2014年12月19日金曜日

鏡像の意味論 ― その4 ― 用語の意味から考える-その3(左右逆転と座標系)

1. 左右そのものが逆転する場合と解釈できる「左右逆転」の問題

前回は「左右逆転(反転)」という熟語が、「左右そのものが逆転している(左右が主語である)」とも受け取れるし、「何かあるものが左右において逆転している」あるいは「何かあるものの左右が逆転している」ともとれる可能性があり、「左右そのものが逆転している」と考えること、つまり左右そのものが本来の主語であると考えることは不自然で理解困難であるため、「何かあるもの」の左右が逆転しており、その何かあるものは「形状」とみるのが自然であるということを述べました。

しかし、抽象的な左右そのものが逆転するという表現が意味を持つことがあり得ないわけでもなく、この表現が理解可能になるような解釈ができる可能性もあります。その例が、前々回の記事(比較と変換の問題)の最後の方で述べたように、左右の意味を逆転させることです。本来の左が意味する対象に右という言葉を使用し、右が意味する対象に左という言葉を使用することです。人間の左右を考えると左右を入れ替えても見かけ上はそれほど変わらないようにみえますが、左右を上下に置き換えてみると、頭のある方を下であるとし、足のある方を上であるとする考え方です。しかしこれは言葉の定義ないし慣用に反します。要するにそれは間違いであり、虚偽であるともいえます。

人間の「上下」で考えると、そのような、意味を逆転させることは間違いで有り得ないことであることはすぐにわかりますが、左右の場合は問題は微妙なものになってきます。人間の左右の基本形は殆ど変らず、両手を比べてみても違いがあるとすれば大きさや長さであり、それらの違いも個人によりさまざまで、左と右の意味を交換しても大した不都合は生じない場合は有り得ます。それでも左と右を入れ替えることが間違いであることに変わりはなく、現実問題としても不都合が生じてきます。向かい合っている他の人の右側が自分の左側と同じ方向にあるからと言ってその人の右側を左側と呼ぶことは間違いであり、許されないことです。機械の場合も右のスイッチと左のスイッチを間違えると取り返しのつかない事態を引き起こす可能性もあります。

しかし、間違いであることと、その間違いが生じうること、ケースによって間違いが生じる頻度に差が生じることとはまた別の問題です。また対象がヒトではなく道具などの場合、左右を取り違えても一概に間違いとは言い切れない場合もあります。ヒトの上下を間違えることはまずありえないことですが、他者の左右を間違えること、瞬間的にでも間違えることはあり得ることではないでしょうか。自分自身の左右を間違えることは事実上有り得ないでしょうが、他者の場合に左右を間違える頻度は結構高いように思われます。この点で、自分自身の鏡像は他人(他人の鏡像ではなく)の場合と同じではないでしょうか。

ふつう、鏡に映った自分自身の像を何気なく眺めるとき、特に左右の形が本当の自分自身の左右の形とは逆転しているとは通常、意識しないものです。そういう時、無意識的に、鏡に映った自分の鏡像の左右も自分自身の左右で判断している可能性が高いと言えます。しかしそのような場合、鏡像の前後も自分自身と同じ基準で判断しているとは考えられません。これも、鏡像ではない他の人物そのものの場合と同様です。自己鏡像の場合も、向かい合う他の人物そのものも同じことですが、向かい合う他者の姿の前後を自己と同一基準で判断するとすれば、顔、胸、腹の側を後ろとし、背中の方を前とみなければなりません。そう見るとすれば明らかに前後の意味が入れ替わります。人間の場合、顔や胸や腹がある方が前と決まっているので、そのような意味の逆転は有り得ません。したがって、この場合、前後方向の向きについては向かい合う人物像に自分自身の前後の基準を押し付けることはせず、自分の前後とは逆向きの前後を鏡像や向かい合う他者に適用するものです。そうすると左右方向の向きとの関係が通常の場合の逆になり、観察者本人の場合とは異なった関係になります。向き合っている対象が他の人物の場合は普通、少なくとも左右を確認する必要が生じた場合は、自分と相手の左右の方向が逆であることにすぐに気づくものです。それは、前後の向きが逆であることから左右の向きも逆でなければならないことにと気付くからであると言えます。しかし左右を確認する必要がない場合、無意識では相手の左右も自分自身と同じ方向であるものと感じている可能性は大いにあると思います。というのも、人物以外の対象、特に道具や機械などの左右はそれを使用する人物の左右の方向で定義されている場合が多いからです。

一般に道具や機械類の左右はそれを扱う人の左右に合わせられています。鍵盤楽器やパソコンのキーボードなどもそうで、ピアノを例にとってみると、高音部が右側で低音部を左側とみなすのが普通でしょう。紙面や文字、横書きの文章の場合も同様です。他方、乗り物の場合上下・前後・左右の関係は大体人間の場合と同様であると言えます。ピアノやパソコンのような場合は、前後方向と左右方向の関係は、ヒトの場合と異なったものになります。上下・前後・左右の三方向軸(六つの方向)を直交座標軸で表現するとすれば、左右の軸が逆転していると言えます。

このように、左右の方向自体がヒトの場合とは逆になっている認知は有り得ることで、対象がヒトである限り、このような逆転した認知は明らかに間違いですが、他者の場合では間違えることは有り得ることです。ですから、自己鏡像の場合も向かい合った他者の場合も、左右についてのみ間違えることがあり得ると言えます。上下と前後では仮装でもしていない限りそういう間違いはないといえます。この場合に自己鏡像と向かい合う他者との違いは、相対する人物像が他者の姿であるか自己の鏡像であるかという違いだけであって、左右の方向自体には何ら変わるところがなく、鏡像だからと言って現実の人物と異なった左右方向を持つということはありません。

こうしてみると、左右の意味を交換あるいは逆転させることは結構、日常的に、しかも必ずしも個人の恣意や個人的な条件に基づいているのはなく社会的な共通認識の下に行われていることであると言えます。したがって機械道具の左右は上下や前後との関係において人間の場合とは逆転していたとしてもそれは定義されているからであって、誤りとは言えないと考えられます。

