2017年10月10日火曜日

虚像(光学的)の一人歩き(「鏡像の意味論」番外編)

岩波理化学辞典には「像(image)」の項目で実像と虚像の区別が定義されている。それによれば「光学系を通過した光線が実際に像点を通過する場合」が実像で、「光線を逆向きに延長したものが像点を通る場合には虚像という」、とされている。ウィキペディアには「虚像」の項目があり、同じような定義が説明されている。またこちらには「レンズの公式」という項目がリンクされていて、それによれば虚像の場合は、実像の場合には正数で表される特定の値を負数で表すことで、同じ公式で表現できると説明されている。鏡像問題で散々、いろいろと思案を重ねてきたいま、改めてこのような定義を見てみると、幾何光学というものは事実上は良くも悪くも科学であるというよりは技術であるという現実に直面せざるを得なくなる。

端的に言って、上記の定義では眼、具体的にいえば眼球の存在が抜け落ちている。実際、虚像でもレンズ系の作る虚像の場合、多少ともまともな説明では眼球と水晶体が描かれている。つまり眼球内にフォーカスする実像なしに虚像はあり得ないのである。だから、眼球の役割を除外した虚像の定義は科学的には明らかに欠陥があるといわざるを得ないと私は思う。ただ技術上の目的には必要はないとはいえる。

一方、同じ虚像である鏡像の場合、少なくとも鏡像問題などの場合に眼そのものは大まかに表現されることはあっても、眼球の構造まで表現されることは恐らく、断言はできないものの、これまでは皆無だったのではなのではないだろうか?

鏡像は普通、虚像という言葉で表現されず、単に鏡像と言われる。ある意味これも当然であって、「鏡像」は単に実際の鏡像を意味するだけではなく、面対称の図形や面対称の構造を持つ物体そのものをも意味することが多く、そういうものは少なくとも光学的な虚像とは言えないからである。しかし困ったことに(と私は考えるのですが)、逆に光学的な虚像であるはずの現実の鏡像の問題においても、単なる面対称の図形や物体の意味での「鏡像」がそのまま逆輸入されることになり、的が外れた単純化や逆に不要な複雑化あるいは錯覚が持ち込まれることも無きにしも非ずではないかと思う。あげくの果ては某最高学府の心理学名誉教授のように、鏡像が鏡の表面にできる平面パターンであると考えて論旨を進めるような理論も出現することになる(必ずしも他人ごととは言えないところが怖い)。

以上は言葉としての「鏡像」の一人歩きと言えよう。ところが、言葉ではなく現実に鏡像としての虚像そのものが一人歩きするところがまた奥深くもあり、面白くもあるところなのである。 この場合の「虚像の一人歩き」は鏡像の観察者の知覚と思考の内部で生じる。簡単に言えば、記憶された鏡像が思考空間の中で操作され、比較されたりすることである。この場合は当人の思考により操作されているわけだから一人歩きというより、歩かされている、あるいは動かされている、というべきかも知れないが、まあ元々一人歩きという擬人化表現を用いる以上、そこまで厳密にいう必要もないだろう。

こう考えてくると、鏡像のみならず、あらゆる像にそれが言えることになる。つまり鏡を介さずに直接に見る像である。なぜなら直接に見る像も鏡像と同様に眼球内に結像する光学的実像に対応する虚像に他ならないからである。要するに普段私たちが見ているもの、言い方を変えると視覚的に近くしている対象は物体そのものではなく鏡像と同様に像なのであり、あらゆる像は虚像に他ならないいことがわかるのである。 


虚像の定義でもう一つ問題というか、注目すべきと思うは、上述のように特定の値を負にすることで実像と同じように扱えるという点である。というのは、特定の値にマイナス記号を付けるだけなのだが、マイナス記号を付けることの意味がマイナス記号の中でいわば全くブラックボックスとなっていることなのである。特定の値につけられたマイナス記号に、マイナス記号だけからは想像も及びもつかない意味が込められていることになる。このマイナス記号に人の眼の構造と機能が込められているともいえるのである。実像の場合は、眼の存在は直接には、少なくとも虚像が関わるような意味では関わらない。実像は写真に固定したり、テレビ画面に映し出したりできるので現実に、あるいは物理的に一人歩きできるともいえる。

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