2019年6月10日月曜日

象徴的なものと言葉たち ―(1)血の象徴性―その3、血統、血筋、血脈と『赤い糸』

赤い糸』という表現は辞書にも出ておらず、熟語というよりも慣用的な表現というべきでしょうが、象徴的な表現という意味で『血統』や『血筋』と比較したり親近性を考察することはできます。この言葉は、普通にはもっぱら男女の運命的な繋がりを意味する象徴的な表現として使われていることは言うまでもありません。しかし本来はもっと広い意味で自由に使われてきた表現であって、例えば昔読んだ本ですが、音楽学者の山根銀二はベートーベンについて書いた著書の中で、英雄交響曲と第五交響曲、および第七交響曲の三つが一本の赤い糸でつながっている、というような表現を使っていたことを記憶しています。

この赤い糸という表現が語源的にはどうであれ、イメージ的に血統血筋、および血脈と近い関係にあることは明らかでしょう。前回記事のとおり、血筋という言葉は日本語の古語としては本来的に血管を表すものであったことを考えて見ると、赤い糸はイメージ的には血統よりも『血筋』に近く、意味的には、本来的に精神的なつながりを表す『血脈』の方により近く感じられます。

いずれにしても、赤い糸は明白に象徴的な表現であって、一般的にも詩的ともいえる 表現として理解されているように思われます。それに対して血統血筋はもはや象徴的な表現であるという印象はなく、特に血統 ― 個人的には英語のblood lineに由来するのではないかと思えるのですが ― には殆ど象徴性は感じられず、むしろ即物的な印象が持たれます。

血統を、動物も含めて一般的に、具体的に表現するとすれば、個体間の雌雄の掛け合わせとその子孫を繋ぐ系図として表現するしかないので、そのまま言葉で表現するとすれば著しく冗長で複雑な表現になってしまいます。そもそも家系とか系図と言われるものは個体生命の発生を時間的な系列の中で示すものであって歴史の範疇に属すものです。このように血統という概念自体、極めて流動的な意味合いを持つ概念であると言えるでしょう。

現実に、例え親子であっても血管がつながっていたり、同じ血液が流れていたりすることはありえず、胎児の場合も決して血管で母親と繋がっているわけではありません。してみれば、血統という言葉も赤い糸と全く同様に、象徴的な表現であることに変わりはないのです。

とはいえ、 血統、特に親子関係についていえば、血液検査で決定できるものではないにしても、ある程度は参考にできることは確かです。そういう点で、血統血筋などは赤い糸などに比較して象徴性のレベルが異なるということは言えると思います。逆方向で言えば即物性のレベルとも言えるかもしれません。

以上のように、血のような人体あるいは肉体的な構成要素の名前を用いた象徴的表現を考察することには独自の意義が感じられるように思われます。

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