2020年8月3日月曜日

「分析」と「予測」を、自然科学と人文社会科学との対比において考える ― その2

予測分析という概念への疑問、および遺伝子分析と呼ばれるものへの危惧について

(前回の文脈で引き続き考察を進めたいと思います。)

情報科学分野でデータ分析において予測分析という概念が用語として確立され、普通に使われているにしても、情報科学、あるいは情報工学、コンピュータサイエンスという学問分野自体、本質的に技術志向的で、純粋な学問とは言えない側面が強いように思われる。一般に情報科学関連の理論は高度に論理的、数学的で、とくに私などには苦手で近寄りがたい印象があるが、反面、ご都合主義的な面が強い印象がある。個人的にはかつて放送大学で、辛うじて「可」をとれる程度に勉強した経験があるだけだが、そういう印象を持っている。端的に言って、プログラムを効率的に作成することが目的であって、困難あるいは解決不可能にみえるような問題は飛ばして見えなくしてしまうようなところがある。そういう次第で、用語の概念を深く掘り下げるようなことはあまり追及しないような印象を持っている。

専門的な情報理論を離れて、分析という概念の本来的意味を考えてみると、カント哲学による有名な分析判断と総合判断の区別を思い起こせばわかるように、分析の対象は、どう考えても、既存のデータであり、予測値のように未来の、すなわち現在存在していないデータが対象であるとは考えられない。定量的な予測が可能であるとしても、それは分析によるものではなく計算である。前回最初に例に挙げたように天気予報は数値予報と呼ばれていたし、日食の予測は、計算によるものであった。

もちろん、以上は個々の予測分析と呼ばれる成果物の価値とは関係のない話である。一般に予測分析と銘打たれているからといっても情報科学の定義と手法をそのまま使っているわけでもなく、単に予測と分析という二つの言葉を組合わせているだけであるかもしれない。ただ、全体として予測を述べる作品であれば、日本語的感覚で言えば、こういう熟語ではなく「分析と予測」あるいは「分析・予測」というような表現が妥当ではないかと私自身は考える。

さらに言えば、情報科学、コンピュータサイエンスと呼ばれるものは科学ではなくあくまで技術的な工学であり、マーケティングでもあることを十分に見据えておく必要があると思う。


もう一つ前回記事の最後の方で触れたことで、より深刻に思われる問題は、予測との関係ではなく分析自体における自然科学的な要素と、人間科学的な要素の共存という問題である。この問題は遺伝子分析において端的に現れているように思われる。

そもそも遺伝子という概念自体、物質的側面と、人間的な意味的側面の両面を持っている。つまり、化学成分や分子構造といった量的で幾何学的な要素と、身体機能とか人間的な性質という要素である。機械的にデータ分析できるのはあくまで量的で幾何学的な要素だけである。個々の物質的要素に機能的要素が割り当てられているとはいえ、言葉の意味、単語の意味を考えて見ればわかるように意味というのは流動的であり、具体的に話し言葉や文章として使われて初めて意味をもつのである。意味の分析についていえば、今ではある程度の機械翻訳も可能になったようだけれども、その使われ方を見ると、多くは簡単な会話の補助として使われる程度で、絶えず人間同士で相互に検証されながら、あるいは確認しながら使われるケースがほとんどだろう。文章の翻訳に使われる場合があるにしても人によるチェックを欠かすわけにはゆかない。

という次第で、私は遺伝子分析という概念や技術の進展に相当な危惧を抱いている。もちろん以上のような問題は遺伝子分析に限ったわけでもないし、同時にまた遺伝子分析の価値と可能性を否定するわけでも認めないわけでもない。ただ暴走が大いに危惧されるのである。

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