2017年1月28日土曜日

鏡像の意味論その12、平面パターンと文字の鏡映反転について ― Haig氏の理論に関連して

【今回のキーポイント】

光(光線)は物理的な存在であるのに対して、像(イメージ)は物理的な存在ではない。像は知覚される内容(あるいは意味)である。

 

 ● 人は記憶力で像を記憶したり、想像力と思考力で像を動かしたり、回転したり、あるいは見えない部分を補うこともできる。ただし、これらについては相当な個人差がある。

鏡は光を反射するのであって、像を反射したり変換したりといったことはできない。

ヒトが眼(網膜)を通して見るのは像をであって、光ではない。

さて前回、「次回は鏡映反転において対掌体の性質が持つ意義について考えてみたい」と書きましたが、今回はそれとの関連で、前回の最後の話題になった平面パターンと文字の場合に焦点を合わせる方向で、考察してみたいと思います。


少々横道にそれますが、私自身が鏡像の問題でこのシリーズのような記事を書いたり論文を公表したりしていますが、正直なところ今でも他の人が書いた鏡像問題の論文や記事を読むのは苦手で気が重く、英文であっても日本語であっても相当に苦労します。最初の頃、多幡先生から認知科学誌の論文集(日本語)をお送りいただいた時も最初はあまりにも読みづらいために、1年間ほどそのまま放置していたのです。その時点では自分で論文を書いて発表し、諸先生方と議論したいなどとは思っても見ませんでした。


しかし当時、ちょうどカッシーラーという哲学者の書いた『シンボル形式の哲学』を遅々としながら1日あたり数ページといった調子で読んでいたのです。特に素養もないのに何故その時期にのような哲学書を読もうと思ったのかという話になると、この記事を終えることができなくなるので止めますが、翻訳者の木田元氏による解説で、この書が「20世紀哲学の最大の成果であると考える」、と書かれていたことにも鼓舞されて、私にはあまりないことなのですが、最後まで一通り読むことは読んだのです。


全体としてどれほど理解できたかは心許ないものの、なぜか『第二巻 神話的思考』で、幾何学空間と知覚空間という二つの空間が比較されている個所を読んだときには最初から非常な、衝撃ともいえるほどの感銘を受けたのです。それが鏡像問題と関係がありそうに思えたことについてはこのブログでも書いたのですが、これが心理学や認知科学方面の先生方の目にとまった様子もなく、自分で展開してゆくほかはないな、と思うようになったという次第ということになりますか。


そんなわけで、他の人の論文を読むのは今でも本当に難しいと思います。その理由などを考え始めるとまた横道にそれるので、以下、論題について端的に進めたいと思います。


前回、文字の鏡映反転の問題で検討した高野陽太郎先生の、米国心理学会のPsychonomic bulletinに掲載されているTakanao(1998)を再読し始めたところ、最初の方で図1としてHaig(1993)から転用された図が用いられています。この図によるHaig氏の理論に対する批判が述べられているのですが、Haig 理論に問題があることには同意できるものの、高野先生はHaig 理論とこの図を正しく理解していないのではないかと思われたので、Haig 論文そのものを見なければならないことになりました。幸いなことに、ちょうど昨年末に、また多幡先生がHaig 論文を含むいくつかの外国の論文を送ってくださっていたのです。以下にHaig 論文から問題の図を引用してみます。この図について著者の説明を最初から紹介すると煩雑になるのでやめますが、とりあえず「mirror」と「face」で鏡と顔が表され、EとFで視点、つまり眼が表現されています。



Haig(Perception, 1993、Volume 22, pages 863-868)から引用

この図に対するTakano(1998)に見られるコメントについては後に触れますが、とりあえずこの図によるHaig氏の説明には、図を見るだけで、少なくとも3つの、興味深くはありますが、致命的な欠陥があることが指摘できます。それは:


1) 複雑な人体の一部で凹凸のあるべき人の顔が真っ平らな平面で表現されていること
2) 画像であると仮定したとしても、人の顔が四角形でしか表現されず、 上下と左右を表す基準が何も示されていないこと
3) 形状の逆転(鏡映反転)の根拠が光線の方向のみで説明され、像(Image)で説明されていないこと。

