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2021年11月24日水曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その8 ― 結論の図式化

本シリーズ記事の結論に相当する部分をユーチューブ配信向けに図式化しましたので、3枚の画像として、こちらでも公開します。新しい発見ないし表現も盛り込まれていますので、ぜひご覧ください。ユーチューブでは拙いナレーションで説明していますので、よろしければご覧ください:https://www.youtube.com/watch?v=0NlDAtqu9wg

【概念的分析】

  

【認知機能による考察】



要点は、インターフェースを通じて認知される仮想知能および人工知能というそれぞれの概念は、いずれも思考作用によるものであって、仮想知能と認識されるか、または人工知能と認識されるかの違いは思考力あるいは、思考経路ないしは思考プロセスの差異あるいはレベルによるものであると考えられることです。端的に言えば、人工知能のほうはより単純素朴、あるいは短絡的で、プリミティブともいえる思考回路ではないかと疑われます。




 

2021年11月11日木曜日

名前と概念のどちらが問題なのか? ー 西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その7

前々回、前回と、人工知能(AI)と呼ばれるものは『(機械使用)集合知能』と呼ぶことが相応しいと考える趣旨を述べたけれども、これは単なる呼び名であっていまや『AI』で通用しているところをわざわざこんなまどろっこしい呼び名に言い換える必要がどこにあるのか、という反論がありそうである。しかし、そもそもこのような呼び名は必要があって案出され使われるようになったのであろうか、という疑問を、筆者は最初から持っていた。

例えばAIの主要分野として筆頭に挙げられていたエキスパートシステムの場合、そのまま「エキスパートシステム」と呼び続けて一向に差し支えないし、一般のユーザーにとっては、そもそもそのような名前など必要はない場合も多いのである。先に実例として挙げた「AIの〇〇子さん」という、ウェブ上でユーザーの質問に自動で対応するチャットシステムの場合など、なにもそのような名前を付ける必要はないし、「AIの」と断る必要もない。単に「自動」あるいは「機械」や「ロボット」などの言葉で十分である。ただ、擬人化すると分かりやすいから、回答者らしい人物のイラストを付けるようなことは昔から行われてきた。それで十分ではないか。

という訳で、人工知能、AIという用語は実用上の必要からではなく、あくまでもその概念あるいは理念を追求すると同時に喧伝するために案出され導入されたと考えるべきであろう。この点ではかつての「人工頭脳」も同様である。「人工知能」と「人工頭脳」との違い、関係については、すでに考察したとおり。また概念としては「人工頭脳」の方が自然であり、「人工知能」の方はその理念が破綻しているとの考察は、すでに述べた通りである。

以上のように、その概念を分析して考究すると同時に、その理念を喧伝するという目的で導入された言葉であるからには、その命名は的確でなければならず、単なる日常的、実用的な便利さや手軽さを趣旨とした安易な名付け方であってはならず、その理念が破綻していることが判明したとなれば、もっと的確に概念を表現する言葉を見つける必要がある。それが当面、前回までに提案した集合知能ないしは機械使用集合知能(Machine-aided Artificial Intelligence)という表現に行き着いたわけである。
 
 
以下、前回記事の繰り返しになるが、仮想現実を通じて現実を理解し、研究し、技術開発を進めることが危険なことは、鏡像を例にとってみるだけで明らかになるだろう。すぐわかることは鏡像では鏡像問題として知られるような左右逆転のような現実との差異が生じることである。2枚の鏡で生じている像の場合はそうならないが、それは対象が鏡像であることがわかっている場合の話である。より根本的には、鏡像は虚像(Virtual Image)であり、あくまで視覚的な認知にとどまるものであり、触覚や嗅覚、その他の感覚を必要とするような認知や操作はできないのである。

これは一つの重要な結論ともいえるが、人工知能とされているものを知能という概念の下で考察することは、人物の鏡像を虚像と認識することなく現実の人物として観察し考察し、操作することに等しいか、それに近いのである。機械使用集合知能という概念の下では、いわば虚像(単なる視覚像)という仮想現実に対応する本来の現実に相当する人間の知能、さらには知能に限らす知能を生み出している人間性そのもの、あるいは人間の全体に迫って認識と考察、ひいてはシステム開発の支援を行うことが可能になると思われるのである。

2021年10月25日月曜日

なぜ憂うべきなのか ー 西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その6

 当ブログ前回までの一連記事、西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読、の結論において、人工知能という用語は意味上の自己矛盾をはらんだ用語であり、現実に即した概念を表現するには人工知能(Artificial Intelligence)よりも集合的知能(Collective Intelligence)の方が適切ではないかという結論に至りました。より具体的かつ正確には「Machine aided collective intelligence(訳例:電算機使用集合知能)」の方が適切ではないか、という結論に至ったわけです。そして、最後の個所では、この『人工知能 AI』あるいは『AI 人工知能』という用語がますます広く、特に産業界、技術界で使用されるようになった傾向について憂うべきであると述べました。そこで、その「憂うべきである」と考える理由について、やや詳細に分析してみたいと思います。

アクロニム(頭字語、略語)による分析

人工知能は、おそらく英語、日本語、共通して英語のアクロニム(頭字語、略語)であるAIで表現されるようになっている。一般にアクロニムによる表現には問題が多いが、同様に大いに問題性が感ぜられる最近の用語PCRと比較してみることは興味深く、参考になる。PCRというのは辞書的に「ポリメラーゼ連鎖反応」の略であることがわかるが、この言葉は最初からPCRが何を意味することなど、一切説明することなく新型コロナの感染を診断する試験方法としてマスコミや広報機関やネット空間を含めたジャーナリスト、文化人の報道や発言で紹介され、使われ始めた。その後、もう2年以上にもなるが、いまだにマスコミでPCRが何を意味するかが説明されるのを聞いたことがない。はっきり言って私には、聴き手を馬鹿にした話だと思われたが、視聴者側から「PCRってどういう意味なの?」という疑問が呈されることもほとんどなかったようだ。友人などにそのことを訴えても大抵の場合は「普通の人がそんなことまで知る必要はないさ」といわれるのが落ちである。考えられる一つの理由は、この言葉は「PCR検査」というように「検査」が付いた熟語になっていることだ。「検査」が付いていることで、何らかの検査であることがわかり、新型コロナ感染の文脈で使われる以上、新型コロナ感染を検査する検査方法であると理解され、それより先は素人が知る必要のないことのように思われるからである。別の観点からは、この言葉は固有名詞的に響くともいえる(実際には固有名詞ではないが)。普通、固有名詞の持つ本来の意味などは詮索する必要もないと思われている。しかし略語である以上、本来どのような意味なのかを知る必要を感じるのが、自分の頭でものを考える人というものだろう。という次第で、この例の場合、アクロニムは一部の人に思考停止をさせる効果があるともいえる。

一方の「AI」であるが、この略語が使われ、一般的になった経緯はPCRとはかなり異なっている。AIの場合、マスコミなどで使われる場合は未だに「人工知能」というカッコ内説明付きで語られる場合が多い。この言葉はPCRの場合とは異なり、もともと日本語では人工知能という、明確に一定の概念を表現するとみられる言葉として紹介されてきたのであり、特に頻繁に使用され始めたころから英語のArtificial Intelligenceの略語の「AI」が使われるようになったが、いまだに「(人工知能)」という注釈付きで用いられることが多いのである。その一つの理由として、こちらはPCRとは違い、固有名詞的に響かないことが挙げられる。むしろ、文脈上から固有名詞ではありえないような状況で使われることの方が多い。理由が何であれ、この言葉の発信側も受け取り側も共に言葉の意味、概念にこだわり続けているといえる。

PCRの場合は、端的に言って意味の重要性がはぐらかされているともいえるのだが、AIの場合、意味の重要性はむしろ強調されているように見える。それだけに、その意味自体に問題があるとすれば、これはこれで、大いに不都合な現実であるといえる。「意味自体に問題」というのは、前回までのシリーズ記事で提起したような、意味的に自己矛盾を抱えた用語である、もっと端的に言って、間違った。不適切な用語であるということである。これは結果的に、受け取り側が誤魔化されていると同時に、発信側も自己欺瞞を抱えている可能性が疑われる。とすれば、そのような状況が生産的であるはずがない。発信側も受け取り側も、常に違和感を抱えながら状況に対処して行かなければならないのである。

このような概念をAIという略語で言い換えることは、元のArtificial Intelligence、人工知能の概念を覆い隠しているということにはならない。ただし、略語ではなく人工知能という場合は常にこの言葉の概念、もしくは理念が想起されるのに対して、AIという場合は、すでに普通名詞的に、場合によっては数詞で数えられるような、すでに具体的に存在する個々のシステムを表すという面が強調されるようになっているのである。ひいては、ロボットの場合がそうであるように固有名詞まで与えられる固有システムを指すようになり、人工知能という理念が存在しうるかどうかという疑問が呈されていたことが忘れ去られる一方で、AIというシニフィアンの一人歩きが始まっているといえる。というよりもむしろ、実質的には本来のシニフィエとは異なる別のシニフィエを担いながら、やはり人工知能という看板を引っ提げているという、落ちつかない状況に陥っているように思われるのである。

擬人化、仮想と人工知能

以上のように、AIという略語が一般的に広がってきた現在、すでに、少なくとも日本では、AIという言葉は人工知能の概念(というより理念というべきか)から解き放たれ、PCやネット端末での特定の機能を表現するために使われる場合も多くなっている。わかりやすい例として、対話型の自動対応機能と呼べるようなものがある。例えば商品説明や質問に自動応答で答えるチャット機能である。筆者が使っているあるクラウドサービスでは、そのようなチャット機能に女性の名前が付けられ、女性職員らしいイラスト付きで提供される(例えば「AIの〇〇子さんがお答えします」といったキャプション付きで)。一言でいえばこれは擬人化的機能と呼ぶべきだろう。振り返ってみると、このようなチャット機能は本書で人工知能の代表的な分野とされた「エキスパートシステム」に該当すると思われる。「エキスパート」とは人物について規定する言葉であり、すでのこの時点でこのようなシステムが擬人化的に表現されていたのである。こうしてみると、人工知能という概念は、コンピュータを使う諸々の機能あるいは用途の中でも擬人化されやすいというか、擬人化表現と馴染みやすい機能あるいは用途について一括して分類するために選択されたというか、案出された概念ではないかと思われるのである。西垣氏が人工知能の3つの代表的なカテゴリーとして挙げたところのエキスパートシステム、自動言語処理システム(翻訳)、および知能ロボット、何れも擬人化表現に馴染みやすい分野である。こうしてみると、そのような擬人化される内容を人工知能と表現する感性はわからないでもない。とはいえ、擬人化されるものは人間でも人間に固有の属性でもない。そうであればこそ擬人化されるのである。擬人化されたものはある意味バーチャル、仮想人間と呼ぶことが出来る。これをバーチャルリアリティつまり仮想現実と考えた場合、仮想現実の内容が現実と取り違えられることがいかに危険なことになりうるか、明らかではないだろうか。例えば鏡像、鏡に映った人物が実際にその位置にいると認識されたり、よくできた人形やロボット、あるいは映像や画像でさえ、本物と間違えられた場合を想像するだけでも良い。初めて鏡に映った人物を見て戸惑った幼児の親は、それが現実ではないことを教えなければならない。別に教えなくとも自分で気づくとしても、それに気づかないままでは生きてゆくことはできない。人工知能という言葉はその正体があいまいにされたままになっているといえる。「人工」という概念には結構あいまいなところがあるが、やはり仮想的な対象は「人工○○」というべきではない。例えば、「人工○○」とは○○が生成されるプロセスが人工的ということであって、○○が偽物である、あるいは仮想的であるということとは全く異なるからである。人工ダイヤモンドはあくまでダイヤモンドであって模造ダイヤでも仮想ダイヤでもないのである。

