本シリーズ記事の結論に相当する部分をユーチューブ配信向けに図式化しましたので、3枚の画像として、こちらでも公開します。新しい発見ないし表現も盛り込まれていますので、ぜひご覧ください。ユーチューブでは拙いナレーションで説明していますので、よろしければご覧ください:https://www.youtube.com/watch?v=0NlDAtqu9wg
【概念的分析】
【認知機能による考察】
「意味」にまつわる意味深長で多様なテーマを取り上げています。 2011年2月13日から1年間ほどhttp://yakuruma.blog.fc2.com に移転して更新していましたが、2011年12月28日より当サイトで更新を再開しました。上記サイトは現在『矢車SITE』として当ブログを含めた更新情報やつぶやきを写真とともに掲載しています。
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【概念的分析】
【認知機能による考察】
当ブログ前回までの一連記事、西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読、の結論において、人工知能という用語は意味上の自己矛盾をはらんだ用語であり、現実に即した概念を表現するには人工知能(Artificial Intelligence)よりも集合的知能(Collective Intelligence)の方が適切ではないかという結論に至りました。より具体的かつ正確には「Machine aided collective intelligence(訳例:電算機使用集合知能)」の方が適切ではないか、という結論に至ったわけです。そして、最後の個所では、この『人工知能 AI』あるいは『AI 人工知能』という用語がますます広く、特に産業界、技術界で使用されるようになった傾向について憂うべきであると述べました。そこで、その「憂うべきである」と考える理由について、やや詳細に分析してみたいと思います。
人工知能は、おそらく英語、日本語、共通して英語のアクロニム(頭字語、略語)であるAIで表現されるようになっている。一般にアクロニムによる表現には問題が多いが、同様に大いに問題性が感ぜられる最近の用語PCRと比較してみることは興味深く、参考になる。PCRというのは辞書的に「ポリメラーゼ連鎖反応」の略であることがわかるが、この言葉は最初からPとCとRが何を意味することなど、一切説明することなく新型コロナの感染を診断する試験方法としてマスコミや広報機関やネット空間を含めたジャーナリスト、文化人の報道や発言で紹介され、使われ始めた。その後、もう2年以上にもなるが、いまだにマスコミでPCRが何を意味するかが説明されるのを聞いたことがない。はっきり言って私には、聴き手を馬鹿にした話だと思われたが、視聴者側から「PCRってどういう意味なの?」という疑問が呈されることもほとんどなかったようだ。友人などにそのことを訴えても大抵の場合は「普通の人がそんなことまで知る必要はないさ」といわれるのが落ちである。考えられる一つの理由は、この言葉は「PCR検査」というように「検査」が付いた熟語になっていることだ。「検査」が付いていることで、何らかの検査であることがわかり、新型コロナ感染の文脈で使われる以上、新型コロナ感染を検査する検査方法であると理解され、それより先は素人が知る必要のないことのように思われるからである。別の観点からは、この言葉は固有名詞的に響くともいえる(実際には固有名詞ではないが)。普通、固有名詞の持つ本来の意味などは詮索する必要もないと思われている。しかし略語である以上、本来どのような意味なのかを知る必要を感じるのが、自分の頭でものを考える人というものだろう。という次第で、この例の場合、アクロニムは一部の人に思考停止をさせる効果があるともいえる。
一方の「AI」であるが、この略語が使われ、一般的になった経緯はPCRとはかなり異なっている。AIの場合、マスコミなどで使われる場合は未だに「人工知能」というカッコ内説明付きで語られる場合が多い。この言葉はPCRの場合とは異なり、もともと日本語では人工知能という、明確に一定の概念を表現するとみられる言葉として紹介されてきたのであり、特に頻繁に使用され始めたころから英語のArtificial Intelligenceの略語の「AI」が使われるようになったが、いまだに「(人工知能)」という注釈付きで用いられることが多いのである。その一つの理由として、こちらはPCRとは違い、固有名詞的に響かないことが挙げられる。むしろ、文脈上から固有名詞ではありえないような状況で使われることの方が多い。理由が何であれ、この言葉の発信側も受け取り側も共に言葉の意味、概念にこだわり続けているといえる。