【1(顔が真っ平らな平面で表現されていること)について】

上下・前後・左右が問題になっている鏡映反転の問題で、人様の顔を平面で表現するなど、妖怪漫画のお化けではないのだから、乱暴というか、暴論というより他はありませんね。その結果、一切の前後方向の要素が欠落することになってしまいました。


【2(上下と左右を示す基準が表現されていないこと)について】

著者はこの図で上下と左右および前後を定義していますが、本来上下・前後・左右は空間についても個物についても任意に、勝手に定義できるものではありません。具体的なヒトやモノ、空間を離れた抽象的な上下・前後・左右はありません。著者は本文中では解剖学の用語を使って、結果的には、上下・前後・左右の根拠になっています。しかし、この図を元に説明している以上、図にその根拠を表現する義務があります。仮に上下と左右を認めるとしても、このような二次元の平面では前後を表現しようがありません。仮に正面を向いた顔の絵が描かれているとしても、後ろから見ると後頭部が見えるわけではなく、同じ顔の絵を裏から見た像が見えるはずです。

一方、著者はこの図によって左右の逆転は物理光学的に説明できるとしていますが、本文中で解剖学用語(sagittal、矢状)と概念を使用しています。これでは単に物理光学的な論証とは言えないと思います。


【3(鏡映反転が像ではなく光線の方向で説明されていること)について】

人が見るのは像であって、光あるいは光線ではありません。物理的な物体を見るには光で照明を当てる必要があります。光に光の照明を当てられるでしょうか?

もっとも、光そのものではなく光源を見ているとは言えます。それは眼の網膜に投影された光源のパターンが元になって網膜像が成立しているからですが、網膜上の光源のパターンと網膜像はまた別ものです。詳しい専門的な用語は調べていませんが、私の定義では網膜像は網膜パターンを元にその人物が認知する像のことと考えています。この、現実に認知する像が立体であることは自明であると言っても良いと思います。現に私たちが周囲の人や物や環境を立体として認知しているわけですから。このような現実の視空間の像が網膜パターンからどのように認知されるかは解明されていませんが、Haig氏が「The question of how mirror-reflected objects are perceived remains, of course, a psychological one」と言っているのは恐らくこのことでしょう。脳科学で研究されていると言われますが、おそらく科学的には永久に解明できないのではないでしょうか?


いずれにしてもHaig説のように光線の方向あるいは位置で説明する限り、網膜パターンという平面に対応させざるを得ないので、Haig氏は顔をも平面で表現せざるを得なかったのではないかと考えられます。

これは別の面からも言えます。仮に図の四角い「face(ABCD)」に凹凸(前後方向)が表現されていたとしましょう。例えばface平面に直交する線上でf「face(ABCD)」の前と後ろに1つずつ点があったとします。図に書いていないので分かりにくいかも知れませんが、この2点から眼に到達する2つの光線の方向の違いによって遠近、つまり前後が表現できるでしょうか?結局それらは左右の差となって表現される他はありません。言い換えると「前後方向の差は左右の差に変換される」ということで、物理的なの光線の作図による限り、顔の前後方向は表現され得ないわけです。しかしヒトそのものや顔面に限らず鏡に映すあらゆるモノが立体ではないということはあり得ないので、このような方法では現実を正しく表現し得ないということが分かります。Haig氏は「鏡は実際には鏡に向かう人物の前後軸を逆転している」というGardner説を否定していますが、そもそも前後軸を消去してしまうような方法論と図を用いているわけで、これは完全な誤りであることが分かります。

一言で言えば「光と像は全く異なるものであり、鏡像問題の対象は光ではなく像である」ということです。

では像とは何でしょうか?また像と光の違いは何でしょうか?今はこのような議論を始めてもまた収拾がつかなくなるので止めます。ただ、物体をを直接見る場合と、鏡像として見る場合の何れの場合も、次の2点は確実に言えると思います。

1)光は物理的な存在であるのに対して、像は知覚される内容(あるいは意味)であり、物理的な存在ではない。

2)人は記憶力で像を記憶したり、想像力と思考力で像を動かしたり、回転したり、あるいは見えない部分を補うこともできる。ただし、これについては相当な個人差があることは確かです。


