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2023年5月1日月曜日

神秘からの逃走先としての科学と科学からの逃走先としての芸術 その1、科学と憧れ ― 政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その7

科学と憧れ ― 憧れとは何者だろうか

 少年期から青年期初期にかけて、私にとって自然科学は最高の憧れの対象であった。しかし ― 数年間の就職期間と浪人期間を経た後であったが ― 自然科学を専攻する目的で大学入学した時点では、一面においてではあるが、すでに自然科学に幻滅を抱いていた。それでも自然科学を専攻した理由は、名目的には就職の適性を考えてのことであったが、当初の憧れがまだ惰性を持っていたという面もある一方で、自然科学とはいったい何なのだろうかという、いわば科学の本質について少しでも極めたいという、野心めいた気持ちもあったのである。もちろん、そういう目的が就職につながる筈もなかったが、憧れの対象の方向はそちらの方に屈折していった趣がある。

そういう間にも、いつも考えていたことは、そもそも憧れとは何であろうか?ということ。また幻滅についても、なぜ幻滅を感じるようになったのか?ということである。憧れについて言えば、憧れの対象は何であれ、何かに憧れる気持ちというものは、人により程度の違いはあろうけれども、何か止むに已まれぬ欲望のような処がある。もちろん小学校低学年程度の子供時代にそれが憧れであるというような意識は持つわけもないが、その後の科学への思いは確かに憧れという言葉でしか表現できないものであった。憧れとは、何か心を満たすものを求めるという意味で、欲望と共通するところがある。では欲望とはどこが違うのかと問えば、それはいろいろと考察する切り口はあるが、差し当たって言える一つのことは、欲望の方はそれ自体が科学的考察の対象となっていることである。もちろんそれは心理学の対象であるが、フロイトが始めた精神分析ではその中心概念になっている。こういう点で、憧れはいまのところ、科学の対象外である。であるからこそ、私は科学に憧れることができたとも言える。「科学への憧れ」は言葉になるが、「科学への欲望」は、言葉にならない。欲望の対象は物質的なものか、生理的なものであるからである。

ともあれ、私にとって科学はそういう憧れの気持ちと強く結びついていた。後から訪れた科学への幻滅の気持ちも、それが憧れであったからこそであろう。

一方、科学に憧れるといっても、科学とは何であるかを最初から分かったうえで憧れたわけではない。そもそも憧れの対象は最初からそれについて知っているものではない。科学という言葉から何とはなしに受け取れる印象あるいはイメージから憧れに気持ちを抱いたに過ぎない。そうだからこそ、将来にわたって科学とは何かについて考え続ける羽目になったのである。

そもそもの発端は、記憶が及ぶ限りで、小学校の科目で理科という科目の授業を受け始めたことにある。理科という科目は私にとってその他の、国語や社会とは明らかに違ったインパクトを持つものであった。それは理科という言葉の語感とも関係していたように思う。今まであまり考えた記憶はないが、いま改めて理科に相当する言葉を英語やヨーロッパの言語で調べてみると、いずれも「科学、Science」かそれに相当する言葉である。中国語でも「科学」となっている。調べてみると、実際にアメリカの小学校の授業科目としての理科はScienceとなっている。日本で「理科」という言葉を誰がいつ頃小中学校の科目として使われるようになったのか、何故、中国でこの言葉が使われないのかについては興味深いところがある。普通の辞書や従来の百科事典にはあまり「理科」という項目は見つからないが、ウィキペディアには「理科」の項目があり、その記述には結構興味深いものがある。やはり、日本発祥の言葉であるが、中国語には取り入れられていないらしいことも興味深いものがある。それによると「理科」という言葉は当初、江戸時代の蘭学者によって、物理学を意味するオランダ語の訳語として発案されたとある。とすれば、「物理学」は「理」に「物」を付けた言葉であるからその後にできた言葉と思われる。やはりウィキペディアで調べてみると、「物理学」については語源的な記述はなく、また「物理」を引くと「物理学」に転送される。おそらく「物理」と「心理」は共に、「物理学」と「心理学」の後からできた言葉であろう。

以上から、詳細な論理は省略して一つの結論を出すと、理科という言葉の概念は基本的に自然科学を意味するが、可能性として心理学をも含みうるもののように思われる。現在、科学とされている社会科学や歴史は含まれないことになる。もちろん、現実に小学校や中学校の理科には心理学的なものは含まれていなかったはずである。また高校以上になれば理科という科目はなくなり、個別科学になるが、それでも大学やそれ以上の教育を含めて理科という概念は意味を持ち続けていると言えるだろう。

ともあれ私の憧れの対象としての科学は、理科という言葉による概念に始まるということができる。

2022年12月14日水曜日

一神教、科学主義、および神秘主義という三つの概念ないし理念を個人的体験をとおしてみると (2):キリスト教文化的芸術の私へのインパクト ― 政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その5

 明治以降の日本人が学校教育で教えられたり、広く社会や家族を通して得られたキリスト教文化的なインパクトというものに注目し、分析するという場合で、その対象が科学や哲学に該当する場合、個々の対象についてそれがキリスト教文化に固有のものであるかどうかという判別は簡単にはできそうもない。哲学的なものや科学的な考え方や成果といったものはキリスト教以前、特にヨーロッパではギリシャの哲学や科学という伝統があったはずである。もちろんヨーロッパ以外にもある。中世のキリスト教神学にはアリストテレスの哲学や科学が取り入れられていたことはよく知られている。シリーズの最初の記事で、近代科学が一神教としてのキリスト教と深い関係があるという考え方については、それを検証すること自体がこのシリーズ記事の目的の一つでもあるので、それについては後回しにしたい。

明確なキリスト教のラベルがついている文化的なものと言えば、それは芸術分野に属すものだといえるだろう。建築では教会建築がキリスト教文化を代表している。しかしキリスト教の教理と関係があるのは建築様式や形式であって、建築の与える印象そのものとは言えない。絵画では宗教画と言われる分野がある。しかしその場合も教理と関係があるのは図像的な意味であって、形式と様式のような約束事に関わるものであり、絵画が与える芸術的な感銘とは異なるものだと思う。音楽の場合はさらにそれがはっきりする。そもそも純粋な音楽でキリスト教の教理とか一神教の理念とかを表現できるわけがない。音楽で表現できるものは、言語で表現される理念や概念のようなものではない。それは造形芸術でも同だろうが、音楽の場合はその点で造形芸術に比べて純粋であるといえる。造形芸術の場合はそれが、先に述べたような図像的な意味と分かちがたく結びついている。一方で音楽は言葉と結びつくことが多いが、必ずしも常にそうではなく、言葉と音楽は明確に区別できるものである。

それに加えて、西洋音楽の場合、キリスト教は特に音楽を重視してきたことはよく言われることであり、またクラシック音楽そのものの発祥の起源がキリスト教の教会の儀式にあるといわれ、多少ともクラシック音楽に親しみ、馴染んで、知識をもっている日本人なら、だれでもそういう印象を持っていると思われる。日本の義務教育で行われている西洋音楽史の授業でもその程度のことは教えられている。また一部の賛美歌やクリスマスソングなども日本人一般に浸透しているし、カトリックのミサ曲などもクラシック音楽の一分野として、ある程度の人気のある分野である。ただ興味深いことは、ミサ曲の中でもレクイエム、日本語で鎮魂ミサ曲の人気が高いことである。死者の鎮魂という風習は人類に普遍的であって、日本人にとっても何の違和感もない。この傾向はヨーロッパにおいてもそうなのだろうか。たとえば、ブラームスはプロテスタントであるにもかかわらず、鎮魂ミサ曲を書いたことで知られる。もっとも、同じプロテスタントであったバッハの書いた、有名なロ短調ミサ曲という例もある。

このように、クラシック音楽は西洋のキリスト教ないしはキリスト教会が発祥と言われていても、クラシック音楽自体はすでにキリスト教の教会音楽そのものではなくなり、実際に教会で儀式や祈祷に使われるミサ曲や賛美歌自体がキリスト教からも離れてキリスト教徒ではない日本人にも親しまれている。私自身もそういう日本人の一人でもある。このように、多くの日本人にとってと同様、私の場合も、クラシック音楽一般のみならず、キリスト教の教会音楽についても、キリスト教の教理とも一神教の理念とも無関係に、端的に言って有難い「芸術」として受け入れているという他はない。

