2008年10月20日月曜日

カッシーラー著「シンボル形式の哲学第一巻 言語」を読んで

しばらくまえにこの書物、カッシーラー著「シンボル形式の哲学第一巻 言語」(木田元訳岩波文庫)を一通り読み終わった。もう一度は読み直さないとは思っているが、続刊二巻以降も早く読みたいと思うようになって、先日、確実に置いてある書店まで買いに行った。2,3,4,巻と、何れも2006年11月の印刷で、それぞれ5刷り、4刷り、2刷りとなっている。第一巻はいつ購入したかは忘れたが、印刷日付を見ると91年9月刷りになっている。例の癖で、購入してから読むまでに少なくとも数年は経っている。とにかくこれだけ大部の哲学書を読み通したのは久しぶりだし、第一、その経験も僅かである。他にも、可成り若い頃に購入し、多少は読み始めても、何れ機会が来れば読もうと思いながらずるずると延ばし延ばししてきたことを思えば、続刊の2,3,4巻も読み通す気になっているのは自分にとっては珍しいことだ。自分の性に合っているのか、ちょうど今がその何れ読もうと思っていた時期なのか、ちょうど今読みたいと思っていることが書かれているということか、いろいろ、そういった偶然か必然か知らないが、そういう巡り合わせもあるのかも知れない。他方、現在購入した第二巻が5刷り、第三巻上が4刷り、4巻下が2刷りとなっているのを見ると、出版以来、可成り持続的に多くの読者に受け入れられているように見える。今の時代に迎えられる要素が大いにあるのかも知れない。他方、この著者はいま流行の哲学者のようにも見えないし、超有名な哲学者に数えられる訳でもない。例えば「世界の名著」とか、そういうシリーズに入ることはなかったのだ。まあそれはともかく、とにかく哲学書として、少なくともこの書物だけは四巻最後まで読み通し、できれば熟読したいものだと思っている。

この第一巻「言語」は、著者自身によって「言語哲学」と呼ばれている。確かにそう呼ぶのが相応しいように思われる。どうしても比較してしまうのが、最近読んだ、このブログの8月1日の記事で取り上げた「言語の脳科学」である。こちらは言語学ではないが、確かに脳科学という科学ではあるだろう。科学というものの一面が改めて、今更ながらというべきか、明らかになったような気がする。科学というものは少なくとも簡単に定義できる概念、というより、言葉が見つかり、それを形式的に操作をして、ある程度体系的な表現ができるとなればそのまま「意味」を明確にすることをなおざりにしたまま、見切り発車をして推論をすすめたり、技術的な応用に走ってゆくものなのだということを。それは古典力学にしてもそうだろう。力と質量とは互いに相手との関係でしか定義されないことだとか、ニュートン自身が万有引力の正体で悩んだという話だとか。

「言語の脳科学」では、「言語モジュール説」として「意味」をそれが何であるかを殆ど追求しないまま、それを1つの要素として、あたかも物理的な単位のように取り扱い、言語を文法と意味、音韻、その他に分けられるものとしている。「分ける」という動詞にしてもその意味を深めることのないままに色々な推論を工夫してゆく。

とにかく科学では、もちろん分野、部門、専門によって程度が様々に異なるだろうが、実験や推論の形式的処理の複雑さに比べて「意味」が希薄になる傾向がある。もちろん、人間が思考している以上、意味はある。しかし技術に傾けば傾くほど意味が希薄になってゆき、コンピュータの内部では意味は完全になくなってしまうのだとも言えよう。

この「シンボル形式の哲学一巻 言語」では注釈をいれて500ページ近い(岩波文庫)一巻全体が事実上言語とそれによって表現される意味との関係を軸に哲学史に沿って「言語哲学」が展開されているいうのがざっと一回目読んだ印象である。哲学独特の抽象的な用語による抽象的な表現の難解さには参ってしまうが、専門用語に関しては、特に言語学関係ではあるにはあるが、特殊な用語をそれ程多用しているわけではない。本質的に科学の研究書ではなく、あくまで哲学書である。


ちょうど、はてなのブログ、発見の「発見」で以前の鏡像問題の記事関連して9月19日の記事を書いたときは、この巻を読み終わった頃だった。この、鏡像問題関連の記事の中では、以前と同じだが、 鏡像問題の本質は上下、前後、左右という言葉の意味に深く関わっているというようなことを、書いたのだが、実のところこの時は言葉の選び方に迷ったのだった。あえて「言葉の意味」と言わずとも、概念とでも言えば良いのではないか、言葉よりも概念の方が先立つのではないかという気持ちだったと思う。しかし、上下、前後、左右というような概念は言葉以外の何で表現されるだろうか。音楽ではもちろん表現できない。絵では表現できそうな気もする。しかし、絵は大いに助けになるが、絵だけで表現し、伝えることはできない。文字とか、矢印のような記号とか、言語的要素なしには表現できないだろう。言語は確かに考えれば考えるほど特別なもので、例えば「シンボル形式・・・」を読み始めるまえに読み始めて半分は読んだのだが何故か読むのを中断してしまったウンベルト・エコの「テクストの概念」の初めの方に書かれてあったように「神秘的」なものだとあらためて思う。

横道にそれかかったが、とにかくそういうわけで意味と概念とを意識的に分けて考えることもこの本から学んだ。他にも今の段階でこの本から多くの答を見いだすことができたような気がするが、それ以上に、解らないままに最後まで読むだけ読み進んだというべき箇所があまりにも多い。しかし冒頭に書いたように、再読するまえに続編の「神話的思考」、「認識の現象学」をとにかく読了したいという気持ちが強い

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