2015年5月16日土曜日

科学哲学について思うこと ― 『科学哲学への招待(野家啓一著)』および『科学哲学(ドミニック・ルクー著)』の読後メモ

タイトルにある二著作のうち、今回読了したのはこの3月に文庫本形式で刊行されたばかりの『科学哲学への招待(野家啓一著)』の方である。一言でいって専門用語としての「科学哲学」の概念が、かなり明瞭に提示されている本である。実のところ、科学哲学という言葉は見聞きしていたという意味では知っていたが、専門的に定義されているような意味ではよく理解していなかったので、この用語の概念がかなり明瞭に把握できたことは個人的に意義のある契機となった。

しかし、読み進むうちに、1~2年ほど前だったか、後者の方『科学哲学(ドミニック・ルクー著、文庫クセジュ日本語訳)』を読みかけて放棄したままだったことを思い出した。あまり内容も記憶しておらず、やはり翻訳本であるということもあって、読みづらく面白く読めなかったせいかとも思ったが、あらためてこの本を取り出してページをめくってみたところ、半ばあたりまで、ところどころ色鉛筆で線が引いてあり、自分のことながら結構まじめに読んでいたらしいのだった。しかしやはり翻訳本の文章が持つ宿命で、表現のインパクトが弱かったのだろう。

という次第で、後者の方も、正確に前回中断した個所からというわけではないが、目次を見て興味深く思われた箇所、結果的に、前回中断した個所よりも少し後の方からもう少し真面目に読み直してみた。その個所というのは、フランスの伝統、学者、特にバシュラールという哲学者を中心に解説した個所から始まっていた。この学者については前者に言及がなかったこともあり、短い本でもあるので改めて真面目に読んでみたのである。

両者の内容はだいたい重なっていると言える。前者は、「第一部・科学史」、「第二部・科学哲学」、「第三部・科学社会学」の三部構成になっているのに対し、後者は第1章から第21章まで切れ目なしにつながっているだけだが、前者と同様に三部構成として見ることができる。というのは、第一部と第二部はテーマとしてかなり共通しているといえるからである。特に第二部に相当する部分がクーンのパラダイム論で終了し、そこから第三部の科学社会学なり、科学論、あるいは別の展開といった方に移行するという構成で共通している。ただ後者では、この前者の第三部に相当する部分がバシュラールを中心としたフランスの哲学者の仕事と、生物学における科学哲学の問題が扱われている。前者では、この部分は科学社会学という範疇の中で多様な問題が扱われているわけだが、当然、後者と重なる部分もあり、互いに重ならない部分もある。

両者それぞれに意義があると思うけれども、個人的には後者の方が興味深く思われた。というのも、後者の行き方の方がそれまでの第二部までの内容と密接につながっていると思われる点で私の個人的な関心に対応しているように感ぜられたからである。しかし現在日本の社会的関心からいえば、前者の方が有意義かもしれない。

という次第で、両者共に第二部に相当する部分、すなわちクーンのパラダイム論に至るまでの内容が事実上、狭い意味の「科学哲学」であることが、今回の読書でかなり明瞭に理解できたことが、今回の個人的な収穫だったといえるかもしれない。

今回、この「科学哲学」について改めて、今回理解できた範囲で考えてみたのだが、基本的にこの「科学哲学」は論理学であり、それも形式論理を基礎に展開されてきたのであり、「意味」の領域に踏み込む程度が貧弱なのではないかと思われた。

もちろん、「意味」が重要な要素として扱われていないわけではない。しかしそれは意味の定義とか、「意味とは何か」あるいはある要素が「意味を持つ」か「持たない」か、といった、意味を中身の見えないパッケージとして扱うにとどまるかのような印象を受けるのである。そこが、「意味」の内容に深く関わっているカッシーラーの哲学などとの違いではないかと思うのだが。

後者(ルクーの著作)でかなり重点的に解説されているバシュラール等の哲学者の言説は、この短い解説書から漠然と読み取れた限りでは、カッシーラー同様に意味の中身にまで踏み込んでいるような印象を受ける。

それにしても、引き続きこの本で紹介されている生物学的な科学哲学の興味深い解説を読むにつけても、科学は永久に言葉の枠から抜け出すことができないという、一種の絶望に行き着くようにも思われる。ただしそれは科学にとっての絶望である。

カッシーラーは『シンボル形式の哲学』第三部の序文で次のように述べている。

「哲学は、言語という媒体と言語的諸概念という乗り物に分かちがたく結びつけられている単なる科学が達成し得ない事を達成してみせる。」