2012年6月6日水曜日

「LED電球の光がまっすぐに進む」と言われることと「鏡像問題」との奥深い関係


当ブログで先日、「LED電球の光が真っ直ぐに進むのは当たり前」という記事を書き、この場合に「真っ直ぐに進む」、あるいは「直進性が強い」といった表現が不適切であるという考えを述べました。LED電球の光に限らず、光そのものが直進するものと認められている現在の科学において言葉の一義的な使用を前提とするなら、LED電球の光に限って、あるいは従来の電球の光に比べて直進性が強いということは、あらゆる光が直進するという前提を否定することになるからです。現実には、真正面方向の明るさが強く、それに比べて側面方向が暗くなるということをこのように表現しているわけですが、これは明らかに言葉の意味が一義的でなければならないという科学的表現の原則に反しているわけです。

ただしかし、多くの人がこういう表現を違和感なく使っているということは、それなりに理由がありそうです。また、それ自体が興味深い問題であるとも言えるように思います。もちろんこういう言い方が不適切だという考えに変わりはありませんが。

そういう次第でこの問題をもう少し考えてみたのですが、それは本ブログや『ブログ・発見の「発見」』で取り上げてきた鏡像問題とも深いところで関わっているところの、科学と言葉に関する本質的な問題であることがわかってきたように思います。

ちょうど一昨日、かなり長期間にわたって少しづつ読み進んでいたエッカーマン著、「ゲーテとの対話」を読み終えたところなのですが、前日に読んだ終わり近くの箇所で、1831年6月20日に、ゲーテは次ようなことを語っています(この日の対話者はエッカーマンではなく、ジュネーブ出身で自然科学に造詣が深かったソレという名前の人物とのことです)。

「すべての言語は人間の手近な欲求や、人間の仕事や、人間の一般的な感情や直感から生じるものだよ。もしも今いっそう高次の人間が、自然の不思議な作用や支配について予感や認識を得るとすれば、彼に与えられた言語では、そういう人間的なことから完全に隔絶したものを表現するにはとても十分ではないのだ。それ特有の観察をみたすためには、魂の言語が自由自在に駆使できなければならないだろう。しかしながらそうすることができないので、異常な自然状況を観察しながらもたえず人間的な表現によるより仕方ないわけだ。そのときほとんどどんな場合でも舌足らずになり、その対象を引き下げるか、あるいはまったく傷つけてしまうか、台なしにしてしまうかなのさ」(山下肇訳)。

 「光が真っ直ぐに進む」という表現も、改めて考えてみれば実に人間的な表現であることがわかります。

先日の記事で述べたように、「LED電球の光が真っ直ぐに進む」と言われることをもっと正確に表現すれば、「LED電球の光は拡散性が小さく、側方に比べて前方に進む光量が多い」ということにでもなろうかと思いすが、人間について言えば、前に向かって、つまり前方に進むことがそのまま「真っ直ぐに進む」ことであり、直進することでもあるといっても違和感がないからです。

実際、光について語る場合も言葉の本質上、ゲーテの言うように、つねに人間から離れた表現を使うことはできないのでしょう。光が「進む」という表現自体、擬人的といっても差し支えないもののように思われます。普通、人間や動物にとって「進む」とは、さらに「直進する」とは、真っ直ぐ前に向かって前進することと同義語のように使われていると思います。その表現がそのまま、LED電球の光について使われているということでしょう。

「ゲーテとの対話」の先ほどの箇所で、ゲーテの言葉に続いて対話者のソレ氏が次のような考えを述べ、ゲーテに褒められています。

「・・・ドイツ語は・・・比喩の力を借りねばならぬとしましても、それでもかなり言わんとすることには近づけるでしょう。しかしフランス語は、私たちに比べて、大変不便です。フランス語では高次な自然現象を表現しようとすると、ふつう技術から得た比喩によってなされますから、すでに物質的になり、卑俗になってしまいますので、高次な観察にはまったく適しておりません。」
「なかなかうまくいいあてるね。」とゲーテは口をはさんだ、・・・・。

LED電球はまさに現代の高度技術の産物です。その仕組みも構造もそれ自体が人間が夜間の環境を照明する目的で開発された技術の産物にほかなりません。その目的に沿って作られた電球の構造には前、すなわち前方があり、側方があります。だいたい道具に限らず人間が作ったものには何らかの方向性があります。たいていのものには少なくとも前と後ろ、あるいは表裏は持っている。多くの場合はそれに加えて上下の方向性もあります。電球の場合、通常はねじがついていますから、左右の方向性を持っているといえるかもしれません。

その方向性を持った道具である電球の、前方あるいは真正面に向かう光量が多いことが人間が前に進むことの比喩、あるいは擬人化から、「LED電球の光はまっすぐに進む」と表現されることになるのではないかと思われます。

しかしこれは明らかに、いわゆる光の直進性の原則からは外れたおかしな表現です。LED電球の光に限って直進性が強いというのは、あらゆる光は直進するという原則とは矛盾することになります。自然科学における用語の一義性からいえば明らかにおかしい。したがってこの場合の用語法は科学的ではない、科学ではないということになります。

特に、「真っ直ぐに進む」という表現はまだ日常語的な、おおざっぱなニュアンスがありますが、「直進性が強い」といった、いかにも科学的で厳密な印象を与える表現は、明らかに人を誤った方向に向かわせるようなところがあるように思います。こういう表現を疑似科学的表現と言えるかもしれない。疑似-科学的-表現です。いわゆる「疑似科学」ではありません。

当然のことながら、LEDランプは高度技術の産物であり、人工の道具ですが、光そのものはそうではなく、純粋な自然そのものの最たるものでしょう。

この場合、たとえ「LED電球の」と限定されているにしても、なんとか工夫して「光」ではなく、「電球」を主語にした表現を工夫すべきではないかと考えます。人間が作ったもの、道具や機械はいわば人間の延長であり、分身ともいえます。その最たるものがコンピューターやロボットで、これらはもう、擬人的表現なしには説明することも、使うことも不可能になっています。つまり、道具を主語にするのであれば人間的な、あるいは擬人的な表現でも問題は少ないということです。

もちろん、自然物にも上下左右前後を持つものは沢山ある。火山は上に向かって噴火するし、噴煙を上げる。しかしそういう上下はすべて人間にとっての上下を基準に定められたものであり、火山という単位も一つの人間が切り取った認識の単位に他なりません。
そこで、上記、つまりあくまで人間の認識に基づいた基準であるという事実を踏まえたうえで自然界のもろもろの上下、前後、左右を考察してみることから何か興味深い展開がもたらされるような気もします。

たとえばいま例に挙げた火山は基本的に上下の構造を持っているといえます。それに対して河川は上下に加えて前後(流れ方向)と左右(左岸と右岸)をも基本的な要素として持つと言えそうです。

天体は、地球に対する方向性を別にすれば、基本的に方向性はないように見えますが、太陽系や銀河系になると上下の方向性が出てくるようにも思われます。あるいは一つの天体でも回転することで方向性が出てきそうです。

分子構造でも対掌体と呼ばれる右型と左型のセットがあることは有名な事実であるし、特に素粒子の世界で対称性が問題になっているらしいことは、数年前にノーベル賞を受賞した日本人研究者による「自発的対称性の破れ」で有名になっています。この辺りの問題になると敷居の高い高度な数学の問題になり、ここで私は立ち止まらずを得ないわけです。

気になることは、こういう問題が人間的なものとどのようにかかわっているのか?ということ。「鏡像問題」の次元では問題が人間的なもの、生命的なもの、認識論的なものと関わっていることが見えるように思えるのですが、素粒子論などになるとそれがまったく見えてこないということ。今のところ筆者には取り付く島がないというところでしょうか。