しかし、一度ある種の物に左右が定まったら、それ以後は恣意的に左右を交換することはできません。ピアノの高音部を左側だと言えば他の人に誤解されるでしょう。

実物と鏡像の場合でも同様で、実物と鏡像で左右の意味を逆転させることは明らかに間違いであり、実物と鏡像の形状における違いを認知できていないことに他なりません。例えば右手を挙げている人が鏡に向かっている場合、鏡に映っている人物像も同様に右手を挙げているとみなす場合、鏡に映さずに直接見る姿と鏡像の形状の違いを認識できていないわけです。客観的に見るために右手を挙げている本人ではなく、横にいる他人が両方の姿を見比べられる位置にいるとしましょう。他人が両者を見比べれば明らかに両者が反対側の手を挙げていることがわかります。つまり全体としての形状の違いがすぐに判ります。右手を挙げている本人は自分自身の全体としての姿を見ることができないため、両者の形状の違いは直接、またすぐに認知することはできません。手や身体の一部は直接見ることができるにしても、身体全体としての姿は直接見ることは不可能です。そのため、鏡像と鏡像ではない、他人なら直接見ることのできる姿と見比べることは基本的に不可能ですが、身体感覚や写真の記憶や想像力、構成力、推理力などを駆使して、両者の形状の違いを認知することはとりあえず可能であるとみなすべきでしょう。しかしいつでも、誰でも、常に可能であるとは言えず、他者の鏡像を見る場合と同列に考察すべきではないと考えられます。。

このように考察を進めてくると、この、左右そのものを逆転させること、言い換えると左右の意味を交換するという認知現象は鏡像を含む空間認知に固有の現象ではなく鏡像を含まない空間における認知においても普遍的な現象であり、鏡像の場合に特有のケースとしては自己鏡像の認知の場合のみであるといえるでしょう。鏡像問題、すなわち鏡映反転現象のメカニズムは鏡像が自己の鏡像であるか自己以外の鏡像であるかには無関係であり、自己鏡像の認知に限られたプロセスは除外すべきです。鏡映反転現象は鏡像に関わる現象であり、当然鏡像認知に関わる領域と重なる部分はあると思いますが、自己の鏡像と自己以外の対象の鏡像の認知に共通する要素のみが鏡像問題の基本的な対象であり、観察者の自己鏡像に固有の現象は鏡像問題の重要ではあるが特殊な一ケースとして考察すべき問題です。

以上の考察から、「左右そのものの逆転」あるいは左右の概念の逆転、左右の意味を逆転させる認知現象の問題は、鏡像問題の基礎、少なくともあらゆる鏡映反転に共通するプロセスの問題からは除外すべき問題と言えるでしょう。

2. 座標系の概念を使用する説明と理論

鏡像問題の研究論文の中には、上下・前後・左右を座標系として表現している場合があります。座標系という概念を使用することについての是非や問題点についてここで論議することは避けたいと思います。というのも、そこには用語の選択と定義、同義語ないし類義語と英語との関係、意味の変遷等、問題が際限なく広がってしまうからです。個人的には上下・前後・左右を表現するために座標系という用語を使用することには違和感を感じ、必ずしも使用する必要はないと思いますが、目的によっては便利な場合があるかもしれません。具体的には上下軸と前後軸と左右軸という三つの三次元空間を表現する軸方向を定めるものだと言えます。

このような上下・前後・左右を表す三つの直交軸からなる座標系というものを想定した場合、この記事の最初に提起した問題、つまり「左右逆転」を左右そのものの逆転と解釈すること、左右が修飾語ではなくて主語であるとみる解釈に一つの意味が与えられる可能性が出てきます。端的に言えば左右そのものが逆転することは、左右の軸が逆転することだとみなせるわけです。

鏡像問題の研究書『鏡の中の左利き(吉村浩一著、ナカニシヤ出版)』と、吉村氏の英文論文『Relationship between frames of reference and mirror-image reversals(共著)』では、上下・前後・左右の三軸からなる「固有座標系」と、同様に上下・前後・左右の三軸からなる「共有座標系」が想定され、観察者が鏡像を固有座標系で見る場合と、鏡像を実物と共通する共有座標系で見る場合があり、鏡像を固有座標系で見る場合に左右逆転(形状の左右逆転)が観察され、共有座標系で見る場合に左右以外の逆転(形状の上下または前後での逆転)が認知されるという結論に到達しています。

正直な感想を言えば、この視覚対象を何らかの特定の「座標系を使用して」見るというプロセスがどのようなものか理解が困難であり、このような着想自体、概念が明確にされていない印象を持つものですが、鏡像を固有座標系で見る場合と共有座標系で見る場合に違いが生じるとすれば、同じ上下・前後・左右の各軸で構成されながら異なる構造の座標系を使用して見ることを意味しているものと想定できます。左右軸の場合に着目すると、これは左右の方向が異なる座標軸を用いること、すなわち、事実上は左右軸自体が逆転した座標系を使用することになり、前段 で述べたように、左右の意味を逆転させることに相当すると言えます。

さらに、やはり前段での一つの結論として、このような意味の逆転は間違った認知であるということです。間違った認知もそれ自体は生じ得ることですが、これも前段で述べたとおり、このような間違いはヒトの場合は上下や前後の認知ではあり得ないことです。そしてやはり前段における結論の通り、鏡像問題に適用した場合、観察者本人の自己鏡像の認知の場合にのみ考察対象となる問題であることになります。観察者本人以外の鏡像でこのような間違いが生じたとしても、それは鏡像ではない直接の対象でも生じ得る間違いと変わらないからです。すでに述べたとおり、これは鏡像認知ないしは視覚認知一般の問題であり、鏡像問題、鏡映反転の基礎的な要素からは除外できる問題であると言えます。

