

前回の続きです。冒頭から余談になりますが、「シニフィアンの一人歩き」というフレーズをグーグルで完全一致検索してみると4件ほど見つかりました。紙の文献ではかなり一般的な表現のような気もしますね。

さて、一昨年の暮れに多幡先生からご提供いただいた文献の中にBennet(1990)という「左右の違い」という抽象的なテーマのみを扱った論文がありました。この論文は鏡像問題自体がテーマではなく、このテーマだけでA4くらいの二段組で18ページという長い論文でもあり、これまで読んでいなかったのですが、今回、少し覗いてみました。今の時点で全文を読むのは余りにもしんどい作業なので最初の一ページのほかは、ちらっと見た程度ですが、どうもこの人は、マッハがカントのプロレゴーメナの一節から展開した発見を繰り返しているような印象を受けました。ただしマッハとは似て非なる方向になっているように思います。

両者の違いがどこに起因するかを考えてみると、結局、マッハはプロレゴーメナのみを参照しているのに対してBennetはプロレゴーメナの他にもう一つの初期の論文を参照していることにあるようです。というのは、カントの初期の論文では「右と左の違い」が論じられているのに対してプロレゴーメナではもはや「右と左の違い」の違いではなく「右手と左手の違い」だけが取り上げられているからです。

端的にいって「右と左の違い」は「右手と左手の違い」とは全く異なります。ここにシニフィアン、シニフィエの出番になるのですが、右・左と右手・左手は、シニフィアンとしては非常に強い関係があり、よく似ていてますが、シニフィエは全く違うといってよいと思います。「右と左の違い」は難しい問題ですが、「右手と左手の違い」は単純に三次元的な形状の違いに還元できるわけです。カント自身、プロレゴーメナの中では「右と左の違い」にはもはや言及していないと思いますし、マッハもここでは「右手と左手の違い」に徹して、対掌体の概念を説明するに至っているものと考えられます。


マッハは他方で「右と左の違い」を「右手と左手の違い」とは離れたところで考察した結果、「左右も上下・前後と同様に異方的である」という発見ができたのだと思います。カントは「右と左の違い」を考えたとき、「上と下の違い」や「前と後ろの違い」を考えることがなかったのに対して、マッハは心理学者、生理学者でもあったので、感覚の問題として上下・前後・左右を考えることができたからではないでしょうか。カントも左右を感性あるいは直観の問題とみなしていたとは思いますが。

それにしても現代の英語圏の心理学や認識論の分野でマッハがあまり参照されていないように見えるのはなぜなのだろうか?という疑問がここでも起こります。 ガードナーにしても、あの有名な著書の中で、物理学者としてはマッハを非常に尊重しているのに心理学者あるいは認識論学者としてのマッハには全く言及していないのです。マッハが鏡像問題を考察しているにも関わらずです。


さて、シニフィアン、シニフィエに戻りますが、以上のように上下・前後・左右をシニフィアンの視点で見直してみれば、上下・前後・左右を軸とした固有座標系の概念にはやはり無理があるように思います。というのは、一般に座標軸で使われるx、y、zは変数であって何の値でも良いわけですが、そういうところに上下・前後・左右を持ってくると、上下・前後・左右のシニフィアンが文脈を離れて一人歩きするようになり、知らぬ間にシニフィエがすり替わったり逆転していたり、という話になりかねないと考えるわけです。これはまた数学的表現や幾何学的表現自体にもいえるのではないかと思え、早くからゲーテが数学の過剰な使用について危惧していたことも思い起こされます。
(2018/01/28 田中潤一)

2018年1月15日月曜日

シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)

「意味するもの」と「意味されるもの」という表現についてはこの鏡像の意味論シリーズでも使用したことがあります。しかし、このこれらの表現については、私はこの方面で専門的に詳しいわけでは全くありませんが、シニフィアン(signifier)とシニフィエ(signified)という公認の術語がある以上、この言語学の専門的な術語を使った方がかえって分かりやすく、インパクトもあるように思います。

端的に言ってシニフィアンとシニフィエの区別は、上下前後左右という言葉たちを理解する鍵になると思います。

例えばリンゴという単語はたいていはリンゴの果実を表しますが、リンゴの木を表す場合もあり、象徴的に、また比ゆ的にも様々な意味で用いられます。しかしリンゴの場合は殆どの場合は文脈で何を意味しているかはすぐに分かるものです。ですから日常的にはいちいちリンゴという言葉が何を意味しているのかを考える必要などありません。しかし上下前後左右はそういう訳にはゆかないものです。ですから日常的にもしばしば混乱が生じることもあります。人間だけをとってみても、上は普通、頭頂部を意味しますが、逆立ちをしている人の場合、「上」が足の下を意味することもありもます。また、いま私が使っているキーボードでは数字は1から0に至るまで左から右へと並んでいます。アルファベットではQが左端にありPが右端にあります。「右」の辞書的な定義は、ヒトが北を向いたときの東側ということですが、キーボードの前側を北に向けると、Qは東側にあり、ヒトが北を向いた時の右側に相当します。Qは本来キーボードの左側にあったので、ヒトにおける左右の定義とは逆ということになります。このように左右の場合、シニフィアンとシニフィエとの関係が対象により逆転する場合が生じます。これは左右に限ったことではありません。キーボードを裏返して前側を北に向ければヒトの場合と同様に東側が右側に一致しますが、当然、上と下の関係が逆転することになります。同様に、ヒトの上下は頭や身体の各部で表現されるにしても植物の場合はそうは行きません。第一、植物には上下はあっても左右や前後はないのが普通です。

このように一見、左右だけが特別に思われがちですが、上下、前後、左右はすべてこの点では同じことです。それで、マッハが「左右も上下や前後と同様に異方的である」と言ったのだと思います。

ここで、例として「上」だけをとって考えてみますが、あらゆる物、あらゆる場合に共通する 「上」の概念、あるいは何故にヒトの頭の方向や植物が成長する方向に「上」という言葉が用いられるのかを考えてみる必要が当然のこととして生じます。それは、つまるところ視空間における「上」が根本的な基準ではないかというのが私の考えです ―― 視覚に関係する限り ――。天と地、あるいは地上という環境が本来の上下の基準なのではないか?という反論が呈されるかもしれません。しかし真に客観的に、この場合は物理的に考えてみると、天の方向は地球の裏側では逆になるはずです。天地、あるいは地上環境という概念自体が物理的なものではなく、ヒトという個人ではないにしても人間一般に共通する主観的な空間が起源であるとものと考えられます。

こうしてみるとヒトの知覚空間、この場合視空間はシニフィエで満たされた空間であるというができ、 つまるところ「意味されるもの」、簡単に言って「意味」そのもので満たされた空間であり、その中で方向を表す上下前後左右のそれぞれが異なった意味を持つ以上、あらゆる方向と位置で異なる意味を持つ空間であると言え、視空間は「異方的」であるということができるのだと思います。

このように空間の異方性を理解する鍵はシニフィアンとシニフィエとの関係にあり、『意味』にあると言えます。
(2018/01/14 田中潤一)

2017年10月16日月曜日

上下・前後・左右の決め方 ― その1(鏡像の意味論、番外編その2)

視空間』とされるものは、それ自体は文字どおり空虚な空間であって物質ではないのはもちろん、その中に成立する像そのものでもない。しかしそれには厳然として上下・前後・左右の三つの方向軸で表される方向を持っている。それに対して物体、それも個体である物体も、同じように上下・前後・左右の方向あるいは「側」ともいえるが、そういう方向を持つとされる。しかし一体何を基準にこのような方向が定義されるのだろうか。

視空間の上下・前後・左右は基本的に(言い換えると既定の位置で)身体の上下・前後・左右と一致している。その人間の身体そのものの上下は基本的に(既定の位置で)天と地の方向、言い換えると重力の方向と一致している。前後はそのものずばりで、あらゆる意味合いで前方と後方に一致している。左右軸はそのあとで、つまり最後に決まるので、大阪府立大学名誉教授の多幡先生によって「左右軸の従属性」という概念が与えられている。(この考え方については、少なくとも人間と眼を持つ動物については受け入れられる有意義な概念であると考えます。ただ異なった表現もできるとも思いますが、別の機会に譲りたいと思います)。

このように視空間の上下・前後・左右はだれにとっても普遍的で一義的に決まっているとしてまったく問題はないと考えられる。

ところが人間以外の動物や道具や無機物など物体一般の場合にもいつもこのように上下・前後・左右が一義的に決まるとは思えない。幾何学的な形状の場合にはなおさらそうである。この点で、幾何学的な形状や性質、例えば対称性などで上下・前後・左右が決まるという、よくある説は、まったく受け入れることができない。

単なる物質の塊を考えてみよう。例えば宇宙のどこから来たかもわからない隕石などがそうです。ただし、当座の目的で観察者の上方と一致する側を上とすることは自然であるし、対面する側を前と決めることは有りだとはいえる。しかし、それは本当にその観察者のそのとき限りでの定義に過ぎない。したがって単なる物質の塊には一義的に決まる上下・前後・左右はないと言える。

動物の場合はどうだろうか。改めて振り返ってみると、幾何学的に上下前後左右のバランスで人間に近い動物は事実上、類人猿とタツノオトシゴくらいなものだろう。トンボなど、空飛ぶ昆虫は、鳥類もそうですが、羽を広げると上下が薄っぺらくなる。カニなど、地を這う生き物も上下が高くない。殆どの動物に共通する特徴は、眼が向かう方向と移動するときに進む方向が前方という点だろう。しかしヒラメのように前が見えるかどうかは別として目が殆ど上を向いている動物もある。

移動する方向で見ると、カニは左右方方向で、それも左右のどちら側へも移動できる。カニの場合は眼の向きと移動する方向は一致しないと言える。また最後に決まる方向が左右であるという表現もカニの場合に限って適用されるかどうかは問題がなきにしもあらずである。というのも、カニの場合は前後の形状が比較的に似ていて、遠くからみるとまず動く方向が目に付くのではないか。最もどちらが右でそちらが左かは、それではわからないが。それでも最初に判断できるのが左右の方向になる場合も少なくないだろうと思われる。

動物の場合に普遍的に言えることは、1)正立した人間の視空間で、同様に正立した動物を見た場合に人間の視空間の上下と一致する方向が上下であること、そして2)眼の向きと進行方向の2つの要素で人間の視空間の前後と一致する方向が前後である場合が殆どである。ただし、後者にはカニのような例外もある。

道具や機械の場合は動物の場合とはまた異なる面がある。乗り物の場合は簡単で、まず例外なく搭乗する人間の方向に一致している。 ところが乗り物以外の場合は人間とも動物とも、もちろん無機物とも異なる問題がある。ピアノの鍵盤を考えてみるとわかりやすいのだが、普通は高音側を右といい、低音側を左としているのではないだろうか。一方、演奏する人に向かう側を前とみなすのが普通と思われるが、そうすると左右の方向が人間や動物とは逆になる。一般に道具や機械は人間が両手で操作するものである。だから右手に対応する方向を右とし、左手に対応する方向を左と決めのが自然なのだ。つまり道具や機械の左右は人間の都合に合わせて決められるのである。これは左右の定義が逆になるということであり、私はこれを本ブログや論文で「意味的な逆転」と称している。普通に左右の辞書的な定義とされる「人が北を向いたときの東側が右である」という点で逆になる(西側が左)のだから「意味的な逆転」というのは正当だと考える。 

植物や地形(山河や湖など)などの場合、上下はどの場合もまず例外なく人間の視空間の上下と一致している。前後と左右については植物学や地形学で決められる場合もあるだろうし、もっと実用的または技術的な目的で、あるいは美的な判断で適当に決められる場合もあるだろう。それ以外の場合は最初に挙げた隕石のように単なる無機物の塊と同様、視空間との関係でその場限りの定義を与えるほかはないだろう。

このように考察を進めてくると、一般に生物や道具や機械の前後と左右はその機能的な特徴で決まるといえる。機能と考えると、動物の場合はその動物自身にとっての機能と言えるが道具の場合は人間にとっての機能になる。植物の場合は、動物にとっても言えることだが、多分に人間にとっての機能になる可能性が高いといえる。

さて、現下の目的は視覚認知の研究である。対象の機能といっても視覚的に認知できる限りでの機能その他の特徴であり視覚的に判断するほかはない。つまり視覚像、端的に言って眼でとらえた像で判断するほかはないのであり、これは直接見る場合も、眼鏡や望遠鏡を通してみる場合も鏡を介してみる場合も同じことである。つまるところ視空間の中の像で判断しているのである。機能と表現しようが、単に特徴あるいは性質と表現しようが、像あるいは像の部分の形状や色などの視覚的特徴で判断しているのであり、つまるところそれは形状や色の持つ「意味」というよりほかはないものである。

