2021年10月4日月曜日

西垣通著『AI 人工知能のコンセプト(1988年、講談社現代新書)』再読 ― その5 ― 人間と生物、無生物

著者は後半で、バイオコンピュータの可能性について考察を始めるが、私は最初にバイオコンピュータのアイデアが出てきた時点で違和感を持った。それは、一言で表現すれば、生物と無生物を区別する根拠とAIの理念との結びつきに対する違和感というべきかと思う。なぜなら、私はすでにAIの理念そのものが破綻していると考えるものであって、その理由は生物と無生物との違いとは関係がないからであった。バイオコンピュータの可能性について考察している本書のそれ以後の記述については一応、通読はしたが、明確に表現できるような印象と理解を得るに至らなかったものの、上記の違和感あるいは疑念を覆すものではなかった。前回同様、この問題を著者の論旨に沿って考察するには少なくとももう一度、たとえ拾い読みでもする必要があるが、前回記事に書いたように、本書を無くしてしまったのである。ただ、今回はその違和感を掘り下げることで持論を展開してみたいと思う。

上述したように、前回までにAIの理念が破綻していることを述べた根拠は生命現象、生命の概念や生物と無生物の違いなどとは直接関係がなく、むしろ人間性と人間以外の存在との違いまたは関係であるというべきである。最初の根拠は、AIとは、コンピュータその他のハードウェアを「道具として使う」存在である、という著者の一種の定義から、その存在は人間に他ならず、人間以外ではありえないのではないか?という問いかけから得られたものであった。続いて、情報とは何か、情報の本質から、少なくともコンピュータとソフトウェアを使用して処理を行うような種類の情報は人間によってのみ発信および受信されるものであるという観点であり、この場合も普遍的な生命の概念あるいは生物と無生物という対立関係とは直接的な関係はない。何らかの対立関係を想定するのであれば、要するに人間と人間以外という対立関係である。これは基本的には人間は言語を持つということにある。私自身はソフトウェアの本体ともいえるプログラム言語を言語と呼ぶことに何となく抵抗があって、プログラム言語については素人で使うこともできないにも関わらずいろいろ思うところもあったが、プログラム言語が一般の、いわゆる自然言語から派生したといえることは間違いがないし、少なくとも言語を持たない動物がプログラム言語を生み出すということはあり得ないので、言語能力を持つ人間のみがコンピュータ、あるいは人工頭脳、あるいはエー・アイを使い、操作する主体であり得ることは疑いようがないのである。

別の観点から言えば、バイオコンピュータの概念はハードウェアに関するものである。もちろん、そういうハードウェアが実現したとすればソフトウェアもそれに対応した変化を受けることになるとしても、AIの理念の実現をハードウェアに期待することは、ソフトウェアでAIの理念を実現することが無理であることを、すでに認めていることに他ならない。端的に言えば、ソフトウェアでAIの理念を実現することは、それ自体が自己矛盾なのである。

という次第で、バイオであろうがバイオでなかろうが、AIの理念が実現できるとすれば、それはソフトウェアが不要、すなわち人間が設計する一切のソフトウェアから解放されたハードウェアが実現することに他ならない。それは、いわば完全に人間のコントロールから解放された、言語能力を持つ物理的存在ということになる。もちろん、人間とのコミュニケーションが可能でなければならない。そういうものが実現できるかどうかはともかく、これはもう、古典的な人造人間であって、プログラムともプログラミング言語とも関係のないものである。

もちろん現在の、ソフトウェアとハードウェアとの組み合わせによる人工頭脳が、完全に人間によってコントロールされているとは言えない。コンピュータが、関係者の予測できない動作をすることはよく問題になるところである。しかしこれは、ハードウェアがソフトウェアなしで自律的に動作するという訳ではない。これは、ソフトウェア自体も、人間が完全にコントロールできているわけではないことを意味しているともいえる。

以上は多分に、いわゆるエー・アイが、(前回に1つの結論として得られたとおり)人工知能ではなく集合的知能とみなせるということと関係がある。集合的ということは総合的ということでも包括的ということでもない。悪く言えば多くの個人の、それも断片的な知能の、またかなり恣意的な寄せ集めに過ぎない面もあると言わざるを得ない。ただ、機械を、いわば軸的中心として統合されているとは言える。具体的に言えば、プログアミング言語の作成者、オペレーティングシステムの作成者、アプリケーションの作成者、それぞれの使用者、何れについても膨大な人員が、ハードウェアのシステムを軸として関わっている。いわば多様な個々人の断片的な知性の、無秩序ではないが、かなり恣意的な結合体であると言える。そこに何らかの統合原理が機能していることは確かであるが、一方で人知の及ばない要素が入り込んでいる可能性がある。しかしそういうことは何もソフトウェアにおいてのみ生じる現象ではなく、多数の人間が関る共同作業において生じることである。これは個人の言語活動あるいは情報活動、あるいは芸術創作においても生じることである。人は自分自身の発言や作文、あるいは描画や音楽活動においてさえ、自分自身で完全にコントロールできているわけではない。直観や無意識の作用もあれば感情に動かされる面もあり、インスピレーションや天啓も大いにあり得るというべきであり、端的に言って人知の及ばない要素と言わざるを得ない。

バイオコンピュータの理念あるいは構想については原理的な基礎的知識もなく良くわからないが、以上のような文脈で考察するのはどうだろうかと思う。いずれにしても、他の場合と同様、人工知能という概念とは相容れないものである。

以上の考察を通じて、一貫して存在感を示し、輝きを増し続けているように思われるのが、「人間はシンボルを繰る生き物である」という人間の定義に立脚して名著『人間』を書いたカッシーラーの哲学である。その全貌を私はいまだ知らないが、「人間」という存在の本質と特質に着目し、言語を中心とするシンボル形式を中心に据えたその哲学は、コンピュータサイエンスあるいは情報学においても基本的な支えとなってしかるべきではなかろうかと思うのである。例えば、主著である『シンボル形式の哲学』中で有名な個所として、等方空間と異方空間の相違に関する考察がある。等方空間については西垣通氏自身も本書中で一回だけ言及しているところがあるが、カッシーラーの哲学については一度も言及していない。まあ今となってはもう30年以上も前の著作であり、当方も著者のその後の思想については殆ど知るところはないのだが。ただ、社会的にも、専門的にと同様、人工知能という言葉が以前にも増して無反省に使われる頻度が高くなっている現状は憂うべきではないかと思うのである。

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