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2021年11月24日水曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その8 ― 結論の図式化

本シリーズ記事の結論に相当する部分をユーチューブ配信向けに図式化しましたので、3枚の画像として、こちらでも公開します。新しい発見ないし表現も盛り込まれていますので、ぜひご覧ください。ユーチューブでは拙いナレーションで説明していますので、よろしければご覧ください:https://www.youtube.com/watch?v=0NlDAtqu9wg

【概念的分析】

  

【認知機能による考察】



要点は、インターフェースを通じて認知される仮想知能および人工知能というそれぞれの概念は、いずれも思考作用によるものであって、仮想知能と認識されるか、または人工知能と認識されるかの違いは思考力あるいは、思考経路ないしは思考プロセスの差異あるいはレベルによるものであると考えられることです。端的に言えば、人工知能のほうはより単純素朴、あるいは短絡的で、プリミティブともいえる思考回路ではないかと疑われます。




 

2021年10月25日月曜日

なぜ憂うべきなのか ー 西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その6

 当ブログ前回までの一連記事、西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読、の結論において、人工知能という用語は意味上の自己矛盾をはらんだ用語であり、現実に即した概念を表現するには人工知能(Artificial Intelligence)よりも集合的知能(Collective Intelligence)の方が適切ではないかという結論に至りました。より具体的かつ正確には「Machine aided collective intelligence(訳例:電算機使用集合知能)」の方が適切ではないか、という結論に至ったわけです。そして、最後の個所では、この『人工知能 AI』あるいは『AI 人工知能』という用語がますます広く、特に産業界、技術界で使用されるようになった傾向について憂うべきであると述べました。そこで、その「憂うべきである」と考える理由について、やや詳細に分析してみたいと思います。

アクロニム(頭字語、略語)による分析

人工知能は、おそらく英語、日本語、共通して英語のアクロニム(頭字語、略語)であるAIで表現されるようになっている。一般にアクロニムによる表現には問題が多いが、同様に大いに問題性が感ぜられる最近の用語PCRと比較してみることは興味深く、参考になる。PCRというのは辞書的に「ポリメラーゼ連鎖反応」の略であることがわかるが、この言葉は最初からPCRが何を意味することなど、一切説明することなく新型コロナの感染を診断する試験方法としてマスコミや広報機関やネット空間を含めたジャーナリスト、文化人の報道や発言で紹介され、使われ始めた。その後、もう2年以上にもなるが、いまだにマスコミでPCRが何を意味するかが説明されるのを聞いたことがない。はっきり言って私には、聴き手を馬鹿にした話だと思われたが、視聴者側から「PCRってどういう意味なの?」という疑問が呈されることもほとんどなかったようだ。友人などにそのことを訴えても大抵の場合は「普通の人がそんなことまで知る必要はないさ」といわれるのが落ちである。考えられる一つの理由は、この言葉は「PCR検査」というように「検査」が付いた熟語になっていることだ。「検査」が付いていることで、何らかの検査であることがわかり、新型コロナ感染の文脈で使われる以上、新型コロナ感染を検査する検査方法であると理解され、それより先は素人が知る必要のないことのように思われるからである。別の観点からは、この言葉は固有名詞的に響くともいえる(実際には固有名詞ではないが)。普通、固有名詞の持つ本来の意味などは詮索する必要もないと思われている。しかし略語である以上、本来どのような意味なのかを知る必要を感じるのが、自分の頭でものを考える人というものだろう。という次第で、この例の場合、アクロニムは一部の人に思考停止をさせる効果があるともいえる。

一方の「AI」であるが、この略語が使われ、一般的になった経緯はPCRとはかなり異なっている。AIの場合、マスコミなどで使われる場合は未だに「人工知能」というカッコ内説明付きで語られる場合が多い。この言葉はPCRの場合とは異なり、もともと日本語では人工知能という、明確に一定の概念を表現するとみられる言葉として紹介されてきたのであり、特に頻繁に使用され始めたころから英語のArtificial Intelligenceの略語の「AI」が使われるようになったが、いまだに「(人工知能)」という注釈付きで用いられることが多いのである。その一つの理由として、こちらはPCRとは違い、固有名詞的に響かないことが挙げられる。むしろ、文脈上から固有名詞ではありえないような状況で使われることの方が多い。理由が何であれ、この言葉の発信側も受け取り側も共に言葉の意味、概念にこだわり続けているといえる。

PCRの場合は、端的に言って意味の重要性がはぐらかされているともいえるのだが、AIの場合、意味の重要性はむしろ強調されているように見える。それだけに、その意味自体に問題があるとすれば、これはこれで、大いに不都合な現実であるといえる。「意味自体に問題」というのは、前回までのシリーズ記事で提起したような、意味的に自己矛盾を抱えた用語である、もっと端的に言って、間違った。不適切な用語であるということである。これは結果的に、受け取り側が誤魔化されていると同時に、発信側も自己欺瞞を抱えている可能性が疑われる。とすれば、そのような状況が生産的であるはずがない。発信側も受け取り側も、常に違和感を抱えながら状況に対処して行かなければならないのである。

このような概念をAIという略語で言い換えることは、元のArtificial Intelligence、人工知能の概念を覆い隠しているということにはならない。ただし、略語ではなく人工知能という場合は常にこの言葉の概念、もしくは理念が想起されるのに対して、AIという場合は、すでに普通名詞的に、場合によっては数詞で数えられるような、すでに具体的に存在する個々のシステムを表すという面が強調されるようになっているのである。ひいては、ロボットの場合がそうであるように固有名詞まで与えられる固有システムを指すようになり、人工知能という理念が存在しうるかどうかという疑問が呈されていたことが忘れ去られる一方で、AIというシニフィアンの一人歩きが始まっているといえる。というよりもむしろ、実質的には本来のシニフィエとは異なる別のシニフィエを担いながら、やはり人工知能という看板を引っ提げているという、落ちつかない状況に陥っているように思われるのである。

擬人化、仮想と人工知能

以上のように、AIという略語が一般的に広がってきた現在、すでに、少なくとも日本では、AIという言葉は人工知能の概念(というより理念というべきか)から解き放たれ、PCやネット端末での特定の機能を表現するために使われる場合も多くなっている。わかりやすい例として、対話型の自動対応機能と呼べるようなものがある。例えば商品説明や質問に自動応答で答えるチャット機能である。筆者が使っているあるクラウドサービスでは、そのようなチャット機能に女性の名前が付けられ、女性職員らしいイラスト付きで提供される(例えば「AIの〇〇子さんがお答えします」といったキャプション付きで)。一言でいえばこれは擬人化的機能と呼ぶべきだろう。振り返ってみると、このようなチャット機能は本書で人工知能の代表的な分野とされた「エキスパートシステム」に該当すると思われる。「エキスパート」とは人物について規定する言葉であり、すでのこの時点でこのようなシステムが擬人化的に表現されていたのである。こうしてみると、人工知能という概念は、コンピュータを使う諸々の機能あるいは用途の中でも擬人化されやすいというか、擬人化表現と馴染みやすい機能あるいは用途について一括して分類するために選択されたというか、案出された概念ではないかと思われるのである。西垣氏が人工知能の3つの代表的なカテゴリーとして挙げたところのエキスパートシステム、自動言語処理システム(翻訳)、および知能ロボット、何れも擬人化表現に馴染みやすい分野である。こうしてみると、そのような擬人化される内容を人工知能と表現する感性はわからないでもない。とはいえ、擬人化されるものは人間でも人間に固有の属性でもない。そうであればこそ擬人化されるのである。擬人化されたものはある意味バーチャル、仮想人間と呼ぶことが出来る。これをバーチャルリアリティつまり仮想現実と考えた場合、仮想現実の内容が現実と取り違えられることがいかに危険なことになりうるか、明らかではないだろうか。例えば鏡像、鏡に映った人物が実際にその位置にいると認識されたり、よくできた人形やロボット、あるいは映像や画像でさえ、本物と間違えられた場合を想像するだけでも良い。初めて鏡に映った人物を見て戸惑った幼児の親は、それが現実ではないことを教えなければならない。別に教えなくとも自分で気づくとしても、それに気づかないままでは生きてゆくことはできない。人工知能という言葉はその正体があいまいにされたままになっているといえる。「人工」という概念には結構あいまいなところがあるが、やはり仮想的な対象は「人工○○」というべきではない。例えば、「人工○○」とは○○が生成されるプロセスが人工的ということであって、○○が偽物である、あるいは仮想的であるということとは全く異なるからである。人工ダイヤモンドはあくまでダイヤモンドであって模造ダイヤでも仮想ダイヤでもないのである。

以上のように、「人工知能」という概念に問題がある、さらに言えば危険でさえあるとすれば別の言葉でいえばバーチャル知能、仮想知能と呼ぶのも一つの解決策であり、それでは人工知能ではなく仮想知能と呼べばよいのではないか、という考え方もできる。それはそれで判りやすく、そのために不都合が生じるわけではないが、少なくとも生産的な表現とまでは言えないように思う。それは、バーチャル、仮想という表現は外面、すなわち見せかけの状態を表現するのみであって、本質を表す概念、ひいては構造を明らかにするものではないからである。

人工知能は一つの概念ないしは理念であるが、擬人化は人の認知プロセスまたは言語表現のプロセスであると言える。この辺りは掘り下げて行くときりがないが、簡単に言って擬人化の場合は現実には人でないものについて語っていることが前提である。一方、人工知能の「人工」は、人間が作り出すという意味であり、単なる認識や表現の問題ではない。先のチャット機能を例にとってみれば、〇〇さんと名付けられた女性はイラストレーターによって描かれたイラストで表現されているだけであり、

「集合的知能」あるいはこれに類する概念と用語を用いることの利点

ここでは、人工知能という用語の問題点をさらに、あるいは具体的にこれ以上あげつらうのではなく、すでに提案した「集合知能」という言葉を使うことでどのような利点が得られるかについて考察してみたいと思う。もっとも集合知能という言い方は簡潔に過ぎ、英語でよく使われるMachine aided、あるいはComputer aidedに相当する修飾語を付けたほうが良いと思うし、ほかにも良い表現があるかもしれないけれども、とりあえずここでは集合知能という簡単な用語で考察を進めたいと思う。

一言でいえば、これにより、「人間の研究」こそが、大切であるということが理解できるということであると思う。当面はエーアイと呼ばれる諸々のシステムの研究開発および利用においても人間の研究こそが、その正しい発展、開発において大切であることがわかるのである。具体的には次の二点に要約できようかと思われる。

  1. 心理学、集団心理学や人間学などの成果をシステムの設計や解析の方法論に取り入れることが可能になる。
  2. 当該分野あるいはカテゴリーの有意義な分類と整理、さらには体系化が可能になる。
総括すると、現在エーアイと呼ばれているものの真に人間的な次元での構造化が可能になり、したがって分析と構成が可能になり、真に精神的な意味で生産的な開発と発展の見通しが得られるようになるのではないだろうか。


2021年8月19日木曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その2― 人工知能の理念またはアイデア

本書のタイトルは「AI 人工知能のコンセプト」である。であるから、コンセプトという用語はこの本で扱われている内容を包括的に表しているものと考えられる。本記事では、前回、AIのコンセプトを次の3つのカテゴリーに分けた:①現に存在している各種システムの分類名として、②AIそのものの概念、理念と呼べるかもしれない、③実現すべき最終目標としてのAIの概念。そこで前記②について検討する今回の記事では「理念」という言葉で通したいと思う。この場合「アイデア」を使っても良いと思う。本書の著者はもちろん、この言葉は使っていないけれども。

余談になるが、理念という言葉は昨今は「企業理念」という類の熟語以外ではあまり使われないように見える。思うに、この日本語はドイツ語のIdee(イデー)の訳語として成立したのではないだろうか。とすれば同一起源の英語のIdea(アイデア)に相当し、実際ある辞書ではIdeaの日本語訳の1つに「理念」もあったが、全般にIdeaの訳語としては他の多数ある言葉が主流である。逆にある和英辞典では「理念」の訳語にIdeaはなかった。ギリシャ語本来のIdeaは日本語では「イデア」と表現することになっているらしい。こういった事情は翻訳には困るが、反面で日本語のメリットの1つではないかと思う。

さて、厳密に言って、著者は本書でAIの明確な、あるいは一意的、明示的な定義は行っていない。ただ最初の方で、次のような表現で一種の定義を行っている:「 AIの道具はコンピュータである。というより、コンピュータの高度な応用としてAIがあらわれたというべきかもしれない」。そして具体的には「エキスパート・システム、自然言語処理システム、知能ロボット、以上の三つがAIビジネスの主要分野である。」と書いている。これらの2つの表現においていずれも何らかの定義ではあるが、AIを定義しているとは言えない。

最初の、「AIの道具はコンピュータである」という表現ではAIを擬人化しているといえる。なぜなら、コンピュータを道具として使う主体は、人間以外ではあり得ないからである。「コンピュータの高度な応用」という表現においても、「応用」を行う主体は人間以外にあり得ない。一方、「以上の3つがAIビジネスの主要分野である」 という表現では、AIそのものについてではなく、AIビジネスについて語っている。というわけで、どちらの表現においても、AIがすでに定義済みのものであることを前提とした表現であるが、著者はこれまでにAIを定義していないのである。したがって「人工知能」を字義どおりに解釈するほかはない。とすれば、つまり、AIが字義通りに「人工の知能」と定義されているとすれば、それは「人工知能」の擬人化にほかならず、AIを人間と同一視していることになる。もう少し詳しく分析すると、この擬人化は、例えば動物や無機物や、あるいは鏡像などの自明、あるいは定義済みの対象を擬人化する場合とは異なる。端的に言えば、AIと表現されている本体(シニフィエ、signifiedと言っても良い)は、何らかの状況でコンピュータを操作あるいは使用している人間自身に他ならないと考えざるを得ないのである。

