2011年12月28日水曜日

更新を再開しました


このサイトは「意味」の周辺というタイトルで始めましたが、今年の2月、ブログの仕様にちょっとした不具合とデザインの問題があって次のブログサイトに引越しました:http://yakuruma.blog.fc2.com 。その後引越し先のブログにも不満が出てきました。たとえば、1つの記事に1つのカテゴリーしか設定できないことなどです。

そんな時、久しぶりにこちらの旧いブログをチェックしてみると、それでも1日に1回程度の割合でアクセスがあります。またbloggerの仕様もデザインしやすくなっている上、便利なガジェットが追加されています。それでまた、こちらのサイトに戻そうとしたのですが、FC2ブログではBloggerからインポートはできてもエクスポートはできない仕様になっていました。

しかし、この一年ほどの間に書いた記事は10本程度ですので、今日の日付でまとめてこちらにコピーすることにしました。以下、それらの記事のコピーです。

以後、同名のタイトルにて、当ブログで更新してゆきたいと思います。これからもどうぞ宜しくお願い致します。

宮沢賢治の回答

(この記事は http://yakuruma.blog.fc2.com にて公開済みです)

DATE: 12/23/2011 16:31:50
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おとといの夜、NHKのテレビ番組「100分で名著」で宮沢賢治の銀河鉄道の夜を取り上げた特集の最終回、出演のロジャー・パルバースさんがつぎのような事を語っていた。

賢治は、何故わたしは私であって、あなたや彼ではないのか?という疑問をもち、それへの回答として、わたしは彼やあなたでもある、彼やあなたは私である、という結論を得たというのである。

賢治がどこでそのような事を言った、あるいは書いているのかについては言及がなかったが、恐らく本当にそう考えたのだろう。

「なぜ私は他の人ではなくただ一人のこの私なのか?」というこの狂おしい疑問に捉えられたことのある人はそんなに稀なわけでもないように思われる。これは論理的な疑問というよりも感情に近いものである。

そしておぼろげながらも、あるいは無意識的にも賢治の認識に近いところまでいった人もさらに少ないだろうが恐らくそれほど稀ではないだろうと思う。

しかし、そこからさらに進んで賢治のように、そして賢治のような方向に思索を進めて創作や行動に発展させた人は稀なのだろう。

梅棹忠夫著「文明の生態史観」再読で「エコ」運動について考える

(この記事は http://yakuruma.blog.fc2.com にて公開済みです)

CATEGORY: 読後メモ

DATE: 12/17/2011 15:47:19
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(この記事は最初、読後のちょっとしたメモとして、簡単に1日で仕上げるつもりでしたが、書き始めると一向にまとまらず、結果的にかなりの長期間にわたって筆者の時間を奪うものになってしまいました。またかなり長いものになってしまい、文脈的にも整合されたものになっていませんが、とりあえずこの辺りでひとまず打ち切ってアップしておきたいと思います。)


先月、表記の本が真新しい表紙で書店の文庫本コーナーで平積みにされているのを見て、他の購入予定であった本と併せて衝動的に購入してしまった。もちろんこの有名な著作のことは知っていたが、内容についてはっきりとした記憶がなかったので、この際読んでおこうという気になったのかもしれない。購入後数日たってから思い出したように読み始めたら非常に早く読める。一気に2日程で読んでしまったのだが、それもそのはずで、確かに昔、同じ内容を読んでいたのだった。しかし全く同じ本ではなかったように思う。章句を思い出したわけでもなかった。少なくともかつて読んだ本よりは、今回は分量が増えているようだ。前の本を捨てたはずは無いので、探せば見つかるだろうが、必要もないので探さなかった。ただちょっとネットで過去の版を調べるには調べてみた。

というわけで、大体の内容は過去に読んでいたのでそれを思い出したといっても良いのだが、しかし今回は再読したから思い出したのであって、「文明の生態史観」のコンセプトはこういうことだという概念が身についていたわけでもなかった。今回再読しなければ、「文明の生態史観」というタイトルを読むだけではその概念を思い起こすことはできなかった。


【文明の生態史観とエコロジー】

その程度の記憶ではあるが、それでも覚えていることと覚えていないことがある。あるいは今回の本に含まれていて以前の本には含まれていない内容があったことも確かである。どちらでも良いけれども、今回始めて気づいたことの一つは、著者の元来の専門分野が本来の、つまり生物学の一分野である生態学であったということだった。著者はよく、自分は理科系の出身であるということを発言されていたように思うけれども、実際どの分野であったのかは記憶がなかった。今回始めて、著者が生物学者として出発し、生態学が専門であったことに気づいた次第である。

今回、私がこのことに注目したのはやはり昨今、なにかと生態学、というよりエコロジーが問題になることが多く、私自身も関心を持ち、つい最近になって、特に最近の日本ではエコロジストとして言及されることの多い南方熊楠に関する本、それも特にエコロジーとの関連で、エコロジストとして南方熊楠をテーマとした本を2冊程読んだばかりでもあったからでもある。

梅棹忠夫自身はしかしエコロジーというカタカナ語はつかってはおらず、この本以外のところでも「エコロジー」について発現されているのを見たり聞いたりした記憶があまりない。どうも今流行のエコロジー運動とは無縁であった学者文化人であったように思う。という次第で、著者がエコロジー運動についてどういう考えていたのかに興味を持ち、詮索したくなったのである。

今回読んだ文庫本(中公文庫)には「生態史観から見た日本」という講義録が収録されているが、それには次に引用する章句が含まれている。


【文明の生態史観は「べき」、「ゾレン」、「当為」の議論ではない】

『しかし、読んでくださればわかるように、「生態史観」は「べき」の議論ではございません。それは、世界の構造とその形成過程の認識の理論であって、現状の価値評価ないしは現状変革の指針ではございません。それは、ザインの話であって、ゾレンの話ではないのであります。そこからは、どんなにきばってもみても、「べき」の話はでてこないのであります。』
『私はむしろ、そのような「べき」の立場にたたなかったからこそ、生態史観のようなものができたのであるとかんがえているのです。わたしにも、一般的な実践について、あるいは「べき」について関心や意見がまったくないわけではありません。しかし、この問題に関しては、わたしはやはり、区別ははっきりしておいたほうがいいとおもうのです。』
『ところが、「生態史観」を発表して以来、よせられた反響のひじょうにたくさんの部分が、この「べき」を問題にしているのであります。』
『生態史観というようなものは、私は、なによりも単なる知的好奇心の産物であるとかんがえています。』

以上に引用した個所は非常に重要な問題を含んでいるように思われる。端的に言って著者の考え方は正しいと思う。「べき」の問題、つまり倫理や政治的な問題は学問的、とくに科学的な問題とは区別しなければならない。

但し著者自身は、「区別ははっきりしておいたほうがいいとおもう」とは言うもののそれに対してそれ以上に熱を入れて非難することもなく、そういう傾向を打破すべく活動を始めることもなく、その事自体に興味を持って次のように考察を始める。


【政治と知識人】

「わたしはむしろ、日本の知識人たちが、理論的関心よりも、実践的関心のほうを、よりつよくもっているという現象そのものに興味をそそられるのであります。」

という文脈につらなり、知識人のこういう態度を日本とヨーロッパに共通する特徴であるとして「文明の生態史観」のなかに、知識人の「生態」とは言わないまでも学問的姿勢を組み込むような考察を始める。そして「生態史観の応用的展開の一部としての比較知識人論、ないしは比較教育論へのいとぐちにすることができるかもしれないと、こうおもうのであります」という抱負を語ることでこの講義を終えている。

ただここで、著者は考察をさらに進めるにあたって「べき」の問題、「当為の主張」の問題を「政治指向」の問題に置き換えている。「当為の主張」という広い範囲の問題を政治の問題に限定あるいは狭めているとも言えるが、問題をそらせている訳ではないし、政治が重要な問題であることには変わりがない。
なお、著者は当為を表す言葉として最初にカッコつきの「べき」という言葉を使い、次にドイツ語のゾレンをつかい、あとから「当為」という言葉を使っているが、この記事では以降「当為」を使うことにしたい。


【「文明の生態史観」と「エコロジー思想、運動」との平行関係】

この「比較知識人論」の契機になった問題というのは、著者が提起した「文明の生態史観」に対する知識人側からの反響であった。著者自身が純粋に知的好奇心の産物と考えていた生態史観に、現状の価値評価ないしは現状変革の指針を見ようとした知識人層を見てのことであって、今問題になっているエコロジーの問題、エコロジー思想やエコロジー運動については何も語っていない。

けれども、著者の生態史観も、世界的なエコロジー思想や運動も共に、基本的に、言葉どおり生物学の生態学に由来しているわけであるから「文明の生態史観」とエコロジー思想との間に何らかの並行的な見方ができる筈である。

すなわち、梅棹忠夫はその本来の専攻分野である生物学の一部門である生態学から出発し、それを人間の歴史に応用して「文明の生態史観」を提起したが、一方でちょう時期的にもそれと平行して同じ生物学の生態学をやはり人間に関する問題に応用したと言えるエコロジー思想あるいはエコロジー運動が展開してきたと見ることができるわけで、見方によっては同じ生態学に由来し、それを人間に適用する際の二通りの道が示されたとも言える(二通りしかあり得ないという意味ではなく)。

そして、著者がその一方の道として提起した「文明の生態史観」に対する反響が「知識人の政治指向」に由来するものであると著者が考えたわけだが、その同じ「知識人の政治指向」が、文明の生態史観と平行して展開していたエコロジー運動に大きく関わっていたと見ることができるわけである。


【文化系知識人が目立つエコロジー運動】

そう考えるには当然、根拠がある。著者がここで知識人と言っているのは主として人文科学系の知識人のことを指しているといって間違いはないだろう。エコロジー運動の方も、推進しているのは、少なくとも日本の学者知識人でエコロジー思想を喧伝しているのは、目立つのは社会学者や文化人類学者など文化系の学者や文化人の方である。


【当為の主張が入ることでエコロジーが文化系知識人のものになった】

専門的な生態学や地球科学系の出身者よりもむしろ社会学者や文化人類学者やその他の文化系学者、あるいはジャーナリストなどの活動が目立っている。またエコロジー運動の活動家は学者というよりも文字どおりに「活動家」でしかないようなケースも多いだろうし、知性派的な芸術家や芸能人の創作活動に取り込まれたりという場合も多い。職業的な芸術家や芸能人の創作活動とは即ビジネスである。当然いずれも生物学や地球化学を基礎とした生態学や環境科学の本格的知識を持っているとは思えない。もちろん中にはそれなりの勉強をしている人もいると信じるが、あくまで当為が先に立ち、偏見のない自由な、それこそ純粋な知的好奇心から勉強をしているとは考えられない。そのような立場の人の場合は当然、当為、「べき」の方が出発点になっているからである。

つまり、人文科学系出身の学者や芸術家や芸能人などが本来の生態学や地球科学を専門的に勉強することがあっても、エコロジー運動からその分野に入って行く場合はもはや先入観を持たずに純粋な知的興味から知識を取り入れることができにくくなくなっているのである。もちろんこれは傾向としてである。