以上のように、「人工知能」という概念に問題がある、さらに言えば危険でさえあるとすれば別の言葉でいえばバーチャル知能、仮想知能と呼ぶのも一つの解決策であり、それでは人工知能ではなく仮想知能と呼べばよいのではないか、という考え方もできる。それはそれで判りやすく、そのために不都合が生じるわけではないが、少なくとも生産的な表現とまでは言えないように思う。それは、バーチャル、仮想という表現は外面、すなわち見せかけの状態を表現するのみであって、本質を表す概念、ひいては構造を明らかにするものではないからである。

人工知能は一つの概念ないしは理念であるが、擬人化は人の認知プロセスまたは言語表現のプロセスであると言える。この辺りは掘り下げて行くときりがないが、簡単に言って擬人化の場合は現実には人でないものについて語っていることが前提である。一方、人工知能の「人工」は、人間が作り出すという意味であり、単なる認識や表現の問題ではない。先のチャット機能を例にとってみれば、〇〇さんと名付けられた女性はイラストレーターによって描かれたイラストで表現されているだけであり、

「集合的知能」あるいはこれに類する概念と用語を用いることの利点

ここでは、人工知能という用語の問題点をさらに、あるいは具体的にこれ以上あげつらうのではなく、すでに提案した「集合知能」という言葉を使うことでどのような利点が得られるかについて考察してみたいと思う。もっとも集合知能という言い方は簡潔に過ぎ、英語でよく使われるMachine aided、あるいはComputer aidedに相当する修飾語を付けたほうが良いと思うし、ほかにも良い表現があるかもしれないけれども、とりあえずここでは集合知能という簡単な用語で考察を進めたいと思う。

一言でいえば、これにより、「人間の研究」こそが、大切であるということが理解できるということであると思う。当面はエーアイと呼ばれる諸々のシステムの研究開発および利用においても人間の研究こそが、その正しい発展、開発において大切であることがわかるのである。具体的には次の二点に要約できようかと思われる。

  1. 心理学、集団心理学や人間学などの成果をシステムの設計や解析の方法論に取り入れることが可能になる。
  2. 当該分野あるいはカテゴリーの有意義な分類と整理、さらには体系化が可能になる。
総括すると、現在エーアイと呼ばれているものの真に人間的な次元での構造化が可能になり、したがって分析と構成が可能になり、真に精神的な意味で生産的な開発と発展の見通しが得られるようになるのではないだろうか。


2021年10月4日月曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その5 ― 人間と生物、無生物

著者は後半で、バイオコンピュータの可能性について考察を始めるが、私は最初にバイオコンピュータのアイデアが出てきた時点で違和感を持った。それは、一言で表現すれば、生物と無生物を区別する根拠とAIの理念との結びつきに対する違和感というべきかと思う。なぜなら、私はすでにAIの理念そのものが破綻していると考えるものであって、その理由は生物と無生物との違いとは関係がないからであった。バイオコンピュータの可能性について考察している本書のそれ以後の記述については一応、通読はしたが、明確に表現できるような印象と理解を得るに至らなかったものの、上記の違和感あるいは疑念を覆すものではなかった。前回同様、この問題を著者の論旨に沿って考察するには少なくとももう一度、たとえ拾い読みでもする必要があるが、前回記事に書いたように、本書を無くしてしまったのである。ただ、今回はその違和感を掘り下げることで持論を展開してみたいと思う。

上述したように、前回までにAIの理念が破綻していることを述べた根拠は生命現象、生命の概念や生物と無生物の違いなどとは直接関係がなく、むしろ人間性と人間以外の存在との違いまたは関係であるというべきである。最初の根拠は、AIとは、コンピュータその他のハードウェアを「道具として使う」存在である、という著者の一種の定義から、その存在は人間に他ならず、人間以外ではありえないのではないか?という問いかけから得られたものであった。続いて、情報とは何か、情報の本質から、少なくともコンピュータとソフトウェアを使用して処理を行うような種類の情報は人間によってのみ発信および受信されるものであるという観点であり、この場合も普遍的な生命の概念あるいは生物と無生物という対立関係とは直接的な関係はない。何らかの対立関係を想定するのであれば、要するに人間と人間以外という対立関係である。これは基本的には人間は言語を持つということにある。私自身はソフトウェアの本体ともいえるプログラム言語を言語と呼ぶことに何となく抵抗があって、プログラム言語については素人で使うこともできないにも関わらずいろいろ思うところもあったが、プログラム言語が一般の、いわゆる自然言語から派生したといえることは間違いがないし、少なくとも言語を持たない動物がプログラム言語を生み出すということはあり得ないので、言語能力を持つ人間のみがコンピュータ、あるいは人工頭脳、あるいはエー・アイを使い、操作する主体であり得ることは疑いようがないのである。

別の観点から言えば、バイオコンピュータの概念はハードウェアに関するものである。もちろん、そういうハードウェアが実現したとすればソフトウェアもそれに対応した変化を受けることになるとしても、AIの理念の実現をハードウェアに期待することは、ソフトウェアでAIの理念を実現することが無理であることを、すでに認めていることに他ならない。端的に言えば、ソフトウェアでAIの理念を実現することは、それ自体が自己矛盾なのである。

という次第で、バイオであろうがバイオでなかろうが、AIの理念が実現できるとすれば、それはソフトウェアが不要、すなわち人間が設計する一切のソフトウェアから解放されたハードウェアが実現することに他ならない。それは、いわば完全に人間のコントロールから解放された、言語能力を持つ物理的存在ということになる。もちろん、人間とのコミュニケーションが可能でなければならない。そういうものが実現できるかどうかはともかく、これはもう、古典的な人造人間であって、プログラムともプログラミング言語とも関係のないものである。

もちろん現在の、ソフトウェアとハードウェアとの組み合わせによる人工頭脳が、完全に人間によってコントロールされているとは言えない。コンピュータが、関係者の予測できない動作をすることはよく問題になるところである。しかしこれは、ハードウェアがソフトウェアなしで自律的に動作するという訳ではない。これは、ソフトウェア自体も、人間が完全にコントロールできているわけではないことを意味しているともいえる。

以上は多分に、いわゆるエー・アイが、(前回に1つの結論として得られたとおり)人工知能ではなく集合的知能とみなせるということと関係がある。集合的ということは総合的ということでも包括的ということでもない。悪く言えば多くの個人の、それも断片的な知能の、またかなり恣意的な寄せ集めに過ぎない面もあると言わざるを得ない。ただ、機械を、いわば軸的中心として統合されているとは言える。具体的に言えば、プログアミング言語の作成者、オペレーティングシステムの作成者、アプリケーションの作成者、それぞれの使用者、何れについても膨大な人員が、ハードウェアのシステムを軸として関わっている。いわば多様な個々人の断片的な知性の、無秩序ではないが、かなり恣意的な結合体であると言える。そこに何らかの統合原理が機能していることは確かであるが、一方で人知の及ばない要素が入り込んでいる可能性がある。しかしそういうことは何もソフトウェアにおいてのみ生じる現象ではなく、多数の人間が関る共同作業において生じることである。これは個人の言語活動あるいは情報活動、あるいは芸術創作においても生じることである。人は自分自身の発言や作文、あるいは描画や音楽活動においてさえ、自分自身で完全にコントロールできているわけではない。直観や無意識の作用もあれば感情に動かされる面もあり、インスピレーションや天啓も大いにあり得るというべきであり、端的に言って人知の及ばない要素と言わざるを得ない。

バイオコンピュータの理念あるいは構想については原理的な基礎的知識もなく良くわからないが、以上のような文脈で考察するのはどうだろうかと思う。いずれにしても、他の場合と同様、人工知能という概念とは相容れないものである。

以上の考察を通じて、一貫して存在感を示し、輝きを増し続けているように思われるのが、「人間はシンボルを繰る生き物である」という人間の定義に立脚して名著『人間』を書いたカッシーラーの哲学である。その全貌を私はいまだ知らないが、「人間」という存在の本質と特質に着目し、言語を中心とするシンボル形式を中心に据えたその哲学は、コンピュータサイエンスあるいは情報学においても基本的な支えとなってしかるべきではなかろうかと思うのである。例えば、主著である『シンボル形式の哲学』中で有名な個所として、等方空間と異方空間の相違に関する考察がある。等方空間については西垣通氏自身も本書中で一回だけ言及しているところがあるが、カッシーラーの哲学については一度も言及していない。まあ今となってはもう30年以上も前の著作であり、当方も著者のその後の思想については殆ど知るところはないのだが。ただ、社会的にも、専門的にと同様、人工知能という言葉が以前にも増して無反省に使われる頻度が高くなっている現状は憂うべきではないかと思うのである。

2021年8月29日日曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その4 ― 情報の本質

 前回までの記事を前提としてエーアイについて、引きつづき考えて見たいと思う。ただ、以降、エーアイをエー・アイと書いた方が良いかとも考えている。ところで、今回の記事を書き始める直前に本書を紛失したので、本書の記述に即して記述を進めることが難しくなった。また入手することも簡単だが、この際、本書の記述に即して進めることを止め、本書の内容に対する私の理解に基づいて自分の論理で考察を続けていく方が、効率的で良いと思われ、そうしたいと思う。本書の記述に即して考察を進めて行くと、袋小路とは言わないが、多岐にわたる道に分け入らざるを得ないので、総合的にまとめるのは容易ではないからである。という次第で原文を確認できなくなり、以下で短い引用を行う場合、原文と一致しない可能性があることをお断りしておきたい。

著者は現在大多数の権威者や業界人と同様だと思うが、「コンピュータないしエー・アイは情報を処理する装置である」という見方あるいは表現を採用している。ところが本書の中ほどで東大名誉教授清水博氏の「そもそもコンピュータは情報を処理するものではない」という見方を紹介している。後で著者自身も清水博氏の考えに同調する見解を表明している。しかし著者は再び「コンピュータないしエー・アイは情報を処理する」という前提で考察を続けているのである。これはある意味、これまでの文脈上、そのような表現を使わざるを得ないということであろうと思う。ここにも思考が言葉の限界に制約される悲しさがある。

私の考えではそもそもコンピュータないしエー・アイは、情報を処理するか、しないか、という二者択一の前提自体が間違っているのである。

日本語表現の一例を挙げれば、「コンピュータは情報を処理する装置である」という表現では、必ずしも情報を処理する主体がコンピュータであるという意味で語られているとは限らない。この表現は、「コンピュータは、人がそれを用いて情報を処理する装置である」という意味で発言されたとしても、受取られたとしても、一向におかしくはない。私はそれが本来の日本語の含意であると思う。それが、何がなんでも言語表現上の主語と意味上の主体とを一致させなければ済まない英語の影響もあって、コンピュータが情報処理の主体であると解釈されるようになったという面がある。この考え方についてはもう何年もまえに電気掃除機とか洗濯機の例をとって本ブログでも書いている。こういう、道具を主語にする表現は英語には特に多い。例えばWeblio英和には次のような例文がある:These scissors cut well(このはさみはよく切れる)。私は以前からこういう表現は擬人化表現の一種であると考えている。

という訳で、コンピュータもハサミも、詰まるところは道具であって人間との関わりなしでは意味を持たないのである。仮に、手塚治虫のSFマンガにあったようにロボットが人間に反乱を起こすとか、はさみが付喪神になるようなことがあるとすればそれはもはやロボットが内蔵するコンピュータの情報処理機能とか、紙を切るというハサミ本来の機能とはまったく別の起源をもつ現象であって、そういう機能と何らかの関係を持つことがあったとしても、全く別の文脈で考えるべきなのである。

ただし、エー・アイと他の一般の道具や機械と異なる点は、コンピュータはソフトウェア、特にプログラム言語で記述されたソフトウェアを必要とし、このソフトウェアはプログラム言語とよばれる一種の「言語」とされるもので記述されるという点である。本書の著者はこのプログラム言語とプログラムをエー・アイの主要部分と考えて、多岐にわたる考察を進めていると言える。

プログラム言語自体と、作成されたプログラムとを一体のものとして考えた場合、これと情報との関係がどのようなものであるかを考えるとすれば、本など、書かれた文章と比較するのがもっとも適切だろう。何らかの自然言語(自然言語とか機械言語とかいう表現にも違和感があるが)で表された本は紛れもなく著者によって情報が込められたものではあるが、しかしそれが著者自身を含めて人間によって読まれない限りは情報とはいえない。したがって、本が情報を担うためには書き手と読み手の両方が人間でなければならない。

プログラムの場合は書き手は人間なのだが、読み手が機械であるともいえる。読み手というのはもちろん比喩である。正確に言えば、プログラムが入力されるコンピュータという機械はプログラムの読み手であるという訳にはゆかない。プログラムは機械言語に変換されたうえで機械に読み取られるとされているが、機械が機械言語を読み取るというのも擬人化という一種の比喩に過ぎないのであって、つまるところ、本当の意味での読み手は最終的にディスプレイ画面の表示を読み取る人間または、ロボットの動作を認知する人間以外にはありえない。端的に言えば情報の入口と出口は何れも人間である以上、この情報を操作しているのは人間以外の何物でもない。すなわち、エーアイは人間とは独立した何らかの知能ではなく人間の知能そのものである。ただし個人の知能ではなく膨大な知能が集約された集合的知能と考えてよさそうだ。要するにエーアイと呼ばれるものは一種の機械装置を伴う集合的知能である。英語で表現するのであれば"machine aided collective intelligence"で良いのではないだろうか?