一方、上記の、著者がAIビジネスの主要分野と考えているところの、3つのビジネスの最初の2つはなんらかの「システム」と表現され、3つ目は「ロボット」と表現されている。いずれも人間によって設計され、構成されたものであることは言うまでもないが、現実の使用または機能においても人間との関わりなしにはあり得ない。ふつう、インターフェースと呼ばれる入力装置や読み取り装置、認識装置が機械側にあり、人間の側ではそれらと感覚器官や運動器官を通して連結している。またコンピュータは電源なくしては動作しないが、電源は電力網であっても、電池であったとしても、それ等自身の背後に巨大な人為的システムが控えている。要するにそれらのシステムもあらゆる道具や機械と同様に人間と一体となって機能し、人間が使うシステムなのである。

言い換えると、著者が上記文脈で使っている「AI」は、特定の状況下における条件付の人間そのもの(集合的であれ単独であれ)に他ならない。したがって当然、諸々の人間的な感情や能力に左右される。ところがこの定義(AIそのものの定義ではないが)以降、本書でこの後の文脈すべてで使われている「AI」は、人間によって作られ使われる対象の道具の部分を意味しているといえる。それはもちろん人間によって作られたものではあるが、一応は人間と切り離され、独自に機能する部分である。という次第で、私は、著者がこれ以降に使っている「AI」を「エーアイ」と呼んで議論することにしたい。理念としてのAIはこの時点ですでに破綻していると言っても良い。

このエーアイを人工頭脳と呼ぶことは不自然ではない。「頭脳」も厳密に定義することは難しいことは確かである。頭脳を脳とみなしたところで、脳は臓器の1つであるが、臓器自体の定義も簡単ではない。とはいえ頭脳と呼ばれるものは、少なくとも全体としての人間でも、その属性あるいは特質でもなく、身体的にも機能的にも全体としての人間の一部を構成するものと考えられるからである。著者が「AIビジネスの主要分野」と考えている3つのシステムないしロボットは、これに相当すると見て良いだろう。著者は本書でこれ以降、この3つのシステムについて、エーアイの概念の下に語っているといえる。

 著者はこれ以降、すべてのインターフェースと切り離されたものとしての、ハードウェアとソフトウェアとの組み合わせを、仮想的に想定し、それについて人間の機能と比較することになっているように、私には思われる。仮想的というのは技術的といえるかもしれない。つまり実用上、思考経済の手段として想定するものである。これを「人工〇〇」と表現するなら、やはり上述のとおり、「人工知能」ではなく「人工頭脳」が相応しい。頭脳は人間そのものではないからである。すくなくともAIと呼べないことは、本稿の上記パラグラフで証明されたのではないかと思う。いずれにしても本書ではこれ以降、諸々のインターフェースから切り離されたシステムの一部について、具体的には特にソフトウェア、具体的にはプログラム言語や形式論理に関する問題である。この種の問題になってくると私は断然、予備知識が不足しているので困るのだが、取りあえず今回の記事はこれまでとし、次回以降に引き続き考察を続けたい。


2019年10月17日木曜日

人工知能と人工頭脳 ― その1

人工知能(Artificial intelligence、AI)という言葉はれっきとした専門用語であるらしく、科学技術の専門用語辞典に、定義はないが、項目はある。かつてよく使われた人工頭脳(Artificial brain)は専門用語ではないらしく、上記の用語辞典には項目がない。しかし私の個人的な印象では、この二つの言葉を比較すると、人工知能よりもむしろ人工頭脳の方に科学的な印象を受けるのである。

手っ取り早いところで日本語ウィキペディアには専門的な定義があり、次の三通りの定義が紹介されている。
  1. 「『計算(computation)』という概念と『コンピュータ(computer)』という道具を用いて『知能』を研究する計算機科学(computer science)の一分野」
  2. 「言語の理解や推論、問題解決などの知的行動を人間に代わってコンピューターに行わせる技術」
  3. 「計算機(コンピュータ)による知的な情報処理システムの設計や実現に関する研究分野」
というふうで、二つは研究分野とされているのだが、もう一つは技術の範疇である。それに続いて次のような定義が紹介されている:
  • 「『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説で、情報工学者・通信工学者の佐藤理史は次のように述べている。「誤解を恐れず平易にいいかえるならば、「これまで人間にしかできなかった知的な行為(認識、推論、言語運用、創造など)を、どのような手順(アルゴリズム)とどのようなデータ(事前情報や知識)を準備すれば、それを機械的に実行できるか」を研究する分野である」
 以上によれば、AIとは特定の研究分野を意味するものであるとの定義が優勢ではあるけれども、特定の技術を意味する定義もある。その技術とは簡単に言ってその研究分野における研究の成果物ということになるだろう。そして今や一般にはその技術的成果物の意味で使われる場合が殆どと言ってよいだろう。こうなってくると、この言葉とその帰結の行く末にはかなり心もとないものが感じられてくるのである。

というのも、一般人はこのような言葉を専門的な定義で理解したうえで使うわけではない。一般人はこの種の言葉の概念をその言葉(熟語)を構成する要素の本来の語源的な意味でとらえるのである。しかもこれは非専門家だけではなく専門家自身の方にも多分に該当するのである。そう考えた場合、「人口の知能」とは一体なんぞや、そんなものが実在しえるのか、という意識を絶えず伴いながらも、なんとなくそういうものがあるような前提に引きずり込まれがちなのである。

しかし、そもそも知能という概念自体に確たる専門的な定義もあるのかどうかは覚束ないし、コンピュータサイエンスの中でも知能という概念自体が明確に把握されているのかどうかは疑わしい。人工という概念にしてもそうである。

そのようなわけで、上記のような諸定義をこれ以上分析することは当面は諦め、独自の視点で分析してみたいと思う。その際、人工知能に似た言葉で、かつてはよく使われた人工頭脳と比較することが一つの手がかりになるように思われる。(次回に続く)

2018年6月24日日曜日

鏡像の意味論、番外編その6 ― 「左右軸の従属性」の精密化と再定義

まず前置きです。ここ数回にわたって『鏡像の意味論、番外編』というタイトルで続けてきましたが、番外編としたのは、鏡像問題や鏡映反転の問題に関係はもちろんありますが、単に鏡映反転の問題ではなくもっと根本的で意義深い問題を考えていることを示したいからに他なりません。前回、認知科学会に提出したテクニカルレポートの元になる論文を提出した際も、タイトルでそれを表現したつもりだったのですが、単に鏡映反転のケースを説明するという視点でしか評価なさらない先生がおられたのが残念です。

さて、「左右軸の従属性(Subordination of the right-left axis)」 はTabata-Okuda(2000)において提起された表現で、Corbalis(2000)でも同様の趣旨が提起されているとされるわけですが、最初この理論を日本認知科学会誌の鏡像問題特集に含まれる日本語論文で読んだときから直観的に、これは真実に近いものと感じられました。それにも関わらずどこか隙があるような印象は拭えませんでした。「左右軸の従属性」自体は鏡映反転を説明する原理ではなく、簡単にいって上下前後左右と名付けられる三つの軸方向のセットにおいて左右軸の性質を表現しているのであって、ここで左右軸の意味は非常に抽象的です。今にして言えることは、「左右軸」というシニフィアンのシニフィエがはっきりしないのです。ただ説明の具体的な根拠として使用されているのは人体の形状です。そしてその表現は、両者で微妙に異なりますが、また英語と日本語でも微妙に異なるのは当然ですが、論理的な構造はだいたい同様で、対象物の上下前後左右を定義する順序において左右軸が最後に定義される点で、左右軸が従属的であるとされています。しかし人体の上方が頭頂の方向であり下方が足下の方向、前が視界の開ける方向、という風に常識的に考えると、人体の上下前後左右のどれについてもだれが定義したともいえず、最初から完全に定義済みであるという他はなく、新たに定義する必要はないはずです。とはいえ、例えば人体の状態を客観的に表現する場合、上方は、普通は頭頂の方向と重なるものの、天に向かう方向を意味するのではないでしょうか?そして人はいろんな姿勢をしますから頭頂部が常に天の方を向いているわけではありません。これは前回までにシニフィアンとシニフィエとの関係で考察したところです。ですから、確かに人体に対して新たに上下前後左右を定義する可能性は確かにあるとは言えます。また人体以外の対象物やイメージに対しては何らかの基準で定義する必要が生じてくるでしょう。しかしこれはむしろ、やはり前回までに明らかにされたように、ある特定のシニフィエに対応してすでに定義済みのシニフィアンを当てはめるという意味で、「定義(define)」ではなく「適用(apply)」あるいは「割り当て(assign)」という用語を使用する方が正確であるといえます。そして割り当てられるオリジナルのシニフィエは観察者の知覚空間、体性感覚と視覚とが結びついた知覚空間の上下前後左右と考える他はないことは、先に考察したとおりです。ただし体性感覚とは別に重力方向の感覚があり、これは上下方向という一軸だけしか想定できません。


以上のように、「左右軸の従属性」原理における上下前後左右の「定義」という用語は、対象物または対象の像への、人間知覚の上下前後左右のシニフィエの「適用」または「割り当て」と言い直すことで、この原理の前提となる条件が確定できるように考えられます。ここで新たにシニフィエを割り当てられる対象物は固体物体または三次元的形状の安定した像であり、固体が占有する空間のような異方空間とみなされることは前回のとおりです。その異方空間の性質は前回明らかになったように方向軸で表現され、三次元的な三つの方向軸のうちで新たに定義できるのは二つの軸のセットであり、残りの一軸は他の二つの軸に対して固定されていることも前回あきらかにされたとおりです。従ってこの残りの一軸は「最後に定義される軸」というよりも最初の二つの軸と同時に自動的に割り当てられる軸であり、その意味で「従属性」という表現は全く適切です。ただしそれが常に左右軸になるかどうかは、また別の問題であるといえます。

他方、人体の形状が左右対称に近いことが左右軸の従属性の理由であるとされ、対称性の大きさあるいは程度という量的な側面が問題にされていますが、現実の偶発的に観察できる人物が左右対称に近いことはそれほど多くはありません。歩くときの両脚の位置は常に非対称であるし、両手の動きも大抵は、例えばバイオリンやギターを弾いているときなど完全に非対称です。またアクセサリーや持ち物が左右対称であることは稀でしょう。ただし、人類に普遍的に共通する形としては、少なくとも外見は左右対称であるといえます。Corbalis(2000)ではこれを「canonical(正規の)」と表現していますが、この言い方は正確ではないと思います。つまり個人ではなく人類共通の特徴というべきでしょう。ですから観察者が特定の他人を認知する場合、まず誰であるかよりも先にそれが人間であることを認知していることは確かです。人間一般の特徴としては外見上の左右差は見られないので、方向としてはまず上下と前後が認知されることは確かでしょう。その意味で左右軸の従属性は確かに否定できません。しかし次のような場面も想定できます。

例えば暗がりや逆光の中で人の姿はわかるが影絵のようにどちらを向いているかがわからない場合、左右を判別することで前後の向きを判断するしかありませんね。よく知っている人であれば何らかの左右の特徴が基準になるかもしれません。昔の侍なら刀を差している方が左ということになるでしょうか。これは人の場合ですが、一般に人以外のものに上下前後左右を判断する場合は、さらに左右軸の従属性が弱くなるものと思われます。

という次第で、「左右軸の従属性」原理は下記のように精密化し、さらに再定義する必要があるように考えられます:
  1.  上下前後左右の各軸の「定義(define)」の用語を「適用(apply)」または「割り当て(assign)」に変更
  2.  割り当てられるべきオリジナルの上下前後左右の「シニフィエ(signified)」は観察者の知覚空間(異方的)の上下前後左右のシニフィエであること
  3. 特定軸の「従属性」は、割り当ての順序が最後になることではなく、観察者の判断による割り当ての不可能性、もしくは他の二つの軸の割り当てによる自動決定を意味すること
  4. 左右軸の従属性は人体の場合に優勢ではあるが絶対的ではなく、人間以外の、特に道具などではそれほど顕著とは言えないこと
もう一つ重要な点は、この原理自体は鏡像問題、特に鏡映反転の問題とは無関係に定義できる原理であって、鏡映反転の問題に適用する場合はさらに別の考察が必要になることは言うまでもないことで、対掌体の性質はその一つですがそれだけともいえないように思われます。それにしても左右軸の従属性は鏡像問題とは離れて、人間の視覚認知のうえで認識論的にも非常に奥深い問題ではないだろうかと思う次第です。
(2018年6月25日 田中潤一)

2018年1月15日月曜日

シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)

「意味するもの」と「意味されるもの」という表現についてはこの鏡像の意味論シリーズでも使用したことがあります。しかし、このこれらの表現については、私はこの方面で専門的に詳しいわけでは全くありませんが、シニフィアン(signifier)とシニフィエ(signified)という公認の術語がある以上、この言語学の専門的な術語を使った方がかえって分かりやすく、インパクトもあるように思います。

端的に言ってシニフィアンとシニフィエの区別は、上下前後左右という言葉たちを理解する鍵になると思います。

例えばリンゴという単語はたいていはリンゴの果実を表しますが、リンゴの木を表す場合もあり、象徴的に、また比ゆ的にも様々な意味で用いられます。しかしリンゴの場合は殆どの場合は文脈で何を意味しているかはすぐに分かるものです。ですから日常的にはいちいちリンゴという言葉が何を意味しているのかを考える必要などありません。しかし上下前後左右はそういう訳にはゆかないものです。ですから日常的にもしばしば混乱が生じることもあります。人間だけをとってみても、上は普通、頭頂部を意味しますが、逆立ちをしている人の場合、「上」が足の下を意味することもありもます。また、いま私が使っているキーボードでは数字は1から0に至るまで左から右へと並んでいます。アルファベットではQが左端にありPが右端にあります。「右」の辞書的な定義は、ヒトが北を向いたときの東側ということですが、キーボードの前側を北に向けると、Qは東側にあり、ヒトが北を向いた時の右側に相当します。Qは本来キーボードの左側にあったので、ヒトにおける左右の定義とは逆ということになります。このように左右の場合、シニフィアンとシニフィエとの関係が対象により逆転する場合が生じます。これは左右に限ったことではありません。キーボードを裏返して前側を北に向ければヒトの場合と同様に東側が右側に一致しますが、当然、上と下の関係が逆転することになります。同様に、ヒトの上下は頭や身体の各部で表現されるにしても植物の場合はそうは行きません。第一、植物には上下はあっても左右や前後はないのが普通です。

