2021年8月22日日曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その3― (続)人工知能の理念またはアイデア

前回、エキスパートシステム、自然言語処理システム、および知能ロボットに代表されるような、著者がAI(人工知能)という分野に属すとみなすシステムにおいて、人間とのインターフェースを捨象したシステムを、ソフトウェアも含めて、エーアイと呼ぶことにした(現実にそういうものはあり得ないと思うが)。いま一度この間の論理を整理してみると、著者はAI(人工知能)を、道具としてのコンピュータを含む全体的な存在として捉えていることが前提である。もう一度引用すると:AIの道具はコンピュータである。というより、コンピュータの高度な応用としてAIがあらわれたというべきかもしれない。
道具としてコンピュータを使ったり、「応用」したりする主体は、つまるところ、人間以外ではありえない。したがって私が定義するところの「エーアイ」は、エキスパートシステムなどのシステム全体から人間を捨象した部分に他ならない。この、私がエーアイと呼ぶことにしたものについては、本書の第2章以下で詳細に説明、あるいは論述されているので、かなり難しいが、本シリーズで引き続き検討してみたいと思う。第1章の残りでは、著者は「AIとは何か」について、歴史的な事情に基づいてその成果をかなり批判的に論じている。

 著者は初期のAI研究に対してかなり批判的に論評している。例えば下記引用のように:

  •  チューリングはデカルト流の<理性>を信奉していた。チューリングにとって「ある事柄を判定できる」とは、「それを立証する明晰で普遍的な数学的手順(アルゴリズム)が存在すること」であった。
    「風変わりな天才チューリングは、「そういう数学的手順を有するもの」として人間を再定義したに過ぎない。
  • AIという言葉が初めて用いられたのは1956年、米国ダートマス大学の会場であった。― 中略 ― ところで面白いことに、この教祖たちは世界をゲームかパズルのようなものとしてとらえていた風がある。そういえばチューリングもチェスが好きであった。― 中略 ― たしかに、世界をゲームとみなす世界観は一種の普遍性を持っている。だがそれにも限界がある。とくに噴飯ものだったのは、彼らがゲームやパズルだけでなく、機械翻訳までに同様の技法で取り組もうとしたことだった。しかも、現在のパソコンにもおよばない貧弱な機械を使ってである。
    いうまでもないが、翻訳のできばえは素人にも一目瞭然である。こうして破局がおとづれた。教祖はホラ吹きとののしられ、予算は削られ、AI研究はいったん悲劇的な挫折を味わったのである。
  • 思えば妙な話である。人間の知的活動はパズルやゲームばかりではない。― 中略 ― 人間活動できわめて応用範囲が広く、はなはだ高級な知的活動は、初期のAIでは無視されてしまったのだろうか。とすれば、AI研究者とはチェス盤をもった小児にひとしいということになる。
  • 言語を理解することは、意味を解することである。それが可能になるためには、宇内の万物森羅万象について、さまざまの知識を持っていなければならない。立派な辞書や文法書があるのに、翻訳家が刻苦勉励せねばならない理由はそこにある。だがこんな自明の真理も、AI研究者のあいだで広く認められたのは1970年代以降のことだった。
  • おりしも、1970年代から80年代にかけて記憶素子の値段が一挙に低下した。ここで一人の新たな教祖が登場する。スタンフォード大学のファイゲンバウムである。
    ファイゲンバウムの戦略は、安価になった記憶装置に<知識>を大量にとりこみ、それらを推論機構によって組合わせるというものだった。まさにコロンブスの卵である。意表を突いたこの戦略は、<知識工学(ノレッジ・エンジニアリング)>と呼ばれて注目を集め、AI研究は息を吹き返した。そして現在、産業界のキラキラしたまなざしを浴びているのである。

以上は本書第1章「AIとは何か 」の中ほどの小見出し「探索とゲーム」とそれに続く「知識工学の登場」からの引用である。私が興味深く、あるいは訝しく思うことは、著者がAIの理念を立ち上げた人たちを「教祖」と呼び、考え方の誤りを指摘しているにも関わらず、人工知能の理念そのものに疑いを呈していないことである。その問題とは別に、この引用から歴史的に、「知識工学」という戦略により「AI研究は息を吹き返した」ことがわかり、それは要するに、業界あるいはオーソリティのあいだで最終的にAIの理念が認められたことがわかる。著者とオーソリティとの関係は判らないが、いずれにせよ、著者の見解はオーソリティ、特に産業界における主流から外れることが無かったことがわかるのである。

ところで、前回記事のとおり、私が、AIの理念そのものが破綻していると判断した根拠と、西垣氏による初期AI研究への批判の論点とは全く異なるものである。第一、西垣氏による初期AI研究の批判の論拠は、私にとっては、この本を読むまでは全くあずかり知らない知見であった。それにもかかわらず、素人の私にも十分に納得できる論拠ではある。ただ、納得できるものの、徹底的ないしは根本的、根源的な論拠とは言えないような気がする。この点を、今後の考察で掘り下げることが出来れば、と願っている。

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