2012年1月6日金曜日

ピアノの音色について



多くの人と同様、私は音楽が好きでピアノ音楽も好きだが、もちろんピアニストでもなくピアノが弾けるわけでもない。またピアノという楽器に関わる仕事を経験したこともないし、楽器を購入する予定があるわけでもない。また、どのような意味でも音楽のプロではなく、素人としてでも音楽活動といえるような体験はなく、音楽のマニアと言えるほどの趣味人でもない。

クラシック音楽が好きだが、正直なところ鑑賞能力が高いとは思っていない。難解な曲が鑑賞できるようになるまでには相当な年月がかかった。いつまでたっても馴染めないような曲も多い。

第一耳、あるいは音感と呼ばれるものがそれほど良くないのだろう。単に耳とか音感といってもいろいろな意味合いがあるが、音痴ではないものの、和音を聞き分ける能力とか、リズムを聞き分ける能力といった高度なものから、単に聞こえる周波数範囲といった即物的なものにいたるまであまり高級な耳を持っているとは言えない。

また「耳」とは別に、精神的な集中力がないという点が致命的な欠点がある。集中力は特に音楽に関係が深いように思われる。

そういう人間であるにもかかわらず、私の中で音楽の占める重要度は相当に大きい。考え事をする時も、その中に音楽について考えることが占める割合はかなり大きいのである。もっともこういうことは断るまでもない事かもしれない。ジャンルが何であれ、一般人が切実に音楽を求めるからこそ職業音楽家が存在できるわけであるのだから。

最近はピアノの音色についてあれこれと考えることが多い。具体的にいえば、特に現代ピアノの音とフォルテピアノと呼ばれる旧式のピアノの音色の違いについてよく考える。もちろん実際の楽器の音を聞く機会はめったに無いし、特にフォルテピアノの実演を聞いたことは恐らくない。もう昔になるが、東京の何処かで開催されたベートーベン記念の展覧会を見に行ったことがあり、ベートーベンが使用したピアノを見たことがある。しかし記憶ではその演奏を聞くことはできなかった。

という次第で、当然すべて録音での話であるが、旧式のピアノを聞いた記憶は相当古くから、若い頃からあるにはある。ただ、やはり古い音だなあ、というか中途半端な音だなあという程度の印象しか持ってなかったところ、たまたま購入した歌曲のCDの伴奏でフォルテピアノの音に接した時に、その音色に魅了される経験をした。そのCDは手放してしまったが、エリー・アメリンクのソプラノ独唱、ピアノ伴奏がイエルク・デムス、そしてクラリネットがダインツァーという人の演奏であった。その、デムスが弾いていた楽器がフォルテピアノで、シューベルトとシューマンの、女声向けの優雅で優しい歌曲に実によく合っていた。ただ、この時はこういう曲には合っているなという印象をもったことと、一般家庭で使用するピアノはこういう音色のほうが良いのではないかと思ったが、ベートーベンやショパンなどの多くの名曲がこういうピアノで演奏されるべきだとまでは思わなかったし、今もそう思うわけでもない。

そんな時、別の切り口からバッハの鍵盤音楽と楽器との関係について考えるこ機会が出てきた。といってもバッハの鍵盤音楽を色々聞き比べた結果として考えるようになったわけではない。だいたい私にとってバッハはあまり馴染みやすい作曲家ではなかった。もちろんバッハの曲にも、一度聞いただけで好きになれた曲も沢山ある。ブランデンブルク協奏曲のような管弦楽曲や協奏曲はどれもそういう曲風である。フルートなど管楽器のソナタもそうだ。しかし、バイオリンやチェロの無伴奏組曲などは鑑賞して楽しめるようになるまで随分年月を要した。そして鍵盤音楽もその部類であった。

鍵盤音楽の場合、馴染めなかった理由の1つはやはりフーガの難しさである。もちろん音楽技法の知識が無いこともあるだろうが、やはり集中力のなさによるところが大きいのだろう。しかしフーガではない場合も何か抵抗を感じる場合が多かった。比較的最近になってそれはピアノの音色によるものではないのかなと思うようになったのである。それは、思い出したのはフォルテピアノの音色の魅力に目覚めた以降のことである。

平均律ピアノ曲集など、バッハの鍵盤音楽をラジオ放送などで時どき聞くことはあったが、バッハのこの種の音楽のピアノ演奏に限って何かいたたまれない寂寥感を感じていたのである。それはもしかしたら現代ピアノの音色のせいではないかと思うようになった。それで昨年、中古CDショップで平均律クラヴィーア曲集の第一巻をレオンハルトによるチェンバロの演奏で、第二巻をアンドラーシュ・シフによるピアノ演奏で、購入して時どき聞き比べてみたのである。同じ曲ではなく、片方を第一巻、もう一方を第二巻とするところなど、我ながらけちで欲張りだなと思う。

気まぐれな聴き方だが、折りを見てこの2つのアルバムを聞いているが、どうしてもチェンバロの演奏の方を聞きたくなるのである。ピアノの演奏は音色の冷たさからくる寂寥感が耐えられないようなところがある。もっと本質的な部分を聴きとるだけの鑑賞力が無いからかもしれないのだが・・・。というのもフーガをよく鑑賞することはやはり、今もできない。

もっとも、チェンバロの音色がそれほど好きだというわけでもない。チェンバロの音が嫌いだという人は多いようだが、私にもその気持はわかる。はっきり言って音量が大きくなるとガシャガシャとした音がうるさい。しかし、ピアノにない荘重さを持っていることも確かである。そして何よりも現代ピアノの冷たい音色ではなく温かみがあり、現代ピアノの演奏で聞くときの何とも言えない寂寥感が消えているといってもいい。