PCRの場合は、端的に言って意味の重要性がはぐらかされているともいえるのだが、AIの場合、意味の重要性はむしろ強調されているように見える。それだけに、その意味自体に問題があるとすれば、これはこれで、大いに不都合な現実であるといえる。「意味自体に問題」というのは、前回までのシリーズ記事で提起したような、意味的に自己矛盾を抱えた用語である、もっと端的に言って、間違った。不適切な用語であるということである。これは結果的に、受け取り側が誤魔化されていると同時に、発信側も自己欺瞞を抱えている可能性が疑われる。とすれば、そのような状況が生産的であるはずがない。発信側も受け取り側も、常に違和感を抱えながら状況に対処して行かなければならないのである。
このような概念をAIという略語で言い換えることは、元のArtificial Intelligence、人工知能の概念を覆い隠しているということにはならない。ただし、略語ではなく人工知能という場合は常にこの言葉の概念、もしくは理念が想起されるのに対して、AIという場合は、すでに普通名詞的に、場合によっては数詞で数えられるような、すでに具体的に存在する個々のシステムを表すという面が強調されるようになっているのである。ひいては、ロボットの場合がそうであるように固有名詞まで与えられる固有システムを指すようになり、人工知能という理念が存在しうるかどうかという疑問が呈されていたことが忘れ去られる一方で、AIというシニフィアンの一人歩きが始まっているといえる。というよりもむしろ、実質的には本来のシニフィエとは異なる別のシニフィエを担いながら、やはり人工知能という看板を引っ提げているという、落ちつかない状況に陥っているように思われるのである。
以上のように、AIという略語が一般的に広がってきた現在、すでに、少なくとも日本では、AIという言葉は人工知能の概念(というより理念というべきか)から解き放たれ、PCやネット端末での特定の機能を表現するために使われる場合も多くなっている。わかりやすい例として、対話型の自動対応機能と呼べるようなものがある。例えば商品説明や質問に自動応答で答えるチャット機能である。筆者が使っているあるクラウドサービスでは、そのようなチャット機能に女性の名前が付けられ、女性職員らしいイラスト付きで提供される(例えば「AIの〇〇子さんがお答えします」といったキャプション付きで)。一言でいえばこれは擬人化的機能と呼ぶべきだろう。振り返ってみると、このようなチャット機能は本書で人工知能の代表的な分野とされた「エキスパートシステム」に該当すると思われる。「エキスパート」とは人物について規定する言葉であり、すでのこの時点でこのようなシステムが擬人化的に表現されていたのである。こうしてみると、人工知能という概念は、コンピュータを使う諸々の機能あるいは用途の中でも擬人化されやすいというか、擬人化表現と馴染みやすい機能あるいは用途について一括して分類するために選択されたというか、案出された概念ではないかと思われるのである。西垣氏が人工知能の3つの代表的なカテゴリーとして挙げたところのエキスパートシステム、自動言語処理システム(翻訳)、および知能ロボット、何れも擬人化表現に馴染みやすい分野である。こうしてみると、そのような擬人化される内容を人工知能と表現する感性はわからないでもない。とはいえ、擬人化されるものは人間でも人間に固有の属性でもない。そうであればこそ擬人化されるのである。擬人化されたものはある意味バーチャル、仮想人間と呼ぶことが出来る。これをバーチャルリアリティつまり仮想現実と考えた場合、仮想現実の内容が現実と取り違えられることがいかに危険なことになりうるか、明らかではないだろうか。例えば鏡像、鏡に映った人物が実際にその位置にいると認識されたり、よくできた人形やロボット、あるいは映像や画像でさえ、本物と間違えられた場合を想像するだけでも良い。初めて鏡に映った人物を見て戸惑った幼児の親は、それが現実ではないことを教えなければならない。別に教えなくとも自分で気づくとしても、それに気づかないままでは生きてゆくことはできない。人工知能という言葉はその正体があいまいにされたままになっているといえる。「人工」という概念には結構あいまいなところがあるが、やはり仮想的な対象は「人工○○」というべきではない。例えば、「人工○○」とは○○が生成されるプロセスが人工的ということであって、○○が偽物である、あるいは仮想的であるということとは全く異なるからである。人工ダイヤモンドはあくまでダイヤモンドであって模造ダイヤでも仮想ダイヤでもないのである。
