2012年2月29日水曜日

測定と時間(温暖化問題における)


一般に科学的な測定には大抵、時間が何らかの形で関わっている。第一、測定事体に時間がかかる。例えば温度計を読み取るにしても、厳密には絶えず変化しているし、温度計事体、周囲の温度に追随するのに時間がかかる。まあ気温などの場合、こういうことは気にすることはないが、精密な計測では非常に難しい問題になってくるであろう。私自身は素人なのでわからないが、計測装置の設計にとっても非常に難しい問題であろうと推察できる。

多くの技術的な問題ではこれは非常に短い時間の場合が多いだろうが、時間の問題が重要なことは逆に地質学のような時間スケールの長い分野でも難しい問題になってくることには変わりがない。しかしともすればこのことは忘れられがちなのではないだろうか。

また、端的に言って測定そのものは科学である以上に技術の問題であって具体性が何よりも大切であり、測定装置から、測定者、想定の場所や時間、測定サンプル、さらには統計計算の問題、言葉の問題をも含めた表現方法にいたるまで多様であり、その多様さは分野、あるいは業界の慣習に大きく関わっている事が多い。その意味で自分の専門分野以外、狭い意味での専門分野以外の問題に関わる場合はよほど注意が必要なのではないかと思われる。これは純然たる素人にとってよりもむしろ自然科学の他分野の専門家にとって重要なのではないかと思う。

いきなり結論めいた事に踏み込んでしまったようだが、話を最初から始めると、先日NHKオンデマンドで「いのちドラマチック」というシリーズ番組の「ミドリムシ 植物と動物のあいだ」というのを見た。結構おもしろいので何度かこのシリーズを見ているが、基本的に食べ物に関係のある科学番組のようだ。しかしよけいなことかも知れないが「いのちドラマチック」というタイトルはそれだけでは何のどういう番組なのか、さっぱりわからない。こういう番組はもっと端的に、即物的なタイトルにして欲しいと思う。

それはともかく、このシリーズ番組には毎回分子生物学者の福岡伸一先生が登場することになっているようで、今回もそうであった。

この先生の著書は一冊半ほど読んだことがある。一冊目は「生物と無生物のあいだ」、もうひとつは「世界は分けてもわからない」である。こちらの方は半ばくらいまで読んだままでなぜか忘れてしまっていた。なぜ読むことになったかといえば、もちろん書店でかなり目立つところにつまれていたからでもあるが、いまは昔NHKFMラジオ番組の「日曜喫茶室」のゲストとして出演されていたのを聞いた記憶があって、とにかく話し上手な科学者という印象もあり、本も面白く読めそうな気がしたことは確かである。

この本の主たるテーマについてははっきりした印象の記憶を持てなかった。難しい問題で、理解したとも言えないし、この本を読んだだけでどうこう言えるような問題ではないと思う。ただ、もちろん専門的でわからない部分が多いものの、著者のスタンスがいくらか中途半端かなという印象はあった。それはともかく、本題以外に読み物として、DNA発見に関わる科学者たちの話題、とくに著者が研究生活を送ったたロックフェラー大学の歴史や印象、そこに胸像が飾られているという野口英世に関するあまり芳しくない話題などに多くのページが割かれていて全体として面白い本ではあった。

次の「世界は分けてもわからない」の方は読みかけたもののいつの間にか続みつづけるのを忘れてしまっていた。どうもなかなか話の核心に進んで行かず、まどろっこしいところがあったのかもしれない。非常に興味深い問題を扱っていることは確かなので、最後まで読み直さなければならないと思っている。ただ表題には少々違和感がある。(世界が)「わかる」にしても「分ける」にしてもあまりにも漠然としている。第一、単に「分ける」だけで「世界がわかる」とは誰も思っていないのではないだろうか。本のタイトルとはこういうものかも知れないが、やや我田引水的なタイトルだと思う。

いずれにせよ、断片的にも興味深く面白い話題を沢山提供できる著者であることは確かな印象であり、テレビ番組に登場するようになったのもわかるような気がする。

ただ、最近刊行されたかなり分厚い著書を書店で少し立ち読みしてみたことがあるが、温暖化問題に触れている個所があった。そして、この先生も温暖化問題について的確な判断をしていないことがわかり、この分子生物学教授に対していくらか興ざめ感を持っていたところだった。