【本来のエコロジー以外の自然科学者が主導するエコロジー運動】

また自然科学系の知識人であってもエコロジー運動に積極的に関わっている人物はむしろ本来の生態学や地球化学からは隔たった分野の専門家が多いように思われる。例えば今エコロジー運動の最たるものは地球温暖化対策という問題といってよいと思われるが、私見では地球温暖化問題に最も関係の深い自然科学の特定分野があるとすればそれは地球化学をおいて他にはないと思っている。もちろん気象学も、気象学がその一分として含まれると言われる地球物理も関係が深いが、地球化学はそれらをも包含するものだと思う。もちろん、生態学もそれなりの関わり型で関係していることも確かである。

ところが、自然科学系の専門家で、特にエコロジー的な発想で地球温暖化対策に熱心で発言機会が目立つのは計算科学者、物理学者、原子力工学の出身者などで、本来の生態学者も地球化学者も、あるいは地球物理、地質学など地球科学一般の専門家も一向に目立つところに姿を現さないように見えるのである。もちろん政府所属の研究機関などに所属する専門家は別である。


【エコロジー思想に取り込まれた地球科学、特に温暖化問題】

それはこういうことだと思う。地球温暖化問題がエコロジー問題となることで、この問題を扱うのに最も相応しい分野は何かという問題からフォーカスが外されることになるのである。覆い隠されるとも言える。そこでこの問題に高い関心を持ち、エコロジー運動に熱心な他の分野の科学者が主導的な意見を主張することが不自然ではなくなる。この問題が、当為の議論を含むエコロジーの問題となり、エコロジストの扱うべき問題ということになり、「現状の価値評価」、「現状変革の指針」を含むエコロジーの権威が強調され、ありのままの現状認識の問題が副次的な問題とされてしまい、フォーカスを外されてしまうのである。こういう現象自体が梅棹忠夫のいう「知識人論」の対象となるような知識人の生態とも言えるような事態が生じている。

要するに自然科学系専門家の場合も人文系の学者や芸術家、芸能人の場合と同様である。

一般に自然科学者の間では、分野の違いによる専門の独立性を尊重する気風が文化系の学者よりも強いのではないかという印象がある。お互いの専門性を尊重し、他の専門分野に立ち入ることを差し控えるような傾向が強いのではないだろうか。その結果、自分の専門ではない分野については、自分の頭で考えることを放棄してしまうのは文化系の学者や芸術家の場合と変わらない場合も多いように思われる。むしろ学問的な専門分野を持たない一般人のほうが公平に、真実に近づきやすい面もないとは言えないと思う。

他方、政治の立場からすれば環境問題は重要な問題であり、政治が、環境問題への回答を自然科学の様々な分野に求めるのは当然のことである。当然、好むと好まざるとに関わらず、科学者も政治に向けて何らかの対応を迫られる。その相手は狭い意味の政治家に限らず、それ以上に行政組織、さらに利益団体とか、イデオロギー団体とか、活動家など、あらゆる政治的な立場から自然科学者の方に向けられる働きかけに対応せざるを得ない。

このように地球科学がエコロジーに取り込まれた、というか飲み込まれたような形になっているが、それは正当なことなのかが問題になってくるのである。


【物質科学、生命科学、人文科学、歴史と科学】

ここまで、梅棹忠夫の「文明の生態史観」と「エコロジー思想」とをただ、当為の立場に立っているかいないか、あるいは当為の立場であるか、単なる知的好奇心の立場からであるかという点における違いのみを問題にして比較してきた。著者は自らの生態史観を「世界の構造とその形成過程の認識の理論」であり、「現状の価値評価ないしは現状変革の指針」ではないと言っている。一方、エコロジー思想は「現状の価値評価ないしは現状変革の指針」に該当しているので、これまで見てきたようにこの2つの思想を単純に当為の立場であるか当為の立場を含まないかという点だけで比較してきたわけだが、それでもこれら2つの思想にはその点以外にも大きな違いがあり、またそれらのコンセプトには違いがありすぎるとも言える。

というのも、何よりも人間の当為の議論を含んだ、あるいは当為の指針を求めるとも言える「エコロジー思想」は、本気で考えればあまりにも、途方もなく壮大なものになる筈だからである。

「文明の生態史観」の方は、もちろんこれも壮大ではあるが、ただ生態学の方法を人類の歴史の理解に応用するということであって、地球全体としての理解などは含まれていない。ここでは地球環境は人類史の外部にあるシステムであって、地球環境への人間からの働きかけについては、基本的に考察の対象外であるように見える。

他方のエコロジー思想の方は恐らく、人間を含めた地球全体を人間の立場を離れて考察しようとする立場であろう。その中では自然に対する人間からの働きかけが含まれる。この辺りの事情から「地球に優しく」とか、「地球を愛する」とか、「地球が好きだ」とか、「すべてを地球のために」といったキャッチフレーズが飛び出すようになったのだろう。

しかし、生態学という生物学の段階ですでに生命現象を取り扱っているわけだが、人間活動をも含めるとなると、一体どうなることか。生物学の段階ですでに物理化学現象を主題として扱っているわけではなくなっている。それに人間の文明をも含めるとなると一体どういうことになるのだろう。


【歴史でつながる生物学と地球科学】

元来生物学には地球という概念は存在しない。少なくとも表面には登場せず、学問のテーマそのものではない。環境という概念なら当然、生態学にはあるのだろうが、しかしそれも主題ではなく、あくまで背景あるいはシステムの外にあることは「文明の生態史観」の場合と同じである。物理的な物体や化学的な物質を扱っているわけではない。地球を物理的な物体または化学的な物質として扱うのは地球物理や地球化学である。「文明の生態史観」が物理的、化学的な物質としての地球を研究対象とせず、またできないのと同様に、生物学の生態学も生態学の枠内で地球を物理科学的に研究することはできないのである。
ただ、地球科学には歴史の概念がある。地質学の目的は地球の歴史を明らかにするものであるという考え方がある。その地球には当然、生物と人間も含まれ、生物と人間が物質としての地球に何らかの足跡を残し、地球の歴史と重なる部分があることから伝統的に地球科学と生物学はつながってきたといえる。ダーウィンは地質学者として出発したが、生物の進化を研究することによって結果的に生物学者に転向したという事になった。

このように生物学と地球科学が繋がっているとはいえ、それはあくまでも別物が繋がっているだけであって、決して1つの纏まった統一体に統合されたものであるとは言えない。

もしも統一体であると言えるとすれば、空間的にも時間的にも、生物も人類も地球のごく一部として包含されることになる。しかし、地球を物理的な物体、化学的な物質として扱う地球科学が、生命や精神現象を扱う生物学や人文科学を包含することはできないことは言うまでもない。という次第で、地球科学と生物学はこれまで一体のものであったことはなく、なりそうにも思えない。


【エコロジーの現在と可能性または幻想】

ところが、エコロジー思想によって地球と生物、人類が一体のものとして把握できるような印象、気分が醸成されてきたように思われる。確かにこれは興味深い問題ではある。しかし精神的な要素を含めて地球全体を科学的に理解するような方法は現在存在しない。

精神的なものが物理現象に影響を与えることやその逆の現象について、例えば超心理学や物理学あるいは哲学的に研究されたり考究されたりしていることに関しては、色々と情報があり、興味深いことは確かである。しかし現在のエコロジー思想や運動に、すでにそういった方面の成果が取り入れられているわけではない。今のところ地球と生命を持つ生物、精神性を持つ人間を一体のものとして統一的に理解できるというのは幻想といったほうが良いのではないか。宗教的直感というものもあるかも知れないが、まあ今のところは幻想であり、少なくとも科学ではない。

要するに現在のエコロジー思想は、本来一体のものではない地球科学と生態学とが一体であるかのように装い、エコロジーを地球全体に拡張しているのだといえる。


【地球の人格化】

一方で、生態学に人間をも含めることになれば、梅棹忠夫の「文明の生態史観をも、またそれこそ「比較知識人論」まで、さらにありとあらゆる社会学的なものをも包含させなければならない。それは途方も無いことである。ところが現在のエコロジー運動は人間の歴史とか社会学とかではなく、当為の主張、あるいは政治的、倫理的なものの方に偏って取り込んできたといえる。その結果、地球の擬人化が始まった、というか、むしろ人格化が始まったとも言える。これは本来科学思想というか科学的言語全般に含まれている擬人的な要素とは別次元の擬人化あるいは人格化である。

大地の神格化なら古くからある。しかし今のエコロジー運動は神格化ではなく人格化に近い。

しかし現実に、表層で行われている議論は、実際に地球が神であるとか人間のような心を持っているかといった議論とは別の次元で行われている。というのは、現在のエコロジー運動が実際に地球が神であるとかまたは地球が心を持っているというようなことを認めた上で科学的議論をしているわけではないからである。少なくともIPCCのようなCO2温暖化説のオーソリティーがそのような議論をするわけもなく、一般の科学者でもCO2温暖化説を支持している層はとくに、神秘主義を批判することにも熱心である場合が多い。さらに工学的な発想が加わり、CO2を地中に圧入して自然をコントロールしようという、自然を改変することに批判的であるはずのエコロジー思想とは大いに矛盾しそうな発想を実行に移そうとする。

要するに、矛盾に満ちているのである。まともで論理的な議論が行われていないように見える。


【地球の人格化ないし神格化が当為と結びつく】

(この部分は再考の予定)

・・・・そういった諸々の結果、エコロジー思想を構成する当為の要素が、地球化学の問題であり、地球化学の問題として解釈できるはずであり、実際に解決済みである地球温暖化の原因論にまで影響力を行使しようとしているとも言えるのである。

もちろん一方で生態学的知見、他方で人間社会の福利、また信仰や精神性からの要請で自然保護や動物の愛護が主張されるのは自然なことであってそれはそれで尊重し、議論が必要であれば議論が必要なことは言うまでもない。しかし、梅棹忠夫が生態史観について述べたように、当為の問題と現象とははっきりと区別しなければならない。そうでなければ結果的に政治とビジネスに翻弄されることになる。現にそうなっているように見える。


地球化学は人間活動をも含めたすべての生命現象をもすべて化学現象に還元(還元という言葉に語弊があるとすれば、むしろ解消または消去)して地球全体を把握することと理解しており、今のところ地球全体を科学的に理解するには地球化学が最も適切な分野であると思われる。


【南方熊楠】

最初の方で触れたとおり、少し以前、南方熊楠の解説本を2冊ほど読んだ。鶴見和子著[南方熊楠」および中沢新一「森のバロック」。非常に難解だが、南方熊楠がこういった問題、つまり自然科学と人文科学の統一といった問題に迫っていることはなんとなくわかる。

しかし南方熊楠のエコロジー思想にそのような展開の可能性があるからと言って、熊楠思想の研究から現在の段階で政治的な当為が出てくるであろうか。

すでに見てきた通り、今の政治的なエコロジー運動は当為、倫理的な先入観による予断と偏見から客観的な地球科学ないし地球化学現象を歪めて解釈する可能性を孕み、政治とビジネスに翻弄される可能性が多々あるところの未熟で歪んだものである可能性が高く、現にCO2温暖化説という誤った学説を強硬にサポートし続けるという欺瞞に陥っている。それ以外にもそのような欺瞞が多々あるようなことが言われている。

ましてエコロジー思想家、活動家の多くは専門の生態学すなわち本来のエコロジーの専門家でもない場合が多いようなのだ

このような状況で、難解な南方熊楠の思想の研究が即、政治的に有効な運動に転化できるとはとても思えない。そこから地球温暖化の原因論に到達できるわけでもないし、エネルギー問題の技術的、経済的、政治的な解決策が得られるとも思えない。地球温暖化問題の場合はすでに地球化学的にメカニズムが明らかになっているのである

