2010年12月17日金曜日

縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その3 ― 縦と横、それぞれの方向性と文字と文字列のゲシュタルトとの関係の導入。

ゲシュタルトの概念導入の必要性

前々回、このテーマの第1回目では鏡像問題とされる現象の根底に横たわる原理が縦書きと横書きの機能的な差異にも関係していると考えられる根拠を述べ、回を改めて下記項目をこの原理から説明してみたいと述べました。2回目の前回は、その本題の考察に入る前に、両眼視差の問題を提起して終わったのですが、今回は本題、すなわち鏡像問題の縦書き横書き問題への応用とでも言える問題に入りたいと思います。

■ アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
■ 数式が横書きに適していること。
■ 漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
■ 横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
■ 漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
■ 縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
■ 横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。


これらは、今や直感的に理解して貰えるように思われますし、具体的に論証することも容易であろう予想していたのですが、いざ、文章に表現しようと思うとなかなか難しく、思うように言葉と表現が見つかりません。そうこうする中に気付いたことは、ここで1つ、少なくとも1つの概念、短い言葉で言い表せる概念を定義し、その重要性を認識することが必要であるということです。少なくとも、英語やそれを含めた欧文、和文、中文、韓文など、個々の言語の文章に適用して考察するにはそれが必要になってきます。その概念というのは実は、前掲の「横書き登場」でも取り上げられています。それは「横書き登場」の第7章で「横転縦書きと左横書きの関係」という小見出しの付けられた段落に、次のように書かれています。

「ラテン文字のように一字一字が音素という小さな単位に対応する音素文字では、一語を表すのに多くの文字が必要となり、文字を読むときは一字一字を読みとってゆくのではなく、後を表す文字列を1つのまとまった形(ゲシュタルト)としてひと目で読みとることになる。こうした文字では文字列を一字ごとにばらしてしまうと、読み取りの効率が非常に悪くなる。このような文字体系では、文字列全体を回転させるのでなければ書字方向を変えることはむずかしいのである。」 ― 屋名池誠著、「横書き登場」第7章より―

このように、「横転縦書き」の意味に関わる箇所でゲシュタルトの概念が使われているわけですが、著者はこのゲシュタルトの概念をここでしか使っていません。ゲシュタルトの概念を、さらに根本的な、なぜ欧文では横書きが相応しく、和文、中文、韓文では縦書きで発展して来たのかという問題に適用できる筈、と思われるのです。つまり、なぜ欧文では横書きが自然であり、和文では縦書きが自然であったのかという問題、さらに、縦書きと横書きそれぞれの機能性の分析のそもそもから、ゲシュタルトの概念を用いて考察すべきなのです。その際、鏡像問題の根底に横たわるところの、人間にとって上下と左右、あるいは縦と横というそれぞれの方向性自体が持っている性質と併せて考察することが必要になるという事ではないか、と思われるわけです。

さらにはこの、ゲシュタルトと言われる現象とこの縦横の感覚それぞれ自体が同根のものなのではないか、とも思われるのですが、いまはそこまで考察する必要はないと思います。

しかしその前に、個々の言語の表記とは関係なく、一般的に縦方向と横方向における方向性、あるいは秩序感覚とでも言うべき問題を考察してみたいと思います。まず、初回の冒頭で述べたことですが、彩度、改めて鏡像問題の根底に横たわる基本原理と思われる箇所を繰り返すことから始めます。

マッハとカッシーラーによる次の引用文

『視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに「異方性」と「異質性」をもつという点で一致している。「生物のもつおもな方向性、前と後・上と下・左と右は、視空間と蝕空間という二つの生理的空間において、ともに等価的でないという点で一致している。」 ― カッシーラー、「シンボル形式の哲学(木田元訳、岩波文庫)第二巻、神話的思考」より引用。』

これが鏡像問題とされる現象を説明できる根本的な原理であると考える訳ですが、この、「視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに『異方性』をもつという点で一致している。」という説明自体は特に鏡像問題のみに関わる原理ではなく、人間、さらには動物一般の知覚そのものに関わる普遍的な問題に関わるものであるはずです。縦とか横とか前後ろと言った概念そのものに関わっているとも言えます。(これを概念と言うべきなのか、感覚と言うべきなのか、あるいは知覚と言うべきなのか、今は分かりませんが、とりあえずこれらの言葉を適当に用います。)ですから、当然、これに関係する現象あるいは、習慣はいくらでも挙げることができそうです。とはいえ、意識的に例を見つけるのは必ずしも容易では無いかも知れません。というのも、縦とか横とか、前、後などの概念は余りにも基本的な概念、というか、感覚、あるいは知覚であり、主観的に身についた感覚であるため、意識するのは難しいのかも知れません。しかし、その気になって探せばいくらでも見つかる筈のものでしょう。

例えば、地球儀がなぜ緯度と経度で表され、地図で経度が縦、緯度が横に表現されるのか?という問題

例えば、地球儀や地図で経度が縦の方向、そして南北方向に充てられ、緯度が横方向東西方向に充てられていると言う事実。これは地球の公転と自転、太陽や星との位置関係といった外的な、あるいは物理的な条件と共に、鏡像問題と共通する心理的ないし、認知科学的な要素が関わっているものと考えられます。これは、鏡像問題において光の反射や眼の位置といった物理的な要素と心理的ないし認知的な要素とが関わっているのとパラレルな関係であるとも言えます。

そこで、この普遍的な原理が縦書き横書きの機能性の問題にどのように適用できるのかという事を考えた場合、以下を基本原理とみなして考察を進めたいと思います。詳細な推論は省略しますが、何れも物理的ないし幾何学的、あるいは生理的な要素と心理的ないし知覚の要素の両者が関わっているものと考えられます。

上から下への方向感覚、秩序感覚は人間に自然に備わったものであるのに対し、左右間の方向感覚、秩序感覚は規則や習慣で強制されたものであること

書字方向に限らず、一般的に上から下への方向感覚、流れ、あるいは秩序感覚は自然に備わっているのに対し、左右の方向感覚における流れ、秩序感は何らかの規則によって強制されなければならないものです。基本的に、左右には上下のような自然な秩序感覚がありません。左右は本来殆ど平等であり、何らかの強制的な秩序が押しつけられて始めて方向性が定まるのだと思います。これを書字方向における注意の向け方に適用すれば、以下の各項目を仮説として挙げることができるでしょう。


1)書字方向において上から下への方向性あるいは秩序感覚は人間には自然に備わっているものであり、これに従って視覚的な注意力と視線、さらに眼球の動きも比較的よどみなく上から下へと流れることができる。少なくとも意識しない限りは自然に逆向きになる事はない。また目移りすることも少ない。

2-1)横方向における左右には基本的に縦方向における上下のような価値的な差がないため、書字方向において、左右の方向は上下のように自然に決まることはなく、強制的な規則あるいは習慣性が必要になってくる。そのために注意力の動きも、それに伴う視線の動き、したがって眼球の動きも付加的ないし偶然的な要素に左右されやすい。例えば、文字の場合は文字の大きさ、太さ、眼を引く特徴、等々に左右されやすく、移ろいやすい。目移りし易いとも言える。しかし、反面、左右両方向を一覧し易い傾向はある。これは横方向という方向性自体とともに両眼が横に並んでいることと、それに起因する両眼視差の性質にも関わっている可能性がある。

