2008年4月21日月曜日

最初に、

三つの出会い、あるいは契機

ⅰ意味論

大学時代、最初に購入した論理学の教科書「論理学概論」(近藤洋逸、好並英司著、岩波書店刊)は、途中までは何度か学習したものの、拾い読みは別にして、最後まで読み通すことは今に至るまで無かったのだが、末尾に掲載された多数の文献集は何となく眺めたことが何度かある。その多数掲げられた文献集の最後の数行に意味論の文献紹介があった。それまでに掲げられた文献に比べると極端に少ない。少ないだけではなく「その他」のカテゴリーに含められ、さらにその最後の数行なのである。その部分は次のようなコメントで始まっている。「本書では省略した意味論(記号論)に関するものを挙げておく」。そして数冊の英語の書物のリストで終わっているのだが、その中に一冊だけ翻訳されているものが紹介されていた。
Langer., S. K. : Philosophy in a new key,(1957) (矢野・池上・貴志・近藤訳:シンボルの哲学 岩波書店)
この本は大学時代に一通りは読み通した数少ない哲学書の一つになった。

この論理学教科書の本文では、前書きも含め、意味論という言葉は一切出てこない。「意味」は索引では一度だけ出てくるが、その箇所は、冒頭のページで「内包または意味という」というフレーズだけであった。その後は全て「内包」が用語として使われている。

末尾の文献集で「本書では省略した・・・」と書かれている以上、本来は意味論も論理学に含まれるべきものであることが暗黙のうちに了解されるのであるが、それにしては本文で全く触れられることがないというのはどういうことであるのか、当時はそれほど意識して考えた記憶はないがが、後になって考え込んだことがある。これは授業でも同じことであって、実は大学教養課程での論理学の講義を受けた経験は、教養課程一年だけで中退した大学を含めて二回あるのだが、どちらの場合も論理学の授業中に意味論に言及されたことは全く無かったのではなかったか、と記憶している。

しかし当時、上記「シンボルの哲学」を購入して読んだということは、たまたま入手しやすい翻訳本があったことも理由ではあるけれども、やはり私は当時から意味論に惹かれていたらしい。この本の末尾の方に著者が影響を受けた学者を何人か列挙している箇所があった。そこにはショーペンハウアー、ニーチェ、フロイト、カッシーラーが含まれていた(今手元に本がないので確認できないが)様に記憶している。これらの人物の著作も、私がこれまでに読んだ、本当に数少ない哲学書 ― フロイトの場合は哲学書ではないのかも知れないが ― に含まれている。カッシーラーはこの本で触発されて読んだのかも知れないが、その他は必ずしもそうではないと思う。私は常に意味論につながるような傾向には相性が良かったのかも知れない。

とはいっても、専攻していたのは哲学でも心理学でも言語学でもなく、地質鉱物科学だった。その地質鉱物学の勉強に際しても、どうも勉強の要領が悪く、色々と余計なことが気になった。とくに言葉の問題 ― 具体的には覚えていないが ― が気になることが多く、将来、科学と言葉の問題について専門的に考えてみたいと思うようなこともあったが、職業的にそういうことが実現できる可能性もなく、色々と迷い続ける間に時間が経過し、卒業、就職という時期を迎えることになった。

1990年代初め、あまり科学技術とも思索とも関係のない、時間ばかりを消耗する仕事を続けていた時期に当たるが、それでも散発的に買い求め、殆ど積ん読状態になっていた本の中に、意味論に該当する、少なくとも二つの書物があったのを今取り出してきて、最初から読み始めたり、拾い読みしたりしている。ひとつはウンベルト・エコ著、谷口勇訳、「テクストの概念」。もう一つは雑誌「imago」の「認知心理学への招待」特集号。後者は拾い読みで終わりそうだが。


ⅱゲーテ

大学時代の鉱物学主任教授が、口癖というほどではないが、よく口にされていたフレーズは「科学は人間性を疎外しますからね・・・」というものだった。この言葉は私にとって理解のある有難い言葉に思われたが、必ずしも専門の学業に励むための激励の言葉にはならなかったかも知れない。そのことはともかく、その先生はゲーテのファンであった。また、ショーペンハウアーを偉大な哲学者として評価する人でもあった。
私は、当時はゲーテの科学に関わる文章を読むことはなかったのだが、ずっと後になって、どういう訳か、当時やっていた仕事が不景気で暇になってきた頃にゲーテの色彩論その他を読むことになった。ちょうどその頃、岩波文庫版のゲーテ色彩論が再版されていて、書店で見つかったからかも知れない。これとそれ以外に他社から出されていたゲーテの科学論文のアンソロジーなども少しは読んだのだが、これらを読んだことは重要な体験となった。。