今必要なことはむしろ、現在の未熟なエコロジー思想による予断と偏見から地球科学ないし地球科学的知見、さらに本来の生態学を救出し、取り戻すことではないだろうか。

熊楠がエコロジーと民俗学の立場から神社合祀令の反対運動を行ったのは熊楠が精通していた森林のエコロジーと地域の民俗に直接関わる問題であって、同時に時の政府がそれを知らなかったからであると思う。それ以上でも以下でもないと思われる。熊楠の基本的な態度は恐らく純粋な知的好奇心を動機とした学問という、梅棹忠夫の立場に近いものではなかっただろうか。

難解な神秘思想で言葉で表現できないものであるからとも言われているが、南方熊楠がそういう体系を理論化しなかったのは、それが時期尚早であるか、あるいは学問としては不可能であると思ったのではないか。

少なくとも今の時点では、現象の理論と当為とを統一したように見えるエコロジー思想を現実の政治に持ち込むことは政治とビジネスのプロにに翻弄されるだけである。
もちろん学問とビジネスとの結びつきは避けることはできないし、必要である。しかしそれは目に見える形でなければならない。今のエコロジー運動ではそれが内在化されてしまうのである。


【理論を道徳的に判断するイデオロギーの可笑しさ】

今の地球温暖化問題はまさに「当為の主張」を含んだエコロジー思想が地球科学を飲み込むという無理な、少なくとも今の時点では途方もなく無理なことによって発生した歪のような印象である。その結果、一時はCO2温暖化説を否定することが悪徳であるかのような気風さえ醸し出されていた。

同じような現象が放射線問題でも出てきている。医学は元々、当為に関わる倫理的な要素に支配される。低線量の放射線リスクにしきい値があるという主張をすると、それだけで倫理にもとると受け取られかねない雰囲気が醸しだされている。

古くはマルサスの人口論が非人間的で非道徳的だという理由で非難されていたことがある。科学(技術ではない)と道徳を一緒くたにして議論をしてしまうイデオロギーの可笑しさ。そこに技術も加わる。

以上のような現状を見ると、梅棹忠夫が専門学者、あるいは科学者として、純粋に知的興味を動機として研究活動を行うことに強い意志とこだわりを持っていたことに、非常に重要な意味があるのではないかと思う。


【学問は最高の道楽―梅棹忠夫】

昨年出版された「梅棹忠夫語る」の第六章は「学問は最高の道楽である」という表題が付けられ、実際にその通りの意見が語られている。ポイントは、「学問は道楽である」ではなく「学問は最高の道楽である」ということである、つまり「最高の」が付けられていることは重要であると思う。いまそこまで意味を深く詮索する必要もないが、道楽としての学問がその純粋性を保証している面がある。

そのような純粋に知的興味から行う学問は、直接には社会に何ももたらさないように見える。またそう思われやすい。しかし芸術や芸能と同様、そういうものは人々の心を豊かにする上で不可欠のものである。梅棹忠夫が博物館づくりに奔走したのもそういう意味でのことであったように思われる。


筆者にとって梅棹忠夫の最大の功績と映るものは、「学問とは最高の道楽である」という生き方を、身をもって示したことにあるのではないかと思う。


【エコロジー思想へのあこがれ】

以上のように、当為の主張、指針を包含したエコロージー思想、運動の中に様々な矛盾と混乱を抱え込んでいることが見て取れるように思う。

しかしこのような現在のエコロジー思想ないし運動が多くの人々の心をとらえていることは重要な事実である。実際、科学と当為が統合されているように見えるエコロジー思想は1つの理想であり、究極の知識と言えるのかも知れない。理想的、究極のそれは人生の指針となり、生きがいとなり、絶望からの救済とも映る。

他方、「学問は最高の道楽」という梅棹忠夫の立場も1つの救済ではないだろうか。道楽は遊びとは少し異なったニュアンスがある。南方熊楠の態度も梅棹忠夫の立場と誓いものであったような気がする。

ところで、道楽とは何だろう?

解像度の意味 ― 「相対的」解像度と「絶対的」解像度を区別すればどうだろうか


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CATEGORY: 翻訳語と意味

DATE: 11/06/2011 15:43:30
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「解像度」という言葉は一応は英語の「resolution」の日本語訳のような印象があるが、必ずしもそうとは限らないようだ。resolution は分解能と訳される場合も多く、こちらのほうはどちらかと言えば機械装置の性能といったニュアンスが強いような気がする。解像度の方は主として画像関係の技術用語として使用されてきたように思われるけれどもオーディオの評論の世界でも使用されているよう




だ。こちらは専門的には分からないが、多くの音源、録音される前の楽器などの音源が分離して聞き取れる程度のような意味らしく、そうだとすれば、今のところは数値的に表せるような概念ではないようである。


画像関連技術で使用される場合、解像度という言葉は当初、DPIのことではなかったのだろうか、・・・と思っていたが、今ネット検索してみると次のような文例が見つかった。
"Resolution and DPI (dots per Inch) are often used interchangeably, but they are quite different.(解像度とDPIとは全く異なる概念である) "、
"Resolution is the number of pixels in the horizontal direction by the number of pixels in the vertical direction.(解像度とは縦の画素数×横の画素数のことである)"― http://www.dsbglobal.com/ishrink/About%20Images.htm

実のところ、私は解像度とは本来DPIのことだと思っていたので、テレビやディスプレイのカタログで縦横のドット数のことを解像度と表現されているのをおかしいのではないかと思っていたのだが、間違っていたのは私の方であった。

しかしカタログなどで大抵、解像度については記載されているが、DPIに相当するデータについては記載されていないことが多いのは不満である。

それはそれとして、「解像度」という概念からすれば、どちらを指してもおかしくはないよに思う。現在定義されている解像度は「特定の1つの画像における解像度」であり、DPIの方は「絶対的な長さあるいは面積における解像度」といえるように思う。従って「相対解像度」と「絶対解像度」という風に区別すればどうだろうか。


最近、スマートフォンやタブレットPCなどで非常に精細なディスプレイが見られるようになり、解像度も多種多様な製品群が市場に出てくるようになった。解像度を正確に、適切に表現することは重要なのではないかろ思うのだが。

自然、または地球の「意味」と気象 ― 芸術が欺瞞に陥らないように

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CATEGORY: 日常と社会

DATE: 10/23/2011 23:16:39
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自然、または特に昨今では地球という言葉で人々が意識する意味の範囲はその時どきの文脈で大きく異なる。人間を自然に含めるかという大問題はこの際、問わない。また生きた生物も含めないようにしよう。それでも状況によって自然の意味範囲は随分異なるものである。

ごく普通に自然という言葉を使う時、多くの場合は地表の環境、便利な定義を使えば「気象」に関わる範囲内といえるのではないだろうか。

少なくとも昼間はそうだろう。夜になって星空が見えるようになれば、宇宙の一部も視野に入ってくるかも知れない。まあだいたいそんなところだろう。要するに殆どの場合は目にみえる範囲しか入っていないのである。

このように考えると、昨今、「自然エネルギー」という言葉が意味するものが通常、風力と太陽光のエネルギーを意味するようになったことも納得できるというものである。だいたい気象に関わる範囲内の自然を単に「自然」と称しているといえよう。しかしそれが合理的であるということにはならない。

本来の自然、少なくとも「地球」全体を考えるのであれば、気象に関わる部分は表面のごく一部であることは自明のことである。マントルや地球の中心部まで行かずとも、地殻や地下資源、エネルギー関連では石炭石油も自然の一部である。ガンマ線やアルファ線などの放射線も自然の一部である。当然自然放射線も、宇宙線も紫外線も、太陽光と同様に自然の一部である。

多くの人にとって自然という言葉をつかうとき、実際に目にみえる部分あるいは五感の感覚で直接感じる部分しか視野になく、意識していないということを銘記すべきだろう。これは芸術家の場合も同様である。むしろ芸術家こそこの陥穽に陥りやすいのではないだろうか。

多くの芸術家はその限界に気づく機会が少ないのではないだろうか。であるからこそ科学が必要であり、また経済学や倫理学や社会科学が必要なのである。もちろん科学ですべて事足りるというわけではない。

視野の狭さは欺瞞につながる。芸術が欺瞞に陥る事なかれ。


この文章は今夜、NHK・Eテレの日曜美術館「風の彫刻家 新たな挑戦~新宮晋~」を見た後の感想の一部です。

白洲正子の西行、ソローの森の生活、コンノケンイチの宇宙論 、・・・・― 読後、読書中断、読書中、その他予定など

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CATEGORY: 読後メモ

DATE: 10/02/2011 02:08:27
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このブログではこれまで毎回一応は1つのテーマでまとまった内容を書いているつもりだったので、今回のような日記風のまとまりのない記事はちょっとそぐわず、フェースブックの近況とかで書くのに向いているかもしれない。しかしすべて、一応は本と読書に関わることなので、読後メモのカテゴリーを含むこのブログで書くことにしようと思う。今のところフェースブックだけよりは多くの人の眼に触れることでもあり・・・。

白洲正子の「西行」は、この真夏から9月の中頃にかけて、だいたい毎夜、寝る前にシャワーを浴びてから髪が乾く程度の時間読んでいたように思う。髪が乾くといっても今のこの頭髪では数分間でしか無いが、別にきちんと測って決めていたわけでもない。ページ数で10ページ読めることはあまりなかったような気もする。こういう読み方だったので仕事で忙しかった時期も続けて読むことができた。予想よりも密度の濃い本で、引用された西行その他の短歌や文章も読みつけていない古文なので難しい。やはり自分にとって古文は難しいことを思い知らされた。一口に古文といっても難しさは千差万別である。必ずしも旧いほうが難しいというわけでもないだろう。西行の場合は一部のよく知られた歌を除いて、歌も文章も相当難しくて著者の白洲さんの解説なしには皆目分からない場合が多かった。西行個人の歴史を含め、歴史的な知識も相当必要である。その歴史的な知識をこの本でかなり教えられたことはありがたかった。ちょうど司馬遼太郎の小説やエッセーのような感じで西行の個人史を含め、当時の日本史が断片的に再現される用な感じ。そういえばこの本の文体、ではないが、手法とでもいうか、書き方は「街道をゆく」に似たところがあるように思われた。多面的で自由な書き方であるといえると思う。

この本の前にはやはり同じような時間帯に鶴見和子著、および中沢新一著それぞれの南方熊楠関連本を読んでいた。こちらの方は必ずしも寝る前の短時間というわけでもなかったが。これらの読後感はツイッターに一度簡単に書いた。もちろんその短かさに比例して軽い印象だったわけではない。とりあえずという形である。そのときのつぶやきをコピーすると次のとおり。yakuruma
2011.08.14 20:44
鶴見和子著「南方熊楠」と中沢新一著「森のバロック」を読了。両者ともに素晴らしい本でした。名著だと思います。それにしても同じ著者(後者ですが)による最近の対談本「大津波と原発」で感じられた軽薄さと粗雑さは一体、何によるものなのだろうか。 via ついっぷる/twipple