2-2)横方向の場合、注意力と視線が左右何れかの方向に一貫して流れる場合も、滑らかというよりも飛び飛びに、あるいは条件によってはリズミカルに移動する傾向がある。

2-3)横方向の文字列の方が縦方向の文字列よりも一時に全体として知覚し易い、あるいは自然に全体を1つのまとまりとして知覚する傾向がある。

(気がついてみると、これらの中にすでにゲシュタルトの現象が入っていることが分かりますが・・・)

これらを欧文や和文など具体的な言語表記に適用しようとする場合、冒頭に述べた文字と文字列におけるゲシュタルトの問題を縦横それぞれの性質の問題に組み入れる必要があるわけです。
まず、方向性の流れとしては上から下への縦方向が自然であるとするなら、なぜ欧文は横書きが自然なものとして発達してきたのであろうか?という問題が生じます。この場合、もしも、各行、1行全体にゲシュタルトが適用できるもの仮定すれば、行移りが上から下に進行するので、まったく横書きが自然なものになるといえます。しかし欧文の1行が漢字1字と同じようにゲシュタルトとして認識できると考えるのは無理です。しかしこれは程度の問題もあるでしょう。少なくとも多少はゲシュタルトが作用していることは明らかです。以下、この問題を冒頭に掲げた、連載の1回目から引き継いだ7つの項目に適用して考察してみたいと思います。これは次回にしたいと思いますが、これらの項目の中で2番目の数式の問題は基本的に縦と横それぞれの性質からだけでも大部分が説明できるように思われますので、この項だけを今回、先に考察しておきます。


数式が横書きに適していること。

これは基本的に、横方向の左右には上下や前後に比べて異方性が小さい、価値的な差がない、あるいは価値付けが任意的であるという事から、誰でもすぐに納得できる事だと思います。そもそも数式には方向性というものがあまりありません。少なくとも等式や不等式の左右の項に方向性はありません。等式では、左右の項を入れ替えるのは自由だし、不等式であっても記号を変えれば左右を入れ替えることができます。ただ十進法で表現された数自体には位取りという方向性はあります。当然、十進法の位取りによる数はアラビア数字でも漢数字でも縦書きは可能で、ことによれば縦書きの方が書き間違いや読み違いは少ないかも知れないと思います。しかし、数式となるとやはり、方向性の無さというか、入れ替えの可能性、一覧性などから、どうしても横書きが有利なのは自然に理解できると思います。数式というのは全体の形で理解するという面もあり、また逆方向に右から左に読むこともできない訳ではないと思います。特に等号や不等号の右側を先に読んだりすることは、十分にあり得ることです。全体の形の一覧性という点でも横長が有利であると言えます。

今回、以上。

2010年11月1日月曜日

縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その2 ― 両眼視差の問題

はじめに、鏡像問題に関する新しい記事を「ブログ発見の発見」の方に書きました。関連しますので、最初にリンクしておきます:鏡像問題と「虚像問題」http://d.hatena.ne.jp/quarta/20101030#1288457496 こちらの記事は、大阪府立大学名誉教授の多幡先生から贈呈いただきました論文集にちなんでこの問題を再考したものです。

さて、縦書きと横書きの機能性と鏡像問題との関連についての、前回よりの続きです。

前回、生物、この場合は人間の感覚、特に視覚にとって前後、縦方向と横方向の質的な違いで、縦書きと横書きに関して以下のような事柄が説明できる可能性について言及しました。
1)  アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
2)  数式が横書きに適していること。
3)  漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
4)  横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
5)  漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
6)  縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
7)  横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。

これらの事柄は大体すべてが現在実際に実行されている事ばかりです。そして何となく直感的に納得できるような事が多いようにも思われますが、しかし、問題なく納得できるのは上の3つまででしょう。その三つ目、中国語、ハングル、日本語は現在縦書きと横書きが併存しているというのはもちろん、現状で実行されていることですが、歴史的には日本語や中国語の横書きは外国語の影響が入るまではなかった事、そして今後はすべて横書きに統一されるであろうと予測する人や動きもあることから、このあたりの問題には自明でもなく、可成り微妙な議論の余地があることが分かります。その意味でこのあたりの事情を理論的に明らかにしておくことは重要であると考えます。

上の二つの項目について、英語など、 なぜ横書きが自然なのか、数式もなぜ横書きが自然なのかということは自明であるだけに何故そうなのか、と理論的に説明されることはあまり無かったように思われます。数式が横書きに適していることなど、誰でも直感的に分かることですが、何故そうなのか?という事の説明は、少なくとも私は聞いたことがありません。前回参考にした「横書き登場」にも何故そうなのか?という理論的な説明は見出されなかったように思います。

一方、鏡像問題の方は、「なぜ鏡像の左右が逆転するのか?」という設問で古くから議論が行われてきたそうです。この問題をブログ「発見の発見」http://d.hatena.ne.jp/quarta/ で取り上げたきっかけになった毎日新聞の記事の冒頭は次の様に始まっています。「鏡の前で右手を上げると、鏡の中の私は左手を上げているように見える。なぜ鏡の中では左右が反対なのか。この問いかけは、古くはギリシャの哲学者、プラトンが考えたと言われるほど長い歴史を持つ。現在も認知心理学と物理学の両分野で、国際的な議論が続いている。」
何故、「何故鏡像の左右が逆転するのか?」という疑問が古くから議論の対象とされてきたのに対して「何故アルファベットで記述する言語は横書きなのか?」とか「何故数式は横書きなのか?」といった疑問は古くから議論される事はなかったのでしょうか。たぶんこれはヨーロッパのアルファベットで記述する言語にとって、自然にそうなったまでであり、理由など考えるまでも無かったのではないでしょうか。しかし本来縦書きであった日本語にとって横書きも可能であることがわかった現在、この種の理論的な説明が求められるようになってもおかしくないように思います。

もう一つの理由として、鏡像問題の場合は光の反射という、物理的な現象を含んでいるということもあると思われます。光線の反射の問題が関わっていることが明らかであり、それを検討した上でなお解明されない部分が残るということに気付くことから物理的現象と心理的現象との関わり合いについて議論が展開されてきたようです。

前回はその、鏡像問題から物理的な部分を差し引いた心理的な、あるいは認知的な要素が縦書きと横書きの機能性にも関わっている事を述べ、具体的に今回冒頭に掲げた各項目について説明する予定を述べた次第ですが、その前に、この縦書きと横書き問題にも、構造問題とは別な、何らかの物理的ないし生理的要素が関わっていることが明らかですので、今回はそのことについて検討して見たいと思います。

その物理的ないし生理的要素というのは、既述の屋名池誠著「横書き登場」にも取り上げられていましたが、眼球運動の問題、それから両眼が横向きに並んでいることの影響はどうかという事になるでしょう。この問題に付いては「横書き登場」における記述次の様に至って簡潔にまとめられています。
「<眼球運動> 上下左右で差はない」
「<両眼の視力分布> 横書きでも片眼の視野で十分なので横書き有利と言う事はない・・」
「<文字を見分ける視野> やや横書き(有利?)」

このなかで眼球運動については「上下左右で差はない」とだけ書かれているのですが、この比較のしかたはあまりにも単純ではないでしょうか?というのは、上下の動きと左右の動きは単純に早さを比較できるようなものではないと思われるからです。それは、両眼には視差というものがあります。この比較で気になるのは、左右の一つ一つの眼について縦横の動きを比較したのでしょうか、それとも両眼で比較したのでしょうか。それが気になります。両眼で比較する場合、その場合左右の視差、眼球運動に関しては輻輳角度というものがあります。上下運動の場合は左右の輻輳角度は同一に保たれたまま上下に眼球運動が行われますが、左右の運動の場合は、動きは左右で対称ではありません。下に簡単な図を書いてみました。




片眼の場合は簡単ですが、両眼をAからBまで動かす場合と、CからDまで動かす場合では単純に速さを比較するだけで良いものでしょうか?正確さというものが問題になってくることはないでしょうか。また眼や脳にストレスがかかるという事はないでしょうか?横の動きの場合、英語と日本語ではどちらに向いているでしょうか?