あの寂寥感は何なのだろうか。曲が本来持っていない内容、この場合は寂寥感がピアノの音色だけから生じるのだろうか・・?バッハの音楽との相性でそうなるのだろうか・・?わからない。またこんなことを感じるのは私だけなのだろうか?一般に平均律クラヴィーア曲集はピアノによる演奏が圧倒的に多そうである。どうもわからない・・・。

そんな訳で、現代ピアノよりも温かい音色であるフォルテピアノによるバッハを聞いてみたいと思うようになった。

そんなとき、パウル・バドゥラ=スコダ演奏のフォルテピアノによるベートーベン、ピアノソナタ全集の広告が目に入った。バッハをフォルテピアノで聞いてい見たいと思っているときで、ベートーベンをフォルテピアノで聞きたいと思っていたわけではなかったが、宣伝文につられて、めったに買わない高額のCD九枚組セットを注文してしまった。

このアルバムに関するコメントはまたいつか改めてまとめてみようと思うが、このCDを聞いてから思いついたことのひとつに、シューベルトのピアノ曲をフォルテピアノで聞けばどうだろうか、ということがある。

というのは、シューベルトのピアノ曲、ソナタや即興曲や連弾曲、その他の小品など、若い時にLPレコードでよく聞いたが、ある時期から聞かないようになった。それというのも、どの曲にも、長調の明るいはずの曲にも潜んでいるあまりにも冷え冷えとした深い孤独感に耐えきれない気持ちになってきたのである。それはもちろんピアノ曲だけではない。弦楽四重奏や五重奏曲にもいえる。もちろん歌曲にもいえるし、交響曲にも言える。しかしピアノ曲にはピアノの音色独特の寂寥感がやはり感じられたように、いまになって思うのである。当時はそういう次第でシューベルトの曲は段々と聞かないようになり、ブラームスをよく聞くようになった。ブラームスの曲もそういう要素が無いわけではないが、まだ生ぬるさというと言葉が悪いが、そういうところがあり、シューベルトの場合ほど落ち込むことはないような気がする。

こういう次第で、シューベルトのピアノ曲、つまり独奏曲や連弾曲などをフォルテピアノで聞けばどういう印象だろうかという興味が沸き起こってきた。確かに最初の方で触れたフォルテピアノによる女声歌曲の伴奏では現代ピアノには無い暖かさ、優しさが感じられたことは確かなのである。

そんな時、やはり垣間見た音楽雑誌の記事でリュビモフというロシア人ピアニストが旧式のピアノで演奏したシューベルトの即興曲のCDが出ていた事を知った。またその後訪れた中古CDショップでそれが見つかったのである。中古にしては高い方だったが、とにかくタイミングがよかったこともあり購入した。

今もあり、かつて聞いていたこの曲のLPレコードはエッシェンバッハによる演奏のもので、この曲の演奏として文句のないものであった。一ヶ所だけだが今も鮮烈に耳に残っている箇所がある。ロザムンデのメロディーによる変奏曲の最後から2番目の変奏曲の終わり、消え入るような弱音の箇所である。

今回のリュビモフの演奏は、基本的にこのLPで聞いていたエッシェンバッハの演奏とそれほど異なるという印象はない。使用された楽器の音色は解説にもあるように入念に選ばれたようで、フォルテピアノの中でも特別に美しい音色の優れた楽器が選ばれていることはわかる。ただ、この曲集全体、隅々まで行き渡っている冷え冷えとした音色はやはり、この曲集の曲想自体が持つところの本来のものだろう。フォルテピアノであるからといって、曲自体が明るく朗らかな音調になるということはないようだ。

しかし、やはり、フォルテピアノ独特の潤い、温かみというものは感じられるのであって、それは純粋な曲想に付加されたものといえる。但しそれが作曲者の意図を超えて付加されたものとは思わない。作曲者のシューベルト自身はあくまでフォルテピアノの音色を聞きながら作曲していた筈である。逆に言えば、純粋な曲想自体は作曲者の意識していたイメージとも別物であるかも知れないのである。

この音質、音色は言葉ではどう表現すれば良いのだろうか。簡単にいえば何度も言っているように温かみがあるといえることは確かである。もちろん不満もある。響きの深さ、厚み、純度、密度といったものは確かに現代ピアノの方で得られるものだと思う。

もう少し立ち入って表現してみれば、次のようにも言えると思う。何か人々の社会的な空間、といったものを感じるのである。シューベルトはいつも友人に取り囲まれて生活していたそうだが、そういう生活空間のようなものが音色から感じられるのである。それは純粋な、あるいは抽象的な曲の本質とはまた別のものであるかも知れないのだが、あくまで作曲者自身のイメージにあった音調であったに違いないと思えるのである。

こう考えてくると、バッハの場合とシューベルトの場合とは事情が異なるようだ。バッハの場合はあくまで現代ピアノの冷たい音色が余計な付加物を付け加えているのではないかと思うのである。もちろん、これは特にフーガの部分などを含め、私の個人的な鑑賞能力の及ばない広大な領域を無視した、狭い世界での印象に過ぎない。


ただ、この一文はバッハの音楽論でもシューベルトの音楽論でもなく、強いて言えば「音色と音楽」論、あるいは「音色と音楽の意味論」とでも言いたい内容と考えているので鑑賞力の不足はこの際容認されるものと思う。

楽曲の本質とは別のところで、楽器の音色自体に由来する寂寥感、冷たさというものはあるのではないかというのが一応の結論である。それが個々の曲調、作曲者による曲調によって独特の現れ方、異なった発現のしかたがあるのではないかと思うのである。

さらに、現在のピアノは音色の点でまだ変化、進化の余地があるのではないかという期待感もある。

0 件のコメント: