2010年12月17日金曜日

縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その3 ― 縦と横、それぞれの方向性と文字と文字列のゲシュタルトとの関係の導入。

ゲシュタルトの概念導入の必要性

前々回、このテーマの第1回目では鏡像問題とされる現象の根底に横たわる原理が縦書きと横書きの機能的な差異にも関係していると考えられる根拠を述べ、回を改めて下記項目をこの原理から説明してみたいと述べました。2回目の前回は、その本題の考察に入る前に、両眼視差の問題を提起して終わったのですが、今回は本題、すなわち鏡像問題の縦書き横書き問題への応用とでも言える問題に入りたいと思います。

■ アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
■ 数式が横書きに適していること。
■ 漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
■ 横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
■ 漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
■ 縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
■ 横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。


これらは、今や直感的に理解して貰えるように思われますし、具体的に論証することも容易であろう予想していたのですが、いざ、文章に表現しようと思うとなかなか難しく、思うように言葉と表現が見つかりません。そうこうする中に気付いたことは、ここで1つ、少なくとも1つの概念、短い言葉で言い表せる概念を定義し、その重要性を認識することが必要であるということです。少なくとも、英語やそれを含めた欧文、和文、中文、韓文など、個々の言語の文章に適用して考察するにはそれが必要になってきます。その概念というのは実は、前掲の「横書き登場」でも取り上げられています。それは「横書き登場」の第7章で「横転縦書きと左横書きの関係」という小見出しの付けられた段落に、次のように書かれています。

「ラテン文字のように一字一字が音素という小さな単位に対応する音素文字では、一語を表すのに多くの文字が必要となり、文字を読むときは一字一字を読みとってゆくのではなく、後を表す文字列を1つのまとまった形(ゲシュタルト)としてひと目で読みとることになる。こうした文字では文字列を一字ごとにばらしてしまうと、読み取りの効率が非常に悪くなる。このような文字体系では、文字列全体を回転させるのでなければ書字方向を変えることはむずかしいのである。」 ― 屋名池誠著、「横書き登場」第7章より―

このように、「横転縦書き」の意味に関わる箇所でゲシュタルトの概念が使われているわけですが、著者はこのゲシュタルトの概念をここでしか使っていません。ゲシュタルトの概念を、さらに根本的な、なぜ欧文では横書きが相応しく、和文、中文、韓文では縦書きで発展して来たのかという問題に適用できる筈、と思われるのです。つまり、なぜ欧文では横書きが自然であり、和文では縦書きが自然であったのかという問題、さらに、縦書きと横書きそれぞれの機能性の分析のそもそもから、ゲシュタルトの概念を用いて考察すべきなのです。その際、鏡像問題の根底に横たわるところの、人間にとって上下と左右、あるいは縦と横というそれぞれの方向性自体が持っている性質と併せて考察することが必要になるという事ではないか、と思われるわけです。

さらにはこの、ゲシュタルトと言われる現象とこの縦横の感覚それぞれ自体が同根のものなのではないか、とも思われるのですが、いまはそこまで考察する必要はないと思います。

しかしその前に、個々の言語の表記とは関係なく、一般的に縦方向と横方向における方向性、あるいは秩序感覚とでも言うべき問題を考察してみたいと思います。まず、初回の冒頭で述べたことですが、彩度、改めて鏡像問題の根底に横たわる基本原理と思われる箇所を繰り返すことから始めます。

マッハとカッシーラーによる次の引用文

『視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに「異方性」と「異質性」をもつという点で一致している。「生物のもつおもな方向性、前と後・上と下・左と右は、視空間と蝕空間という二つの生理的空間において、ともに等価的でないという点で一致している。」 ― カッシーラー、「シンボル形式の哲学(木田元訳、岩波文庫)第二巻、神話的思考」より引用。』