このように一見、左右だけが特別に思われがちですが、上下、前後、左右はすべてこの点では同じことです。それで、マッハが「左右も上下や前後と同様に異方的である」と言ったのだと思います。

ここで、例として「上」だけをとって考えてみますが、あらゆる物、あらゆる場合に共通する 「上」の概念、あるいは何故にヒトの頭の方向や植物が成長する方向に「上」という言葉が用いられるのかを考えてみる必要が当然のこととして生じます。それは、つまるところ視空間における「上」が根本的な基準ではないかというのが私の考えです ―― 視覚に関係する限り ――。天と地、あるいは地上という環境が本来の上下の基準なのではないか?という反論が呈されるかもしれません。しかし真に客観的に、この場合は物理的に考えてみると、天の方向は地球の裏側では逆になるはずです。天地、あるいは地上環境という概念自体が物理的なものではなく、ヒトという個人ではないにしても人間一般に共通する主観的な空間が起源であるとものと考えられます。

こうしてみるとヒトの知覚空間、この場合視空間はシニフィエで満たされた空間であるというができ、 つまるところ「意味されるもの」、簡単に言って「意味」そのもので満たされた空間であり、その中で方向を表す上下前後左右のそれぞれが異なった意味を持つ以上、あらゆる方向と位置で異なる意味を持つ空間であると言え、視空間は「異方的」であるということができるのだと思います。

このように空間の異方性を理解する鍵はシニフィアンとシニフィエとの関係にあり、『意味』にあると言えます。
(2018/01/14 田中潤一)

2017年10月10日火曜日

虚像(光学的)の一人歩き(「鏡像の意味論」番外編)

岩波理化学辞典には「像(image)」の項目で実像と虚像の区別が定義されている。それによれば「光学系を通過した光線が実際に像点を通過する場合」が実像で、「光線を逆向きに延長したものが像点を通る場合には虚像という」、とされている。ウィキペディアには「虚像」の項目があり、同じような定義が説明されている。またこちらには「レンズの公式」という項目がリンクされていて、それによれば虚像の場合は、実像の場合には正数で表される特定の値を負数で表すことで、同じ公式で表現できると説明されている。鏡像問題で散々、いろいろと思案を重ねてきたいま、改めてこのような定義を見てみると、幾何光学というものは事実上は良くも悪くも科学であるというよりは技術であるという現実に直面せざるを得なくなる。

端的に言って、上記の定義では眼、具体的にいえば眼球の存在が抜け落ちている。実際、虚像でもレンズ系の作る虚像の場合、多少ともまともな説明では眼球と水晶体が描かれている。つまり眼球内にフォーカスする実像なしに虚像はあり得ないのである。だから、眼球の役割を除外した虚像の定義は科学的には明らかに欠陥があるといわざるを得ないと私は思う。ただ技術上の目的には必要はないとはいえる。

一方、同じ虚像である鏡像の場合、少なくとも鏡像問題などの場合に眼そのものは大まかに表現されることはあっても、眼球の構造まで表現されることは恐らく、断言はできないものの、これまでは皆無だったのではなのではないだろうか?

鏡像は普通、虚像という言葉で表現されず、単に鏡像と言われる。ある意味これも当然であって、「鏡像」は単に実際の鏡像を意味するだけではなく、面対称の図形や面対称の構造を持つ物体そのものをも意味することが多く、そういうものは少なくとも光学的な虚像とは言えないからである。しかし困ったことに(と私は考えるのですが)、逆に光学的な虚像であるはずの現実の鏡像の問題においても、単なる面対称の図形や物体の意味での「鏡像」がそのまま逆輸入されることになり、的が外れた単純化や逆に不要な複雑化あるいは錯覚が持ち込まれることも無きにしも非ずではないかと思う。あげくの果ては某最高学府の心理学名誉教授のように、鏡像が鏡の表面にできる平面パターンであると考えて論旨を進めるような理論も出現することになる(必ずしも他人ごととは言えないところが怖い)。

以上は言葉としての「鏡像」の一人歩きと言えよう。ところが、言葉ではなく現実に鏡像としての虚像そのものが一人歩きするところがまた奥深くもあり、面白くもあるところなのである。 この場合の「虚像の一人歩き」は鏡像の観察者の知覚と思考の内部で生じる。簡単に言えば、記憶された鏡像が思考空間の中で操作され、比較されたりすることである。この場合は当人の思考により操作されているわけだから一人歩きというより、歩かされている、あるいは動かされている、というべきかも知れないが、まあ元々一人歩きという擬人化表現を用いる以上、そこまで厳密にいう必要もないだろう。

こう考えてくると、鏡像のみならず、あらゆる像にそれが言えることになる。つまり鏡を介さずに直接に見る像である。なぜなら直接に見る像も鏡像と同様に眼球内に結像する光学的実像に対応する虚像に他ならないからである。要するに普段私たちが見ているもの、言い方を変えると視覚的に近くしている対象は物体そのものではなく鏡像と同様に像なのであり、あらゆる像は虚像に他ならないいことがわかるのである。 


虚像の定義でもう一つ問題というか、注目すべきと思うは、上述のように特定の値を負にすることで実像と同じように扱えるという点である。というのは、特定の値にマイナス記号を付けるだけなのだが、マイナス記号を付けることの意味がマイナス記号の中でいわば全くブラックボックスとなっていることなのである。特定の値につけられたマイナス記号に、マイナス記号だけからは想像も及びもつかない意味が込められていることになる。このマイナス記号に人の眼の構造と機能が込められているともいえるのである。実像の場合は、眼の存在は直接には、少なくとも虚像が関わるような意味では関わらない。実像は写真に固定したり、テレビ画面に映し出したりできるので現実に、あるいは物理的に一人歩きできるともいえる。

2013年4月30日火曜日

脳科学とは何かを考えるヒントとしての鏡像問題―養老猛司著『唯脳論』の読後感その2

(この記事はブログ発見の発見の方にも掲載しました)

―前回のこのテーマでの記事では、この有名な著作の基本前提となる主張への疑問に絞って掘り下げてみましたが、今回は「脳科学」という分野への著者の考え方あるいは方法論と一般的な認識について考えてみたいと思います。―


最初の「唯脳論とはなにか」という節で、著者は唯脳論を「ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。」と定義している。これだけではよくわからないが、後に続く叙述と「実証主義と観念論を結合する」という小見出しの内容から、これはおおよそ次のようなことを主張しているように思われた。

ここで著者は実証主義という言葉で理科系と文科系という区分における理科系を意味し、観念論という言葉で文化系を意味しているようである。というのは、この見出しの節で著者は次のように書いている。「理科と文科という二つの文化があると言ったのは、C・P・スノーらしい。私は一介の解剖学者だが、自分がどちらの「文化」に所属するのか、近頃よくわからなくなってきた。」そして、「両者(理科と文科)をどう結合したらいいか。そこで脳にたどり着く。というのが、この本を書いた私の動機である。」

この小見出しの箇所も他の記述と同様、端的で論理的な記述というよりも、間接的で迂回するような記述なのでわかりにくいが、こういうことだと思われる。すなわち、先の唯脳論の定義における「ヒトの活動」は簡単に言って文科系の領域であり、「脳と呼ばれる器官の法則性」は理科系ということであろう。つまり、理科系の観点から文科系を「眺めよう」ということになる。これはこれで著者のこの『唯脳論』のみならず、脳科学と言われるものの現状を表しているように思われる。確かに脳科学者の著書や発言あるいは脳科学と言われる分野の言説の多くは専門科学的な、具体的には、私は専門家ではないのでよくわからないが、解剖学、生理学、脳神経科学、大脳生理学等々の分野なのだろうと思われる諸分野の専門的な記述と人文科学的な、場合によっては日常言語的世界の記述とが混在しているように思われる。

確かにそれはある種の結合の仕方には違いはないが、真の意味で結合―統合というべきかもしれないが―されている言えるのだろうか。

実証主義と観念論という枠組みにしても、それに対応するように用いられている「理科系」と「文科系」という枠組みにしても、それら自体は無意味ではないし、それなりに有意義ではあるだろう。しかしながら、これらの言葉はいずれも抽象的で具体性に欠けている。また、実証主義と理科系とがそのまま重なるわけでもないし、観念論がそのまま文科系に重なるわけでもないし、第一、観念論の定義など難しいもので、文脈から切り離された「観念論」は人によって理解の仕方は様々であろう。

こういう言い方だと、理科系と文科系の様々な要素、あるいは具体的に言って解剖学とか生理学とか、あるいは文科系では心理学とか、言語学とか、社会学とか、あるいは経済や法律にまで関わるような、さらに日常的な諸々の問題といったさまざまな分野の、言わばつぎはぎ、あるいはごった煮のような、ばらばらの要素が形式的にまとめられているだけというものになりかねないのではないかと危惧されるのである。

【理科系研究分野と文科系研究分野の混在の例】
一般に、どのような専門分野も純粋にその分野の用語だけで記述されたり、考察されたりしているわけではない。しかし、専門分野とされている以上、その分野としての統一があり、無秩序に他の分野が混在しているわけではない。

端的な例を挙げると、物理学をはじめとして多くの自然科学や工学で不可欠な数学は実証科学ではないとみなされている。しかし現実には数学は理科系とされている。こういうことからも、実証主義と理科系、観念論と文科系がそれぞれそのまま重なり合うわけでもないが、それはさておき、この場合、数学はいわば道具として、あるいは言語に準ずるような手段として、自然科学の中に取り込まれている。統合されているともいえる。こういう場合、物理学の場合であれば物理学の中に取り込まれ、統合されているのであって。単に物理学と数学が混在しているというわけではない。つまり、自然科学とも数学ともつかない別のものになっているわけでもないし、自然科学と数学の中間というわけでもない。全体としてはあくまで物理学等の自然科学である。

また異なった混在のあり方として工学のような応用ないし実利的な様々の工学的な諸分野がある。それらはあくまで工学であり、技術であって、科学そのものではない。

それ以外に、自然科学と考えられている分野として生物学など、生命科学と総称される諸分野と地球科学の諸分野、それに医学などがあり、脳科学もそれらに含まれるといえるが、これらの諸々の分野においてもそれぞれの方式、構造で、理科系要素と文科系要素が混在していないとは言えない。そのような次第で、脳科学に何らかの形で理科系要素と文科系要素が混在するということ自体は、他の諸々の分野と比べて不自然というわけではないだろう。ただ、今ここでそういった多岐にわたる諸分野の構造をすべてを分析し、考察することなど不可能である。

【鏡像問題という一例】
ここに鏡像問題という興味深い一例がある。これは文字通り一つの具体的な「問題」であって、特定の学問分野、研究分野というわけではない。しかし鏡像左右反転の謎といわれるこの問題は、特定の実用的、技術的な問題ではなく、純粋に知的な興味から発する問題である。であるから、純学問的な問題と言うことができる。決して技術的な、あるいは工学的な問題ではない。

私がこの論争中と言われる「鏡像問題」が世界中を通じて科学者、学会の間に存在することを初めて知ることになり、非常な興味を覚えて自らも考え始めるようになったのは2007年12月の毎日新聞記事がきっかけであり、それ以来本ブログで何度か取り上げて自らも考察し、ひいてはごく最近、当該新聞記事の当事者のおひとりである大阪府立大学名誉教授の多幡先生から直接お話を伺う機会にも恵まれた。ということで、常に念頭にある問題としていろいろな局面で考えることの多い課題であるのだが、今回は鏡像問題そのものというよりも、学問分野の関係という視点での興味で考えてみたい。

当該新聞記事は次のような前文で始まっている。「鏡の前で右手を上げると、鏡の中の私は左手を上げているように見える。なぜ鏡の中では左右が反対なのか。この問いかけは、古くはギリシャの哲学者、プラトンが考えたといわれるほど長い歴史を持つ。現在も認知心理学と物理学の両分野で、国際的な議論が続いている。今年11月、「鏡像問題に決着をつけた」とする認知心理学者の論文が発表されると、物理学者が批判するなど熱い論争が続く。」

ここではまず、鏡像問題が物理学の問題であるか、(認知)心理学の問題であるかが一つ争点になっているが、その後の経過や記事の内容自体からも、物理学上の問題と心理学上の問題との両方が関わっていると考えるべき方向に向かっていると思われる。物理学的側面と心理学的側面のどちらがより基本的であるかというとらえ方をすると難しくなるが、「鏡像問題」という具体的な問題として捉える限り、これが純粋に心理学的な問題であって物理学の問題ではないというように単一分野の問題であるという考え方は、考えれば考えるほど、分が悪くなるように思われる。

では物理学上の問題と心理学上の問題とが関わっている鏡像問題そのものとはなにかと考えると、これは科学以前の問題であるとすべきであろう。日常的な問題ともいえるが、結局のところ日常言語の概念でとらえられる問題と言うことができる。結局は言葉と概念の問題、さらにシンボル体系の問題として考察できるというか考察すべき問題のように思われるのである。例えばキーワードともいえる「鏡」、「左右」。

それでは脳科学の場合、この問題はどうなっているのだろうか。

実は、私は今回『唯脳論』を読むことで、「脳」は基本的に解剖学の用語であり、概念であることに初めて気付かされた。脳という概念は解剖学の体系の中で初めて明瞭な意味を持つのであり、日常用語としては極めて曖昧で漠然とした意味しか持ちえないともいえる。あるいは解剖学や生理学の内部においてさえも、かなりあいまいな部分の残る用語であるかもしれない。解剖学者である『唯脳論』の著者が「唯脳論」を着想されたのも脳が解剖学の用語であり、概念でもあるからこそであろう。

他方、「脳と心」というように、脳科学の各分野でつねに脳との関係が興味の対象とされるところの一方の「心」の方はどうかと言えば、これは全く解剖学上の概念ではない。解剖学や生理学や諸々の自然科学諸分野が成立するよりもはるか以前から存在し続ける言葉であり、概念である。そして心を科学的に研究する分野が心理学と呼ばれているともいえるが、単に心理学にとどまらず、文科系諸分野の中心テーマといえるほどのものである。
そこから前述のような、『唯脳論』における著者、養老猛司氏の唯脳論の定義が生まれたのであろうと思われる。

