2019年9月3日火曜日

科学、科学主義、唯物主義、個人主義、および民主主義をキーワードとして日本の戦前・戦中・戦後問題を考えてみる(その5)― プラトン『国家』の視野と個人主義

 あまり後のことも考えずにこのようなシリーズ記事を書き始めてしまったこともきっかけとなって、三十年以上にわたって積読していたプラトンの『国家』を一応一読しました(中公世界の名著『プラトンⅡ』)。全訳ではなかったので、いつか省略部分も読んでみたいものですが、読了した部分にしても甚だ消化不良なので、とりあえず、この時点でこのシリーズ記事との関連で気づいたことだけでもメモしておくことにしました。

 プラトンは、責任編集者の田中美智太郎によれば「思考実験」において、<知恵>が支配する<理想国>から、堕落してゆく段階に従って<軍人優位の、名誉を志向する>国家、<寡頭制>国家、<民主制>国家、および<僭主制>国家を想定し、それぞれの制度に対応する典型的な性格の人間像を分析しているわけですが、民主制国家に対応する民主制度的な人間像は、まあ今でいう民主主義者にだいたい相当すると言ってよいかと思います。その民主主義的な人間像の分析は、他の制度の人間分析とともに、やはり非常に当を得て興味深いですね。

 プラトン時代のギリシャは実際に民主制であったと言われますが、やはりプラトンによる民主制と民主主義的人間の分析の視野には、個人主義は少なくとも明示的には入っていないように思われました。もちろんそれは当然で、個人主義は、私の常識的理解でも「封建制度の崩壊と資本主義の発達を背景としてひろく行われるようになったもの」(岩波小辞典・哲学、1958年)という感じでしたが、他の手近にある解説書なども参照してみると、結構ソフィストなど古代ギリシャ時代の哲学諸派も個人主義の例に挙げられていたりします。しかしウィキペディアによると個人主義、individualisme という言葉自体は最初にフランスでできたもので「もともとは啓蒙主義に対する非難を意味する言葉であった」とのことですから、やはり封建制度の崩壊後にできた言葉なのでしょう。ですからそれ以前に個人主義に相当するものがあったとしても、区別して考えるべきでしょう。こうしてみると、古代ギリシャの個人主義、現代の個人主義、そしてプラトンの考える民主制や民主主義的人間像を対比的に考えて見ることは意義深いものになりそうな気がします。

 一方、日本語で「個人主義」をネット検索してみると、夏目漱石の『私の個人主義』が最も頻繁にヒットするようです。日本語の個人主義論としてはこれが代表的な作品になるのかもしれませんね。

 いずれにしても、民主主義にしても個人主義にしてもそれら自体を全面的に考察するとなると、私のような若くもない一般人にとってはどうしようもないので、今後はシリーズタイトルの目的に即して何らかの切り口か糸口になるようなアイデアがみつかれば拾い集めて行こうかと考えています。

0 件のコメント: