2013年4月30日火曜日

脳科学とは何かを考えるヒントとしての鏡像問題―養老猛司著『唯脳論』の読後感その2

(この記事はブログ発見の発見の方にも掲載しました)

―前回のこのテーマでの記事では、この有名な著作の基本前提となる主張への疑問に絞って掘り下げてみましたが、今回は「脳科学」という分野への著者の考え方あるいは方法論と一般的な認識について考えてみたいと思います。―


最初の「唯脳論とはなにか」という節で、著者は唯脳論を「ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。」と定義している。これだけではよくわからないが、後に続く叙述と「実証主義と観念論を結合する」という小見出しの内容から、これはおおよそ次のようなことを主張しているように思われた。

ここで著者は実証主義という言葉で理科系と文科系という区分における理科系を意味し、観念論という言葉で文化系を意味しているようである。というのは、この見出しの節で著者は次のように書いている。「理科と文科という二つの文化があると言ったのは、C・P・スノーらしい。私は一介の解剖学者だが、自分がどちらの「文化」に所属するのか、近頃よくわからなくなってきた。」そして、「両者(理科と文科)をどう結合したらいいか。そこで脳にたどり着く。というのが、この本を書いた私の動機である。」

この小見出しの箇所も他の記述と同様、端的で論理的な記述というよりも、間接的で迂回するような記述なのでわかりにくいが、こういうことだと思われる。すなわち、先の唯脳論の定義における「ヒトの活動」は簡単に言って文科系の領域であり、「脳と呼ばれる器官の法則性」は理科系ということであろう。つまり、理科系の観点から文科系を「眺めよう」ということになる。これはこれで著者のこの『唯脳論』のみならず、脳科学と言われるものの現状を表しているように思われる。確かに脳科学者の著書や発言あるいは脳科学と言われる分野の言説の多くは専門科学的な、具体的には、私は専門家ではないのでよくわからないが、解剖学、生理学、脳神経科学、大脳生理学等々の分野なのだろうと思われる諸分野の専門的な記述と人文科学的な、場合によっては日常言語的世界の記述とが混在しているように思われる。

確かにそれはある種の結合の仕方には違いはないが、真の意味で結合―統合というべきかもしれないが―されている言えるのだろうか。

実証主義と観念論という枠組みにしても、それに対応するように用いられている「理科系」と「文科系」という枠組みにしても、それら自体は無意味ではないし、それなりに有意義ではあるだろう。しかしながら、これらの言葉はいずれも抽象的で具体性に欠けている。また、実証主義と理科系とがそのまま重なるわけでもないし、観念論がそのまま文科系に重なるわけでもないし、第一、観念論の定義など難しいもので、文脈から切り離された「観念論」は人によって理解の仕方は様々であろう。

こういう言い方だと、理科系と文科系の様々な要素、あるいは具体的に言って解剖学とか生理学とか、あるいは文科系では心理学とか、言語学とか、社会学とか、あるいは経済や法律にまで関わるような、さらに日常的な諸々の問題といったさまざまな分野の、言わばつぎはぎ、あるいはごった煮のような、ばらばらの要素が形式的にまとめられているだけというものになりかねないのではないかと危惧されるのである。

【理科系研究分野と文科系研究分野の混在の例】
一般に、どのような専門分野も純粋にその分野の用語だけで記述されたり、考察されたりしているわけではない。しかし、専門分野とされている以上、その分野としての統一があり、無秩序に他の分野が混在しているわけではない。

端的な例を挙げると、物理学をはじめとして多くの自然科学や工学で不可欠な数学は実証科学ではないとみなされている。しかし現実には数学は理科系とされている。こういうことからも、実証主義と理科系、観念論と文科系がそれぞれそのまま重なり合うわけでもないが、それはさておき、この場合、数学はいわば道具として、あるいは言語に準ずるような手段として、自然科学の中に取り込まれている。統合されているともいえる。こういう場合、物理学の場合であれば物理学の中に取り込まれ、統合されているのであって。単に物理学と数学が混在しているというわけではない。つまり、自然科学とも数学ともつかない別のものになっているわけでもないし、自然科学と数学の中間というわけでもない。全体としてはあくまで物理学等の自然科学である。

また異なった混在のあり方として工学のような応用ないし実利的な様々の工学的な諸分野がある。それらはあくまで工学であり、技術であって、科学そのものではない。

それ以外に、自然科学と考えられている分野として生物学など、生命科学と総称される諸分野と地球科学の諸分野、それに医学などがあり、脳科学もそれらに含まれるといえるが、これらの諸々の分野においてもそれぞれの方式、構造で、理科系要素と文科系要素が混在していないとは言えない。そのような次第で、脳科学に何らかの形で理科系要素と文科系要素が混在するということ自体は、他の諸々の分野と比べて不自然というわけではないだろう。ただ、今ここでそういった多岐にわたる諸分野の構造をすべてを分析し、考察することなど不可能である。