とはいうものの、やはりクラシック音楽のなかでも、何かジャンルとして宗教音楽と分類されるものや、キリスト教との関わりを想起させるような、あるいは宗教的といわれるような作品にはなにか特別に高尚な作品群であるという印象を持っているのは私だけではないだろうと思う。

一つの典型的な例と思われるものはブルックナーの交響曲を主とする作品群である。一般にブルックナーと言えば、彼が熱心なカトリック教徒であったことからカトリックの信仰との結びつきについて語られることが多い。ウィキペディアの記述を見てもそうだが、古いブリタニカ国際大百科事典の日本語版を見ても、次のような記述がある:
「敬虔なカトリックの世界観に根ざす彼の深い精神性も、当時の知的潮流から彼を遮断してしまった。」

実のところ、私はブルックナーの生涯や人となりについてあまり知らなかったので、最近になって短い伝記作品を読んだが、だいたいそれまで持っていた印象のとおりで、彼が幼少期からカトリック教会に聖歌隊の隊員として預けられたことに始まり、何度も教会の専属オルガニストとして人生の長期間を過ごしたことや、交響曲以外にはミサ曲やオルガン曲を作曲した一方でオペラや派手な協奏曲などは書かなかったことなど、まだ人となりについては、やはり敬虔なカトリック教徒という表現がふさわしいが、かといって聖職者のような生活をしていたわけでもないことなど書かれている。

ただし、私が若いころに初めてブルックナーに関する短い文章を読んだのは、彼の有名な指揮者フルトヴェングラーの『音と言葉』という日本語訳タイトルの著作の一部で、著者一流のブルックナー論とでもいえる内容の、二十数ページからなる一章であった。そこではキリスト教、キリスト教会、カトリック、といった言葉は使われていなかった。もっともそれはブルックナーの伝記的な紹介のようなものではなく、深く掘り下げた作曲家論とでもいうべきものである。全体としてかなり主観的で理解しづらい文章だったが、次に引用する一節がある。

「彼(ブルックナー)に課された運命は、超自然的なものを現実化し、神的なものを奪い取って、吾々人間的世界の中へ持ち込み、吾々の世界に植え付けることでありました。魔神との戦いの中にも、また至高の浄福を歌う響きの中にも、――この人の全思と観念とは彼の内部の神的なるものに向かって、彼の上に司宰する神々に向かってその深遠な情感を尽くして捧げられています。彼は決してただ音楽家であるという様なものではありませぬ。この音楽は真の意味に於いてあのドイツの神秘思想家、あのエックハルト、ヤーコプ・ベーメ等の後継者であります。(芳賀壇訳)」

これは、簡単にいってブルックナーは神秘主義者であり、その音楽は神秘主義的である、と述べていると言ってよいだろう。ブルックナーが具体的にエックハルトやヤーコプ・ベーメを研究して音楽にそれが反映しているのかどうかについてまでは、フルトヴェングラーは何も書いていない。またもちろん、私のように、専門的に音楽を研究しているわけでもなく、趣味的に、しかも殆ど録音で音楽を聴いているだけでは知る由もない。また、「神秘思想」や「神秘主義」も、キリスト教の教義や一神教の理念などと同様に、言葉でしか表現できない概念や理念であって、音楽で表現できるわけではない。しかし神秘、神秘感、あるいは神秘性、神秘的な感情といった何か神秘的としか言いようのないものは音楽で表現されうるものであり、聞き手は音楽から感じ取ることはできる。これは造形芸術でも同様で、同じ西洋美術の範疇でもモナリザの微笑や聖堂建築の荘厳さなど、多くの例を挙げるまでもない。

一つの結論として、私にとっても、多くの日本人にとっても、西洋のキリスト教のラベルが付いた芸術が持つ魅力、そこから得られる感銘はキリスト教の教理や一神教の理念ではなく、むしろその神秘感ないし神秘性にあると言え、宗教との関わりでいえば、むしろ一神教よりも多神教に馴染むものであるといえる。上記のフルトヴェングラーの言葉の中でも、「魔神」とか「神々」という言葉が使われているように。

上記の事情は、次に引用するフロイトの指摘にも関係がある。
フロイトの「モーセと一神教」から「Ⅲ モーセ、彼の民族、一神教」の第一部の終わりに近く、ユダヤ教からキリスト教が誕生する経過のまとめとして次のような一節がある。「この新しい宗教は、古いユダヤの宗教に照らしてみるならば文化的退行を意味していた。キリスト教はユダヤ教が上りつめた精神化の高みを維持できなかった。キリスト教はもはや厳格に一神教的ではなくなり、周辺の諸民族から数多くの象徴的儀式を受け入れ、偉大なる母性神格をふたたび打ち立て、より低い地位においてではあるにせよ、多神教の多くの神々の姿を見え透いた隠しごとをするような仕方で受容する場を設けてしまった。これらを要約するに、キリスト教は、アートン教やそれに続くモーセの宗教のようには迷信的、魔術的、そして神秘的な要素の侵入に対する峻拒の態度をとらなかったのであり、結果としてこれらの要素はその後の二千年間にわたって精神性の展開を著しく制止することになってしまった。」

このフロイトの分析では、一方的に一神教が高次の優れた宗教であり、多神教が低級な宗教ないしは文化であることを前提に語っている。それはフロイトの科学思想にも関係が深いように思われる。フロイトの精神分析については、フロイト自身はそれが科学であることを誇っているように見えるが、一方で一部の科学者からは、精神分析が科学ではない、または科学的ではないというような批判がある。この点では、フロイトも、フロイトの精神分析を科学ではないという理由で批判する側も、どちらも科学主義者であるといえる。また、神秘主義や神秘主義的な思想を批判し、神秘的なものを否定するという点でも共通している。例えば、フロイトはユングの神秘主義的傾向に批判的である。上記の引用においても、フロイトは明確に神秘主義的な要素を拒否し、「アートン教やそれに続くモーセの宗教」を高く評価していることは明らかである。上記引用中のフロイトが「精神性の展開」と呼んでいるものは、科学的精神とでも呼ぶべきものなのであろうか。

他方、上述のフルトヴェングラーからの引用中には、日本語訳ではあるが、「魔神」と「神々」という、神的なものに二極性の表現が用いられる。実際、一般に芸術に表現され、感じ取られる神秘性には不気味で恐ろし気なものと対極の神々しさや神聖さという、両極を含んでいる。それに対してフロイトの思想においては神秘性そのものが全体として克服されるべき低級なものとみなされているように見える。

【以下は12月22日に追記】

科学主義的な傾向は一般に、宗教よりも神秘主義を批判し、否定しようとする。それはフロイトのように一神教を多神教よりも高次の宗教として評価する傾向と符合する。

ところで、科学主義的な言説は宗教における言説と同様、基本的に言語で表現され、規定されるものであり、科学それ自体、個々の科学分野も言語で表現されるものである。一方の音楽は言語ではない。造形芸術も言語ではない。芸術は、特に音楽は言語的ではない。造形芸術も言語ではないが、図像は象形文字やピクトグラム、絵文字、あるいは文章中のイラストレーションなどのように言語と組み合されても使われるなど、音楽よりも言語に近いところもあるように思われる。音楽ももちろん言語と結びつくが、音楽の場合は科学的な言語ではなく詩やドラマのような形でのみ、つまり芸術的な表現でのみ言語と結びつく場合があると言える。この問題も深入りすると際限がないので今は打ち切らざるを得ないが、一つの重要な、事実とまでは言えないが、少なくとも傾向として、科学主義は神秘主義と神秘性を受け入れないが、音楽を始めとする芸術は神秘性と馴染みが深く、見方によっては、神秘性と神秘主義こそが芸術の究極でないかとみなす考え方があってもおかしくはないと思われる。

