2022年12月14日水曜日

一神教、科学主義、および神秘主義という三つの概念ないし理念を個人的体験をとおしてみると (2):キリスト教文化的芸術の私へのインパクト ― 政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その5

 明治以降の日本人が学校教育で教えられたり、広く社会や家族を通して得られたキリスト教文化的なインパクトというものに注目し、分析するという場合で、その対象が科学や哲学に該当する場合、個々の対象についてそれがキリスト教文化に固有のものであるかどうかという判別は簡単にはできそうもない。哲学的なものや科学的な考え方や成果といったものはキリスト教以前、特にヨーロッパではギリシャの哲学や科学という伝統があったはずである。もちろんヨーロッパ以外にもある。中世のキリスト教神学にはアリストテレスの哲学や科学が取り入れられていたことはよく知られている。シリーズの最初の記事で、近代科学が一神教としてのキリスト教と深い関係があるという考え方については、それを検証すること自体がこのシリーズ記事の目的の一つでもあるので、それについては後回しにしたい。

明確なキリスト教のラベルがついている文化的なものと言えば、それは芸術分野に属すものだといえるだろう。建築では教会建築がキリスト教文化を代表している。しかしキリスト教の教理と関係があるのは建築様式や形式であって、建築の与える印象そのものとは言えない。絵画では宗教画と言われる分野がある。しかしその場合も教理と関係があるのは図像的な意味であって、形式と様式のような約束事に関わるものであり、絵画が与える芸術的な感銘とは異なるものだと思う。音楽の場合はさらにそれがはっきりする。そもそも純粋な音楽でキリスト教の教理とか一神教の理念とかを表現できるわけがない。音楽で表現できるものは、言語で表現される理念や概念のようなものではない。それは造形芸術でも同だろうが、音楽の場合はその点で造形芸術に比べて純粋であるといえる。造形芸術の場合はそれが、先に述べたような図像的な意味と分かちがたく結びついている。一方で音楽は言葉と結びつくことが多いが、必ずしも常にそうではなく、言葉と音楽は明確に区別できるものである。

それに加えて、西洋音楽の場合、キリスト教は特に音楽を重視してきたことはよく言われることであり、またクラシック音楽そのものの発祥の起源がキリスト教の教会の儀式にあるといわれ、多少ともクラシック音楽に親しみ、馴染んで、知識をもっている日本人なら、だれでもそういう印象を持っていると思われる。日本の義務教育で行われている西洋音楽史の授業でもその程度のことは教えられている。また一部の賛美歌やクリスマスソングなども日本人一般に浸透しているし、カトリックのミサ曲などもクラシック音楽の一分野として、ある程度の人気のある分野である。ただ興味深いことは、ミサ曲の中でもレクイエム、日本語で鎮魂ミサ曲の人気が高いことである。死者の鎮魂という風習は人類に普遍的であって、日本人にとっても何の違和感もない。この傾向はヨーロッパにおいてもそうなのだろうか。たとえば、ブラームスはプロテスタントであるにもかかわらず、鎮魂ミサ曲を書いたことで知られる。もっとも、同じプロテスタントであったバッハの書いた、有名なロ短調ミサ曲という例もある。

このように、クラシック音楽は西洋のキリスト教ないしはキリスト教会が発祥と言われていても、クラシック音楽自体はすでにキリスト教の教会音楽そのものではなくなり、実際に教会で儀式や祈祷に使われるミサ曲や賛美歌自体がキリスト教からも離れてキリスト教徒ではない日本人にも親しまれている。私自身もそういう日本人の一人でもある。このように、多くの日本人にとってと同様、私の場合も、クラシック音楽一般のみならず、キリスト教の教会音楽についても、キリスト教の教理とも一神教の理念とも無関係に、端的に言って有難い「芸術」として受け入れているという他はない。

