2018年6月24日日曜日

鏡像の意味論、番外編その6 ― 「左右軸の従属性」の精密化と再定義

まず前置きです。ここ数回にわたって『鏡像の意味論、番外編』というタイトルで続けてきましたが、番外編としたのは、鏡像問題や鏡映反転の問題に関係はもちろんありますが、単に鏡映反転の問題ではなくもっと根本的で意義深い問題を考えていることを示したいからに他なりません。前回、認知科学会に提出したテクニカルレポートの元になる論文を提出した際も、タイトルでそれを表現したつもりだったのですが、単に鏡映反転のケースを説明するという視点でしか評価なさらない先生がおられたのが残念です。

さて、「左右軸の従属性(Subordination of the right-left axis)」 はTabata-Okuda(2000)において提起された表現で、Corbalis(2000)でも同様の趣旨が提起されているとされるわけですが、最初この理論を日本認知科学会誌の鏡像問題特集に含まれる日本語論文で読んだときから直観的に、これは真実に近いものと感じられました。それにも関わらずどこか隙があるような印象は拭えませんでした。「左右軸の従属性」自体は鏡映反転を説明する原理ではなく、簡単にいって上下前後左右と名付けられる三つの軸方向のセットにおいて左右軸の性質を表現しているのであって、ここで左右軸の意味は非常に抽象的です。今にして言えることは、「左右軸」というシニフィアンのシニフィエがはっきりしないのです。ただ説明の具体的な根拠として使用されているのは人体の形状です。そしてその表現は、両者で微妙に異なりますが、また英語と日本語でも微妙に異なるのは当然ですが、論理的な構造はだいたい同様で、対象物の上下前後左右を定義する順序において左右軸が最後に定義される点で、左右軸が従属的であるとされています。しかし人体の上方が頭頂の方向であり下方が足下の方向、前が視界の開ける方向、という風に常識的に考えると、人体の上下前後左右のどれについてもだれが定義したともいえず、最初から完全に定義済みであるという他はなく、新たに定義する必要はないはずです。とはいえ、例えば人体の状態を客観的に表現する場合、上方は、普通は頭頂の方向と重なるものの、天に向かう方向を意味するのではないでしょうか?そして人はいろんな姿勢をしますから頭頂部が常に天の方を向いているわけではありません。これは前回までにシニフィアンとシニフィエとの関係で考察したところです。ですから、確かに人体に対して新たに上下前後左右を定義する可能性は確かにあるとは言えます。また人体以外の対象物やイメージに対しては何らかの基準で定義する必要が生じてくるでしょう。しかしこれはむしろ、やはり前回までに明らかにされたように、ある特定のシニフィエに対応してすでに定義済みのシニフィアンを当てはめるという意味で、「定義(define)」ではなく「適用(apply)」あるいは「割り当て(assign)」という用語を使用する方が正確であるといえます。そして割り当てられるオリジナルのシニフィエは観察者の知覚空間、体性感覚と視覚とが結びついた知覚空間の上下前後左右と考える他はないことは、先に考察したとおりです。ただし体性感覚とは別に重力方向の感覚があり、これは上下方向という一軸だけしか想定できません。


以上のように、「左右軸の従属性」原理における上下前後左右の「定義」という用語は、対象物または対象の像への、人間知覚の上下前後左右のシニフィエの「適用」または「割り当て」と言い直すことで、この原理の前提となる条件が確定できるように考えられます。ここで新たにシニフィエを割り当てられる対象物は固体物体または三次元的形状の安定した像であり、固体が占有する空間のような異方空間とみなされることは前回のとおりです。その異方空間の性質は前回明らかになったように方向軸で表現され、三次元的な三つの方向軸のうちで新たに定義できるのは二つの軸のセットであり、残りの一軸は他の二つの軸に対して固定されていることも前回あきらかにされたとおりです。従ってこの残りの一軸は「最後に定義される軸」というよりも最初の二つの軸と同時に自動的に割り当てられる軸であり、その意味で「従属性」という表現は全く適切です。ただしそれが常に左右軸になるかどうかは、また別の問題であるといえます。

他方、人体の形状が左右対称に近いことが左右軸の従属性の理由であるとされ、対称性の大きさあるいは程度という量的な側面が問題にされていますが、現実の偶発的に観察できる人物が左右対称に近いことはそれほど多くはありません。歩くときの両脚の位置は常に非対称であるし、両手の動きも大抵は、例えばバイオリンやギターを弾いているときなど完全に非対称です。またアクセサリーや持ち物が左右対称であることは稀でしょう。ただし、人類に普遍的に共通する形としては、少なくとも外見は左右対称であるといえます。Corbalis(2000)ではこれを「canonical(正規の)」と表現していますが、この言い方は正確ではないと思います。つまり個人ではなく人類共通の特徴というべきでしょう。ですから観察者が特定の他人を認知する場合、まず誰であるかよりも先にそれが人間であることを認知していることは確かです。人間一般の特徴としては外見上の左右差は見られないので、方向としてはまず上下と前後が認知されることは確かでしょう。その意味で左右軸の従属性は確かに否定できません。しかし次のような場面も想定できます。

例えば暗がりや逆光の中で人の姿はわかるが影絵のようにどちらを向いているかがわからない場合、左右を判別することで前後の向きを判断するしかありませんね。よく知っている人であれば何らかの左右の特徴が基準になるかもしれません。昔の侍なら刀を差している方が左ということになるでしょうか。これは人の場合ですが、一般に人以外のものに上下前後左右を判断する場合は、さらに左右軸の従属性が弱くなるものと思われます。

という次第で、「左右軸の従属性」原理は下記のように精密化し、さらに再定義する必要があるように考えられます:
  1.  上下前後左右の各軸の「定義(define)」の用語を「適用(apply)」または「割り当て(assign)」に変更
  2.  割り当てられるべきオリジナルの上下前後左右の「シニフィエ(signified)」は観察者の知覚空間(異方的)の上下前後左右のシニフィエであること
  3. 特定軸の「従属性」は、割り当ての順序が最後になることではなく、観察者の判断による割り当ての不可能性、もしくは他の二つの軸の割り当てによる自動決定を意味すること
  4. 左右軸の従属性は人体の場合に優勢ではあるが絶対的ではなく、人間以外の、特に道具などではそれほど顕著とは言えないこと
もう一つ重要な点は、この原理自体は鏡像問題、特に鏡映反転の問題とは無関係に定義できる原理であって、鏡映反転の問題に適用する場合はさらに別の考察が必要になることは言うまでもないことで、対掌体の性質はその一つですがそれだけともいえないように思われます。それにしても左右軸の従属性は鏡像問題とは離れて、人間の視覚認知のうえで認識論的にも非常に奥深い問題ではないだろうかと思う次第です。
(2018年6月25日 田中潤一)

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