本シリーズの次回は「人間と生物」という切り口で考察してみたい。

 

2021年8月22日日曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その3― (続)人工知能の理念またはアイデア

前回、エキスパートシステム、自然言語処理システム、および知能ロボットに代表されるような、著者がAI(人工知能)という分野に属すとみなすシステムにおいて、人間とのインターフェースを捨象したシステムを、ソフトウェアも含めて、エーアイと呼ぶことにした(現実にそういうものはあり得ないと思うが)。いま一度この間の論理を整理してみると、著者はAI(人工知能)を、道具としてのコンピュータを含む全体的な存在として捉えていることが前提である。もう一度引用すると:AIの道具はコンピュータである。というより、コンピュータの高度な応用としてAIがあらわれたというべきかもしれない。
道具としてコンピュータを使ったり、「応用」したりする主体は、つまるところ、人間以外ではありえない。したがって私が定義するところの「エーアイ」は、エキスパートシステムなどのシステム全体から人間を捨象した部分に他ならない。この、私がエーアイと呼ぶことにしたものについては、本書の第2章以下で詳細に説明、あるいは論述されているので、かなり難しいが、本シリーズで引き続き検討してみたいと思う。第1章の残りでは、著者は「AIとは何か」について、歴史的な事情に基づいてその成果をかなり批判的に論じている。

 著者は初期のAI研究に対してかなり批判的に論評している。例えば下記引用のように:

  •  チューリングはデカルト流の<理性>を信奉していた。チューリングにとって「ある事柄を判定できる」とは、「それを立証する明晰で普遍的な数学的手順(アルゴリズム)が存在すること」であった。
    「風変わりな天才チューリングは、「そういう数学的手順を有するもの」として人間を再定義したに過ぎない。
  • AIという言葉が初めて用いられたのは1956年、米国ダートマス大学の会場であった。― 中略 ― ところで面白いことに、この教祖たちは世界をゲームかパズルのようなものとしてとらえていた風がある。そういえばチューリングもチェスが好きであった。― 中略 ― たしかに、世界をゲームとみなす世界観は一種の普遍性を持っている。だがそれにも限界がある。とくに噴飯ものだったのは、彼らがゲームやパズルだけでなく、機械翻訳までに同様の技法で取り組もうとしたことだった。しかも、現在のパソコンにもおよばない貧弱な機械を使ってである。
    いうまでもないが、翻訳のできばえは素人にも一目瞭然である。こうして破局がおとづれた。教祖はホラ吹きとののしられ、予算は削られ、AI研究はいったん悲劇的な挫折を味わったのである。
  • 思えば妙な話である。人間の知的活動はパズルやゲームばかりではない。― 中略 ― 人間活動できわめて応用範囲が広く、はなはだ高級な知的活動は、初期のAIでは無視されてしまったのだろうか。とすれば、AI研究者とはチェス盤をもった小児にひとしいということになる。
  • 言語を理解することは、意味を解することである。それが可能になるためには、宇内の万物森羅万象について、さまざまの知識を持っていなければならない。立派な辞書や文法書があるのに、翻訳家が刻苦勉励せねばならない理由はそこにある。だがこんな自明の真理も、AI研究者のあいだで広く認められたのは1970年代以降のことだった。
  • おりしも、1970年代から80年代にかけて記憶素子の値段が一挙に低下した。ここで一人の新たな教祖が登場する。スタンフォード大学のファイゲンバウムである。
    ファイゲンバウムの戦略は、安価になった記憶装置に<知識>を大量にとりこみ、それらを推論機構によって組合わせるというものだった。まさにコロンブスの卵である。意表を突いたこの戦略は、<知識工学(ノレッジ・エンジニアリング)>と呼ばれて注目を集め、AI研究は息を吹き返した。そして現在、産業界のキラキラしたまなざしを浴びているのである。

以上は本書第1章「AIとは何か 」の中ほどの小見出し「探索とゲーム」とそれに続く「知識工学の登場」からの引用である。私が興味深く、あるいは訝しく思うことは、著者がAIの理念を立ち上げた人たちを「教祖」と呼び、考え方の誤りを指摘しているにも関わらず、人工知能の理念そのものに疑いを呈していないことである。その問題とは別に、この引用から歴史的に、「知識工学」という戦略により「AI研究は息を吹き返した」ことがわかり、それは要するに、業界あるいはオーソリティのあいだで最終的にAIの理念が認められたことがわかる。著者とオーソリティとの関係は判らないが、いずれにせよ、著者の見解はオーソリティ、特に産業界における主流から外れることが無かったことがわかるのである。

ところで、前回記事のとおり、私が、AIの理念そのものが破綻していると判断した根拠と、西垣氏による初期AI研究への批判の論点とは全く異なるものである。第一、西垣氏による初期AI研究の批判の論拠は、私にとっては、この本を読むまでは全くあずかり知らない知見であった。それにもかかわらず、素人の私にも十分に納得できる論拠ではある。ただ、納得できるものの、徹底的ないしは根本的、根源的な論拠とは言えないような気がする。この点を、今後の考察で掘り下げることが出来れば、と願っている。

2021年8月19日木曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その2― 人工知能の理念またはアイデア

本書のタイトルは「AI 人工知能のコンセプト」である。であるから、コンセプトという用語はこの本で扱われている内容を包括的に表しているものと考えられる。本記事では、前回、AIのコンセプトを次の3つのカテゴリーに分けた:①現に存在している各種システムの分類名として、②AIそのものの概念、理念と呼べるかもしれない、③実現すべき最終目標としてのAIの概念。そこで前記②について検討する今回の記事では「理念」という言葉で通したいと思う。この場合「アイデア」を使っても良いと思う。本書の著者はもちろん、この言葉は使っていないけれども。

余談になるが、理念という言葉は昨今は「企業理念」という類の熟語以外ではあまり使われないように見える。思うに、この日本語はドイツ語のIdee(イデー)の訳語として成立したのではないだろうか。とすれば同一起源の英語のIdea(アイデア)に相当し、実際ある辞書ではIdeaの日本語訳の1つに「理念」もあったが、全般にIdeaの訳語としては他の多数ある言葉が主流である。逆にある和英辞典では「理念」の訳語にIdeaはなかった。ギリシャ語本来のIdeaは日本語では「イデア」と表現することになっているらしい。こういった事情は翻訳には困るが、反面で日本語のメリットの1つではないかと思う。

さて、厳密に言って、著者は本書でAIの明確な、あるいは一意的、明示的な定義は行っていない。ただ最初の方で、次のような表現で一種の定義を行っている:「 AIの道具はコンピュータである。というより、コンピュータの高度な応用としてAIがあらわれたというべきかもしれない」。そして具体的には「エキスパート・システム、自然言語処理システム、知能ロボット、以上の三つがAIビジネスの主要分野である。」と書いている。これらの2つの表現においていずれも何らかの定義ではあるが、AIを定義しているとは言えない。

最初の、「AIの道具はコンピュータである」という表現ではAIを擬人化しているといえる。なぜなら、コンピュータを道具として使う主体は、人間以外ではあり得ないからである。「コンピュータの高度な応用」という表現においても、「応用」を行う主体は人間以外にあり得ない。一方、「以上の3つがAIビジネスの主要分野である」 という表現では、AIそのものについてではなく、AIビジネスについて語っている。というわけで、どちらの表現においても、AIがすでに定義済みのものであることを前提とした表現であるが、著者はこれまでにAIを定義していないのである。したがって「人工知能」を字義どおりに解釈するほかはない。とすれば、つまり、AIが字義通りに「人工の知能」と定義されているとすれば、それは「人工知能」の擬人化にほかならず、AIを人間と同一視していることになる。もう少し詳しく分析すると、この擬人化は、例えば動物や無機物や、あるいは鏡像などの自明、あるいは定義済みの対象を擬人化する場合とは異なる。端的に言えば、AIと表現されている本体(シニフィエ、signifiedと言っても良い)は、何らかの状況でコンピュータを操作あるいは使用している人間自身に他ならないと考えざるを得ないのである。

一方、上記の、著者がAIビジネスの主要分野と考えているところの、3つのビジネスの最初の2つはなんらかの「システム」と表現され、3つ目は「ロボット」と表現されている。いずれも人間によって設計され、構成されたものであることは言うまでもないが、現実の使用または機能においても人間との関わりなしにはあり得ない。ふつう、インターフェースと呼ばれる入力装置や読み取り装置、認識装置が機械側にあり、人間の側ではそれらと感覚器官や運動器官を通して連結している。またコンピュータは電源なくしては動作しないが、電源は電力網であっても、電池であったとしても、それ等自身の背後に巨大な人為的システムが控えている。要するにそれらのシステムもあらゆる道具や機械と同様に人間と一体となって機能し、人間が使うシステムなのである。

言い換えると、著者が上記文脈で使っている「AI」は、特定の状況下における条件付の人間そのもの(集合的であれ単独であれ)に他ならない。したがって当然、諸々の人間的な感情や能力に左右される。ところがこの定義(AIそのものの定義ではないが)以降、本書でこの後の文脈すべてで使われている「AI」は、人間によって作られ使われる対象の道具の部分を意味しているといえる。それはもちろん人間によって作られたものではあるが、一応は人間と切り離され、独自に機能する部分である。という次第で、私は、著者がこれ以降に使っている「AI」を「エーアイ」と呼んで議論することにしたい。理念としてのAIはこの時点ですでに破綻していると言っても良い。

このエーアイを人工頭脳と呼ぶことは不自然ではない。「頭脳」も厳密に定義することは難しいことは確かである。頭脳を脳とみなしたところで、脳は臓器の1つであるが、臓器自体の定義も簡単ではない。とはいえ頭脳と呼ばれるものは、少なくとも全体としての人間でも、その属性あるいは特質でもなく、身体的にも機能的にも全体としての人間の一部を構成するものと考えられるからである。著者が「AIビジネスの主要分野」と考えている3つのシステムないしロボットは、これに相当すると見て良いだろう。著者は本書でこれ以降、この3つのシステムについて、エーアイの概念の下に語っているといえる。

