2009年3月29日日曜日

言葉の意味の面からダーウィン進化論について思うこと

ブログ発見の「発見」、2/24日の記事で英米ニュースサイトでのダーウィン主義進化論のニュース記事に触れ、多くの記事をろくに読まないまま、個人的な感想を書いた。その続きのような形で、その後考えたことをこちらで書いてみたい。

あらかじめ断っておくと、これは2、3 の言葉の意味について考えたことの面からのみダーウィン主義について思うことで、ダーウィン進化論と現代の進化論の全体はもちろん、それらを構成する個々の理論についてコメントするといった、専門知識を要するような内容ではない。

それらの言葉のうちで、まず、「適者生存」という言葉だが、この言葉についてウィキペディア日本語版に次のような記述がある。

『創造論者などは進化論への反論として「生き残った物が適者であり、適者が生き残る」と言う主張は循環論(あるいは同語反復、トートロジー)であり科学ではない、と主張する。しかしこの表現は、メカニズムを簡潔に説明するための比喩であり、何かを証明する理論ではない。生物学者はこの表現を一般的に使うことはなく、自然選択と呼ぶ。そして自然選択はフィールドワークや実験から観察された事実により支持されている。』

ここで対立している両サイドに問題があるように思う。

進化論への反論として取り上げられている「適者生存」が同語反復であるという主張は一応正しいと思う。但し創造論対進化論という図式での議論として固定的にこの議論が用いられるとすれば問題だ。

一方、「(適者生存とは)メカニズムを簡単に説明するための比喩であり・・・」という反論にも大いに問題がある。あまりにも大ざっぱだ。同語反復であるかどうかという問題と、比喩であるか比喩でないかという問題は別の議論であって、議論がすり替えられている。比喩的であることを問題にするなら、むしろ「自然選択」の方があからさまな比喩である。ダーウィン自身が説明しているとおり、人為選択のアナロジーであり、自然の擬人化である。

そもそも「進化のメカニズム」という表現で使われる「メカニズム」自体が比喩なのである。

ちなみに「メカニズム」と「mechanism」とを日英それぞれのウィキペディアで引いてみると、日本語では「機械」と「構造」の2つの項目に振り分けられているだけだが、英語版ではMechanism (biology)、Mechanism (chemistry)、Mechanism (philosophy)、Mechanism (sociology)、Mechanism (technology)、およびMechanism (engineering)、と6通りもの項目に振り分けられている。そこで、Mechanism (biology) を引いてみると、冒頭近くで「No description of mechanism is ever complete」という表現に始まり、結構長文の議論が開始される。

そこでは、最近の数十年にわたり、生物学におけるメカニズムの概念が哲学的分析の対象として再登場してきたことが紹介され、その多くが explanation と causation との問題に関わるメタサイエンス的問題であるとして、そういった説明の例としてWesley C. Salmon という人の考えが簡単に示されている。それによると、メタサイエンスの文脈では記述すること(description) と説明すること(explanation) とは同じことであるという。

この問題にいくらか興味はあるがいまこれ以上知ろうとする意欲は持てない。いずれにしても、生物学におけるメカニズムの問題は現代の科学哲学の主要問題であるらしいことが分かる。ともかく、少なくとも生物学でいうメカニズムという概念自体がそんなに確かなものではない事が分かる。

直感的に思うことだが、適者生存というのは単に適者といえる存在が出現してくるという事実、すなわちダーウィン進化論で進化は自然選択と、淘汰される前提として生じている筈の多様性との二段階から説明されているのだと思うが、その多様性が生じることそのものを言っているに過ぎないのではないかという疑いが起きる。すなわち適不適を含め、様々な多様性が生じるという、自然選択の前提となる現象をそのものを指しているに過ぎないのであって、自然選択という現象は、前提となるその多様性が生じることの中にすでに含まれているということではないか。

自然には生物自身も含まれているわけで、当然に変異という多様性を生み出す過程も自然に含まれる。

ダーウィンが自然選択という言葉を発明したことによって進化のメカニズムの主要な部分が自然選択にあると思われるようになってしまったが、実際のところ、進化のメカニズムというものがあるとすれば、それはダーウィン主義で自然選択の前段階、前提とされている多様性の出現そのものであって事実上そのメカニズムなるものは何も分かっていないという事ではないのだろうか。

進化の事実そのものは地質学、自然斉一説によって明らかになっている。キリスト教的な創造論や天変地異説は自然斉一観によってダーウィンの当時すでに古いものになっていたとも言われる。この自然斉一観というのが地質学の基本原理とされてはいるものの、物理学や生物学ではあまり強調されることがないのはどうしたことだろうか。物理学では宇宙の始まりというような問題が扱われるようになった現在、あまり意味がなくなったのかも知れない。しかし、進化の歴史的事実は自然斉一観に基づく地質学的な古生物学で明らかにしたことで、ダーウィンの業績はその上でなされた仕事である。

自然選択という見事な比喩で、表題の通り「種の起源」のストーリーを「記述」ないし「説明」できたことで、すっかりそれが「進化のメカニズム」を取り込んでしまったとも言えるのではないか、とも思う。

進化のメカニズムを適者生存とか自然選択といった抽象的表現よりもいくらか具体的になったのが競争、闘争、共生、といった概念だが、本来こういう言葉は人間にしか使えないものである。生物一般に使うとなれば、生物学はすでに自然科学の枠を超えていると言わなければならない。実際生物学である以上、どのような対象であっても、自然科学的用語だけで済ませるわけには行かない。

同時に、自然科学的世界観の枠を超える概念や想定や仮説をも受け入れる覚悟が必要であるとも言えるのではないだろうか。

2009年3月12日木曜日

温暖化問題と専門性について

温暖化問題で言えば、少なくとも対立する専門家同士の意見ないし説明を比較することは一般人でもできる訳ですね。まあそれしか道がないわけですし、また現実の生活に繋がる問題ですから比較検討する必要もあり、政治家にとっては比較検討し、判断する義務があるというものでしょう。そこで対立する専門家間で、どちらの説明が説得力があるかと言うことですが、その専門家の解説ないし説明を理解し、判断できるだけの能力は、温暖化問題の場合、高等学校かせいぜい大学の教養課程程度の自然科学(化学と地質学)の素養があれば十分に判断できる程度のものと思います。ただ正確に理解するためには本なり記事なりを正確に理解するための多少の努力は必要でしょう。ごく普通の人がそういう判断ができるようにするにはマスコミが判断をできるだけの材料や専門家への発言の機会などを正統に提供してくれることが理想ですが、現実はそうではなく、情報操作が行われているのではないか、とか陰謀論、あるいは社会心理学的なメカニズムによる説明なども出てくるのは当然だと思います。事実、科学ニュース記事には社会心理学者による解説記事なども出ています。しかし社会心理学者による解説を読んでも、CO2による温暖化説の肯定に読者を誘導していることがはっきりと分かる場合があり、逆にIPCCのメンバーである気象学者(CO2主因説の否定論者)のコメントでは、そこでの合意事項が決定される過程に集団心理、集団思考的なメカニズムを指摘しています。そういう記事なども多面的に勘案してみると、CO2主因説には社会心理的、集団思考的、さらに政治的なメカニズムがあることを認めざるを得なくなり、その面からも逆に太陽活動説が補強されるように思います。  

科学の専門分野というのはそれを特定の専門分野として公認する権威の存在を無視するわけにはゆかないでしょう。科学も社会的なコミュニティーなしに存在しえないもののようですから。また一言で専門分野といっても多種多様の専門分野を一律に専門分野と言っている訳で、その内容は様々です。敷居の高い専門分野もあれば、敷居は低いが、奥が深い専門分野もあるでしょうし、現状で周囲から存在価値を疑問視されているような分野もあるかも知れません。一概に専門分野を同列に扱うこともできないと思います。  

更にまた、地球温暖化問題は特定の専門分野の問題というわけには行かないと思います。既存の専門分野との関わりでは気象学ともっとも関わりが深いと言えるだけで、細分化すれば気候学、古気候学などもあり、他に深く関わる分野としては天文学、地質学、地球物理学、海洋学、地理学、生物学と、きりがありません。もちろん物理学、化学は言うまでもありませんが、極端にいえば神学なども持ち出す人が出てくるかも知れません。また同じ気象学者でも他の分野に詳しい人もいれば、全く詳しくない人もいるかも知れません。たとえば一昨年ですが、「NewsBusters」というサイトに次のような記事がありました。 
「Former IPCC Member Slams UN Scientists' Lack of Geologic KnowledgePosted by Noel Sheppard on July 9, 2007 - 13:53」
元IPCCメンバーの学者が当時の国連科学者の地質学的知識の欠如を叱るという内容です。 こうなってくると、温暖化問題を特定の専門分野の問題として距離をおくことは難しくなってきます。限りなく難しいことですが一般人が専門家を判断しなければならないということになってきます。今盛んな「ニセ科学批判」はこの点で非常に偏った独善的な主張になりがちです。