しかし、既に述べたように、唯脳論の定義ないし方法論は、はあまりに抽象的で、悪く言えば大ざっぱである。
それは、「理科系」という研究分野と「文科系」といいう研究分野、あるいは必ずしもそれらと重なるとはいえない「実証主義」と「観念論」という研究分野をそれらの違いを明らかにしないままただご都合主義的に結びつけるだけに終わり、論理的に錯綜したものになってしまう危険性が感じられるのである。事実、『唯脳論』の構成は難解で、論理的な一貫性が感じられず、錯綜したものに感じられる。

ここで再び鏡像問題に立ち返ってみたい。この問題では、鏡像問題が物理学の問題であるか、心理学の問題であるかが一つの争点になっていたという事実がある。ということは、鏡像問題そのものはそのまま物理学の問題でも心理学の問題でもなく、日常言語次元の問題、いわば科学以前の問題なのである。その問題を解決するために物理学や心理学が動員されていると考えるべき問題と言える。このことを踏まえて脳科学の問題を考えてみるに、脳科学における最大の問題、あるいは諸問題を総体的に表現すれば脳と心との関係ということになろう。この関係の問題をどうとらえるべきであろうか。

すでに述べたように一方の「心」は諸々の科学が成立するはるか以前から存在し続け、将来的にも消滅するとは到底思われない確固たる日常言語の言葉であるから、この問題は日常言語的な、科学以前の問題と考えるのが自然である。ところがそれに対するもう一方の「脳」は、解剖学や生理学の用語なのであり、本来は日常言語、科学以前の言葉ではなく、それが日常言語としても用いられるようになってきたのであり、この問題を科学的に考察しようと企てるのなら、新たに適切な科学の諸分野を動員して考察を開始すべき問題と言えるのである。

逆に、この問題自体を特定の科学分野の問題ととらえるとすれば、「心」も「脳」もそれぞれその研究分野の体系の中で明確に定義されたものでなければならない、とすればそのような研究分野の体系は現在存在しているとは思われないのである。

前回の記事で検討したところの、「心とは実は脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。―中略―心臓血管系と循環とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。」という『唯脳論』の基本主張を以上の視点で検討してみると、この主張では「心」という日常言語的な科学以前の概念を解剖学や生理学の枠内に、無理に引きずり込んでいるように思われる。こうして引きずり込まれる際に「心」の概念が変形を受けることになる。

『唯脳論』には書かれていないが、ウィキペディアによると、「生理学は生命現象を機能の側面から研究する生物学の一分野」であり、「形態的側面からアプローチする解剖学や形態学と対置される。」とあり、常識的に納得できる定義だと思われる。とすれば、『唯脳論』の著者が心臓血管系の機能としている「循環」すなわち血液循環は生理学上の機能とみなすことができ、解剖学的な脳には脳の生理学的な機能を対応させるべきところを、それに変えて日常語の「心」を限定された自然科学分野の枠内に引きずり込むことで、本来の「心」が意味するものを損なってしまっている。

もう少し比喩を膨らませてみるなら、「心」を解剖学と生理学の枠内に引きずり込む際に、「心」の持つ膨大な意味内容がすべて搾り取られてしまい、形骸となった単なる言葉、「意味するもの」と言ってよいのかもしれないが、言葉の意味するものとしての側面のみが取り込まれ、その意味されるところのものとして脳の生理学的な機能がすり替えられたかのような印象を受けるのである。この部分の論理的な奇妙さについては前回の記事で分析してみた。

従って、脳の生理学的機能の意味するものと心という言葉が意味するものとが自明とみなされるまで一致することが証明されることを要する仮説であるとみなすことができるかもしれないが、著者は仮説であるとはいっていないし、現実にこれを前提事項として論を進めているのである。

以上の、唯脳論の定義と言える部分は本書の冒頭部分であるが、本書のそれ以降の部分にこの定義の証明に充てられている箇所があるかというわずかな期待を持ちながら読み進んだことは事実である。しかし、一読した限り、むしろこの定義を前提として議論を進めている部分が殆どで、全体としては結論の先取りという印象を受けた。

この先取りされた結論に加えて身心並行論と脳の擬人化による説明がなされることで、何か証明または論証が行われているような錯覚が生じる。

このことを著者は次のように語っている。「脳についてわれわれは、普通の臓器とは逆に、機能をあらかじめ知っており、構造をあとから知るのである。ここでは、したがって通常とは議論が逆転する。」「唯脳論では、あらかじめ知られた機能に対して、構造を割り付けなければならない。こういう逆転した議論を人はなかなか受け付けないのである。」

これは結論の先取りという詭弁でなくてなんであろうか。著者自らが逆転した議論であることを認めている。

好意的に解釈すれば、これは結論の先取りではなく、仮説という見方もできると思われるかもしれない。しかし著者は仮説とは言っていない。実際、「機能をあらかじめ知っている。」と最初から断定しているわけで、これは仮説ではない。事実、最初からこの考えを仮説としてではなく前提条件として扱っている。

というような次第で、著者のいう「実証主義と観念論を結合する」という、あるいは「唯脳論」の行き方は、少なくともこれらの箇所、すなわち基本的な箇所では破たんしていると言わざるを得ない。

他方、脳科学のような問題の多い分野において有効な方法論を確立するためにも鏡像問題は参考になるのではないかと思われる次第である。

2012年2月29日水曜日

測定と時間(温暖化問題における)


一般に科学的な測定には大抵、時間が何らかの形で関わっている。第一、測定事体に時間がかかる。例えば温度計を読み取るにしても、厳密には絶えず変化しているし、温度計事体、周囲の温度に追随するのに時間がかかる。まあ気温などの場合、こういうことは気にすることはないが、精密な計測では非常に難しい問題になってくるであろう。私自身は素人なのでわからないが、計測装置の設計にとっても非常に難しい問題であろうと推察できる。

多くの技術的な問題ではこれは非常に短い時間の場合が多いだろうが、時間の問題が重要なことは逆に地質学のような時間スケールの長い分野でも難しい問題になってくることには変わりがない。しかしともすればこのことは忘れられがちなのではないだろうか。

また、端的に言って測定そのものは科学である以上に技術の問題であって具体性が何よりも大切であり、測定装置から、測定者、想定の場所や時間、測定サンプル、さらには統計計算の問題、言葉の問題をも含めた表現方法にいたるまで多様であり、その多様さは分野、あるいは業界の慣習に大きく関わっている事が多い。その意味で自分の専門分野以外、狭い意味での専門分野以外の問題に関わる場合はよほど注意が必要なのではないかと思われる。これは純然たる素人にとってよりもむしろ自然科学の他分野の専門家にとって重要なのではないかと思う。

いきなり結論めいた事に踏み込んでしまったようだが、話を最初から始めると、先日NHKオンデマンドで「いのちドラマチック」というシリーズ番組の「ミドリムシ 植物と動物のあいだ」というのを見た。結構おもしろいので何度かこのシリーズを見ているが、基本的に食べ物に関係のある科学番組のようだ。しかしよけいなことかも知れないが「いのちドラマチック」というタイトルはそれだけでは何のどういう番組なのか、さっぱりわからない。こういう番組はもっと端的に、即物的なタイトルにして欲しいと思う。

それはともかく、このシリーズ番組には毎回分子生物学者の福岡伸一先生が登場することになっているようで、今回もそうであった。

この先生の著書は一冊半ほど読んだことがある。一冊目は「生物と無生物のあいだ」、もうひとつは「世界は分けてもわからない」である。こちらの方は半ばくらいまで読んだままでなぜか忘れてしまっていた。なぜ読むことになったかといえば、もちろん書店でかなり目立つところにつまれていたからでもあるが、いまは昔NHKFMラジオ番組の「日曜喫茶室」のゲストとして出演されていたのを聞いた記憶があって、とにかく話し上手な科学者という印象もあり、本も面白く読めそうな気がしたことは確かである。

この本の主たるテーマについてははっきりした印象の記憶を持てなかった。難しい問題で、理解したとも言えないし、この本を読んだだけでどうこう言えるような問題ではないと思う。ただ、もちろん専門的でわからない部分が多いものの、著者のスタンスがいくらか中途半端かなという印象はあった。それはともかく、本題以外に読み物として、DNA発見に関わる科学者たちの話題、とくに著者が研究生活を送ったたロックフェラー大学の歴史や印象、そこに胸像が飾られているという野口英世に関するあまり芳しくない話題などに多くのページが割かれていて全体として面白い本ではあった。

次の「世界は分けてもわからない」の方は読みかけたもののいつの間にか続みつづけるのを忘れてしまっていた。どうもなかなか話の核心に進んで行かず、まどろっこしいところがあったのかもしれない。非常に興味深い問題を扱っていることは確かなので、最後まで読み直さなければならないと思っている。ただ表題には少々違和感がある。(世界が)「わかる」にしても「分ける」にしてもあまりにも漠然としている。第一、単に「分ける」だけで「世界がわかる」とは誰も思っていないのではないだろうか。本のタイトルとはこういうものかも知れないが、やや我田引水的なタイトルだと思う。

いずれにせよ、断片的にも興味深く面白い話題を沢山提供できる著者であることは確かな印象であり、テレビ番組に登場するようになったのもわかるような気がする。

ただ、最近刊行されたかなり分厚い著書を書店で少し立ち読みしてみたことがあるが、温暖化問題に触れている個所があった。そして、この先生も温暖化問題について的確な判断をしていないことがわかり、この分子生物学教授に対していくらか興ざめ感を持っていたところだった。

さて、本題ののテレビ番組の内容は、葉緑体を持つ植物と動物の両方の特長を備えたミドリムシの食物や燃料としての利用の可能性について紹介されていたのだが、ここでもCO2温暖化対策が登場してくる。ミドリムシを生産して食料や燃料にすることでCO2削減に貢献できるという話題である。

燃料としてなら、つまり化石燃料の代替としてなら、実効性はともかく、CO2削減と結びつけるのもわからないでもないが、食料としての段階でCO2削減に結びつけるというのはあまりにも牽強付会としか言いようがない。CO2の吸収速度が早いというのだが、食用にして食べてしまうのであれば、そんなことはCO2削減と何の関係もない。普通なら「成長が速い」というべきところを「CO2の吸収が速い」と言い換えたのであろう。利用という面からは「成長が速い」という方がよほど意味深いと思う。専門の権威ある科学者がそんな話題に共感するとすればまさに興ざめである。



予想しないでも無かったが、ここで福岡先生によるCO2温暖化の解説が始まる。「いのちドラマチック」という訳のわからない番組のタイトルも関係しているようだ。つまり番組の趣旨が何なのかわからないのである。融通無碍ともいえるが。

それはともかく、ここでの教授の説明もまたさらに興ざめそのものだった。それは、数十万年前から現在に至るまでを通してのCO2濃度のグラフを元にしての説明で、この数十万年をとおして、この18世紀ころから急激に大気中CO2濃度が一方的に増加し、過去数十万年を通して一度も達したことがない400ppmに近づきつつある。従って大気中CO2濃度の増加が人為的な原因によるもので温暖化の原因でもあるというものである。

この種のデータあるいはグラフに問題があることは筆者も何度もブログで触れている。例えば、http://d.hatena.ne.jp/quarta/20110401#1301656569 。この機会にもう一度この問題を掘り下げてみたい。

基本的に重要な問題は、このグラフでは十万年を超える前から現在にいたるまで一つづきのグラフで表現されているのだが、横軸の同じ長さの時間スケールが地質時代と18世紀以降ではまったく異なっている。その差は100倍くらい異なっているであろう。当然測定方法のみならず測定手続き、測定サンプル事体がまったく異なることはもちろんであり、その種のことにまったく疑問を持たないか言及しないとすれば科学の専門家の態度としては問題があると言わざるを得ないのである。あらゆる測定は測定方法と切り離すことはできないからである。

筆者の知見によれば、この種のグラフには少なくとも3通りのまったく異なった測定が繋ぎ合わされている。いずれも根本順吉氏の著書で知り得たものである。

一つは1958年から1988年までの間、キーリングという科学者がハワイのマウナロア山頂で定期的に測定を始めた連続的なデータである。

次は18世紀から前記1958年までのデータで、これは根本順吉氏の著書では南極のデータとなっているので、氷からサンプリングしたものかも知れないが、詳しくは書かれていない。この間の増加率は、前記1950年代以降の急激な増加に比べると著しく緩慢である。

もう一つは「南極のボストーク基地で得られた2000メートルの氷柱の分析から、過去16万年の気候変化が明らかにされたことである」。この分析では「1m毎にとったサンプルを真空中でくだき、そこからとりだした過去の時代の大気成分について、ガス・クロマトグラフィーを用いた分析が行われ、CO2の変化が明らかにされた」。

16万年で2000メートルとすると、1mあたり80年になる。つまり、この間のCO2濃度は80年間の平均を意味している。80年の間には、キーリングの分析が始まった1958年から現在までの約50年はすっぽり入ってしまう。

現在気象庁などで行なっている分析データは月単位で公表されている。キーリングの分析もそのようで、実際、年間における月単位の数値の変化は結構大きく、夏と冬とではかなりの差があり、曲線はギザギザになっているのが普通である。

以上の事実から、先ほどのグラフから単純に現在と10万年前とで比較できないことは明らかだが、以上の事実を知らなくても、この種のことはグラフ横軸の時間スケールの違いからも疑いを持つのが科学者であれば当然ではなかろうかと思うのである。私自身は、根本氏の本を読んでいなければ気づかなかったかも知れない。

改めて思うことだが、あらゆる測定には異なる時間が関わっていることに思い知らされなければならない。

最初に書いたことだが、これは少しでも専門を外れた分野の問題に言及する場合には特に重要な問題だと思う。素人にとって以上に、他分野あるいは隣接分野の科学者には気を使ってもらいたいものだと思う。

個人的に、あまり専門性を強調したくはないと思う。私自身、事実上すべての化学分野で素人である。ただし、権威ある科学の専門家が専門科学者の資格で権威を背景に科学の問題を語る時、やはり専門外の問題を語ることは控えることが良心的といえるのではないかと思う。もちろん一概に言うことはできない。