「西行」のあと、偶然の手伝いもあって、同じ時間帯にソローの「森の生活」を読み始めた。偶然の手伝いというのは、たまたま大型書店の玄関先に設営していた古書コーナーで、250円の岩波文庫版を見つけて衝動買いをした結果である。何夜か読んだあと、翻訳だから仕方がないとも言えるが、文体が馴染めなくなった。思いついてグーグルを検索したら英語の原文は無料で読める。しかもイラスト付き原本の画像データもテキストデータも選択できる。しかし、この時間にはパソコンで読みたくないし、辞書も引きっぱなしというのも辛い。そこで今は電子書籍用端末かスマートフォンの選択のことで結構頭が一杯になっている。別にこの本を読みたいというわけではなく多目的で購入を検討している電子書籍向きのタブレット端末のことに気を取られてしまうのである。
それはそうと、西行とソローとの間の共通点または異質点を考えるのも面白いと思う。興味深い点は個人よりもむしろ社会的なものだ。ソローにとっては絶対に選択することはできなかったが、西行が選択できた出家という選択肢は当時の日本の支配階級に特有の制度だったような気がするが、この出家という制度は実に興味深いものに思われる。仏教国にはどこにもあるかもしれないが、しかし当時の日本の出家はインドやネパールやタイの出家とも随分異なっているのではないだろうか。日本文化と深い関係がありそうだ。

そうこうしているうちに、7、8、9月、と途絶えることがなく結構忙しかった仕事が一段落して時間ができたので、懸案の書籍をアマゾンに注文したのである。コンノケンイチ著「宇宙論の超トリック暗黒物質の正体」という本である。発刊されたのは数ヶ月前で、宣伝を見てかなり買う気になっていたのだが、店頭に置いている書店があまり見つからず、当時の財政事情もあり、購入を控えたいた処をこのような次第で他の2冊と一緒に注文した。

他の2冊というのは、カントの純粋理性批判の岩波文庫版とハイデッガーの存在と時間のちくま文庫版、何れも上巻のみである。これらは昔からいつかは読む気でいたのだが、読める状況になってから購入するつもりでいた。いつまでたっても読む状況にならず、今に至るまで購入する機会がなかった次第。今回、宅配注文ついでにとりあえず両方の上巻のみを購入しておこうという気になった。もっと具体的にこの両者を本気で読む気になったきっかけは、2年ほど前に1年位の期間をかけてカッシーラーの「シンボル形式の哲学」をひと通り、少なくとも字面を読んだ事による。この本は何らかの形で、両者の影響を受けていると言われることも、当然、1つの理由であり、一方その後、この書物の翻訳者である木田元氏の最近の著書を何冊かまとめて読んだことによる影響もある。実は氏がハイデッガーの専門家で権威でもあるということなど、それまで知らなかった。ハイデッガーその人についても正直言ってそれまでそれほど予備知識も興味もなかったのである。もちろん、カントの方はそうでもなかったが。

という状況で、昨日の土曜日は金曜日に到着した3点の書籍の中からコンノケンイチ氏の本を読むのに費やし、半分くらいまでを読み、さらに巻末にある著者と副島隆彦氏との対談を読んだ。

この本はアインシュタインの特殊相対性理論とビッグバン理論と、ホーキングの宇宙論を批判し、否定し、さらに著者独自の理論を展開した本であるが、特殊相対性理論と一般相対性理論を批判し、否定した本は昔、何冊か購入したことがある。まだパソコンもインターネットも普及していない頃だったが、少なくとも3冊ほどこの種の本を購入して、大雑把に読んだ経験がある。当時、コンノケンイチ氏の本も書店の店頭で何度も見ていたが、何故か、購入することはなかった。その後はあまりこの方面のことに興味を持たないようにし、この問題でそんなに何冊も本を購入する気もなくなっていたからかもしれない。ただ、この機会をきっかけに、特殊相対性理論が崩壊することに期待する気持ちを持ち始めたことは確かである。

という次第で、発刊のニュース以来、何れ購入するつもりでいたにせよ、先日注文することになった直接のきっかけは、もちろん、最近、多くのマスコミで伝えられた処の、高速を超えるニュートリノ粒子が発見されたとされるニュースである。今回このニュースが主要マスコミで伝えられ、世界的に話題になった理由の1つは間違いなく、この研究がCERNの大型加速器関連で行われた世界的な共同研究グループの研究と発表であったからだろうと思う。もしも、こういった発見が別の目立たないところで行われたとすれば、こんなにマスコミで取り上げられることはなかったのでは無いだろうか。

かつて読んだ何冊かのこの種の本を含め、この本の内容や最近の発見のニュース記事などの印象やそれらを読んで考えたことなど、また、別の場所でまとめてみたいと思う。ただ、1つ、今回改めて強く思い起こしたことは次のことである。カッシーラーの哲学ないし科学思想(すなわち、シンボル形式の哲学など)は今後、このような問題に係り合うに際しても、増々重要性を持つようになるのではないか、ということである。できればコンノケンイチ氏や対談をしている副島隆彦氏がカッシーラーの哲学についてどのように考えておられるか、あるいは考えられるかを知りたいものである。

もうひとつ、最初の「西行」に戻ってしまうが、この本で西行が平泉の藤原秀衡の下で義経に会っていたという話を始めて知った。会ったという証拠があるわけではないそうだが、状況から考えて会っていたに違いない。それにしてもこれまでに見たり聞いたりした義経の物語やドラマで義経と西行との邂逅の場面を見たことが無いのは何故なのだろうか、とふと思った。それで良いのかもしれないが、そういうことがあっても良いのではないかと思う。小説ではあるようだ。

何故か最近、義経のことが気になりだした。何故か、と書いたが、きっかけはある。去年だったか、義経伝説をかなり詳しく取り上げたブログ記事に遭遇したからである。http://intec-j.seesaa.net/category/8271869-1.html
このブログ記事では義経=ジンギスカン説とともに義経=清朝祖先説がかなり詳しく説明されていた。個人的にこういう諸説を多少とも具体的に知ったのは始めてであったので、この時には強い印象を受けた。それ以来、義経伝説も頭から離れない事柄の1つになっている。このブログの著者自身は、義経は少なくとも北海道までは落ち延びたということに80パーセントの信ぴょう性を感じているとのことだ。先ほどの相対性理論の問題などとは全く別の問題には違いないが、これもアカデミズムと諸説との関係という共通項はあるといえばある。

最近の読書体験という括りで、日記風に脈絡もなく書き連ねてきたが、日記のつもりでついでにもう一件、メモしておこう。今、最近リリースされたCDで、ピアニスト、バドゥラ=スコダがベートーベン作曲当時のピアノを用いて録音したピアノソナタ全集9枚組のボックスを購入したくなったのである。しかし3万円近くという価格に躊躇している。欲しい理由は3つある。一つは今だにベートーベンのピアノソナタ全曲を聴いたことがなく、全曲を聞きたいという思いは前からあった。次の一つは、フォルテピアノと呼ばれる旧い形式のピアノの音が好きだということ。ただ、ベートーベンの音楽をフォルテピアノで聞きたいとは思っていなかった。特にフォルテピアノの音色にとりつかれたのはシューベルトとシューマンの歌曲伴奏の音の美しさに魅了された時からだった。それでも幾つかのレビューを見てみるとフォルテピアノによるベートーベンも良さそうである。後の一つはバドゥラ=スコダというピアニストに信頼がおけること。このピアニストの演奏では、昔、LPレコードでシューベルトのピアノ曲のレコード1枚か2枚を購入して好感をもった以後、ラジオで何度か聞いたことがある程度である。これまで演奏批評とかレコード批評で、彼のベートーベン演奏の話題を見たり聞いたりした記憶がない。しかし信頼できるピアニストだと思えるし、ネットでレビューを見ても評判がいい。

・・・・・それにしても現代の日本人は忙しく、お金もかかる。一方で古典の西行も読まねばならず、一方でベートーベンを聴かねばならず・・・・。

自然とエネルギーの意味論

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DATE: 06/24/2011 16:18:43
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自然とエネルギーという二つの言葉が飛び交っている。端的に言って「自然エネルギー」という熟語が飛び交っているが、キーワードとしては「自然」と「エネルギー」という二つの言葉として分析される事を、言葉自体が望んでいるかのように見える。とりあえず、「エネルギー」という言葉、概念について・・・。

(日常語あるいは政治経済的用語としてエネルギーという言葉は「エネルギー資源」と「動力源」との二つの意味で使用されているということ)

エネルギーという言葉は、歴史的にはともかく、現在では基本的に、日常語としても、物理学的な用語での意味が基礎となっているように思われる。非常に抽象的な概念だと思うが、更に抽象的に、哲学的な意味あるいは神秘的な意味を持たされる場合もあると言える。とにかく最高度に抽象的な言葉である。このエネルギーという言葉が日常語として、特に政治経済用語として盛んに用いられる用になったのそんなに古いことでは無いのではないだろうか。はっきりと記憶しているわけではないが、石炭や石油、或いは電力等の意味でこの言葉が使われるのを始めて体験したときには少し違和感を感じたような印象をもっている。今は誰もが極めて普通にこの言葉を使ってはいる。

つまり、エネルギーという言葉を燃料という意味で使っている訳である。しかし今は電力が活躍する時代であり、電力には水力も使われるので燃料を普遍的に表現するという意味でエネルギーという抽象的な言葉が使われるようになったのであろう。しかしエネルギーでは抽象化しすぎであるように思われる。最も適切な言葉は「エネルギー資源」であろう。要するにそこからエネルギーを得るところの資源である。エネルギーは修飾語であり、主体は資源である。資源というかなり具体的なものにエネルギーという最高度に抽象的な言葉を当てているところに違和感を感じたのでは無いかと思う。

しかしエネルギー問題におけるエネルギーのすべてがエネルギー資源の意味で使われているかというとそうでもない。エネルギーを取り出す資源を意味すると共に、取り出して使用する、更に具体的なエネルギーそのものに対しても使われていると考えられる。つまり、エネルギー資源ではなくエネルギーを消費する直前のエネルギーの状態を指す場合がある。電力そのものとか、自動車に使うガソリンとか、アルコールどか、家庭で使用する都市ガスなどである。都市ガスなどは殆ど元のエネルギー資源そのままである。

以上のとおり、エネルギー問題においてエネルギーと呼ばれているものには二つの意味があるのといえる。ただ実際のモノとしては同じものを指している場合もあるので、このことに気づきにくいのである。

一方の、エネルギー資源の意味でのエネルギーについて考えて見よう。前記のようにエネルギーという言葉がエネルギー資源のことを指していることに気がつけば、最近の政治経済上の焦点ともなっている「自然エネルギー」なる用語のおかしさにはすぐに気付くはずである。そもそも天然資源はすべて自然に由来する。エネルギー資源も同様である。先に例をあげた天然ガスなど、殆ど採掘されたそのままの状態で家庭に運ばれてエネルギー源となっている。風力と太陽光が自然で、天然ガスやいわゆる化石燃料が自然ではないとする区別する必然性は全くない。風力と太陽光を共通して特徴付ける要素があるとすれば、気象に由来し、左右されるという意味で気象エネルギー資源とでも言うべきだろうと思う。

自然と人工的あるいは人為的との区別が有効であるとすれば、それはエネルギー資源ではなく他方の、「エネルギーとして消費する直前のエネルギーの状態」の意味で使われる場合であろう。このように考えると、電力エネルギーはすべて人為的である。そもそも自然には電気エネルギーとして取り出せるものとしては雷ぐらいしか考えられない。雷を電力として利用しようなどと考える人はいないだろうから資源とは言えない。