最近のいわゆる「ニセ科学批判」には色々な側面があると思いますが、他分野批判という側面もあるように思います。特定の専門分野、例えば精神分析、精神医学、あるいは脳科学など、分野そのものを「ニセ科学」あるいは「疑似科学」などというカテゴリーに区分しようというようなものです。こういうものと超自然現象をあつかったもの、宗教批判、迷信、ねつ造論文、欠陥論文、ねつ造テレビ番組、こういった諸々を一括した概念でくくられるようになるともう、恣意的なものが入り放題です。結局は暴論と中傷合戦に陥ってしまいます。

「ニセ科学」は論外としても、「疑似科学」というような一般化した呼称または概念で議論することは、多くの分野が関わる複雑な問題である温暖化問題を論議する場合も持ち込まない方が良いと思います。「温暖化問題」そのものは具体的なこの地球環境の現実そのものの問題であって科学のどの特定分野の問題でもないし、科学一般という学問分野の問題でもなく、如何なる専門分野の問題でもないと考えるべきではないでしょうか。関わっている専門分野を挙げればいくらでも沢山の分野を挙げることが出来、それ程多くの分野における理論とデータの蓄積がからんでいるであろうと想像されることに圧倒され、素人には判断のしようがないものと思いがちですが、少なくとも一冊くらいは本当の専門家(ゴアのような政治家ではなく)による一般向けに包括的な解説をされている本(但し、少なくとも一冊は一般に喧伝されているCO2主因説とは反対の結論をもつ本)を読み、その他の本やインターネット、マスコミなどで各所の広報やニュース記事などの説明、対立する意見を注意深く読めば、以外と確信できるような知識が得られる可能性もあるものです。問題は限りなく複雑で容易に理解することはできないのだというような言い方をしがちなのは、どちらかといえば、主流のCO2主因説の支持者の方です。しかし一方でCO2主因説論者はCO2が主要原因であることがほぼ確実であると確信したような矛盾した主張をしています。素人が考えるのはよして自分たちの主張を信じなさいと言っているようなものではありませんか。そういう論者が一方で「ニセ科学に騙されないように」とか、「科学リテラシー」というような言葉を振りかざすとすればそれは変です。欺瞞か無知か怠慢をかぎとらざるを得ません。


すべて具体的に、ケースバイケースで議論すべきでしょう。「科学リテラシー」などという言葉も必要のない、むしろ有害な言葉だと思います。まだ数学リテラシーとか物理学リテラシーなどは意味があるかも知れませんが、しかしそれも程度の問題です。数学の場合は割とはっきりしているので、よく「中学校程度の数学」とか「高卒程度の数学」とか、もっと具体的に微積分とか、明確に指定する場合が多いとおもいますが、リテラシーという言葉はそのように具体的でなければ意味がないと思います。科学一般に通用するリテラシー、抽象的な「科学」についてのリテラシーなど幻想に過ぎないと思います。

2009年3月11日水曜日

進化生物学の比喩について ― ブログへのコメント

蒼龍氏のブログ
http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20090306
へのコメントをさせて頂いたのですが、同じ問題で3回目になり、長くなったので先方のコメント欄からこちらの方に切り替えました。

ひとまず安心しました。何度もご回答頂き有り難うございます。
ただ私の言いたかったことはちょっと違っています。
ネオダーウィニズムと進化心理学の全体像について何もコメントする気はありませんし、できもしませんが、コンピューターとのアナロジーの問題に限っては、前回のコメントは意味のあることだと確信しています。その点からのみですが、それで進化心理学に対して批判が有るというのももっともだなと思った次第です。

要するに脳をコンピューターに例えることの意味をもっと深めていく必要があるのではないかと言うことです。数理的理論、シミュレーションなどの高度な手法は何れも形式的な、また数学的な手法ないし技術といえると思いますが、そういう高度な手法で研究を進めてゆくのであれば他方、なおさら基本的な意味を深めていかなければ、あるいは比較することの意味を厳密にしていかなければならないのではないかと。脳をコンピューターに喩えるというのはこの場合、それはコンピューターに適用されている情報理論やプログラムや手続きを脳にも適用するということだと思うのですが、そのコンピューターはそれを繰る人間とのセットと考えなければ意味をなさないと思うのです。