少なくとも聴衆、受け取る側はこのことを十分に意識すべきだろう。

(蛇足)先日この番組を見た日、外出したら、直ぐ近くの自然食品の店に張り紙がしてあるにに気がついた。曰く、「みどりむし入荷しました」。

2011年12月28日水曜日

梅棹忠夫著「文明の生態史観」再読で「エコ」運動について考える

(この記事は http://yakuruma.blog.fc2.com にて公開済みです)

CATEGORY: 読後メモ

DATE: 12/17/2011 15:47:19
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(この記事は最初、読後のちょっとしたメモとして、簡単に1日で仕上げるつもりでしたが、書き始めると一向にまとまらず、結果的にかなりの長期間にわたって筆者の時間を奪うものになってしまいました。またかなり長いものになってしまい、文脈的にも整合されたものになっていませんが、とりあえずこの辺りでひとまず打ち切ってアップしておきたいと思います。)


先月、表記の本が真新しい表紙で書店の文庫本コーナーで平積みにされているのを見て、他の購入予定であった本と併せて衝動的に購入してしまった。もちろんこの有名な著作のことは知っていたが、内容についてはっきりとした記憶がなかったので、この際読んでおこうという気になったのかもしれない。購入後数日たってから思い出したように読み始めたら非常に早く読める。一気に2日程で読んでしまったのだが、それもそのはずで、確かに昔、同じ内容を読んでいたのだった。しかし全く同じ本ではなかったように思う。章句を思い出したわけでもなかった。少なくともかつて読んだ本よりは、今回は分量が増えているようだ。前の本を捨てたはずは無いので、探せば見つかるだろうが、必要もないので探さなかった。ただちょっとネットで過去の版を調べるには調べてみた。

というわけで、大体の内容は過去に読んでいたのでそれを思い出したといっても良いのだが、しかし今回は再読したから思い出したのであって、「文明の生態史観」のコンセプトはこういうことだという概念が身についていたわけでもなかった。今回再読しなければ、「文明の生態史観」というタイトルを読むだけではその概念を思い起こすことはできなかった。


【文明の生態史観とエコロジー】

その程度の記憶ではあるが、それでも覚えていることと覚えていないことがある。あるいは今回の本に含まれていて以前の本には含まれていない内容があったことも確かである。どちらでも良いけれども、今回始めて気づいたことの一つは、著者の元来の専門分野が本来の、つまり生物学の一分野である生態学であったということだった。著者はよく、自分は理科系の出身であるということを発言されていたように思うけれども、実際どの分野であったのかは記憶がなかった。今回始めて、著者が生物学者として出発し、生態学が専門であったことに気づいた次第である。

今回、私がこのことに注目したのはやはり昨今、なにかと生態学、というよりエコロジーが問題になることが多く、私自身も関心を持ち、つい最近になって、特に最近の日本ではエコロジストとして言及されることの多い南方熊楠に関する本、それも特にエコロジーとの関連で、エコロジストとして南方熊楠をテーマとした本を2冊程読んだばかりでもあったからでもある。

梅棹忠夫自身はしかしエコロジーというカタカナ語はつかってはおらず、この本以外のところでも「エコロジー」について発現されているのを見たり聞いたりした記憶があまりない。どうも今流行のエコロジー運動とは無縁であった学者文化人であったように思う。という次第で、著者がエコロジー運動についてどういう考えていたのかに興味を持ち、詮索したくなったのである。

今回読んだ文庫本(中公文庫)には「生態史観から見た日本」という講義録が収録されているが、それには次に引用する章句が含まれている。


【文明の生態史観は「べき」、「ゾレン」、「当為」の議論ではない】

『しかし、読んでくださればわかるように、「生態史観」は「べき」の議論ではございません。それは、世界の構造とその形成過程の認識の理論であって、現状の価値評価ないしは現状変革の指針ではございません。それは、ザインの話であって、ゾレンの話ではないのであります。そこからは、どんなにきばってもみても、「べき」の話はでてこないのであります。』
『私はむしろ、そのような「べき」の立場にたたなかったからこそ、生態史観のようなものができたのであるとかんがえているのです。わたしにも、一般的な実践について、あるいは「べき」について関心や意見がまったくないわけではありません。しかし、この問題に関しては、わたしはやはり、区別ははっきりしておいたほうがいいとおもうのです。』
『ところが、「生態史観」を発表して以来、よせられた反響のひじょうにたくさんの部分が、この「べき」を問題にしているのであります。』
『生態史観というようなものは、私は、なによりも単なる知的好奇心の産物であるとかんがえています。』

以上に引用した個所は非常に重要な問題を含んでいるように思われる。端的に言って著者の考え方は正しいと思う。「べき」の問題、つまり倫理や政治的な問題は学問的、とくに科学的な問題とは区別しなければならない。

但し著者自身は、「区別ははっきりしておいたほうがいいとおもう」とは言うもののそれに対してそれ以上に熱を入れて非難することもなく、そういう傾向を打破すべく活動を始めることもなく、その事自体に興味を持って次のように考察を始める。


【政治と知識人】

「わたしはむしろ、日本の知識人たちが、理論的関心よりも、実践的関心のほうを、よりつよくもっているという現象そのものに興味をそそられるのであります。」

という文脈につらなり、知識人のこういう態度を日本とヨーロッパに共通する特徴であるとして「文明の生態史観」のなかに、知識人の「生態」とは言わないまでも学問的姿勢を組み込むような考察を始める。そして「生態史観の応用的展開の一部としての比較知識人論、ないしは比較教育論へのいとぐちにすることができるかもしれないと、こうおもうのであります」という抱負を語ることでこの講義を終えている。

ただここで、著者は考察をさらに進めるにあたって「べき」の問題、「当為の主張」の問題を「政治指向」の問題に置き換えている。「当為の主張」という広い範囲の問題を政治の問題に限定あるいは狭めているとも言えるが、問題をそらせている訳ではないし、政治が重要な問題であることには変わりがない。
なお、著者は当為を表す言葉として最初にカッコつきの「べき」という言葉を使い、次にドイツ語のゾレンをつかい、あとから「当為」という言葉を使っているが、この記事では以降「当為」を使うことにしたい。


【「文明の生態史観」と「エコロジー思想、運動」との平行関係】

この「比較知識人論」の契機になった問題というのは、著者が提起した「文明の生態史観」に対する知識人側からの反響であった。著者自身が純粋に知的好奇心の産物と考えていた生態史観に、現状の価値評価ないしは現状変革の指針を見ようとした知識人層を見てのことであって、今問題になっているエコロジーの問題、エコロジー思想やエコロジー運動については何も語っていない。

けれども、著者の生態史観も、世界的なエコロジー思想や運動も共に、基本的に、言葉どおり生物学の生態学に由来しているわけであるから「文明の生態史観」とエコロジー思想との間に何らかの並行的な見方ができる筈である。

すなわち、梅棹忠夫はその本来の専攻分野である生物学の一部門である生態学から出発し、それを人間の歴史に応用して「文明の生態史観」を提起したが、一方でちょう時期的にもそれと平行して同じ生物学の生態学をやはり人間に関する問題に応用したと言えるエコロジー思想あるいはエコロジー運動が展開してきたと見ることができるわけで、見方によっては同じ生態学に由来し、それを人間に適用する際の二通りの道が示されたとも言える(二通りしかあり得ないという意味ではなく)。

そして、著者がその一方の道として提起した「文明の生態史観」に対する反響が「知識人の政治指向」に由来するものであると著者が考えたわけだが、その同じ「知識人の政治指向」が、文明の生態史観と平行して展開していたエコロジー運動に大きく関わっていたと見ることができるわけである。


【文化系知識人が目立つエコロジー運動】

そう考えるには当然、根拠がある。著者がここで知識人と言っているのは主として人文科学系の知識人のことを指しているといって間違いはないだろう。エコロジー運動の方も、推進しているのは、少なくとも日本の学者知識人でエコロジー思想を喧伝しているのは、目立つのは社会学者や文化人類学者など文化系の学者や文化人の方である。


【当為の主張が入ることでエコロジーが文化系知識人のものになった】

専門的な生態学や地球科学系の出身者よりもむしろ社会学者や文化人類学者やその他の文化系学者、あるいはジャーナリストなどの活動が目立っている。またエコロジー運動の活動家は学者というよりも文字どおりに「活動家」でしかないようなケースも多いだろうし、知性派的な芸術家や芸能人の創作活動に取り込まれたりという場合も多い。職業的な芸術家や芸能人の創作活動とは即ビジネスである。当然いずれも生物学や地球化学を基礎とした生態学や環境科学の本格的知識を持っているとは思えない。もちろん中にはそれなりの勉強をしている人もいると信じるが、あくまで当為が先に立ち、偏見のない自由な、それこそ純粋な知的好奇心から勉強をしているとは考えられない。そのような立場の人の場合は当然、当為、「べき」の方が出発点になっているからである。

つまり、人文科学系出身の学者や芸術家や芸能人などが本来の生態学や地球科学を専門的に勉強することがあっても、エコロジー運動からその分野に入って行く場合はもはや先入観を持たずに純粋な知的興味から知識を取り入れることができにくくなくなっているのである。もちろんこれは傾向としてである。


【本来のエコロジー以外の自然科学者が主導するエコロジー運動】

また自然科学系の知識人であってもエコロジー運動に積極的に関わっている人物はむしろ本来の生態学や地球化学からは隔たった分野の専門家が多いように思われる。例えば今エコロジー運動の最たるものは地球温暖化対策という問題といってよいと思われるが、私見では地球温暖化問題に最も関係の深い自然科学の特定分野があるとすればそれは地球化学をおいて他にはないと思っている。もちろん気象学も、気象学がその一分として含まれると言われる地球物理も関係が深いが、地球化学はそれらをも包含するものだと思う。もちろん、生態学もそれなりの関わり型で関係していることも確かである。

ところが、自然科学系の専門家で、特にエコロジー的な発想で地球温暖化対策に熱心で発言機会が目立つのは計算科学者、物理学者、原子力工学の出身者などで、本来の生態学者も地球化学者も、あるいは地球物理、地質学など地球科学一般の専門家も一向に目立つところに姿を現さないように見えるのである。もちろん政府所属の研究機関などに所属する専門家は別である。


【エコロジー思想に取り込まれた地球科学、特に温暖化問題】

それはこういうことだと思う。地球温暖化問題がエコロジー問題となることで、この問題を扱うのに最も相応しい分野は何かという問題からフォーカスが外されることになるのである。覆い隠されるとも言える。そこでこの問題に高い関心を持ち、エコロジー運動に熱心な他の分野の科学者が主導的な意見を主張することが不自然ではなくなる。この問題が、当為の議論を含むエコロジーの問題となり、エコロジストの扱うべき問題ということになり、「現状の価値評価」、「現状変革の指針」を含むエコロジーの権威が強調され、ありのままの現状認識の問題が副次的な問題とされてしまい、フォーカスを外されてしまうのである。こういう現象自体が梅棹忠夫のいう「知識人論」の対象となるような知識人の生態とも言えるような事態が生じている。

要するに自然科学系専門家の場合も人文系の学者や芸術家、芸能人の場合と同様である。

一般に自然科学者の間では、分野の違いによる専門の独立性を尊重する気風が文化系の学者よりも強いのではないかという印象がある。お互いの専門性を尊重し、他の専門分野に立ち入ることを差し控えるような傾向が強いのではないだろうか。その結果、自分の専門ではない分野については、自分の頭で考えることを放棄してしまうのは文化系の学者や芸術家の場合と変わらない場合も多いように思われる。むしろ学問的な専門分野を持たない一般人のほうが公平に、真実に近づきやすい面もないとは言えないと思う。

他方、政治の立場からすれば環境問題は重要な問題であり、政治が、環境問題への回答を自然科学の様々な分野に求めるのは当然のことである。当然、好むと好まざるとに関わらず、科学者も政治に向けて何らかの対応を迫られる。その相手は狭い意味の政治家に限らず、それ以上に行政組織、さらに利益団体とか、イデオロギー団体とか、活動家など、あらゆる政治的な立場から自然科学者の方に向けられる働きかけに対応せざるを得ない。

このように地球科学がエコロジーに取り込まれた、というか飲み込まれたような形になっているが、それは正当なことなのかが問題になってくるのである。


【物質科学、生命科学、人文科学、歴史と科学】

ここまで、梅棹忠夫の「文明の生態史観」と「エコロジー思想」とをただ、当為の立場に立っているかいないか、あるいは当為の立場であるか、単なる知的好奇心の立場からであるかという点における違いのみを問題にして比較してきた。著者は自らの生態史観を「世界の構造とその形成過程の認識の理論」であり、「現状の価値評価ないしは現状変革の指針」ではないと言っている。一方、エコロジー思想は「現状の価値評価ないしは現状変革の指針」に該当しているので、これまで見てきたようにこの2つの思想を単純に当為の立場であるか当為の立場を含まないかという点だけで比較してきたわけだが、それでもこれら2つの思想にはその点以外にも大きな違いがあり、またそれらのコンセプトには違いがありすぎるとも言える。

というのも、何よりも人間の当為の議論を含んだ、あるいは当為の指針を求めるとも言える「エコロジー思想」は、本気で考えればあまりにも、途方もなく壮大なものになる筈だからである。

「文明の生態史観」の方は、もちろんこれも壮大ではあるが、ただ生態学の方法を人類の歴史の理解に応用するということであって、地球全体としての理解などは含まれていない。ここでは地球環境は人類史の外部にあるシステムであって、地球環境への人間からの働きかけについては、基本的に考察の対象外であるように見える。

他方のエコロジー思想の方は恐らく、人間を含めた地球全体を人間の立場を離れて考察しようとする立場であろう。その中では自然に対する人間からの働きかけが含まれる。この辺りの事情から「地球に優しく」とか、「地球を愛する」とか、「地球が好きだ」とか、「すべてを地球のために」といったキャッチフレーズが飛び出すようになったのだろう。

しかし、生態学という生物学の段階ですでに生命現象を取り扱っているわけだが、人間活動をも含めるとなると、一体どうなることか。生物学の段階ですでに物理化学現象を主題として扱っているわけではなくなっている。それに人間の文明をも含めるとなると一体どういうことになるのだろう。


