2013年7月2日火曜日

「知る」と「認識する」

「嘘を知る」という表現はあまり聞かない。「嘘であることを知る」とか、「嘘だったことを知る」とか「嘘の内容を知る」というような表現はありうる。

しかし、「嘘を認識する」という表現はありそうだ。だいたい「嘘であることを認識する」というのと同じような意味になりそうである。

一方、「真実を知る」という表現は問題なくよく使われる。「真実を認識する」という表現も問題ない。

では、「虚構を知る」と「虚構を認識する」ではどうだろう。「虚構を知る」とはあまり言わず、言うのであれば「虚構であることを知る」という表現になるだろう。それに対して「虚構を認識する」はそれ程不自然ではなく、「虚構であることを認識する」と同じような意味にとられるのではないだろうか。

最後に「錯覚」または「幻覚」あるいは「幻影」のような言葉の場合はどうだろうか。

「錯覚を知る」とはあまり言わないが、「錯覚を認識する」とは心理学などの文章ではよく出現しそうである。しかし、こういう表現になるとかなり多義的になってくるように思われる。これは「錯覚そのもの、錯覚の内容を認識する」ようにもとれるし、「錯覚であることを認識する」ようにもとれる。「幻覚」でも「幻影」でも同様。これでは全く反対の意味になる。日本語であれ英語であれ、どの言語にも共通して言えることであると思う。

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