電力以外の殆どは燃焼エネルギーであって、燃焼の工程が人為的であるとすれば、これも人為的エネルギーとなる。この意味で自然エネルギーといえるのは力学的エネルギーを粉ひきにそのまま利用している風車とか水車ぐらいで、現在では無視できる程度のものである。事実上、現在では、消費する直前のエネルギーはすべて人為的だと考えて良さそうである。

なぜ、発電向けエネルギー資源としての風力や太陽光が自然エネルギーと呼ばれるようになったのか、これを分析するには「自然」の意味論を展開しなければならない。簡単に済むよな問題ではないが、何となく、前回を含めてこれまでこのブログで取り上げてきたようにエコロジー思想が大きく関わっていることは想像がつく。すでに言ったことの繰り返しにすぎないが、科学と信仰あるいは宗教と政治ビジネスが複雑に絡み合っている問題であることは容易に想像がつく。

― 以上、とりあえず今回はエネルギーの意味の一端について考察してみました。

内田樹×中沢新一×平河克美著「大津波と原発」を読んで

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DATE: 06/09/2011 18:30:57
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表記の本を購入し、先の週末に読み、今日ざっと繰り返して再読した。この4月5日にラジオ放送された鼎談に加筆修正された本であるとのことで、私は普段あまり新刊本を買う人間ではないのでこのような緊急出版という類の本は滅多に買わないのだが、この本を買ったのは第一に薄いペーパーバックで安い本であったこと(とは言っても収益の一部を被災地に寄付とのこと)もあるが、主に次のような理由による。ひとつはこの本の複数の著者に一定の関心があった事、もう一つは目次を見ると「エコロジーを超えて」という表現があり、それが気になったからである。というのも最近エコロジーについて考える事が多く、当ブログの前回記事でもエコロジーについて触れたからでもある。そういう事もあって、エコロジーの大家とも言える中沢氏がどのようなことを発言をされているかに興味が持たれたのである。

中沢新一氏の本は一冊半ほど読んだことがある。一冊というのは「チベットのモーツァルト」で、その感想は当ブログの初期にも書いたように、比較的近年になってのことで、文庫本が出ていたからでもある。もっと昔、中沢氏の新刊書を幾つか購入したり書店などで手に取ってみたことは何度もあるが、どうも難解で馴染めず、読み通せなかった。ただ、最近では南方熊楠に関心をもつエコロジーの喧伝者でもあるという印象が強かった。私自身はエコロジーに関心はあったものの、敬遠していたが、初期のチベットのモーツァルトをとにかく読み通し、難解ながらも一定の深い印象を与えられたことがあり、改めてその著者にも関心を持つようになっていたというところだろうか。

内田樹氏の本は一冊も読んだことは無かったが、断片的な文章はネットその他の媒体で読んだことはあった。中沢氏とは反対に、比較的平易な文章だと思っていたが、逆にそのために敬遠していた面がある。しかし人気の高い人であるだけに気にはなっていた。

この本を読む契機については以上の様なところである。そして読後の結果だが、興味深い論点あるいは思想的な断片とでもいうべきものがいくつかはあるが、一言で言って失望の方が大きかった。最後の方になるとむしろ不愉快にさえなってきたのである。

まず、対談だから仕方のない面もあるが、かなり軽率でいい加減な発言や意識が感じられた。例えば次のような発言がある。

中沢:原子力の開発の初期、放射性物質の研究をおこなっていたころのこと、キュリー夫人は身をもって、というか手づかみで実験して、最後は全身ガンだらけでなくなったそうですよ。
内田:そうでしたねえ。


キュリー夫人の娘が書いた彼女の伝記が今も手元にあったので確認して見たが、死因は赤血球と白血球が減少する貧血の一種で、骨髄の機能が放射線の影響を受けたのだろうということであった。ウィキペディアを見ても再生不良性貧血とあり、放射線の影響が疑われていることは確かであるが、全身ガンだらけというのは不適切というより、間違いというべきだろう。ラジオ放送の対談でもあり、多少は大まかな記憶をしゃべってしまうようなこともあろうが、一応後から加筆されている筈であるし、第一、問題が本書の基本テーマにも関わる内容である。私自身はちょうどこの対談が行われていた頃、キュリー夫人のことを思い出し、ウィキペディアで調べていたのである。私は他の大多数の人達と同様、職業学者でもなく、当然中沢氏のような思想史上の豊富な知識もないし、影響力もない。そういう殆どの人間にとってやはり気になるのは同じ科学でも核物理学よりも放射線医学の方であろう。そして私の場合、主としてインターネットに限られるが、低線量放射線のリスクの問題について多少の専門的な論文を含めて読んで見たのである。それは筆者の別のブログhttp://d.hatena.ne.jp/quarta/に報告している。これらの資料に当たってみて気付いたことは、私たちはいままで如何ににこの問題に付いて漠然としたイメージでしか知ることがなかったのかということに気付かされたことだと思っている。漠然としたイメージで単純に放射線は怖い、人間には相容れないものである、といった印象を持っていただけで、数値的なデータなどの具体的な事については何の知識もなかったのである。本書読後の印象では、著者の三氏ともにこの点では以前の私とそう変わらなかったのではないかと思われる。だからこそ、キュリー夫人の最後についてあのような思い違いをしていたのであろう。私自身にしても昔読んだ伝記であるから正確に記憶していたわけではないので、この機会に確認することがなければ、人に聞かれると中沢氏と同じような軽率な話をしたかも知れない。

これと関連するが、本書の初めのほうで中沢氏はこの頃「ずっと東京にいて原子核物理学の本を沢山読んでました。ですから気分的には、もう最前線にいたんですけれども。」と発言している。原子核物理学の本を沢山読むなら放射線医学の本はなぜ読まなかったのであろうか?と思うのである。もちろん読まれたのかも知れないが、放射線医学に興味をもち、キュリー夫人の話が出てくるくらいであれば、キュリー夫人の死因について調べ直すくらいのことは当然のことだと思えるのである。

中沢氏にしてみれば今回の原発問題をどうしても思想の問題として捉えなければならず、許容値とか閾値といった具体的な問題にかかずらうのは次元の低いことに思えたのであろう。「思想」の問題にするにはどうしても核物理学という高度で物質についての根源的とも言える学問分野でなければならなかったのだろう。しかしこの問題は国民の健康に関わる重大な問題である。「思想」にも影響を与えかねない問題なのである。

本書では確かに思想的に興味深い視点や論点が幾つか提示されている。後でそれについて私なりに検討しなければならないのだが、本書の最後の方で、思想の帰結という事になるのだろうが、その思想を実現する現実的な対応ないし行動という問題に及んでくると、「綠の党(みたいなもの)」の結党が提案されることになり、その内容はといえば、最初の方で暗示的に批判されていたとも受け止められる処の、現行の原子力と自然エネルギーとの二者択一の枠組みでの自然エネルギーを選択するという、現在巷間とネットを賑わしている論調に落ち着いているのである。それが技術的、経済的な合理的な根拠も示されずに提案されているところは、昨今の普通の(学者ではない)ジャーナリストや活動家や著述家らの主張、提言、提案と何ら変わるところがないのであり、ただ、自身がこれまで(そんなに本格的にでもなく)運動を進めてきたということを背景に、技術的・経済的な根拠も示さずにただ太鼓判を押すだけというのも同じなのである。「孫正義さんにお金を出して貰いましょう」という発言が飛び出してくることまでも全く同じである。

さて、その問題の「思想」については回を改めて検討して見たい。本書を読むことになった主な動機が中沢氏のエコロジーに対する考え方の変化についての興味にあったわけで、その点では期待どおり、エコロジーを中心に展開されていると言える。しかし、重要な点で、私の期待しているような方向とは基本的に正反対のようだ。

・・・・次回に続く予定。

自然信仰という言葉で表現されているもの

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DATE: 05/28/2011 15:22:15
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一月ほど前、世田谷美術館で開催されていた白州正子生誕100年を記念する展覧会を見に行き、少し前に別のブログ「ミュージアムとガラスギャラリー訪問記」にその印象記を書いた。展示作品の印象とかそれらにまつわるあれこれを書いたわけだが、最後の方に付け足しのようにして次のように書いた。

―― 今回のこの展示は美術展としてはかなり異色である。「白州正子 神仏、自然への祈り」というタイトルの通り、白州正子の、といって良いのかどうか判らないが、神仏、自然への祈りというテーマであって展示物そのものではないという印象がある。この神仏、自然への祈り、というテーマは大きく重いテーマであると同時に今日的なテーマでもある。自然信仰というのは、この展覧会では特に日本人に特有の信仰心として取り上げられているが、日本とは違った形、あるいは問題を含んだ形で世界的な傾向でもある。これに関しては数年前、別のブログの記事 http://d.hatena.ne.jp/quarta/20071203#1196666713 で取り上げたのだけれども西欧の一部で「ポスト・キリスト教」と区分される宗教があり、そこではキリスト教の神がマザー・ネイチャーという女神に入れ替わっているという、米国の分子生物学者の著書がNYタイムズで紹介されていたのである。その後この件でその著書を読むとかそれ以上の詮索をしたわけではないが、気になるテーマであり、今回の、日本における自然宗教との比較という点でも興味深いテーマであると言える。――


という次第で、この引用から始めたい。


この引用の意図というのはつまり、自然への祈り、或いは自然信仰という言葉からだけ連想すると、世界的にそのような動きが何となく感じられるのは私だけではないだろうと、件のNYタイムズの諸表記事からも連想されるわけである。マザーネイチャーという言葉はそれ程ポピュラーではないが、とにかく世界的に、とくに欧米を中心として、見かけ上、自然を尊重するような政治文化的な機運の高まりがあることは確かであり、それが人々の一種の信仰心の変化に由来している部分があるように見る事ができると思われる。特に欧米で幾つもの自然保護団体が大きな勢力を持って活動している事もそうであるが、特に科学との関連で様々な確執や対立とともに妥協やなれ合いといったようなものが生じているような気がするのである。とにかくこの問題では世界的に科学と宗教との関係において、さらに政治とビジネスにも攪乱され、大いなる混乱期にあるとでも言えるのではないか。

このような世界的な傾向と対比して彼女の説く日本の伝統としての自然信仰を考えてみることも大いに意義があるような気がするのである。というのも、日本においても自然信仰や神道への関心が高まっているように見えるのも、前述の世界的な動向と繋がりあるいは共時性がない筈もないからである。

今回展覧会の図録は箱入りで、テーマ別の薄いパンフレットの集積になっていた。その中に「自然信仰」というテーマでまとめられたパンフレットがあり、それに掲載された著者の幾つもの文章から拾い上げてみると、白州正子の言う自然信仰の対象の具体例として上げられているのは富士山、奈良の三輪山、近江の三上山、那智の滝、あるいは日月山水図に描かれている山々― 著者はたぶん槙尾山といっている―であり、この山水図に描かれている日月などである。そこには次のように書かれている。
「現実に仏を描くことをさけ、日月山水で暗示するにとどめたのは、一つの発展であるとともに自然崇拝の昔の姿に還ったといえるかも知れない。」

という事は、もともと日本人の信仰は自然崇拝であるところに仏教がそれに取って代わったが、この絵に現れた精神では自然崇拝の昔に戻っているという事であろう。この時代に自然崇拝に戻ってそのままそういった信仰が続いていたのかどうか、その辺、著者は何とも言っていない。常識から見て、少なくとも外面的、見かけ上、仏教がその時代に消滅したわけでもないし、その絵も少なくとも意識的には仏教寺院の中で仏教的精神の下に描かれ、仏教寺院が仏教寺院であることを止めたわけではないのだから、無意識的、あるいは深層的に自然崇拝が続いて来たし続いているという事なのだろう。またそういった自然信仰が仏教と両立しないとされているわけでもない。