仮に両眼の視点を常に一致させながら眼球を動かさなければならないとすると、横に動かす場合は縦に動かす場合に比べて相当にストレスがかかるのではないかと思われます。必ずしも正確に一致させながら動かす必要は無いかも知れませんが、そういう場合には英語と日本語ではどちらに有利に作用するでしょうか。

前記7項目の各論に移る前に、以上のような視差の問題を提起しておきたいと思います。

2010年10月11日月曜日

縦書きおよび横書きの機能性の差異と鏡像問題

以前から、文の縦書きと横書きについて考えていたことをまとめてみたいと思っていたのですが、この問題に付いて特に専門的な研究や発言をフォローしてきたわけではないので、一般的な現状認識がどのようなものであるのかを知りたいと思い、手頃な参考書として次のの本を見つけて一読してみました。横書き登場』、屋名池誠著、岩波新書

膨大な資料を網羅してまとめられたこの本によって日本における縦書きと横書きの歴史的な推移についてはほぼ見通せるようになっていると思います。ただ、縦書きと横書きそれぞれの機能性については、「結局、縦書き、横書きには殆ど優劣の差はないといえよう。」と結論づけられているように、「優劣」という観点で包括的に捉えられ、縦書きと横書きそれぞれの持つ機能的な個性、特質については掘り下げられることが少ないように思われました。個々の問題に付いての優劣の比較はともかく、何事も最終的に「優劣」の比較で結論づけるという行き方には問題があるように思います。総合評価としての抽象的な優劣の比較は、よほど大きな差が無い限り行ってはならない事だと思います。優劣はすべてケースバイケースで具体的に判断すべきものと思います。ただ、この本の場合は「優劣はない」という結論になっていることは救いだと思います。


優劣という評価を離れた、縦書きと横書きそれぞれの特質という面で、この本の中で最も興味深く思われた箇所は、日本の江戸末期に本格的な横書きが登場するようになってから左横書きが定着するまでの期間に生じた右横書きと左横書きとのせめぎ合いについて考察された部分です。このことの前提としてまず、縦書きの場合は実用上、上から下に向けて読み書きする以外にあり得ないのに対し、横書きの場合は右から左に読み進む右横書きも左から右に読み進む左横書きのいずれも可能だという事実があり、このことはこの本でも論じられています。この事実こそが、縦書きと横書きそれぞれの最大の特質につながることなのであり、さらに深く掘り下げることが必要なのです。

横書きの場合に左横書きと右横書きの何れも可能であるのに対し、縦書きの場合は実用上、上から下への方向しか取り得ないという事実は、鏡像問題、すなわち鏡に映った鏡像の左右が逆転して見えるという現象とまったく同一の原理に由来している。

1つの結論から言って、横書きの場合に左横書きと右横書きの何れも可能であるのに対し、縦書きの場合は実用上、上から下への方向しか取り得ないという事実は、有名な鏡像問題、すなわち鏡に映った鏡像の左右が逆転して見えるという現象とまったく同一の原理に由来していると言って差し支えありません。

鏡像問題について

鏡像問題という言葉がどういった種類の言葉であるのか、どういった分野あるいは学会または業界でどのように定義されて通用しているのか、よく分かりませんが、過去に新聞の科学欄にこの話題が掲載され、鏡像問題というテーマの下に心理学と物理学の研究者による研究が現在に至るまで発表され続け、専門の学術誌もあると言う事を知りました。それまで心理学方面で鏡像認識という術語があることは知っていました。これは人間や動物が鏡像を見て自分自身の姿であると認識できるかどうかという問題のようですが、鏡像問題の方は鏡像では現実と左右が逆転して見えるのは何故か、という問題のようです。しかし、鏡像認識の問題も鏡像問題に含まれることもあるようで、この場合は広義の鏡像問題とされ、左右が逆転して見える問題は狭義の鏡像問題とされるようなので、とりあえず虚像問題は鏡像の左右が逆転して見えるのは何故かという問題とみなして良さそうです。この問題に付いて、上記の新聞記事、ネット版毎日新聞の記事に触発され、この問題に付いて当時以前に考えたことや、当時改めて考えたことをブログに書いて公開しました。このブログ記事は、当のブログ記事の中では比較的多くのアクセスがあったようです。

この問題は基本的には次の様に整理できるように思われます。

1.鏡像の空間は現実の空間に対して、空間を構成する縦、横、および前後方向の3軸の中の1つの方向が逆転する。
2.逆転する軸方向は縦、横、および前後の何れともみなすことができるが、人は普通、それを横方向、すなわち左右方向に充てる。

問題は何故それが縦方向でも前後方向でもなく左右の横方向であるのか、ということにあり、ここで地球の引力が持ち出されたり、いろいろ議論があるようですが、基本的には、生命、生物の本質に関わる様に思われます。人間を含め、殆どの生物、とくに動物の身体は左右対称が基本型になっています。逆に言えば、鏡面対象になっている方向を横方向、すなわち左右と呼んでいるという事になります。

ちょうど当時、少しづつ読み進めていたカッシーラーの「シンボル形式の哲学」に見出された次の記述がもっとも根本的にこの原理を表しているように思われました。

☆ 視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに「異方性」と「異質性」をもつという点で一致している。「生物のもつおもな方向性、前と後・上と下・左と右は、視空間と蝕空間という二つの生理的空間において、ともに等価的でないという点で一致している。」 ― カッシーラー、「シンボル形式の哲学(木田元訳、岩波文庫)第二巻、神話的思考」より引用。引用中の引用は、原文の注記によればマッハによるそうです。

以上の引用中にある、前と後、上と下、左と右それぞれにおける異質性にもそれぞれ個性と違いがあり、少なくとも非常に明白に思われることは、前と後の異質性や上と下の異質性は、左右の異質性に比べて遙かに大きいとみなして差し支えないことです。現実の物や光景でも、絵でも、上下が逆さまになったり前後が逆になったりすれば誰でも気付きますが、左右が入れ替わってもすぐには気付かないし、気付いてもそれ程の違和感を感じません。何事においても天地が逆さまになればそれこそ大騒ぎですし、前と後もそうです。行列で並んでいても前と後の差は絶対的なものですが、左右の差は微妙なものです。左大臣と右大臣、右翼と左翼、左側通行と右側通行、こういう場合の左右の差は微妙なもので、いつの間にか入れ替わったりしています。その反面、論争の対立は常に左右の対立にされます。つまり同一平面上での対立は常に左右の対立になってしまいます。

