2009年5月24日日曜日

科学重視、論理軽視の風潮

DNA 鑑定に絡んだ確実な冤罪事件ないし冤罪の可能性の高い多くの事件が問題になっている。そしてDNA鑑定という科学的捜査方法の用い方についての疑問や問題性が多くの方面から提起されている。

一方で現在、世界、社会一般で、また特にマスコミ関係で一種の科学ブームという傾向がある。

国際政治では「CO2による地球温暖化論」が、すでに科学的に確立された真実であることを前提として交渉や政策が進められ、それに異を唱えると「科学に刃向かうもの」という汚名を着せられる。そのCO2地球温暖化論そのものは実に大ざっぱで薄っぺらで、表面的な、中身のない論理である。

書店を覗くと、相変わらず脳科学本が氾濫している。これについては、こちらが専門家であるわけでも無く、実際に読んでもいないのでこのことにどういう意味があるのか、良いことなのか悪いことなのか、何とも分からないが、気分的に一種の科学ブームであり、科学信仰の現れと言えないこともないと思うものである。

テレビ番組でも、最近、以前は科学の番組など制作することがなかった民放でも科学の番組を制作放映していることが多くなっていることに気づく。良いことかも知れないが、一面、どうも興味本位ではないかと思われることが多い。これはNHKだが、「ダーウィンが来た」という題名の、生物の生態を紹介する番組を放送している。しかし、これは変な題名である。少なくとも題名と内容とが論理的に結びつかない。何となくイメージ的に結びつくという程度である。ダーウィンの生誕と「種の起源」公刊何十周年かの意味があるのだろうが、なにかダーウィン信仰とでもいう気分が感じられて個人的にはあまり気持ちが良くない。

テレビドラマでも最近、脳科学者を主人公か、テーマにしたドラマが放映されているのを偶然に見た。その日はすぐに終わったし、他のことを考えていたので、内容はよく見ていなかったが、これも何となくだが、あまり感じが良くなかった。ただ、ドラマではあり、批判的な問題意識はあったのかも知れない。

「ニセ科学」批判などにもそういう面がある。「ニセ科学」という造語自体に、科学を絶対化し、科学信仰の異教徒を一掃しようというような意識の現れのような印象がある。科学的ではない言説の非科学性を指摘し、必要に応じて批判する事自体は結構なことだが、現在の科学を絶対化してはいけないし、あくまで論理的に精密で、意味内容を持たなければ意味がないし、粗雑な論議であってはならない。


一般的に、科学性を前面に押し出し、それを砦とも盾ともし、その陰で粗雑で欺瞞性をはらんだ論理を展開する風潮が目立つように思う。

科学性と論理性はもちろんそれら自身、異なったものである。

論理の正しさ、緻密さ、意味内容の豊かさは、その作品自体で判断されるべきものであるのに対し、科学性は必ずしもそうではなく、多くの場合何らかの権威からの引用によって保証されているのが常と言える。

例えばある文章あるいは論文などの作品で、作者が「これは論理です」、「これは論理学に基づいています」、などと断ることはあまりなく、そういう断りがあったとしても、読者はあくまでその作品自体の論理性を判断すべきものであり、作者もそれだけで論理性を保証できたなどと考えるとすれば滑稽だろう。

しかし科学性となると必ずしもそうではないのであって、筆者が作品中で「これは科学です」などと言うことは良くあることである。これは科学そのものを権威として利用しているわけだが、宗教でも「幸福の科学」という宗教など、これと相似の現象かもしれない。

普通に考えて科学ほど論理性が要求されるものは無い様に考えられている。しかし科学は論理そのものではなく、他に様々な要素があり、科学とは何かという問題ほど困難で、しかし現在特に重要な問題はないのではないかと思えるほどである。

ただ、1つ確実に言えることがある。それは科学は専門性なしには存在し得ないということである。少なくとも現実の科学はいずれも個別科学といわれるように専門分野に所属することなしに成立することができない。そしてそれぞれの専門分野にはオーソリティーが必要である。このあたりの実情はよく分からないが、おおよそ権威のある大学で1つの科学分野として講座が確立する事が1つの条件なのかも知れない。この意味でフロイトの精神分析の歴史には興味深いものがあるように思う。

このように、科学であることの重要な要件は専門性である。個々の専門分野の中でも、細分化された分野があるのはもちろんだが、その狭い専門分野の中でも、個別の研究や成果、あるいは個別の著作か論文というものはそれ自身その分野内の一小部分である。現実の大きな問題、たとえば温暖化問題などの問題、小さな問題では個別の犯罪捜査の問題などでの例をとってみても、科学的な理論それ自身は特定の、現実の一部か、あるいは要素を概念的に切り取るか抽出したものである。

そういった専門分野内での論文といった次元ではなく、現実の問題に科学を適用、応用するという問題、例えば科学捜査がそうであり、地球温暖化問題がそうであるのだが、専門外の一般人に向けた専門科学の紹介、その価値の紹介や人生、社会全体のおけるその分野の価値を問うといった目的での著作とかも含まれるが、このように、そういう個々の細分化された科学的知見を総合して現実の問題を考察し、あるいは鑑賞したり味わったりもし、応用をも考えたり、何らかの対応や対応策の資料としたりする場合には、専門分野への参照、引用が欠かせないものとなる。これは結局権威に頼るということなのである。この面では科学といえども、結局は信頼、信用に支えられているのであって、そのことはよくよく自覚する必要があると思うのである。ところが、それが絶対的な信仰にまでなることがあり、また権威筋の方でも信仰されることを要求することもあるのである。

宗教の場合は信者はそれが信仰であることを自覚している。しかし科学信仰の場合は信じる方がそれが信仰であることを自覚せず、また逆にオーソリティーの方から信仰を強要するような場合もありえるのである。

こういう、科学を盾とし、砦として利用し、その陰で論理を鈍化させる傾向が、一部のマスコミ、一部の政府筋、一部の大学教授の科学者など、どちらかというとオーソリティーの側に見られることが問題なのだ。

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