あとは長くなりますので私のブログ(ブロッガー)の方で続けさせて頂きます。そちらも見て頂ければうれしいです。


シミュレーションについては色々問題が指摘されているように思います。私のブログでも以前に取り上げたのですが、BBCニュースの記事でネズミの脳を当時世界最高のスパコンでシミュレーションしたという紹介記事がありました。ネズミの脳の片方半分を実際の速度の10倍で10秒間だけシミュレートしたという内容ですが、それでもスパコンにとって相当な負担だったようです。一方当時その世界最高のスパコンに追い越された、その1/10の性能の日本製「地球シュミレータ」は、「地中をまるごとシミュレートする」と豪語しています。地球と言っても実際には温暖化に関わる範囲のことでしょうが、ネズミの脳と地球とはまるで違います。シミュレーションできるからということで言えば地球をコンピューターに喩えることもできる訳です。もちろん素人には脳をどのようにシミュレートしたのかは分かりませんし、専門家にはネズミの脳のシミュレーションで有益な知見が得られたものと思いますが、すくなくともコンピューターでシミュレーションできるからと言ってコンピューターとのアナロジーの意味が明らかにされたわけではないと思います。

ちなみに、コンピューターシミュレーションによる温暖化予測についても大いに疑問が呈されています。これも私のブログで、何度も取り上げていますが、私はたった一冊ですが、地球温暖化の太陽活動主因説の根本順吉氏の本を読み、それとインターネット上の鎚田敦氏のサイトその他一部の専門家による幾つかのサイトを参照してから太陽活動主因説の正しさを可成り確信し、BBCニュースを初めとする科学ニュース記事の内容と比較してみたわけです。もちろん科学ニュース記事にはそこで紹介されたIPCC報告の内容も含まれます。実際には多少は科学ニュース記事以外も見ていますが、国立環境研究所の地球環境センターの広報ページなども見ました。それらの何れの説明を見ても根本氏等の太陽活動主因説の基本主張を覆すだけの説明はなく、素材としての調査結果あるいはデータがある場合は逆に太陽活動説を補強すると考えられるものばかりでした。はっきり言って「ニセ科学」批判とか「科学リテラシー」云々、また無条件に「疑うこと」の薦めなどを盛んに喧伝している人たちがCO2主因説を主張したり支持しているのを見ると、科学の信用を落とすのに貢献しているとしか思えませんね。それはともかく、コンピューターシミュレーションも単なる技術で用い方次第で、それを用いているから信頼がおけるとかそう言った問題ではないでしょう。

2009年3月7日土曜日

言葉の私物化

最近の急激な社会と政治経済の状況変化をきっかけに小泉元首相の再評価、というより批判的見直しがもうすでに一般的になっている。

私が小泉政権の時代に最もいやな感じがしたことは、彼の言葉の用い方、言葉使いであった。いわゆる「言葉の巧みな人」であったには違いない。その巧みな言葉使いを駆使した政治手法はよく「劇場型」などと評されていた。それはそれで1つの要領を得た表現だろうが、それではその言葉使いそのものに対する批判にはなっていない。そのレトリックというのだろうか、言葉使いそのものの持つ問題点を一言で表現するなら、それは「言葉の私物化」と呼べるのではないかと思う。

言葉の私物化は普通に公認されている場合がある。個人やペットなどの名前などがそうだ。たまたま昨日ラジオを聞いていたら、フランスでは豚にナポレオンという名前を付けることが法律で禁じられているいう話をしていた。日本でも何らかの制限はあるが、基本的に真、善、美、貴、剛、優、といった類の意味を持つ名前は使い放題である。理由はいろいろ考えられるけれども、とにかく平等に、そう言う言葉を自由に使えることになっているから誰でもそんな名前を使っている。しかしこれが商品名となるともっと制限が厳しい。

たとえば東京は文京区本郷の老舗の和菓子屋さんが大学最中という名前の最中を売っている。かなり昔からと思われるから、当局からも近くの東大からも、一般のだれからも苦情などは来なかったに違いない。これが和菓子ではなく私立の高等学校とか、各種学校などだったら、とても許される名前ではないだろう。学校も一種の商品である。

政府の政策とか、政治方針とかいったものはどのような商品よりもはるかに重要で、国民生活に影響を与えるものである。勝手に意味のある名前などを付けられては困るのである。「構造改革」、「骨太の方針」、「三位一体の改革」等々、これらはみんな言葉の私物化といってもおかしくない。本人がそう信じるのであればそう呼ぶことは仕方が無いかもしれないが、マスコミまでがそのまま使用するのは尚おかしい。その意味では報道関係者の責任の方が大きいかも知れない。商品名やある程度は個人の名前にさえ、使用できる用語が法律で制限されている。このような政策などにこんな名前を付けることは法律で禁止してもおかしくはないのではないかとさえ思う。

「ニセ科学」、「エセ科学」なる用語が、それまでにあったかも知れないが、盛んに使われるようになったのはその頃からではないだろうか。「トンデモ」という表現もそうである。「トンデモ」などはもう差別用語の最たるものといってもよいと思う。差別用語を禁止するのであれば、これも禁止されておかしくない用語である。「トンデモ」も一種の、言葉の私物化であると言えるのではないか。「とんでもない」という個人の、あるいは仲間内の主観的な感情に過ぎないものを強引に客観的な実質として通用させてしまう暴力的な言葉の用法である。