 著者はこれ以降、すべてのインターフェースと切り離されたものとしての、ハードウェアとソフトウェアとの組み合わせを、仮想的に想定し、それについて人間の機能と比較することになっているように、私には思われる。仮想的というのは技術的といえるかもしれない。つまり実用上、思考経済の手段として想定するものである。これを「人工〇〇」と表現するなら、やはり上述のとおり、「人工知能」ではなく「人工頭脳」が相応しい。頭脳は人間そのものではないからである。すくなくともAIと呼べないことは、本稿の上記パラグラフで証明されたのではないかと思う。いずれにしても本書ではこれ以降、諸々のインターフェースから切り離されたシステムの一部について、具体的には特にソフトウェア、具体的にはプログラム言語や形式論理に関する問題である。この種の問題になってくると私は断然、予備知識が不足しているので困るのだが、取りあえず今回の記事はこれまでとし、次回以降に引き続き考察を続けたい。


2021年8月5日木曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その1、三種類のAI概念

去る五月、引っ越しの準備を機に蔵書の半分ほど削減することを目標に整理を行った際、偶然にも表記の本一冊を手に取った一瞬、処分する方に回そうと思ったが、すぐに思い直して残しておくことにし、今、引っ越し先の住まいで読み終わったところである。最初に処分しようと思った理由は、端的にいって今ではもうAI、人口知能という言葉と概念に辟易していたためである。しかしすぐに思い直して読み直そうと思った理由は、もともと、当時から人工知能という言葉と概念には反感を感じていたけれども、本書自体は拾い読みした程度で実際には一読したとも言えず、内容もほとんど記憶していなかったし、AIという言葉に辟易していたとはいえ、この現在に至ってますます盛んに用いられるようになった言葉と概念について、もう少しは掘り下げて理解する必要を感じたからに他ならない。

著者の西垣通氏は、実は私と同年齢である。 調べてみると生年月日も極めて近い。もちろん、経歴や業績の差は比較にならない。著者がこの本を出したのはちょうど著者40歳の頃になるが、その当時の同年齢の私は一地方大学の卒業を挟んで何回かの転職を繰り返した後に宝飾品の加工職人をしていた筈である。私が購入したのは1992年の第三刷であるから、ちょうど不景気で宝飾品加工業の先行きも怪しくなり、転職を考え、間もなく50歳にもなろうかという時期にパートのアルバイトもしながら放送大学で情報工学やプログラミングなどを受講してみたり、と、あれこれ迷ったり、あがいていた時期でもあった。所詮、ITの専門家に転身などできるはずもなかったが、それでもその後から現在に至るまで実利につながるパソコンユーザーになることができ、身を助けることになったことは有難いことではあった。

さて、本書を今度読み返してみて、というより、初めてまともに通読してみて改めて気付いたことは、コンピュータサイエンスに関する西垣氏の思想的態度には、前提知識の圧倒的な差にも関わらず、結構共感できる部分が多いことであった。しかし決定的に私とは異なる点をも発見できたように思う。

一つの概念として語ることが困難なAIという用語 ― 現実に存在する技術としてのAI概念とAIそれ自体、また到達目標としてのAI概念

この書は「AIとは何か」という、AIの定義から始まり、この言葉がアメリカ生まれの言葉とされ、かつては人工頭脳と呼ばれたこともある、と書かれている。私自身がこのブログで、AIは人工頭脳と同じものを指しているとする記事を書いたが、同じ認識であったことになる。ただ、著者自身も述べているように、AIという用語は極めて多義的で、そもそもどういうカテゴリーに属すのかが把握しにくいと思われるのである。ちなみに本書には次のような記述もある:「AIという分野は何も珍しいものではない。米国の大学の某研究室には、三十年も前からAIの看板が麗々しく掲げられている。」ここではAIは「分野」として説明されている。こういう所では、「何の分野なのか?」という問題が気になる所である。

本書の中ほどで、ドレイファスという名前の、「反AIの闘志」と呼ばれる哲学者の紹介とともに「反AI」という一つのキーワードが登場する。ここではその内容について議論はしないが、このようなAIという用語の多面的な使われ方をみると、AIについて語る場合にそれを1つの概念として語ることが困難であることに気付く。そこで、この見出しのように、取りあえず次の3つの意味に分けて考えるのが良いと思われる。

  1. 現実にAIという触れ込みの下で存在している技術で、完全であるかどうかは問われない。例えば機械翻訳システムとか、自動運転システムといった技術。こういうものはすでにAIという名称で通用しているのだから、総称する場合にはAIと呼ぶしかないともいえる。しかし、例えばITという更に総称的な用語を使うこともできるし、また単に、即物的に機械翻訳システムとか自動運転システムなどといえばそれで済む話である。ソフトウェアとハードウェアの組合せに過ぎないともいえるので、私自身は「AI」はできるだけ使わないことにしている。
  2. AIという用語それ自体の概念。あるいは理念と呼べるかもしれない。そもそもAIという概念に相当するものが存在し得るのか、という議論に導かれるような概念である。
  3.  実現すべき最終目標としてのAIの概念。

本書は、冒頭の数行で上記「1」の問題に触れ、その後前半で「2」の問題を扱い、中ほどで「反AI」について紹介した後、その後の後半で「3」の問題を扱っていると言える。 次回以後、これら「2」と「3」に関して本書と本書に込められた著者の思想について感想を述べてみたいと思っている。



2020年12月26日土曜日

いくつかの比較日本語論的トピックス ― その3― 最近のメディア空間でますます露わになったいくつかの日本語の欠点

最近のメディア空間と日常会話空間においてうんざりしていることのひとつは、『コロナ』という短い言葉が単語としても、またコロナ禍、ポストコロナ、といった熟語としても、無反省に氾濫している事です。まさに決壊するまで氾濫していると言っても良いと思います。そのままコロナと言う三文字で、やれコロナに感染した、コロナにかかった、コロナで死んだ、コロナの疑いがどうこう、等々、本来病気ともウィルスとも何の関係もないコロナという短い単語が新型コロナウィルス感染症との関連で安易に使われているのを見聞きして、個人的には本当にやり切れない気分の悪さを感じています。一つの言葉の意味が多様に広がったり、変化したり、良い意味の言葉が悪い意味の言葉に変化したりと言うことはどの言語でもよくあることで、ある意味、抵抗しても仕方のないことかもしれませんが、しかしコロナという言葉の場合、本来的ないくつかの基本的な意味は厳然として存在しているわけだし、英語の辞書にはCoronaという女性の名前も載っているくらい、もともと言葉のイメージとしては美しい言葉なんですけどね。まあ言葉には当然、良い意味の言葉もあれば悪い意味の言葉もある。それぞれの言葉自体に良いも悪いもないが、美しさとか、イメージといったものはある。そういうイメージを壊すような使い方についても云えると思いますが、安易に、よく考えもせず、あるいは作為的に意味を転用したり、拡大したりすることは、言葉や言語そのものの冒涜につながるような気さえします。言葉と言う人類の宝物は大切に、慎重に取り扱わないと、そのうち言葉を奪われてしまうということにもなりかねません。

かつてのSARSが流行した際、これは日本ではあまり深刻な問題にはならなかったようですが、改めて調べてみると、SARSとは「重症急性呼吸器症候群」の英語の短縮形であることがわかります。またそれ以前にMARSというのがあり、これは「中東呼吸器症候群」の英語短縮形であり、病原体の名前ではなく症状の名前で呼ばれていたことがわかります。それが今回の新型コロナの場合は症状ではなくコロナウィルスという、病原体の名前で呼ばれているわけです。しかしコロナウィルスと言うのは厳密にはコロナウィルス科という集合的な名前で、これにはSARSやMARSやその他の「普通の風邪」も含まれるみたいですね。ウィキペディアをちょっと見ただけでも、それらの分類は恐ろしく複雑で多様で、とても素人の手におえるようなものではないことがわかります。

ここで専門的に深入りすることは無理で、仮にそうしても収拾がつかなくなるだけなので、本題の言葉の問題という観点に立ち返ってみれば、SARSやMARSのように症候群で識別することの意味と、病原体名で識別することは明らかに意味が違っているのであって、どちらが正しいかとか優れているかという以前にその違いを意識したうえで言葉を使用すべきだと思うのです。

いずれにしても今回の新型コロナウィルスをコロナウィルスというのは、少なくとも「種」としての名前を「科」としての名前で呼んでいるわけで、そのことだけでも大幅に曖昧さが加わっていますが、さらに「コロナ」という、単にウィルスの形状を表現するためだけに使われているだけで、それ自体がウィルスとも病気とも何の関係もない言葉で総称され、様々な文脈とニュアンスで使われまくっていることが放置されてよいものか?と日々憤りを感じている次第です。

この問題に関連して先般、英語の略語、特にアクロニムのデメリットについて「PCR」を例にとって考えて見ましたが、一方で英語のアクロニムには日本語における略語にはないメリットもあり、日本語の欠点部分にも関係しているので、まずそれについて考えて見たいと思います。先般の記事のように日本語では表意文字を使うことでやたらに英語のようなアクロニムを避けることができるとしても、それでもやはり複雑過ぎる概念は短縮形に頼らざるを得ないわけで、英語のような表音文字のアクロニムにはそれなりのメリットがあると考えざるを得ません。今回の新型コロナウィルスの場合はCOVID-19ですが、こういう短縮形の作り方は表意文字の場合は無理で、強いて日本語に訳そうとすればやはり表意文字を使用して「コヴィッド19」とか「コビッド19」とかになるでしょうか。しかし日本では政府権威筋でもマスコミでも、ジャーナリストでも、こういう表現を使う人はいることはいてもわずかで、殆どは「コロナ」で済ませてしまっています。これは多くの外国でもそうではないかと思います。これは1つには「コロナ」という言葉の発音が持つ語呂のよさといったものも関係しているのでしょう。ということはまた、「コロナ禍」とか、「ポストコロナ」、とか「コロナに負けない」といった造語や表現を作りやすいという面もあると思われます。しかしだからと言ってそういう造語を作ることが良い結果をもたらすかと言えばそうでもなく、むしろ安易な造語が行われやすいという、マイナス面も大きいと思います。

もう一つ改めて露わになった日本語の欠点は、日本語に単数と複数の区別がないことです。この点は古くから指摘されていることですが、中にはそれほどの欠点ではないという考えかたも結構あるようです。たしかに必要に応じてそれなりに複数の表現はできるわけですが、それでもあえて単数か複数かを区別せずに曖昧さを残すために使うこともできるわけです。特に最近のメディア空間で「コロナ」とともに頻繁に使われている「専門家」という言葉の使い方で、この欠陥が改めて露わになっているように思います。総理大臣以下の権威筋のみならず有名ジャーナリストも「専門家がこういっているから」云々、という言い方で公衆に向けて説得姿勢で語りかけるのが日常的になっています。単数形と複数形を区別せざるを得ない英語ではこういうルーズな表現による曖昧化はずっとしにくくなります。たとえば不定冠詞の「a」以外にも「some」のような限定詞や数詞なども付けやすくなります。日本語で表現するとすれば、「一部の専門家」とか「特定の専門家」とか、もっと具体的に専門家を特定することも視野に入ってくるわけです。単純な複数形でも曖昧さは残りますが、それでも専門家のすべてを表すわけではないので、単複の区別がないよりはずっと良いと思います。


最初のコロナとい言葉の問題にもどります。いまや現下の社会状況に言及する際にコロナという言葉を使わないでは済まないようになってしまったようです。これはいわば言葉の土俵でありこういう土俵は自然にできる場合もあるかもしれませんが、やはり現代ではマスメディアが、意図的であるか無意識的であるかに関わらず、作りだしていると言えます。こういう土俵は便利ではあり、中に入ることで楽に思考や言論ができるようになります。しかしそれは言語空間を狭めてしまうものであって、深められた思考による自由な言論を妨げるものです。思考や言論はゲームやスポーツではなく、もちろん理想的には闘いであってはならない。

では日本語は上記の点、つまり狭隘な言葉の土俵のようなものが発生しやすく作られやすいのではないだろうか、特に英語と比べてどうだろうかという問題意識が生じてきます。これについては今すぐどうこうは言えませんが、表意文字の言葉、単語が主体である場合はそういう傾向が生じやすいのではないか?という予感がしないでもありません。今回は以上で。