その自然崇拝の対象が山や瀧や太陽や月となるわけだが、山や瀧や太陽などの天体を崇拝するという事は結局、それらの対象が単なる物質であるだけではなく、心、或いは精神的なものを備えているという思想に繋がり、哲学的な基礎となっていると考えざるを得ない。これは生物、無機物を問わず心的なもの、あるいは霊的なものが備わっているとする、人類学で言うアニミズムにも繋がるし、哲学的には汎心論という立場とも繋がる。この問題についても先のマザーネーチャーに関して引用した筆者の別ブログの記事で、同様にNYタイムズの記事にちなんで触れている。http://d.hatena.ne.jp/quarta/20071203#1196666713

いずれにせよ、アニミズムにしても汎心論にしても世界的な広がりのあるもので、日本独特のものとは言えない。ではもう少し限定して山や瀧や太陽などの天体などはどうかといえば、これらは自然の一部ではあっても広大な土地や大地の一部であり、瀧にしても、ある程度の巨大さや荘厳さを備えたような特殊な存在である。こういう対象への崇拝にしても日本独特の伝統とは言えないだろう。ただ現在にもそれが生き続けているという点、あるいは復活、あるいは復権という意味で日本的であると言えるように思われる。またはそれらがより純粋な形で生き続け、復活してきていると言えるのかも知れない。と言うのは、先に触れた西洋におけるマザーネーチャー的なものは自然信仰に近いものであるとしても、何かより不純な形で、あるいは他の何らかの要素に紛れたような形で現れているのではないかという気がするのである。

例えば、ガイア理論というものがある。ウィキペディアによると次のように定義されている。「地球と生物が相互に関係し合い環境を作り上げていることを、ある種の「巨大な生命体」と見なす仮説である。ガイア仮説ともいう。」。これは「理論」と呼ばれているように科学上の仮説とされている。エコロジーの延長と言えるのだろうか。エコロジーにしても共生思想にしても科学思想とでも呼ぶべきもので、マザーネーチャーなる信仰はとにかく科学という形をとっているのではないかという印象があるのである。こういったことはキリスト教と科学の伝統による制約と関係がありそうに思えると同時に、政治経済、ビジネスの世界とも深く関わっていることは容易に想像できることだと思う。エコロジーやCO2温暖化説など、人によっては科学ではなくて宗教であるという見方があるのもある程度納得できるというものである

見方によっては逆に、科学が他の何ものか、一種の信仰によってゆがめられているという見方もできるのである。科学の立場から見れば科学の純粋性が犯されているようにも見えなくもない。しかし科学にしても本来の純粋な科学というものが存在し得るのかというとそういう純粋な科学はあり得ないようにも思われる。

・・・と、ここまで何とか思考を進めてきた段階でこれ以上、考察範囲を広げ詳細に論を敷衍しるだけの素養もなく論を前進させるだけの用意もゆとりもないので、今のところはこの辺りで止め置くしかなさそうである。

ただ一つ、言えることは科学とは何であるかという問題、科学に対する反省、宗教への反省、科学と宗教との関係、あるいは自然科学と文化の問題こそが今後の大きな課題であるという事ではないだろうか。この意味で日本人の自然信仰、と表現されているものに何か並々ならぬ期待のようなものを感じるのである。

*****************************
ひとまず今回はこれで終了というところだが、以下は蛇足で、脈絡もまとまりもない単なる断片、メモ・・・といったところ。

・・・というのも、エコロジーが倫理感に影響を受けていることは間違いないだろう。エコロジーが倫理的な人々、少なくとも建前上、倫理的な人々の拠り所であり、言ってみれば昔は信仰心の篤いことが人格の高さを証明するものであったところにエコロジーが入れ替わっているような面は否定できないであろう。悪く言えば偽善に利用されるという面、言い方を変えれば自己宣伝に利用されるという面もなきにしも非ずである。有名人がエコロジー活動をするのも、意識的か無意識的であるかに関わらずそういうところがある。マザーネーチャーについての本を書いた件の分子生物学者がマザーネーチャーがポストキリスト教であり、従来のキリスト教を置き換えるものになっているというのにはこういう意味がこもっているともいえる。そこには大いなる欺瞞もあり、欲望も悪徳も絡んでいるとも言える。といわば反宗教というか、倫理的に背徳的なものである。もう科学と宗教と政治とビジネス、それに倫理と背徳とがごちゃ混ぜになったような世界である。

・・・・折しも原発問題でマスコミとネットの世界でエコ思想が喧噪を極めている・・・・・

ところで、
最近はなぜか日本人論というのはあまりはやらないようだ。
しかし・・・例えば・・・今後の世界を切り開く思想と文化、といったものを提示できるのは日本人である・・・といった類の発言や意見を目にしたり耳にすることが多々ある。そういう思想や意見には特に現代の西洋文明と比較した上での日本人の自然観や自然信仰が念頭にあるものと思われる。そういうものに対する期待感といったものは私自身にも確かにある。
しかしそういう事を断言できる程でもない。

しかし、少なくとも現在の西洋流の新しい科学の傾向とも言えるエコロジー思想の矛盾や混乱を見ているとやガイア理論といったものは何かおかしく歪んだものがあることには。

これは単なる直感だが、現在のエコロジー思想というのは科学と宗教の間違った結びつきのような気がしてならないのである。こういう混乱を極めているエコ思想からみると日本的な自然信仰がなぜかすがすがしく見えることも確かなのである。

政治とビジネスに取り込まれた科学

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DATE: 04/29/2011 21:03:27
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今日、大型書店内の科学書籍の売り場を見回して気付いたことだが、「物理学」や「生物学」などは伝統に従って以前のように分類されているのだが、なぜか「環境」という分野がいやに幅をきかせている。そこではいまだにCO2温暖化説の新刊書が溢れている。「環境」という分類の他に「農業・環境」という分類もある。こういうのは単に「農学」でいいのではないか。なぜわざわざ「環境」をつける必要がある?それに比べて地球科学系の分野は「宇宙・気象」という分類の配下の小項目として地学と地球化学があるのみで地球化学も地質学もない。普通に自然を尊重する立場からの感覚では「宇宙・地球科学」とでも題した分類の配下に、気象学も入るのではないかと思われるのだが。

あまりにも実用と実利に傾きすぎているのではないかという印象。もとより人間生活を離れた純粋な自然科学というのもあり得ないにしても、こういった傾向は今のあまりにも政治とビジネスに取り込まれてしまった科学の現状を示しているのではないかという印象を受ける。

機械工学や電気工学は早くから工学として自然科学そのものから分けられてきた。それに比べると現今の自然科学における「環境」ののさばり方には辟易するものを感じる。まだ少し前はこの種の分野は「環境工学」として工学分野に入れられていたのではないだろうか。現今では工学よりもむしろビジネスと政治に傾いてきた結果、工学から離れてきたのだろうか。それならばこの種のものはビジネス書と政治書の棚に入れてしまえば良いのではないか。

自然を愛し、自然を科学したいのであれば地球科学を学び研究すればよい。地球科学にもいろいろ分野がある。地球物理学、地球化学、地質学、気象学、等々。

環境という言葉は人間中心の不純な概念であることに気付くべきではないだろうか。環境の科学は勿論大切なことである。しかし環境と言う概念は自然とも地球とも全くことなること、エコロジーとも全く異なること、この辺の整理がなければ今後のの科学の真の発展はないのではないかと思えるのだが。

なぜ「リテラシー」という言葉が良くないのか

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DATE: 04/01/2011 10:45:04
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これまで、どれだけの人たちの目に止まったかは分からないが、ツイッターで何度か、リテラシー、特になんとかリテラシーという言葉が嫌だということを衝動的につぶやいた。はっきりとなぜ嫌なのかということを言えなかったのだが、今日、はっきりとそういえる理由に気がついた。ひと一言で言って、この言葉は境界を引くことができないところ、引いてはいけないところに境界を引くから良くないのである。

本来の識字能力という意味で使われる限りはそんなに問題はないとは思うけれども、この意味でも本来は文盲と識字者の間にはっきりした境界を引くことはできない筈である。日本語の場合、何千という漢字をすべて読み書きできなければ文盲であるなどと言うことはできないだろう。しかし平かなを読み書きできるというだけではあまり役に立たず、本当に文字を知っているとは言えない。また文字を知っているだけで意味がわからなければ本当に読み書きできるともいえない。しかし一応、日本語の場合は義務教育で習う程度の言葉を知っていればリテラシーがあるという程度で合意が出来ているのだろうと思う。これが一種の比喩と言えると思うのだが、他の問題に用いれれて「なんとかリテラシー」という表現で用いられることになると、その境界を引くところというのが全く恣意的であり、発言する本人自信が分かっているかどうかさえ疑わしい。

とくに科学リテラシーという表現がよく使われるが、こういう言葉を使う人は自らや科学のどれだけの分野でどれほど深い知識をもっているか、そしてそのことを自覚しているか、そしてどういう基準でリテラシーの境界を引いているのかをはっきりと表現できるのであろうか。

これは科学と疑似科学という区別についても同様である。この種の論争では多くの場合、互いに相手の方を疑似科学だと言って非難しあうことで落ち着くことになる。売り言葉に買い言葉であるから、私は買い言葉を使う側に同情するが。
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追記

あるいは、リテラシーという言葉は権威によって与えられた一種の免許のような役割を果たすような面があるとも言える。免許を与えられた人と免許のない人を固定的に差別化するような役割といえよう。

免許や資格は確かに必要な場合があることは否定出来ない。運転免許にしても調理師の免許にしても、もちろん医師免許や法律関係の資格など多種多様であり、いずれも必要なものであろうが、弊害もあることは否定出来ない。いずれにしても明確な基準があり、試験を経てのことである。無前提の純粋な議論の場にそのような免許の必要はない。ただその場における論理的で明晰な思考と議論が必要なだけである。

リテラシーという語を使わずに、例えば「知識」という平凡な言葉を使ってもなんの問題もないばかりか、よほど正確に表現することができるのである。「知識」といえばそこには様々な度合いがあり、多種多様な含みがあることがわかるが、「リテラシー」といえば免許か資格のように固定した、こわばったものに置き換えられてしまうのである。

『検証 陰謀論はどこまで真実か パーセントで判定』という呆れた新刊本

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TITLE: 『検証 陰謀論はどこまで真実か パーセントで判定』という呆れた新刊本

CATEGORY: 「ニセ科学」論議

DATE: 03/08/2011 21:37:34
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書店で表記の新刊本(文芸社)が目についたので手に取ってみた。

表題からして、おかしな本であると私には思える。というのは、もう一般的に通用するようになってしまった陰謀論という言葉自体、奇妙で無責任な意味不明の造語であると思われる上に「パーセントで判定」という副題がついているからである。中を覗いてみると著者が「陰謀論」の範疇に含めている各種の言説についてそれぞれ「真実度」なるものをパーセントで表示している。これが冗談やユーモアでなく科学であるというのなら、まったくこの本こそが「ニセ科学」(私自身この言葉を認めないが)であり、無責任なでっち上げであることを告白しているようなものである。

