2010年1月10日日曜日

「疑似」という言葉の弊害

最近、といってももう可成り前になってしまったかも知れないが、2つの文脈で「疑似」が使われている例に遭遇した。

1つはウィキペディアでLEDランプについて調べてみたとき。もう1つは作家の冷泉彰彦氏のメールマガジン[『from 911/USAレポート』第440回、[JMM565Sa]「3Dという文明と日本文化」from911/USAレポート ]の文中にて。

初めの方は、LEDランプの原理で「疑似白色発光ダイオード」という言葉が使われていたことだ。これはもう学会や業界の専門用語として確立しているのであろう。しかし、疑似科学論議の文脈でいつも言うように、疑似という言葉は定義の困難な、あるいは曖昧な概念に対して使われると弊害が大きいように思うが、白、白色という概念も非常に厳密な定義の困難な言葉の1つである。例えば白い紙は赤い光が当たって赤く見えているときも、その紙の色自体は白である、というか白い紙であることに変わりはない。つまり同じ白でも物体について言う場合と光について言う場合では異なった意味になる。そこで白色光という、つまり光源の色に限ったとしてもまた定義は難しい。

たとえば白色X線という用語がある。X線は眼に光としては感じられない。当然色として見えないので比喩と言うべきである。これは連続X線とも呼ばれ、要するに波長を横軸に、縦軸に量をとったグラフでなだらかに連続した曲線をもつX線である。対立概念は白色に対する黒色ではなく、特性X線であり、要するに先のグラフでは鋭いピークを指している。おなじ連続X線でも、個々のケースで波長分布や頻度、要するに曲線の傾き、形は様々である。特性X線のピークにしても完全にただ 1 つの周波数というわけでもなく一定の幅がある。一方先の疑似白色光ダイオードに対する対立概念として「髙演色白色光ダイオード」というタイプがウィキペディアの同じ項目に出ているが、それによれば原理的には上記疑似白色と同じく青色発光ダイオードに黄色の蛍光体を組み合わせたもので、ただ黄色の発光体のスペクトル幅がひろく、多くの波長が含まれているということで、量的な違いに過ぎない。

この種のLED光源に対して三波長型は三種類のダイオードを組み込んだもので、鋭いピークが3つある。ピークの数から言えば2つよりは連続に近い。だからこちらの方が良質な光源だと言う人(科学者)もいる。さらに同じ三波長型であるともいえる液晶ディスプレーと相性が良いそうだが、ピークが鋭いため、「疑似白色光ダイオード」に比べて照明には向かないと、ウィキペディアには書かれている。

こう考えてくると、「疑似」なる用語は殆ど意味がない事が分かる。分類するのなら発光のメカニズム、構造、そして波長分布の特性で分類すべきである。それも三波長というような波長の数ではなく発光体の数と種類で類すべきだ。三波長型はピークが鋭いと言ってもあくまでもそれぞれがピークであり、ただ 1 つの波長というわけでもない。

特に、こういった工業製品などには「疑似」という、誤解を招きやすく、人聞きの悪い表現は避けるべきではないか。

次に、冷泉彰彦氏のメールマガジンの方だが、こちらは映画アバターにちなんで3D映像の文化的意義の考察といった内容で、それ自体は興味深いものだった。このエッセーの中で氏は遠近法のことを疑似3Dと呼んでいるのだが、ここでの「疑似」にも大いに問題がある。やはり定義の問題になってしまうが、「3D」もきわめて多様な言葉で使われてきた言葉である。そのまま正確に表現し直せば三次元という事だが、3Dは情報技術との関わりでよく使われるようになった表現である。もう最近はあまり使われなくなった言葉である「コンピュータグラフィックス」において形態の三次元情報のデータを持っている映像のことではなかっただろうか。アバターに使われている技術での3Dには、もちろん詳しくは知らないが、この意味の3D技術ももちろん含まれている筈だが、それに加えて、画像データだけではなく、視聴者が見る場合の技術、つまり左右両眼で異なった映像を見るという技術の事をも指しているようである。つまり両眼の視差による要素である。これは昔はステレオ写真といったり、立体写真と言ったりしたが、今は動画の場合が多いので立体映像というようになり、簡単に表現するために3Dと言うようになったのだろう。

このように3Dという言葉の意味や用法に相当な曖昧さがあることは先の白色の場合と同じである。そして同様に「疑似3D」という表現には大いに問題があると思うのである。とくに「遠近法」を疑似3Dと表現することには問題がある。

日本語で「遠近法」というと何らかの技術というような印象がある。しかし本来これは技術と言うよりも現象、視覚あるいは知覚の心理的な現象と言うべきではないか。原語の perspective からもそのようなニュアンスが感じられる。絵画や写真の技術とは関係なく、人間の立体的な知覚には遠近法が含まれているのである。両眼の視差による遠近感の知覚は、遠近法を補強する要素に過ぎないといえるのではないかと思われるのである。