2020年11月10日火曜日

感染者と言う言葉の独り歩き(その2)― 感染者(数)という表現の独走態勢

 前回、もう数か月前ですが、この問題を取り上げたときはシニフィアンとシニフィエの組合せといえる見方から、平たく言えば、意味するものから離れた単なる言葉だけが拡散している様子について述べたわけですが、今回は別の観点から、つまり表題のように、感染者(数)、感染確認者(数)、感染率、陽性者、陽性率、PCR検査陽性者、等々、様々な関連用語の中で、飛び抜けて頻繁に使われている感染者という表現について考えて見たいと思います。

これらの言葉は今回の新型コロナ騒ぎにおいて人的統計資料として各種広報やマスコミで連日使われているわけですが、このような人的統計の用語として「~数」という表現がこれほどまで頻繁に毎日使われたことがこれまであったでしょうか?普通は「~率」ではないでしょうか?端的に他の例を挙げてみると、例えば失業者の場合、真っ先に失業者数がそのまま報告されることってあまりないと思いませんか?普通はまず失業率が発表されてきたはずです。失業者数が発表される場合はまず失業率が発表された後、その具体的で詳細な資料として発表される場合に限られていたように思います。今回の新型コロナ騒ぎの広報と報道においてはこれが完全に逆転していますね。「感染者」と「感染者数」の頻出には、大抵の人は、例え無意識的にでもこれに違和感を感じているのではないかと思います。これは独り歩きと言うより独走、この場合は二人三脚における独走と例えられるしれませんね。

まずこの「感染者」と「感染者数」を比較してみると、この二つは同じ意味で使われる場合が多いようです。このように、数えられる名詞は普通、日本語でも英語でも数量と同じ意味で使われることが多いようです。英語の場合は複数形が使えるので、なおさらそういうケースが多いように思います。例えば、個人的に畜産関係の翻訳をする機会がよくあるのですが、表などで豚の頭数を表す場合、列の見出しはは単に「Pigs」となっているケースがよくあります。こういう言葉の用法は、物質名詞の場合は少ないように思います。例えば水量を表すのに「Water」と表現することはあまりないでしょう。日本語では普通、水量と表現しますが、英語の場合はリットルとかの単位を見出しにするのが普通のように思います。ですからこれはあらゆる名詞に通用するわけではないので、言葉の用法としては厳密さに欠ける使い方であると言えます。「感染者」の場合も、例えば記事や一覧表の見出しなどで単に「感染者」と書かれているのと「感染者数」と書かれているのでは少し印象が異なってきます。例えば、「感染者」の場合は「新たな感染者」という表現で使われる場合が多いようです。そうなるとこれまで感染していなかった人が新たに感染したかのような印象を受けます。「感染者数」の場合はすでにある状態の確認という印象で、新たに感染した人という印象は薄らぎます。「感染確認者(数)」となればさらにそういう印象は薄らぎ、既存の感染者が新規に確認されたという印象に近づきます。要するに新たな感染者というだけでは潜在的感染者の存在が捨象されていると言えます。これは「感染者」の定義や「PCR検査」「患者」等との関係とはまた別の問題です。

次に掘り下げて検討すべきは「~数」と「~率」の違いですが、一言でいって「~率」の場合は分母となる集団が空間的にも時間的にも意識されるという違いがあります。具体的に「感染者数」で言えば、上述のように潜在的感染者の存在が捨象されていることに加え、分母となる集団もあいまいなまま残されています。たとえ、東京の特定日における感染者と言われたところで、その日に何らかの検査で判明した人数である可能性もあれば、累計である可能性もある。その日に何らかの検査で判明した人数であるならば、その日以前に判明している人数が今はどうなっているのかという問題が残されることになります。累計であるならば、感染状態から非感染状態に移行した人数は無視されていることになります。

このように感染者ないし感染者数という表現では極めて多くの情報がうやむやのうちに葬られることになり、そこから感染者と言う概念自体の曖昧さにも疑念を持たざるを得なくなります

これは交通事故の死者と比べてみるとはっきりします。交通事故は、普通、東京都などの自治体単位で、発生率ではなく死亡者数で公表されますが、これを単に「死者」と言えばどういうことになるでしょうか? 当然、東京都に限っても、到底数えられるような数値ではありません。つまり、この場合は死者数というよりも当日の死亡事故の件数と言うべき数値でしょう。この考え方を当今の感染者数に適用してみると、感染者数というのは当日のPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)検査陽性者である可能性が濃厚ですが、それが示されていない以上、そう言い換えることもできないわけです。これが、「感染者」という言葉の曖昧さであり、端的に言って意味不明と言わざるを得ません。(以上、青字部分を11月11日追記)

今回の論議では感染の意味とかPCRの意味についての論議は度外視しています。これらについては本ブログの最近記事や別ブログ『日々と人生の宝物』の最近の記事で考えを述べているとおりです。

2020年9月29日火曜日

略語、特にアクロニムの多用による重大な弊害について、「PCR検査」を例に考える ― いくつかの比較日本語論的トピックス (その2)― 日本語から見た英語の無生物主語と擬人化

英語の翻訳という仕事を続けるうえで煩わしい問題の1つは、増加する一方のアクロニム(頭字語)の扱いである。アクロニムは翻訳せずに済む場合もあるが、いつもそれで押し通すわけにも行かない。そのためには、表現方法の問題はさておき、まず意味が分からなければ話にならない。今では各種の辞書も充実し、大抵の場合はウェブ検索で何とかなるが、それでもわからない場合もなくはない。

アクロニムというものは本来、可能な限り避けるべきものであろう。英語の原文にもいろいろあり、高い信用度が要求されるような書類の場合は、注釈としてアクロニムのリストが付けられているのが普通である。また科学雑誌で英語論文の投稿規定などをみると、基本的にアクロニムは使うべきではないとされ、使う場合は当然、定義を明確に付記すべきことが要求されている。しかし近年の技術用語、ビジネス用語、とくに報道、マスコミ用語ではこの種のアクロニムは増殖する一方であり、その使い方も恣意的であり、論理的でもなく、ときは無責任極まりない使われ方をされている場合も多い。報道、ジャーナリズムはお笑い番組でも仲間内のお喋りでもないはずである。

例えば、「AI」の場合、文章記事ばかりではなくテレビやラジオ放送でも大抵の場合は日本語で「人工知能」という言い換えが追加されるのだが、一方、最近の「PCR検査」の場合はどうだろうか。PCRの場合は殆ど初めて聞かされた時から今に至るまで、少なくとも通常のニュース番組で何らかの説明が付加されたことは聞いたことがない。私の記憶では、この言葉が頻繁に使われだしたのは政府広報などよりもむしろジャーナリストや進歩的文化人と言った人たち、あるいはツイッターの発信者たちの発言からであったような印象がある。私は当初からこの略語の使用に不信感を持っていた。というのは、この略語を使う人たちの多くがしきりにもっとCR検査をせよ、拡大せよとまくし立てるのだが、一般人がそれまで聞いたこともないPCR検査なるものについていきなりどうのこうのと言われても困るのである。それが政府や行政を批判する文脈で発言されていれば、PCRの意味など理解されずとも、行政に不満を持つ多くの人々の支持を得やすいのは確かではある。しかしそれは無責任ではないか。それで私は最初からそういう意見に耳を貸すつもりはなく、あえて急いでPCRの意味を調べることは怠っていた。

一方、逆にオーソリティの側でしきりに使われはじめ、いまでもある意味では基本用語として頻繁に使われているのは略語ではないが「感染者」という言葉である。この言葉に対する不信感についてはすでに本ブログで記事にしている。こちらの方は一応「感染者」という字義通りの意味は、分かるのだが、そもそも感染者というのはどういう状態の人のことを言うのか、どうやって判定するのかが全く分からないのである。つまりこの場合は新型コロナウィルスの感染者と言う、字義通りの意味はあるが、そういうものは一般人が見て判別できるようなものではないということである。つまり新型コロナウィルス感染という状態自体が眼に見えるわけでも、耳で聞こえるわけでも、触って分かる訳でもないからである。という訳でこちらは、略語とは少々レベルが異なるが、やはり意味が隠されている言葉であると言えるだろう。しかしなまじ固有の意味を持つ単語が使われているだけになお問題は複雑である。

その後、PCR検査について、一般人にも分かりやすく説明をしてくれるHPやユーチューブチャンネルに遭遇して、私はそれが病原体を検出するものではないことを知るに至って、この検査の必要性を喧伝する人たちに対する不信感はいよいよ高まる一方になったのである。

その後数日前になってようやくPCRそのものについてネット検索した見たところ、PCRとはpolymerase chain reactionの略であり、日本語では「ポリメラーゼ連鎖反応」であることを知るに至った次第である。英語では25文字が3文字に短縮されるのだから随分と効率的であるに違いないが、日本語による本来の記述では10文字であり、しかもPCRでは本来の日本語の記述を全く反映できていない。

確かに「ポリメラーゼ連鎖反応検査」と言っても素人には何のことか判らないことは確かであるが、もともと概念自体が難しいのだから他に言いようがない。では「ポリメラーゼ検査」と略してみればどうだろうか。英語でもこういう略し方はできる。ただし、この検査は1つの技術であるので、概念的な正確さが格段に落ちることは確かだろう。しかし素人向けにはそれでも良いのではないか。ポリメラーゼが何を意味するかは分からなくとも、少なくともそれが化学物質の名前であって、新型コロナウィルスの名前ではないことも推察できる。もちろん新型コロナウィルスとどう関係があるのかまでは分からないが、多少とも知識欲のある人であれば、この何でも簡単にネット検索ができる現在、すぐにでも調べてみる意欲を持つことができるであろう。PCRでは何のことか全くわからないのである。私自身、数日前まで調べる気にもならなかったのである。同時に喧伝者を信用する気にもならなかった。

アクロニムは本来、言葉を使う際の効率上、やむを得ずに発生してきたものだと思うがやはり一種の暗号のようなものであり、悪用と言っては語弊があるが、恣意的な目的で利用されやすいことにはことさら注意すべきだろう。特に科学技術や学術的に使われることが多いの問題だと思う。

哲学者カッシーラーは科学について、科学は真理に近づくためにも使われるが真理を覆い隠すためにも使われると言っている。言葉についても同じことが言える。アクロニムはこの点で余程注意が必要で、特にジャーナリストや報道関係者は慎重に使用すべきだと思う。政治家に至ってはもちろんである。信用にかかわると思うべきであろう。一方一般人の立場からは、やたらにアクロニムを多用するジャーナリストや政治家や文化人に対しては、悪意や善意とは関係なく1つの信用と警戒の尺度になるともいえる。

(以下30日追記)

他方、別の視点、というより、もっと比較日本語論的な視点で見れば、ここで図らずも漢字熟語やカタカナ語を平仮名に混在させられる日本語のメリットが改めて明らかになっている事にも注目すべきだろう。漢字熟語はもちろん、カタカナ英語にしても文字数から言えばアルファベット表記よりも短くなっている。文字の大きさから言えばどうしてもアルファベットよりも大きくなってしまうので、スペース的にはそれほど節約できるとは限らないけれども、読みやすさの点でも漢字熟語やカタカナを併用する日本語のメリット、英語などのヨーロッパ言語ではアクロニムに頼りがちになるような長い単語を短く、視覚的にも表現できる漢字カタカナ混り日本語のメリットを生かさない手はないのではないか。こういう日本語のメリットについては夙に多くの見識家によって繰り返し主張され紹介されてきたはずであるけれども、なかなか主流派の意見とはならならず、英語のメリットの方が強調される流れは相変わらず強く、日本語自体も英語の影響を強く受け続けている。もちろん英語の影響を受けることに利点がないとは言えないが、少なくとも安易にアクロニムに頼ることは悪影響の一つといえるだろう。もちろんすべてとは言わないが。

