2018年3月8日木曜日

(続々)シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― シニフィアンならぬシニフィエの一人歩き

【今回の結論】 
  1. 視空間の全体(前方半分しか見えないが)は見える世界全体のイメージと重なっているが、それぞれの上下前後左右のフィニシエは両者で一致することなく常に移ろっている。
  2.  視覚像全体の上下前後左右は視空間の上下前後左右とは独立しているものの、無関係ではない。なぜなら環境としての視覚像の中心には常に観察者が存在し、観察者なしで存在しえないからである

上下・前後・左右に関してシニフィアンとシニフィエの関係は考えれば考えるほど奥が深く、まことに複雑で微妙なものがあります。先にシニフィアンの独り歩きを考えてみましたが、逆のシニフィエの独り歩きも考えなければならないまでになってきたようです。

同じ「上」でも視空間の上と視覚像の上とは別物で、つまり同じ「上」でもシニフィエは異なることになります。例えば視空間の上の方向は当人がまっ直ぐに立っている場合は当然頭上の方向になり、同時に通常は当人が見ている対象に割り当てる「上」と同じ方向になるといえます。

ここで当人が、例えば畳や長椅子の上などで左側を下に横になって室内とテレビ台上のテレビなどを眺めている状況を考えてみます。こういう時はたいてい腕枕などをしているものですが、この際、頭も真横になっているとします。このとき彼は、室内全体とともに机の上面もその上のテレビもテレビに映っている人物についても、彼がまっ直ぐにしているときと同様に「上」を割り当ててそう認識していると考えるのが自然でしょう。このとき彼の身体の右側は立っている他人が見るともちろん上ですが、当人自身も自分の身体の右が上を向いていると考えることでしょう。この場合、視空間についてはどうでしょうか。まあ普通は視空間などというものは意識しないものですが、しいて言えばやはり身体の感覚に合わせて頭部の右側に相当する側を右とみなすように思われます。ところが視空間の頭頂部の方向や足元の方向についてはどのようにみなすでしょうか。どうも「上」や「下」とはみなし難いのではないでしょうか。例えばテレビのなかで人物がこちらを向いているているとすれば、その人物の方向に合わせて右または左とみなすのではないかと思われます。しかし当人の視空間の頭頂部の方向というフィニシエ自体は同じものなのです。ですからこの場合はもともと彼の視空間の「上」に相当するフィニシエが視空間内の対象イメージのフィニシアンにほうに引っ張られ、そちらの方に移動してしまったと見ることができます。

このように言葉の意味はまことに移ろいやすく同時にシニフィアンとシニフィエとの結びつきも移ろいやすいものだといえます。シニフィアンとシニフィエとの関係は目に見えないものであるだけに何らかの学問体系でいかに厳密に定義しても完全には統御できないもののように思われるのです。しかし逆に言えば、シニフィアンとシニフィエの関係はまたとない意味分析の手段であるともいえるかと思われます。実を言えば、個人的にシニフィアンとシニフィエについてはかなり昔、新書版程度の薄い入門書で知った記憶があるだけで、最近まで忘れていたのですが。

― 内側から見た環境あるいは世界のイメージは事実上、視空間と重なっている ― 
こうしてみると視空間と、視空間で見る個々の物体ではなく環境全体のイメージとは完全に重なっているといえます。ただし室内空間の場合は室内という内部空間ということもできますが、青天井は文字通り天井ではなく、下方の大地もむしろ大地の表面を外側から見ているという感覚でしょう。いずれにしても視空間と完全に重なる全体としても視覚像に想定される上下前後左右は視空間の上下前後左右とは一致することなく独立していると考えざるを得ません。

しかし、環境の上下前後左右と視空間の上下前後左右を互いに独立したものと考えることはできないと思います。なぜなら環境の上下前後左右も視空間と同様に観察者の存在なしには考えられないからです。客観的な環境と考えるとつまるところ地球の形状を想定せざるを得ず、地球のこちら側と裏側では互いに逆向きになってしまいますからね。ただし個々の観察者ではなく集合的な人間集団というもの考えられると思いますが。

もう一つ重要なことは、上述のような全体としての視覚像には決して観察者自身の全体としての姿は含まれないということです。 少なくとも頭部を含む全体像については。
(2018年3月8日 田中潤一)

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