次回からは、科学主義(あるいは科学志向)と芸術という両極との、私個人的な関わりを反省してみることから、両者の関係について考えてゆきたいと思う。

2018年11月4日日曜日

鏡像の意味論、番外編その8 ― 像の[認知]から[表現]へ ― 表現手段としての方向軸

一種の想起実験のような考察をしてみようと思います。

まず観察者に一人の人物の後姿を真後ろから見せるとします。その際に右か左かの半身を隠して片側だけを見せるようにします。見えるのが人物の右半身か左半身かを尋ねると大抵の観察者はすぐに正しく答えられると思われます。

次に同じ後ろ姿で上半身か下半身の何れかを隠した場合、観察者は同様に後姿の上半身であるか下半身であるかを答えられない人は言葉を知っている限りいないでしょう。

以上の二つの場合を比べてみて、右半身か左半身かを判断する場合と上半身か下半身かを判断する場合で何らかの違いがあるでしょうか。少なくと形状の違いを見て直観的に判断している点で違いはないと思われます。

では次に同じモデル人物を正面から、つまり前から右半身か左半身を隠して観察者に見せ、見えるのが右半身か左半身か何れであるかを尋ねるとします。この場合、後姿の場合のようには即時に答えられない被験者も出てくるのではないでしょうか。また被験者によって逆の答え、あるいは一方からすれば間違った答えかたをする場合も出てくるように思われます。

以上の例から察するに、右半身か左半身かを判断する場合に混乱が生じるとすれば、それは前から観察するか後ろから観察するかに起因ものであって、前後軸そのものと左右軸そのものの性質に起因するものではないことがわかります。上半身か下半身かはどちらの場合も同じですが、右半身か左半身かは、前から見る場合は逆転するからです。またこれが人間以外の道具などの場合、たとえばノートパソコンやグランドピアノなどの場合、左右は普通、人間とは逆転することも一つの原因でしょう。

上半身と下半身の場合にそういうことが生じないのは、人が向きを変えるときに上下軸を中心に回転するからにほかなりません。これは上下軸そのものの性質ではなく、ある意味偶発的な条件だと思います。

この、いわば認知上の現象を人体の左右対称性と関係づける見方もあります。確かにヒトのように左右が面対象の立体では左右の形態的特徴は全く同じで区別できません。しかし砂時計のように前後のないものは別として、ヒトのように前面と背面で異なる形状を持つ立体の場合、左半身と右半身の形状を明確に区別できることは上述の想起実験自体が示すように自明であるともいえます。

なおこの種の実験、例えばモデル人物を横たえて同じことをするとか、穴から右手か左手だけを出して実験するとか、いろいろ興味深い考察ができると思いますが、問題が複雑になるので、とりあえず今回は最初の実験だけで考察できることだけで進めて行くことにします。

左右対称だけがこの種の紛らわしさ、間違いやすさの原因ではないことは、例えばモデル人物に片手を上げてもらうなどして左右を非対称にした状態で同じ実験をした場合を考えてもわかることです。この場合、見た目の形状は明確に左右が非対称であるにも関わらず対面する人物の左右を示すのに戸惑いや間違いが生じます。またグランドピアノなど、左右が非対称ですが、やはり前後軸との関係で人間とは逆の左右が慣習的に与えられています。ですからやはり、左右対称と左右判断の難しさ、曖昧さ、あるいは間違いやすさとは無関係なのです。

とはいえやはり、人体などの左右対称性は何らかの形でこのような左右の特性と何らかの関連性があるのではないかという直観的な印象は完全に拭いきれないものです。現に人体の左右の特徴、形状の違いを表現することは困難で、単に右側か左側かという言葉で表現するしかないのですから。

端的に言って、鍵は「表現」にあります。「認知」は「表現」とは異なります。しかし、認知した内容は言葉で表現しなければその後が始まりません。たとえ他人に伝える必要がなくても意識的な思考を続けるには的確な言葉を見つける必要があります。この意味で「識別、特定、同定」、英語で言えば「Identification」といいった意味において「認知」と「表現」は表裏一体です。すなわち、認知内容というシニフィエを特定するためには表現手段というシニフィアンが必要である」と言えます。

面対象の立体を視覚で認知した場合、両側でそれぞれ認知されるシニフィエは確かに異なっているのですが、通常は同じシニフィアンでしか表現できない、ということになります。この際、人体のように外形が左右対称形の場合は右か左かという言葉を追加せざるを得ないというわけです。(この際に付加される右または左の根源はヒトの知覚空間にあり、それは異方的であり、上下・前後・左右は空間に固定されているということです)。

上半身と下半身の場合、上半身は頭のある方で、頭のてっぺんが最上位にあります。また足の裏が最下部です。上半身と下半身では明らかに形状の持つ意味内容が明確に異なり、頭とか足などの異なるシニフィアンで表現できます。しかし右半身と左半身ではどちらも人の半身であるとしか言いようがなく、区別するには右か左かをつけるしかありません。この点で左右対称は意味を持っています。左右対称の人体は相対的にしか左右の違いを表現できません。幾何学的に違い自体は相対的に表現できるわけで、これは対掌体の対と同じですね。どちらも相手との関係でしか表現できないのです。頭の形とか足の形などは別に他方と無関係な概念ですから、上下や前後は形状の持つ意味が異なるので簡単に言葉でも区別できるわけです。

ところが上下・前後・左右という表現自体もシニフィアンである以上、それら自体のシニフィエというものがあるはずです。そうしてシニフィアンに対するシニフィエの入れ替わりなどの混乱要因が生じてきそうですね。

いまシニフィアンとシニフィエの関係でこれ以上の考察を進める余裕はありませんが、とりあえず時間系列で言えばシニフィアンよりも先にシニフィエが成立することは明らかです。認知と表現の関係でいえば順序として認知が先にあり、表現が後です。 

このような認知と表現の時系列は気付かれにくいところがあるように思われます。むしろ上下、前後、左右の認知に時系列があるように錯覚されやすいのではと思われるのです。しかし仮に時系列差があったとしても認知される内容自体に変化が生じるわけではありません。ところがいったん明確な言葉で表現されると次の考察に影響を与えます。この点で表現、あるいは認知と表現の微妙な関係に着目することが重要だと思います。

なお、今回の考察も番外編のつづきで、鏡像問題、鏡映反転については触れていません。もちろん関係はありますが、そのまま、これだけで鏡像問題に適用できるわけではないと考えています。
(2018年11月5日 田中潤一)

2018年6月16日土曜日

鏡像の意味論、番外編その5 ― 等方空間を表現する「座標系」と、異方空間を表現する「方向軸」

今回は最初から端的に表題の件について説明したいと思います。

「座標系(coordinate system, reference system)」は英語でも日本語でも極めて明確な意味を持ち、かつよく使われる概念であるように見えます。一方の「方向軸(directional axis)」は、英語でも日本語でも、あるにはあるが、使われる頻度が少なく、多くの分野で共通するような定義は見られないように思います。ここで私は方向軸を、表題のように、異方空間の方向を表現する軸であると定義したいと考えます。そうすることで、等方空間と異方空間との違いを極めて簡潔にわかりやすく表現できるようになると考える次第です。ちなみにWikipediaを見ると「方向(Orientation)」と「向き(Direction)」について数学上と物理学上の定義がありますが、数学用語の素養がないために読んでも分からず、この際無視するしかありませんでした。


 【等方空間における座標系】

  • 座標系で等方空間を表現できるのは、ひとえに座標系が原点ないしはゼロ点を持つ必要があるからであるといえます。座標系では、空間内のすべての点が原点または他の点との相対的な位置関係でしか表現できません。
  • 各々の位置は各座標軸における原点からの距離で表現されるわけですが、原点のどちら側であるかによって+か-の符号が付けられます。この際、原点からの一方はすべて+であり、同じ側にある位置はすべて同様に+であり、どちらがより大きく+であるとか、より多く-であるということはできません。ですから+と-とは方向としての意味を持つわけではなく、相対的に反対であるという区別を示すのみであって、+と-を入れ替えても何も問題はありません。財務でいう黒字赤字のような、また電気の正負のような意味上の差異はありません。x軸上の同じ側にある二つの位置は、変数であるxの数値の大きさの差異のみで示されます。
  • x軸とかy軸とかz軸はどれも特定の方向を示すのではなく、相対的に90度の開きがあることを示すのみです。これらは変数を表す符号であって、方向は紙面に描く場合の約束事にすぎません。

以上のとおり、等方空間ではすべての点が平等であり、互いに相対的な位置関係でしか区別されないことが、座標系の概念によって示されているように考えられます。


【異方空間における方向軸】 

以上の座標系に対し、方向軸は異方空間に特有なものです。異方空間では最初から空間内の個々の位置が決まった価値を持っています。それは固体分子の個々の位置が確定していることからの類推であるとマッハは考えたようです。いわば一定の外形を持つ物質塊であって、人体のような上下前後左右の方向を持つ個々の物体やその像を外部から見る場合にはその外形から判断して、正立する人物像であれば頭の方が上、足の方が下というように軸方向が判断されます。このような軸は+と-で方向が判断されるわけではなく、個々の位置が方向を示す極性を持っているわけです。ですから、
  • 両側を+側と-側に分けるような原点ないしゼロ点は必要ありません。磁石のS極とN極と同様にゼロ点が無く、各位置が矢印で表される極性を持つということができます。
  • 原点が無いので同じ方向軸は無数に存在しています。
  • また上や前や右などは固有の形状から判断されるものであり、いったん確定した以上は、各点の位置は絶対的に定まっているものであって、相対的に動かしたり、入れ替えることはできません。軸を動かすことは固体の塊と同様、その全体を動かすことであり、一つの方向軸を中心に回転させると全体が回転します。直行する他の二つの軸も一緒に回転します。ですから一つ目の軸を任意の位置で確定した後は、その軸を中心とする回転平面の中でもう一つの軸を確定すると、残りの軸は同時に固定されています。これは上下前後左右の軸を任意に決定する場合、二つの軸しか決定できないことに対応しています。
こうしてみると、固有座標系という概念は、ひとえに等方空間と異方空間の概念、区別がよく理解されていなかった状況において案出された必然的な帰結であったといえるのではないでしょうか?
 
というわけで、簡単に一言でいえば、異方空間で定義できる「方向軸」は、少なくとも極性を持つ点で座標系とは異なることになります。

何度も述べていますが、等方空間と異方空間の差異を(おそらく) 最初に見出したのが物理学者で心理学者でもあったマッハであるにも関わらず、その後に続いた心理学者がマッハのこの発見の重要さと本質に気づかず、極めて皮相的にしか空間の異方性を考察していないように見られることは極めて重大なことのように思われます。

もう一つ重要なことは、これは特にカッシーラーが(マッハはそれほどでもなく)強調していることですが、等方空間は幾何学空間と呼ばれるように、あくまで思考空間であって直接感覚的に、視覚や触覚のように感覚器官をとおして認知できるような空間ではないということです。座標系を利用して対掌体を作図したり、面対称の図形を作図したりすることは可能で、これは「変換」とも呼ばれますが、これはあくまで数学的な思考プロセスであって、現実に感覚をとおして知覚される空間でこのような「変換」が生じているとは言えないと思います。鏡像関係を光学的な変換とみなすことは伝統的な考え方のようですが、決して光学的に、一方が他方に変えられるわけではない。ただ鏡像と直視像とを見比べて一方が他方の数学的な変換に相当するに過ぎないのです。 
(2018年6月16日 田中潤一)

2012年1月6日金曜日

ピアノの音色について



多くの人と同様、私は音楽が好きでピアノ音楽も好きだが、もちろんピアニストでもなくピアノが弾けるわけでもない。またピアノという楽器に関わる仕事を経験したこともないし、楽器を購入する予定があるわけでもない。また、どのような意味でも音楽のプロではなく、素人としてでも音楽活動といえるような体験はなく、音楽のマニアと言えるほどの趣味人でもない。

クラシック音楽が好きだが、正直なところ鑑賞能力が高いとは思っていない。難解な曲が鑑賞できるようになるまでには相当な年月がかかった。いつまでたっても馴染めないような曲も多い。

第一耳、あるいは音感と呼ばれるものがそれほど良くないのだろう。単に耳とか音感といってもいろいろな意味合いがあるが、音痴ではないものの、和音を聞き分ける能力とか、リズムを聞き分ける能力といった高度なものから、単に聞こえる周波数範囲といった即物的なものにいたるまであまり高級な耳を持っているとは言えない。

また「耳」とは別に、精神的な集中力がないという点が致命的な欠点がある。集中力は特に音楽に関係が深いように思われる。

そういう人間であるにもかかわらず、私の中で音楽の占める重要度は相当に大きい。考え事をする時も、その中に音楽について考えることが占める割合はかなり大きいのである。もっともこういうことは断るまでもない事かもしれない。ジャンルが何であれ、一般人が切実に音楽を求めるからこそ職業音楽家が存在できるわけであるのだから。

最近はピアノの音色についてあれこれと考えることが多い。具体的にいえば、特に現代ピアノの音とフォルテピアノと呼ばれる旧式のピアノの音色の違いについてよく考える。もちろん実際の楽器の音を聞く機会はめったに無いし、特にフォルテピアノの実演を聞いたことは恐らくない。もう昔になるが、東京の何処かで開催されたベートーベン記念の展覧会を見に行ったことがあり、ベートーベンが使用したピアノを見たことがある。しかし記憶ではその演奏を聞くことはできなかった。

という次第で、当然すべて録音での話であるが、旧式のピアノを聞いた記憶は相当古くから、若い頃からあるにはある。ただ、やはり古い音だなあ、というか中途半端な音だなあという程度の印象しか持ってなかったところ、たまたま購入した歌曲のCDの伴奏でフォルテピアノの音に接した時に、その音色に魅了される経験をした。そのCDは手放してしまったが、エリー・アメリンクのソプラノ独唱、ピアノ伴奏がイエルク・デムス、そしてクラリネットがダインツァーという人の演奏であった。その、デムスが弾いていた楽器がフォルテピアノで、シューベルトとシューマンの、女声向けの優雅で優しい歌曲に実によく合っていた。ただ、この時はこういう曲には合っているなという印象をもったことと、一般家庭で使用するピアノはこういう音色のほうが良いのではないかと思ったが、ベートーベンやショパンなどの多くの名曲がこういうピアノで演奏されるべきだとまでは思わなかったし、今もそう思うわけでもない。

そんな時、別の切り口からバッハの鍵盤音楽と楽器との関係について考えるこ機会が出てきた。といってもバッハの鍵盤音楽を色々聞き比べた結果として考えるようになったわけではない。だいたい私にとってバッハはあまり馴染みやすい作曲家ではなかった。もちろんバッハの曲にも、一度聞いただけで好きになれた曲も沢山ある。ブランデンブルク協奏曲のような管弦楽曲や協奏曲はどれもそういう曲風である。フルートなど管楽器のソナタもそうだ。しかし、バイオリンやチェロの無伴奏組曲などは鑑賞して楽しめるようになるまで随分年月を要した。そして鍵盤音楽もその部類であった。

鍵盤音楽の場合、馴染めなかった理由の1つはやはりフーガの難しさである。もちろん音楽技法の知識が無いこともあるだろうが、やはり集中力のなさによるところが大きいのだろう。しかしフーガではない場合も何か抵抗を感じる場合が多かった。比較的最近になってそれはピアノの音色によるものではないのかなと思うようになったのである。それは、思い出したのはフォルテピアノの音色の魅力に目覚めた以降のことである。

平均律ピアノ曲集など、バッハの鍵盤音楽をラジオ放送などで時どき聞くことはあったが、バッハのこの種の音楽のピアノ演奏に限って何かいたたまれない寂寥感を感じていたのである。それはもしかしたら現代ピアノの音色のせいではないかと思うようになった。それで昨年、中古CDショップで平均律クラヴィーア曲集の第一巻をレオンハルトによるチェンバロの演奏で、第二巻をアンドラーシュ・シフによるピアノ演奏で、購入して時どき聞き比べてみたのである。同じ曲ではなく、片方を第一巻、もう一方を第二巻とするところなど、我ながらけちで欲張りだなと思う。

気まぐれな聴き方だが、折りを見てこの2つのアルバムを聞いているが、どうしてもチェンバロの演奏の方を聞きたくなるのである。ピアノの演奏は音色の冷たさからくる寂寥感が耐えられないようなところがある。もっと本質的な部分を聴きとるだけの鑑賞力が無いからかもしれないのだが・・・。というのもフーガをよく鑑賞することはやはり、今もできない。