というわけで、PCR検査は当面、略語を使わずに日本語で「ポリメラーゼ連鎖反応検査」と表現するのが良いと私は考える。くだけたところでは「ポリメラーゼ検査」でもよいのではないかと思う。


2020年8月14日金曜日

いくつかの比較日本語論的トピックス ― 日本語から見た英語の無生物主語と擬人化 (その1)

 簡単な序論

 最近、比較日本語論的な論議が、以前にも増して盛んになってきているように思われます。これは一方で時代のニーズでもあると思います。ただし、比較と言っても事実上は英語との関係に限られることになりがちですが、それはやはり時代の要請から、そうならざるをえないことを前提に、本稿を進めたいと思います。

一つの範疇にくくられる有名な言説として、日本語の音韻、特に母音の特殊性に関するものがあります。それらについては興味深くはあるものの、筆者にとってはいまのところ近づくすべはないという印象です。一つの理由は、それらが現在の脳科学の成果と結びついて主張されている場合が多いことです(例えば右脳と左脳との関係など)。現在に至るまでの脳科学には多くの重要な成果があるには違いはないとは思いますが、個人的には方法論的になじめないところが多く、また実験的な研究ともなれば実験物理学的なアプローチが必要になるでしょうが、私には立ち入れない世界です。

もう一つは、超科学的、あるいは神秘思想的な言説と結びつけられることが多いことです。私はこの種の思想や言説について、たとえば疑似科学という風にとらえて否定し、無視することには反対ですが、かといってそのまま素直に理解でき出来るわけでもありません。脳科学がそれを理解する契機になれば良いのでしょうが、少なくとも今の筆者には捉えどころがなく、これまでの本ブログの文脈からも、近寄りがたいのです。

本ブログの文脈はあくまでその名の通り意味に関するものです。もちろん、音楽については言うに及ばず、言葉の音韻を含めてどのような音にも何らかの意味はありますが、言葉としての意味はあくまで言語的概念と表現手段の問題になるように思います。本シリーズではこの二つの局面でトピックを見つけて取り上げて行きたいと思います。

 

言語表現における生物と無生物の区別

日本語表現では生物と無生物を区別する傾向が強いことは、昔からよく指摘されてきた有名な常識であり、日本語のこの特徴は、ここで改めて指摘するまでもないことですが、日本語では人や動物が存在する場合には「いる」という動詞を使い、無生物の場合には(植物については微妙ながら)「ある」を使い分けていることですね。一方の英語などでは、要するに三人称に関して人間や生き物についても無生物と同じbe動詞と代名詞を使うということですね。もっとも英語では単数に限ってはheとsheとitを使い分けていますが、複数になればすべて同じtheyを使うし、他のヨーロッパ言語ではすべての名詞に性別が残っているため、完全に人間や動物と無生物との間に区別がありません。抽象名詞にしても同じこと。これまでの比較日本語論的な議論ではこの点について掘り下げたり展開されることが少なかったのはなぜなのかを考えて見ることには重要な意味があるようにおもわれます。一つの理由として考えられることは、これまでは英語の合理性と先進性に注目することが多く、欠点に注目することが少なかったからではないか、という疑念がもたれれます。私自身は最近特にこの点に関心を持っていて、この日本語の特徴は、少なくとも英語を始めとする欧米系諸言語との比較においては、日本語の特質であることを超えて、優れた点であり得ることに注目すべきであると考えます。逆に言えば英語の欠点につながるのではないかということです。その端的な例が、本ブログの6月4日の記事でも再録しましたが、筆者の別ブログ『発見の発見』で6月3日に投稿した記事「鏡像問題の議論に見られる英語表現の問題点について考える」で指摘したことの1つです。この記事では英語のreflectという語を例にとりましたが、要するに、生物と無生物を区別しない傾向はbe動詞と代名詞だけではなく、英語全般に行き渡っているということが言えるように思われます。

 

無生物主語と擬人化 

― あらゆる言語に、見かけ以上に、潜在的に、広範に広がる無生物主語 ―

英語の無生物主語については普通あからさまな擬人化に見えるような表現について、語られるようです。例えばweb検索を行ってみると次のような例が挙げられています:「雨が、私が釣りに行くのを妨げた」。この表現は日本語としては変だが英語では普通の事であるとし、「無生物主語構文」と定義されています(http://cozy-opi.sakura.ne.jp/englishgrammar12.html)。しかし、鏡像問題の例で取り上げたような、reflect、あるいは名詞化されたreflectionなどの動詞の基本的な用法については、無生物主語とみられることはなかったように思われます。

無生物を主語にすること自体はどの言語でもごく普通に見られることです。雨の例でいえば、日本語では普通に「雨が降る」と、雨を主語にして表現します。逆に英語では、「Rain falls」というよりも「It rains」というのが普通のようです。この点ではドイツ語でも同じと思いますが(Es regnet)。このことは英語やドイツ語ではrainが動詞でもあることと関係しているのでしょう。日本語では雨は動詞にはならないが、形容詞的であるとも言えます。日本語では形容詞は動詞なしで使えるので、日本語では形容詞だけで言葉が成立します。「雨だ」と。英語では普通、動詞は主語を要求するので、要するに普通は主語と動詞のセットが要求されると言えます。これも英語で無生物が主語になる機会が多くなる原因でしょう。

とはいえ、日本語でも無生物を主語にする表現はごく普通に使われることであり、基本的には程度の問題であると言えないこともありません。ただ、存在を意味する動詞で、生物と無生物では「いる」と「ある」という全く異なる言葉を使うという点で、本質的に重要な差異があるように思われます。それは、「いる」と「ある」の違いは他の多くの動詞においても区別され、「いる」と同じ範疇にはいる動詞と「ある」と同じ範疇にはいる動詞とに区別できるように思います。この区別は一言でいえば人間的な意味を表現する動詞と物理的な意味を表現する動詞との区別です。この区別は実際の人間、生物と無生物の区別に対応するわけではありません。というのも、人間も物理的な物体とみられることがあり、端的な例をあげると、普通、死体は「いる」とは言わずに「ある」と言います。反対に、無生物に人間的な、あるいは生物的な側面があるかと言えば、少なくとも日本語的にはそれはないと考えるのが普通で、無生物の物体に「いる」という表現は使いません。もしそのような表現がつかわれるとしたら、その場合は擬人化されていると言って良いと思います。(注:ここでは抽象名詞の主語については考えていません)

【Migrateという例(自動詞)】

 例えば、「動く」という動詞は生物主語にも無生物主語にも使えます。また「移動する」も、人間を含めた生物主語にも無生物主語にも使えるわけですが、「移住する」という動詞は普通、人間にしか使えません。無理をすれば、動物や植物にも使えると思いますが、物体や物質には使いませんね。ところが英語でこれに相当する「migration」は、大きな物体にはあまり使われることはないものの、物質、特に化学物質など、自然科学上の文脈で使われることが多いように思います。例えば地球化学や地質学では岩石や土壌中の分子の移動の意味でよく使われ、一般化学でも電気分解におけるイオンの移動などの意味でもごく普通に使われる言葉であり、英語として使用され、表現されている限り、日本人であっても、特に違和感や抵抗を感じることもないように思われます。この意味では最初に例に挙げた「reflection」の場合と全く同様ですね。これは言語に固有の特徴と考えるべきで、必ずしも人間性や民族性とはそれほど関係がないのかもしれません。しかし、民族性に多少関わるかもしれない要素として宗教性あるいは宗教的な心性との関係は否定できないような気もしますが。

【Reflectという例(他動詞)】

鏡という物体を主語として使われる「reflect」の場合について考えて見ます。対応する日本語の「反射する」について考えて見ると、普通、光を反射する場合には英語と同様、鏡を主語として「鏡が光を反射する」で、特に違和感がない印象があります。上の例のように、物質を主語にして「移住する」という動詞を使った場合に感じられる不自然さは感じられません。しかし、この言葉の場合、反射するという言葉自体が、西洋の近代科学が日本に導入される以前からあったのでしょうか?どうも「reflection」の訳語として「反射」という名詞が新しく作られたような気がします。ちなみにkindle版「言海」でこの言葉を調べてみたところ、動詞形の「反射する」の説明はなく、名詞としての反射については、「光リノ映リテカヘル」 という極めて簡潔な説明だけがあります。この説明は、光を反射する鏡などの物体を主語にするのではなく、反射される光を主語として自動詞的に表現しているように見えます。上の例と併せて考えてみると、英語との比較で、日本語では全体的に物理的な存在が主語となる機会が少ないうえに、他動詞の主語として使われる機会が自動詞の主語となる機会に比べてさらに少ないのではないかと思われます。

英語の無生物主語他動詞構文

ここで改めて英語の無生物主語構文の問題にもどってみると、無生物主語構文は無生物主語他動詞構文とも表現されており、特に無生物の擬人化的な表現はすべて他動詞であることが条件であることが分かります。これは、無生物を主語とする極めて普通の文であっても、他動詞の場合にはより擬人化的である場合が多い可能性を示していると思います。

言語的擬人化

 一般に自動詞が持つ意味と、他動詞が持つ意味とを、主語との関係で比べてみると、他動詞の方が主語の意思や意図を示す度合いが強いと思われます。それは明確に主語と目的語あるいは対象語という対立関係があるからと考えられます。それに対して自動詞の場合、必ずしもそういう対立関係がないので、主語の意思や意図があらわである場合もあれば客観的な状態を示す場合もあります。例えば「石が動いた」という表現において、普通人は石が自分の意思で動いたとは考えず、実際には何かの力で動かされたものと思うでしょう。ところが「石が移住した」と言った場合、石が自分の意思で動いたような印象を与えます。英語でも普通にその辺の石ころなどの移動にmigrateという言葉は使わないと思いますが、使ってもそれほど不自然ではないようです。簡単な検索でも医学的に結石の移動にmigrateが使われることが分かります。すでに述べた通り、自然界における化学物質の移動にはmigrateが普通に使われているわけで、例えば日英用語辞典で調べてみると、migrationは、自然科学と社会科学を問わず、実にあらゆる分野で多様に使われていることが分かります(社会科学では例えば資本移動など)。それらの殆どは日本語訳として「移動」が充てられいます。とすればmigrationは本来、基本的に「移住」よりも「移動」に相当するのだろうかという見方もできるので、逆に「移動」の英訳を同じ辞書で調べてみると、化学物質の場合にはやはりmigrationですが、光や音の場合はtravelが使われるようです。光や音になぜtravelが使われるのかを考えて見ると、たぶん、というか間違いなく移動距離の大きさでしょう。なんといっても人間の場合にtravelが使われるのは長距離移動の場合ですからね。ですから光や音にtravelが使われるのは間違いなく人間的な意味合いが込められていることが分かります。この点で日本語の移動は英語のmoveと同様、遥かに抽象度が高く、生物にも無生物に使えるような普遍性あるいは客観性を持っていると言えます。このように英語ではいわゆる無生物主語構文から一般の他動詞、さらには一般の自動詞にいたるまで擬人化的な表現が浸透しており、すでに述べたように民族性とか国民性とは別の、言語に固有な擬人化傾向とでも呼べるものがあり、これを言語的擬人化と呼ぶことができるように思います。この種の擬人化は、神話や芸術などにおける擬人化やイリュージョンとは区別すべきでしょう。また、日常言語よりもむしろ学術的な言語表現で多く見られ、特に近代科学と言われる物質科学的要素が強い自然科学系の学問の発達と展開に影響を与えてきたのではないでしょうか。

(次回に続く。2020/08/14 田中潤一)

 




2020年8月3日月曜日

「分析」と「予測」を、自然科学と人文社会科学との対比において考える ― その2

予測分析という概念への疑問、および遺伝子分析と呼ばれるものへの危惧について

(前回の文脈で引き続き考察を進めたいと思います。)