さて、本題ののテレビ番組の内容は、葉緑体を持つ植物と動物の両方の特長を備えたミドリムシの食物や燃料としての利用の可能性について紹介されていたのだが、ここでもCO2温暖化対策が登場してくる。ミドリムシを生産して食料や燃料にすることでCO2削減に貢献できるという話題である。

燃料としてなら、つまり化石燃料の代替としてなら、実効性はともかく、CO2削減と結びつけるのもわからないでもないが、食料としての段階でCO2削減に結びつけるというのはあまりにも牽強付会としか言いようがない。CO2の吸収速度が早いというのだが、食用にして食べてしまうのであれば、そんなことはCO2削減と何の関係もない。普通なら「成長が速い」というべきところを「CO2の吸収が速い」と言い換えたのであろう。利用という面からは「成長が速い」という方がよほど意味深いと思う。専門の権威ある科学者がそんな話題に共感するとすればまさに興ざめである。



予想しないでも無かったが、ここで福岡先生によるCO2温暖化の解説が始まる。「いのちドラマチック」という訳のわからない番組のタイトルも関係しているようだ。つまり番組の趣旨が何なのかわからないのである。融通無碍ともいえるが。

それはともかく、ここでの教授の説明もまたさらに興ざめそのものだった。それは、数十万年前から現在に至るまでを通してのCO2濃度のグラフを元にしての説明で、この数十万年をとおして、この18世紀ころから急激に大気中CO2濃度が一方的に増加し、過去数十万年を通して一度も達したことがない400ppmに近づきつつある。従って大気中CO2濃度の増加が人為的な原因によるもので温暖化の原因でもあるというものである。

この種のデータあるいはグラフに問題があることは筆者も何度もブログで触れている。例えば、http://d.hatena.ne.jp/quarta/20110401#1301656569 。この機会にもう一度この問題を掘り下げてみたい。

基本的に重要な問題は、このグラフでは十万年を超える前から現在にいたるまで一つづきのグラフで表現されているのだが、横軸の同じ長さの時間スケールが地質時代と18世紀以降ではまったく異なっている。その差は100倍くらい異なっているであろう。当然測定方法のみならず測定手続き、測定サンプル事体がまったく異なることはもちろんであり、その種のことにまったく疑問を持たないか言及しないとすれば科学の専門家の態度としては問題があると言わざるを得ないのである。あらゆる測定は測定方法と切り離すことはできないからである。

筆者の知見によれば、この種のグラフには少なくとも3通りのまったく異なった測定が繋ぎ合わされている。いずれも根本順吉氏の著書で知り得たものである。

一つは1958年から1988年までの間、キーリングという科学者がハワイのマウナロア山頂で定期的に測定を始めた連続的なデータである。

次は18世紀から前記1958年までのデータで、これは根本順吉氏の著書では南極のデータとなっているので、氷からサンプリングしたものかも知れないが、詳しくは書かれていない。この間の増加率は、前記1950年代以降の急激な増加に比べると著しく緩慢である。

もう一つは「南極のボストーク基地で得られた2000メートルの氷柱の分析から、過去16万年の気候変化が明らかにされたことである」。この分析では「1m毎にとったサンプルを真空中でくだき、そこからとりだした過去の時代の大気成分について、ガス・クロマトグラフィーを用いた分析が行われ、CO2の変化が明らかにされた」。

16万年で2000メートルとすると、1mあたり80年になる。つまり、この間のCO2濃度は80年間の平均を意味している。80年の間には、キーリングの分析が始まった1958年から現在までの約50年はすっぽり入ってしまう。

現在気象庁などで行なっている分析データは月単位で公表されている。キーリングの分析もそのようで、実際、年間における月単位の数値の変化は結構大きく、夏と冬とではかなりの差があり、曲線はギザギザになっているのが普通である。

以上の事実から、先ほどのグラフから単純に現在と10万年前とで比較できないことは明らかだが、以上の事実を知らなくても、この種のことはグラフ横軸の時間スケールの違いからも疑いを持つのが科学者であれば当然ではなかろうかと思うのである。私自身は、根本氏の本を読んでいなければ気づかなかったかも知れない。

改めて思うことだが、あらゆる測定には異なる時間が関わっていることに思い知らされなければならない。

最初に書いたことだが、これは少しでも専門を外れた分野の問題に言及する場合には特に重要な問題だと思う。素人にとって以上に、他分野あるいは隣接分野の科学者には気を使ってもらいたいものだと思う。

