2017年5月28日日曜日

鏡像の意味論その21 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(4)― 鏡像認知の空間と座標系の概念

【今回の要点】
  1. 鏡像認知は座標系の概念と深い関係がある
  2. これまでの座標系を用いた解析方法を使用した理論は何れも鏡像認知の側面が欠落している
  3. 鏡像認知は鏡面という平面の認知から始まる
  4. 平面の認知は線や長さなどと同様に幾何学的な思考によるもので、鏡像認知空間は現場で直接見ている視空間ではなく幾何学的思考空間内で行われるが、この幾何学的思考空間は等方的である。 
  5. 像(イメージ)は、したがって幾何学的な形状も、思考空間の中で自由に動かすことができる。これは思考空間の等方性の一つの現れである

ちょっと前置が長くなりますが、
道具としての鏡はかなりの昔から世界中で作られていたことは確実です。それはつまり、鏡は今も昔も最初からその機能を目的に使用されていることが分かります。たいていは自分の顔を確認するためですが、見たいアングルで映るように、鏡面に垂直な方向に、適切な距離に持ってきます。この点で、鏡を見る前にすでに、鏡像認知のプロセスは無意識的ですが完了しているわけです。しかしそうでない場合もあります。街中や始めて入った建物の中などでいきなり気がつかずに鏡に遭遇して、自分自身の鏡像を他人と勘違いすることもなきにしもあらずです。もちろん周囲の光景についてもそれが言えます。うっかりすると、透明なガラスでは結構あることですが、鏡に体をぶつけるような事故もなくはありません。私自身もそういう経験があります。いずれにしても鏡像認知という、鏡像を鏡像として認知するプロセスは自己鏡像の場合に限らず、また意識的であるか無意識的であるかに関わらず、必ず存在します。

 鏡像認知を可能にする鏡映対が成立し、鏡映対の比較を可能にする空間
前回の記事で、鏡像認知のプロセスは他者鏡像の場合には消去できる旨を説明しましたが、それは鏡映反転のプロセスであって、全体としての鏡像問題、自己鏡像の場合を含めた鏡像問題一般に共通する問題として鏡映反転の認知に先立つ鏡像認知のプロセスを欠かすことはできないでしょう。自己鏡像の場合に特有の鏡像認知問題はこのさい留保するとしても、すべての場合に共通する鏡像認知プロセスは、つまるところ他者鏡像の鏡像認知プロセスそのものとして差し支えないでしょう。すでに述べたとおり、自己鏡像の認知プロセスは他者鏡像の認知と鏡映反転から類推する他はないわけですから。自己鏡像の鏡映反転を説明できたと主張する高野陽太郎先生のType 1の場合にしてもその検証は絵を描いて、しかもその決め手には片方の腕時計という、身体の自分でも見える部分に付けたアクセサリーを使用しています。実際のところ、自分であっても頭部以外の身体の殆どはかなり、直接見ることができるわけです。自己鏡像の鏡映反転と言っても、少なくとも鏡像認知のプロセスでは実質的に他者鏡像の鏡像認知を流用しているに過ぎません。

さて、動物には鏡像認知が存在しないことはまず確実ですが、それは普通に知能、具体的には思考力に基づいていると考えられます。とはいえ、どんなに知力の優れた人物であっても、一定の条件がなければ鏡像認知は不可能だし、さらに鏡像認知が成立するにはそれを可能にする空間的枠組みが不可欠でしょう。

前回の結論の一つとして、鏡面に対して面対称である立体像の対、つまり鏡映対を認識することが鏡像認知の始まりであると言えるわけですが、鏡面対称の認識を可能にする対称面は即、鏡面であり、言葉が同じで混乱しますが、現実の鏡面、すなわち鏡や静かな水面のような表面反射する物体の表面の存在を認識することが前提になっている訳です。この表面という概念は幾何学的な平面そのものであって物質的なものではなく、厚みを持たない抽象的な平面です。これは端的に言って一つの抽象的な概念であって、少なくとも人間以外のいかなる高等動物もこんな概念を持つことは不可能に違いありません。これはもう幾何学的思考の始まりです。鏡像認知はそれ自体が幾何学的思考によるものです。この鏡面に対して反対側に同一と見られる距離に同じ特徴をすべて備えた対になる像を想定することが鏡像認知であるとすれば、これはもう私たちが直接知覚する視空間とは別の空間といえます。

例えば鏡の前で身繕いなどしているあなたの背後にだれかが現れた場合、当然その人物は鏡に映って見えますが、その人物を直接見るには後ろを振り向かねばなりません。この場合の鏡像認知空間は完全に、あなたの思考と構想力によって構成された空間であることが判ります。鏡の前の他人の姿を直接見ると同時にその人の鏡像をも見るような状態(例えば高野説のType3)はかなりこの鏡像認知空間に近いと言えますが、鏡面の存在に気が付かなければただ似た人物が並んで見えるだけで鏡像認知はなく、したがって鏡映反転の認知もありません。

この空間は座標空間とも言えます。 表面なら視野の中には鏡面以外にもいくらでもあります。鏡が裏返っていれば裏面が見えるだろうし、ガラス板があればその表面も認知は可能だろうし、他にも光沢のある平面や光沢のない平面はいくらでもあります。その中で鏡面の両側に同一距離で同じ特徴をすべて持つ立体像を認知することは鏡面を特別な意味を持つ表面として特別な意味を与えられている訳で、これは単なる感覚的な知覚ではないからです。

この空間は触覚で認知される触空間とはもちろん、視空間とも異なり、両者を含めた知覚空間、直接知覚されるのではなく概念で構成された思考空間です。ですから感覚的に認知できる位置や方向とは関係なく、紙の上に図を描いて再現することもできるわけです。そのために絶対的な位置や方向は無意味で、位置や長さや方向はすべて相対的であり、一つの点の位置を特定する場合には座標系が必要になります。その座標系は普通x、y、zの軸で表され、紙の上では各軸の正負の方向も規定されていますが、これらはすべて便宜上の約束事に過ぎません。ですから、正負の方向も相対的であるといえます。

思考空間のこのような性質を等方的(Isotropic、Isometric)な空間と表現したのは恐らくMachが最初なのだと思います。個人的にそこまで文献的知識がないので恐らくというほかないのですが。さらにこれを認識論的に位置づけたのがカッシーラーであると考えています。

この鏡像認知空間のなかで鏡映対が比較される際のメカニズムについては件のテクニカルレポートに詳しく分析しているので、そちらをお読みくだされば幸いです。そこではこの座標系、つまり鏡像認知空間の座標系しか使用していませんが、従来の諸説ではこのような座標系よりもむしろFixed reference system、あるいは固有座標系などの概念が使われています。この問題については改めて検討したいと思います。
(2017年5月28日 田中潤一)

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