2019年5月12日日曜日

個人主義、民主主義と民主制 ―― 科学、科学主義、唯物主義、個人主義、および民主主義をキーワードとして日本の戦前・戦中・戦後問題を考えてみる(その2)

確かに、民主主義という言葉とその概念には問題があるように思われる。例えば、最近あるウェブサイト ― 教えられるところの多いウェブサイトではあるが ― では次のような表現が見られる。「私、副島隆彦は、×「民主主義」というコトバは、使わない。× デモクラティズム  democratism というコトバはない。」。

確かに、有名な辞書にdemocratismという言葉は見つからない。しかしWebを検索してみるとこの言葉は現実に使われていないわけではない。意味付けについてはいろいろ問題がありそうだし、日本語の民主主義に相当するのかどうかも問題があろうが、権威ある辞書に載っていないというだけでその言葉が存在しないとは言えない。ましてその言葉で表現されている概念まで存在しないとは。

確かに、「Democracy」を「民主主義」と訳すのは不正確であると思う。 「制度」は「主義」、言い換えると「思想」ではないからである。しかしだからと言って日本語で「民主主義」と表現される概念が「ない」とは言えない。民主制という「制度」 ― Wikipediaを見ると英語では"System”と表現されているが ― はそれなりの人々の思想、希望、意志、心情、心性、あるいは欲求の反映であり、そういう心理的なものに支えられているのだから、民主主義という言葉で表現される概念はあるはずである。個人主義がその大元にあるように思われるが、個人主義がそのまま民主制の根拠となるわけでもないと思われる。

簡単に言って、個人主義と民主制の間に民主主義が介在していると考えれば、あるいは『個人主義⇒民主主義⇒民主制』という系列または順序を考えればわかりやすいのではないか。個人主義と民主主義との関係を多面的に考察することで実り多い成果が得られるような気がする。

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