音の場合、そのさまざまな特徴からそれが何の音なのか、誰の声なのか、音楽なのか雑音なのか、さらには音楽の場合には音楽が表現する内容が認知できなければ音を聞く意味も音楽を聴く意味もないのと同様、言葉の場合は当然、言葉の表す意味が認識できなければそれは言葉ではなくなる。このように言葉の本質は当然意味であり、同様に知覚される音の本質も音の意味であるのと同様、視空間で認知される像、形状や色をっ持つ像の本質も他の感覚による知覚と同様、何らの内容を意味するものであり、意味の内容でもある。

例えば絵や写真を逆さにすると印象の全然異なるものになり、何の絵かわからない場合もあればまったく違ったものを意味するようになる場合さえある。しかし幾何学的な形状自体は逆さにしたところで何も変わっていないのである。像の形状その他の特徴が視空間の上下・前後・左右と不可分の関係にある。上述の人や生物や道具の機能を含め、さらには美というような芸術的な意味を含め、視空間で把握される意味は上下・前後・左右の要素と不可分の関係にあり、上下・前後・左右の方向自体もそれ自体が意味であるともいえる。

幾何学的な性質も図形の持つ意味とはいえるかもしれない。しかし長さや角度などの幾何学的性質は相対的に規定されるものであり、視空間の上下・前後・左右とは関係のないものである。対称性、具体的に鏡面対象とも呼ばれる面対称にしても相対的な関係である。面対称を「左右対称」と呼んだりすることがあるからややこしくなるのであって、面対称または鏡面対象は左右とは無関係である。上下と前後に対する左右の特殊性は別のところにある(文末注)。要するに幾何学的特徴は対称性をも含めてすべて異方的な視空間ではなく等方的な幾何学空間の属性である。

というように、視空間は意味の空間なのだが、この空間、上下・前後・左右を持つ空間は眼球という一種の臓器、逆の言い方をすると、一種の臓器である眼球という物体と、完全な対応関係にあり、それも一つの重要な問題といえるのである。 

(10月17日追記注記) 
  • 例えばピアノの高音部と低音部の関係をみると、それが外形に表れているのはグランドピアノだけであって、アップライトピアノは形状では左右の区別がつかない。また機能的にも左右を入れ替えることが不可能なわけでもない。人間を含め多くの動物についてもそれが言えるので、対称性が左右と本質的な関係があるのではないかという疑いが生じることは理解できる。しかし、これも上下でこういう対称性を持つ機能がないわけではない。例えば砂時計を想起してみよう。
(2017年10月16日 田中潤一)

2017年10月10日火曜日

虚像(光学的)の一人歩き(「鏡像の意味論」番外編)

岩波理化学辞典には「像(image)」の項目で実像と虚像の区別が定義されている。それによれば「光学系を通過した光線が実際に像点を通過する場合」が実像で、「光線を逆向きに延長したものが像点を通る場合には虚像という」、とされている。ウィキペディアには「虚像」の項目があり、同じような定義が説明されている。またこちらには「レンズの公式」という項目がリンクされていて、それによれば虚像の場合は、実像の場合には正数で表される特定の値を負数で表すことで、同じ公式で表現できると説明されている。鏡像問題で散々、いろいろと思案を重ねてきたいま、改めてこのような定義を見てみると、幾何光学というものは事実上は良くも悪くも科学であるというよりは技術であるという現実に直面せざるを得なくなる。

端的に言って、上記の定義では眼、具体的にいえば眼球の存在が抜け落ちている。実際、虚像でもレンズ系の作る虚像の場合、多少ともまともな説明では眼球と水晶体が描かれている。つまり眼球内にフォーカスする実像なしに虚像はあり得ないのである。だから、眼球の役割を除外した虚像の定義は科学的には明らかに欠陥があるといわざるを得ないと私は思う。ただ技術上の目的には必要はないとはいえる。

一方、同じ虚像である鏡像の場合、少なくとも鏡像問題などの場合に眼そのものは大まかに表現されることはあっても、眼球の構造まで表現されることは恐らく、断言はできないものの、これまでは皆無だったのではなのではないだろうか?

鏡像は普通、虚像という言葉で表現されず、単に鏡像と言われる。ある意味これも当然であって、「鏡像」は単に実際の鏡像を意味するだけではなく、面対称の図形や面対称の構造を持つ物体そのものをも意味することが多く、そういうものは少なくとも光学的な虚像とは言えないからである。しかし困ったことに(と私は考えるのですが)、逆に光学的な虚像であるはずの現実の鏡像の問題においても、単なる面対称の図形や物体の意味での「鏡像」がそのまま逆輸入されることになり、的が外れた単純化や逆に不要な複雑化あるいは錯覚が持ち込まれることも無きにしも非ずではないかと思う。あげくの果ては某最高学府の心理学名誉教授のように、鏡像が鏡の表面にできる平面パターンであると考えて論旨を進めるような理論も出現することになる(必ずしも他人ごととは言えないところが怖い)。

以上は言葉としての「鏡像」の一人歩きと言えよう。ところが、言葉ではなく現実に鏡像としての虚像そのものが一人歩きするところがまた奥深くもあり、面白くもあるところなのである。 この場合の「虚像の一人歩き」は鏡像の観察者の知覚と思考の内部で生じる。簡単に言えば、記憶された鏡像が思考空間の中で操作され、比較されたりすることである。この場合は当人の思考により操作されているわけだから一人歩きというより、歩かされている、あるいは動かされている、というべきかも知れないが、まあ元々一人歩きという擬人化表現を用いる以上、そこまで厳密にいう必要もないだろう。

こう考えてくると、鏡像のみならず、あらゆる像にそれが言えることになる。つまり鏡を介さずに直接に見る像である。なぜなら直接に見る像も鏡像と同様に眼球内に結像する光学的実像に対応する虚像に他ならないからである。要するに普段私たちが見ているもの、言い方を変えると視覚的に近くしている対象は物体そのものではなく鏡像と同様に像なのであり、あらゆる像は虚像に他ならないいことがわかるのである。 