遠近法に対して「疑似3D」というような表現を使うと、人間の知覚、認識についての理解を固定化し、硬直化して、理解を深めてゆくことが出来なくなってしまうように思われる。

「疑似」という表現はいかにも科学的で厳密な用語のように感じられる。確かに定義が厳密な場合には便利であり、科学研究を進める上でも効率的であるかも知れない。生物学や鉱物学では生物種あるいは鉱物種、あるいは形式種別において「擬」という表現や、もっと露骨に「ニセ」という表現が使われる場合がある。生物学の種名ではよくあることで、ニセアカシアなどが有名だ。こういうのは固有名詞に近いもので、人名や商品名の様なものだ。この場合の「擬」あるいは「ニセ」は原語では Pseudo で、疑似の場合と同じである。この用語は学術用語的な響きがあるから、なおさらこういう言葉を使われると科学的で厳密であるかのような印象を持たれてしまう。しかし現実はただ効率的で便利だから使われているに過ぎないのである。

固有名の単なる命名を超えて、便利だという理由だけでやたらにこの言葉を使用することは誤解をまねく場合があるというだけではなく、思考を硬直化させ、思考の発展を阻害させるいって良いと思われる。

「疑似」という言葉は可能な限り使わない方が良い。
また言葉の使い方でも効率ばかりを追求しない方が良い。


2010年1月4日月曜日

クラリネットはガラス工芸、ヴィオラは陶磁器

最近、名ビオラ奏者と言われるバシュメットという人の演奏するブラームスのヴィオラソナタ、つまりヴィオラとピアノによる二重奏ソナタ2曲とチェロが加わったビオラ三重奏曲の入った中古CDを買った。

ブラームスのこれらのソナタ集、すなわちクラリネット(ビオラ)とピアノによる二重奏ソナタ集の録音を買ったのは3度目になる。私は同じ曲のレコードを何枚も、何通りも購入するような音楽マニアでもなく、時間的にも経済的にも余裕のある暮らしをしてきたわけでもないが、なぜかこの曲に関しては、3回、時をおいて買っている。

最初はもうかなり以前というよりも昔、当時すでに過去の名盤の廉価版と言う形で、古いモノラル録音によるLPレコードで、演奏者はウラッハというクラリネット奏者と、ピアニストはもっと有名なイェールク・デムスだった。解説によるとウラッハはウィーンの伝統を体現した最高のクラリネット奏者であるとのことだった。

当時このレコードを何度か聞いてこの二曲が好きになった。しかし、古いモノラル録音のため、音の鮮度というものが物足りなく、特にクラリネットなど、音色に魅力がある楽器であるだけに、不満があった。それから幾年月かが過ぎ、今度はCDの時代になってからライスターというドイツの有名なクラリネット奏者の演奏で、これらブラームスのクラリネットソナタ集の録音を買った。

再生装置は少しも高級なものでは無かったが、やはり、新しいステレオ録音のCDは、以前のモノラル録音LPの音の不満を解消してくれた。演奏は、どちらが優れているかというような評価を下す能力は私には無いが、少なくとも演奏に不満を感じることも無かった。たとえばフランス人の名クラリネット奏者と言われるランスロの演奏するブラームスのクラリネット五重奏曲で感じたような演奏上の不満は無かった。

このCDであらためて感銘をうけたのは、クラリネット自体の音色の美しさもさることながら、クラリネットとピアノの組み合わせが持つ音色の豪華さであった。クラリネットとピアノの組み合わせはこの曲以外に聴いたことが無いが、この曲を聞いて実に豪華な音色がするものだと思った。豪華といっても極彩色という感じでもなく、黄金色に輝くような感じでもなく、なにに例えればよいかというと、無色で大粒のダイヤモンドのような豪華さなのだ。透明感とボリューム感とを備えた、やはりブリリアントという言葉がふさわしい豪華さである。

この二曲はどの解説でもブラームス晩年の枯淡な境地を表現したものだと解説されている。確かにメロディーは、そして個々の表現そのものはそういう枯淡なものかもしれない。しかし音色、楽器というよりも楽曲の音色は本当にブリリアントで豪華に感じられたのである。

このCDはある理由で過去に手放してしまい、今は無いので、またこの曲を聴きたいと思っても、古いLPは今聞ける状態で無く、今度上記のヴィオラ演奏による中古CDをネットで購入した次第。このCDが出たころ、何か新聞か、雑誌の立ち読みかで、賞賛記事を見た記憶があった。当時は即購入して再生装置で楽しむような状況ではなかったが、最近ヴィオラが流行というか復興しているとかいう機運もあるそうで、確かにヴィオラでこの曲を聴くのもよさそうだという思いもあって、ネットで中古を見つけて購入した。はっきり記憶しているわけではないが、ラジオでヴィオラによる演奏を一度聞いていたかもしれない。

