2017年5月7日日曜日

鏡像の意味論その19 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(2 - 続)― Gardnerの誤謬 ― 対掌体と鏡面対称の違い

以下、前回にそのまま続きます。

【今回のポイント】
  • 鏡面対称と対掌体対とは明確に区別しなければならない

ところで、Gardnerの主張の矛盾は何に由来するのでしょうか。この矛盾はよく考えると非常に重要な問題であることに気付きました。まずこの矛盾を整理してみましょう。

次の三段論法が成り立ちます:
(1)鏡面対称の2つの立体は互いに対掌体である。
(2)対掌体の対は任意の1方向で互いに逆転していると見られる。
(3)故に鏡面対称の対は任意の1方向で互いに逆転していると見られる。

 鏡面対称の図は「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させるので、鏡映対は鏡面に垂直な方向で逆転が認知される」という高野陽太郎先生の説:Takano(1998)のTypeⅢの根拠となっているものですが、「任意の1方向」と「鏡面に垂直な方向」は明らかに異なります。実際、可能性としては鏡面に垂直な1方向以外のいかなる方向でも逆転が認知される可能性はあるはずです。やはり「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させる」という表現と主張におかしいところがあるのではないでしょうか?

上記の三段論法の帰結である「任意の1方向で互いに逆転していると見られる」が光学プロセスの帰結であるとすれば、「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させる」も間違いとは言えないように見えます。しかし、後者の表現では、鏡面に垂直な方向以外の任意の方向で逆転しているとも見られる可能性が覆い隠されているとは言えないでしょうか?

見方をかえると、鏡面対称の状態であるということは、鏡映対が互いに対掌体であるという条件に加えて鏡面対称であるという両者の位置関係の状態が付加されているということができます。この位置関係というのは表現が難しいですが、両者の「特定の方向軸が鏡面に垂直な方向で互いに逆転している」というように表現できると思います。この方向軸という概念が座標系の座標軸と紛らわしいのですが、少なくとも数値座標を表すものではない限り座標軸と呼ぶ必要はないし、座標系を想定する必要もないと考えるものです。単に方向を示す軸と考えていただきたいのですが、この「特定の方向軸が鏡面に垂直な方向で互いに逆転している」という場合、鏡面の両側の各像が互いに鏡面に対して垂直に特定の方向軸で逆転しているといえます。実はこの問題を述べたのが本シリーズ「鏡像の意味論 ― その6」で、イラストを使って説明していることなのです。

結論は、鏡面対称の状態は、対掌体の対が互いに特定の方向軸で逆転している、すなわち向かい合っている、あるいは対面状態にあるということです。対掌体の対はそれだけでは互いの位置関係については何も規定されていません。例えば自分の左手の上に右手を重ねたような状態は鏡映関係ではあり得ないのですが互いに対掌体の形状であることに違いはありません。ですから対が互いに対掌体であることと特定の方向で向かい合っているという鏡面対称の状態であることは全く異なる意味、あるいは条件ということができます。対掌体の対が特定の方向軸で互いに向き合っている場合、本来どの1軸で(方向)形状が逆転しているとも見なせるわけですから、当然この方向での逆転が認知されて不思議はありません。特定の方向軸の逆転という意味では、このような状態は鏡像が存在しなくても日常的に無数にあるのです。早い話が、二人の人物が互いに向かい合っている状態がこの状態そのものです。Takano(1998)のTypeⅢに似た例でいえば、横並びの人物像の一方のが鏡像ではなく別人が後ろを向いていたり、こちらを向いていても逆立ちをしていたりした場合、両者の左右は逆転しているので左右が逆転していると言えます。つまりTypeⅢで左右が逆転して見えるプロセスは鏡像であるかないかとは関係のないプロセスなのです。確かに一方の人物像が他方の人物像と同じ上下と前後を向きながら左右が逆転しているのは一方が他方の鏡像であるからですが、この場合一方が他方の鏡像であることが分からなければ、両者で左右の逆転に気付くこともありません。

以上のように、Takano(1998)のTypeⅢの「光学反転」もTypeⅠおよびTypeⅡの場合と同様、鏡像の問題を事実上放棄したにも等しいといえるのではないでしょうか。

余談になりますが、このように鏡面対称と対掌体は区別すべきで、紛らわしい使用法は避けた方が良いのではないかと思います。例えば化学では鏡像異性体というような用語がありますが、こういう用語はあまり適切ではないのではないでしょうか?

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