虚像の定義でもう一つ問題というか、注目すべきと思うは、上述のように特定の値を負にすることで実像と同じように扱えるという点である。というのは、特定の値にマイナス記号を付けるだけなのだが、マイナス記号を付けることの意味がマイナス記号の中でいわば全くブラックボックスとなっていることなのである。特定の値につけられたマイナス記号に、マイナス記号だけからは想像も及びもつかない意味が込められていることになる。このマイナス記号に人の眼の構造と機能が込められているともいえるのである。実像の場合は、眼の存在は直接には、少なくとも虚像が関わるような意味では関わらない。実像は写真に固定したり、テレビ画面に映し出したりできるので現実に、あるいは物理的に一人歩きできるともいえる。

2017年10月3日火曜日

鏡像の意味論その24 ― 等方的な幾何学空間としての鏡像認知空間と異方的な知覚空間としての視空間

【今回の要点】
  1. 視空間は、各自の眼球内に物理的に結像する実像に対応する。換言すると実像に基づいて同時的に成立する虚像空間であり、異方的な知覚空間である。
  2. 鏡像認知空間、記憶された虚像(鏡像としての虚像および直視像としての虚像)をその中で移動や回転など思考操作する等方的な幾何学空間である。
  3. 上下・前後・左右は、基本的に各自の視空間それぞれに固有の直交する三方向軸(座標軸ではない)である。このような空間は各点が固有の価値をもつので異方的な空間と定義されている(マッハ、カッシーラーによる)
  4. 鏡像認知空間で比較操作される各像は視空間で認知された上下・前後・左右をそのまま引き継いでいるが、それらを包含する全体としての空間は等方的であり、上下・前後・左右などの区別はなく、位置も長さも方向も相対的に規定されるのみである。
  5. 観察者は常にこの両方の空間を使用するが、認知プロセスにおいてあるときは視空間を選択し、ある時は鏡像認知空間を使用する。その際に個人と環境の条件により大幅な差異が生じる。

先般の2回のテクニカルレポート:(1)鏡像を含む視空間の認知構造と鏡像問題の基礎、(2)鏡像を含む空間の認知構造の解明に向けての予備的考察 はいずれも、等方的な幾何学空間と異方的な知覚空間との対比に基づいた鏡映反転の認知メカニズムを骨子として鏡像の問題を扱っていたのですが、十分に理解を得るのが難しかったようです。いま改めて反省してみれば、自分でも明確に把握できていない部分があったことも事実です。等方空間についても異方空間についてもただ抽象的に論ずるだけで、それが現実のプロセスでどの局面で妥当するのか、どの空間に該当するのかという具体性の点で、今一つ明らかにできていなかったように思います。

そもそも視空間だけで鏡像認知空間をまったく用いなければ鏡像を鏡像として認知できず、直接見る像と区別できないことになります。他方鏡像認知空間だけで考察すると、単に対掌体の説明で終わることになります。人間に固有の能力か他の高等動物にも見られるかは別として、鏡像を直視像と比較する場合は必ず両方の空間を使用しているといえるでしょう。
 
高野説は基本的に視空間だけしか考察していないと言えます。ただ文字や記号の場合だけ「記憶」というものを加味しています。一方、高野説が考慮していない等方的な鏡像認知空間は記憶像の存在が前提となっています。思考操作するには記憶像がなければ始まりません。ですから鏡像認知空間を使用する場合は、わざわざ新たに記憶を持ち込む必要はないのです。

今回は殆ど要点のみで簡単ですが、これまでとします
(2017年10月3日 田中潤一)

(10月5日追記)タイトルの「その23」 が前回と重複していましたので「その24」に訂正しました。

2017年7月30日日曜日

鏡像の意味論その23 ― 擬人化と「固有座標系」との深い関係

今回の要点
  1. 鏡像を擬人化することで語ることができる問題は、鏡像の問題に固有の問題ではない。
  2. 知覚心理学で使われている「固有座標系」などの概念は物体や空間の擬人化に由来する。
  3. 固有座標系の概念に関連する問題は鏡像の問題、特に鏡映反転の問題に固有の、あるいはあらゆる鏡映反転に共通する問題ではない。

鏡像問題との関連で擬人化の問題については何度か言及したことがあります。特に高野説、つまり高野陽太郎先生の多重プロセス理論の「視点反転」、今回参照している Takano (1998) におけるType I で鏡像の Viewpoint(視点)に基づいた説明、つまり、自分の鏡像を見ている場合、鏡像自身の左右は人物としての鏡像自身の視点で鏡像氏自身の右手と左手を見ることで判断するので、観察者自信の左右とは方向が逆になっているという考え方ですが、これは明らかに鏡像を擬人化した説明になっています。

擬人化だから直ちに間違いであるとか、良くないというわけではありませんが、擬人化が持つ意味をよく考えてみる必要があるでしょう。鏡像を擬人化することはすなわち鏡像を現実の人物に見立てることです。つまり、逆に考えると、鏡像を擬人化することで語ることが可能な問題は、現実の人物についても該当する問題であるということになります。 要するに、観察者が現実の他の人物と対面している場合に、対面する相手自身の左右を判断する場合と同じプロセスであるということです。もちろん、これだけで鏡映反転を説明するには不都合なので、高野先生は光学的な説明を付加的な条件として加味しています。次はTakano (1998) からの引用です。
"To explain the Type I reversal precisely, the optical transformation by the mirror has to be taken into account. As stated earlier, the mirror reverses an optical layout along an axis perpendicular to its surface." 