もっとも、チェンバロの音色がそれほど好きだというわけでもない。チェンバロの音が嫌いだという人は多いようだが、私にもその気持はわかる。はっきり言って音量が大きくなるとガシャガシャとした音がうるさい。しかし、ピアノにない荘重さを持っていることも確かである。そして何よりも現代ピアノの冷たい音色ではなく温かみがあり、現代ピアノの演奏で聞くときの何とも言えない寂寥感が消えているといってもいい。

あの寂寥感は何なのだろうか。曲が本来持っていない内容、この場合は寂寥感がピアノの音色だけから生じるのだろうか・・?バッハの音楽との相性でそうなるのだろうか・・?わからない。またこんなことを感じるのは私だけなのだろうか?一般に平均律クラヴィーア曲集はピアノによる演奏が圧倒的に多そうである。どうもわからない・・・。

そんな訳で、現代ピアノよりも温かい音色であるフォルテピアノによるバッハを聞いてみたいと思うようになった。

そんなとき、パウル・バドゥラ=スコダ演奏のフォルテピアノによるベートーベン、ピアノソナタ全集の広告が目に入った。バッハをフォルテピアノで聞いてい見たいと思っているときで、ベートーベンをフォルテピアノで聞きたいと思っていたわけではなかったが、宣伝文につられて、めったに買わない高額のCD九枚組セットを注文してしまった。

このアルバムに関するコメントはまたいつか改めてまとめてみようと思うが、このCDを聞いてから思いついたことのひとつに、シューベルトのピアノ曲をフォルテピアノで聞けばどうだろうか、ということがある。

というのは、シューベルトのピアノ曲、ソナタや即興曲や連弾曲、その他の小品など、若い時にLPレコードでよく聞いたが、ある時期から聞かないようになった。それというのも、どの曲にも、長調の明るいはずの曲にも潜んでいるあまりにも冷え冷えとした深い孤独感に耐えきれない気持ちになってきたのである。それはもちろんピアノ曲だけではない。弦楽四重奏や五重奏曲にもいえる。もちろん歌曲にもいえるし、交響曲にも言える。しかしピアノ曲にはピアノの音色独特の寂寥感がやはり感じられたように、いまになって思うのである。当時はそういう次第でシューベルトの曲は段々と聞かないようになり、ブラームスをよく聞くようになった。ブラームスの曲もそういう要素が無いわけではないが、まだ生ぬるさというと言葉が悪いが、そういうところがあり、シューベルトの場合ほど落ち込むことはないような気がする。

こういう次第で、シューベルトのピアノ曲、つまり独奏曲や連弾曲などをフォルテピアノで聞けばどういう印象だろうかという興味が沸き起こってきた。確かに最初の方で触れたフォルテピアノによる女声歌曲の伴奏では現代ピアノには無い暖かさ、優しさが感じられたことは確かなのである。

そんな時、やはり垣間見た音楽雑誌の記事でリュビモフというロシア人ピアニストが旧式のピアノで演奏したシューベルトの即興曲のCDが出ていた事を知った。またその後訪れた中古CDショップでそれが見つかったのである。中古にしては高い方だったが、とにかくタイミングがよかったこともあり購入した。

今もあり、かつて聞いていたこの曲のLPレコードはエッシェンバッハによる演奏のもので、この曲の演奏として文句のないものであった。一ヶ所だけだが今も鮮烈に耳に残っている箇所がある。ロザムンデのメロディーによる変奏曲の最後から2番目の変奏曲の終わり、消え入るような弱音の箇所である。

今回のリュビモフの演奏は、基本的にこのLPで聞いていたエッシェンバッハの演奏とそれほど異なるという印象はない。使用された楽器の音色は解説にもあるように入念に選ばれたようで、フォルテピアノの中でも特別に美しい音色の優れた楽器が選ばれていることはわかる。ただ、この曲集全体、隅々まで行き渡っている冷え冷えとした音色はやはり、この曲集の曲想自体が持つところの本来のものだろう。フォルテピアノであるからといって、曲自体が明るく朗らかな音調になるということはないようだ。

しかし、やはり、フォルテピアノ独特の潤い、温かみというものは感じられるのであって、それは純粋な曲想に付加されたものといえる。但しそれが作曲者の意図を超えて付加されたものとは思わない。作曲者のシューベルト自身はあくまでフォルテピアノの音色を聞きながら作曲していた筈である。逆に言えば、純粋な曲想自体は作曲者の意識していたイメージとも別物であるかも知れないのである。

この音質、音色は言葉ではどう表現すれば良いのだろうか。簡単にいえば何度も言っているように温かみがあるといえることは確かである。もちろん不満もある。響きの深さ、厚み、純度、密度といったものは確かに現代ピアノの方で得られるものだと思う。

もう少し立ち入って表現してみれば、次のようにも言えると思う。何か人々の社会的な空間、といったものを感じるのである。シューベルトはいつも友人に取り囲まれて生活していたそうだが、そういう生活空間のようなものが音色から感じられるのである。それは純粋な、あるいは抽象的な曲の本質とはまた別のものであるかも知れないのだが、あくまで作曲者自身のイメージにあった音調であったに違いないと思えるのである。

こう考えてくると、バッハの場合とシューベルトの場合とは事情が異なるようだ。バッハの場合はあくまで現代ピアノの冷たい音色が余計な付加物を付け加えているのではないかと思うのである。もちろん、これは特にフーガの部分などを含め、私の個人的な鑑賞能力の及ばない広大な領域を無視した、狭い世界での印象に過ぎない。


ただ、この一文はバッハの音楽論でもシューベルトの音楽論でもなく、強いて言えば「音色と音楽」論、あるいは「音色と音楽の意味論」とでも言いたい内容と考えているので鑑賞力の不足はこの際容認されるものと思う。

楽曲の本質とは別のところで、楽器の音色自体に由来する寂寥感、冷たさというものはあるのではないかというのが一応の結論である。それが個々の曲調、作曲者による曲調によって独特の現れ方、異なった発現のしかたがあるのではないかと思うのである。

さらに、現在のピアノは音色の点でまだ変化、進化の余地があるのではないかという期待感もある。

2010年8月23日月曜日

The image and the medium that carries the image

(This is the English summary of the last article in Japanese)

It is hard to separate each other the image and the medium that carries the image.

However, virtual images in optics such as the mirror image and the magnifier image can be easily identified as pure images separated from the media.

There is no significant difference in reality between the virtual image and the image of the naked eye. If you are short sighted, the virtual image of eyeglasses can be clearer than the image of the naked eye.

The image of the photography, the cinema, videos, etc is derived from the real image in optics.

There is no difference in reality between the real image and the virtual image because the real image such as the image of the telescope becomes the true image only after you see it and when you see it, the real image is no more than the set of points the light passes and you are only seeing the image of the image source through the lenses. This situation is identical to seeing the virtual image.

So there is no difference in reality between the real image and the virtual image.

Imageries such as photo prints, video screens and the like are derived from the real image but are not the real image themselves. Those imageries are image sources themselves as well as are the carriers of the original real image

To see imageries such as photo prints is to see two different images, of which one is the original real image and the other is the image of the medium. And for the original real image, the other functions as the noise.

Therefore, the image of the medium itself that carries the original real image functions as a noise to the original real image.

This noise of the medium can be reduced optically.