【歴史でつながる生物学と地球科学】

元来生物学には地球という概念は存在しない。少なくとも表面には登場せず、学問のテーマそのものではない。環境という概念なら当然、生態学にはあるのだろうが、しかしそれも主題ではなく、あくまで背景あるいはシステムの外にあることは「文明の生態史観」の場合と同じである。物理的な物体や化学的な物質を扱っているわけではない。地球を物理的な物体または化学的な物質として扱うのは地球物理や地球化学である。「文明の生態史観」が物理的、化学的な物質としての地球を研究対象とせず、またできないのと同様に、生物学の生態学も生態学の枠内で地球を物理科学的に研究することはできないのである。
ただ、地球科学には歴史の概念がある。地質学の目的は地球の歴史を明らかにするものであるという考え方がある。その地球には当然、生物と人間も含まれ、生物と人間が物質としての地球に何らかの足跡を残し、地球の歴史と重なる部分があることから伝統的に地球科学と生物学はつながってきたといえる。ダーウィンは地質学者として出発したが、生物の進化を研究することによって結果的に生物学者に転向したという事になった。

このように生物学と地球科学が繋がっているとはいえ、それはあくまでも別物が繋がっているだけであって、決して1つの纏まった統一体に統合されたものであるとは言えない。

もしも統一体であると言えるとすれば、空間的にも時間的にも、生物も人類も地球のごく一部として包含されることになる。しかし、地球を物理的な物体、化学的な物質として扱う地球科学が、生命や精神現象を扱う生物学や人文科学を包含することはできないことは言うまでもない。という次第で、地球科学と生物学はこれまで一体のものであったことはなく、なりそうにも思えない。


【エコロジーの現在と可能性または幻想】

ところが、エコロジー思想によって地球と生物、人類が一体のものとして把握できるような印象、気分が醸成されてきたように思われる。確かにこれは興味深い問題ではある。しかし精神的な要素を含めて地球全体を科学的に理解するような方法は現在存在しない。

精神的なものが物理現象に影響を与えることやその逆の現象について、例えば超心理学や物理学あるいは哲学的に研究されたり考究されたりしていることに関しては、色々と情報があり、興味深いことは確かである。しかし現在のエコロジー思想や運動に、すでにそういった方面の成果が取り入れられているわけではない。今のところ地球と生命を持つ生物、精神性を持つ人間を一体のものとして統一的に理解できるというのは幻想といったほうが良いのではないか。宗教的直感というものもあるかも知れないが、まあ今のところは幻想であり、少なくとも科学ではない。

要するに現在のエコロジー思想は、本来一体のものではない地球科学と生態学とが一体であるかのように装い、エコロジーを地球全体に拡張しているのだといえる。


【地球の人格化】

一方で、生態学に人間をも含めることになれば、梅棹忠夫の「文明の生態史観をも、またそれこそ「比較知識人論」まで、さらにありとあらゆる社会学的なものをも包含させなければならない。それは途方も無いことである。ところが現在のエコロジー運動は人間の歴史とか社会学とかではなく、当為の主張、あるいは政治的、倫理的なものの方に偏って取り込んできたといえる。その結果、地球の擬人化が始まった、というか、むしろ人格化が始まったとも言える。これは本来科学思想というか科学的言語全般に含まれている擬人的な要素とは別次元の擬人化あるいは人格化である。

大地の神格化なら古くからある。しかし今のエコロジー運動は神格化ではなく人格化に近い。

しかし現実に、表層で行われている議論は、実際に地球が神であるとか人間のような心を持っているかといった議論とは別の次元で行われている。というのは、現在のエコロジー運動が実際に地球が神であるとかまたは地球が心を持っているというようなことを認めた上で科学的議論をしているわけではないからである。少なくともIPCCのようなCO2温暖化説のオーソリティーがそのような議論をするわけもなく、一般の科学者でもCO2温暖化説を支持している層はとくに、神秘主義を批判することにも熱心である場合が多い。さらに工学的な発想が加わり、CO2を地中に圧入して自然をコントロールしようという、自然を改変することに批判的であるはずのエコロジー思想とは大いに矛盾しそうな発想を実行に移そうとする。

要するに、矛盾に満ちているのである。まともで論理的な議論が行われていないように見える。


【地球の人格化ないし神格化が当為と結びつく】

(この部分は再考の予定)

・・・・そういった諸々の結果、エコロジー思想を構成する当為の要素が、地球化学の問題であり、地球化学の問題として解釈できるはずであり、実際に解決済みである地球温暖化の原因論にまで影響力を行使しようとしているとも言えるのである。

もちろん一方で生態学的知見、他方で人間社会の福利、また信仰や精神性からの要請で自然保護や動物の愛護が主張されるのは自然なことであってそれはそれで尊重し、議論が必要であれば議論が必要なことは言うまでもない。しかし、梅棹忠夫が生態史観について述べたように、当為の問題と現象とははっきりと区別しなければならない。そうでなければ結果的に政治とビジネスに翻弄されることになる。現にそうなっているように見える。


地球化学は人間活動をも含めたすべての生命現象をもすべて化学現象に還元(還元という言葉に語弊があるとすれば、むしろ解消または消去)して地球全体を把握することと理解しており、今のところ地球全体を科学的に理解するには地球化学が最も適切な分野であると思われる。


【南方熊楠】

最初の方で触れたとおり、少し以前、南方熊楠の解説本を2冊ほど読んだ。鶴見和子著[南方熊楠」および中沢新一「森のバロック」。非常に難解だが、南方熊楠がこういった問題、つまり自然科学と人文科学の統一といった問題に迫っていることはなんとなくわかる。

しかし南方熊楠のエコロジー思想にそのような展開の可能性があるからと言って、熊楠思想の研究から現在の段階で政治的な当為が出てくるであろうか。

すでに見てきた通り、今の政治的なエコロジー運動は当為、倫理的な先入観による予断と偏見から客観的な地球科学ないし地球化学現象を歪めて解釈する可能性を孕み、政治とビジネスに翻弄される可能性が多々あるところの未熟で歪んだものである可能性が高く、現にCO2温暖化説という誤った学説を強硬にサポートし続けるという欺瞞に陥っている。それ以外にもそのような欺瞞が多々あるようなことが言われている。

ましてエコロジー思想家、活動家の多くは専門の生態学すなわち本来のエコロジーの専門家でもない場合が多いようなのだ

このような状況で、難解な南方熊楠の思想の研究が即、政治的に有効な運動に転化できるとはとても思えない。そこから地球温暖化の原因論に到達できるわけでもないし、エネルギー問題の技術的、経済的、政治的な解決策が得られるとも思えない。地球温暖化問題の場合はすでに地球化学的にメカニズムが明らかになっているのである

今必要なことはむしろ、現在の未熟なエコロジー思想による予断と偏見から地球科学ないし地球科学的知見、さらに本来の生態学を救出し、取り戻すことではないだろうか。

熊楠がエコロジーと民俗学の立場から神社合祀令の反対運動を行ったのは熊楠が精通していた森林のエコロジーと地域の民俗に直接関わる問題であって、同時に時の政府がそれを知らなかったからであると思う。それ以上でも以下でもないと思われる。熊楠の基本的な態度は恐らく純粋な知的好奇心を動機とした学問という、梅棹忠夫の立場に近いものではなかっただろうか。

難解な神秘思想で言葉で表現できないものであるからとも言われているが、南方熊楠がそういう体系を理論化しなかったのは、それが時期尚早であるか、あるいは学問としては不可能であると思ったのではないか。

少なくとも今の時点では、現象の理論と当為とを統一したように見えるエコロジー思想を現実の政治に持ち込むことは政治とビジネスのプロにに翻弄されるだけである。
もちろん学問とビジネスとの結びつきは避けることはできないし、必要である。しかしそれは目に見える形でなければならない。今のエコロジー運動ではそれが内在化されてしまうのである。


【理論を道徳的に判断するイデオロギーの可笑しさ】

今の地球温暖化問題はまさに「当為の主張」を含んだエコロジー思想が地球科学を飲み込むという無理な、少なくとも今の時点では途方もなく無理なことによって発生した歪のような印象である。その結果、一時はCO2温暖化説を否定することが悪徳であるかのような気風さえ醸し出されていた。

同じような現象が放射線問題でも出てきている。医学は元々、当為に関わる倫理的な要素に支配される。低線量の放射線リスクにしきい値があるという主張をすると、それだけで倫理にもとると受け取られかねない雰囲気が醸しだされている。

古くはマルサスの人口論が非人間的で非道徳的だという理由で非難されていたことがある。科学(技術ではない)と道徳を一緒くたにして議論をしてしまうイデオロギーの可笑しさ。そこに技術も加わる。

以上のような現状を見ると、梅棹忠夫が専門学者、あるいは科学者として、純粋に知的興味を動機として研究活動を行うことに強い意志とこだわりを持っていたことに、非常に重要な意味があるのではないかと思う。


【学問は最高の道楽―梅棹忠夫】

昨年出版された「梅棹忠夫語る」の第六章は「学問は最高の道楽である」という表題が付けられ、実際にその通りの意見が語られている。ポイントは、「学問は道楽である」ではなく「学問は最高の道楽である」ということである、つまり「最高の」が付けられていることは重要であると思う。いまそこまで意味を深く詮索する必要もないが、道楽としての学問がその純粋性を保証している面がある。

そのような純粋に知的興味から行う学問は、直接には社会に何ももたらさないように見える。またそう思われやすい。しかし芸術や芸能と同様、そういうものは人々の心を豊かにする上で不可欠のものである。梅棹忠夫が博物館づくりに奔走したのもそういう意味でのことであったように思われる。


筆者にとって梅棹忠夫の最大の功績と映るものは、「学問とは最高の道楽である」という生き方を、身をもって示したことにあるのではないかと思う。


【エコロジー思想へのあこがれ】

以上のように、当為の主張、指針を包含したエコロージー思想、運動の中に様々な矛盾と混乱を抱え込んでいることが見て取れるように思う。

しかしこのような現在のエコロジー思想ないし運動が多くの人々の心をとらえていることは重要な事実である。実際、科学と当為が統合されているように見えるエコロジー思想は1つの理想であり、究極の知識と言えるのかも知れない。理想的、究極のそれは人生の指針となり、生きがいとなり、絶望からの救済とも映る。

他方、「学問は最高の道楽」という梅棹忠夫の立場も1つの救済ではないだろうか。道楽は遊びとは少し異なったニュアンスがある。南方熊楠の態度も梅棹忠夫の立場と誓いものであったような気がする。

ところで、道楽とは何だろう?

政治とビジネスに取り込まれた科学

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DATE: 04/29/2011 21:03:27
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今日、大型書店内の科学書籍の売り場を見回して気付いたことだが、「物理学」や「生物学」などは伝統に従って以前のように分類されているのだが、なぜか「環境」という分野がいやに幅をきかせている。そこではいまだにCO2温暖化説の新刊書が溢れている。「環境」という分類の他に「農業・環境」という分類もある。こういうのは単に「農学」でいいのではないか。なぜわざわざ「環境」をつける必要がある?それに比べて地球科学系の分野は「宇宙・気象」という分類の配下の小項目として地学と地球化学があるのみで地球化学も地質学もない。普通に自然を尊重する立場からの感覚では「宇宙・地球科学」とでも題した分類の配下に、気象学も入るのではないかと思われるのだが。

あまりにも実用と実利に傾きすぎているのではないかという印象。もとより人間生活を離れた純粋な自然科学というのもあり得ないにしても、こういった傾向は今のあまりにも政治とビジネスに取り込まれてしまった科学の現状を示しているのではないかという印象を受ける。

機械工学や電気工学は早くから工学として自然科学そのものから分けられてきた。それに比べると現今の自然科学における「環境」ののさばり方には辟易するものを感じる。まだ少し前はこの種の分野は「環境工学」として工学分野に入れられていたのではないだろうか。現今では工学よりもむしろビジネスと政治に傾いてきた結果、工学から離れてきたのだろうか。それならばこの種のものはビジネス書と政治書の棚に入れてしまえば良いのではないか。

自然を愛し、自然を科学したいのであれば地球科学を学び研究すればよい。地球科学にもいろいろ分野がある。地球物理学、地球化学、地質学、気象学、等々。

環境という言葉は人間中心の不純な概念であることに気付くべきではないだろうか。環境の科学は勿論大切なことである。しかし環境と言う概念は自然とも地球とも全くことなること、エコロジーとも全く異なること、この辺の整理がなければ今後のの科学の真の発展はないのではないかと思えるのだが。

なぜ「リテラシー」という言葉が良くないのか

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DATE: 04/01/2011 10:45:04
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これまで、どれだけの人たちの目に止まったかは分からないが、ツイッターで何度か、リテラシー、特になんとかリテラシーという言葉が嫌だということを衝動的につぶやいた。はっきりとなぜ嫌なのかということを言えなかったのだが、今日、はっきりとそういえる理由に気がついた。ひと一言で言って、この言葉は境界を引くことができないところ、引いてはいけないところに境界を引くから良くないのである。

本来の識字能力という意味で使われる限りはそんなに問題はないとは思うけれども、この意味でも本来は文盲と識字者の間にはっきりした境界を引くことはできない筈である。日本語の場合、何千という漢字をすべて読み書きできなければ文盲であるなどと言うことはできないだろう。しかし平かなを読み書きできるというだけではあまり役に立たず、本当に文字を知っているとは言えない。また文字を知っているだけで意味がわからなければ本当に読み書きできるともいえない。しかし一応、日本語の場合は義務教育で習う程度の言葉を知っていればリテラシーがあるという程度で合意が出来ているのだろうと思う。これが一種の比喩と言えると思うのだが、他の問題に用いれれて「なんとかリテラシー」という表現で用いられることになると、その境界を引くところというのが全く恣意的であり、発言する本人自信が分かっているかどうかさえ疑わしい。

とくに科学リテラシーという表現がよく使われるが、こういう言葉を使う人は自らや科学のどれだけの分野でどれほど深い知識をもっているか、そしてそのことを自覚しているか、そしてどういう基準でリテラシーの境界を引いているのかをはっきりと表現できるのであろうか。

