2013年6月7日金曜日

カント、プロレゴーメナ再読後のつぶやき

先週だったか、先々週だったか、かつて一度だけ読んだカントの『プロレゴーメナ』を再読了した。とにもかくにも通読はし切った記憶のあるわずかな哲学書の一つである。最近になってこの書を再読するきっかけとなったのは、昨年あたり、純粋理性批判を読み始め、最初の「先験的感性論」だけは何とか読み切ったものの、その後、カテゴリーの問題に入ってからは読み続けることができなくなり、そこでひとまず打ち切り、この書を再読することに決めた次第。

最初にこの書、プロレゴーメナの存在を知ったのは、かつてある私立大学文学部の夜間部に1年ほど通ったとき、教養物理の先生から授業中に勧められた時である。その先生はカント哲学は物理学にとって必須との考えだったようで、純粋理性批判は難しいのでプロレゴーメナを読むのがが良いと。ただ文学部での授業であったためにそのような話をしたので、専門の物理学や工学部の学生にはそのような話はしないのだとも言っておられたような記憶もある。

実際に読んだのは当時すぐにではなく、何年か後になってからだと記憶している。いつどこで読んだのかは記憶に残っていないが、当時の、もうかなり変色した岩波文庫本をとってみると最後まで鉛筆で線を引いた箇所がかなりあり、とにかく読み切ったという記憶には間違いなかったのだなあという感慨はあった。

その後、といっても今はもう昔、「意志と表象としての世界」を読んで、これも内容を記憶しているというわけにはゆかないが、ショーペンハウアーがプロレゴーメナを推奨していた箇所があったのだけはよく覚えている。この本は純粋理性批判の理解を著しく容易にするものであるのに、読まれることが少ない、と嘆いていたように記憶している。

ゲーテは、プロレゴーメナに言及しているかどうかは知らないが、カント哲学についてはいくつかの箇所で言及していることには気づいている。例えばエッカーマンに対して、「カントの思想はもうドイツ人の血肉になっているので、君はもう純粋理性批判を読む必要はないだろう」、「君が読むなら判断力批判を読みたまえ」というようなことを語っていたように記憶している。

確かに、現代人、世界中の現代人全体にとって、ある程度はそのようなこと、つまりゲーテがエッカーマンに語ったようなことが言えるといっても良いのではないだろうか。もちろん個人や社会や文化によって濃淡があるし、意識化の程度も大きく異なるだろうが。さらに時代の推移によって薄れていったり復活したりという波のようなものはあるだろうが。

私の場合、当時、プロレゴーメナを読んで以降、プロレゴーメナに何が、どのようなことが書かれてあったかを説明できたかというと、全くそのようなことはなかった。何が書かれていたかと問われれば、忘れたと答えるしかなかっただろう。しかし、それ以降、ある程度は無意識にも血肉になっている部分はあったといえると思っている。

先の私立大学文学部の夜間部を1年あまりでやめ、1年おいて本州の西の果てにも近い大学の一応は理科系学部に地質鉱物専攻で入学したのだが、そのころはもう科学信仰というべきか、自然科学に対するあこがれのようなものはなくなっていたのだが、それでも自然科学に対するこだわりの気持ちは結構強いものがあった。自然科学に対するカントの、あるいはプロレゴーメナの思想がある程度は身についていたのかもしれないと思う。たとえ直接カントの著作から得たものではなかったとしてもである。

せっかくここまで来たのだから、純粋理性批判を読むことを再開したいものだが、中巻と下巻は購入していないので同じ訳者のものを続けて読むか、改めて別の訳者のものを読むかを迷っている。現在あるのはプロレゴーメナと同じ岩波文庫で、訳者も同じである。最近、ここ数年の間に木田元氏の短い哲学解説書を文庫本で何冊も読んだが、この著作の翻訳について触れている箇所や文献案内もあったので、参考になるのだが、それにしても現在の訳者に対しての個人的な印象は悪くない。


翌日追記
同じ大学の同じ教授の教養物理であっても理科系での講義は文化系での講義に違いが出るというのは十分に考えられることであるし、当然のことともいえるが、さらに理科系での講義では哲学的、あるいは思索的な側面がなおざりにされるということも、当然とも、予測できることともいえるが、やはりそれはさびしいともいえるし、残念なことであるともいえる。自然科学そのものというか自然科学全体が工学的な方向に傾く傾向が続く一方であるともいえる。

どこの国でも国を挙げての科学技術奨励の風潮も高まる一方であるが、他方、一般人のあいだでは科学への不信感や絶望感も広がっている。

もちろん技術開発の喜び、それも純粋な、技術開発そのものの喜びというものはあるに違いはないが、科学そのものの喜び、というのが不適切であるとすれば、やむに止まれぬ探求というものがなおざりにされる結果に至るのではないかと思うのである。科学による自己疎外、といいながら自分でもこの言葉の意味はよくわからないが、そういうものが自然科学専攻の学習者の心の深層に沈潜するというような考えは一種の老婆心であろうか。

テレビの科学番組も事実上、殆ど新技術の紹介に過ぎない。そうでなければダーウィン礼賛を看板にした自然選択による進化論喧伝する番組化のどちらかである。事実上、珍しい生物の生態を紹介する番組に過ぎないので、それはそれで楽しめるものではあるのだが、一方で欺瞞が蔓延してゆく。

まあこんなところか。

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