◆http://www.te-kogei.com/patent/koho_imageglass.html

2010年8月9日月曜日

イメージとメディアまたは(画)像と媒体

(はじめに)
イメージは一種の「意味」であると言えます。今日からこのブログのラベル(カテゴリー)に「イメージ」を加え、このカテゴリーでの記事を追加してゆくことにしました。主として次の3つの契機によります。

1.最近に始まったわけでもありませんが、イメージに関わる論議が盛んです。そのなかで最近特に目立つのがスマートフォンと電子書籍にまつわる話題と論議です。電子書籍は文字が中心ですが、文字であってもフォントの問題とか、縦書き横書き問題などを考えてみてもイメージの問題が中心であることは画像の場合と変わりありません。

2.「3Dテレビ」が実用化され、「3D」映画のヒットもきっかけに3D論議が盛んになってきています。将来、映像はすべて3Dになるだろうなどと言う人も少なくありません。しかし一方で3Dテレビや3D映画の不自然さが目や身体の、少なくとも一時的な疲労を起こすことが問題になり、長期的な健康に及ぼす影響についても問題にされ始めています。とにかく「3D」論議自体は盛んになっていますがその割りに立体視とは何か、視覚とは何かという問題意識はそれ程深まってきているようには思えないところがあります。

3.個人的に、筆者が今年、映像に関わる特許を出願しました。これを紹介するページを以下のHP(http://www.te-kogei.com/patent/koho_imageglass.html)に掲載しましたが、こういう考えもあるという事を多くの方々に理解して欲しいと考えますので、「意味」の一種でもあるイメージを扱うものでもあり、このブログでもそれにちなんだ問題を取り上げた次第です。


イメージとメディア、または画像と媒体

■ 「像」と「イメージ」に関わる熟語と用語法から興味深いものが見えてくる

英語の単語である「image」は、基本的に日本語の「像」とよく対応しています。語源や歴史的な考察はともあれ、現在ではどちらも視覚像を表す言葉として最も抽象的あるいは包括的な言葉であると言えると思います。ただ造語性の面で日本語の「像」と英語の「イメージ」ではちょっと異なった処があります。

日本語では「像」から派生して多くの熟語が作られています。画像、彫像、映像、この3つ、特に現在、画像と映像とが代表的ですが、また異なったカテゴリーの熟語として心像、想像、肖像、人物像、神像、仏像などがあります。また光学用語では実像と虚像が基本にあり、これらは専門用語としても一般語としても使われています。固有名詞にも付けられ、例えば麗子像といった芸術作品もありますね。これらを見回して分かることは、「像」単独では具体的な、あるいは物質的な存在を表すのではなく、姿、形そのもの、つまり人間の感覚あるいは知覚作用の産物であり、結局のところ「像」はすなわち「視覚像」あるいは「知覚像」であると言って良いのでは無いでしょうか。これはちょうど英語の「イメージ」についても言えることであると思います。
しかし、日本語の場合、画像、彫像、映像、その他のように限定する語が付けられた熟語となった場合、それらの熟語の意味と「像」の意味はどのような関係になっているのでしょうか。この関係を考えてみると、画像、彫像、映像の場合はメディア、すなわち媒体と一体になった像またはイメージと言って良いように思われます。心像、想像の場合はまたこれとは異なります。さらに仏像とか麗子像などもこれとは違います。こうしてみてみると、今のところ「像」の付く熟語は大体3通り、もしくは4通り、あるいは更に多くのカテゴリーに分けられ、その1つは媒体すなわちメディアと一体になったものを指すといって差し支えなさそうです。

(像を含む熟語の分類)
【1】メディア(媒体)に関わる語と組み合わされた熟語: 
画像、映像、彫像、銅像、石像、鏡像
【2】イメージに表現されている実物(特に人格を持つ存在)と組み合わされた熟語: 
神像、仏像、人物像、肖像、全身像、胸像、麗子像
【3】形を持たない存在で、イメージに表現されている内容と組み合わされた熟語:
  心像、想像、幻像(心理的)
【4】イメージの科学的な性質を説明する語と組み合わされた熟語:
虚像、実像 (光学的)
【5】感覚の種類と組み合わせた熟語:
視覚像(視覚イメージ、心理学的)
音像(音イメージと言えばまた違った意味になる)、触覚像(触覚イメージの方が一般的)、嗅覚増(嗅覚イメージの方が一般的)、

こうして分類した像を含む熟語を見回してみると、色々な事を考えさせられ、興味深い考察に導かれるように思われますが、、とりあえず表題「イメージとメディア」に従って最初の画像、映像、彫像等についてイメージ自体との関係を考察してみたいと思います。なお、以下、「像」と「イメージ」との使い分けはその時の感覚で自然に出てくる方を用いることにします。あるいはむしろ意図的に両方の用語を統一せずに使用します。


■ イメージと媒体とを分離して認識することは難しい

英語の場合は日本語とは異なり、image がそのまま画像、彫像、映像の意味にも使われるようです。もちろん、picture とか、sculpture とか、screen とか、別の、もっと具体的な用語があり、こちらが使われる場合もあります。また picture image という表現もあり、そのまま「画像」に対応する表現もあるようですが、あまり使われることがないようです。いずれにしても「イメージ」が非常に多様な意味で使われることは確かで、そういった意味で使われる「イメージ」が日本語化しているだけに、非常に奇妙な日本語の熟語が作られ、使われるようなことにもなっています。「イメージ画像」とか「イメージ図」などという言葉に何となく居心地の悪さを感じるのは私だけでしょうか。確かに「イメージ図」と言わずに「想像図」と言ったりするとまた意味が多少異なってくるようにも思われ、「イメージ図」なる用語が使われるのも仕方のないことかなという気もしますが。

イメージという語が日本語に取り入れられ頻繁に使われるようになった原因の1つは、それに当たる「像」という語が、単独では使いにくいという事情があるように思われます。動物の象と同じ音であり、字も似ているという事もあります。また「像」はどうしても人物など、人格を持つ対象を連想しやすいということもあるかも知れません。しかしそれよりも画像、彫像、映像など、それら自体が一体のものであり、像とその媒体とを切り離すことができないものであるというところに起因しているようにも思われます。英語で「image」がそのまま画像や彫像や映像に使われるのも、同じ理由によるものではないでしょうか。結局のところ、画像、彫像、映像などは、イメージそのものと媒体とを切り離して考えることが極端に難しいものであるという事でしょう。


■ 「虚像」、特に鏡像の場合は、媒体とイメージとを切り離して認識することが容易

しかし、媒体と像とを切り離して認識することが比較的容易な場合もあります。それは光学的な虚像の場合です。つまり、レンズやプリズム、鏡などでできる虚像の事です。ただしこれはレンズ、プリズム、鏡などを媒体、メディアと考えた場合ですが。

眼鏡やルーペなどの場合はちょっと難しいですが、プリズムや鏡の像を見た場合、現実には実物が存在しないところに対象のイメージが見えることが誰にでも分かります。それは、イメージには距離感、あるいは位置の感覚が伴うからとも言えます。眼鏡やルーペの場合もそれらを通して見ているイメージは、裸眼で見ているイメージとは若干、距離が異なっていることが分かります。ところが驚くべき事に、虚像である鏡像は3次元ではなく2次元であると言い張る人がいます。その人はルーペで見る像や眼鏡でみる光景も2次元像であると思っているのでしょうか。たぶんそうは思わないでしょう。恐らく鏡面という平面から絵や写真、あるいは映像を連想し、絵や写真のイメージを2次元像であることが自明であるという考えに引きずられているのでしょう。しかし絵や写真のイメージを2次元イメージと呼ぶことは極めて普通の事ですが、本当にそう考えて良いのでしょうか?絵や写真のイメージは2次元イメージと呼ぶべきものなのでしょうか?媒体が2次元であるという事に過ぎないのではないでしょうか。媒体が2次元であることを問題にするのであれば、眼の網膜の表面も2次元です。網膜も広い意味で媒体の1つです。

絵や写真のイメージと鏡など光学製品による虚像との最も顕著な違いは、絵や写真は保存イメージであるという事でしょう。絵や写真のイメージは固定しています。動画の場合も1秒あたり何十枚もの画像1つごとにイメージは固定しています。これに対して光学製品による虚像は鏡やレンズなどに固定しているものではなく、「実物」に対応しています。その光の届くところに「実物」が存在しています。実物を直接見るのとは見え方が違いますが、本質的に実物を裸眼で直接見るのとそれ程の違いはありません。違いは大きさ、鮮明度、鏡像の場合は左右の反転、などでしょう。鮮明度は、光学製品の品質が一定以上のものであれば殆ど実景との差は見られません。近視のように視力が低下した人の場合、むしろ虚像の方が鮮明度は高いのです。近視などの眼鏡の事を考えてみると分かるように、虚像と肉眼イメージとの間に本質的な差はないと言えます。