【鏡像問題という一例】
ここに鏡像問題という興味深い一例がある。これは文字通り一つの具体的な「問題」であって、特定の学問分野、研究分野というわけではない。しかし鏡像左右反転の謎といわれるこの問題は、特定の実用的、技術的な問題ではなく、純粋に知的な興味から発する問題である。であるから、純学問的な問題と言うことができる。決して技術的な、あるいは工学的な問題ではない。

私がこの論争中と言われる「鏡像問題」が世界中を通じて科学者、学会の間に存在することを初めて知ることになり、非常な興味を覚えて自らも考え始めるようになったのは2007年12月の毎日新聞記事がきっかけであり、それ以来本ブログで何度か取り上げて自らも考察し、ひいてはごく最近、当該新聞記事の当事者のおひとりである大阪府立大学名誉教授の多幡先生から直接お話を伺う機会にも恵まれた。ということで、常に念頭にある問題としていろいろな局面で考えることの多い課題であるのだが、今回は鏡像問題そのものというよりも、学問分野の関係という視点での興味で考えてみたい。

当該新聞記事は次のような前文で始まっている。「鏡の前で右手を上げると、鏡の中の私は左手を上げているように見える。なぜ鏡の中では左右が反対なのか。この問いかけは、古くはギリシャの哲学者、プラトンが考えたといわれるほど長い歴史を持つ。現在も認知心理学と物理学の両分野で、国際的な議論が続いている。今年11月、「鏡像問題に決着をつけた」とする認知心理学者の論文が発表されると、物理学者が批判するなど熱い論争が続く。」

ここではまず、鏡像問題が物理学の問題であるか、(認知)心理学の問題であるかが一つ争点になっているが、その後の経過や記事の内容自体からも、物理学上の問題と心理学上の問題との両方が関わっていると考えるべき方向に向かっていると思われる。物理学的側面と心理学的側面のどちらがより基本的であるかというとらえ方をすると難しくなるが、「鏡像問題」という具体的な問題として捉える限り、これが純粋に心理学的な問題であって物理学の問題ではないというように単一分野の問題であるという考え方は、考えれば考えるほど、分が悪くなるように思われる。

では物理学上の問題と心理学上の問題とが関わっている鏡像問題そのものとはなにかと考えると、これは科学以前の問題であるとすべきであろう。日常的な問題ともいえるが、結局のところ日常言語の概念でとらえられる問題と言うことができる。結局は言葉と概念の問題、さらにシンボル体系の問題として考察できるというか考察すべき問題のように思われるのである。例えばキーワードともいえる「鏡」、「左右」。

それでは脳科学の場合、この問題はどうなっているのだろうか。

実は、私は今回『唯脳論』を読むことで、「脳」は基本的に解剖学の用語であり、概念であることに初めて気付かされた。脳という概念は解剖学の体系の中で初めて明瞭な意味を持つのであり、日常用語としては極めて曖昧で漠然とした意味しか持ちえないともいえる。あるいは解剖学や生理学の内部においてさえも、かなりあいまいな部分の残る用語であるかもしれない。解剖学者である『唯脳論』の著者が「唯脳論」を着想されたのも脳が解剖学の用語であり、概念でもあるからこそであろう。

他方、「脳と心」というように、脳科学の各分野でつねに脳との関係が興味の対象とされるところの一方の「心」の方はどうかと言えば、これは全く解剖学上の概念ではない。解剖学や生理学や諸々の自然科学諸分野が成立するよりもはるか以前から存在し続ける言葉であり、概念である。そして心を科学的に研究する分野が心理学と呼ばれているともいえるが、単に心理学にとどまらず、文科系諸分野の中心テーマといえるほどのものである。
そこから前述のような、『唯脳論』における著者、養老猛司氏の唯脳論の定義が生まれたのであろうと思われる。

しかし、既に述べたように、唯脳論の定義ないし方法論は、はあまりに抽象的で、悪く言えば大ざっぱである。
それは、「理科系」という研究分野と「文科系」といいう研究分野、あるいは必ずしもそれらと重なるとはいえない「実証主義」と「観念論」という研究分野をそれらの違いを明らかにしないままただご都合主義的に結びつけるだけに終わり、論理的に錯綜したものになってしまう危険性が感じられるのである。事実、『唯脳論』の構成は難解で、論理的な一貫性が感じられず、錯綜したものに感じられる。