以上のように、「人工知能」という概念に問題がある、さらに言えば危険でさえあるとすれば別の言葉でいえばバーチャル知能、仮想知能と呼ぶのも一つの解決策であり、それでは人工知能ではなく仮想知能と呼べばよいのではないか、という考え方もできる。それはそれで判りやすく、そのために不都合が生じるわけではないが、少なくとも生産的な表現とまでは言えないように思う。それは、バーチャル、仮想という表現は外面、すなわち見せかけの状態を表現するのみであって、本質を表す概念、ひいては構造を明らかにするものではないからである。
人工知能は一つの概念ないしは理念であるが、擬人化は人の認知プロセスまたは言語表現のプロセスであると言える。この辺りは掘り下げて行くときりがないが、簡単に言って擬人化の場合は現実には人でないものについて語っていることが前提である。一方、人工知能の「人工」は、人間が作り出すという意味であり、単なる認識や表現の問題ではない。先のチャット機能を例にとってみれば、〇〇さんと名付けられた女性はイラストレーターによって描かれたイラストで表現されているだけであり、
ここでは、人工知能という用語の問題点をさらに、あるいは具体的にこれ以上あげつらうのではなく、すでに提案した「集合知能」という言葉を使うことでどのような利点が得られるかについて考察してみたいと思う。もっとも集合知能という言い方は簡潔に過ぎ、英語でよく使われるMachine aided、あるいはComputer aidedに相当する修飾語を付けたほうが良いと思うし、ほかにも良い表現があるかもしれないけれども、とりあえずここでは集合知能という簡単な用語で考察を進めたいと思う。
一言でいえば、これにより、「人間の研究」こそが、大切であるということが理解できるということであると思う。当面はエーアイと呼ばれる諸々のシステムの研究開発および利用においても人間の研究こそが、その正しい発展、開発において大切であることがわかるのである。具体的には次の二点に要約できようかと思われる。
本書のタイトルは「AI 人工知能のコンセプト」である。であるから、コンセプトという用語はこの本で扱われている内容を包括的に表しているものと考えられる。本記事では、前回、AIのコンセプトを次の3つのカテゴリーに分けた:①現に存在している各種システムの分類名として、②AIそのものの概念、理念と呼べるかもしれない、③実現すべき最終目標としてのAIの概念。そこで前記②について検討する今回の記事では「理念」という言葉で通したいと思う。この場合「アイデア」を使っても良いと思う。本書の著者はもちろん、この言葉は使っていないけれども。
余談になるが、理念という言葉は昨今は「企業理念」という類の熟語以外ではあまり使われないように見える。思うに、この日本語はドイツ語のIdee(イデー)の訳語として成立したのではないだろうか。とすれば同一起源の英語のIdea(アイデア)に相当し、実際ある辞書ではIdeaの日本語訳の1つに「理念」もあったが、全般にIdeaの訳語としては他の多数ある言葉が主流である。逆にある和英辞典では「理念」の訳語にIdeaはなかった。ギリシャ語本来のIdeaは日本語では「イデア」と表現することになっているらしい。こういった事情は翻訳には困るが、反面で日本語のメリットの1つではないかと思う。
さて、厳密に言って、著者は本書でAIの明確な、あるいは一意的、明示的な定義は行っていない。ただ最初の方で、次のような表現で一種の定義を行っている:「 AIの道具はコンピュータである。というより、コンピュータの高度な応用としてAIがあらわれたというべきかもしれない」。そして具体的には「エキスパート・システム、自然言語処理システム、知能ロボット、以上の三つがAIビジネスの主要分野である。」と書いている。これらの2つの表現においていずれも何らかの定義ではあるが、AIを定義しているとは言えない。