以上のような上下と左右(前後はこの際除外し)それぞれが持つ本質的な個性が文字の縦書きと横書きの機能的な差異に関わってくるのは当然のことと思われます。端的に言って縦書きにおける上下の異質性に比べ、横書きにおける左右の異質性は遙かに少ないという事が言えるのです。このことから以下のようなことがすべて説明できるようになると思われます。

■ アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
■ 数式が横書きに適していること。
■ 漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
■ 横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
■ 漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
■ 縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
■ 横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。

以上の項目それぞれ、回を改めて考察してみたいのですが、最後に掲げた、横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性に優れるという点は、これまで指摘されたことはないのではないか、と推測しています。「横書き登場」においてもこのことには触れられていません。

速読性に優れることは、他方、誤りが生じやすいという可能性につながるように思われます。確かめたわけではありませんが、横書きでは誤記、誤読の可能性が高いような気がします

以上、今回はこれまでにします。

関連リンク


2010年8月23日月曜日

The image and the medium that carries the image

(This is the English summary of the last article in Japanese)

It is hard to separate each other the image and the medium that carries the image.

However, virtual images in optics such as the mirror image and the magnifier image can be easily identified as pure images separated from the media.

There is no significant difference in reality between the virtual image and the image of the naked eye. If you are short sighted, the virtual image of eyeglasses can be clearer than the image of the naked eye.

The image of the photography, the cinema, videos, etc is derived from the real image in optics.

There is no difference in reality between the real image and the virtual image because the real image such as the image of the telescope becomes the true image only after you see it and when you see it, the real image is no more than the set of points the light passes and you are only seeing the image of the image source through the lenses. This situation is identical to seeing the virtual image.

So there is no difference in reality between the real image and the virtual image.

Imageries such as photo prints, video screens and the like are derived from the real image but are not the real image themselves. Those imageries are image sources themselves as well as are the carriers of the original real image

To see imageries such as photo prints is to see two different images, of which one is the original real image and the other is the image of the medium. And for the original real image, the other functions as the noise.

Therefore, the image of the medium itself that carries the original real image functions as a noise to the original real image.

This noise of the medium can be reduced optically.

◆http://www.te-kogei.com/patent/koho_imageglass.html

2010年8月9日月曜日

イメージとメディアまたは(画)像と媒体

(はじめに)
イメージは一種の「意味」であると言えます。今日からこのブログのラベル(カテゴリー)に「イメージ」を加え、このカテゴリーでの記事を追加してゆくことにしました。主として次の3つの契機によります。

1.最近に始まったわけでもありませんが、イメージに関わる論議が盛んです。そのなかで最近特に目立つのがスマートフォンと電子書籍にまつわる話題と論議です。電子書籍は文字が中心ですが、文字であってもフォントの問題とか、縦書き横書き問題などを考えてみてもイメージの問題が中心であることは画像の場合と変わりありません。

2.「3Dテレビ」が実用化され、「3D」映画のヒットもきっかけに3D論議が盛んになってきています。将来、映像はすべて3Dになるだろうなどと言う人も少なくありません。しかし一方で3Dテレビや3D映画の不自然さが目や身体の、少なくとも一時的な疲労を起こすことが問題になり、長期的な健康に及ぼす影響についても問題にされ始めています。とにかく「3D」論議自体は盛んになっていますがその割りに立体視とは何か、視覚とは何かという問題意識はそれ程深まってきているようには思えないところがあります。

3.個人的に、筆者が今年、映像に関わる特許を出願しました。これを紹介するページを以下のHP(http://www.te-kogei.com/patent/koho_imageglass.html)に掲載しましたが、こういう考えもあるという事を多くの方々に理解して欲しいと考えますので、「意味」の一種でもあるイメージを扱うものでもあり、このブログでもそれにちなんだ問題を取り上げた次第です。


イメージとメディア、または画像と媒体

■ 「像」と「イメージ」に関わる熟語と用語法から興味深いものが見えてくる

英語の単語である「image」は、基本的に日本語の「像」とよく対応しています。語源や歴史的な考察はともあれ、現在ではどちらも視覚像を表す言葉として最も抽象的あるいは包括的な言葉であると言えると思います。ただ造語性の面で日本語の「像」と英語の「イメージ」ではちょっと異なった処があります。

日本語では「像」から派生して多くの熟語が作られています。画像、彫像、映像、この3つ、特に現在、画像と映像とが代表的ですが、また異なったカテゴリーの熟語として心像、想像、肖像、人物像、神像、仏像などがあります。また光学用語では実像と虚像が基本にあり、これらは専門用語としても一般語としても使われています。固有名詞にも付けられ、例えば麗子像といった芸術作品もありますね。これらを見回して分かることは、「像」単独では具体的な、あるいは物質的な存在を表すのではなく、姿、形そのもの、つまり人間の感覚あるいは知覚作用の産物であり、結局のところ「像」はすなわち「視覚像」あるいは「知覚像」であると言って良いのでは無いでしょうか。これはちょうど英語の「イメージ」についても言えることであると思います。
しかし、日本語の場合、画像、彫像、映像、その他のように限定する語が付けられた熟語となった場合、それらの熟語の意味と「像」の意味はどのような関係になっているのでしょうか。この関係を考えてみると、画像、彫像、映像の場合はメディア、すなわち媒体と一体になった像またはイメージと言って良いように思われます。心像、想像の場合はまたこれとは異なります。さらに仏像とか麗子像などもこれとは違います。こうしてみてみると、今のところ「像」の付く熟語は大体3通り、もしくは4通り、あるいは更に多くのカテゴリーに分けられ、その1つは媒体すなわちメディアと一体になったものを指すといって差し支えなさそうです。

(像を含む熟語の分類)
【1】メディア(媒体)に関わる語と組み合わされた熟語: 
画像、映像、彫像、銅像、石像、鏡像
【2】イメージに表現されている実物(特に人格を持つ存在)と組み合わされた熟語: 
神像、仏像、人物像、肖像、全身像、胸像、麗子像
【3】形を持たない存在で、イメージに表現されている内容と組み合わされた熟語:
  心像、想像、幻像(心理的)
【4】イメージの科学的な性質を説明する語と組み合わされた熟語:
虚像、実像 (光学的)
【5】感覚の種類と組み合わせた熟語:
視覚像(視覚イメージ、心理学的)
音像(音イメージと言えばまた違った意味になる)、触覚像(触覚イメージの方が一般的)、嗅覚増(嗅覚イメージの方が一般的)、

こうして分類した像を含む熟語を見回してみると、色々な事を考えさせられ、興味深い考察に導かれるように思われますが、、とりあえず表題「イメージとメディア」に従って最初の画像、映像、彫像等についてイメージ自体との関係を考察してみたいと思います。なお、以下、「像」と「イメージ」との使い分けはその時の感覚で自然に出てくる方を用いることにします。あるいはむしろ意図的に両方の用語を統一せずに使用します。