情報科学分野でデータ分析において予測分析という概念が用語として確立され、普通に使われているにしても、情報科学、あるいは情報工学、コンピュータサイエンスという学問分野自体、本質的に技術志向的で、純粋な学問とは言えない側面が強いように思われる。一般に情報科学関連の理論は高度に論理的、数学的で、とくに私などには苦手で近寄りがたい印象があるが、反面、ご都合主義的な面が強い印象がある。個人的にはかつて放送大学で、辛うじて「可」をとれる程度に勉強した経験があるだけだが、そういう印象を持っている。端的に言って、プログラムを効率的に作成することが目的であって、困難あるいは解決不可能にみえるような問題は飛ばして見えなくしてしまうようなところがある。そういう次第で、用語の概念を深く掘り下げるようなことはあまり追及しないような印象を持っている。

専門的な情報理論を離れて、分析という概念の本来的意味を考えてみると、カント哲学による有名な分析判断と総合判断の区別を思い起こせばわかるように、分析の対象は、どう考えても、既存のデータであり、予測値のように未来の、すなわち現在存在していないデータが対象であるとは考えられない。定量的な予測が可能であるとしても、それは分析によるものではなく計算である。前回最初に例に挙げたように天気予報は数値予報と呼ばれていたし、日食の予測は、計算によるものであった。

もちろん、以上は個々の予測分析と呼ばれる成果物の価値とは関係のない話である。一般に予測分析と銘打たれているからといっても情報科学の定義と手法をそのまま使っているわけでもなく、単に予測と分析という二つの言葉を組合わせているだけであるかもしれない。ただ、全体として予測を述べる作品であれば、日本語的感覚で言えば、こういう熟語ではなく「分析と予測」あるいは「分析・予測」というような表現が妥当ではないかと私自身は考える。

さらに言えば、情報科学、コンピュータサイエンスと呼ばれるものは科学ではなくあくまで技術的な工学であり、マーケティングでもあることを十分に見据えておく必要があると思う。


もう一つ前回記事の最後の方で触れたことで、より深刻に思われる問題は、予測との関係ではなく分析自体における自然科学的な要素と、人間科学的な要素の共存という問題である。この問題は遺伝子分析において端的に現れているように思われる。

そもそも遺伝子という概念自体、物質的側面と、人間的な意味的側面の両面を持っている。つまり、化学成分や分子構造といった量的で幾何学的な要素と、身体機能とか人間的な性質という要素である。機械的にデータ分析できるのはあくまで量的で幾何学的な要素だけである。個々の物質的要素に機能的要素が割り当てられているとはいえ、言葉の意味、単語の意味を考えて見ればわかるように意味というのは流動的であり、具体的に話し言葉や文章として使われて初めて意味をもつのである。意味の分析についていえば、今ではある程度の機械翻訳も可能になったようだけれども、その使われ方を見ると、多くは簡単な会話の補助として使われる程度で、絶えず人間同士で相互に検証されながら、あるいは確認しながら使われるケースがほとんどだろう。文章の翻訳に使われる場合があるにしても人によるチェックを欠かすわけにはゆかない。

という次第で、私は遺伝子分析という概念や技術の進展に相当な危惧を抱いている。もちろん以上のような問題は遺伝子分析に限ったわけでもないし、同時にまた遺伝子分析の価値と可能性を否定するわけでも認めないわけでもない。ただ暴走が大いに危惧されるのである。

2020年7月24日金曜日

「分析」と「予測」を、自然科学と人文社会科学との対比において考える ― その1

最近、筆者の別ブログ「発見の発見」で、「質的」と「量的」という対立的な概念についてシリーズ(のつもりで)で考察を始めましたが、最初の2回は分析の意味との関連で考察する結果となっています。ここでは分析そのものについて予測との関係性において考察してみたいと思います:


最初に1つの例を挙げると、天気予報は今ではコンピューターを使って行うのが当たり前で、かつてのように数値予報などといった言い方はあまりされなくなった。それでも天気予報という表現は変わることなく使われている。「天気分析」とは言われない。自然科学ではだいたいどの分野でもそうだろうと思われる。日食の予測なども、計算とは呼ばれても、分析とは呼ばれない。それが、特に経済や金融方面の分野では「予測分析」という表現があるようで、これもご多分に漏れず英語の「predictive analysis」という表現に由来するようである。ただし、ウェブ検索してみると「predictive analytics」という表現の方が多く出てくる。「Analysis」と「Analytics」の違いはよく分からないが、Analyticsの方がやや婉曲的というか、意味を拡大したような印象も受ける。身近なところではグーグルのアクセス解析は「アナリティクス」と、カタカナで書かれている。

いずれにしてもこの熟語においては日本語でも英語でも、「予測」が「分析」を限定的に修飾しているとみなさざるを得ない。とすれば、Predictive Analytics をより日本語らしく訳すとすれば「予測的分析」となる。「~的」という表現はいろいろな意味合いがあるから、「予測のための分析」と取れないこともない。しかし、現実にそういった予測分析と言われるものは、何らかの分析が含まれることには違いがないが、結論としてはどうみても予測である。ということは全体としては分析とは言えないと思うのである。予測と分析は、互いに全く異なる概念であるからだ。であるから、むしろ実質的には「分析的予測」あるいは「Analytic Prediction」と呼ぶべきではないだろうかと思うのである。ちなみにいつものようにグーグルで検索してみると、「分析的予測」も「Analytic Prediction」も存在するが、いずれもその逆に比べては一桁以上少ない。

こうなってくると、本来、「予測」の範疇に入るべきものが「分析」と呼ばれることが多いのではあるまいかという疑念が起きるのである。もちろんその逆に「分析」の範疇に入るべきものが「予測」と呼ばれるケースもあり得ることが想定できるが、それは恐らく少ないであろうと思う。現実に「予測分析」、「Predictive Analytics」という表現が圧倒的に多いからである。端的に言って、実質的には「予測」であるものが「分析」とみられることを欲しているように思われるのである。これが欺瞞であるとすれば、他者欺瞞であると同時に自己欺瞞でもあるのだろうと思う。とはいえ、もう少し詳細に検討してみると欺瞞というのは当たらないか、少なくとも言い過ぎではないかという可能性もないではないし、もう少し詳細に検討してみる必要はあるだろうと思われる。

そこで、あらためてPredictive Analysis という用語について調べてみると、やはり情報科学、あるいはコンピュータサイエンスとの関係が深いことが分かる。もっと端的に言えば情報科学、コンピュータサイエンスの用語であると言える。特にAIという用語との結びつきが強く感じられる。

今回はとりあえず、分析という言葉が本来分析と呼ぶべきではない概念に対して安易かつご都合主義的に使用されていることについて指摘しておきたいと思う。最近の新型コロナ騒動においても、分析とか分析結果という言葉が盛んに用いられているが、実際、分析という言葉で「考察」や「結論」を述べているに過ぎないケースが多いのである。つまり、考察や結論に相当する内容を分析と呼ぶことで、そういった考察や結論を導きだすための分析結果を示すことを省略していると言える。つまり実質的には何らかの分析に基づいているのか、分析に基づくこともなくただ恣意的な結論を述べているのかを分からなくしている。政治の世界では仕方のないことともいえるが、やはりこういった問題は科学分野自体にその根を持っていることを見過ごすわけには行かない。

自然科学と人文社会科学との対比において考えて見ると、やはり、このような分析という用語の安易でご都合主義的な使用は、人文社会科学系において多いのではないかと思われるけれども、自然科学とされる分野にも人文社会科学的要素は当然含まれるし、当然、その逆もある。気候変化の研究や遺伝子研究の分野では特に人間的な要素と同時に情報科学的要素が重要な部分を占めているのであるから、何が分析で何が予測、考察、構成、結論その他に相当するのか、そういう概念分析が極めて重要になってくるのであり、そういう分析が行われないままに研究自体が暴走することを許してはならないと思うのである。

2020年5月31日日曜日

「一人歩き、ひとり歩き、独り歩き」という言葉の独り歩き

「ひとり歩き」という言葉が最初だれによってどういう風に使われたのかということには非常に興味を持っているが、今のところそれについては詮索せずに、最近思ったことを書いてみたい。

この言葉が最初から比喩的に使われる言葉であったことは疑う余地はないだろう。それだけにその意味するところのも本当に追求してゆくこと自体がそう簡単なことではないだろうと思う。簡潔に言えば、「ひとり歩き」という言葉自体がひとり歩きしやすいのではないだろうか。

というのは、私がこのブログで何度か、この表現であわわされる意味内容を テーマにしているが、私がこれまでこの表現を使ったのはシニフィアンとシニフィエ(これらの言葉を使ったかどうかには関わらず)との問題についての文脈においてである。つまり、言葉は本来、シニフィアンとシニフィエのセットからなるのであるから、シニフィアンだけがシニフィエを伴わないまま歩き出すことを意味するといえる。もう一度言い換えると、前回の記事で述べたように、言葉という乗り物に意味という乗員がいない幽霊船のような感じである。であるから、言葉について言う場合はシニフィアンについて言っているのでシニフィエについては、普通、言葉について述べる以上は、こういうことはあり得ないのである。

ところが現実には普通の意味での言葉、つまりシニフィアンとシニフィエとがそろった状態で「ひとり歩き」という言葉が使われる場合がある、というかそれが現実ではないだろうか。もちろんそういう言葉の「ひとり歩き」もあるだろう。というより、こちらの使い方が本来の使い方なのだろう。だからこそ、私は「シニフィアンの」という限定語を付けなければならなかったとも言える。ただし、その場合、その言葉が何から離れて独り歩きしだしたのか、本来その言葉が共に歩かなければならなかったはずの、そのものが何であるかを明らかにする必要があるだろうと思う。それがなければ「ひとり歩き」という言葉自体のひとり歩きになってしまいそうだ。

端的に言って、文脈がわからないというか、曖昧なままで、唐突に何かが「ひとり歩き」したと言われると、何を言わんとしているのかわからないか、意味不明な場合が往々にしてあるように思われる。ちなみに、独り歩きという漢字の使い方はいいなと思う。こういう漢字の使い方ができるというのは日本語の独壇場だろう。「一人」を「独り」と書き始めたのは誰だったのだろうか。

2020年4月15日水曜日

感染者という言葉の一人歩き

コロナウィルス関連で、またいくつものキーワードが頻繁に使用されるようになった。その中で最初からもっとも気になり、メディアやオーソリティによる使い方に不満を覚えているのは『感染者』という言葉である。端的に私の考え方を言えば、殆どの場合、『感染者』は『感染判明者』あるいは『感染診断者』、あるいはもっと正確に具体的に、どのような診断法や検査方法で判明した感染者であるかを示すべきだと思うのだが、さしあたり『感染判明者』が最も適切ではないかと思う。

 『感染』という言葉自体、もちろん程度の問題であるども、最初から概念が明確であるとは言えない。ウィルスもウィルス感染者も目に見えないか、識別できない。なんらかの症状はだれの目にも見える場合もあるが、症状と感染とはもともと別物である。結局のところ感染者は何らかの検査や診断により陽性と判明した者のことであり、特定の検査や診断と切り離された抽象的な感染者というものはないといえるし、少なくとも数値的に表されるものとしてはあり得ない。

一方、感染者と併せて言及される死亡者の方は、はっきりと目に見える概念であるとはいえる。もちろん、『死』自体は他者からはっきり目に見えるとはいえるが、原因までもが誰の目にも見えるとは限らない。とはいえ、同じ文脈で使われる場合、死亡者数は感染者数の中に含まれることが明らかであるから、感染者数に比較すれば死亡者数は遥かに概念が明確であり、数値としては信用できることには間違いがない。しかし報道や一般に語られる内容をみれば圧倒的に『感染者』の方が多いのである。これはもう、感染者という言葉(シニフィアン)の一人歩きが蔓延しているとしか言いようがない。