いやしくも科学の名において何かをパーセントで表すというのであれば、どのようなデータ用いてどのように計算したかという、計算式を示さなければ何の意味もない。そしてそれを「真実度」と呼ぶとすれば、それは著者がその計算式に恣意的に与えた定義あるいは単なる命名に過ぎない。もちろんその計算式があったとしての話である。抽象的な「真実度」に正確な意味などありえない。意味があるとすれば幻想のようなものだろう。科学技術の専門分野には真実度といった概念があるようだが、それらはその分野において正確な計算式が定義されている筈である。

ちょっと立ち読みをさせて貰うと、最初の方に「地球温暖化はでっち上げだという説」という項目があったのでざっとめくってみた。それによると、地球温暖化はでっち上げだという説の「真実度」は0パーセントだそうである。内容を読んでみても、権威に訴えるだけの科学的に見える用語を使って断定的な表現をしているだけであって、何の議論も論証もない薄っぺらな文章である。そもそもこういう問題を科学的に論じようというのであれば「でっち上げ」などという言葉を持ち出したりすると、ただでさえ複雑きわまりない問題をさらに複雑曖昧にするばかりである。「でっち上げ」などという言葉は使うべきではないだろう。「地球温暖化否定説」とか「地球温暖化懐疑説」とでも言うべきだろう。こういう問題にパーセントを出そうなど大それた事を試みるというのであればなおさらである。

他はぱらぱらとめくってみただけだが、真実度が0パーセントという項目が多く、0.01パーセントというのもある。取り上げられている項目も一貫性があるとは思えないが、どうやら盛んに「疑似科学」批判を行っている人たちが批判の対象にしている言説を集めたと言って良さそうである。「疑似科学」批判の対象と言えば初期にはオカルトや超常現象などだったように思うが、それがいつの間にかそこに政治的な言説が取り上げられるようになり、「陰謀論」という範疇ができあがって来たのではないか。これは筆者の推測。

それにしても何という意味の混乱、科学の乱用だろうか、と思う。科学技術自体の暴走も問題にされる昨今である。科学者、科学的であるこを自認する人達がこんな本を書いているとすれば、科学の信用を落とすばかりだろう。

『眼の誕生 ― カンブリア紀大進化の謎を解く』 を読んで

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TITLE: 『眼の誕生 ― カンブリア紀大進化の謎を解く』 を読んで
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DATE: 02/18/2011 21:47:22
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この記事は筆者の別ブログ「発見の発見」の方に掲載しました。

「眼の誕生 ― カンブリア紀大進化の謎を解く」を読んで

2011年12月27日火曜日

更新を再開します

このサイトは「意味」の周辺というタイトルで始めましたが、今年の2月、ブログの仕様にちょっとした不具合とデザインの問題があって次のブログサイトに引越しました:http://yakuruma.blog.fc2.com 。その後引越し先のブログにも不満が出てきました。たとえば、1つの記事に1つのカテゴリーしか設定できないことなどです。

そんな時、久しぶりにこちらの旧いブログをチェックしてみると、それでも1日に1回程度の割合でアクセスがあります。またbloggerの仕様もデザインしやすくなっている上、便利なガジェットが追加されています。それでまた、こちらのサイトに戻そうとしたのですが、FC2ブログではBloggerからインポートはできてもエクスポートはできない仕様になっていました。

しかし、この一年ほどの間に書いた記事は10本程度ですので、今日の日付でまとめてこちらにコピーすることにしました。以下、それらの記事のリストです。

以後、同名のタイトルにて、当ブログで更新してゆきたいと思います。これからもどうぞ宜しくお願い致します。


12/23/2011 宮沢賢治の回答

12/17/2011 梅棹忠夫著「文明の生態史観」再読で「エコ」運動について考える
                今年は3月の地震以来、エコロジー運動について考えさせられることが多く、このブログでもエコロジー運動に関わる問題を取り上げてきましたが、この記事は結果的にそのまとめのような形になっています。かなり、時間をかけて書きました。



































2011年2月13日日曜日

移転のお知らせ

今後の更新は下記にて行います。どうぞ宜しくお願いします。

2011年2月1日火曜日

縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その4 (まとめ)

はじめに ― 前回の記事では筆者が何を言いたいのかがよく分からない・・、どこに新しい主張や発見があるのか分からないという感想がありましたので、今回はまずそこのところから始めたいと思います。

【何が言いたいのか】
何を言いたいのか?一言でいって量より質、量的な問題よりも質的な問題に注目すべきであるということに尽きます。
単に眼球運動の速さ、あるいは読みの速さや視野の広さといった数量的な比較ではなく、文章の理解の質にまで及ぶような、また優劣という比較ではない、個性の質的比較を問題にしたいということです。単に眼球運動の速さというのでは読みの速さですらありません。また、読みの速さを測定できたところで、読みの質の問題、理解度とか、間違いの無さ、また集中度などにまで及ばなければ優劣の比較に至ることはできないのではないでしょうか。

『横書き登場』(屋名池誠著、岩波新書)について
この連載の初回以来、この本を叩き台のようにさせていただいていますが、それは、この本が当時までの日本における横書きに関する情報の集成であると想定し、断片的な情報を除いては、この本一冊を参考に基に考察していますので、これは一面、筆者の怠慢に違いありません。しかし著者の屋名池教授ご自身が、「本書は初めて本格的に日本語書字方向の研究をこころみたものである」と書かれています。おそらく教授ご自身が ― 言葉の響きは良くないかも知れませんが ― 叩き台とされることを前提にされているのではないかと推察します。また、ツイッターなどのネット情報を見ても、印刷出版IT関係者の発言などを見ても今のところ、この本以上の情報には遭遇できていないように思います。
このように、この本では縦書きと横書きの厳密な定義に始まり、縦書きとは異なった横書きの性格とそれに起因する右横書きと左横書きとの競合について歴史的に詳しく調査され、さらに日本語における縦書きと横書きの質的な違いに及んでいると思います。そこで、縦書きと横書きの定義と質的な相違に関わる議論で、ゲシュタルトの概念が用いられていることは重要であると考えられます。

それにも関わらず、最終的には縦書き文と横書き文の読みの比較を眼球運動や視野の広さとの量的な優劣の比較で終わらせていることがもったいないと思うのです。結論的に、縦と横では眼球運動にも視野の広さにも大きな差はないという事から、縦書きと横書きに優劣は無いという結果に至っている訳ですが、それなら、わずかでも視野の広い横書きの方が良いではないかという結論に達しても不合理ではないということになりかねません。また数字や英文との混在の問題や、フォーマットの容易さという観点から、横書きに統一されてしまっても文句は言えないことになってしまします。

【縦と横の質的な違い】
縦書きと横書きの質的な違いは結局のところ縦、すなわち上下と横、すなわち左右という2つの方向性の質的な違いに帰着します。三次元の座標に対応させれば縦と横と前後の3つになり、x、y、z、の3つの軸の2つに対応しているわけですが、数学的な座標軸ではこの3つの軸に質的な差はありません。それが、上下や左右や前後といった概念になると質的な差が出て来ます。何度か引用したカッシーラーの著書からの引用はこのことを述べているように思われます。もう一度引用してみます。

『視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに「異方性」と「異質性」をもつという点で一致している。「生物のもつおもな方向性、前と後・上と下・左と右は、視空間と蝕空間という二つの生理的空間において、ともに等価的でないという点で一致している。」 ― カッシーラー、「シンボル形式の哲学(木田元訳、岩波文庫)第二巻、神話的思考」より引用。』

この書物の第二巻、第二章のセクション1で、この知覚空間について論じられていますが、ここでいう視空間蝕空間は、著者によると知覚空間のことを指しています。もう少し前のセクションの書き出し近くから引用すると、「知覚空間、すなわち視空間や蝕空間と、純粋数学でいう空間とがけっして一致しないどころか、この二つのあいだには一貫した齟齬があるということはよく知られていよう。」という文章で始まり、幾何学的空間が「等質的」であるのに対して、「知覚空間には位置と方向の厳密な同等性などなく、一つひとつの位置がその固有の性質と固有の価値をもっている。」と続き、先の引用箇所に続いています。この箇所を引用する方が適切であったかも分かりません。この、一つひとつの位置が固有の性質と価値をもつということは当然、縦と横、あるいは前と後という方向それぞれについても固有の質的な違いがあるということになります。この書物のこの章、この箇所の記述は上と下、右と左、そして前と後の性質に関わる諸々を考察する際の基本的な出発点になるのではないでしょうか。

【どこに新しい主張があるか】
次に、「どこに新しい主張や発見があるのか」ということですが、それはこの連載の初回で述べていることで、それは初回のタイトルのとおりなのですが、一言で言って、縦書きと横書きの差異の問題と鏡像問題との関連性、あるいは共通性を指摘した点にあると考えています。どこに共通部分があるのかというと、それは先に述べた上下と左右、および前後という3つの方向の質的な差異が係わっているという点にあります。縦書き横書き問題ではさしあたって上下と左右の2方向だけで議論しているのに対して、鏡像問題の場合は三次元的3方向の軸について議論しなければならないわけですが、基本は同じです。前回にはたまたまその時に思い浮かんだことなのですが、地球の緯度と経度の問題を取り上げました。このように、この問題は鏡像の問題に限らず、日常、非日常のあらゆるところに潜んでいるように思われます。こういった問題はいろいろなところで、これまでにも哲学者や心理学者、あるいは美学者など、或いはそういう分野やジャンルに関わらず、取り上げられているかもしれません、というより、取り上げられ、考察されていないということは殆どあり得ないといってもいいかもしれません。ただし、縦書きと横書きの問題と鏡像問題の共通性という視点はおそらく初めてではないかと想像しています。

『横書き登場』における示唆的な指摘
ただ、『横書き登場』には鏡像問題への言及はありませんが、かなり示唆的な箇所があります。それは第1章で縦書きと横書きの厳密な定義がされている箇所です。ここで「横書き・縦書き」は文字と画面との関係ではなく、列びあう単字同士の関係なのである」という定義があり、その根拠として、単字すなわち単独の文字自体に方向性があることが指摘されています。これは、一つ一つの文字自体が上下左右を持つというように言い換えられると思うのですが、この本には、「しかし普通、単字には『この向きから見る』という一定の方向性がある」、と書かれています。「この向きから見る」ということは見る人の向きのことになりますが、結局見る人の向きと文字自体の向きとの関係ということになり、文字を裏側から見たりすることも含まれ、三次元的な方向性を指していることになり、鏡像問題で議論されている問題に非常に近い問題であることが分かります。ただしここでは、縦書きと横書きの定義で用いられているのであって、縦書きと横書きの性質、機能性、あるいは優劣等に関わる問題として言及されているわけではありません。しかしまた、同じ章に「重力のもとで暮らしているわれわれにとっては抵抗感の多い『上←下』という方向」、という既述があります。ここでは、縦書きの性質を検討する上で、この種の議論が用いられています。というのも、この、下から上に向かう方向の抵抗感が重力の方向に起因しているという考え方は、それが正解かどうかは別として、鏡像問題にも出てくる議論であるからです。要するに人間の持つ上下感覚の原因を論議していることで、鏡像問題と共通する部分があることがわかります。

以上、今回のシリーズで筆者が何を言いたかったのか、そしてどこに新しい主張や発見があると考えているかについて述べました。以下は前回に引き続いての、欧文や和文における具体的な考察です。