ただし以上の解釈は吉村氏が著書で挙げている実例には適用できないものです。教授の著書や論文で、共有座標系が使用されている場合として提示されている例は湖面に映る富士山、バックミラーに映る他者の像、水平の鏡に映ったろうそく等、いずれも観察者以外の鏡像に関するものである一方、観察者自身が鏡に正対している場合は固有座標系を使用する場合であり、必ず左右逆転(この場合は形状の左右逆転)が認知されるとされています。したがって上述の解釈は吉村氏の考え方とは異なることになります。

2014年12月13日土曜日

鏡像の意味論 ― その3 ― 用語の意味から考える-その2(逆転/反転)

左右逆転(反転)という用語について



鏡像問題の議論では「左右逆転(反転)」という用語ないし表現が頻繁に用いられるが、これは極めて簡潔な表現であるだけに、わかりにくい言葉である。というか、わかったように思われても、さらに理解を深めてゆくには問題を含んだ表現であるように思われる。あらかじめ概念が明確に規定された内容を定義した上でそれを簡潔に表現するのならわかるのだが、表現される内容自体が議論の対象である問題を含んだまま、簡潔に表現されているところに、問題があると思われる。その難しさというのは、この熟語で表現しようとしている内容は直観的なイメージであり、本来それを言葉で概念的に表現すること自体が、問題を解明することになるという側面を持つからではないだろうか。

左右逆転(反転)という用語は主語と述語を備えた文章ではないが、これを文章として理解する場合、当然、主語は何か?という問題になる。当然、ここには「左右」と「逆転」という言葉しか含まれないから、主語は「左右」で述語が「逆転」であると考えるのが順当というものだろう。しかし改めて「左右が逆転する」といえば左や右という抽象的な概念そのものが逆転するというさらに理解困難で難しい問題を理解することを迫られる。

そこで、ここに何か隠された主語があるのではないか?左右は主語ではないのではないか?ということが想定できる。そうだとすれば左右は修飾語であり、何かあるものが「左右において」逆転して[あるいは「何かあるものの左右」が逆転]いるのではないか?ということになる。ではその主語になるものは何かといえば、現在までの鏡像問題の議論としては「位置」、「距離」などのほかに「形状」が議論の対象になっているといえる。現実問題として、少なくとも当面は、この主語になるべきものは「形状」であるとみなされているといえよう。それを示すために上のような図を作ってみた。

この変な図が顔を表していることはわかっていただけると思うが、右側の顔では右のほほに星形の図形があり、左のほほには三日月形の図形があるのに対し、左側の顔ではその「左右が逆になっている」といえる。また眉を表す矢印の向きが「左右で逆になっている」といえる。こうしてみると、「左右逆転」の真の主語は形、すなわち「形状」であると考えるのが妥当であるといえるのではないだろうか。じじつ鏡像問題の最近の諸論文の多くでもこういう見方がとられているといえる。

しかし言語的な表現は極めて多様であって[文脈に依存する]、すぐ上の段落でも「左側の顔ではその左右が逆になっている」という表現や「矢印の向きが左右で逆になっている」というような異なる表現を使ってしまうのである。前者の表現では「左右が」というように左右を主語にしても別に不自然ではないのである。このようなところから、抽象的な左右そのものが逆転するという方向での考察が生じてきても不思議ではない。この面から生じる問題については、前回の記事、「比較」と「変換」という用語の問題で少し触れたつもりである。

一方、この図は平面図形であるうえ、リアルな顔の描画ではないと同時に単なる図形の集合でもなく、人の顔の意味をも持つ変なイメージである。また眉を表す矢印の向きが左右で反対になっている。鏡像問題は立体像の問題であり、現実には二次元のモデルだけで考察することはできないが、抽象的あるいは幾何学的な「形」という概念を取り出すには平面図形を使わざるを得ないといえよう。

さらにまた「形」と「意味」との関係の問題も浮上してくる。現実世界で左とか右が意味を持つのは人間とか道具とか、具体的な意味を持つ対象なのだ。実際、鏡像問題の対象は事実上すべてが人物である。あとは文字のように意味を持つ図形なのである。人物の場合、左右は、たとえば右手を挙げているかとか、右の顔にほくろがあるとか、左側にアクセサリーをつけている場合、あるいは顔が右を向いているか左を向いているか、などのように、すべて「意味」を表す表現であって、幾何学的な形状ではないので[幾何学的な概念をとおして形状と結びつくので]ある。ここから、形の持つ幾何学的側面と意味的側面の区別に関する考察の展開に道が開けてくるように思うのである。

*[]内は12/14日に追記



2014年11月24日月曜日

鏡像の意味論 ― その2 ― 用語の意味から考える-その1

+今回はまず次の二つの用語について考えてみたいと思います。:

1.比較

2.変換


初めて専門の学術誌で鏡像問題の論文集に触れたとき、最初から用語と語法の問題でかなりの違和感と抵抗を覚えました。特に使い方が気になった用語のひとつは「変換」という単語です。単に用語の適切さというのではなく、考え方、方法論の問題とも思われました。と言うのも、ある論文では「何々変換」という風に、理論の名称そのものとしてこの用語を使っていたのに対し、別の論文では変換と言う用語をそれほど、キーワードのようには使っていないのですが、やはり、そういう論文でも変換または転換でもいいのですが、そういう変化ないしは変更の意味を持つ概念が主役になっているという印象では共通するところがありました。一方、後になって気づいたことですが、「比較」という用語があまり重要な概念として使用されていないことも気になっていたと言えます。今にして言えることではありますが、私自身にしてみれば鏡像問題はつまるところ二つの形象を比較することに他ならないと思えるし、比較のプロセスを分析することこそ重要なのではと思われるのですが、どの論文でも「比較」の概念が等閑視されていた印象だったのです。違和感と抵抗を感じつつ、いくつかの論文を読み、同時にこの数年間、自らの語法を模索しながら鏡像問題を考えるうちに、次第にこの二つの用語の概念について分析することの重要性に気づかされてきた次第なのです。以下、抽象的な言葉の議論で恐縮ですが、この問題について、考察してみたいと思います。


【比較の対象と変換の対象】
もっとも一般的に考えて、いやしくも「比較」という概念を使用する以上は少なくとも二つの対象の存在が前提になる。三つ以上になると一度に比較することができないから、普通は二つで比較される。これに対して「変換」は一つの対象を別のものに変えることであるから対象は一つであるともいえるが、普通何かを変換するといえばそれは物質的なものではなくて画像とかデータとかそういうものだろう。たとえば運動エネルギーが熱に変わったり物質がエネルギーに変わったりする場合は普通変換とは言わずに転換とか変化とか言う言葉を使う。画像とかデータなどは物質ではないからあるものを何かに変換しても変換元がなくなるわけではないことは、録音や録画、コンピュータでデータを変換することが日常的になっている現在、誰もが身に染みて理解していることだろうと思う。というわけで、変換の場合も対象は二つあるとは言えるのだが、ただ変換の場合は結果的に二つの対象ができたわけで、元は一つであるともいえる。とはいえ、あるものを別のものに変えようというのであるから、変える目的物としての対象は最初からあるともいえる。してみると、比較の場合も変換の場合も同様に二つの対象があるのだが、つまるところ「比較」の場合の二つの対象は最初から平等な、同じカテゴリーの対象として存在しなければならないのに対して、「変換」の場合は変換する前の対象と変換後の対象という、質的に異なった対象を扱うというべきだろう。

こういう次第で、「変換」の場合も二つの対象の存在が前提になっていると言えるのだが、変換を行う対象そのものは一つであるので、変換のプロセスなり原理なりを考察しているうちに当初の二つの前提となる存在を忘れがちになるのではあるまいか?「変換」の場合も当初から二つの対象が存在することが前提なのだ。その二つの対象に相違点と共通点とが想定できるからこそ、一方をどのように変化させれば他方になるかというプロセスを考察するわけであり、変換の前には常に比較があると言うべきではないだろうか。

★ 以上の、この項での結論を鏡像の問題、具体的に鏡映反転と呼ばれる鏡像問題に適用してみよう。鏡像問題の対象はよく「実物」と「鏡像」との比較の問題のように言われるが、本当は決してそうではない。実際は一人の観察者が「実物」から乱反射される光を直接眼で受け止めて見る場合の像と、光を鏡に反射させて見る場合の像との二つの像を比較しているのであって、光の経路が異なるだけであり、どちらも実物自体ではなく像なのである。対象が人物であるとすれば、どちらもその人自身ではなくその人の像なのであり、直接見る人物も鏡を介して見る人物も同じ人物像であって、光の経路が異なるだけなのである。だから自分自身の鏡像を見る場合、少なくとも顔や後姿は、自分自身が直接見ることができないわけだから、鏡像に対応する直接の像は存在しないのである。

こういう次第で、実物が鏡像に「変換」されると考えたとすればそれは明らかに錯覚である。また直接見る像が、対応する鏡像に「変換」されると考えるのもまた錯覚である。どちらの像も独立に成立するのである。一方の像が他方の像に変化したわけでもない。どちらも平等に、別個の像として存在するのである。比較の対象としても平等に存在するのである。ただ後から、「一方の像から他方の像に変化させられると仮定すればどのような手順で変化させられるのか」を考える場合に変換という概念が使用できるのではないだろうか。

従って、変換を行ったり、変換のプロセス、変換のメカニズムを考察したりするには前提として変換前の形状と変換後の形状の差異を認識した上で、どのような操作を行えばそのように変換できるのだろうか?という問題を解く形で考察していると考えるべきだろう。変換のプロセスを考察する以前に、ある程度の比較が行われていると考えるべきである。鏡像を含めて一切の像は、二つを比較する場合、違いを直感的に見つけるのは基本的には二つの像の重ねあわせだろう。

重ねあわせの際、平面と立体との違いは重要である。平面画像の違いを見つけることは比較的簡単である。単に並べてみるだけでも比較はできる。しかし立体となるとそうは行かない。平面の場合は一つを裏返しても方向が異なるだけで、同じ像が見えるが、立体を裏返すと全く異なった像が見える。従って二つの立体像を比較するには単に並べて見比べるだけではなく、裏返したりひっくり返したり、さまざまな操作が必要になる。こういう立体を比較する操作は相当に知的な操作であり、鏡像認知とともに人間の成人にしかできない認知作用と言えるだろう。

以上のように二つある像の一方あるいは両方を空間的に動かして比較するプロセスは決して「変換」のプロセスではない。「変換」以前のプロセスであり、「変換」は両者の違いを説明する一つの手段に過ぎない。比較プロセスで認識される差異は直感的なものである。変換は直感的な認知を概念的に説明するしかたであるともいえよう。


【「変換」の対象】
前項でも触れたが、「変換」は、それに似た言葉である「転換」や「変化」とは異なった対象に用いられる。変換は他動詞である。主語はまず人間に限られると言えよう。他方、目的語は何でもありといえるかもしれないが、多くの場合はデータとか形とかそういったものであろう。一方の「転換」は自動詞であって、主語は人間に限らず、多くは自然物やエネルギーである。

変換も転換も日本語であって、当然どの国語でもこれに相当する用語があるわけではないが、少なくともこの種の用語が他動詞的に使われる場合は本来は人間が主語であって、自然物に使われる場合は比喩あるいは擬人化と言えよう。

あまり推論する時間もないので端的に言って、変換の対象は現在では主に情報と呼ばれるもののようだ。他方変換のプロセスそのものはなんだろうか。どうも数学的、あるいは幾何学的な操作のように思われる。デジタル用語辞典によると、「変換」は「ある情報を異なる形式に変える処理」とある。この種の理論についてはよく知らないが、具体的に何を変えるかと言えば、記号を変えるというようなこともあるように思われる。座標軸のXをYに変えたり、プラスをマイナスに変えたりという具合。