言葉をシニフィアンとシニフィエに分析する有名な考え方は私自身、どれほどよく理解しているかは心もとないが、有用であり、便利だと思う。ただ私はカッシーラーの、言葉を乗り物に例える表現が好きである。乗り物のように、ある一つの乗り物に殆ど決まった乗員だけが乗っている場合もあるが、相乗りもあれば、乗員や乗客が交代する場合もある。時にはほとんど幽霊船のような場合もあるだろう。乗員に相当するものが概念であるとすれば、概念自体に極めて濃淡があり、かつ移ろいやすいものなのだから。

2020年2月14日金曜日

人工知能と人工頭脳 ― その3(人工知能という言葉とAIという略語の併用)

ニュース番組などで人工知能という言葉が使われる場合、申し合わせたようにAIという略語との併用で話される。AIと言った後、必ず人工知能と言い直す。これは文章の場合も同じであってカッコ付きか併用で用いられる。外国の場合はどうなのかよくわからないが、例えばWikipediaでその項目を見ると、やはり英語でもAIとArtificial Intelligenceを併用してどちらかをカッコに入れて使われる傾向があるように思われる。なぜこんな面倒くさい言葉が使われるようになったのだろうか?このこの熟語、本来は専門用語であったこの熟語自体への違和感とか問題点についてはすでに過去2回にわたって表明させて頂いたが、取り合えず、すでにこの言葉で何らかの概念が表現される習慣が定着してしまい、他の用語を使うことが難しくなってきた状況さえ考えられる。とはいってもやはり違和感あるいは使い心地の悪さ、面倒さは拭い去れない。

この言葉に相当する過去の用語はやはり人工頭脳をおいて他にはないのではないだろうか。人工頭脳という言葉があまり使われなくなった理由を考えて見るとそれは、後から、コンピューターという用語が一般的になってきたからと思われる。というのはそれ以前、日本語の場合であるが、電子計算機という言葉しかなかったところ、計算以外の目的でも使われる計算機としてコンピューターという英語が使われるようになった。さらにパソコンが普及してソフトウェアがソフトと呼ばれて個人的にも購入されるようになり、ハードウェアとソフトウェアという言葉と概念が一般的に使われるようになった結果、ハードウェアとソフトウェアが一体になった概念を適切に表現する言葉が見失われたのではないだろうか、そういう時に別のところから人工知能という言葉が登場したので、この言葉にうまく便乗したのではあるまいか。すでに前回、前々回で述べたようにこの人工知能という概念は不自然で実態があやふやな概念に思えるのだが、新味はある。という訳でハードウェアとソフトウェアが合体した概念がこの新味のある言葉に乗り移ったのではないだろうか。あの、シニフィアンとシニフィエとの複雑怪奇な関係として。

一方、人工知能というシニフィアンの立場から考察してみると、人工知能は本来従来になかった新しい人口の創造物としての概念を表現する意図をもって登場したはずである。そういうものが存在し得るかどうかは別として、そういう概念を表すシニフィアンに、従来からあったハードウェアとソフトウェアの合体物(私は人工頭脳と言って良いと思うが)が相乗りしてきたのだともいえる。そういう相乗りを許したということは、もちろん相乗り自体はあり得ることだが、もともとの人工知能というシニフィアンの中身あるいはシニフィエが空虚であったのではないかという疑いがもたれるのである。要するに空車であったからこそ楽々と入り込むことができたのではないだろうか?

では、人工知能という熟語とAIという略語の併用という現象は何に由来するのだろうか?もちろんAIという略語ではわかりにくいから人工知能という正規の用語で言い直しているのであるけれども、そういう面倒な言葉を使用するのは、端的にいって他の言葉を使いたくないからであろう。要するに新しさを演出したからであろう。人工頭脳と言えば多少は自然で分かりやすいと思えるのだがそれを使わないのはもはやこの言葉がすでに古びてしまい、新しさを演出できない。AIを併用せずに人工知能だけで済ますのは、やはり抵抗を感じるか、反感あるいは違和感を慮ってのことではないかとも思われる。個人的に思うのは、あまりにも漠然とはしているが、単にITでもデジタル技術でも良いではないか、と思うけれども。

2020年1月19日日曜日

人工知能と人工頭脳 ― その2(仮想知能・バーチャル知能という表現が優れている)

前回記事(同一表題のその1)で人工知能という言葉への違和感を書き始め、その後も考え続けていたのですが、ようやく『人工知能』は『仮想知能』と呼ぶべきではないかと思い付き、念のためにグーグル検索してみるとツイッターにそういう提案がすでに出ていましたね。

Shuuji Kajita on Twitter: "「人工知能」は「仮想知能」と改名すべき ...

トマボウ on Twitter: "人工知能は仮想知能と言ったほうが良くて ...


冒頭に述べた通り私も賛成です。ではなぜそうなのかを前回の文脈の続きで述べてみたいと思います。

そもそも『知能』という言葉は何らかの属性を表す概念を意味するのであって属性を担う存在を表すものではないからです。『人工頭脳』という場合は、頭脳そのものと同様、何かの思考に類する機能を担う存在であって機能そのものではないわけです。もっとも端的な言葉で言えば『能力』や『力』そのものがそうです。物理的な力を考えて見ても、引力、重力、圧力、火力、電力、原子力、等々、様々なレベルでいろいろ考えられますが、力そのものに天然も人工もありません。

ただ、日本語の場合、『人工』ではなく『人工的』といえば少々ニュアンスが異なってくるように思います。『人工』の場合は「人間が作ったもの」というニュアンスですが、『人工的』といえば『人為的』という言葉でも置き換えられるように、具体的な性質、性格、あるいは特徴を意味することになるので、それほど違和感は感じられません。英語ではどちらも『Artificial』という他はないので、この点では断然、日本語の方が優れているように思います。他の言語については知りませんが。という訳でこの言葉が英語起源であることには頷けるものがあります。

改めて、日本語は大切にしたいものです。特に日本語を英語化すること、安易に英語風な表現を取り入れる事、英語風な表現にしてしまうことにはよほど注意すべきではないかと思います。もちろん何でも、どのような場合でもそうだとは言いませんが。

 




2019年10月17日木曜日

人工知能と人工頭脳 ― その1

人工知能(Artificial intelligence、AI)という言葉はれっきとした専門用語であるらしく、科学技術の専門用語辞典に、定義はないが、項目はある。かつてよく使われた人工頭脳(Artificial brain)は専門用語ではないらしく、上記の用語辞典には項目がない。しかし私の個人的な印象では、この二つの言葉を比較すると、人工知能よりもむしろ人工頭脳の方に科学的な印象を受けるのである。

手っ取り早いところで日本語ウィキペディアには専門的な定義があり、次の三通りの定義が紹介されている。
  1. 「『計算(computation)』という概念と『コンピュータ(computer)』という道具を用いて『知能』を研究する計算機科学(computer science)の一分野」
  2. 「言語の理解や推論、問題解決などの知的行動を人間に代わってコンピューターに行わせる技術」
  3. 「計算機(コンピュータ)による知的な情報処理システムの設計や実現に関する研究分野」
というふうで、二つは研究分野とされているのだが、もう一つは技術の範疇である。それに続いて次のような定義が紹介されている:
  • 「『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説で、情報工学者・通信工学者の佐藤理史は次のように述べている。「誤解を恐れず平易にいいかえるならば、「これまで人間にしかできなかった知的な行為(認識、推論、言語運用、創造など)を、どのような手順(アルゴリズム)とどのようなデータ(事前情報や知識)を準備すれば、それを機械的に実行できるか」を研究する分野である」
 以上によれば、AIとは特定の研究分野を意味するものであるとの定義が優勢ではあるけれども、特定の技術を意味する定義もある。その技術とは簡単に言ってその研究分野における研究の成果物ということになるだろう。そして今や一般にはその技術的成果物の意味で使われる場合が殆どと言ってよいだろう。こうなってくると、この言葉とその帰結の行く末にはかなり心もとないものが感じられてくるのである。

というのも、一般人はこのような言葉を専門的な定義で理解したうえで使うわけではない。一般人はこの種の言葉の概念をその言葉(熟語)を構成する要素の本来の語源的な意味でとらえるのである。しかもこれは非専門家だけではなく専門家自身の方にも多分に該当するのである。そう考えた場合、「人口の知能」とは一体なんぞや、そんなものが実在しえるのか、という意識を絶えず伴いながらも、なんとなくそういうものがあるような前提に引きずり込まれがちなのである。

しかし、そもそも知能という概念自体に確たる専門的な定義もあるのかどうかは覚束ないし、コンピュータサイエンスの中でも知能という概念自体が明確に把握されているのかどうかは疑わしい。人工という概念にしてもそうである。

そのようなわけで、上記のような諸定義をこれ以上分析することは当面は諦め、独自の視点で分析してみたいと思う。その際、人工知能に似た言葉で、かつてはよく使われた人工頭脳と比較することが一つの手がかりになるように思われる。(次回に続く)

2019年8月10日土曜日

「です」の代わりとして使われる「になります」という表現の問題

「何々です」といえば済むところを「何々になります」という表現が頻繁に使われることに対する違和感や不快感を示す人は多いようで、私もその一人である。このことをもって日本語の崩壊の徴候とまで決めつける人までいるようだ。そういう心配はわかるし、ある意味同感だが、そういう苦言を呈するご本人が、私から見れば不愉快なカタカナ英語を使うことがわかって一時落胆したことがある。具体的にいうと「リスペクトする」という表現であり、これは私個人的にではあるが、最も不快感を感じるカタカナ英語の代表格なのである。その理由は「リスペクト」がカタカナ英語であること自体ではなく、単純に日本語として音が汚く耳障りであるという点に尽きるが、さらに付け加えるとすれば、普通の英語教養のある日本人でもリスペクトという発音を聞いてその意味内容、あえてカタカナ術語を使えば、シニフィエを実感できるとは思えないからでもある。簡単にいえば空虚なのだ。
 話を戻すと、問題の「です」というべきところを「になります」と言い換える表現が蔓延してきた由来を、単に日本語崩壊の徴候と短絡的にとらえるだけでなく、なぜこの表現が蔓延してきたかを考察する労を惜しまないことも大切ではないかと思う。 有能で献身的に活動する多忙な人達がいちいちそういう労をとることはできないと思われるので、こういう問題を重要なテーマと考える本ブログで少々考察してみたいと思う。
 問題の表現は店舗やあるいはコマーシャルで商品の選択肢を説明する文脈で使われ始め、使われ続けていることが多いと思われる。そう考えるとある程度その理由は次のように推し量ることができる:
  1. 会話に丁寧さと過度の婉曲表現や勿体を付け加えるために、ことさら冗長な表現を求める
  2. 言葉のリズム感
  3. 複数の選択肢から特定の商品を選択する際、他の商品ではなくその商品の選択を選択すべきである場合に、その商品であることを強調する意図が込められる。別の商品から当該商品への(意思の、目的の、適正の)移行という意味で「~になる(become)」という表現が選択されうる。うがった見方をすれば、英語の「become」には「似合う」という意味があるので、ある意味英語の影響かという見方もできる(文法的には錯綜しているが)
上記(1)について言えば、まさにこの点が聞く人に不快感を与える理由の一つともいえる。しかしこういう過剰な丁寧さと勿体を付けた表現に流れる傾向はある意味で非常に日本語的な特性であるともいえるのではないだろうか。煩雑な敬語表現の体系を持つのは日本語の美点でもあるだろうが、多大に欠点でもあると、私は考えている。

 ここでこの問題に限ってこれ以上多面的に掘り下げることはあまり効率のよい作業になるとも思えないので、今回の記事はこれで打ち切りたいと思う。ただ、日本語について、とくにその価値、貴重さやメリットや貴重さを論じたりする場合にもあまり大雑把で安易な議論はしてほしくないと思うものである。