2011年12月28日水曜日

なぜ「リテラシー」という言葉が良くないのか

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DATE: 04/01/2011 10:45:04
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これまで、どれだけの人たちの目に止まったかは分からないが、ツイッターで何度か、リテラシー、特になんとかリテラシーという言葉が嫌だということを衝動的につぶやいた。はっきりとなぜ嫌なのかということを言えなかったのだが、今日、はっきりとそういえる理由に気がついた。ひと一言で言って、この言葉は境界を引くことができないところ、引いてはいけないところに境界を引くから良くないのである。

本来の識字能力という意味で使われる限りはそんなに問題はないとは思うけれども、この意味でも本来は文盲と識字者の間にはっきりした境界を引くことはできない筈である。日本語の場合、何千という漢字をすべて読み書きできなければ文盲であるなどと言うことはできないだろう。しかし平かなを読み書きできるというだけではあまり役に立たず、本当に文字を知っているとは言えない。また文字を知っているだけで意味がわからなければ本当に読み書きできるともいえない。しかし一応、日本語の場合は義務教育で習う程度の言葉を知っていればリテラシーがあるという程度で合意が出来ているのだろうと思う。これが一種の比喩と言えると思うのだが、他の問題に用いれれて「なんとかリテラシー」という表現で用いられることになると、その境界を引くところというのが全く恣意的であり、発言する本人自信が分かっているかどうかさえ疑わしい。

とくに科学リテラシーという表現がよく使われるが、こういう言葉を使う人は自らや科学のどれだけの分野でどれほど深い知識をもっているか、そしてそのことを自覚しているか、そしてどういう基準でリテラシーの境界を引いているのかをはっきりと表現できるのであろうか。

これは科学と疑似科学という区別についても同様である。この種の論争では多くの場合、互いに相手の方を疑似科学だと言って非難しあうことで落ち着くことになる。売り言葉に買い言葉であるから、私は買い言葉を使う側に同情するが。
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追記

あるいは、リテラシーという言葉は権威によって与えられた一種の免許のような役割を果たすような面があるとも言える。免許を与えられた人と免許のない人を固定的に差別化するような役割といえよう。

免許や資格は確かに必要な場合があることは否定出来ない。運転免許にしても調理師の免許にしても、もちろん医師免許や法律関係の資格など多種多様であり、いずれも必要なものであろうが、弊害もあることは否定出来ない。いずれにしても明確な基準があり、試験を経てのことである。無前提の純粋な議論の場にそのような免許の必要はない。ただその場における論理的で明晰な思考と議論が必要なだけである。

リテラシーという語を使わずに、例えば「知識」という平凡な言葉を使ってもなんの問題もないばかりか、よほど正確に表現することができるのである。「知識」といえばそこには様々な度合いがあり、多種多様な含みがあることがわかるが、「リテラシー」といえば免許か資格のように固定した、こわばったものに置き換えられてしまうのである。

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