この条件を「光学的変形(変換)」と呼ぶのには賛成できませんが、光学的な条件が関与していることには間違いありません。むしろこちらの条件が鏡映反転の中心的なメカニズムであるはずですが、高野先生はこちらの条件を副次的な条件のように考え、それ以上は深く掘り下げて分析することなく、「光学的変換」という一言で済ませ、その後はむしろ「視点反転」について込み入った分析を開始し、そこから「固有座標系」という概念を導入しています。
 
一部の知覚心理学者によって ― 必ずしも鏡像の問題について考察するためではなく ― 導入されていた「固有座標系」の概念を使用して、高野先生はそれ以降、Type II 以後の鏡映反転について長く複雑な議論を展開しています。

この、固有座標系を使った解析は鏡像問題においても高野先生以外の何人かの論者で使用されています。しかし全く使用していない論文もあります。ただ、日本語では「固有座標系」としてほぼ統一的に呼ばれていますが、英文の論文ではかなりいろいろな用語が使用されていて、定義が極めてあいまいなのです。例えば、「object axis system」「frame of reference」、「intrinsic reference system」、「internal reference system」、「intrinsic coordinate system」、「viewer centered coordinate system」、「object centered coordinate system」といった具合です。Ittelson (1991) ではさらに流動的で、「reference systems or axes」、「physical system」、「object axes」といった具合で、systemとaxisが同じような意味で使用され、これらのすべてを単純に「固有座標系」あるいは「~座標系」と置き換えることは無理でしょう。 ちなみにIttelson (1991) では「coordinate system」は他とは区別されているようです。


つまるところ、固有座標系の類の概念で論議されているのは、鏡像問題に限らず、観察者自身以外の人物や道具などの物体あるいは対象の固有の上下・前後・左右を決定する基準なのです。ここでまた擬人化が問題になるのは、物体の場合はその物体固有の上下・前後・左右を決めるだけなのですが、人間の場合、身体の上下・前後・左右だけではなく、本人が知覚する右方や左方などの空間的な方向感が問題になることです。言わば彼の人物の身体外部の空間についても上下・前後・左右が問題になるわけです。普通はこういう感覚は物体に適用されることはありません。物体に適用されたとすれば物体が擬人化されています。自動車など乗り物の場合はこういう擬人化がありそうです。

固有座標系に類する概念は、人間が知覚する方向感覚が物体にまで擬人的に適用された結果、ひいては空間そのものまで擬人化された結果であるということができます。鏡映反転の場合は 2つの像の形状の差異、相対的な逆転を問題にしています。そこで鏡像は人間の鏡像であってもあくまで像であって感覚や知覚を持つわけではなく、道具などの物体と同様にそれ自身の上下・前後・左右などが決まればよいのであって、像の外側の空間はどうでもよいのです。

 そのためか、固有座標系の概念を用いた理論は途中で挫折、あるいは諦めているか混乱している場合が多いように思います。個人的には座標軸として上下・前後・左右を用いるような座標系の概念自体に疑問を持っています。


鏡映反転の問題がいまだに未解決であるといわれるのは、それが左右逆転の謎として提起され、左右逆転の謎が解明されない限り鏡映反転あるいは鏡像問題が解決したとはみなされないとされていることが大きく関係していると考えられます。また自己鏡像の反転の問題として提起されることも多かったことも関係しています。しかし、あらゆる場合に適用される鏡映反転の問題自体は対掌体の見え方の問題である点で、ある意味、もう結論がでているともいえます。鏡映反転全体に共通するメカニズムは対掌体である鏡映対の見え方に還元されるのであり、逆転して見える方向は左右に限らないことがすでに知られています。ですから、鏡映反転を包括的に記述するには左右逆転にこだわることは諦める必要があるのです。また自己鏡像の場合は自己鏡像の認知プロセスが必要であり、たいていは他者鏡像の鏡映反転から類推できるものである以上、他者の鏡映反転を基礎とすべきであり、他者の鏡映反転に限ればもうすでに明らかになっているといっても差し支えありません。

とはいえ、なぜ上下や前後ではなく左右が逆転して見える場合が多いのかという問題は依然として気になる重要な問題であることには相違ありません。それは鏡映反転に固有の問題を離れた空間認知の問題が反映されているのであり、鏡像問題において集約的というか、極端な形になって表れていると言えます。ですから、鏡映反転と鏡像問題を区別することも一つの利点になると考えます。さらに鏡像問題を超えた空間認知の問題にも寄与できる可能性が多いのであり、開かれた問題として今後とも大いに議論を展開すべきであり、すでに自身の理論で問題が決着していると考える著者も少なくはないかもしれませんが、しかしそうだとすれば、それは偏狭な態度というべきでしょう。
(2017年7月30日 田中潤一)

2017年6月11日日曜日

前回記事『鏡像の意味論その22』の補足 ― 上下前後左右の適用と重ね合わせの比較は別のプロセス

【今回の要点】
  • 鏡像に上下・前後・左右を適用するプロセスと、思考プロセスで鏡映対の一方を回転または移動させて重ね合せて比較するプロセスは全く別の独立したプロセスである

前回記事の要点はまだ良く煮詰まっておらず、固有座標系の概念や右手系、左手系の意味、その他、座標系そのものについての考え方については正直なところ、数学的素養がないため、これ以上考察することは困難なので、これらの解釈については保留しておきたいと考えています。ただし、少なくとも鏡映反転の心理学的な要素である比較プロセスについては固有座標系に類する概念は無しで済ませられるものと考えています。固有座標系とか環境座標系とか、この種の概念を不用意に使用し始めるとその概念自体が流動的で扱いが難しいだけに、どこかでミスリードされかねないような不安があります。

というのは、鏡像問題に限らず知覚心理学あるいは視覚心理学で固有座標系や環境座標系などが使われる場合、上下・前後・左右とか、あるいは東西南北とか何らかの意味のある軸名が使われています。こういう概念を座標系という数学的な概念とどのようにマッチさせてよいのかわからないからです。

さて、以上の問題と関連すると考えるのですが、冒頭に要点として掲げた一点は特に重要で、強調しておく必要があると思います。

たとえば、右肩に鞄をかけた人物が鏡に映っているのが観察される場合、鏡像に正しく上下・前後・左右を適用した場合、左肩に鞄を掛けているように見えるはずです。本人、つまり人物を直接見ると右肩に鞄を掛けているのだから、左右が逆転して見えるということ自体は間違いとは言えません。しかし、この論理は、鏡映関係にはない他人との比較でも言えることです。単に右肩に鞄をかけた人物と、同じ鞄を左肩にかけた人物を比較した際にもこの点で左右が逆転しているということはできます。

この点で鏡像認知プロセスが完了していることが前提ですが、鏡像に上下・前後・左右を適用した後でも、もちろん適用する前でも、可能性としては鏡像認知空間という等方的な空間では2つの像の一方を回転させたり平行移動させたりして重ね合せることによる比較はあり得ます。第一、鞄を右か左のどちらかに掛けているという明瞭な差異が常に見られるとは限りません。2つの形状、特に立体の差異が微妙な場合、どうしても全体を重ね合せて比較しなければ正確な差異は見つけられませんから。要は、比較は常に相対的であり、上下とか前後とか左右といった意味を持つ方向は関係がないということです。この比較が可能なことが幾何学的な思考空間の性質に由来するわけです。(6月13日追記)