せめて科学者にはこのような変な言葉で下品な議論をしないで貰いたいものだと思う。

自らを科学ではないといっているものを科学の名のもとで批判する権利を持つほど科学は絶対的なものであるとは思われない。科学そのものの中に抱える問題をこそもっと真剣に考えるべきである。それも科学性というような、それ自体問題の多い基準で批判するべきではなく、あくまで論理の基準で議論、批判をするべきだと思う。それも単純な形式論理だけではなく、意味的に深めた論理の基準であるべきだ。科学自信が科学性を基準に判断することができる訳がない。科学性そのものを議論するにはいったん科学の外に出なければならない。それは当面は一般人の立場か、あるいは学問的には哲学者の立場にならざるをえないだろう。「ニセ科学」という概念を根拠にすることはそういった謙虚な姿勢を拒否した自己中心的態度ともいえる。例えてみれば、科学という砦の中から外部に飛び道具を放っているようなものかも知れない。

2009年3月3日火曜日

哲学の科学批判 ― シンボル形式の哲学第三巻の序論を読んで

前巻に引き続きこの書物の第三巻を読み始め、とりあえず序論の部分をかなり不消化のまま、一応読み終えた。このような本をそう簡単に消化しながら読めるわけはないが、この序論は読みやすい箇所と解りづらい箇所とが分かれているような感じだったせいか、読みやすい箇所に集中して読んでしまった感じだ。

この巻、「シンボル形式の哲学第三巻 認識の現象学」の第一部が始まる前にはこの可成り長い序論がおかれている。この部分で1つのまとまった構成になっている。序論という形式のとおり、この巻の解説のようになっている部分もあるのだろうが、それよりもこの部分にはかなり著者の意図、目論見というものが率直に語られているようにも思われた。感情的とさえ思われる箇所がある。


この序論自体が4つの節に分けられ、それぞれに見出しが付けられているが、各節に一貫して可成り強い調子での科学批判がこの序論のテーマになっているとも見られる。もちろんこの序論の目的はこの書物全体のテーマであるシンボル形式という概念の位置づけということになるのだろうが、それが科学批判に平行していることが分かる。

第一巻が言語批判ということも出来、第二巻が神話批判ということも出来るわけだから、このことは当然とも言える。それにしてもこの序論を読むと当時のカッシーラーは科学批判に対して相当切実なもの、必要性を感じていたように思われる。というのも科学に対する哲学の優位性についての、感情的とさえ思えるような表現が見られるからである。たとえば、

「哲学は、言語という媒体と言語的諸概念という乗り物に分かちがたく結びつけられている単なる科学が達成し得ない事を達成してみせる。」

哲学は言語を超える可能性があるが、科学はいつまでたっても言語を超えることはできないということだろう。

それはともかくも、現在も科学至上主義あるいは哲学よりも科学を優位におく傾向の人々が言葉の使用に関して無神経、無反省である傾向は否めないような気がする。端的に言っていわゆる「ニセ科学」とか「トンデモ」というような非論理的な言葉を術語のように使う人たちである。

特定の言葉の意味を深めることなく、いったん形式的に定義してしまえば述語として固定してしまい、無反省に使用し続けられる。

「温暖化ガス」、「温室効果ガス」などもその最たるものだろう。とくに「温室効果ガス」はちょっと無謀とも言えるほどの使い方である。現実の温室で起きている温室効果には、メタンやCO2に限らず如何なるガスも関わりがない。この場合の温室効果は比喩的に用いられているに過ぎないのに、比喩ではないような印象を与える。英米のニュース記事では以前ではheat trapping gas  というような表現も良くあったが、最近ではgreenhouse gas (温室ガス) という表現が一般的になっている。日本で言う温室効果ガスに輪をかけて乱暴な表現である。こういう乱暴な比喩と省略は英語の方がひどいところがある。古くからゲーテが言っているように、比喩が術語として一人歩きするようになれば、手に負えないことになりがちだ。

元に戻って、
この序論では上記のような科学批判に引き続き、マッハとベルクソンの哲学が簡単に紹介され、それらに批判が加えられる。正確に言えばマッハとベルクソンも科学を批判しているわけだが、その科学批判の不徹底さに批判が加えられているように見える。ここでシンボル形式というものが軸になって論が進められているが、ここらあたりが特に難解だ。とりあえず先に進むしかない。