■ イメージと媒体とを分離して認識することは難しい

英語の場合は日本語とは異なり、image がそのまま画像、彫像、映像の意味にも使われるようです。もちろん、picture とか、sculpture とか、screen とか、別の、もっと具体的な用語があり、こちらが使われる場合もあります。また picture image という表現もあり、そのまま「画像」に対応する表現もあるようですが、あまり使われることがないようです。いずれにしても「イメージ」が非常に多様な意味で使われることは確かで、そういった意味で使われる「イメージ」が日本語化しているだけに、非常に奇妙な日本語の熟語が作られ、使われるようなことにもなっています。「イメージ画像」とか「イメージ図」などという言葉に何となく居心地の悪さを感じるのは私だけでしょうか。確かに「イメージ図」と言わずに「想像図」と言ったりするとまた意味が多少異なってくるようにも思われ、「イメージ図」なる用語が使われるのも仕方のないことかなという気もしますが。

イメージという語が日本語に取り入れられ頻繁に使われるようになった原因の1つは、それに当たる「像」という語が、単独では使いにくいという事情があるように思われます。動物の象と同じ音であり、字も似ているという事もあります。また「像」はどうしても人物など、人格を持つ対象を連想しやすいということもあるかも知れません。しかしそれよりも画像、彫像、映像など、それら自体が一体のものであり、像とその媒体とを切り離すことができないものであるというところに起因しているようにも思われます。英語で「image」がそのまま画像や彫像や映像に使われるのも、同じ理由によるものではないでしょうか。結局のところ、画像、彫像、映像などは、イメージそのものと媒体とを切り離して考えることが極端に難しいものであるという事でしょう。


■ 「虚像」、特に鏡像の場合は、媒体とイメージとを切り離して認識することが容易

しかし、媒体と像とを切り離して認識することが比較的容易な場合もあります。それは光学的な虚像の場合です。つまり、レンズやプリズム、鏡などでできる虚像の事です。ただしこれはレンズ、プリズム、鏡などを媒体、メディアと考えた場合ですが。

眼鏡やルーペなどの場合はちょっと難しいですが、プリズムや鏡の像を見た場合、現実には実物が存在しないところに対象のイメージが見えることが誰にでも分かります。それは、イメージには距離感、あるいは位置の感覚が伴うからとも言えます。眼鏡やルーペの場合もそれらを通して見ているイメージは、裸眼で見ているイメージとは若干、距離が異なっていることが分かります。ところが驚くべき事に、虚像である鏡像は3次元ではなく2次元であると言い張る人がいます。その人はルーペで見る像や眼鏡でみる光景も2次元像であると思っているのでしょうか。たぶんそうは思わないでしょう。恐らく鏡面という平面から絵や写真、あるいは映像を連想し、絵や写真のイメージを2次元像であることが自明であるという考えに引きずられているのでしょう。しかし絵や写真のイメージを2次元イメージと呼ぶことは極めて普通の事ですが、本当にそう考えて良いのでしょうか?絵や写真のイメージは2次元イメージと呼ぶべきものなのでしょうか?媒体が2次元であるという事に過ぎないのではないでしょうか。媒体が2次元であることを問題にするのであれば、眼の網膜の表面も2次元です。網膜も広い意味で媒体の1つです。

絵や写真のイメージと鏡など光学製品による虚像との最も顕著な違いは、絵や写真は保存イメージであるという事でしょう。絵や写真のイメージは固定しています。動画の場合も1秒あたり何十枚もの画像1つごとにイメージは固定しています。これに対して光学製品による虚像は鏡やレンズなどに固定しているものではなく、「実物」に対応しています。その光の届くところに「実物」が存在しています。実物を直接見るのとは見え方が違いますが、本質的に実物を裸眼で直接見るのとそれ程の違いはありません。違いは大きさ、鮮明度、鏡像の場合は左右の反転、などでしょう。鮮明度は、光学製品の品質が一定以上のものであれば殆ど実景との差は見られません。近視のように視力が低下した人の場合、むしろ虚像の方が鮮明度は高いのです。近視などの眼鏡の事を考えてみると分かるように、虚像と肉眼イメージとの間に本質的な差はないと言えます。


■ 虚像と肉眼像との間に本質的な差はない

実物本体とそのイメージとの関係で言えば、直接眼で見るイメージと虚像に本質的な違いはありません。つまり、リアリティーの点で何れかが本物で何れかが偽物であるという差はありません。鮮明度で言えば、裸眼の方が鮮明な場合もあり、逆の場合もあります。裸眼で直接見るイメージであれ、虚像であれ、何れもイメージは実物それ自体とは異なる存在ではあるが、つねに実物と眼という感覚器官による人の知覚の双方によって成立する存在と言えます。

この実物とイメージとの関係は先にみたような、例えば画像とそのイメージのような、イメージとその媒体という関係とはまったくの別物であって、それは哲学的な問題になってしまいます。


■ 画像(写真や映像)と裸眼像との関係

では、写真や映像のイメージと実物との関係はどのような関係なのでしょうか。よく「カメラの眼」で見た姿とかイメージ、「カメラの眼」を通して捉えたイメージなどと言いますが、カメラが眼に例えられるのはその構造だけです。カメラという単なる構造物と人の視覚そのものとは何の共通点もありません。このような言い方はただカメラを擬人化しているに過ぎません。

先ほど写真や映像は保存固定したイメージであると言いましたが、実はそれは写真や映像の1つの特質ではありますが、保存するからには保存する内容が無ければなりません。その保存する対象のイメージは何でしょうか。というのも、人や物の姿を写真フィルムや記録媒体を通さずに直接レンズでスクリーンに映し出すこともできるからです。テレビの生放送はまさにそれに当たります。そのイメージの元はレンズの作り出す「実像」と呼ばれます。

写真や映像などの画像一般と、鏡やレンズやプリズムなどを使った虚像との違いには、まず、光学的な実像と虚像の違いがあることが分かります。

【ここでの結論】
◆ 鏡像や望遠鏡、双眼鏡、ルーペ、眼鏡などのイメージは虚像であり、それに対して画像(のイメージ)は実像である。


■ 実像の本質

ところで一方、望遠鏡や顕微鏡など、対物レンズと接眼レンズを用いる光学系では、対物レンズによってできた実像を、接眼レンズによって虚像として見ているといわれます。しかし結果的に、これらの場合は対物レンズによってできた実像というのは単なる光の通過点の集合であり、人が見る像はあくまで虚像であると言えます。しかしその箇所にその大きさの実像ができていることには間違いがありません。ではカメラの画像、すなわち写真と、望遠鏡などの実像はどこが違うのでしょうか。


■ 虚像と実像との違い

実像といえども、それは人間の眼で捉えて始めて像になるのであって、それ自体は光の通過点の集合に過ぎないわけであり、それ自体は像でもイメージでも無い訳ですが、虚像の場合はそれは光の通過点でさえないのであって、その点での虚像との比較において、実際に存在する実像と見なすより他はありません。