ただし、人は普通、上下と前後についてははっきりと意識しますが、左右についてはあまり意識しない、言い換えるとどちらが左でどちらが右であるかは意に介さない、という傾向はあると思います。とくに人物の場合は左右対称に近いことに加え、左右の特徴が入れ替え可能である(例えば同じ人でも右足を前に出しているときもあれば左足を前に出しているときもある)という特性があり、通常はどちらの場合もあり得るところを、鏡像の場合は左右の方向を改めて確認し、それだけで左右の逆転を意識するということは十分にあり得ることだと思います。この点でItteleson(1991)の「対称性仮説」には一定の範囲内で程度の合理性はあると思われます。また「左右軸の従属性」も一定の合理性はあると思われます。ただし、Itteleson(1991)の「対称性仮説」ですべてが説明される訳でもなく、一方の「左右軸の従属性」も「左右軸の決定順序」という固定した規則として定義されていることには問題があると考えます。左右軸の決定順序ではなく、むしろ左右軸の傾向性ともいえる性質として再定義するべきだと考え、テクニカルレポートではそのように再定義したわけです。

以上のような左右軸の性質、さらに上下・前後・ 左右のそれぞれの性質を含め、一切を知覚空間の異方性として捉えることで、鏡映反転を包括的に説明できると考えるものです。ですから鏡映反転を一括して左右逆転の問題と捉えることは諦めるるべきであって、個々のさまざまなケースについて必要ならばは個別のさまざまな条件で考察し、場合によっては実験も行なう必要が生じてくると考えるべきではないでしょうか。

2017年6月7日水曜日

鏡像の意味論その22 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(5)― 従来説における座標系(固有座標系)の扱いとその再定義

【今回の要点】 

  1. 座標系ないし座標軸のセットと方向軸(異方軸)のセットは区別しなければならない座標軸は等方的な幾何学空間で任意に定められる3本の直交する軸であって通常 x、y、zで表現される軸上の位置は相対的で、固有のx、y、zは変数であってそれ以上の意味を持たないが、方向軸は固有の意味と価値を持つのであり、座標空間のなかではむしろベクトルに相当するものと考えられ、矢印で表現できる
  2.  鏡像問題においてこれまで固有座標系と呼ばれてきたものは個別の像空間(像が占有する内部空間)であるものと解釈できる。これに対してすべての像空間(鏡像と直視像を含め)を含む鏡像認知空間が想定できる。鏡像認知空間、Itteleson他(1991)のphysical reference systemや従来、視覚心理学で環境座標系あるいは共有座標系などと呼ばれてきた概念と共通する要素もあるが、座標系というよりは等方的な幾何学的思考空間を意味し、明確に等方的であるために座標軸は相対的な位置を示すのみであり、意味のあるラベル(上下前後左右、東西南北など)を使用しないので、それらとは同じではない。
  3. 等方的な鏡像認知空間には通常の幾何学的な座標系が適用できるのに対して、各々の像空間は異方的であり右手座標系か左手座標系かの何れかが適用できる。
  4. 個別の像空間の内部ではすべての位置が異なる価値または意味を持っている(例:上下・前後・左右のセット)。そのためすべての軸は一方的な方向性を持つので方向軸と呼ぶべきであり、矢印で表現すべきである。
  5. 鏡映対の各像が持つ方向軸(矢印で表せる方向を持つ)は鏡像認知空間の中で、鏡面に垂直な方向で互いに逆方向を向いているが、鏡像認知空間は等方的な幾何学的思考空間であり、その中では像は任意に回転と平行移動ができる。回転と平行移動により直交する3軸のうち2つの方向軸(の矢印の向き)を重ね合せると、残りの1軸の矢印が互いに反対方向を向くことになる。認知される鏡映反転は意識的または無意識的に行なわれたかまたは行なわれなかった操作の結果である。
今回の考察はItteleson他(1991)をレビューすることで進行できました
 Itteleson他(1991)は、まず鏡映対が互いに対掌体になっていることを前提とした上で、物理的な問題と心理学的な問題を区別するために異なった2つの座標系のセットが使用できるとし、その1つ目は鏡と物体を含めた世界に固定されたphysical system物理系)、2つ目はobject system物体系)と呼んでいます。そうして前者が物理的であり、後者は心理学的であるとし、従来理論では両者の概念が混同されてきたと主張しています。そうして上記の2通りの座標系ではなく、「右手系」と「左手系」の2つの座標系のみがmirror transformation(鏡映変換?)を示し、「鏡が光学的に鏡面に垂直な軸を逆転させる」ことを示すとしています。次の図はItteleson他(1991)からの引用です:

図1. William H Ittelson, Lyn Mowafy, Diane Magid, 1991, Perception, 1991, volume 20, pages 567-584 から引用

ただ、この図で示されている座標系は、座標軸が原点すなわちゼロ点からプラスマイナスの方向に延びる直線として表現される普通の直交座標系ではなく、単一方向の矢印で示されています。この矢印は座標軸ではなくベクトルを表現しているとみられます。というのはこの符号を持つ矢印のセットはすでに定義済みの直交するx,y,z座標系の中で定義されているからです。


この右手座標系と左手座標系による説明は多幡先生のサイト「鏡の中の左利き」で説明されているものと同じ説明で、数学的な鏡映そのものを説明するものであることがわかります。この説明の結果について言えば、Itteleson他(1991)の文脈では、ここで述べられている結論は物理的な条件を数学的に説明できたものの、この時点では心理学的な逆転認知の解明には至っていません。言い換えると、Itteleson他(1991)では物理的な問題と心理的な問題を区別するために「物理系(物理的)」と「物体系(心理的)」の2通りの座標系を導入したのですが、ここで右手系と左手系の関係で得られた結論は鏡映対が互いに対掌体であり、鏡面に垂直な方向で互いに逆転しているという、「物理的」な条件を再確認したまでであって、物理的問題と心理的問題を区別するために導入された「物理系(物理的)」と「物体系(心理的)」という2つの座標系の関係については置き去りにされてしまいました。