■ 虚像と肉眼像との間に本質的な差はない

実物本体とそのイメージとの関係で言えば、直接眼で見るイメージと虚像に本質的な違いはありません。つまり、リアリティーの点で何れかが本物で何れかが偽物であるという差はありません。鮮明度で言えば、裸眼の方が鮮明な場合もあり、逆の場合もあります。裸眼で直接見るイメージであれ、虚像であれ、何れもイメージは実物それ自体とは異なる存在ではあるが、つねに実物と眼という感覚器官による人の知覚の双方によって成立する存在と言えます。

この実物とイメージとの関係は先にみたような、例えば画像とそのイメージのような、イメージとその媒体という関係とはまったくの別物であって、それは哲学的な問題になってしまいます。


■ 画像(写真や映像)と裸眼像との関係

では、写真や映像のイメージと実物との関係はどのような関係なのでしょうか。よく「カメラの眼」で見た姿とかイメージ、「カメラの眼」を通して捉えたイメージなどと言いますが、カメラが眼に例えられるのはその構造だけです。カメラという単なる構造物と人の視覚そのものとは何の共通点もありません。このような言い方はただカメラを擬人化しているに過ぎません。

先ほど写真や映像は保存固定したイメージであると言いましたが、実はそれは写真や映像の1つの特質ではありますが、保存するからには保存する内容が無ければなりません。その保存する対象のイメージは何でしょうか。というのも、人や物の姿を写真フィルムや記録媒体を通さずに直接レンズでスクリーンに映し出すこともできるからです。テレビの生放送はまさにそれに当たります。そのイメージの元はレンズの作り出す「実像」と呼ばれます。

写真や映像などの画像一般と、鏡やレンズやプリズムなどを使った虚像との違いには、まず、光学的な実像と虚像の違いがあることが分かります。

【ここでの結論】
◆ 鏡像や望遠鏡、双眼鏡、ルーペ、眼鏡などのイメージは虚像であり、それに対して画像(のイメージ)は実像である。


■ 実像の本質

ところで一方、望遠鏡や顕微鏡など、対物レンズと接眼レンズを用いる光学系では、対物レンズによってできた実像を、接眼レンズによって虚像として見ているといわれます。しかし結果的に、これらの場合は対物レンズによってできた実像というのは単なる光の通過点の集合であり、人が見る像はあくまで虚像であると言えます。しかしその箇所にその大きさの実像ができていることには間違いがありません。ではカメラの画像、すなわち写真と、望遠鏡などの実像はどこが違うのでしょうか。


■ 虚像と実像との違い

実像といえども、それは人間の眼で捉えて始めて像になるのであって、それ自体は光の通過点の集合に過ぎないわけであり、それ自体は像でもイメージでも無い訳ですが、虚像の場合はそれは光の通過点でさえないのであって、その点での虚像との比較において、実際に存在する実像と見なすより他はありません。


■ 写真のイメージは実像に由来するが、実像そのものでは無い

写真のイメージは、正確には実像そのものとは言えません。それは実像をいったん特殊な平面で受け止め、それを化学物質なり、デジタルデータなりで分析、記録、処理したものを人が肉眼で眺めたときに生じるイメージです。写される対象を直接肉眼で見た場合と異なるのはもちろんですが、カメラの内部に生じた実際の実像を直接眺める場合ともまた異なります。カメラの内部に生じる実像は、望遠鏡や双眼鏡で見る実像と同じものです。その実像ができる位置は平面ではありません。対象が近距離の場合、実像を平面で受け止めると、正確に焦点が合っている部分以外はピンぼけになります。しかし対象が遠景であれば事実上平面と言って差し支えありません。いずれにしても眼の網膜に映る場合と同じです。ですから、平面で受け止められる実像は真の実像そのものと事実上同じものと考えて差し支えありません。この実像をそのまま肉眼で見る場合と、実像ではなく実景を直接肉眼で見る場合とを比較した場合、その違いは大きさ、上下左右の反転などに現れますが、それ以外の点では変わりありません。従ってもう少し複雑な光学系を加えて大きさ、上下左右の反転を修正し、結果的に網膜に映る映像が直接対象を見ているときと同じ大きさと方向に映るようにできる筈です。ただし明るさや色合い、焦点の合う距離範囲などに差が出てくる可能性がありますが、遠景の場合も近景の場合もリアリティーという点では問題になりません。

という訳で、実像の場合も虚像と同様、それを直接眺めている限りは、肉眼で直接実景を見ているのとはリアリティーの点で全く差はありません。リアリティーの点で、実像もそれ自体では虚像と何ら相違はないと言えます。

【この項の結論】
光学的虚像と実像それ自体にリアリティーの点で差はない


■ 像と虚像との違いは、画像ではそこに表現されているイメージと一体になった媒体(紙、スクリーン、他)自体が新たなイメージソースになることにある。

本質的な違いは、実像を保存し、再生するところから始まります。あるいはテレビの生放送のように、実像を処理して新たな媒体に再現するところから始まります。実像を保存し、再生するところから、元のイメージは媒体と一体のものとなり、その媒体、物質的な媒体自体がひとつのイメージソースとなることです。これは虚像ではあり得ないことです。つまり実像ではそこに光が到達し、何らかの物理的な表面上に光が物理化学的変化を残す事ができるからですね。


■ 画像を見るということは、同時に2つの異なったイメージを見ることである

結論の1つとして言えることは、人が写真を見る場合、まったく素性というか、起源の異なる2つのイメージを同時に眺めることになるということです。1つはカメラによって捉えられた対象のイメージ、もう1つは媒体、すなわちメディアそれ自体のイメージです。本来の目的である被写体のイメージから言えば媒体自体のイメージは余計なもの、ノイズに他なりません。

「平面画像」ないし二次元イメージといった言い方は、本来別物であるこの2つのイメージを区別せずに一体のものとして認識した言い方であると言って良いと思われます。もう少し正しく表現するとすれば、「平面の媒体上に表現されたイメージ」というべきかも知れません。表現されている元のイメージの内容が二次元であればそのイメージも二次元であり、三次元であればそのイメージも三次元です。

ただし以上はすべて単眼のカメラと単眼の肉眼についての観察についての考察です。大体はこのまま両眼について当てはまるとしても、当てはまらない部分もありそうです。

【1つの結論】
平面像」ないし「二次元像」という言い方は、イメージの媒体としての画像を指す場合は意味があるが、表現されているイメージの内容自体は平面とは限らないのであって、誤解を招く表現である。


■ 画像媒体の、ノイズとしての効果は低減することが可能である。

この媒体に起因するノイズを低減するために行われてきた、といえる対策の最たるものは画面の大型化でしょう。大型化という事はすなわち、遠距離による鑑賞を可能にすることです。劇場用映画ではこれが早くから実現し、現在では家庭向けのテレビ画面で大型化が進んでいます。しかし家庭では見る距離に限界があり、当然大型化にも限界があります。劇場向け映画ではそれ程一般化しなかった立体映画、今言われる3Dが家庭用テレビで実現され、メーカーが力を入れているのは、家庭では大型化に限界があるからのような気もします。

いわゆる「3D映画や3Dテレビ」、すなわち立体映像技術も画像媒体のノイズを低減する方法の1つという面がありますが、立体映像技術の1つの特長は同時に2つの異なった画像を使用すると言う事です。本来、元のイメージは1つなのです。そこに不自然さが入り込んでくるのではないでしょうか。

一方、印刷物や書籍では電子書籍を含め大画面化は最初から限度があり、むしろ小型化も進んでいます。上述の特許出願
は小画面に対応し、媒体に起因するノイズを低減する1つの方法の提案になっています。

参考
◆http://www.te-kogei.com/patent/koho_imageglass.html

筆者による関連ブログ記事
◆http://d.hatena.ne.jp/quarta/20100221#1266739280
「3D」映画と眼の疲労、身体の不調
◆http://d.hatena.ne.jp/quarta/searchdiary?word=%2A%5B%B6%C0%C1%FC%CC%E4%C2%EA%5D
鏡像問題


以後、イメージとメディアに関して以下のような問題を続けて検討して行きたいと考えています
☆ 両眼視と両眼視差の問題 ― 両眼視差は立体視に貢献する以外にも視覚に様々な影響を与えている。
☆ 鏡像問題と縦書き横書き
☆ 絵画と写真
☆ イメージの起源 ― (科学的)物体と光、(心理的)心、神秘的なもの

