2015年4月10日金曜日

鏡像の意味論―その7―擬人化と鏡像問題

擬人化は科学のあらゆる領域に広く行き渡っている。浸潤しているとも浸食しているともいえる。言葉の本質上、避けられないことではあるかも知れないが、それでも常に意識し、反省すべき問題であることに変わりはないだろう。

技術的な達成が目的であれば、その過程の言葉として使われる擬人化はロボットやソフトウェアで用いる言葉と同様、便利な道具であり、なんら問題にならない。技術は結果がすべてなのだから。しかし鏡像問題は技術的目的の追求ではなく「なぜ?」を問う意味の探求である。

シリーズ2回目で「変換」の意味について考察したように、変換とは人間が明確な目的を持って行う行為であって、人間以外のものが何かを「変換」したと表現すればそれは擬人化に他ならない。鏡像を見て左右なり上下なりが変換されたと見、ある場合を「光学変換」として物理現象とみなし、ある場合を別の種類の変換として心理現象とみなして、別種の現象とみなされる場合、明らかに物理現象とみなされた「光学変換」は物理現象が擬人化されていると見ることができる、というより、擬人化そのものである。

「光学変換」というような名詞化された科学的な響きを持つ用語を使っていると擬人化という印象は薄れがちであるが、「鏡はその垂直な方向だけを反転する」、というような動詞的な表現になると擬人化であることはより明白となる。

(但しこのような「鏡は~反転する」といった表現では少なくとも日本語の場合、擬人化していることがよりあからさまに感じられ、擬人化表現であるという自覚が伴うように感ぜられるのである。英語の場合この種の表現はより普通で、自然でもあり、あまり擬人化と意識されないのではないかと思うのだがどうだろうか。ともあれ、「~変換」というように名詞化されてしまうとさらに擬人化の構造が覆い隠され、科学的な外見を付与されたような形となり、擬人的表現が科学的な表現として独り歩きしてしまっているのではないだろうか?)

当然ながら、鏡はそのような能動的な行為は何も行っていない。現実には人間が網膜に映った映像を元に様々なことを認知したり考えたりしているだけのことである。網膜に映る映像はもちろん幾何光学の法則に従って生じている。だから、鏡映反転とは、人がある対象から発せられる光が鏡に反射せずに直接網膜に映った像を元にして認知した形象と、その対象から発せられる光が鏡に反射して網膜に映った像を元にして認知した形象とを比較した際に生じる現象である。

今ここで幾何光学の意義を考察するのは難しい。しかし少なくとも、光も鏡も何ものをも変換したり、変化させたりしているとは言えないことは明らかだろう。少なくとも、光も鏡も、一つの像を別の像に変換するようなことは行っていない。まして、ある実物、多くの場合は人間であるから人間とすれば、人間そのものを鏡像という虚像に変換するようなことはあり得ないことは自明のことである。

こういうことはヒトが自分自身以外の対象の鏡像を見ている状況では理解しやすいだろう。他人を見ている限り、直接見る姿も鏡に映る姿も同様に視覚に由来し、現代人の大人であれば網膜に映った映像に由来していることが判っているからである。しかし全体としての姿を直接見ることのできない自分自身を対象にするから、問題が込み入って錯綜してくるのである。

自分自身の鏡像を考える場合、自分自身の身体の認知と自己鏡像の認知の問題が関わってくるのであり、感覚、知覚だけをとってみても視覚以外の様々な身体感覚が関わってくるのであり、鏡映反転の問題として処理できるような問題ではないといえる。これは鏡映反転をも含む広い意味の鏡像認知の問題であり、自己認識の問題であり、もっと広く認識論にも関わってくる問題なのである。

したがって鏡映反転の基本的な構造は自己鏡像を除外したところから始めるべきなのである。自己像の鏡映反転を客観的に認識するには他人を自己に見立てることで可能になる。上下・前後・左右はあらゆる人間に共通する方向軸なのだから、他人を自己に見立てて一向に差支えないと言える。左右が外見上区別できない場合が多いことは確かだが、たいていは何らかの識別要素を備えているものだし、実験をするなら他人の右手を動かしてもらうだけでも良いし、何か判り易いものを持ってもらっても良い。


このように鏡像問題にはあらゆる科学に深く浸透している擬人化の問題が露わにされるという面白さがある。擬人化の問題に限らず、科学についての、特に言葉に関して様々な問題があぶりだされ、じつに興味深い問題なのである。


◆ 4月13日、緑色文字の部分を追記しました。
◆ 4月14日、青色文字の部分を追記しました。この擬人化の問題については特にコメントをお寄せ頂けることを希望します。