これが鏡像問題とされる現象を説明できる根本的な原理であると考える訳ですが、この、「視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに『異方性』をもつという点で一致している。」という説明自体は特に鏡像問題のみに関わる原理ではなく、人間、さらには動物一般の知覚そのものに関わる普遍的な問題に関わるものであるはずです。縦とか横とか前後ろと言った概念そのものに関わっているとも言えます。(これを概念と言うべきなのか、感覚と言うべきなのか、あるいは知覚と言うべきなのか、今は分かりませんが、とりあえずこれらの言葉を適当に用います。)ですから、当然、これに関係する現象あるいは、習慣はいくらでも挙げることができそうです。とはいえ、意識的に例を見つけるのは必ずしも容易では無いかも知れません。というのも、縦とか横とか、前、後などの概念は余りにも基本的な概念、というか、感覚、あるいは知覚であり、主観的に身についた感覚であるため、意識するのは難しいのかも知れません。しかし、その気になって探せばいくらでも見つかる筈のものでしょう。

例えば、地球儀がなぜ緯度と経度で表され、地図で経度が縦、緯度が横に表現されるのか?という問題

例えば、地球儀や地図で経度が縦の方向、そして南北方向に充てられ、緯度が横方向東西方向に充てられていると言う事実。これは地球の公転と自転、太陽や星との位置関係といった外的な、あるいは物理的な条件と共に、鏡像問題と共通する心理的ないし、認知科学的な要素が関わっているものと考えられます。これは、鏡像問題において光の反射や眼の位置といった物理的な要素と心理的ないし認知的な要素とが関わっているのとパラレルな関係であるとも言えます。

そこで、この普遍的な原理が縦書き横書きの機能性の問題にどのように適用できるのかという事を考えた場合、以下を基本原理とみなして考察を進めたいと思います。詳細な推論は省略しますが、何れも物理的ないし幾何学的、あるいは生理的な要素と心理的ないし知覚の要素の両者が関わっているものと考えられます。

上から下への方向感覚、秩序感覚は人間に自然に備わったものであるのに対し、左右間の方向感覚、秩序感覚は規則や習慣で強制されたものであること

書字方向に限らず、一般的に上から下への方向感覚、流れ、あるいは秩序感覚は自然に備わっているのに対し、左右の方向感覚における流れ、秩序感は何らかの規則によって強制されなければならないものです。基本的に、左右には上下のような自然な秩序感覚がありません。左右は本来殆ど平等であり、何らかの強制的な秩序が押しつけられて始めて方向性が定まるのだと思います。これを書字方向における注意の向け方に適用すれば、以下の各項目を仮説として挙げることができるでしょう。


1)書字方向において上から下への方向性あるいは秩序感覚は人間には自然に備わっているものであり、これに従って視覚的な注意力と視線、さらに眼球の動きも比較的よどみなく上から下へと流れることができる。少なくとも意識しない限りは自然に逆向きになる事はない。また目移りすることも少ない。

2-1)横方向における左右には基本的に縦方向における上下のような価値的な差がないため、書字方向において、左右の方向は上下のように自然に決まることはなく、強制的な規則あるいは習慣性が必要になってくる。そのために注意力の動きも、それに伴う視線の動き、したがって眼球の動きも付加的ないし偶然的な要素に左右されやすい。例えば、文字の場合は文字の大きさ、太さ、眼を引く特徴、等々に左右されやすく、移ろいやすい。目移りし易いとも言える。しかし、反面、左右両方向を一覧し易い傾向はある。これは横方向という方向性自体とともに両眼が横に並んでいることと、それに起因する両眼視差の性質にも関わっている可能性がある。

2-2)横方向の場合、注意力と視線が左右何れかの方向に一貫して流れる場合も、滑らかというよりも飛び飛びに、あるいは条件によってはリズミカルに移動する傾向がある。

2-3)横方向の文字列の方が縦方向の文字列よりも一時に全体として知覚し易い、あるいは自然に全体を1つのまとまりとして知覚する傾向がある。

(気がついてみると、これらの中にすでにゲシュタルトの現象が入っていることが分かりますが・・・)

これらを欧文や和文など具体的な言語表記に適用しようとする場合、冒頭に述べた文字と文字列におけるゲシュタルトの問題を縦横それぞれの性質の問題に組み入れる必要があるわけです。
まず、方向性の流れとしては上から下への縦方向が自然であるとするなら、なぜ欧文は横書きが自然なものとして発達してきたのであろうか?という問題が生じます。この場合、もしも、各行、1行全体にゲシュタルトが適用できるもの仮定すれば、行移りが上から下に進行するので、まったく横書きが自然なものになるといえます。しかし欧文の1行が漢字1字と同じようにゲシュタルトとして認識できると考えるのは無理です。しかしこれは程度の問題もあるでしょう。少なくとも多少はゲシュタルトが作用していることは明らかです。以下、この問題を冒頭に掲げた、連載の1回目から引き継いだ7つの項目に適用して考察してみたいと思います。これは次回にしたいと思いますが、これらの項目の中で2番目の数式の問題は基本的に縦と横それぞれの性質からだけでも大部分が説明できるように思われますので、この項だけを今回、先に考察しておきます。