しかしここから、Itteleson他(1991)は上記の物理的な条件を心理的問題の前提事項であることを確認したうえで、改めて心理学的なプロセスを考察し始めます。Itteleson他(1991)はその方法として直交する3軸のそれぞれを中心として鏡映対の一方を180 度回転することと平行移動の組み合わせによる重ね合わせにより、両者が互いに逆転して認知される方向が認知されるという方法を採用し、以下の章では模型を使用して被験者を使用して実験を行うという手法を実行することになりました。ただ、ここで重ね合わせる方法としては「point for point correspondence(各点ごとの対応づけ?)」という、直感的になんとなくわかりますが明確な定義とは言い難い表現となっています。それはともかく、この実験結果をとおして、物理的な条件(鏡映対が互いに対掌体であり、任意の方向で逆転しているとみられる)を前提とした上で、心理的にどの方向が逆転してみえるかを考察し、それが像の三次元形状における対称性が最も小さい方向であるとする、いわゆる「対称性仮説」を結論付けている訳です。

 「対称性仮説」の当否は後の問題として、ここでItteleson他(1991)が先に導入した「物理系(物理的)」と「物体系(心理的)」の2通りの座標系をなぜ利用できなかったかを考察する必要があります。「物理系」が物理的であるという論理はわかりますが、「物体系」が物理的ではなく心理的とみなさなければならなかったのはなぜなのでしょうか?それは「物体系」が上下・前後・左右の軸を持つと考えざるを得なかったからで、上下・前後・左右が物理的ではなく人間の心理に由来すると考えたからでしょう。これは先回の記事ですでに解明済みですが、鏡映対すなわち鏡像とその相手方との関係が鏡像と物体との関係ではなく鏡像と直視像(鏡を介さずに見る像)との関係であることを認めれば解決に向かいます。つまり、鏡映対は一方が鏡像で他方が物体なのではなく、いずれも像であり、対の一方が物体の鏡像であるなら他方は同じ物体の直視像であり、いずれも客観性はあるものの、観察者によって視覚的に把握された物体の像であり、だからこそ互いに対をなすことが可能なわけで、像は物質でも物理的なものでもなからです。この鏡像と直視像の対右手系と左手系の対をなす座標系が適用されたものとみなすことができます。これを固有座標系と呼ぶとすれば、固有座標系とは各々の像そのものと言えるのではないでしょうか?個々の像は言い換えると個々の像空間です。ここで右手系と左手系は対をなす像空間の性質とみなすことができます。その像とは人間の視覚による認知の内容であり、像空間は人間が視覚で認知する空間、すなわち視空間の中で認知されます。視空間の異方性についてはテクニカルレポートの主要論点の一つでした。前回記事の通り、マッハが発見したともいえる異方的な知覚空間ということになります。

では Itteleson他(1991)が物理系(Physical system)と名付けた方の座標系はどのような意味を持つのでしょうか?これについては端的に疑問を呈するより他はありませんが、物体が視覚によって認知される空間が視空間であるなら、視空間で認知される以前の物体そのもの、つまり感覚で認知される以前の物体にそもそも何らかの座標系などが適用されるでしょうか?物体自体が感覚を通じて認知される以前には何も認知されていないのです。そこにいかなる座標系も適用される訳がありません。したがって Itteleson他(1991)が物理系と呼んだ系とは、むしろ、視空間で各々の像が認知された後から思考力によって再構成された幾何学的な思考空間であると考える他はなく、鏡像認知空間がそれに相当します。この等方的な思考空間と異方的な知覚空間との関係こそがテクニカルレポートの中心的なテーマでした。

以上の空間定義を専門的な幾何光学の説明と比較してみたいと思います。岩波理化学事典の項目『結像』には次のように記述されています:「実在の空間を物点の集合とみなしたものを物体空間(object space),像点の集合とみなしたものを像空間(image space)という.両者は相重なるが,その屈折率などは,光学系の前のものを物体空間に,後のものを像空間にあてる.光学系による物体空間の像空間への変換が結像であり,物体を物体空間の部分空間とみれば,変換された像空間の部分空間が像である [株式会社岩波書店 岩波理化学辞典第5版]」

この定義はなかなか判りづらいものがありますが、ここでは認知のプロセスは完全に消去されています。ここでの定義をItteleson他(1991)の定義と比較してみると、Itteleson他(1991)の「物理系」は結像光学でいう物体空間に相当し、Itteleson他(1991)の「物体系」は結像光学では物体空間内の部分空間であって、個々の物体が占める部分空間に相当します。結像光学では認知のプロセスが完全に消去されていますが、「像」という概念の中に、いわばブラックボックスとして認知プロセスが閉じ込められているということもできます。ということで、Itteleson他(1991)が後に固有座標系と呼び、心理学的であるとみなした「物体系」が、結像光学における像空間の部分空間としての個々の像に対応させられます。

一方、Itteleson他(1991)が「物理系」と定義した座標系は、結像光学では全体としての物体空間に相当すると考えられます。ただし結像光学では物体空間を像空間に重ね合せています。これは物体空間の部分空間である個々の物体を個々の像と重ね合せているのに対応していますが、Itteleson他(1991)の「物理系」にはその対応が欠落しています。Itteleson他(1991)が「物体系」を心理学的とみなすことができたのは物体系を像空間の部分空間である個々の像とみなせるからであることから類推すれば、Itteleson他(1991)の論理でも結像光学と同様に「物理系」を像空間に対応させる必要があります。この像空間は結像光学では消去されていた鏡像認知プロセスにおける鏡像認知空間そのものであるとして問題はありません。

簡単に言ってしまえば、Itteleson他(1991)の「物理系(Physical system)」と「物体系(Object system)」は何れも心理学的に再定義できるものであり、前者は鏡像認知空間であり、後者は個別の像空間(結像光学では像空間の部分空間)ということになります。結像光学では後者(像空間の部分空間)は前者(像空間)の部分ということになりますが、結像光学では像の認知という心理学的プロセスが完全に消去されています。鏡像を含む空間の場合、前者は等方的な幾何学的思考空間であることを前回記事で確認したわけですが、各々の像空間についてはどうなのでしょうか?