■ 写真のイメージは実像に由来するが、実像そのものでは無い

写真のイメージは、正確には実像そのものとは言えません。それは実像をいったん特殊な平面で受け止め、それを化学物質なり、デジタルデータなりで分析、記録、処理したものを人が肉眼で眺めたときに生じるイメージです。写される対象を直接肉眼で見た場合と異なるのはもちろんですが、カメラの内部に生じた実際の実像を直接眺める場合ともまた異なります。カメラの内部に生じる実像は、望遠鏡や双眼鏡で見る実像と同じものです。その実像ができる位置は平面ではありません。対象が近距離の場合、実像を平面で受け止めると、正確に焦点が合っている部分以外はピンぼけになります。しかし対象が遠景であれば事実上平面と言って差し支えありません。いずれにしても眼の網膜に映る場合と同じです。ですから、平面で受け止められる実像は真の実像そのものと事実上同じものと考えて差し支えありません。この実像をそのまま肉眼で見る場合と、実像ではなく実景を直接肉眼で見る場合とを比較した場合、その違いは大きさ、上下左右の反転などに現れますが、それ以外の点では変わりありません。従ってもう少し複雑な光学系を加えて大きさ、上下左右の反転を修正し、結果的に網膜に映る映像が直接対象を見ているときと同じ大きさと方向に映るようにできる筈です。ただし明るさや色合い、焦点の合う距離範囲などに差が出てくる可能性がありますが、遠景の場合も近景の場合もリアリティーという点では問題になりません。

という訳で、実像の場合も虚像と同様、それを直接眺めている限りは、肉眼で直接実景を見ているのとはリアリティーの点で全く差はありません。リアリティーの点で、実像もそれ自体では虚像と何ら相違はないと言えます。

【この項の結論】
光学的虚像と実像それ自体にリアリティーの点で差はない


■ 像と虚像との違いは、画像ではそこに表現されているイメージと一体になった媒体(紙、スクリーン、他)自体が新たなイメージソースになることにある。

本質的な違いは、実像を保存し、再生するところから始まります。あるいはテレビの生放送のように、実像を処理して新たな媒体に再現するところから始まります。実像を保存し、再生するところから、元のイメージは媒体と一体のものとなり、その媒体、物質的な媒体自体がひとつのイメージソースとなることです。これは虚像ではあり得ないことです。つまり実像ではそこに光が到達し、何らかの物理的な表面上に光が物理化学的変化を残す事ができるからですね。


■ 画像を見るということは、同時に2つの異なったイメージを見ることである

結論の1つとして言えることは、人が写真を見る場合、まったく素性というか、起源の異なる2つのイメージを同時に眺めることになるということです。1つはカメラによって捉えられた対象のイメージ、もう1つは媒体、すなわちメディアそれ自体のイメージです。本来の目的である被写体のイメージから言えば媒体自体のイメージは余計なもの、ノイズに他なりません。

「平面画像」ないし二次元イメージといった言い方は、本来別物であるこの2つのイメージを区別せずに一体のものとして認識した言い方であると言って良いと思われます。もう少し正しく表現するとすれば、「平面の媒体上に表現されたイメージ」というべきかも知れません。表現されている元のイメージの内容が二次元であればそのイメージも二次元であり、三次元であればそのイメージも三次元です。

ただし以上はすべて単眼のカメラと単眼の肉眼についての観察についての考察です。大体はこのまま両眼について当てはまるとしても、当てはまらない部分もありそうです。

【1つの結論】
平面像」ないし「二次元像」という言い方は、イメージの媒体としての画像を指す場合は意味があるが、表現されているイメージの内容自体は平面とは限らないのであって、誤解を招く表現である。


■ 画像媒体の、ノイズとしての効果は低減することが可能である。

この媒体に起因するノイズを低減するために行われてきた、といえる対策の最たるものは画面の大型化でしょう。大型化という事はすなわち、遠距離による鑑賞を可能にすることです。劇場用映画ではこれが早くから実現し、現在では家庭向けのテレビ画面で大型化が進んでいます。しかし家庭では見る距離に限界があり、当然大型化にも限界があります。劇場向け映画ではそれ程一般化しなかった立体映画、今言われる3Dが家庭用テレビで実現され、メーカーが力を入れているのは、家庭では大型化に限界があるからのような気もします。

いわゆる「3D映画や3Dテレビ」、すなわち立体映像技術も画像媒体のノイズを低減する方法の1つという面がありますが、立体映像技術の1つの特長は同時に2つの異なった画像を使用すると言う事です。本来、元のイメージは1つなのです。そこに不自然さが入り込んでくるのではないでしょうか。

一方、印刷物や書籍では電子書籍を含め大画面化は最初から限度があり、むしろ小型化も進んでいます。上述の特許出願
は小画面に対応し、媒体に起因するノイズを低減する1つの方法の提案になっています。

参考
◆http://www.te-kogei.com/patent/koho_imageglass.html

筆者による関連ブログ記事
◆http://d.hatena.ne.jp/quarta/20100221#1266739280
「3D」映画と眼の疲労、身体の不調
◆http://d.hatena.ne.jp/quarta/searchdiary?word=%2A%5B%B6%C0%C1%FC%CC%E4%C2%EA%5D
鏡像問題


以後、イメージとメディアに関して以下のような問題を続けて検討して行きたいと考えています
☆ 両眼視と両眼視差の問題 ― 両眼視差は立体視に貢献する以外にも視覚に様々な影響を与えている。
☆ 鏡像問題と縦書き横書き
☆ 絵画と写真
☆ イメージの起源 ― (科学的)物体と光、(心理的)心、神秘的なもの

2010年3月15日月曜日

「二大政党制」という言葉と概念への違和感

制度であるかどうかはともかく二大政党制という状態が現在の日本で好ましいもので、望まれるものであるかどうかは私には難しすぎる問題でよくは分からないが、全く分からないでもない。ただ、この「二大政党制」という言葉、さらに「二大政党制が望まれる」というような表現には言葉として違和感があり、どうも素直に全面的に納得する気になれない。

「何々制」という表現はよく使われるが、この場合の「制」というのは大抵は「制度」の意味だろう。制度という概念もまたまともに考え出すと難しいが、とりあえずウィキペディアをみてみると、「法治国家に於ける制度は法によって定められている。」という記述がある。もちろん法律と言っても国法だけではなく、もっと狭い範囲の法律や規則もあるわけで、法律と言ってしまうわけにもゆかないだろうが、少なくとも国全体にかかわる制度であれば、法律で定められたものを指すのではないだろうか。この意味で二大政党制という表現には違和感を覚えるのである。

二大政党制を法律で決められた制度にするというような事があるとすれば、明らかにそれは民主主義の理念に反するといえる。もちろん、だからといって「二大政党制」自体が反民主主義的というわけでもないだろう。自然にそういう状態になるのであれば、なにも問題はない。

ただ、ここで意図的に、人為的に二大政党制に持って行かなければならないのか、という問題が浮上していくる。ここまで来ると、民主主義自体が最高の制度であるかどうか、民主主義自体の評価の問題にも関わってくることになりそうである。もちろんよく言われるように民主主義に欠陥が無いわけでもないだろうし。

「二大政党制」が好ましいものであるかどうか、少なくとも現在の日本で望まれるものであるか、というような議論は当然、今盛んに行われているものと思うが、いずれにせよ、まず、この「~制」という表現を改めて、例えば「システム」とか単に「状態」でも良いと思うが、適切な表現に改めてから議論を始めた方が良いのではないかと思う。