数式が横書きに適していること。

これは基本的に、横方向の左右には上下や前後に比べて異方性が小さい、価値的な差がない、あるいは価値付けが任意的であるという事から、誰でもすぐに納得できる事だと思います。そもそも数式には方向性というものがあまりありません。少なくとも等式や不等式の左右の項に方向性はありません。等式では、左右の項を入れ替えるのは自由だし、不等式であっても記号を変えれば左右を入れ替えることができます。ただ十進法で表現された数自体には位取りという方向性はあります。当然、十進法の位取りによる数はアラビア数字でも漢数字でも縦書きは可能で、ことによれば縦書きの方が書き間違いや読み違いは少ないかも知れないと思います。しかし、数式となるとやはり、方向性の無さというか、入れ替えの可能性、一覧性などから、どうしても横書きが有利なのは自然に理解できると思います。数式というのは全体の形で理解するという面もあり、また逆方向に右から左に読むこともできない訳ではないと思います。特に等号や不等号の右側を先に読んだりすることは、十分にあり得ることです。全体の形の一覧性という点でも横長が有利であると言えます。

今回、以上。

2010年11月1日月曜日

縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その2 ― 両眼視差の問題

はじめに、鏡像問題に関する新しい記事を「ブログ発見の発見」の方に書きました。関連しますので、最初にリンクしておきます:鏡像問題と「虚像問題」http://d.hatena.ne.jp/quarta/20101030#1288457496 こちらの記事は、大阪府立大学名誉教授の多幡先生から贈呈いただきました論文集にちなんでこの問題を再考したものです。

さて、縦書きと横書きの機能性と鏡像問題との関連についての、前回よりの続きです。

前回、生物、この場合は人間の感覚、特に視覚にとって前後、縦方向と横方向の質的な違いで、縦書きと横書きに関して以下のような事柄が説明できる可能性について言及しました。
1)  アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
2)  数式が横書きに適していること。
3)  漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
4)  横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
5)  漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
6)  縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
7)  横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。

これらの事柄は大体すべてが現在実際に実行されている事ばかりです。そして何となく直感的に納得できるような事が多いようにも思われますが、しかし、問題なく納得できるのは上の3つまででしょう。その三つ目、中国語、ハングル、日本語は現在縦書きと横書きが併存しているというのはもちろん、現状で実行されていることですが、歴史的には日本語や中国語の横書きは外国語の影響が入るまではなかった事、そして今後はすべて横書きに統一されるであろうと予測する人や動きもあることから、このあたりの問題には自明でもなく、可成り微妙な議論の余地があることが分かります。その意味でこのあたりの事情を理論的に明らかにしておくことは重要であると考えます。

上の二つの項目について、英語など、 なぜ横書きが自然なのか、数式もなぜ横書きが自然なのかということは自明であるだけに何故そうなのか、と理論的に説明されることはあまり無かったように思われます。数式が横書きに適していることなど、誰でも直感的に分かることですが、何故そうなのか?という事の説明は、少なくとも私は聞いたことがありません。前回参考にした「横書き登場」にも何故そうなのか?という理論的な説明は見出されなかったように思います。

一方、鏡像問題の方は、「なぜ鏡像の左右が逆転するのか?」という設問で古くから議論が行われてきたそうです。この問題をブログ「発見の発見」http://d.hatena.ne.jp/quarta/ で取り上げたきっかけになった毎日新聞の記事の冒頭は次の様に始まっています。「鏡の前で右手を上げると、鏡の中の私は左手を上げているように見える。なぜ鏡の中では左右が反対なのか。この問いかけは、古くはギリシャの哲学者、プラトンが考えたと言われるほど長い歴史を持つ。現在も認知心理学と物理学の両分野で、国際的な議論が続いている。」
何故、「何故鏡像の左右が逆転するのか?」という疑問が古くから議論の対象とされてきたのに対して「何故アルファベットで記述する言語は横書きなのか?」とか「何故数式は横書きなのか?」といった疑問は古くから議論される事はなかったのでしょうか。たぶんこれはヨーロッパのアルファベットで記述する言語にとって、自然にそうなったまでであり、理由など考えるまでも無かったのではないでしょうか。しかし本来縦書きであった日本語にとって横書きも可能であることがわかった現在、この種の理論的な説明が求められるようになってもおかしくないように思います。