 先に検討したように、数学的な鏡映の分析により、鏡面の両側で鏡映対のそれぞれの像空間に適用できる座標系は互いに右手系と左手系の関係にあり、鏡面に垂直な方向で軸方向が互いに方向が逆向きになっているというわけですが、ここで定義されている右手系と左手系と呼ばれるものは抽象的な座標軸そのものではなく、多幡先生のサイトでは行列式との関係が言及されているいますがウィキペディアの項目『右手系』によれば線形代数学で定義される座標系と言えるそうで、このような高等数学の定義になると私としては正直なところお手上げなのですが、要するに上図には矢印で表現されているように、単なる直線でしかない座標軸ではなく方向性を示すベクトルと考えられます。したがって方向軸と表現して差し支えありません。矢印で表現されるとおり、線上の各点は等価ではなく価値的に差があります。つまり、個々の像空間の内部では無限に想定できるすべての方向において各位置が相対的な関係ではなく価値的に差があるということであり、それぞれの方向自体にも価値的に差があるということです。等方的な空間ではそれぞれの軸線は角度で相対的に表現されるだけですが、個々の像空間では方向自体にも価値的な差異があることになります。このような空間は等方的ではなく異方的と言うべきでしょう。それはマッハ(E. Mach)やカッシーラーE. Cassirer)がそう定義したとおり、そのままです。

このような性質は、私たちが知覚、この場合は視覚で認知する視空間の上下・前後・左右という方向性に対応しています。このような方向軸は鏡像認知空間のように原点を持つ通常の座標系で表現されるのではなくベクトルのように矢印で表現されるべき方向軸を持つものであるといえます。

以上を端的に要約すると、鏡像認知が生じた時点で観察者に鏡像認知空間という等方的な空間が把握されることになり、その空間内に個々の像や鏡像が認知される訳ですが、通常は各々の像について上下・前後・左右の方向性が認知されます。Itteleson他(1991)が上述のように鏡映対を互いに重ね合せて比較することができたのは等方的な鏡像認知空間の中で、鏡映対をなす2つの像の一方を回転または平行移動することで重ね合せることができたからですが、それが可能であるのは全体を包含する鏡像認知空間が等方的な思考空間であるからであるということができます。その際の重ね合せ方について、Itteleson他(1991)は「point for point correspondence(各点ごとの対応づけ?)」と言っています。しかしこれは曖昧な表現です。上述のように方向軸が矢印で表せることが判明した今、この重ね合わせの操作は、具体的には上下・前後・左右の各矢印の向きを合せることと言うことができます。結果的に上下・前後・左右の3つの矢印のうち2つの矢印を合せると、残りの1つの矢印が互いに反対方向を向くことになる、というわけです。言い換えるとどのように動かしても3つの矢印を合わせることができないというわけで、両者が同形であれば3つの矢印を合わせることで完全に重ね合わせられます同形でも対掌体でもなければそもそも形状のすべての特徴が一致しないのでどの矢印も合わせることができません。人間であれば他人でも上下・前後・左右の特徴が一応似ているので誰でも方向軸の矢印を合わせることができますが、全体の形状を重ね合わせることができません。

Itteleson他(1991)が行った重ね合わせの方法は結果的には上述の方向軸の重ね合わせに近い方法ですが、等方的な鏡像認知空間と異方的な視空間との関係が認識されるに至っていないため、正しい結論にたどり着くことができずに終わっています。Itteleson他(1991)の誤謬は、心理学的な問題においてもあくまでも幾何学的な概念(対称性の大きさ)で迫ろうとする方法論にあるように思われます。なぜなら、何度も指摘しているように個々の像に上下・前後・左右を定めるものは幾何学的な形状ではなく像の各部が表現する機能的な意味であるからです。Itteleson他(1991)の誤りは、幾何学的なブロックで実験を行い、機能的な意味を持つ立体で行わなかったことにも起因しています。Itteleson(1993)では体操の選手を呼んで逆立ちをしてもらう実験をしているのは興味深い実験かもしれませんね。しかし結論は変えていません。

人間の場合、上下・前後・左右のうち左右の機能的な特徴が同じであり形状も大体同じであることは確かで、左右対称に近く、対称性が大きいということはできます。しかし現実には歩くたびに片方の足を前に出したり、片手をあげたり、片方にアクセサリーを着けたり、絶えず対称性は崩れています。ただこのような特徴は交換が可能なのです。少なくとも同一人物の同一時刻には左右の形状の差が確定しています常に左右対称に近いというわけではないのです。道具ではさらに左右の形状差は大きく、例えばグランドピアノなどはどうでしょうか?右側が高音部であるという非常に重要な機能に由来する形状の差異を持っています。また道具では、例えば砂時計など上下の差異は無いに等しいといえます。しかし普通に置かれた砂時計の鏡像が直視像と比べて上下が逆転して見えるとは言えないでしょう。このように Itteleson他(1991)の「対称性」仮説は誤りであるといえます。


以上であらゆる鏡映反転の基礎となる概念はだいたい確立できたように思います。最後の重要な問題は左右軸の従属性に関する問題ですが、これについてはテクニカルレポートで、十分ではないかも知れませんがかなり掘り下げられたものと考えています。

以下、補足です。 
上下・前後・左右の意味的な考察については上記のItteleson他(1991)に、ジェームズ(W. James)からの興味深い引用が挿入されています。私には、ここに紹介されているジェームズの考察は直接マッハとカッシーラーの認識に繋がるように思われ、非常に興味深いのですが、論文の著者はこれに興味を示しながらも鏡像問題には寄与するものではないとして、素通りしてしまいました。左右の意味的な考察についてはテクニカルレポートで空間の異方性との関係でかなり掘り下げたつもりですがまだまだ掘り下げる、あるいは敷衍する余地はいくらでもあるように思います。

これは補足というよりも余談ではありますが、今回の考察でつくづく思うことは、座標系という言葉はいかにも厳密に定義された意味を持つような印象がありますが、その意味するところは文脈により相当に流動的で、意味を把握することは容易ではない場合も多いように思います。これは日本語であるか英語であるかには関係がないようです。

今回は非常に込み入った説明でわかりずらいものになってしまいましたが、テーマ自体が像空間(したがって視空間)の異方性というわかりづらいものであるためやむを得ないところもあります。いずれもう少しわかりやすい説明の仕方が、見つかればと思います。ただ、テクニカルレポートでは固有座標系、右手系といった難しい座標系の概念を使用せずに一応の説明はできたものと考えています。

これで「鏡像の意味論」シリーズは一段落ということで、今後はまた別の形で考察を続けてゆきたいと考えています。もちろん補足や訂正を含めてこれでこのシリーズは打ち切りということではありませんが…
(以上 1017年6月7日 田中潤一)