2010年1月4日月曜日

クラリネットはガラス工芸、ヴィオラは陶磁器

最近、名ビオラ奏者と言われるバシュメットという人の演奏するブラームスのヴィオラソナタ、つまりヴィオラとピアノによる二重奏ソナタ2曲とチェロが加わったビオラ三重奏曲の入った中古CDを買った。

ブラームスのこれらのソナタ集、すなわちクラリネット(ビオラ)とピアノによる二重奏ソナタ集の録音を買ったのは3度目になる。私は同じ曲のレコードを何枚も、何通りも購入するような音楽マニアでもなく、時間的にも経済的にも余裕のある暮らしをしてきたわけでもないが、なぜかこの曲に関しては、3回、時をおいて買っている。

最初はもうかなり以前というよりも昔、当時すでに過去の名盤の廉価版と言う形で、古いモノラル録音によるLPレコードで、演奏者はウラッハというクラリネット奏者と、ピアニストはもっと有名なイェールク・デムスだった。解説によるとウラッハはウィーンの伝統を体現した最高のクラリネット奏者であるとのことだった。

当時このレコードを何度か聞いてこの二曲が好きになった。しかし、古いモノラル録音のため、音の鮮度というものが物足りなく、特にクラリネットなど、音色に魅力がある楽器であるだけに、不満があった。それから幾年月かが過ぎ、今度はCDの時代になってからライスターというドイツの有名なクラリネット奏者の演奏で、これらブラームスのクラリネットソナタ集の録音を買った。

再生装置は少しも高級なものでは無かったが、やはり、新しいステレオ録音のCDは、以前のモノラル録音LPの音の不満を解消してくれた。演奏は、どちらが優れているかというような評価を下す能力は私には無いが、少なくとも演奏に不満を感じることも無かった。たとえばフランス人の名クラリネット奏者と言われるランスロの演奏するブラームスのクラリネット五重奏曲で感じたような演奏上の不満は無かった。

このCDであらためて感銘をうけたのは、クラリネット自体の音色の美しさもさることながら、クラリネットとピアノの組み合わせが持つ音色の豪華さであった。クラリネットとピアノの組み合わせはこの曲以外に聴いたことが無いが、この曲を聞いて実に豪華な音色がするものだと思った。豪華といっても極彩色という感じでもなく、黄金色に輝くような感じでもなく、なにに例えればよいかというと、無色で大粒のダイヤモンドのような豪華さなのだ。透明感とボリューム感とを備えた、やはりブリリアントという言葉がふさわしい豪華さである。

この二曲はどの解説でもブラームス晩年の枯淡な境地を表現したものだと解説されている。確かにメロディーは、そして個々の表現そのものはそういう枯淡なものかもしれない。しかし音色、楽器というよりも楽曲の音色は本当にブリリアントで豪華に感じられたのである。

このCDはある理由で過去に手放してしまい、今は無いので、またこの曲を聴きたいと思っても、古いLPは今聞ける状態で無く、今度上記のヴィオラ演奏による中古CDをネットで購入した次第。このCDが出たころ、何か新聞か、雑誌の立ち読みかで、賞賛記事を見た記憶があった。当時は即購入して再生装置で楽しむような状況ではなかったが、最近ヴィオラが流行というか復興しているとかいう機運もあるそうで、確かにヴィオラでこの曲を聴くのもよさそうだという思いもあって、ネットで中古を見つけて購入した。はっきり記憶しているわけではないが、ラジオでヴィオラによる演奏を一度聞いていたかもしれない。

このバシュメットの演奏を何度か聴いてまず思ったことは、クラリネットによるこれまで聴いていたこの枯淡といわれる曲の印象に比べて情熱的な面が表面に出てきているような気がした。演奏家の表現による部分もあるだろうが、やはり、楽器の特性にもよるのではないかと思う。ヴィオラの演奏は何か筋肉質とでも言った感じがする。考えてみれば、こういう弦楽器は全身の、特に腕と手の筋肉を使って演奏するものだ。それに対してクラリネットなどの管楽器は呼吸器という内蔵あるいは横隔膜を使って音を出す。そういう違いが音の表情にも表れてくるのかもしれない。

他にやはり、この曲は本来クラリネットのために書かれた曲だなと思わせるところが多くある。特に装飾的な箇所と弱音箇所がそうだ。クラリネットでは弱音の箇所では、空気に溶け込むような感じなのに対して、弦楽器のヴィオラでは弱音の箇所も輪郭がくっきりとしている。これは振動する共鳴体のもつ表情によるものだろうと思われる。ヴィオラでは強靭で細い絃が振動し、これもまた薄くて強靭な木の箱が共鳴する。それに対してクラリネットの場合は振動版と空気の柱とが共鳴するが、空気の柱には周囲の空気との、はっきりした境界がない。

そういう、周囲の空間に溶け込むような音色が、枯淡といわれるこの曲に向いているのかもしれないが、その一方、腕と指で正確に繊細な動きを細く強靭な弦に伝える弦楽器であるヴィオラの場合には別の意味で繊細、微妙な、しかもくっきりとした表情が付けられているようにも思われる。


以上のようなクラリネットとヴィオラの表情の特徴を簡潔な比ゆで表すとすれば、クラリネットはガラス工芸、ヴィオラは陶磁器といえばよいのではないかと思う。ただ、面白いことにこの比ゆは木管楽器全般と弦楽器、それも擦弦楽器全般に及ぼすことが必ずしも適当とはいえないと思われることだ。

ヴィオラが陶磁器であるとしても、ヴァイオリンとチェロも陶磁器的とは必ずしもいえない。同様に、フルートやオーボエ、ファゴットなどもガラス工芸的とは必ずしもいえない。チェロが人声に近いというのはよく言われることだが、これは同じ音声同士の比較だからあまり面白くない。いっそ、ヴィオラを磁器に、チェロを陶器に例えることはできるかもしれない。そうするとヴァイオリンは何になるだろう。ヴァイオリンになると、そういう工芸的なものというより、絵画になるとでもいえるかもしれない。

面白いもので、ヴァイオリン族の楽器は何れも独奏やピアノとの合奏、弦楽合奏、弦楽四重奏などの室内楽では随分と印象の異なった音になる。独奏も弦楽合奏も非常に派手で、華やかな音になるのに比べて弦楽四重奏では地味な音になるということは面白い現象だと、前から思っていた。編成によって全く異なった表情をもつようになるものなのだ。

こんなことを重要なことに思い、考え続けるのも、ひとつには昨年、カッシーラーの「シンボル形式の哲学」を読んだことの余韻がある。それによると、人間の感覚、感覚内容、今の言葉で言えばクオリアよりもさらに深い認識の根源に表情機能がある。この部分の考察に共感覚も絡んでいたような気がする。とにかく難解であり一度通して読んだきりで、理解できたと言えるわけも無いが、この根源的な表情機能とのかかわりで、視覚と聴覚などの異なった感覚に共通する共感覚にも関わってくるような、この楽音と工芸素材との比較、あるいは比喩、さらには単なる楽音を超えて音楽作品そのものと風景やドラマとの関わりといったものにおける共通する表情の問題という深みにはまって行きそうなのだ。


ところで、枯淡といわれるこの曲だが、枯淡という表現がぴったりという感じでもない。確かにメロディーは若々しいというわけではないが、結構激しい感情が感じられるところもある。ただ、確かにどこかほの暗い雰囲気の中の叙情という感じはする。とくに第二番の方は、ほの暗い遠景が感じられる。もっと具体的に言ってしまうと、やや広い盆地の一端のちょっとした高みから向こう側の遠い山々とふもとの町々を黄昏のほの暗い空気の中で眺めているような印象のメロディーに感じられる。これはやはりクラリネットの演奏で特に感じられることだ。ヴィオラでも、夕方か黄昏に近い感じはするが、ただ、ちょっとメロディーの線がくっきりと明るく明瞭に見えすぎるようだ。クラリネットは音色が透明なだけに、遠景のほの暗さがそのまま透けて見えるようだ。それでいてピアノとの組合せはダイヤモンドのようにブリリアントなのである。