これは科学と疑似科学という区別についても同様である。この種の論争では多くの場合、互いに相手の方を疑似科学だと言って非難しあうことで落ち着くことになる。売り言葉に買い言葉であるから、私は買い言葉を使う側に同情するが。
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追記

あるいは、リテラシーという言葉は権威によって与えられた一種の免許のような役割を果たすような面があるとも言える。免許を与えられた人と免許のない人を固定的に差別化するような役割といえよう。

免許や資格は確かに必要な場合があることは否定出来ない。運転免許にしても調理師の免許にしても、もちろん医師免許や法律関係の資格など多種多様であり、いずれも必要なものであろうが、弊害もあることは否定出来ない。いずれにしても明確な基準があり、試験を経てのことである。無前提の純粋な議論の場にそのような免許の必要はない。ただその場における論理的で明晰な思考と議論が必要なだけである。

リテラシーという語を使わずに、例えば「知識」という平凡な言葉を使ってもなんの問題もないばかりか、よほど正確に表現することができるのである。「知識」といえばそこには様々な度合いがあり、多種多様な含みがあることがわかるが、「リテラシー」といえば免許か資格のように固定した、こわばったものに置き換えられてしまうのである。

『眼の誕生 ― カンブリア紀大進化の謎を解く』 を読んで

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DATE: 02/18/2011 21:47:22
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この記事は筆者の別ブログ「発見の発見」の方に掲載しました。

「眼の誕生 ― カンブリア紀大進化の謎を解く」を読んで

2009年12月20日日曜日

地球温暖化問題の個人的重圧 ― 前回に続いて

要するに科学上の問題も政治的な問題と同じようなプロセスで決められているという事なのである。しかし、形式的には、科学理論の決定に多数決のような民主主義的ルールは通用しない。そこで拠り所となるのが権威と専門性なのだ。


前回の冒頭で述べた前提を繰り返すと、例外はあるにしても、科学的権威、政治的権威、宗教的権威がことごとくCO2原因温暖仮説を支持していることからくる思想的重圧がある。

しかし、CO2という言葉と概念、温室効果という言葉と概念、これらによって表現されているCO2原因による地球温暖化説それ自体は、自然科学上の理論であって、したがって形式上、責任を持つのはこれら諸々の権威の中で、科学的権威だということになる。

それで、政治的権威、宗教的権威も専門性の尊重という原則にのっとって科学的権威に従っているというのが形式上、言えることなのだと思われる。ただし、そこに政治的権威にしても宗教的権威にしても、自分たちの意図と目的、あるいは思想に合致している、あるいは合致させられるように見えるからこそ、この問題に関しては、科学的権威を尊重しているともいえる。これは形式上あるいは見かけ上ということであって、政治的権威と科学的権威との関係では、実際のところいずれが主導権をもっているとも言えない面があるのかもしれない。他方、宗教的権威はともすれば科学的権威とは対立しがちであることを思えば、なおさらこのことが言える。

政治的権威については、これ以上考える材料や見識を私は持たないが、宗教的権威がこの問題でCO2原因説を受け入れるのはある意味で自然、やむを得ないような面があると思う。というのも、それは倫理観の問題ともいえるからである。

CO2原因温暖化説というのは平たく言って因果応報の思想に合っている。因果応報というと仏教的な感じがするが、この思想は殆どあらゆる宗教に共通するものだと思う。宗教を離れた直感的な倫理観にもあるといえる。自業自得とか、天に向かってつばを吐く行為、とか、必ずしも宗教とは関わり無く使われる表現である。この、いろいろな表現やニュアンスの違いはあるものの、端的にいって因果応報の思想が多くの倫理的な権威をCO2原因説に傾かせるものなのだと思う。

ところが、CO2原因による地球温暖化の理論自体はあくまで自然科学の理論であって、政治でも宗教でもない。

しかし以上のような因果応報的な倫理観は宗教的権威や倫理学者だけではなく社会科学や政治的学的な権威にも潜在しているのではないか。そしてそれは科学的社会主義といわれる共産主義、マルクスレーニン主義にもあるのではないかと思うのである。

科学的社会主義、あるいはマルクスレーニン主義系の政党や団体は、科学を信奉する一方で非常に倫理に厳しいところがある。そこから多くの過激派や毛沢東主義などを生み出してきた。そういう倫理性はどこに由来するのか、それは外から見ると謎のようなところがある。もちろん、現実には人の心の問題であり、心理的なものに由来しているのに違いは無いのだが、理論上、科学的社会主義者は、それを唯物論の基盤で説明しなければならないのである。そして左翼過激派を含めた共産主義政党などでは倫理も唯物論に由来すると思っているふしがある。そこに欺瞞性、自己欺瞞性があるように思われる。

地球温暖化問題から、このようなことも少し見えてきたような気がする。

2009年12月16日水曜日

地球温暖化問題の個人的重圧

私は社会的には地球温暖化問題からは何の重圧も受ける立場にはない。専門的にそのような問題と関わる研究者ではないし、政治、経済的に多少とも責任ある立場にいるわけでもない。利権などはもちろん、単に職業的にでもエネルギー産業に関わっているわけでもない。それでも個人的に、地球温暖化問題の重圧は非常に大きいのである。重圧というのは不適当かもしれない。それよりも悩みか憂い、あるいは単に気がかりとでも言っておくべきか?しかしやはり、重くのしかかってくる問題なので重圧というほかはないのである。

このように特に責任ある如何なる立場にあるわけでもないが、ただ、別のブログ、発見の[発見」で一昨年からこの問題を可成りの回数、取り上げてきた。それは、そのブログでは幾つかの科学ニュースサイトの記事からテーマを見つけてきたので、必然的にこの問題をもかなりの頻度で取り上げる事になった。そういう行きがかり上からも多少はこの問題を考え続ける責任を感じてもおかしくはないと勝手に思っているという事もある。

その、「発見の発見」の方で、そしてこちらでも書いてきたように、個人的には、前世紀末にピークを迎えた地球温暖化の主要な原因は太陽活動にあるという説が正しいことに確信を持っている。一方、この問題では、今さら言うまでもなく、組織、個人を問わず権威筋の方ではことごとくCO2原因説を支持している。政治的権威、学問的権威だけではなく、宗教的権威でもその傾向が有る。古い言い方をすれば、聖俗を問わず、権威筋はCO2原因説を支持しているようなのだ。そういう中で最近、権威筋の代表とも言うべき人物がこの問題を解説しているインターネット動画を2本見る機会があった。一方は下記リンク、日本の外務副大臣でこの問題を直接担当している福山副大臣へのインタビュー。
http://www.videonews.com/asx/marugeki_free/447/marugeki447-1_300.asx
もう一方は下記リンク、名古屋大学大学院の春名幹男教授の解説。
政府関係ではないが政治や報道関係の大学院教授だから、この問題でも権威者に間違いはないだろう。

この権威者2人の温暖化問題に対する解説には共通する部分と異なる部分とがある。共通する部分としては、まず、CO2による温暖化説への「懐疑論」について一定の言及をしている事が上げられる。そして「懐疑論」が存在していること自体は認めているが、その「懐疑論」の内容の当否、内容に対する個人的な判断は全くしていないという事である。つまり、科学的には、あるいは地球温暖化という自然現象そのものについては、実際にはどうか分からないが、少なくとも建前上、自分自身では考えることも判断する事も停止している。つまり語ることを避け、無視しているという事である。この点で2人は共通しているのだが、違いもある。

福山副大臣の方は、国連IPCC科学者の合意が世界の専門科学者の合意であり、現在それを正しいと見なすしかないという立場であるのに対し、春名教授の方は、エネルギー利権による対立という構造を持ち出している。IPCC側すなわち主流のCO2温暖化説の方は石油石炭以外の新エネルギー開発を指向する利権側を代表しているのに対し、CO2懐疑説の方は石油利権側を代表しているというわけである。そういう事であるなら、なおさら自分自身でどちらが正しいのかを、つまり太陽活動説とCO2説のどちらが真実に近いのかを自分自身で調査し、判断すべきではないのか?と個人的には思えるのだが、教授はそれをしない。少なくともこの場面ではしない。春名教授はもっぱら政治的な判断でCO2温暖化説を採る方を得策とし、それを支持する。

政治的な判断が科学的な真偽の判定に優先するということは確かに解る。それは宗教や倫理と同じ事だろう。恐らく上記の2人とも政治的な判断でそうしているのだろうと思う。しかしそうではない、という可能性もないといえない。そうであるとすれば、つまり科学的な、この場合は自然現象の解釈や理論に対する判断を避けることの理由が政治的あるいは倫理的、宗教的なものではないとすれば、考えられる理由としては、単なる怠慢と無責任、あるいは無能としか考えられないのではないかという考え方も出来る。

もちろん、他にも多忙とか、そこまで立ち入ることの効率性とか、重要性の認識というものがあるだろう。多忙でそういう専門外の問題にまで立ち入る時間がないとか、そこまで自分が時間をかけて追求するに値しない。専門外のことは専門家に任せておけばよいというわけである。

しかしこの問題に限ってはそういう議論は成り立たないだろう。問題はあまりにも重大である。というのも、IPCCなどのCO2原因論者の説明を信じるとすれば、これは他人任せにするにはあまりにも重大である。なにしろIPCC報告の理屈を信じるならば、それは人類の存亡に関わる重大問題であるからだ。そしてこの問題を本当に自分自身の頭で考え、判断することは素人にもそんなに困難なことではない。もちろん、最初から研究者として調査研究を始めることなどは問題にならないが、CO2主因説をとらない誠実な専門科学者が素人に理解できるように語っている資料はいくらでもある。そういった専門学者は政府や政治家が呼べば、あるいは権威のある評論家が訪問すれば喜んで説明に応じるだろう。インターネットで世界各地から資料を集めることができるし、気象庁のホームページで公開されている資料、データだけでも可成りの事が分かる。逆に困難な面があるとすれば専門家にとっても困難である。これは特定の専門分野だけの問題ではないからである。

CO2原因説側に立てばそれほどまでに重大なこの問題を、そこまで自分自身で追求する気持ちがないとすれば、そして単なる怠慢、無責任、無能ではないのだとすれば、内心ではそれほどの重要性を認めていない、すなわちCO2原因説を内心では信じていないという可能性が十分に考えられる。内心というよりも無意識という可能性も考えられる。自己欺瞞の1つのあり方とも考えられる。

そこで気になるのは、共産党ではこの問題をどう考えているのかという事だ。共産党は上述の2者のように政府筋でもなく、学者、評論家でもなく、野党のひとつであり、立場が多少異なっている。またイデオロギー政党であり、科学的社会主義を標榜している。とにかく科学、科学を尊重することにかけては最高権威を自任するところのひとつである。前委員長、現委員長、共に東大の物理系出身であり、一般党員にも各種専門の自然科学者を多く抱えていると思われる。

そこで共産党関係のホームページを調べてみる。不破元委員長については新聞記事か何かで、CO2原因説を確信をもって主張されていた記憶があり、だいたい党としても同じようなものだろうと思われるが、やはり予想通りである。

党中央委員会のホームページでは、科学上のCO2原因説そのものについての言及は無いが、政策として温室効果ガス排出量を1990年比で30%削減することを求めている。CO2削減要求が必ずしもCO2原因説と一致する訳ではないが、ここまで要求すると言う事はCO2原因説を根拠にしていることに間違いないだろう。実際IPCCの予測を信じ、それを根拠に対策を講じなければならないとすればこの位は必要な事かも知れない。そういう意味では誠実だと言えるかも知れない。しかし現実にそれ程の危機感をもっているとも思えないが。

また「しんぶん赤旗」の科学記事紹介を見ると、「太古の地球を暖めていた超温室効果ガス(10月4日付)」「温暖化で始まる両生類の産卵時期(8月30日付)」、といった見出しの紹介ページがある。

一般に科学、科学、と科学という言葉を多用し、何かと言えば科学を権威の拠り所とし、科学を盾とし、科学を宣伝、喧伝する、端的に言えば科学信仰者、科学喧伝者がCO2原因温暖化説を支持する傾向が強いことは言えるようである。逆にCO2原因温暖化説の喧伝者も科学という言葉を多用し、何かと言えば科学を盾に持ち出してくる。今流行のニセ科学という言葉も、そしてニセ科学批判もCO2原因温暖化説の喧伝者が発祥ではないにしても主要な普及元ではないかと思える節がある。そこを「温暖化懐疑主義者」が逆手にとって、CO2原因温暖化説が逆にニセ科学と呼ばれるようになったようだ。

こうしてみると、こういう科学信仰者、科学信仰的イデオロギーの見据える科学とは何かイメージ的なもの、幻想のようなものではないかとも思えるのである。

だが私は、物理学者であった不破前委員長にしても志位現委員長にしても、ご本人自身で本当に先入観なしに信頼できる地球科学者の太陽活動主因説論者の説明と、例えばIPCC報告書におけるCO2主因説とを比較検討されたならば、太陽活動主因説の正しさとCO2主因説のいい加減さに気付かないはずは無いと確信するものである。そうならないとすれば、あるいはそれをされないとすれば、そこに怠慢、無責任、あるいは自己欺瞞、あるいは先入観、偏見、思い込み、幻想、予断があるとしか思えない。

もちろん、共産党にも政治的な判断で科学的に基づいた論理を犠牲にする場合もあり得るだろう。


しかし・・・、政治的な判断に未来の予測は不可欠である。そして地球温暖化は、多少は人間活動の影響による可能性があるとしても、それ自体は自然現象である。そしてCO2原因温暖化説の科学者達は今後数年間の気温と大気中CO2濃度の推移をどのように予測しているのであろうか。そしてそのデータにどのように対応するのであろうか、ということが今一番気になることである。

気象庁のホームページでは日本で観測している年平均データを公開している。もちろん諸外国でも公開している。とりあえず気象庁による日本のデータが下記からアクセスする事ができる。