★鏡像問題で座標系あるいは座標軸が用いられる場合に上下・前後・左右の軸が用いられることが多い。ここで相対的に逆転という「変換」を考えてみる場合、上下軸の上下方向や左右軸の左右の方向を逆転あるいは反転することだと言える。それはどういうことだろうか?それは言葉を変えることであり、反対の言葉を使用することである。言葉を変えること、互いに正反対の言葉を使用することは、詰まるところ、「意味」を変えること、「意味」を逆転させることに他ならない。

変換操作で上下を逆転させることや左右を逆転させることはすべて自由で何でもありである。単に記号や言葉を変えるだけで済む。しかし現実にはどうだろうか。頭のある方を下といい、足のある方を上と見ることはあり得るだろうか?逆立ちをしている人についてそういうことはいえるかもしれない。しかしこの場合は環境の上下が基準になっているのである。地上の環境も人間の場合と同様に上下があり、環境の上下が人間の上下に優先するということだろう。

表と裏の関係はかなり微妙である。人の手を考えてみた場合、手の甲を表と言うこともできるし、裏と見ることもできる。しかし、いったんどちらが表でどちらが裏であるかを決めた以上、鏡に映さない手と鏡に映った手を比べてみて表と裏の意味を逆転させることは許されないことだと言える。上下・前後・左右もすべて同様である。鏡像の問題を考える場合に限っては、上下・前後・左右の意味を逆転させてみることはあり得ないか、間違った見方であると言えよう。左右の場合は人間の場合は差が小さいから、逆転してみることはあり得るだろう。しかしそれは立体としての形を正しく見ていないのであり、間違った認知である。平面としてみるならば、可能であるとは言えるのだが。

こういう次第で、上下や前後や左右の軸を一つでも逆転してものを見るということは、形を正確に見るという観点からは許されないことである。あるいは平面的に見て、立体としての形状を無視していると言えるかもしれない。

鏡は平面だから鏡像も平面だと言う人がいるがそれは当然のこと間違いである。鏡像であろうが直接見る像であろうが、平面的にしか認知しない場合はいくらでもある。現実のところ、どのように表現すべきか、難しい問題だが、当面のところ簡単に言って立体と平面の中間で移ろっているとでもいうしかないようだ。

2014年7月8日火曜日

鏡像の意味論―像、鏡像、対掌体、対称性―その1

前回記事の本、ガードナー著『自然界における左と右』のテーマあるいはキーワードを列挙するなら左右、鏡像、対掌体(翻訳では鏡像対称)、そして対称性、特に鏡面対称性ということになるだろう―あとプラスとマイナス、陰陽なども付け加えたいところだがこの本では直接触れてはいない―。特に日本語訳ではこれらすべてを左と右という表現で「左右問題」として包括的に扱っていたが、前回記事ではそういう考え方に疑問を呈した結果になった。反面、この本にはこの種の意味論的な問題や論点の宝庫とでも言える面があるように思われる。もとより素粒子物理学や量子力学の理解にまで踏み込んだ議論はできないものの、この本に触発された形で、この種の用語の意味論的な考察を一回限りではなく、随時、継続的に考察してゆきたいと思う。

まず「鏡像」という言葉を切り口というか出発点として始めたい。もちろんこれは鏡像問題がきっかけであるが、日常的にも鏡像は各方面でのキーワードとして象徴的とでも言えるインパクトを持っているからである。


―科学における「像」―
鏡像という言葉には像という言葉が含まれている。 像はだいたい英語のimageと同じで、現実の使われ方や熟語になった場合に多少の齟齬が生じることは避けられないが、殆どの場合imageの対応語としても定着している。鏡像その他の熟語を含めて、「像」が科学のさまざまな分野で重要な役割を担っているが、例えば物質とか物体、あるいは力といった物理学の基本的な諸概念に比べても意味論的な探究がなおざりにされているのではあるまいか。像、イメージは哲学、認識論、美学、その他の人文系諸学にとって絶えずその本質が再考され続けているのではないかと思われるほどだが、それに比べて自然科学ではその意味が問い直されることは殆どなく無反省に使われているように思われる。

幾何光学は、専門的には広範囲な研究対象があるものと推察されるけれども、少なくとも像を扱う限りにおいては科学よりも技術といえる。それも光学機器を設計するための技術という面もあるが像そのものを扱う物理学以外の分野の研究手段という点でひとつの研究手法という技術になり得るともいえる。結局のところ、像そのものは物理学の対象ではなく、個別科学以前の対象ということになるだろう。

とはいえ、幾何光学が物理学としては未定義のブラックボックスのような形で「像」を抱え込んでいることは否定できないと考える。そしてこれは程度の差はあれ、幾何光学だけではなく、物理学全般にも言えることではないかと思うのである。

(以後、更新または次回に継続の予定)

2014年6月22日日曜日

『自然界における左と右』新版、マーティン・ガードナー著、坪井忠二他訳の部分読みと拾い読み

本書は34の話題、事実上の章で構成されるが、基本的な三つの部分に分けて読むこともできる。最初の部分は鏡像の問題と、くくることができ、鏡像の性質や画像の対称性と認知に関わる心理学的な問題といえる。次の部分は生物の構造と分子の構造における対称性の問題で、特に立体化学と呼ばれる分野の問題が生命現象との関わりで扱われている。そのあと、「四次元」というタイトルの一章で哲学者カントが考えた鏡像に関係する問題が扱われる。ここでカントが偉大な哲学者であると評価されているのだが、その哲学や認識論に触れるのではなく、カントが四次元や多次元のことを考えていたということを紹介する方向へと進み、後続の各章への導入のような役割を果たすことになっていると思う。後続の章群は本書の半分近くを占めるが、すべてが事実上、量子論と素粒子論の紹介と解説になっている。

今回この、やはりむずかしい素粒子論の各章の途中まで何とか継続して読み続けたが、第25章「時間普遍性の破れ」以降は最後まで、ざっとめくりながら目についたところだけ拾い読みするだけで最後まで行き着いた。もちろん、よく判らないからだが、図書館の貸し出し期限が迫っていることもあるし、量子力学や素粒子論についての解説書が沢山出ている中でこの本が特別わかりやすいという印象も持てなかったからでもある。少なくとも当面の関心事でも対応できる問題でもなかった。