個人的に、あまり専門性を強調したくはないと思う。私自身、事実上すべての化学分野で素人である。ただし、権威ある科学の専門家が専門科学者の資格で権威を背景に科学の問題を語る時、やはり専門外の問題を語ることは控えることが良心的といえるのではないかと思う。もちろん一概に言うことはできない。

少なくとも聴衆、受け取る側はこのことを十分に意識すべきだろう。

(蛇足)先日この番組を見た日、外出したら、直ぐ近くの自然食品の店に張り紙がしてあるにに気がついた。曰く、「みどりむし入荷しました」。

2012年2月14日火曜日

「再生」と「再生可能」および「エネルギー」と「エネルギー資源」

前回2度目に「再生可能エネルギー」の言葉上の問題を取り上げたときは、「可能」と「可能性」とのニュアンスの違いについて述べましたが、この件では「再生」と「再生可能」との違いについても考える必要があるようです。


前回考えたように、「可能」という言葉には主語としての人間の存在が暗黙のうちに想定されていると言えます。人間の能力として、あるいは人為的に、あるいは任意に可能というニュアンスがあり、総体的に「任意に可能」であることが本来の「可能」の意味ではないでしょうか。

それに対し、「可能」がとれた単なる「再生」エネルギーの場合は印象として「自然に再生する」という意味になるように思われます。風力と太陽光の場合は、どちらかと言えばこちらのほうがより適切といえるかも知れません。

この場合あくまでも再生を自然に頼るわけですから、任意に利用が可能というわけには行かないことが意識されるように思います。

また、さらに、この場合は再び「エネルギー」と「エネルギー資源」の違いが問題になってくるように思われます。

前回、エネルギーとエネルギー資源の違いについて言及した際、エネルギー資源は再生し得るがエネルギーそのものは再生不可能であるといった原理的なことに言及した次第ですが、それよりも実際的な、言葉の効果といった面で重要な違いがあるように思われます。

「エネルギー資源」という場合、それがあくまでも資源にとどまっており、エネルギーとして利用する前段階であることが意識されるはずです。つまり、実際に使用可能なエネルギーに変換する工程の存在が意識されるはずなのですが、単に「エネルギー」では、その部分が見えなくなってしまい、天然のエネルギー資源がそのままエネルギーとして利用できるかのような印象を与えるように思います。

結局、風力や太陽光の場合は「自然再生エネルギー資源」バイオ燃料の場合は「人為再生可能エネルギー資源」と呼べば一応は納得できるように思います。もっとも化石燃料も広い意味で「自然再生エネルギー資源」に含まれるわけですが。前回も書いたように風力と太陽光の場合は気象エネルギーと呼ぶのが最もその性格をよく表すと思われることに変わりありません。


なお、この件で前回、「再生可能」に対応する英語をreproducible と考えましたが、それは間違いでrenewableのようです。語感としてはたしかに「自然再生」に近いかなという印象はあります。

またウィキペディアを見ると「広義には、太陽・地球物理学的・生物学的な源に由来し、自然界によって利用する以上の速度で補充されるエネルギー全般を指す」というIPCCで用いられているという定義が紹介されていますが、これもあくまでIPCCの定義であり、各国各団体によって定義の仕方は様々なようです。

特に、「利用する以上の速度で補充される」とはどういう意味なのかまったくわかりません。少なくとも現在、風力も太陽光も一定の場所で利用せざるを得ないわけですが、いずれも天候によって刻々と変化する風や太陽光にこのようなことがどうして言えるのか、意味不明としか言いようがありません。


いずれにせよ、「再生エネルギー」、「再生可能エネルギー」という言葉があまりにも安易に使われ、あたかもそれが倫理的に優れたエネルギー資源であるかのような印象を伴いながら善意あると思われる人々によって頻繁に使われていることにやりきれない思いがします。

2012年2月5日日曜日

「可能性」の可能性、多様性

(先回、「再生可能エネルギー」の意味論めいたものを書きましたが、その続編です)

前回は主として「エネルギー」を「エネルギー資源」とすべきだという趣旨に重点を置いていたと言え、そのため「再生可能」の「可能」の意味についての掘り下げが不足していたように思う。

「再生可能」の構成要素である「再生」の方も相当にあいまいで怪しげな言葉である。元来日本語の「再生」は生物学用語なのではないだろうか。「再生可能エネルギー」の場合の再生は生物学的に使われているとは思えない。かといって物理学的でも化学的でもない。それはともかく、今問題にしたいのは「可能」の方である。

