このシリーズ記事として前回(その7)から二年経過し、なんと三年目となってしまいました。今回は宣伝を兼ねることになりますが、この度アマゾンのキンドル本(ペーパーバックと電子書籍)として個人出版した本の内容紹介と重なります。本のタイトル:森鴎外作 金毘羅・安井夫人・夢 + 考察 森鴎外『金毘羅』と『安井夫人』を併せ読む
この二作品のいずれも学者の人生ないしは生活を軸に展開しています。『安井夫人』の主人公、佐代は学者ではありませんが、物語は夫である仲平、すなわち安井息軒を中心とした、幕末から明治の始まりにかけての、四代にわたる学者一族ともいえる安井家の歴史的記録になっていて、鴎外の短編小説として、よく知られた作品であると思います。『金毘羅』の方はフィクションですが、鴎外よりも一回りくらい若い想定の小野博士という哲学の教授が主人公です。時代設定は鴎外の同時代と言ってよいと思いますが、発表された時期はこちらの方が早く、他方『安井夫人』の方は後期の作品と言ってよいと思います。
私が最初に『金毘羅』を読んだのは1979年版の岩波書店刊『鴎外選集』ですが、この小説はもともと鴎外作品として有名ではなかったようで、この時まで作品名を聞いたことはなかったのです。今でもそうで、ネット検索で現在出版されている鴎外の作品集を拾い出してみても、この作品を収録している本は殆ど見つかりません。しかし小堀圭一郎氏はこの作品について「思想小説の領域に一歩踏み込んだ質の重さがある」と評していますが、その通りだと思います。鴎外を「思想家」としてみるなら、こういう作品こそ研究してしかるべきと思うのですが、今回、少々参考にした中野重治著『鴎外 その側面』、山崎正和によるブリタニカ大百科事典の大項目『森鴎外』、柄谷行人著『歴史と自然—鴎外の歴史小説』(『意味という病』所収)、それにウィキペディアの鴎外の項目の何れでも取り上げられていないのです。『安井夫人』については、そういうことは全くないのですが。
以上のような次第で、今回の本では『金毘羅』をそのまま収録し、併せて『安井夫人』と短い医学エッセーともいうべき『夢』を収録しました。『安井夫人』は青空文庫に収録されていますが、原作にある「事実」と題された付録が省略されています。他の多くの作品集でもそうではないでしょうか。この作品を歴史小説と見るなら、この短い部分を省略する必要はないと思うのですが。
『金毘羅』と『安井夫人』は、諸々の人物間と同様に、時代背景においても比較考察に値すると思います。学者の家系としての安井家の時代は徳川幕府末期からその滅亡を経過し、明治時代の幕開けに至るまでの時期であるのに対して、『金毘羅』の小野博士の時代は明治政府が安定して西洋式の学問体系がほぼ確立した時期に当たります。この二つの異なった時代背景において、学者とされる立場の人々の人生は大いに変化を被ったように思われ、それが両者の人生と困難、そして悩みに、大いに関わっていることが二つの小説から読み取れるわけですが、一方、これら二つの時代において変わらない社会の環境と云うものが厳然としてあり、その重要なひとつが宗教的エートスとでもいうべきものだと考えられるのです。それを具体的に表現すれば、日本の伝統的な多神教的環境と言ってよいと思います。それが『金毘羅』の小野博士を当惑させ、動揺させたところのものといえるでしょう。他方、安井家の人々にとってはその多神教的環境、宗教的エートスはごく自然なもので、それに対する葛藤というようなものはなかったか、少なくとも表現されていません。鴎外の短い短編において、安井家の人々全員の墓所がいずれも仏教寺院の中にあることが明記され、形式的にはごく普通の仏教徒であったことがわかります。『金毘羅』の小野博士も、形式宗教的には伝統的な多神教的環境に逆らったりはしていません。キリスト教への改宗を考えたり、神社への参拝を何が何でも拒絶するような人ではないことが示されています。鴎外自身もそうであったでしょう。小野博士の当惑と動揺は宗教的というよりも哲学的なものです。具体的には、百日咳に罹った二人の子供のうち、一人が命を落とし、他の一人が助かったことが、金毘羅神の祟りとご利益であると解釈するかどうかという事の迷いにあります。金毘羅神の祟りや病気平癒という御利益を認めることは、西洋哲学の教授であるという自分の立場を危うくするように思えたということのようです。また、この小野博士は西洋哲学の教授ではあっても、自分自身の哲学上の立脚地と云うものがなく、一方で実生活の空虚さに悩んでいたことが、小説の中で表現されています。こういう精神的態度の面で小野博士と対照的であったのは安井夫人、佐代である、という事になりそうです。彼女自身は学者でもなく、学問をするでもなく、漢学者であった夫と子息たち、門人たちの世話をすることに自ら身を投じ、それで心が満たされていたというのが、鴎外の見立てということになるでしょうか。鴎外は、彼女の望みは現実の向こう、遠いところにあったのだと、述べています。
ここでまた小野博士に戻ると、彼はまたドイツロマン派文学の哲学、とりわけ「青い花」の文学に興味をもつ一方で、ヴントの科学的心理学にも興味をもっていたことも示されています。またエミール・ゾラの小説『ルルド』を読んでいたことも示唆されています。ヴントの心理学では「霊」というものの扱いに困惑していたことが、語り手によって述べられていますが、ゾラの『ルルド』については、奇跡治療という小説のテーマについては触れず、描写の内容についてだけ言及されています。しかし、博士が「奇跡」と云うものについて考えたことがある、とも書かれています。
つまるところ、安井家の人々の時代環境と小野博士の時代との違いは、近代科学の積極的取入れ以前(直前)とそれ以後(直後)との違いにあるということができます。この変化が西洋で起きたのは当然、それよりもかなり早い時期で、宗教的な時代背景も日本とは異なっていたわけですが、この変化の後に文学と芸術においてロマン主義運動や自然主義運動が興ったのはその、いわば科学革命への対応と見ることができます。それらの中で、さらにドイツロマン派の中でも、『青い花』の作者であるノバーリスは若くして亡くなった人物ですが、多神教を許容する新しい宗教を構想したり、「詩と哲学と科学とを世界の寓意的解釈のうちに統一しようという試み」の作品を残したり、という業績があり、ゲーテにも大いに期待されていたと云われています。このノヴァーリスを日本で最初に紹介したのも鴎外であったようです。
上記の新著と本稿—あまりまとまりのない記述になってしまいましたが—の作成に当たって参考になった幾つかの本を下記に掲載しておきます。
ザフランスキー著 津山拓也訳『ロマン主義』法政大学出版局 2010年
小泉文子著『ノヴァーリス 詩と思索』勁草書房 2021年
カント著 金森誠也訳 『カント「視霊者の夢」』(講談社学術文庫)講談社 2023年
湯浅邦弘著『孔子はいかにして「神」になったのか』NHK出版 2026年