ここではHaig(1993)説自体については説明していませんが、それでも上の図を元にしていることだけで、それが行き過ぎた単純化による暴論であることがわかります。しかし上記の3つの問題をを指摘できたことは、この図が鏡像問題の本質を叩き出すいわばたたき台としてきわめて興味深いと思うのです。同時に、この図によるHaig氏の説明に優れた、正当な部分があることも認めざるを得ないのです。


まず、三つの問題点のうちで(1)に付いて言えば、この説明が正しいとしてもそれは平面パターンにについてしか適用されないとことが明らかで、当面これ以上の説明は必要がありません。そこで残りの(2)と(3)について、このような誤りがその後の考察にどのように影響しているかを考えてみたいと思います。


今述べたように、この図には1つ以上の優れた点あるいはメリットがあります。その1つは光の経路という物理的な存在のみを表現し、鏡像という非物理的存在を描いていないことです(この点を理解せずに批判する人もありますが)。具体的に言うと、Haig氏はEの位置(眼の位置)で顔(ABCD)を鏡で反射させて見た場合の像と、Fの位置で鏡を透明とみなして顔(ABCD)を直接見た場合の像を比較しているので、鏡像も直接見た像も描いていません。強いて言えばどちらの像も顔(ABCD)そのもので表し、顔(ABCD)を正面から見た場合がFの位置で見た像に近く、おなじ顔(ABCD)を裏側から見た場合がEの位置から見た鏡像に近いと言えるでしょう。この表現は私の考え方、つまり、鏡映の関係とは実物と鏡像との二者関係ではなく、実物を直接見た場合の像と、同じ実物を鏡に反射させてみた像との二者関係であるという考え方を示す点では適切であると考えます。鏡映反転を表現する図では、よく上から俯瞰した鏡像を描きますが、それは虚像といわれるように、鏡を見る本人以外に外部から客観的に見えるはずがありません。(もう1つの優れた点は観察者自身の視点ではなく他人の視点で考察していることですが、これについては今回は触れません)


とはいえ、鏡を見る人(E)が実際に眼をとおして見るのは先にも触れたように、光でも光線でもなく、像(イメージ)なのであり、 図をもとに説明する以上は像を表現する必要があると思います。結果的に、この図では光線のみが表現されているので、像を見る人が正立している場合には必ず左右で鏡映反転が生じることになり、人が横向き、つまり寝そべった状態で見ている場合は必ず上下逆転というように確定してしまいます。


これは、像が平面パターンである限り、「鏡像は左右が逆転するのはなぜか?」という問いかけに対する解答としては間違ってはいないし、一つの正解であるとも言えます。文字の場合もこれに該当します。ちなみに、文字の場合は平面であると同時に、形状が著しく単純であったり、逆に複雑であったりするために、左右を逆転させたり回転させたりしても同じ形状になったり、逆に全く別の形して認識され、全く読めなくなったりするという特徴が指摘できると思います。文字の特徴としてよく指摘されることで、上下と左右が定められていることは別に文字に限ったことではないし、また洋書の背表紙のように横向きに表示される場合もあります。


ところが、鏡像問題は「左右が逆転するのはなぜか」という問いかけに限られないことはすでにはっきりしています。上下や前後が逆転して認識されることについてはすでに多くの指摘があるとおりです。これは像が物理的存在ではないことに関係していると言えるでしょう。


先に述べたとおり、像(イメージ)は物理的な存在ではないので、それを記憶したり、想像力と思考力を駆使して位置を移送させたり回転させたりといった操作ができます。これは当然、その場のさまざまな条件と見る人の個性や能力にも影響されることです。自分自身が動くことを想像するとしても結局は相対的な問題なので同じことです(「回転仮説」だとか「回り込み」だとか色々と回りくどい表現がなされていますが)。ですから平面パターンの場合でも、普通は左右の逆転と見られる場合にも、想像力をたくましく働かせれば上下の逆転とみることも可能なわけです。


このような鏡映反転の問題を、平面パターンだけではなくあらゆる場合を含めて包括的に説明するのが対掌体の概念であり、また等方的な幾何学空間と異方的な知覚空間の概念であると言える、ということです。


今回はHaig先生のhaig(1993)を分析することで、結果として平面パターンの鏡映反転について考えてみました。次回は
haig(1993)に対する高野先生のコメントを契機に、高野先生のTakano(2008)を再び検討することで、虚像の問題、鏡像は虚像であることの意味を考えてみたいと思います。
 (以上田中潤一)