2010年1月10日日曜日

「疑似」という言葉の弊害

最近、といってももう可成り前になってしまったかも知れないが、2つの文脈で「疑似」が使われている例に遭遇した。

1つはウィキペディアでLEDランプについて調べてみたとき。もう1つは作家の冷泉彰彦氏のメールマガジン[『from 911/USAレポート』第440回、[JMM565Sa]「3Dという文明と日本文化」from911/USAレポート ]の文中にて。

初めの方は、LEDランプの原理で「疑似白色発光ダイオード」という言葉が使われていたことだ。これはもう学会や業界の専門用語として確立しているのであろう。しかし、疑似科学論議の文脈でいつも言うように、疑似という言葉は定義の困難な、あるいは曖昧な概念に対して使われると弊害が大きいように思うが、白、白色という概念も非常に厳密な定義の困難な言葉の1つである。例えば白い紙は赤い光が当たって赤く見えているときも、その紙の色自体は白である、というか白い紙であることに変わりはない。つまり同じ白でも物体について言う場合と光について言う場合では異なった意味になる。そこで白色光という、つまり光源の色に限ったとしてもまた定義は難しい。

たとえば白色X線という用語がある。X線は眼に光としては感じられない。当然色として見えないので比喩と言うべきである。これは連続X線とも呼ばれ、要するに波長を横軸に、縦軸に量をとったグラフでなだらかに連続した曲線をもつX線である。対立概念は白色に対する黒色ではなく、特性X線であり、要するに先のグラフでは鋭いピークを指している。おなじ連続X線でも、個々のケースで波長分布や頻度、要するに曲線の傾き、形は様々である。特性X線のピークにしても完全にただ 1 つの周波数というわけでもなく一定の幅がある。一方先の疑似白色光ダイオードに対する対立概念として「髙演色白色光ダイオード」というタイプがウィキペディアの同じ項目に出ているが、それによれば原理的には上記疑似白色と同じく青色発光ダイオードに黄色の蛍光体を組み合わせたもので、ただ黄色の発光体のスペクトル幅がひろく、多くの波長が含まれているということで、量的な違いに過ぎない。

この種のLED光源に対して三波長型は三種類のダイオードを組み込んだもので、鋭いピークが3つある。ピークの数から言えば2つよりは連続に近い。だからこちらの方が良質な光源だと言う人(科学者)もいる。さらに同じ三波長型であるともいえる液晶ディスプレーと相性が良いそうだが、ピークが鋭いため、「疑似白色光ダイオード」に比べて照明には向かないと、ウィキペディアには書かれている。

こう考えてくると、「疑似」なる用語は殆ど意味がない事が分かる。分類するのなら発光のメカニズム、構造、そして波長分布の特性で分類すべきである。それも三波長というような波長の数ではなく発光体の数と種類で類すべきだ。三波長型はピークが鋭いと言ってもあくまでもそれぞれがピークであり、ただ 1 つの波長というわけでもない。

特に、こういった工業製品などには「疑似」という、誤解を招きやすく、人聞きの悪い表現は避けるべきではないか。

次に、冷泉彰彦氏のメールマガジンの方だが、こちらは映画アバターにちなんで3D映像の文化的意義の考察といった内容で、それ自体は興味深いものだった。このエッセーの中で氏は遠近法のことを疑似3Dと呼んでいるのだが、ここでの「疑似」にも大いに問題がある。やはり定義の問題になってしまうが、「3D」もきわめて多様な言葉で使われてきた言葉である。そのまま正確に表現し直せば三次元という事だが、3Dは情報技術との関わりでよく使われるようになった表現である。もう最近はあまり使われなくなった言葉である「コンピュータグラフィックス」において形態の三次元情報のデータを持っている映像のことではなかっただろうか。アバターに使われている技術での3Dには、もちろん詳しくは知らないが、この意味の3D技術ももちろん含まれている筈だが、それに加えて、画像データだけではなく、視聴者が見る場合の技術、つまり左右両眼で異なった映像を見るという技術の事をも指しているようである。つまり両眼の視差による要素である。これは昔はステレオ写真といったり、立体写真と言ったりしたが、今は動画の場合が多いので立体映像というようになり、簡単に表現するために3Dと言うようになったのだろう。

このように3Dという言葉の意味や用法に相当な曖昧さがあることは先の白色の場合と同じである。そして同様に「疑似3D」という表現には大いに問題があると思うのである。とくに「遠近法」を疑似3Dと表現することには問題がある。

日本語で「遠近法」というと何らかの技術というような印象がある。しかし本来これは技術と言うよりも現象、視覚あるいは知覚の心理的な現象と言うべきではないか。原語の perspective からもそのようなニュアンスが感じられる。絵画や写真の技術とは関係なく、人間の立体的な知覚には遠近法が含まれているのである。両眼の視差による遠近感の知覚は、遠近法を補強する要素に過ぎないといえるのではないかと思われるのである。

遠近法に対して「疑似3D」というような表現を使うと、人間の知覚、認識についての理解を固定化し、硬直化して、理解を深めてゆくことが出来なくなってしまうように思われる。

「疑似」という表現はいかにも科学的で厳密な用語のように感じられる。確かに定義が厳密な場合には便利であり、科学研究を進める上でも効率的であるかも知れない。生物学や鉱物学では生物種あるいは鉱物種、あるいは形式種別において「擬」という表現や、もっと露骨に「ニセ」という表現が使われる場合がある。生物学の種名ではよくあることで、ニセアカシアなどが有名だ。こういうのは固有名詞に近いもので、人名や商品名の様なものだ。この場合の「擬」あるいは「ニセ」は原語では Pseudo で、疑似の場合と同じである。この用語は学術用語的な響きがあるから、なおさらこういう言葉を使われると科学的で厳密であるかのような印象を持たれてしまう。しかし現実はただ効率的で便利だから使われているに過ぎないのである。

固有名の単なる命名を超えて、便利だという理由だけでやたらにこの言葉を使用することは誤解をまねく場合があるというだけではなく、思考を硬直化させ、思考の発展を阻害させるいって良いと思われる。

「疑似」という言葉は可能な限り使わない方が良い。
また言葉の使い方でも効率ばかりを追求しない方が良い。


2010年1月4日月曜日

クラリネットはガラス工芸、ヴィオラは陶磁器

最近、名ビオラ奏者と言われるバシュメットという人の演奏するブラームスのヴィオラソナタ、つまりヴィオラとピアノによる二重奏ソナタ2曲とチェロが加わったビオラ三重奏曲の入った中古CDを買った。

ブラームスのこれらのソナタ集、すなわちクラリネット(ビオラ)とピアノによる二重奏ソナタ集の録音を買ったのは3度目になる。私は同じ曲のレコードを何枚も、何通りも購入するような音楽マニアでもなく、時間的にも経済的にも余裕のある暮らしをしてきたわけでもないが、なぜかこの曲に関しては、3回、時をおいて買っている。