最初の、「AIの道具はコンピュータである」という表現ではAIを擬人化しているといえる。なぜなら、コンピュータを道具として使う主体は、人間以外ではあり得ないからである。「コンピュータの高度な応用」という表現においても、「応用」を行う主体は人間以外にあり得ない。一方、「以上の3つがAIビジネスの主要分野である」 という表現では、AIそのものについてではなく、AIビジネスについて語っている。というわけで、どちらの表現においても、AIがすでに定義済みのものであることを前提とした表現であるが、著者はこれまでにAIを定義していないのである。したがって「人工知能」を字義どおりに解釈するほかはない。とすれば、つまり、AIが字義通りに「人工の知能」と定義されているとすれば、それは「人工知能」の擬人化にほかならず、AIを人間と同一視していることになる。もう少し詳しく分析すると、この擬人化は、例えば動物や無機物や、あるいは鏡像などの自明、あるいは定義済みの対象を擬人化する場合とは異なる。端的に言えば、AIと表現されている本体(シニフィエ、signifiedと言っても良い)は、何らかの状況でコンピュータを操作あるいは使用している人間自身に他ならないと考えざるを得ないのである。
一方、上記の、著者がAIビジネスの主要分野と考えているところの、3つのビジネスの最初の2つはなんらかの「システム」と表現され、3つ目は「ロボット」と表現されている。いずれも人間によって設計され、構成されたものであることは言うまでもないが、現実の使用または機能においても人間との関わりなしにはあり得ない。ふつう、インターフェースと呼ばれる入力装置や読み取り装置、認識装置が機械側にあり、人間の側ではそれらと感覚器官や運動器官を通して連結している。またコンピュータは電源なくしては動作しないが、電源は電力網であっても、電池であったとしても、それ等自身の背後に巨大な人為的システムが控えている。要するにそれらのシステムもあらゆる道具や機械と同様に人間と一体となって機能し、人間が使うシステムなのである。
言い換えると、著者が上記文脈で使っている「AI」は、特定の状況下における条件付の人間そのもの(集合的であれ単独であれ)に他ならない。したがって当然、諸々の人間的な感情や能力に左右される。ところがこの定義(AIそのものの定義ではないが)以降、本書でこの後の文脈すべてで使われている「AI」は、人間によって作られ使われる対象の道具の部分を意味しているといえる。それはもちろん人間によって作られたものではあるが、一応は人間と切り離され、独自に機能する部分である。という次第で、私は、著者がこれ以降に使っている「AI」を「エーアイ」と呼んで議論することにしたい。理念としてのAIはこの時点ですでに破綻していると言っても良い。
このエーアイを人工頭脳と呼ぶことは不自然ではない。「頭脳」も厳密に定義することは難しいことは確かである。頭脳を脳とみなしたところで、脳は臓器の1つであるが、臓器自体の定義も簡単ではない。とはいえ頭脳と呼ばれるものは、少なくとも全体としての人間でも、その属性あるいは特質でもなく、身体的にも機能的にも全体としての人間の一部を構成するものと考えられるからである。著者が「AIビジネスの主要分野」と考えている3つのシステムないしロボットは、これに相当すると見て良いだろう。著者は本書でこれ以降、この3つのシステムについて、エーアイの概念の下に語っているといえる。
著者はこれ以降、すべてのインターフェースと切り離されたものとしての、ハードウェアとソフトウェアとの組み合わせを、仮想的に想定し、それについて人間の機能と比較することになっているように、私には思われる。仮想的というのは技術的といえるかもしれない。つまり実用上、思考経済の手段として想定するものである。これを「人工〇〇」と表現するなら、やはり上述のとおり、「人工知能」ではなく「人工頭脳」が相応しい。頭脳は人間そのものではないからである。すくなくともAIと呼べないことは、本稿の上記パラグラフで証明されたのではないかと思う。いずれにしても本書ではこれ以降、諸々のインターフェースから切り離されたシステムの一部について、具体的には特にソフトウェア、具体的にはプログラム言語や形式論理に関する問題である。この種の問題になってくると私は断然、予備知識が不足しているので困るのだが、取りあえず今回の記事はこれまでとし、次回以降に引き続き考察を続けたい。