2021年8月19日木曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その2― 人工知能の理念またはアイデア

本書のタイトルは「AI 人工知能のコンセプト」である。であるから、コンセプトという用語はこの本で扱われている内容を包括的に表しているものと考えられる。本記事では、前回、AIのコンセプトを次の3つのカテゴリーに分けた:①現に存在している各種システムの分類名として、②AIそのものの概念、理念と呼べるかもしれない、③実現すべき最終目標としてのAIの概念。そこで前記②について検討する今回の記事では「理念」という言葉で通したいと思う。この場合「アイデア」を使っても良いと思う。本書の著者はもちろん、この言葉は使っていないけれども。

余談になるが、理念という言葉は昨今は「企業理念」という類の熟語以外ではあまり使われないように見える。思うに、この日本語はドイツ語のIdee(イデー)の訳語として成立したのではないだろうか。とすれば同一起源の英語のIdea(アイデア)に相当し、実際ある辞書ではIdeaの日本語訳の1つに「理念」もあったが、全般にIdeaの訳語としては他の多数ある言葉が主流である。逆にある和英辞典では「理念」の訳語にIdeaはなかった。ギリシャ語本来のIdeaは日本語では「イデア」と表現することになっているらしい。こういった事情は翻訳には困るが、反面で日本語のメリットの1つではないかと思う。

さて、厳密に言って、著者は本書でAIの明確な、あるいは一意的、明示的な定義は行っていない。ただ最初の方で、次のような表現で一種の定義を行っている:「 AIの道具はコンピュータである。というより、コンピュータの高度な応用としてAIがあらわれたというべきかもしれない」。そして具体的には「エキスパート・システム、自然言語処理システム、知能ロボット、以上の三つがAIビジネスの主要分野である。」と書いている。これらの2つの表現においていずれも何らかの定義ではあるが、AIを定義しているとは言えない。

最初の、「AIの道具はコンピュータである」という表現ではAIを擬人化しているといえる。なぜなら、コンピュータを道具として使う主体は、人間以外ではあり得ないからである。「コンピュータの高度な応用」という表現においても、「応用」を行う主体は人間以外にあり得ない。一方、「以上の3つがAIビジネスの主要分野である」 という表現では、AIそのものについてではなく、AIビジネスについて語っている。というわけで、どちらの表現においても、AIがすでに定義済みのものであることを前提とした表現であるが、著者はこれまでにAIを定義していないのである。したがって「人工知能」を字義どおりに解釈するほかはない。とすれば、つまり、AIが字義通りに「人工の知能」と定義されているとすれば、それは「人工知能」の擬人化にほかならず、AIを人間と同一視していることになる。もう少し詳しく分析すると、この擬人化は、例えば動物や無機物や、あるいは鏡像などの自明、あるいは定義済みの対象を擬人化する場合とは異なる。端的に言えば、AIと表現されている本体(シニフィエ、signifiedと言っても良い)は、何らかの状況でコンピュータを操作あるいは使用している人間自身に他ならないと考えざるを得ないのである。

一方、上記の、著者がAIビジネスの主要分野と考えているところの、3つのビジネスの最初の2つはなんらかの「システム」と表現され、3つ目は「ロボット」と表現されている。いずれも人間によって設計され、構成されたものであることは言うまでもないが、現実の使用または機能においても人間との関わりなしにはあり得ない。ふつう、インターフェースと呼ばれる入力装置や読み取り装置、認識装置が機械側にあり、人間の側ではそれらと感覚器官や運動器官を通して連結している。またコンピュータは電源なくしては動作しないが、電源は電力網であっても、電池であったとしても、それ等自身の背後に巨大な人為的システムが控えている。要するにそれらのシステムもあらゆる道具や機械と同様に人間と一体となって機能し、人間が使うシステムなのである。

言い換えると、著者が上記文脈で使っている「AI」は、特定の状況下における条件付の人間そのもの(集合的であれ単独であれ)に他ならない。したがって当然、諸々の人間的な感情や能力に左右される。ところがこの定義(AIそのものの定義ではないが)以降、本書でこの後の文脈すべてで使われている「AI」は、人間によって作られ使われる対象の道具の部分を意味しているといえる。それはもちろん人間によって作られたものではあるが、一応は人間と切り離され、独自に機能する部分である。という次第で、私は、著者がこれ以降に使っている「AI」を「エーアイ」と呼んで議論することにしたい。理念としてのAIはこの時点ですでに破綻していると言っても良い。

このエーアイを人工頭脳と呼ぶことは不自然ではない。「頭脳」も厳密に定義することは難しいことは確かである。頭脳を脳とみなしたところで、脳は臓器の1つであるが、臓器自体の定義も簡単ではない。とはいえ頭脳と呼ばれるものは、少なくとも全体としての人間でも、その属性あるいは特質でもなく、身体的にも機能的にも全体としての人間の一部を構成するものと考えられるからである。著者が「AIビジネスの主要分野」と考えている3つのシステムないしロボットは、これに相当すると見て良いだろう。著者は本書でこれ以降、この3つのシステムについて、エーアイの概念の下に語っているといえる。

 著者はこれ以降、すべてのインターフェースと切り離されたものとしての、ハードウェアとソフトウェアとの組み合わせを、仮想的に想定し、それについて人間の機能と比較することになっているように、私には思われる。仮想的というのは技術的といえるかもしれない。つまり実用上、思考経済の手段として想定するものである。これを「人工〇〇」と表現するなら、やはり上述のとおり、「人工知能」ではなく「人工頭脳」が相応しい。頭脳は人間そのものではないからである。すくなくともAIと呼べないことは、本稿の上記パラグラフで証明されたのではないかと思う。いずれにしても本書ではこれ以降、諸々のインターフェースから切り離されたシステムの一部について、具体的には特にソフトウェア、具体的にはプログラム言語や形式論理に関する問題である。この種の問題になってくると私は断然、予備知識が不足しているので困るのだが、取りあえず今回の記事はこれまでとし、次回以降に引き続き考察を続けたい。


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