前回は、プラトン以降、光学が確立して以来の光学に寄与した偉大な科学者たちがなぜ鏡映反転現象について語ることがなかったのかについて考察を始めてみました。この考察はさらに続けて行きたいと思いますが、その前にいったん振り返って、ではプラトンはなぜ、他の古代から現代に至るまでの光学に寄与した偉大な哲学者や科学者が語ることがなかった鏡映反転現象について語ったのかについて考えてみたいと思います。
すでに述べた通り、プラトンは眼のメカニズムとの関係で鏡映反転を説明しています。それが現代科学の場において主に心理学者達による考察にみられなかった発想であり、その点では結果的に当を得た着眼点であったことがわかったわけです。
しかし、眼の構造と機能、即ち機構、メカニズムについては、光学が成立した当初からの関心事であり、光学の開祖といわれるアルハゼン以来、デカルトやニュートンも研究し、光学に関係する範囲で基本的に解明されてきたわけです。しかしプラトンの場合は彼ら近代科学的光学における科学者達とは眼の構造に着目した経緯が全く違うといえるように思えるのです。
デカルトやニュートンの場合は、すでに見出されていた幾何光学的原理、すなわち光の直進性、鏡面反射と屈折の諸々の特性を眼の構造に適用することで視覚像が成立することを説明できたという事でしょう。これはある意味で、反射や屈折など諸々の幾何光学的原理の検証という面があります。
一方、プラトンの場合は、まだ幾何光学が成立していない時点での考察です。彼は諸々の視覚現象、当時において考えられる限り、そして世間で、あるいは学者達のあいだで、さらに本人自身にとって問題とされていた限りの視覚現象を説明するための仕組みとして眼の構造と機能を考えたのだと思います。そのような視覚現象の中に鏡映反転現象も含まれていたわけで、それを考えるとこの現象の問題性は、当時の文化的環境においてもプラトン自信にとっても、結構大きな謎、あるいは課題であったのではないかとも思えます。
さらに重要な意味を持つと思えるのは、プラトンが眼の構造とメカニズムを、神による天地創造のプロセス全体の中で、人体を創造するプロセスの一環として説明していることです。その一環というのは人間の頭を創造するプロセスの中で眼を頭の前方に取り付けたということです。ここでプラトンは前という方向に関して次のように述べています。「神々は後ろより前のほうが尊重されるべきで支配するにふさわしいと考えた 」、「人間は前方が後方とは区別され、異なっていなければなりませんでした。」、「神々はまず、頭という容器には、そちらの方に顔を取り付け、魂がすべての先々の配慮ができるようにと、そこに諸々の器官を据えつけて、指導の任に当たるのはこの本性上の前であると指定しました」(土屋睦廣訳)。ここでは前後だけしか問題になっていませんが、プラトンが上下・前後・左右という方向概念に強い関心を持っていたことが伺えます。
私が鏡像問題の第一論文と第二論文で引用したように、カッシーラーは『シンボル形式の哲学 第二巻 神話的思考』において「神話的空間が知覚空間とは近い親縁関係にあり、他方幾何学の思考空間とは鋭く対立するであろうということに、まったく疑問の余地はない。(木田元訳)」と述べています。プラトンが人間の頭と眼の位置について神々による人体の創造との関連で述べていることはまさに神話的空間と知覚空間、さらに幾何学空間が重なるあるいは接するところではないかということもできるでしょう。
以上のような状況を考えると、プラトンが鏡映反転現象について考察した事は偶然ではなく極めて自然なことであったのではないかと思われます。
ちなみに、いま改めて『シンボル形式の哲学』最後の人名索引を眺めてみると、プラトンの出現回数はカントと同じくらいで最も多い人名の一つであり、もっとも多く出てくるのは予想通り『第二巻神話的思考』の中ですが、それでも各巻全般にわたって頻出しています。私は15年ほど前に、基本的な素養もないままこの本を一応通読し、件の等方性空間と異方性空間に関する個所で大変な感銘を受けた記憶があるのですが、それ以外には断片的な印象以外、全体をとおしての理解は覚束ないままで、プラトンがこれほど頻出していたことにも、またプラトンがどのように引用され、理解され、評価されていたのかについても、」印象は残っていなかったのです。今後引き続き、また改めて、ティマイオス全体との関係を含めてこのあたりの事情を考察してゆきたいものです。
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