「再生可能」は英語のreproducibleに相当すると考えてよさそうだが、英語の接尾辞ableは日本語では、「可能」よりも「可能性がある」に近いように思われる。だいたい可能性を表す場合、日本語では基本的に可能動詞を使うのが本来だろうし、英語でも助動詞を使う場合が多く、さまざまなニュアンスで語られるものであり、微妙な表現を要求されるものなのである。

とりあえず今は「可能である」と「可能性がある」との違いについて考えてみたい。

どちらも専門用語のように厳密に意味が定められているわけではないだろうが、端的に言って「可能である」は正確には「任意に可能である」に近いと思われる。それに対して「可能性がある」は、「可能な場合もあり得る」に近いといっても良いだろうと思う。

つまり、一方の極に「任意に可能である」があり、もう一方の極に「可能な場合もあり得る」という意味があり、単に「可能である」は「任意に可能である」に近く、「可能性がある」は「可能な場合もあり得る」に近いと思われるのである。

「任意に可能である」とは、具体的には主語、この場合は人間の意志によって任意に可能という意味で良いと思われる。その気になればいつでも可能ということである。一方、「可能な場合もあり得る」の「場合」を考えてみみると、これは実に多様であり、時間的、空間的、その他千差万別の条件であることがわかる。

例えば、風力を考えてみた場合、実用的には一定の地点における「再生」を考える必要がある。つまり、かなり長期間の平均を取ってみれば、場所により、再生は「任意に可能」に近づくが、秒~時間~日単位の平均をとれば「可能な場合もある」にとどまり、安定した再生はむしろ「不可能」と言うべきである。太陽光も同様である。どちらも天然の気象に依存しているからである。

一方の対極にあると思われている、すなわち「再生可能」ではないとされている石油の場合、一定地点、発電所などの使用現場における供給は、条件が整えば、秒単位ではもちろん日単位、月単位、あるいは年単位でも継続使用が可能であろう、ということは ― 使用現場における刻一刻の ― 再生が可能だということである。もちろんそれには一定の条件が必要だが、少なくとも現時点では人為的な努力でそれが可能だということである。

化石燃料の場合は埋蔵量の問題とともに、天然に生成する地点における自然再生が可能かどうかという問題は石炭を除いてまだ解明されていないようである。しかしいずれも過去にそれらの資源が生成したメカニズムが今も継続していないとはいえない。燃料ではないが、石灰岩など、今も海の中でさんご礁や貝殻の沈殿物が元になって遠い将来の生成過程に繋がっている。

金やレアメタルなど希少元素にしても、人間が消費した所で地球上から消えるわけでもない。金は消費するうちに拡散する分があるにしても、基本的に昔からリサイクルが常識である。資源のリサイクルは最近のエコ思想、運動に始まるわけでは全くない。

エネルギーは消費されるが、エネルギー資源はすべて何らかの意味で自然再生しているといえる(核燃料を除いて)。もちろんその大本はすべて太陽に由来する。

上記(エネルギーは消費されるがエネルギー資源何らかの形で再生し得るということ)を考慮すれば、エネルギーエネルギー資源は厳密に区別する必要があるといえる。


バイオ、とくに栽培植物、穀物や、海藻、藻類などの場合は人間の栽培によるのであるから、明らかに人為的再生が可能といえる。しかし、必ずしも任意とは言えず、一定の条件が必要なことは言うまでもない。まあ強いて言えば、常識的な判断で「再生可能」という言葉がニュアンス的に最も相応しいのはこの種の資源のことと言えるかも知れない。

以上のような次第で、いずれにせよ、事実上あらゆるエネルギー資源は「再生可能エネルギー」資源ということになるのであり、その「可能性」は各エネルギー資源の性質により千差万別としか言い様がなく、「再生可能」なる区分はまやかし以外の何者でもない。今とくに問題になっている風力発電と太陽光発電を一緒にする必要があるのであれば「気象エネルギー」が適当であろう。水力の場合はもう少し長期的に考える必要があり、気候エネルギーと呼べないこともない。いずれにせよ、具体的に風力発電、太陽光発電、水力発電と呼ぶに越したことはないのである。

ちなみに、
ウィキペディアで見たのだが、食用塩に「天然塩」とか「自然塩」と表示することは公正取引委員会で禁止されているそうである。また、「ミネラル豊富を意味する表記は不当表示となる」そうである。これに対比するに、「自然エネルギー」や「再生可能エネルギー」のような用語が法律に使われるという現実をどう考えれば良いのであろうか。