これに関しては次の、ブログ・発見の「発見」の2回の記事で触れている。

気温については、2000年以降、上昇が止まっていることはすでに世界的にも色んなところで言及されていることもあり、そのとおりであることが分かる。そして今年途中までのデータは、今にもシミュレーションの範囲から外れそうな位置にある。温度については、これまでのデータからも、多少の上下の振れは見ることができるから、たとえシミュレーションから外れてもごく一時的な現象ですぐに上昇に転じるという見方もできるかも知れない。しかしCO2濃度になるとどうであろうか。これまで、何十年にもわたって一貫して上昇を続けてきたCO2の年平均濃度の上昇が止まるとか、減少に転じるようなことがあればどうなることだろうか。

CO2濃度が減少に転ずるような事があれば、気温のデータ以上にCO2原因温暖化説にとって深刻な脅威になることは間違いが無い。そうなれば、大気中CO2濃度が人為的なCO2排出による要因を遙かに超えて気温と海水温の要因に依存していること、大気中CO2濃度が温暖化の原因である程度を遙かに超えて温暖化の結果であったことが証明されることになる。

ただ気温の傾向については素人でも、自分の生活している地域に関してに限られるが、ある程度は感覚的に掴むことができるのに対し、CO2濃度に関しては、こういう所のデータに頼る以外に手段がない。それでCO2濃度の変化に関しては、一般人に対しては目立たない可能性がある。とにかく、正しいデータが公開され続けることだけは保証されなければならないと思う。

一方、以上の問題は科学の本質にも関わる「専門性」という問題に行き着く。これは実は科学と言うより、学問一般の専門性の問題と言うべきだと思うけれども、科学とは何かという問題とも深く関わるところの、専門性とは何かという問題である。これは民主主義といった社会制度にも関わる、現代人に課せられた最大の問題のひとつなのだと思う。

2009年12月3日木曜日

カッシーラー、「シンボル形式の哲学第三巻認識の現象学」を読み終えて

いつ、つまり何年何月何日何時何分に、というわけでも無く、この書物を一応読み終わった。と、こういう表現になるのは、最後のあたり、もちろん完全にというわけには行かないが、一応読み終わったと納得できるように読了したいと思いながら、途中で少し前の方に戻ったり、とりあえず最後までざっと読んでみたりの繰り返しで、何ともメリハリのつかない読了という事になったわけである。

こういう本は少なくとももう一度、第一巻から読みなおし、各章節の要約でも作りながらでもないと、一瞬頭に入った内容も直ぐに雲散してしまう。

しかしまあ、昨年10月に第一巻を読み始めてから1年と少しでとにかく最後まで読了した。今の段階で第一巻「言語」および第二巻「神話的思考」とこの第三巻「認識の現象学」とを比べてみると、解説でもこの第三巻が「全巻のクライマックス」と述べられていることからも分かるように、第一巻、第二巻とは異なった手応えがある。例えば、全巻を通じて古代から現代に至るまでの哲学者、科学者からの非常に多くの引用があるが、第一巻、第二巻では引用の仕方が比較的断片的であった。もちろん、本の記述自体が断片的というわけではなく哲学者達の引用が断片的という意味である。

この第三巻の場合、引用はその場限りの断片的な引用と言うよりも、それぞれの哲学者や数学者、科学者の思想全体あるいは核心が引用されているといえる。具体的には、特にデカルト、ライプニッツ、カント、ラッセル、あとは多数の数学者達と科学者達である。ただし科学者の場合、その人の哲学というよりもその重要な業績に関わる場合と、その哲学思想に関わる場合とに分かれる。どちらかというと哲学者として引用されている科学者はヘルムホルツとヘルツ、その科学的業績について引用されている代表はアインシュタインという事になるだろうか。数学者の場合は数学基礎論関係ということになる。

というわけで、この第三巻に関しては特に引用されている学者達の業績に精通していることが前提となることが分かるが、もちろん私にはそういう事は望めない。できれば逆にさかのぼってそれらの一つでも勉強してみたいと思う。

とりあえず、最後の方で、この本の一つの要約となっているように思われた箇所をメモしておきたい。もちろん、それでこの本全体の構造が読み取れるわけでも無く、単に最も重要な帰結の一つと思われるだけだが。

「こうして物理学は、〈表示〉の領域、いやそれどころか表示可能性の領域一般をさえ決定的に放棄してしまい、抽象の領野に踏み込むことになった。イメージによる図式機能が、原理によるシンボル機能にその座を明け渡すことになったのだ。むろん現代の物理学理論の経験的起源は、この洞察によって少しも侵害されはしない。だが、いまや物理学は、もはや内容をもった現実としての存在者を直接取り扱うことはせず、それが扱うのはその〈構造〉、その形式的な仕組みなのである。統一化への傾向が、直感化への傾斜に対して勝利をおさめた。」


カッシーラーのこの仕事が科学史、科学思想にとって非常に重要なものであることは間違いが無いように思われるが、それにしては現在、科学思想的な文脈でカッシーラーの名前を聞くことが少ないのはなぜなのかという疑問が起きる。もちろん私自身はその方面で研究してきたわけでもなく多くの書物を読んで来たわけでもないが、例えば現在流行している疑似科学論議では、カッシーラーへの言及はあまり見ないのである。

例えばウィキペディアは、現在主流というか、少なくとも流行している思想を多少とも反映しているに違いないと思われるけれども、たとえばよく聞く「科学哲学」を調べてみても主要哲学者のリストにカッシーラーの名前がない。また英語版で「Scientific philosophy」を引くと「Experimental philosophy」に転送される。こういう言葉は知らなかったが、哲学の対象と言うよりも方法の意味で科学的という事らしい。ここにもカッシーラーの名はありそうにもないが、一方で「Philosophy of science」という項目がある。この項目に載せられている哲学者のリストにも、カッシーラーの名前は見あたらない。どうしてこういう事になっているのかについて、非常に興味が持たれるところである。ユダヤ人であるカッシーラーはアメリカに亡命し、そこでこの書物の英語版を出すことを懇請され、その代わりに「人間についてのエッセー」を書いたという事である。この本は私が過去に読んだ数少ない、哲学書の一つだった。というように、カッシーラーの世界的な名声が低いというわけではなさそうに思う。このこと、つまり科学思想との関わりであまりカッシーラーに関心が向けられることが少ないということ自体になにか重要な意味がありそうな気がするのである。

しかし、ネットで検索すると、マルクス主義哲学者として有名な戸坂潤の「科学論」でカッシーラーが言及されている事が分かった。これは青空文庫で公開されていた。全文は読んでいないが、その言及されている箇所は次のような文脈である。

「 さてこの自然科学の特徴に就いては、ありと凡ゆる説明が与えられている。例えば研究方法が精密であるとか数学が充分に応用され得るとか、又は法則を発見して事象の一般化を行い得るとか、というのが現在の「科学論」の代表的な諸見解である。特に科学論に就いて功績の少くない新カント学派の例を取れば、H・コーエンや、P・ナトルプや、E・カッシーラーが前者であり、W・ヴィンデルバントや、H・リッケルト等が後者であることは、広く知られている。」
「だが独りカッシーラーに限らず、H・コーエンもP・ナトルプも、彼等自身、文化の科学に就いての見解は決して卓越したものではない。少くとも彼等の自然科学、特に精密自然科学、の科学性を科学一般のイデーにまで押し及ぼそうとする立場からは、リッケルトが文化科学を文化価値に関係づけようとした意図は、決して理解されないし、まして征服され得ないだろう。」

どうやら、ここで戸坂潤はカッシーラーが科学を自然科学としてしか捉えていないことに不満を持ち、自然科学を超えた科学一般として扱っていないことを欠点と見ていることが分かる。ただ、ここでは「シンボル形式の哲学」という書名への言及はなく、カッシーラーのそれ以前の書物に基づいているのではないかとも思われる。私は戸坂潤のこの文章全体はまだ読んでいないし、理解できるかどうか分からないし、リッケルトの思想についてもまったく知らない。しかし、逆にこのことがマルクス主義を含む現代思想の多くに見られる科学思想の欠陥というか誤りにつながっているのではないかという疑いを持つのである。

究極としての物理学を一つの専門とする自然科学をさらに超えた科学一般というものがあり、そちらの方をより一般的で基本的な科学であるとするような考え方が、現在主流であるように思われる。どうもそこら辺に現代思想の重要な問題があるのではないかという気がするのである。もちろん自然科学とそれ以外の社会科学とか人文科学とかを含めた科学一般というものが何らかの形で存在することには間違いようが無いし、追求に値するものに違いはない。しかし一面で、それがより一般的であるにしても、重要さという点で、そちらの方に分があるとは思えない。それはあくまで一面であり、多分に幻想を含んでいると言っても良いのでは無いかと思う。

こういう点で私はこの難しいカッシーラーの思想に引かれるのである。

*書名:シンボル形式の哲学(四)、第三巻、認識の現象学、カッシーラー著、木田元訳




2009年5月4日月曜日

科学と論理と「陰謀論」、そして専門性

陰謀論という言葉が最近特に目に付くようになっている。私自身も最近、ブログで使ってしまったが、よく考えると変な言葉、少なくとも、注意して用いなければならない種類の言葉で、事実、ブログなどではそのような、この言葉を使うことへの批判的な論調も少なからず見うけられ、それは正当なことのように思われる。

だいたい「何々論」という表現自体が問題を含んだ表現である。「論」という言葉が、非常に具体的なものから最高度に抽象的な意味にまで使われるからでもあろうか。少なくとも状況によって幾つかの言葉に置き換えることができるだろうと思われる。たとえば「何々説」といった方が適当と思われる場合もあり、「何々理論」といって良い場合もあり、あるいは「何々を論ず」、あるいは「何々を批評する」、または「何々研究」、あるいは「何々の考察」とでもいうべき場合もあるだろうと思う。

「何々論」という場合に、以上の中でもっとも近いと感じられるものは「何々を論ず」という意味で使われる場合だろう。この場合は普通、具体的な特定の対象に対して用いられる場合が多い。とくに有名な人物などに用いられる場合が多く、例えば「夏目漱石論」とか、今話題の政治家などでは「小沢一郎論」とかいう場合である。この場合は分かりやすい。この種の受け取り方でいえば、「陰謀論」も「陰謀」という言葉あるいは概念のついての意味的な考察か、陰謀一般についての考察または論考と考えるのが自然なのであるが、現在流通している「陰謀論」はそうではなく、どちらかといえば「陰謀説」といった方がまだ正確なのではないかと思えるようなものである。

簡単に言えば特定の、あるいは一般的に、政治的に重要な意味を持つ事件が陰謀によって起こされているものと推論したり、想像したりすることを「陰謀論」といっているように思われる。

問題なのは、陰謀論というだけでは陰謀で説明していると言うだけであって、それが単なる想像や妄想によって結論づけているのか、科学的に説明できる根拠による論証によるものか、どちらをも意味しないか両者を意味するとも言えることである。

しかし今流行している用い方によれば、ある特定の陰謀説とでも呼ぶべき言説を、「それは陰謀論だ!」という事によって、それは想像もしくは妄想、あるいはねつ造による陰謀説であるものと断定して非難するような仕方で用いられている。これはおかしな話であり、少なくとも論理的ではない。こういう論法は英語でいう Sweeping generalization と呼ぶものに近いものがある。

どうやらこういう「陰謀論」の用法は「ニセ科学」で有名な阪大の菊池誠教授の影響が大きい可能性がある。というのも以前、教授のブログで陰謀論のスレッドを見たことがあったからである。その時は少々驚いた。「ニセ科学」論議も反感を感じさせるものであったが、このようなことまで「ニセ科学」と殆ど同じような調子、論法で扱っているのにちょっと呆れてしまったのを覚えている。

それまで菊池教授については、「ニセ科学」を糾弾するNHKのテレビ番組の録画がインターネット上に流布しているのを友人に教えられて見たことがあるのみだった。おそらくブログなどをも書いておられるのだろうとは思ったけれども特に探して見ることもなかったのだが、ある時期にそのブログを拝見したところ、ちょうど「911陰謀論」でコメントによる論戦が華やかに展開されているときだった。今もう一度みてみると、昨年の10月になる。その頃まではあまり「陰謀論」という言葉は聞かなかったような気がする。もちろん、世界の歴史が何ものかの陰謀によって繰られているという言説や書物を問題視するような記事が時々、新聞などに現れていたことは知っている。

今あらためて教授のブログの、それらの記事を見ると、問題の記事は「911陰謀論」というカテゴリーで、その上位カテゴリーとして「陰謀論」というカテゴリーが立てられており、内容のどの部分でも「陰謀論」が盛んに用いられている。はっきり言って、科学者らしい論理的な文章とは思われない。たとえば次の簡単な表現から端的にそれが見て取れる。

「アメリカが嫌い」だからといって、アポロや911を陰謀だの捏造だのと言うのは間違いです。
「中国が嫌い」だからといって、神舟を捏造だと言うのは間違いです。』(2008/10/03

形式論理的にどうこう言うのではなく、意味的にあまりに粗雑だと思うのである。「嫌い」という言葉を始めすべての言葉の意味を固定的に考えている。

そもそもアポロや911を陰謀だという人たちがアメリカそのものを嫌っているといえるのかどうかが疑わしいが、仮に嫌っているとしても、それには理由があると考えるのが普通であるか、考え深いというものであろう。またアポロと911とを何の根拠があって一緒に扱っているのかも分からない。

彼らがアメリカが嫌いになったのはアポロあるいは911を陰謀だと確信するようになったからかも知れない。そういう可能性もないとは言えないはずである。

あるいはアメリカが嫌いになった理由に、そのような陰謀を疑う根拠となるようなものがあったのかも知れない。

難しい専門分野で業績をあげているはずの大学教授が何故このような粗雑な論理を用いるのかと考えることは興味深い事である。

だいたい専門用語というのは、特定の用語の意味を非常に限定した意味で固定的に使うものであるということはできるだろう。

たとえば「力」は、物理学では事実上、数式で定義されているとも言える。日常的につかわれている「力」はそれよりも遙かに多様な意味で使われる。

「力」の場合はあまりにもよく使われる言葉だからそれ程問題になるようなこともないかも知れない。しかし、専門分野で特殊に限定された意味で用いられる専門用語を形式的に数式に代入し、固定的に、形式論理的にのみ扱うことに慣れてしまうと専門外の、多様で重層的でもあり、深い意味を持ちうる言葉をも、単なる記号として固定的に扱うようになるのかも知れないと思えるのである。