最初はもうかなり以前というよりも昔、当時すでに過去の名盤の廉価版と言う形で、古いモノラル録音によるLPレコードで、演奏者はウラッハというクラリネット奏者と、ピアニストはもっと有名なイェールク・デムスだった。解説によるとウラッハはウィーンの伝統を体現した最高のクラリネット奏者であるとのことだった。

当時このレコードを何度か聞いてこの二曲が好きになった。しかし、古いモノラル録音のため、音の鮮度というものが物足りなく、特にクラリネットなど、音色に魅力がある楽器であるだけに、不満があった。それから幾年月かが過ぎ、今度はCDの時代になってからライスターというドイツの有名なクラリネット奏者の演奏で、これらブラームスのクラリネットソナタ集の録音を買った。

再生装置は少しも高級なものでは無かったが、やはり、新しいステレオ録音のCDは、以前のモノラル録音LPの音の不満を解消してくれた。演奏は、どちらが優れているかというような評価を下す能力は私には無いが、少なくとも演奏に不満を感じることも無かった。たとえばフランス人の名クラリネット奏者と言われるランスロの演奏するブラームスのクラリネット五重奏曲で感じたような演奏上の不満は無かった。

このCDであらためて感銘をうけたのは、クラリネット自体の音色の美しさもさることながら、クラリネットとピアノの組み合わせが持つ音色の豪華さであった。クラリネットとピアノの組み合わせはこの曲以外に聴いたことが無いが、この曲を聞いて実に豪華な音色がするものだと思った。豪華といっても極彩色という感じでもなく、黄金色に輝くような感じでもなく、なにに例えればよいかというと、無色で大粒のダイヤモンドのような豪華さなのだ。透明感とボリューム感とを備えた、やはりブリリアントという言葉がふさわしい豪華さである。

この二曲はどの解説でもブラームス晩年の枯淡な境地を表現したものだと解説されている。確かにメロディーは、そして個々の表現そのものはそういう枯淡なものかもしれない。しかし音色、楽器というよりも楽曲の音色は本当にブリリアントで豪華に感じられたのである。

このCDはある理由で過去に手放してしまい、今は無いので、またこの曲を聴きたいと思っても、古いLPは今聞ける状態で無く、今度上記のヴィオラ演奏による中古CDをネットで購入した次第。このCDが出たころ、何か新聞か、雑誌の立ち読みかで、賞賛記事を見た記憶があった。当時は即購入して再生装置で楽しむような状況ではなかったが、最近ヴィオラが流行というか復興しているとかいう機運もあるそうで、確かにヴィオラでこの曲を聴くのもよさそうだという思いもあって、ネットで中古を見つけて購入した。はっきり記憶しているわけではないが、ラジオでヴィオラによる演奏を一度聞いていたかもしれない。

このバシュメットの演奏を何度か聴いてまず思ったことは、クラリネットによるこれまで聴いていたこの枯淡といわれる曲の印象に比べて情熱的な面が表面に出てきているような気がした。演奏家の表現による部分もあるだろうが、やはり、楽器の特性にもよるのではないかと思う。ヴィオラの演奏は何か筋肉質とでも言った感じがする。考えてみれば、こういう弦楽器は全身の、特に腕と手の筋肉を使って演奏するものだ。それに対してクラリネットなどの管楽器は呼吸器という内蔵あるいは横隔膜を使って音を出す。そういう違いが音の表情にも表れてくるのかもしれない。

他にやはり、この曲は本来クラリネットのために書かれた曲だなと思わせるところが多くある。特に装飾的な箇所と弱音箇所がそうだ。クラリネットでは弱音の箇所では、空気に溶け込むような感じなのに対して、弦楽器のヴィオラでは弱音の箇所も輪郭がくっきりとしている。これは振動する共鳴体のもつ表情によるものだろうと思われる。ヴィオラでは強靭で細い絃が振動し、これもまた薄くて強靭な木の箱が共鳴する。それに対してクラリネットの場合は振動版と空気の柱とが共鳴するが、空気の柱には周囲の空気との、はっきりした境界がない。

そういう、周囲の空間に溶け込むような音色が、枯淡といわれるこの曲に向いているのかもしれないが、その一方、腕と指で正確に繊細な動きを細く強靭な弦に伝える弦楽器であるヴィオラの場合には別の意味で繊細、微妙な、しかもくっきりとした表情が付けられているようにも思われる。


以上のようなクラリネットとヴィオラの表情の特徴を簡潔な比ゆで表すとすれば、クラリネットはガラス工芸、ヴィオラは陶磁器といえばよいのではないかと思う。ただ、面白いことにこの比ゆは木管楽器全般と弦楽器、それも擦弦楽器全般に及ぼすことが必ずしも適当とはいえないと思われることだ。

ヴィオラが陶磁器であるとしても、ヴァイオリンとチェロも陶磁器的とは必ずしもいえない。同様に、フルートやオーボエ、ファゴットなどもガラス工芸的とは必ずしもいえない。チェロが人声に近いというのはよく言われることだが、これは同じ音声同士の比較だからあまり面白くない。いっそ、ヴィオラを磁器に、チェロを陶器に例えることはできるかもしれない。そうするとヴァイオリンは何になるだろう。ヴァイオリンになると、そういう工芸的なものというより、絵画になるとでもいえるかもしれない。

面白いもので、ヴァイオリン族の楽器は何れも独奏やピアノとの合奏、弦楽合奏、弦楽四重奏などの室内楽では随分と印象の異なった音になる。独奏も弦楽合奏も非常に派手で、華やかな音になるのに比べて弦楽四重奏では地味な音になるということは面白い現象だと、前から思っていた。編成によって全く異なった表情をもつようになるものなのだ。

こんなことを重要なことに思い、考え続けるのも、ひとつには昨年、カッシーラーの「シンボル形式の哲学」を読んだことの余韻がある。それによると、人間の感覚、感覚内容、今の言葉で言えばクオリアよりもさらに深い認識の根源に表情機能がある。この部分の考察に共感覚も絡んでいたような気がする。とにかく難解であり一度通して読んだきりで、理解できたと言えるわけも無いが、この根源的な表情機能とのかかわりで、視覚と聴覚などの異なった感覚に共通する共感覚にも関わってくるような、この楽音と工芸素材との比較、あるいは比喩、さらには単なる楽音を超えて音楽作品そのものと風景やドラマとの関わりといったものにおける共通する表情の問題という深みにはまって行きそうなのだ。


ところで、枯淡といわれるこの曲だが、枯淡という表現がぴったりという感じでもない。確かにメロディーは若々しいというわけではないが、結構激しい感情が感じられるところもある。ただ、確かにどこかほの暗い雰囲気の中の叙情という感じはする。とくに第二番の方は、ほの暗い遠景が感じられる。もっと具体的に言ってしまうと、やや広い盆地の一端のちょっとした高みから向こう側の遠い山々とふもとの町々を黄昏のほの暗い空気の中で眺めているような印象のメロディーに感じられる。これはやはりクラリネットの演奏で特に感じられることだ。ヴィオラでも、夕方か黄昏に近い感じはするが、ただ、ちょっとメロディーの線がくっきりと明るく明瞭に見えすぎるようだ。クラリネットは音色が透明なだけに、遠景のほの暗さがそのまま透けて見えるようだ。それでいてピアノとの組合せはダイヤモンドのようにブリリアントなのである。