2008年8月1日金曜日

意味と構造、文法と意味、形式と内容 ― 「チベットのモーツァルト」(中沢新一著、講談社学術文庫)と「言語の脳科学」(酒井邦嘉著、中公新書)を読んで。

1.続けて読んだ「チベットのモーツァルト」と「言語の脳科学」の感想。

電車の中で読む本として適当に選び、続けて読んだ表題中の2冊の本は、どちらのも読む前には多少抵抗のあった本だったが、見かけ上きわめて対照的な文章でありながら重要な点で共通する部分のある問題をあつかった本でもあり、両者を併せ読んだことによって自分なりにかなり重要な発見に導かれたように思う。そのテーマは、一言で言えば、また最も抽象的な表現で言えば、「形式と内容を分けるということ」についての問題といえる。

初めの中沢新一著、「チベットのモーツァルト」に関して言えば、著名人といえる著者自身についてと、この書物の評判について多少は知っていたが、具体的にこの本がどういった内容を取り扱った本であるかは、読むまでは全く知らなかった。読み始めてみて、象徴詩の翻訳のように難解な比喩の連続からなる文章で執拗に「意味」について、意味そのものについて述べられていたのがもっとも印象に残ったと言える部分である。そういった難解な比喩の一部は、取り扱われているフランスの学者の言葉に由来しているらしい。私自身はそれらのフランスの学者達の書物、構造主義やポスト構造主義の著作に多少挑戦しようと思ったことはあったが、殆どどの本も読み通すことができずに置き去りにしてきたことを思い出さざるを得なかった。それはともかく、とにかくこの難解な比喩の羅列自体を、そのどのセンテンスにしてもその言葉に即して理解できたとは思わないが、全体の字面を追って読み通すことで、多少は「意味」そのものについての何らかの理解というか、把握というか、印象というかが深まったような気はしたのである。ここでの意味は言葉の意味とか、音楽の意味とか、あるいは単語の意味とか、センテンスの意味とか、多少具体的なものでなく、最も抽象的な意味での意味そのものだろう。

この本については当面これだけのことしか言えないが、この本に続けて次の酒井邦嘉著「言語の脳科学」(中公新書)を読んだことで、後者の扱う言語学と脳科学との関わりにおける中心的な問題と思われる文法と意味、あるいは形式と意味という問題について、自分なりの理解が進んだように思われた。

こちらの方は非常に分かりやすい言葉で、分かりやすく書かれた本である。しかし分かりやすいだけに表面的なにおいもする、というか、ごまかされたような気もしないではない。まず「言語の脳科学」という表題が正確な意味で分かりにくい。せめて副題でも付けて、もっと具体的な説明となる表現にして貰いたいものだと思う。ここで『言語の』が『脳科学』に付けられた修飾語であり、脳科学が基本的なテーマであることは分かるのであるが、『の』を所有格の『の』と見なすことも出来ない。これではあまりにも漠然としている。こういう表題の曖昧さは読者の本の内容への理解にも影響を与えるものだと思う。

本体の内容においてもそういう事が言える。分かりやすい言葉で書かれている変わりに、結果的に解ったようにも思える一方で、あるいは騙されているのではないかというような感じが残るのである。著者に意図的に騙されたようなという訳ではなく、分かりやすい言葉のもつ本質的な曖昧さ、不完全さが露呈している印象である。具体的にいうと、本来、眼に見えるものに対して使う平易な言葉が眼に見えないものに対して使われ、人格すなわち心を持つものに対して使われる言葉が物質や機能に対して用いられる。後者は要するに擬人化である。どちらも日常、科学を問わずごく普通に用いられる言葉の用法には違いはないが、それが脳科学や言語の問題を取り扱うようになると、そういう用語の持つ問題が増幅されてくるのである。

この点で「チベットのモーツァルト」と比較してみる事は興味深い。「チベットのモーツァルト」は、著者の個人的な体験あるいは著者の理解した他の人類学者、哲学者、詩人等の思想をその意味体験そのものを難解な比喩を使って表現したもので、難解ではあるが、表そうとしているのは著者の体験した意味そのものであることが伺えるのである。それに対し、「言語の脳科学」では著者の直接体験ではなく、脳という客観的な対象ではあるが、殆どブラックボックスとも言える対象を外部から、眼に見えるものに対して使う平易な、あるいは単純な言葉、概念を用いて内部のメカニズムを想像し、仮説を立てようとしている、といったところだろうか。また言語という、やはり眼に見えないものであるが、本人の体験からは独立したものを外部から眼に見えるもの、物理的なものに対して用いる分かりやすい言葉で分析しようと試みていると言えるのである。

一言で言って、現在の脳科学における言語に関わる部分と、それに関わる限りでの言語学の状況を、矛盾に満ちた現状そのままに分かりやすく提示されたと言う印象である。但し、これまでも脳科学に関する文章に接する際に、大抵の場合に抵抗として感じられる、特有の言葉の使い方がここでも大いに気になるのであり、個人的にはその抵抗を解明する必要を強く感じるのである。


2.言葉を文法と意味とに分けるということについて

「言語の脳科学」の中でキーポイントとなる章、部分は言語が文法と意味とに分けられるという問題を論じた第三章「言語はどこまで分けられるか」だろう。

「分ける」という表現をもちいる場合、普通の物体を分けるのなら、ただナイフで切り分ける場合もあれば、化学分析で成分を分ける場合もある。その意味は全く異なったものであり、技術的な困難さもまた異なる。また対象が生き物で、それが高等動物であれれば、頭と身体を切り分ると死んでしまい、もはや生き物ではなくなる。下等動物や植物では切り分けても再生する場合がある。

現に、この第三章、「言語はどこまで分けられるか」には次の様に書かれている箇所がある。「統語論・意味論・音韻論を言語の三要素として考えることにしよう。」ここでは言語には「論」がついていないが統語と意味と音韻には「論」がついている。つまり、ここでは言語学あるいは言語に関する考察を統語論・意味論・音韻論に分けて考察するということと、言語そのものが統語と意味と音韻とに分けられるという可能性とがすり替わっているのである。

文法と意味とを分けると言うが、分けるとは具体的にはどういう事だろう。ある文から文法構造を抽出することはできる。しかし文法構造を抽出して残るはずの意味は何処に残っているのだろう。水を酸素と水素に分解するようなわけにはゆかないのである。ある文から文法を抽出することはできても、意味の方は抽出することはできない。これを「分ける」と言って良いものか。確かに文法と意味とを分けて考えることはできるかも知れない。しかしある具体的な文を文法構造と意味に分けることはできない。

何故言語から文法を取り出すことができるかと言えば、文法それ自体が意味と形式を備えたものであって、それ自体を言語で表現できるからである。それに対し、意味を取り出すと言ってもそれ自体を意味と形式を備えた言語で表現しない限り、「これが意味です」と言って意味だけを示すことができない、つまり文章の意味(名詞の単語の場合は別の考え方をしなければならないが、当面は文)を言語で表現すると、自動的に文法を備えた文、すなわち元の文章そのものにならざるを得ないからである。ということは、文法の方は形式であると言っても、それ自体意味と形式とを備えているために、それを言語で表現できるからに他ならないのである。文法は主語とか、動詞、目的語、といった抽象的なあるいは機能的な意味を持つ要素の構造であり、それ自体が意味を持っているし、構造そのものも 1 つの意味と言えないこともない。

要するにこれは、無理に例えると、容器中の液体のようなものかも知れない。もちろん容器が文法で、容器の形を持った液体が意味である。器によって形を持った意味が捉えられる。

もう少しこの比喩を推し進めてみたい。例えば無色透明なワイングラスに赤いワインが注がれているとする。ワインはグラスの形に従い、美しい色と形を持った一体のものとして眼に見える。しかし、無色透明なワイングラスも眼に見えないわけではない。ワイングラスも中のワインと同じように物質で出来ている。酸素が重要な主成分であることもワインと変わらない。要するにワイングラスもワインに形を与える形そのものではなく、ワインとそれほど変わらない物質で出来た物体であり、ワインが液体であるのに対し、それが固体であることだけがその違いである。文法もそういう意味でワイングラスの様なものということが出来る。文法自体が意味で形作られているのである。

このように、言語から文法を分けて論ずると言われることは、言語から文法を取り出す、あるいは抽出するという方がまだ適当だろう。しかし、それでも、言語から文法を抽出したとして、その残留物には文法がもう含まれていないわけではない。文法を抽出された元の言語は依然として元のままである。要するに言語を意味と文法とに分ける事は出来ないのである。ということは、言語から文法を抽出するという言い方も、分けるという言い方と同様、誤解に導かれる表現なのである。

物質とは限らないが、普通一般のものは、その一部を取り分けたり、化学分析のように成分を抽出したりした後には取り出した成分が残らないのが普通である。それに対し、いくら取り出しても、何度取り出しても、減りも無くなりもしないものが有る。情報、知識、意味等の言葉で表されるものがそうである。

ということで、文法それ自体も言葉そのものと同様、意味を持つものだと思うのである。但し、「意味を持つ」という言い方も、これまた比喩であり、誤解に導かれることを避けることがむずかしい。

文法も含め、言語は意味を持つというよりも、意味を表現するものなのだ。意味は言語の成分ではなく、言語によって暗示され、表現されるところの、言語とは全く別のものなのである。

実は今、カッシーラーの「シンボル形式の哲学第一巻」(生松敬三、木田元訳、岩波文庫)を読み始めたところだ。これもまた難解な書物だが、ちょうど4分の1ほど読み進んだところに次の様な記述がある。

「プラトンにとっては語の物理的・感性的内容がイデア的意義の担い手となるのであるが、意義そのものはやはり言語の枠内につなぎ止められるものではなく、言語の彼岸にあるものだ」

実際、言語作品にしても音楽のような芸術作品にしても、高度なものは一度や二度くらいの体験では解ることが出来ない場合が多い。何度読んだり聞いたりしても、最後まで解らない場合もある。しかし意味が無いのではなく、解る人には解るのである。

こうしてみると、「心を持つ機械を作る」などという発想が如何に現実離れした無謀なものであるかということが思い知らされるのではないだろうか。

この本で「分ける」という表現と並んで気になる表現に「処理する」という表現がある。例えば、脳のある部位が文法を「処理している」とか、意味を「処理している」というような表現で、一般に脳科学などでは頻繁に使用される用語である。こういう表現の始まりは情報科学、コンピューターサイエンスなどで盛んに用いられる情報処理ということばだろう。コンピュータは情報を処理する機械とされている。私の考えでは、コンピュータ-そのものは情報の処理などはしていない。人間がコンピューターという機械を使って情報を処理しているだけである。

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