ゲーテ色彩論でゲーテが特に口を酸っぱくして述べているように思われたのは、特に科学と言葉との関係であるように思われた。岩波文庫版の色彩論ではゲーテの色彩論そのものについての文章はそれほど多くを占めてはいなかったように思う。

言葉は全て比喩であるのに、近代科学では比喩が定義という形で固定化されて一人歩きするようになったことによって問題が生じてくる、というのが大ざっぱな要約といえるかも知れない ― 私の勝手な要約だが。

当時時々行くことのあった日比谷図書館に古く大部なゲーテ全集があって、ある時、科学論集を含む巻もあったのをのぞいてみた。それにはハイゼンベルクがゲーテの科学について述べた文章が収められていた。その巻の解説には、ハイゼンベルクはゲーテの科学論文をひもとくことによって不確定性原理を確立する一つのきっかけとなったのだ、といったことが書かれてあったが、そのハイゼンベルクの文章そのものにはそういったことは何も書かれていなかった。むしろゲーテに対する批判になっていると見られる箇所も多いように思われた。少なくとも単純にゲーテを礼賛しているわけでは無かったが、しかし、遠い将来にはゲーテが望んでいたような科学が行われる時代が来るのだというニュアンスをにおわせることによってゲーテの科学を支持するとも言える内容になっていたといえる。少なくとも当面はゲーテが望んだような科学ではなく散文的で退屈で数学を駆使した骨の折れる精密科学に精を出さなければならない時代が当分は続くのである、と。これを見るとハイゼンベルクは科学を固定的に考えていなかったことが分かる。古代には古代の科学があったし、未来には未来の科学がありえる。ゲーテにはゲーテの科学があった。現代は近代科学、あるいは現代科学の時代である――ここでは精密科学という表現が使われていたが。もちろん科学は真理そのもででもないし、どんな科学にも間違いはありえる。場合によれば想像や思い違い、あるいは悪意あるねつ造などもあるかも知れない。しかし科学は骨董品のように、本物があって偽物があるといったものではないのだ。――もちろんこの部分は当の論文に書かれていたことではない。

このハイゼンベルクの文章はたしかに感銘深いものであったが、不満であったのは言葉の問題、ゲーテの重要なテーマである科学と言葉の問題には直接触れられてはいなかったことであった。


ⅲ情報科学・技術と脳科学

当時はバブル崩壊後の不況もあって仕事に行き詰まると同時に、一方ではパソコンが急速に普及し始めた時期でもあった。そういう状況だったから、何が何でもコンピューターに関する知識は必要だと思い、放送大学で「情報工学」と「プログラミングの基礎」を受講した。どちらも十分によく学習することが出来たとはとても言えないが、このときの教科書は教科書として内容が濃く好感も持てるものだった。個人的な動機、目的や成果などはこの際どうでもいいことだが、この時の教科書を部分的にでも読み返すたびに考え込んでしまうことがある。それはコンピューターサイエンス、情報科学等はいったい科学上の分野としてはどういう位置にあるのか、という問題である。この教科書の冒頭にも情報工学という名称について、これに類する日本語と英語のおびただしいネーミング例が挙げられている。既存の伝統的な科学分野を参照して考えると、論理学、数学、と重なる部分や、隣接するとも言える部分があることは間違いがないが、それ以外に言語学とも近い部分があることも、どうしても受け入れなければならない。実際プログラミング言語は言語と呼ばれている。

実はこの「プログラミング言語」という言葉、これを「言語」と呼ぶことには当初から違和感、あるいはそれ以上の反感さえを持ち続けてきた。書店のコンピューター書籍売り場やソフトウェアの売り場などで「言語」という分類を表示したコーナーなどを目にする際には不快感さえ感じてしまうのだった。教科書にはどこかに「プログラミング言語が言語であることは証明されている」といった記述があったように思う。言語の定義からそういうことが言えるのだろうが、定義そのものの意味もそう確かなものではないことはこの教科書自体にも触れられている箇所がある。