とはいうものの、やはりクラシック音楽のなかでも、何かジャンルとして宗教音楽と分類されるものや、キリスト教との関わりを想起させるような、あるいは宗教的といわれるような作品にはなにか特別に高尚な作品群であるという印象を持っているのは私だけではないだろうと思う。

一つの典型的な例と思われるものはブルックナーの交響曲を主とする作品群である。一般にブルックナーと言えば、彼が熱心なカトリック教徒であったことからカトリックの信仰との結びつきについて語られることが多い。ウィキペディアの記述を見てもそうだが、古いブリタニカ国際大百科事典の日本語版を見ても、次のような記述がある:
「敬虔なカトリックの世界観に根ざす彼の深い精神性も、当時の知的潮流から彼を遮断してしまった。」

実のところ、私はブルックナーの生涯や人となりについてあまり知らなかったので、最近になって短い伝記作品を読んだが、だいたいそれまで持っていた印象のとおりで、彼が幼少期からカトリック教会に聖歌隊の隊員として預けられたことに始まり、何度も教会の専属オルガニストとして人生の長期間を過ごしたことや、交響曲以外にはミサ曲やオルガン曲を作曲した一方でオペラや派手な協奏曲などは書かなかったことなど、まだ人となりについては、やはり敬虔なカトリック教徒という表現がふさわしいが、かといって聖職者のような生活をしていたわけでもないことなど書かれている。

ただし、私が若いころに初めてブルックナーに関する短い文章を読んだのは、彼の有名な指揮者フルトヴェングラーの『音と言葉』という日本語訳タイトルの著作の一部で、著者一流のブルックナー論とでもいえる内容の、二十数ページからなる一章であった。そこではキリスト教、キリスト教会、カトリック、といった言葉は使われていなかった。もっともそれはブルックナーの伝記的な紹介のようなものではなく、深く掘り下げた作曲家論とでもいうべきものである。全体としてかなり主観的で理解しづらい文章だったが、次に引用する一節がある。

「彼(ブルックナー)に課された運命は、超自然的なものを現実化し、神的なものを奪い取って、吾々人間的世界の中へ持ち込み、吾々の世界に植え付けることでありました。魔神との戦いの中にも、また至高の浄福を歌う響きの中にも、――この人の全思と観念とは彼の内部の神的なるものに向かって、彼の上に司宰する神々に向かってその深遠な情感を尽くして捧げられています。彼は決してただ音楽家であるという様なものではありませぬ。この音楽は真の意味に於いてあのドイツの神秘思想家、あのエックハルト、ヤーコプ・ベーメ等の後継者であります。(芳賀壇訳)」

これは、簡単にいってブルックナーは神秘主義者であり、その音楽は神秘主義的である、と述べていると言ってよいだろう。ブルックナーが具体的にエックハルトやヤーコプ・ベーメを研究して音楽にそれが反映しているのかどうかについてまでは、フルトヴェングラーは何も書いていない。またもちろん、私のように、専門的に音楽を研究しているわけでもなく、趣味的に、しかも殆ど録音で音楽を聴いているだけでは知る由もない。また、「神秘思想」や「神秘主義」も、キリスト教の教義や一神教の理念などと同様に、言葉でしか表現できない概念や理念であって、音楽で表現できるわけではない。しかし神秘、神秘感、あるいは神秘性、神秘的な感情といった何か神秘的としか言いようのないものは音楽で表現されうるものであり、聞き手は音楽から感じ取ることはできる。これは造形芸術でも同様で、同じ西洋美術の範疇でもモナリザの微笑や聖堂建築の荘厳さなど、多くの例を挙げるまでもない。

一つの結論として、私にとっても、多くの日本人にとっても、西洋のキリスト教のラベルが付いた芸術が持つ魅力、そこから得られる感銘はキリスト教の教理や一神教の理念ではなく、むしろその神秘感ないし神秘性にあると言え、宗教との関わりでいえば、むしろ一神教よりも多神教に馴染むものであるといえる。上記のフルトヴェングラーの言葉の中でも、「魔神」とか「神々」という言葉が使われているように。

上記の事情は、次に引用するフロイトの指摘にも関係がある。
フロイトの「モーセと一神教」から「Ⅲ モーセ、彼の民族、一神教」の第一部の終わりに近く、ユダヤ教からキリスト教が誕生する経過のまとめとして次のような一節がある。「この新しい宗教は、古いユダヤの宗教に照らしてみるならば文化的退行を意味していた。キリスト教はユダヤ教が上りつめた精神化の高みを維持できなかった。キリスト教はもはや厳格に一神教的ではなくなり、周辺の諸民族から数多くの象徴的儀式を受け入れ、偉大なる母性神格をふたたび打ち立て、より低い地位においてではあるにせよ、多神教の多くの神々の姿を見え透いた隠しごとをするような仕方で受容する場を設けてしまった。これらを要約するに、キリスト教は、アートン教やそれに続くモーセの宗教のようには迷信的、魔術的、そして神秘的な要素の侵入に対する峻拒の態度をとらなかったのであり、結果としてこれらの要素はその後の二千年間にわたって精神性の展開を著しく制止することになってしまった。」

このフロイトの分析では、一方的に一神教が高次の優れた宗教であり、多神教が低級な宗教ないしは文化であることを前提に語っている。それはフロイトの科学思想にも関係が深いように思われる。フロイトの精神分析については、フロイト自身はそれが科学であることを誇っているように見えるが、一方で一部の科学者からは、精神分析が科学ではない、または科学的ではないというような批判がある。この点では、フロイトも、フロイトの精神分析を科学ではないという理由で批判する側も、どちらも科学主義者であるといえる。また、神秘主義や神秘主義的な思想を批判し、神秘的なものを否定するという点でも共通している。例えば、フロイトはユングの神秘主義的傾向に批判的である。上記の引用においても、フロイトは明確に神秘主義的な要素を拒否し、「アートン教やそれに続くモーセの宗教」を高く評価していることは明らかである。上記引用中のフロイトが「精神性の展開」と呼んでいるものは、科学的精神とでも呼ぶべきものなのであろうか。

他方、上述のフルトヴェングラーからの引用中には、日本語訳ではあるが、「魔神」と「神々」という、神的なものに二極性の表現が用いられる。実際、一般に芸術に表現され、感じ取られる神秘性には不気味で恐ろし気なものと対極の神々しさや神聖さという、両極を含んでいる。それに対してフロイトの思想においては神秘性そのものが全体として克服されるべき低級なものとみなされているように見える。

【以下は12月22日に追記】

科学主義的な傾向は一般に、宗教よりも神秘主義を批判し、否定しようとする。それはフロイトのように一神教を多神教よりも高次の宗教として評価する傾向と符合する。

ところで、科学主義的な言説は宗教における言説と同様、基本的に言語で表現され、規定されるものであり、科学それ自体、個々の科学分野も言語で表現されるものである。一方の音楽は言語ではない。造形芸術も言語ではない。芸術は、特に音楽は言語的ではない。造形芸術も言語ではないが、図像は象形文字やピクトグラム、絵文字、あるいは文章中のイラストレーションなどのように言語と組み合されても使われるなど、音楽よりも言語に近いところもあるように思われる。音楽ももちろん言語と結びつくが、音楽の場合は科学的な言語ではなく詩やドラマのような形でのみ、つまり芸術的な表現でのみ言語と結びつく場合があると言える。この問題も深入りすると際限がないので今は打ち切らざるを得ないが、一つの重要な、事実とまでは言えないが、少なくとも傾向として、科学主義は神秘主義と神秘性を受け入れないが、音楽を始めとする芸術は神秘性と馴染みが深く、見方によっては、神秘性と神秘主義こそが芸術の究極でないかとみなす考え方があってもおかしくはないと思われる。

次回からは、科学主義(あるいは科学志向)と芸術という両極との、私個人的な関わりを反省してみることから、両者の関係について考えてゆきたいと思う。