さて、この書の日本語タイトルと全巻の構成から誰もが受けとるであろう内容は、日常の現象から、生物、化学、一般物理、さらには素粒子論にいたるまで自然全般にわたって左右の概念で扱える問題を科学的に論じたとでも言うべきかと思われる。翻訳者のあとがきでも大体そうである。しかし原著者のまえがきを見ると、著者の主眼は量子力学におけるパリティの保存、非保存問題の意義を左右の対象性の意味を通して解説し、解釈し、さらに奥深いところまで読者を誘ってゆきたいという意図にあるように思われる。それは、本書が初版から第二版、第三版と版を重ねるごとに素粒子論に該当する章が大幅に増補されると同時に副題も変更されている事からもわかる。

さらに、訳者あとがきによると原著初版の副題は「左と右とパリティ非保存」であるのに第二版の副題は「対象性と非対象性、鏡の反射からスーパーストリングまで」となっており、「左右」という言葉が消え、日本語タイトルには無い「対称性」が主役となっている。主タイトルの「両手使い」という用語に左右の意味が込められていることは確かだが、日本語のタイトルに比べて比ゆ的な度合いが強い。このことから、原文と日本語訳の語法と表現に若干の齟齬が感じられる部分があり、タイトル以外の訳語にもそれが感じられるところがある。

翻訳の面で特徴的な一例として――これはアマゾンのサイトで原文の索引だけを見て確認したのだが――enantiomorphが一貫して「鏡像対象」と訳されている。この訳語は化学の専門用語として定訳のようだから、何の問題も無いはずなのだけれども、この語の和訳には「対掌体」という訳もあり、本来の意味からいえば対掌体が正しい。実際に定義からも鏡像と対掌体は異なる。対掌体は右手型と左手型の関係だが、鏡像の方は例えば右手(の像)と右手の鏡像との関係である。似たようなものだが、例えば左手の甲の上に右手の手のひらをのせた場合の位置関係など、鏡像関係ではあり得ない位置関係である。量子力学ではどういう意味を持つかはわからないが、少なくとも鏡像問題、鏡映反転の問題では、鏡像と対掌体の概念を区別しなければ話は進まない(鏡像が実物像とが互いに対掌体の関係にあるということ)。この点で原著者自身、enantiomorphという語は使っているものの(鏡像問題の箇所でこの語が使われているかどうかは日本語版ではよくわからないが)、鏡像問題の箇所では、区別できていないのではないかという印象をぬぐえない。

というのも、本書全体を通じて著者は実のところ左右よりも対称性、対象の概念を中心に据えており、当然この用語を頻繁に使用しているが、単に対象と書かれている箇所と左右対称と書かれている箇所とがある。対称性の概念が左右の概念と分かちがたく結びついているといえるが、それは違うのではないかと思うのである。現実に上下対称や前後対称という表現が全く使われない訳でははない。第一、左右対称という表現があること自体、上下その他の左右以外の対称性があり得ることを示している。要は頻度の問題だが、頻度の問題を絶対化すると誤解が発生して道がそれてしまう。著者は左右に過剰な意味と役割を与えているように思われる。翻訳ではさらにそれが増幅されているように見えるのである。

少なくとも後半の、量子力学と素粒子論を扱う部分では左右の概念からは決別し、単に対称性の概念だけで問題を考察すべきではないかと思う。単に対称性という場合と左右対称性という言い方が混在しているが、不要な「左右」を引きずっているように思われる。さらに以下は内容をよく理解しないままの印象に過ぎないけれども、対称性の概念自体どこまで有効なのか、疑問に思えるところもある。著者は初めの方、結晶の対称性を解説した章で、「この本の目的は対称性一般を論ずることではない。いまここで結晶を取り扱うのはその反射対称に関してだけなのである。」として、本書で扱うのは鏡面対称のみである事を明言しているのだが、本書の素粒子論に関する部分でも後の方、「時間不変性の破れ」や「反物質」の章などで考えられている対称性は、少なくとも鏡面対称性そのものではないし、対称性という表現(もちろんそれは術語として定着している用語ではあるが)自体がかなり比ゆ的ではないかという印象が持たれるのである。

既に述べたように、本書でカントの鏡像に関する考察を扱った章が一つの転回点になっている。このカントの鏡像論をマッハが批判し、マッハもまたそこから四次元や多次元幾何学の問題に移行していることに本書の著者が触れていないのは少し意外である。ただしマッハはその一方で左右の概念も生理学的な面から考察し、幾何学空間の等方性に対する知覚空間の異方性の問題として「左右」問題としてではなく「上下・前後・左右」の感覚の問題を考察している。著者は本書でマッハの研究にも触れているのだが、マッハによって指摘された幾何学空間の等方性と視空間の異方性の問題を見逃していたことはかなり重要な見落としではないかと思われる。

幾何学空間の等方性に関しては著者も「等方性」という表現は用いていないものの、鏡像問題に関する章の最後の方で次のような表現で言及している。「混乱の殆どが、一般の言語では左右反転をわれわれの(生物学的な)左右対称をもとに定義することからおこっている。三次元空間の座標幾何の正確なことばを使えば、各座標軸がおのおののx、y、zと呼ばれる以外は何も他の区別がないから、この混乱は消滅する。」。この点はさすがというべきかもしれない。

しかし結論をいえば著者自身、ここで指摘している「混乱」を免れていないのではないか、と思うのだが。

著者は巻末に、カントが「左と右に関する見解について言及している」沢山の本や論文を掲げている。ここでの「左と右に関する見解」という表現にも上記で述べたような誇張と行き過ぎが感じられる。またそこにマッハの著作が入っていないのは著者がマッハについて何度も言及しているだけに異常である。ここに著者の思索上の偏りが何となく感じられる。この偏りはこの著者に限らず、かなり時代に根深いものであるかもしれない。