前回は数式が横書きに適している理由まで考察しました。以下にそれ以後の問題を順に検討してゆきたいと思います。

【欧文と横書きの親和性が高いはなぜかという問題】 
欧文は縦書きが事実上、実用が不可能であること、つまり縦書きにしても読めないか、横書きに比べて著しく読みづらいということは、殆ど自明のことですが、何故そうなのかという理由についても概念的には一般に了解されていると思われます。『横書き登場』の第7章には「横転縦書き」と横書きについて解説があり、欧文の場合は縦書きにすると横転横書きにならざるを得ないということから、欧文では縦書きが難しいということの説明に言及されていますので引用してみます。

「ラテン文字のように一字一字が音素(母音や子音のひとつひとつに相当する単位)という小さな単位に対応する音素文字では、一語をあらわすのに多くの文字が必要となり、文字を読むときは一字一字を読みとってゆくのではなく、語をあらわす文字列をひとつのまとまった形(ゲシュタルト)としてひと目で読みとることになる。こうした文字体系では文字列を一字ごとにばらしてしまうと、ゲシュタルトがくずれて、読み取りの効率が非常に悪くなる。このような文字体系では、文字列全体を回転させるのでなければ書字方向を変えることはむずかしいのである。一方、日本語では長大なゲシュタルトは必要ないので、文字列全体を回転させる必要性が乏しかったわけである。」

ここで、「何故欧文は縦書きでは読めないのか」という設問とは独立して「何故欧文は横書きとの親和性が高いのか」という設問を立てることができると思います。これについても、『横書き登場』における前記の引用との関連で一応その説明にはなっていると思われますが、ただ、縦読みと横読みの眼球運動や注意点の移行といった読み手の視覚の動的なメカニズムとの関連で具体的に説明されるには至っていないと言えます。そこで読み手の視覚の動的なメカニズムが縦と横とで、どのよう違いがあるかを知る必要が出てきます。

繰り返しになりますが、前回、視線と注視点の動きについて次のような仮説を立ててみました。

1) 書字方向において上から下への方向性あるいは秩序感覚は人間には自然に備わっているものであり、これに従って視覚的な注意力と視線、さらに眼球の動きも比較的よどみなく上から下へと流れることができる。少なくとも意識しない限りは自然に逆向きになる事はない。また目移りすることも少ない。

2) 横方向における左右には基本的に縦方向における上下のような価値的に歴然とした差がないため、書字方向において、左右の方向は上下のように自然に定まることはなく、強制的な規則あるいは習慣性が必要になってくる。そのために注意力の動きも、それに伴う視線の動き、したがって眼球の動きも付加的ないし偶然的な要素に左右されやすい。例えば、文字の場合は文字の大きさ、太さ、眼を引く特徴、等々に左右されやすく、移ろいやすい。目移りし易いとも言える。しかし、反面、左右両方向を一覧し易い傾向はある。これは横方向という方向性自体とともに両眼が横に並んでいることと、それに起因する両眼視差の性質にも関わっている可能性がある。

2-2) 横方向の場合、注意力と視線が左右何れかの方向に一貫して流れる場合であっても、滑らかというよりも飛び飛びに、あるいは条件によってはリズミカルに移動する傾向がある。

2-3) 横方向の文字列の方が縦方向の文字列よりも一時に全体として知覚し易い、あるいは自然に全体を1つのまとまりとして知覚する傾向がある。

2-1) から2-3)までは横書きに関わります。これらの特徴が欧文の特徴によく適合することはすぐに気付かれるのではないでしょうか。その欧文の特徴とは、スペースで区切られる単語で構成され、単位となる単語は横方向に変化する長さを持ち、したがって1文字か2文字の単語の一部以外は横長です。したがって、基本的に横長のゲシュタルト単位(こういう言い方があるかどうか分かりませんが)が横に並んでいることになります。こういう場合、視点あるいは注目点、(両方の意味を込めて注視点と呼びます)が連続的に、一様に流れて行くよりもゲシュタルト単位毎に飛び飛びに動く方が都合が良いのでは無いでしょうか。これは右仮説による注視点の横向きの動きにぴったりと当てはまります。もちろん、綴りの長い単語では1つのまとまりとして読むのは難しいので連続的に視点を追ってゆくことになりますが、とかく欧文では綴りの読み間違いや記憶違いが発生しやすいものです。漢字の場合、画数の多い文字は正確に記憶するのが難しいのと同様ですが、漢字の場合は書くことはできなくても読めることは多いものです。英語の場合、結構綴りの誤読も発生しやすいように思います。こういう欠点はあっても、英語の場合はこういう現在の横書きによる特徴が横向きの眼球運動と注視点の横の動きに適していることは確かです。

ここで現在の問題をわかりやすく整理するためにひとつ定義の追加ないし区別をしたいと思います。

◆縦書き::縦に筆記すること
◆縦読み::縦に読むこと
◆横書き::横に筆記すること
◆横読み::横に読むこと

一言で言って現在の横書きの欧文は、横読みの際の注視点の移動の仕方、性質に適しているといえます。

ここで歴史的になぜ欧文が横書きとして発達してきたかが気になるところですが、歴史的なこととは別に、英語についていえば、英文の構造や閉音節の発音が単語単位で区切れのある横書き構造に適していることは確かであるし、とくにそのリズム感は横読みの際の注視点のリズミカルな動きに調和する面があるのも事実ではないかと思います。

【日本語の場合】
日本語の場合は現行で縦書きと横書きの両方が存在していますが、それは当然、縦横いずれにも書くことと読むことが可能であるから、ということは明白です。その理由については、「横書き登場」などでもすでに説明されていると思います。それは基本的に正方形の文字が句切れなく続くという点で、基本的に縦横が同じサイズの、いわばゲシュタルト単位が単調に連なってゆくという点では縦書きと横書きとで違いがありません。

一方、縦書きまたは横書きとして表現される以前の、発音した際に感じられる日本語自体の性質として、単語による句切れが無く、句読点による休止以外はなだらかに連続してゆきます。特にはっきりとしたリズム感もありません。この性質が、縦読みの自然に流れる連続した、なだらかな注視点の動きにかなっています。横書きの場合は、横読みの際に起こりがちな注視点のスポット的にステップを踏むような移動が邪魔になると言えます。

それでも習慣づけられることによって横書きの横読みは可能で十分実用になり、読みの速さにおいても特別問題になることはなく、場合によっては縦書きよりも早く読める場合もあるかも知れません。ただし、読みの質というものを考える必要があります。英語でも綴りの読み間違いはよくあることで、書き間違いも結局は書き間違いに気付かないという事すから、読み間違いと同じことになります。

【さらに考察すべき種々の問題】
最後に、当然ですが、さらに考察すべき様々な問題があると思われます。中文やハングルについては筆者が中国語や朝鮮語知らないためもあり、今回はこれ以上考察は避けたいと思いますが、中でも次のような問題を検討することは和文と欧文、また和文と中文や韓文等の比較の上で重要であるものと考えます。

◆欧文の場合、文字のデザインを変えるなどして現在の横書きにおける特徴をそのまま縦書きに移すことが可能とすれば、縦書きの方が有利になるかどうか。 ― これまでの仮説と推論から推定すると、縦読みの自然さから綴りの読み間違いなどは減少する筈ですが、一方、長い単語の一覧性(ゲシュタルト性)は低下する可能性も考えられます。

◆和文における漢字やカタカナの混在する状態は、欧文における、スペースで単語が区切られる状態と同一の効果を持っているか、或いは異なるものであるかどうか。 ― 和文における漢字やカタカナの混在は縦書きと横書きとを問わず、読みやすさに寄与していることは明らかです。

◆和文における分節の分かち書きが持つ意味と、欧文におけるスペースで単語を区切ることが持つ意味の比較。分かち書きが縦書きと横書きそれぞれに関して持つ意味と漢字混在が縦書きと横書きにおいて持つ意味の違い。

【まとめ】
ここまで来て、これまでの考察を簡明に定式化する表現方法を見出すことができたようにと思います。次の2項目による定式化です。

◆次の2項目に定式化が可能。
① 縦横比が1に近い(円や正方形)の比較的小さいゲシュタルト単位、或いは縦横比が不定の比較的小さいゲシュタルト単位が一様に連なるような文字列の場合は縦書きの方がより正確に漏れなく読みとることが可能になる。

② 縦横比の長い、すなわち縦か横の何れかに細長く伸びた複合的な(ただし長さは必ずしも一定ではない)ゲシュタルト単位(英単語など)が連なる文字列の場合は、横書きの方が効率的に読みとることが可能になる。

ただし、欧文、和文を含めてすべての文には①と②両方の要素が含まれます。例えば英単語は横長のゲシュタルト単位といえるので、英単語に注目すれば英語は②になりますが、一つの英単語は一つ一つの文字の連なりであり①に該当すると言えます。和文ではもちろん全体として①に該当しますが、短い漢字の熟語など、②の要素も無視できないでしょう。①と②のそれぞれの作用の仕方は非常に複雑なものになると思われます。


【最後に】
今回の一連の考察は言語学などの専門的な用語や概念を踏まえたものになっていないかも知れません。また歴史的な調査やデータの統計的な解析、あるいは実験的な検証などは行っておらず、推論に終始しています。しかし、この推論で得られた考察を念頭に置いた上で、以下のような項目について縦書きと横書きとを比較してみることで、改めて縦書きと横書きの差が意識されてくるのではないかと思われます。

◆眼の疲れ具合に差はないかどうか。
◆読み間違いの頻度に差はないかどうか。
◆読んだ内容の記憶の強度(記憶に残る程度)に差はないかどうか。
◆理解の速度と注視点の動きとのあいだで調和がとれているかどうか、視点の動きが先走るようなことはないだろうか。
◆一字一句を漏らさず読めているだろうか。
◆読んだ後の充足感に違いは無いだろうか。

筆者自身、これらのことに気付いてから書物の縦書きを読む際と、PCソフトで作業する時やウェブサイトの横書きを読む際に縦横の違いに注意するようになり、個人的には今回の考察がかなり検証されているように考えています。可能な場合は縦横変換できるテキストエディターで作業もしていますが、縦書きで入力すると、横書きの場合に比べて誤変換に気がつきやすいように思います。横書きでの作業に比べて誤変換を見逃すことが少ない印象です。また句点の打ち方も自然に、読みやすいように打てるように思います。あるいは、不必要な句点が少なくなるような気がします。さらに文章自体の作成にも影響を及ぼす可能性もないとは言えない気がします。

以上。

付記
鏡像問題に付いては http://d.hatena.ne.jp/quarta/ に幾つかの記事を書いています。

鏡像問題を扱った認知科学学会誌の論文が下記からダウンロードできます。
以下、多幡大阪府立大学名誉教授のツイートからコピー
「tttabata 小特集-鏡映反転:「鏡の中では左右が反対に見える」のは何故か? JCSS Vol. 15, No. 3 (2008). 小亀、多幡、高野の各説、相互批判、批判への回答、の各論文が無料ダウンロードできます。 http://bit.ly/eeGxWO」

(2011年2月1日 田中潤一)

2011年2月13日追記
参考文献としてもう1件、ツイッターより多幡名誉教授のツイートを転載させて頂きます。
ウエブから消失していたブログ記事 「鏡の世界」 http://bit.ly/hmICZq 「鏡の世界:解答編」 http://bit.ly/dEWmZE を復活。解答編のコメント欄で、左右の定義、その概念の性質などについて、哲学の先生と有意義な議論をしていた。 @yakuruma