しかしこの反発は単に感情的なものかも知れないし、何らかの統一用語は避け得ないものだからそれが嫌いな言葉でも仕方がない。しかし、例を挙げると、機械言語とは「機械が読み取ることが出来る言語である」とか、「機械が理解できる言語である」といったような表現になると、これはどう見ても擬人的な表現になっていると思うのだが、専門家を含めて一般的にもこういう表現が擬人的な表現とは意識されていないということにも気持ちの悪さを覚えるのである。というのは放送大学の受講中に何回か教授に質問することが許されていたので、情報工学または業界では擬人的な表現が多く使われることについてコメントを求めたことがあるのだが、その際に教授から「私は特に擬人的な表現が多いとは思いません」という返信を頂いたからでもある。

考えてみると擬人的な表現は比喩一般と同様、日常言語のあらゆる局面に充満しており、何度も使われるうちに比喩であることが意識されなくなっている。科学技術の用語でも同じことがあり、それがまさにゲーテが問題にしていることの一つであると思われたのである。

脳科学でも以前から似たようなことが気になって仕方が無かった。

脳の働きについては例えば、「最近になって脳の機能が解明されてきたので脳と心との関係が解明出来る時が来つつある」といった類の表現は、マスコミの科学報道や書籍の宣伝などでよく耳にする言葉であるけれども、こういう表現はもうかなり前から、昔からといっても良いと思うが、繰り返し使われてきたような気がするし、これから何十年先になってもこういう表現が使われ続けるのではないかと思うことがある。もちろん具体的な部分では、また応用的な部分ではめざましい進展があったに違いないが、核心の部分ではそんなには変わってもいないのではないかと思うようになり、以前は脳科学の本も購入して読もうとしたこともあったけれども、最近は興味を持たなくなっていた。しかし世の中ではコンピューターの発達と平行して脳科学への関心がますます高まっているように見える。これは技術面、応用面の広がりからいって当然ではあると思うのではあるけれど。

情報科学と同様に脳科学でも、比喩と擬人的な表現が至る所に充満し、気づかないところにも潜んでいるように感じられる。脳科学ではコンピュータを脳の比喩に用い、情報科学では脳をコンピューターの比喩として用い、この両方向の比喩が錯綜している。一方が他方の言葉を比喩的に用いているときに、その表現の内部に逆向きの比喩が潜んでいたりする。ということで、小さな本でも、そういうところで躓き、先に進めなくなってしまうのだった。

コンピューターサイエンスの方は、技術的に成果が上がれば、基本的にはそれで良いわけだから、技術的に有効ならどのような考え方も「有り」かも知れない。またコンピューターそのものは無機物であって明らかに人間ではないのだから、擬人的な表現とは見なさない立場に立っていたとしても、少なくとも見かけ上の擬人的表現を見つけることは容易である。だが脳科学ではそうではない。脳は臓器であって人間の身体の一部である故に、擬人的な表現が使われていても擬人的表現とは見えにくい。


ウェブサイトとブログの開設

一昨年の秋に、はてなのダイアリーで『ブログ・発見の「発見」』を開設しました。これにはり利己的な理由を含め幾つかの動機がありましたが、形式としては、ウェブ上の日本の三つのニュースサイトとニューヨークタイムズ、およびBBCニュース、それぞれの科学・自然のセクションの中から発見のニュースと言えるものをリストアップしてホームページに掲載した上で、ブログでコメントするというアイデアでした。もちろん私は科学上のどの分野でも専門的に論評出来る見識を持つわけではありません。ただ、一般人の立場で、特に言葉と意味にこだわり、科学と言葉、意味について考えさせられるケースを集めて、考える材料にしてみたかったことが基本の動機になっています。そこではニュースサイトの科学ニュースを題材にするという制約を掲げていますので、それとは別に、特にそういう制約を設けずに、主として科学上の意味にまつわるちょっとしたメモや、あるいは多少まとまった断片を書き留め、望むらくは考え方は異なっていても同じ興味をもって見て頂ける方々のコメントをも期待する目的で、こちらにも新たに、意味について考えるブログを設けました。読書ノート、あるいは読ウェブ・ノートの様なものから、スポット的な思いつきや提案など、何でもありのつもりでやってゆきます。いずれにしても困難な、哲学的な意味論より、『発見の「発見」』と同様に具体的な事例に傾きそうです。

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