2014年6月3日火曜日

佐藤亜紀著 『鏡の影』 を読んで

表記の本だが、本当に久しぶりに小説を読んだ。時々訪れるあるブログで書評というわけでもないが優れた作品として言及されていたのに少々心を動かされた結果、ネット検索で最寄りの区立図書館にある事が分かり、借り出して一読した。

とりあえず一読後、確かに優れた作品と言えるのだろうと、一応は納得している。しかしかなり読みづらく、読みなれない漢字づかいも多い。何度も行きつ戻りつしながら、なんとか最後までつじつまが合うように脈絡を追いながら読了したものの、やはり、一通りの意味を理解するには最初からの再読が必要と思われた。ただ、そこまでするだけの余裕も意欲もなかったが、最期のクライマックスと言えそうな部分だけは再読することで、一応は不完全ながら全体の脈絡を読み取ることができたように思う。

構成要素あるいは道具立てとして、(1)ヨーロッパ中世の政治社会、文化、カトリック思想、異端思想、錬金術、妖術などへの関心、(2)作者自身の思想、(3)フィクションにおける登場人物群、(4)ファンタジーの四つの要素で構想されていると見て、感想を整理してみたい。(4)のファンタジー要素というのはこの作がファンタジー小説と分類されているのでそう表現したまでだが、とりあえずこの言葉が便利であることには違いない。そのようなジャンル分けが重要であろうとなかろうと、ファンタジーの要素がある事は確かである。具体的には、①由来(どこから現れたのか、どこへ消えたのか、どこから再登場したのか、何を原資として生活しているのか)の知れない謎の登場人物(悪魔的存在)、②特異な夢や異常な眠り(眠りの美女)、③異常な亡骸(塵埃となる)、④異常な(処女の)妊娠(処女懐胎といえば聖母マリアに限られるらしいので)、⑤素性の知れない美女(ヴィーナスか)、などが挙げられる。このような道具立ての揃った有名な作品と言えばやはりファウスト伝説ないしゲートの『ファウスト』ではなかろうか。まあ今のところ当方にファウストとこの作品を比較するだけの素養はないので、今は単に言及するしかない。


この作品の主眼が上記(1)にあるとすれば、個人的には大いに興味があるのだけれども小説ではなく研究書かエッセーなどで読みたいと思う。例えば、錬金術ならユングの『錬金術と心理学』などである。ちなみにこの書は最初に翻訳書が出た頃に購入して何とか読んだがもちろん当方の読書力では字面を追った程度だった。ちょうど最近になった再読したいと思うようになったが果たせないでいる。

主眼がエンターテインメントにあるとすれば、それにしては読みづらいし難しすぎる。もっともそういうエンターテインメント性もあるように思えるが。

主眼が詩的、音楽的、絵画的な美にあるとすれば、当方の趣味と鑑賞力から言えばいまいち。

「意味」という掴みどころのない難物への取り組みが感じられる部分はある。

要するに、あくまでも当方の読書力にとっての話、いずれにしても中途半端という印象。ただしそれぞれの中途半端の程度を合計して、読んで損をしたとは思わない。

もうひとつ、かつてとりあえず字面を読んだだけのゲーテのファウストをもう一度読みたいと思う。なんといってもあのゲーテが最晩年に至るまで書き続けた有難い作品とされているのだから。この方面で当方は権威に弱いのである。

2014年4月9日水曜日

E・マッハ著、野家啓一編訳 『時間と空間』 を読んで

この書は、編訳者がマッハの二つの著書から時間と空間を主題にした論文六篇を選んで一書に編んだものとのことである。次の六篇からなっている。Ⅰ計測的空間に対する生理学的空間、Ⅱ幾何学の心理学と幾何学の自然発達、Ⅲ自然研究の立場から見た空間と幾何学、Ⅳ計測的時間に対する生理学的時間、Ⅴ時間と空間―物理学的考察、Ⅵ時間・空間に関する一考察。

当初の個人的な目当てはⅠの『計測的空間に対する生理学的空間』を読む必要を感じたからだったが、事実上、六編の論文すべてがこのテーマに発する問題を扱っていると言える。Ⅰでは、幾何学的な空間は生理学的な空間から由来していることを示し、さらにそれが生理学的な空間とははっきりと異なり、区別されるべき空間であることが強調されている。ⅡとⅢは、いずれも生理学的な起源と物理学的な認識との絡みで幾何学が発展する過程を追ったものと言えるかもしれない。Ⅱではユークリッド幾何学の範囲であるけれども、生理学的空間の異方性とは異なる幾何学空間の等質性ないし等方性がそのまま位置と運動の相対性でもあることが示されている。

Ⅱの方はさらに多様体とか非ユークリッド空間に及び、平行線公準の証明といった問題やガウス曲率といった高度な問題が論じられるので、当方にとってすべて数式を追いながら理解して読むのは当然、無理である。もちろん理解は無理であるが、それでも非ユークリッド空間やこれまで言葉だけでしか知らなかった多様体について、この本を読む前に比べて多少の親しみが持てるようになったような気がする。そんな気にさせるのはさすがにマッハが優れた研究者、学者で、説得力のある本質的な内容を述べているからであろうと思わせる。

マッハの科学思想といえばアインシュタインの相対性理論とのつながりが有名で、確かにこれらの論文を読むと、特殊相対性理論も一般相対性理論についても良く理解していない当方であっても、そのことが改めて納得されるのであるが、同時に、空間の相対性というもの、つまり位置と長さ、運動などの相対性が事実上は空間の等方性と同じことであって、この相対性はもっと卑近な、日常的な物理現象の理解にも深く関わっていることに気付かされるのである。つまり空間の相対性は相対性理論のみではなく物理学一般の基礎でもあるということ、当面の個人的な課題では、幾何光学の空間も相対的な物理学的空間、すなわち幾何学的空間であるということである。マッハ自身がそういう問題を論じていないとすればそれはそういう卑近な応用問題ではなく理論的な問題自体をさらに一般的で高度な幾何学に対応させて展開することや、逆に認識論への沈潜を考えていたためであろうと思われる。