このバシュメットの演奏を何度か聴いてまず思ったことは、クラリネットによるこれまで聴いていたこの枯淡といわれる曲の印象に比べて情熱的な面が表面に出てきているような気がした。演奏家の表現による部分もあるだろうが、やはり、楽器の特性にもよるのではないかと思う。ヴィオラの演奏は何か筋肉質とでも言った感じがする。考えてみれば、こういう弦楽器は全身の、特に腕と手の筋肉を使って演奏するものだ。それに対してクラリネットなどの管楽器は呼吸器という内蔵あるいは横隔膜を使って音を出す。そういう違いが音の表情にも表れてくるのかもしれない。

他にやはり、この曲は本来クラリネットのために書かれた曲だなと思わせるところが多くある。特に装飾的な箇所と弱音箇所がそうだ。クラリネットでは弱音の箇所では、空気に溶け込むような感じなのに対して、弦楽器のヴィオラでは弱音の箇所も輪郭がくっきりとしている。これは振動する共鳴体のもつ表情によるものだろうと思われる。ヴィオラでは強靭で細い絃が振動し、これもまた薄くて強靭な木の箱が共鳴する。それに対してクラリネットの場合は振動版と空気の柱とが共鳴するが、空気の柱には周囲の空気との、はっきりした境界がない。

そういう、周囲の空間に溶け込むような音色が、枯淡といわれるこの曲に向いているのかもしれないが、その一方、腕と指で正確に繊細な動きを細く強靭な弦に伝える弦楽器であるヴィオラの場合には別の意味で繊細、微妙な、しかもくっきりとした表情が付けられているようにも思われる。


以上のようなクラリネットとヴィオラの表情の特徴を簡潔な比ゆで表すとすれば、クラリネットはガラス工芸、ヴィオラは陶磁器といえばよいのではないかと思う。ただ、面白いことにこの比ゆは木管楽器全般と弦楽器、それも擦弦楽器全般に及ぼすことが必ずしも適当とはいえないと思われることだ。

ヴィオラが陶磁器であるとしても、ヴァイオリンとチェロも陶磁器的とは必ずしもいえない。同様に、フルートやオーボエ、ファゴットなどもガラス工芸的とは必ずしもいえない。チェロが人声に近いというのはよく言われることだが、これは同じ音声同士の比較だからあまり面白くない。いっそ、ヴィオラを磁器に、チェロを陶器に例えることはできるかもしれない。そうするとヴァイオリンは何になるだろう。ヴァイオリンになると、そういう工芸的なものというより、絵画になるとでもいえるかもしれない。

面白いもので、ヴァイオリン族の楽器は何れも独奏やピアノとの合奏、弦楽合奏、弦楽四重奏などの室内楽では随分と印象の異なった音になる。独奏も弦楽合奏も非常に派手で、華やかな音になるのに比べて弦楽四重奏では地味な音になるということは面白い現象だと、前から思っていた。編成によって全く異なった表情をもつようになるものなのだ。

こんなことを重要なことに思い、考え続けるのも、ひとつには昨年、カッシーラーの「シンボル形式の哲学」を読んだことの余韻がある。それによると、人間の感覚、感覚内容、今の言葉で言えばクオリアよりもさらに深い認識の根源に表情機能がある。この部分の考察に共感覚も絡んでいたような気がする。とにかく難解であり一度通して読んだきりで、理解できたと言えるわけも無いが、この根源的な表情機能とのかかわりで、視覚と聴覚などの異なった感覚に共通する共感覚にも関わってくるような、この楽音と工芸素材との比較、あるいは比喩、さらには単なる楽音を超えて音楽作品そのものと風景やドラマとの関わりといったものにおける共通する表情の問題という深みにはまって行きそうなのだ。


ところで、枯淡といわれるこの曲だが、枯淡という表現がぴったりという感じでもない。確かにメロディーは若々しいというわけではないが、結構激しい感情が感じられるところもある。ただ、確かにどこかほの暗い雰囲気の中の叙情という感じはする。とくに第二番の方は、ほの暗い遠景が感じられる。もっと具体的に言ってしまうと、やや広い盆地の一端のちょっとした高みから向こう側の遠い山々とふもとの町々を黄昏のほの暗い空気の中で眺めているような印象のメロディーに感じられる。これはやはりクラリネットの演奏で特に感じられることだ。ヴィオラでも、夕方か黄昏に近い感じはするが、ただ、ちょっとメロディーの線がくっきりと明るく明瞭に見えすぎるようだ。クラリネットは音色が透明なだけに、遠景のほの暗さがそのまま透けて見えるようだ。それでいてピアノとの組合せはダイヤモンドのようにブリリアントなのである。