2017年2月1日水曜日

前回記事(鏡像の意味論その12)の捕捉(変換という言葉の危うさ)

前回記事に関して、タイトルの範囲からは多少それますが、若干の捕捉をします。
冒頭に箇条書きで4つのキーポイントを掲げましたが、その3番目は次のとおりでした:


鏡は光を反射するのであって、像を反射したり変換したりといったことはできない。



これについては理解されがたいか、あるいは異論をもたれるかも知れませんので、少々説明したいと思います。いずれにしても比喩ですが比喩といっても妥当な比喩もあれば不適切な比喩もあります。

例えばデパートだとか、何らかの商業施設の中などの広い空間で、壁面が大きな鏡になっているような場所があると思います。そういう鏡から、いくらか離れた位置に1人の人物がいて、その人を直接見ることも、鏡に映った姿を見ることもできるとしましょう。あなたが鏡に映った人物を最初に見て、その後に直接その人物を見ることも十分あり得ることです。もちろんその逆もあります。清潔で品質の良い鏡なら、鏡に映る人物を見てそれを鏡像だと気付かない場合もまた十分にあり得ることです。

映るという言葉の語源と関係があるかどうかは分かりませんが、現実に実際の人物が鏡の向こう側に移動したということも、コピーされたということも、また鏡のこちら側にコピーされたということもありえないのは自明のことです。

つまりあなたが視覚で認知しているのは、直接見る場合も、鏡を通してみる場合も同様に、その人の姿であり、像であるということです。ところが鏡を通して見る場合だけ像と呼ばれるのに対して直接見る場合には像と呼ばれません。しかし「姿」という日本語があります。和英辞典をを見るとshapeとfigureが挙げられています。


また横道にそれてしまいそうですが、このように考えてくると、鏡像に対応するものは直接見た姿に他ならないので、私は昨年末に認知科学会に提出した件のテクニカルレポートではそれを呼ぶのに「直視像」という言葉を用いました。この直視像と鏡像はどちらかが他方に変換されたというようなものではないと思います。どちらかが他方に変換されたり、コピーされたり、ということではないからです。


鏡映反転の問題として左右の形状の逆転が観察される場合、それは変換されたのではなく、あなたが直接見た姿と鏡像との2つの像を比較して逆転が観察されるということでしょう。例えば直接見た人物が右肩に鞄をかけているのに対して、鏡像は左肩に鞄をかけているとか。

この逆転はどちらが鏡像で、どちらが直視像であるかには関係のないことです。簡潔に言えば相対的な逆転なのです。ですから必ず二者を比較する必要があります。問題はなんらかの自動的な変換ではなく、あなた、すなわち観察者による能動的な比較なのです。以前に「変換」という言葉の曖昧さ、危うさについて考察したことがありますが、それはこういうことなのです。鏡映反転の原因、あるいはメカニズムを「変換」という一言で表現する説明には非常な危うさを感じてしまいます。

というのは、ここで「変換」という場合、鏡が主語として想定されています。たいていの説明では「鏡が(形、像、姿、等々を)を映す」とか、「鏡が(形、像、姿、等々を)反転する」とか「鏡が(形、像、姿、等々を)逆転させる」といったような表現が用いられていますからね。こういう表現は鏡の擬人化ですが、こういう表現もやむを得ないところは確かにあります。

鏡を主語として考えると、鏡は光を反射させているだけで像を反射させたりしているのではないとはいえ、鏡像の成立に関与していることは確かです。 ところが、あなたが鏡像と比較しているもう一つの像、つまり先の言葉で言えば直視像ですが、この直視像の成立には、鏡はまったく関与していません。2つの像の一方にしか関与していない鏡が、一方の像を他方の像に「変換」しているなどと言えるでしょうか。私は言えないと思います。少なくともここで「鏡が(あるいは光学的原理が)~を変換している」と言い切ってしまえばそれ以上のメカニズムの分析が不要になってしまい、結局は覆い隠されることにならないか、と言いたいのです。

さて、以上から鏡は2つの像のうちで鏡像の方にしか関与していませんが、2つの像を比較する観察者の存在は、2つの像の両方に関与していることが自明といえます。鏡あるいは光学原理が鏡映反転という「変換」を行っているというような考え方をすると、観察者の存在、観察者の個性や能力と言った要因を無視することに繋がります。ここから次のような2とおりの誤りが生じてくると思うのです。

A.鏡映反転の原因はひとえに物理的(幾何光学)なものであるという考え方

B.鏡映反転の原因として物理的ではない(例えば心理学的)原因を考えざるを得ないとき、その原因は、ひとえに心理学的な原因であるという考え方。

端的に言って、Aの考え方は前回のHaig説を始めとする、多数派ではないかと思います。一方Bの考え方の代表は、高野先生の多重プロセス理論と言えるのではないかと考えるのです。「多重プロセス」という考え方は、常に2とおりのプロセスが進行しているという意味にとれば、あるいは鏡映反転のタイトルとして適切かも知れないと思いますが、常に2とおりのプロセスが進行しているのではなく、ある場合(例えば観察者自身が鏡に対面している場合)に一方のプロセスだけで説明し、別の場合(例えば観察者自身が鏡に対して横を向いている場合)にもう一方のプロセスだけで説明するのは、単なるご都合主義ではないかと思えるのですが・・・・・。



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