上述の例として一か所を抜き書きしてみよう。
「手を使うのであれ、人工的な物差しを使うのであれ、物体相互の比較を〔を始める〕と同時に、われわれはすでに物理学の領域に足を踏み入れているのである。物理学的規定はすべて相対的である。」(『自然研究の立場から見た空間と幾何学』)。

この書物の持つ最大の意義は、物理学と認識論とが不可分の関係にあることを改めて認識させられることにあるように思われる。

ちなみに、この本を小さな区立の図書館で借りた際、自然科学の書架を探して見つからなかった。同じ出版社の「叢書・ウニベルシタス」に含まれる他の書籍が並んでいた中にこの本だけがなかったので、係の人に探してもらったところ、哲学の書架に置かれていたのだった。まあこの本が哲学に分類されるのは順当だと思われるが、それに気付かなかった一つの理由は、図書分類では哲学と自然科学が対極と言えるほど離れていることで、当然書架も反対側といえるほど離れているのも一つの問題と言える。日本ではあまり一般的ではないようだが、書架を円形というか円環状に並べる方法はこの点で非常に有利ではないかと思う。

それにしてもこの本は図書館にしても書店にしても科学の欄に分類されていればもっと広範な読者に読まれていたのではないかという気もする。マッハ自身が生理学者でもあり心理学者でもあったのだから、心理学や認知科学の書籍として扱われたとしても不自然ではないといえる。いずれにせよ、多方面の分野の科学者や学生に読まれるべき名著ではないだろうか。

2014年2月4日火曜日

E・カッシーラー『啓蒙主義の哲学』読了 ― 哲学の最終目標は美学なのか

数日前に表記の本を読了した。この本を読み始めた経緯は、このブログか別のブログに書いたが、これはおそらく20年ほども以前に購入して殆ど読んでいなかった本である。同じ著者の『シンボル形式の哲学』は数年前に一通り読了したが、つい昨年には学生時代に読んだ、やはり同じ著者の『人間』を再読したところであり、一応だがカッシーラーの重要な著作を三冊読んだことになる。こういうこと、一人の大哲学者の著書三冊を読了したといえるのは初めてのことで、ちょっとした満足感がある。もっとも『人間』は一般人を対象に書かれた本であると言われているし、今回の『啓蒙主義の哲学』も最初に購入したのは哲学史の教科書的な印象で購入したものだったが。

そういう次第なので、どうしてもこの三冊を、どれだけ理解できたかはさておき、自分なりに比較する気が起きる。もちろん先に読んだ二著作、特に主著と言われる『シンボル形式の哲学』がどれほど頭に残っているかと言えばまったく心もとない次第である。とはいえ、先日脱稿し、テクニカルレポートとして日本認知学会に投稿して再録された鏡像問題に関わる論考は、『シンボル形式の哲学』の第二巻である『神話的思考』を読んでいなければ成立することがあり得なかったものなのである。ちょうどブログで鏡像問題の新聞記事に触れた頃に、まさに今回のレポートで引用したあたりを読んでいたのだから。

とにもかくにも少なくとも個人的に、これらの三著作を比較することは特に興味深いのである。

『シンボル形式の哲学』は第一巻が『言語』、第二巻が『神話的思考』、第三巻が『認識の現象学』というタイトルになっているが、第三巻『認識の現象学』 の後半では自然科学と数学がテーマとなり、訳者の解説によるとこの部分がこの書の「クライマックス」とされている。それに対して『人間』では人間の「文化」を対象とし、文化の要素として神話と宗教、言語、芸術、歴史、そして科学が、どちらかというと並列的に扱われていたような印象があったが、比較的に芸術と歴史に重点が置かれていたような気がする。

今回の『啓蒙主義の哲学』では、対象は表題の通り啓蒙主義の哲学という、哲学そのものである。それが自然と自然認識という認識の基礎から始まり、心理学、宗教、歴史、法、国家、社会、と、この順序で著述が進められ、最後は『美学の基本問題』という章タイトルのとおり、美学が対象となっている。分量的にも、この書物では美学の問題が「クライマックス」となっている印象であった。これにはかなり強烈な印象を受けたといってもいい。 個人的に「啓蒙主義の哲学」についても、一般人としても殆ど知識と明確な印象を持っていたわけではなかったが、それでも、美学が啓蒙主義の哲学の中で重要な位置を占めているという印象は殆どなかったからである。それがこの著作を読了することで、美学こそが哲学の最終目標であるかのような印象が得られた次第なのである。それは単に啓蒙主義の哲学についてのことではなく、哲学そのものの目標が美学にあるといえるのではないかということなのだ。

改めて木田元氏による『シンボル形式の哲学』の解説を少しだけ拾い読みしてみたところ、次のような記述があった。「彼はこの〔シンボル形式〕という概念をどこから汲みとってきたのであろうか。カッシーラー自身は、その直接の源泉として美学と物理学を挙げている」

「美学と物理学」―なるほど、意味深長。











2014年1月24日金曜日

テクニカルレポートについてのお知らせ

2007年暮に鏡像問題をテーマとした毎日新聞記事を取り上げた記事を筆者の別ブログ『発見の発見』に書いてからもう7年目になります。それ以来、鏡像問題の根底にある認知現象の問題が鏡像問題を離れて空間認識に関わる様々な現象、問題に関わっていることに気付くようになり、それが言葉や意味の問題に深く関わっていることがますます明らかとなり、例えば縦書きと横書きの機能性の問題などをとりあげて考察し、本ブログの記事にしてきました。昨年来、鏡像問題そのものについて本格的に考察を行い、今般テクニカルレポートという形で日本認知科学会のサイトで再録して頂きました。日本認知科学会のホームページ(「出版物」欄、テクニカルレポートのページ)からダウンロードできますので、興味ある方はご覧ください。タイトルは『鏡像を含む空間の認知構造に向けての予備的考察』となっています。