2011年12月28日水曜日

自然、または地球の「意味」と気象 ― 芸術が欺瞞に陥らないように

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CATEGORY: 日常と社会

DATE: 10/23/2011 23:16:39
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自然、または特に昨今では地球という言葉で人々が意識する意味の範囲はその時どきの文脈で大きく異なる。人間を自然に含めるかという大問題はこの際、問わない。また生きた生物も含めないようにしよう。それでも状況によって自然の意味範囲は随分異なるものである。

ごく普通に自然という言葉を使う時、多くの場合は地表の環境、便利な定義を使えば「気象」に関わる範囲内といえるのではないだろうか。

少なくとも昼間はそうだろう。夜になって星空が見えるようになれば、宇宙の一部も視野に入ってくるかも知れない。まあだいたいそんなところだろう。要するに殆どの場合は目にみえる範囲しか入っていないのである。

このように考えると、昨今、「自然エネルギー」という言葉が意味するものが通常、風力と太陽光のエネルギーを意味するようになったことも納得できるというものである。だいたい気象に関わる範囲内の自然を単に「自然」と称しているといえよう。しかしそれが合理的であるということにはならない。

本来の自然、少なくとも「地球」全体を考えるのであれば、気象に関わる部分は表面のごく一部であることは自明のことである。マントルや地球の中心部まで行かずとも、地殻や地下資源、エネルギー関連では石炭石油も自然の一部である。ガンマ線やアルファ線などの放射線も自然の一部である。当然自然放射線も、宇宙線も紫外線も、太陽光と同様に自然の一部である。

多くの人にとって自然という言葉をつかうとき、実際に目にみえる部分あるいは五感の感覚で直接感じる部分しか視野になく、意識していないということを銘記すべきだろう。これは芸術家の場合も同様である。むしろ芸術家こそこの陥穽に陥りやすいのではないだろうか。

多くの芸術家はその限界に気づく機会が少ないのではないだろうか。であるからこそ科学が必要であり、また経済学や倫理学や社会科学が必要なのである。もちろん科学ですべて事足りるというわけではない。

視野の狭さは欺瞞につながる。芸術が欺瞞に陥る事なかれ。


この文章は今夜、NHK・Eテレの日曜美術館「風の彫刻家 新たな挑戦~新宮晋~」を見た後の感想の一部です。

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