ここで再び鏡像問題に立ち返ってみたい。この問題では、鏡像問題が物理学の問題であるか、心理学の問題であるかが一つの争点になっていたという事実がある。ということは、鏡像問題そのものはそのまま物理学の問題でも心理学の問題でもなく、日常言語次元の問題、いわば科学以前の問題なのである。その問題を解決するために物理学や心理学が動員されていると考えるべき問題と言える。このことを踏まえて脳科学の問題を考えてみるに、脳科学における最大の問題、あるいは諸問題を総体的に表現すれば脳と心との関係ということになろう。この関係の問題をどうとらえるべきであろうか。

すでに述べたように一方の「心」は諸々の科学が成立するはるか以前から存在し続け、将来的にも消滅するとは到底思われない確固たる日常言語の言葉であるから、この問題は日常言語的な、科学以前の問題と考えるのが自然である。ところがそれに対するもう一方の「脳」は、解剖学や生理学の用語なのであり、本来は日常言語、科学以前の言葉ではなく、それが日常言語としても用いられるようになってきたのであり、この問題を科学的に考察しようと企てるのなら、新たに適切な科学の諸分野を動員して考察を開始すべき問題と言えるのである。

逆に、この問題自体を特定の科学分野の問題ととらえるとすれば、「心」も「脳」もそれぞれその研究分野の体系の中で明確に定義されたものでなければならない、とすればそのような研究分野の体系は現在存在しているとは思われないのである。

前回の記事で検討したところの、「心とは実は脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。―中略―心臓血管系と循環とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。」という『唯脳論』の基本主張を以上の視点で検討してみると、この主張では「心」という日常言語的な科学以前の概念を解剖学や生理学の枠内に、無理に引きずり込んでいるように思われる。こうして引きずり込まれる際に「心」の概念が変形を受けることになる。

『唯脳論』には書かれていないが、ウィキペディアによると、「生理学は生命現象を機能の側面から研究する生物学の一分野」であり、「形態的側面からアプローチする解剖学や形態学と対置される。」とあり、常識的に納得できる定義だと思われる。とすれば、『唯脳論』の著者が心臓血管系の機能としている「循環」すなわち血液循環は生理学上の機能とみなすことができ、解剖学的な脳には脳の生理学的な機能を対応させるべきところを、それに変えて日常語の「心」を限定された自然科学分野の枠内に引きずり込むことで、本来の「心」が意味するものを損なってしまっている。

もう少し比喩を膨らませてみるなら、「心」を解剖学と生理学の枠内に引きずり込む際に、「心」の持つ膨大な意味内容がすべて搾り取られてしまい、形骸となった単なる言葉、「意味するもの」と言ってよいのかもしれないが、言葉の意味するものとしての側面のみが取り込まれ、その意味されるところのものとして脳の生理学的な機能がすり替えられたかのような印象を受けるのである。この部分の論理的な奇妙さについては前回の記事で分析してみた。

従って、脳の生理学的機能の意味するものと心という言葉が意味するものとが自明とみなされるまで一致することが証明されることを要する仮説であるとみなすことができるかもしれないが、著者は仮説であるとはいっていないし、現実にこれを前提事項として論を進めているのである。

以上の、唯脳論の定義と言える部分は本書の冒頭部分であるが、本書のそれ以降の部分にこの定義の証明に充てられている箇所があるかというわずかな期待を持ちながら読み進んだことは事実である。しかし、一読した限り、むしろこの定義を前提として議論を進めている部分が殆どで、全体としては結論の先取りという印象を受けた。

この先取りされた結論に加えて身心並行論と脳の擬人化による説明がなされることで、何か証明または論証が行われているような錯覚が生じる。

このことを著者は次のように語っている。「脳についてわれわれは、普通の臓器とは逆に、機能をあらかじめ知っており、構造をあとから知るのである。ここでは、したがって通常とは議論が逆転する。」「唯脳論では、あらかじめ知られた機能に対して、構造を割り付けなければならない。こういう逆転した議論を人はなかなか受け付けないのである。」

これは結論の先取りという詭弁でなくてなんであろうか。著者自らが逆転した議論であることを認めている。

好意的に解釈すれば、これは結論の先取りではなく、仮説という見方もできると思われるかもしれない。しかし著者は仮説とは言っていない。実際、「機能をあらかじめ知っている。」と最初から断定しているわけで、これは仮説ではない。事実、最初からこの考えを仮説としてではなく前提条件として扱っている。

というような次第で、著者のいう「実証主義と観念論を結合する」という、あるいは「唯脳論」の行き方は、少なくともこれらの箇所、すなわち基本的な箇所では破たんしていると言わざるを得ない。

他方、脳科学のような問題の多い分野において有効な方法論を確立するためにも鏡像問題は参考になるのではないかと思われる次第である。

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