もう一つの理由として、鏡像問題の場合は光の反射という、物理的な現象を含んでいるということもあると思われます。光線の反射の問題が関わっていることが明らかであり、それを検討した上でなお解明されない部分が残るということに気付くことから物理的現象と心理的現象との関わり合いについて議論が展開されてきたようです。

前回はその、鏡像問題から物理的な部分を差し引いた心理的な、あるいは認知的な要素が縦書きと横書きの機能性にも関わっている事を述べ、具体的に今回冒頭に掲げた各項目について説明する予定を述べた次第ですが、その前に、この縦書きと横書き問題にも、構造問題とは別な、何らかの物理的ないし生理的要素が関わっていることが明らかですので、今回はそのことについて検討して見たいと思います。

その物理的ないし生理的要素というのは、既述の屋名池誠著「横書き登場」にも取り上げられていましたが、眼球運動の問題、それから両眼が横向きに並んでいることの影響はどうかという事になるでしょう。この問題に付いては「横書き登場」における記述次の様に至って簡潔にまとめられています。
「<眼球運動> 上下左右で差はない」
「<両眼の視力分布> 横書きでも片眼の視野で十分なので横書き有利と言う事はない・・」
「<文字を見分ける視野> やや横書き(有利?)」

このなかで眼球運動については「上下左右で差はない」とだけ書かれているのですが、この比較のしかたはあまりにも単純ではないでしょうか?というのは、上下の動きと左右の動きは単純に早さを比較できるようなものではないと思われるからです。それは、両眼には視差というものがあります。この比較で気になるのは、左右の一つ一つの眼について縦横の動きを比較したのでしょうか、それとも両眼で比較したのでしょうか。それが気になります。両眼で比較する場合、その場合左右の視差、眼球運動に関しては輻輳角度というものがあります。上下運動の場合は左右の輻輳角度は同一に保たれたまま上下に眼球運動が行われますが、左右の運動の場合は、動きは左右で対称ではありません。下に簡単な図を書いてみました。




片眼の場合は簡単ですが、両眼をAからBまで動かす場合と、CからDまで動かす場合では単純に速さを比較するだけで良いものでしょうか?正確さというものが問題になってくることはないでしょうか。また眼や脳にストレスがかかるという事はないでしょうか?横の動きの場合、英語と日本語ではどちらに向いているでしょうか?

仮に両眼の視点を常に一致させながら眼球を動かさなければならないとすると、横に動かす場合は縦に動かす場合に比べて相当にストレスがかかるのではないかと思われます。必ずしも正確に一致させながら動かす必要は無いかも知れませんが、そういう場合には英語と日本語ではどちらに有利に作用するでしょうか。

前記7項目の各論に移る前に、以上のような視差の問題を提起しておきたいと思います。

2010年10月11日月曜日

縦書きおよび横書きの機能性の差異と鏡像問題

以前から、文の縦書きと横書きについて考えていたことをまとめてみたいと思っていたのですが、この問題に付いて特に専門的な研究や発言をフォローしてきたわけではないので、一般的な現状認識がどのようなものであるのかを知りたいと思い、手頃な参考書として次のの本を見つけて一読してみました。横書き登場』、屋名池誠著、岩波新書

膨大な資料を網羅してまとめられたこの本によって日本における縦書きと横書きの歴史的な推移についてはほぼ見通せるようになっていると思います。ただ、縦書きと横書きそれぞれの機能性については、「結局、縦書き、横書きには殆ど優劣の差はないといえよう。」と結論づけられているように、「優劣」という観点で包括的に捉えられ、縦書きと横書きそれぞれの持つ機能的な個性、特質については掘り下げられることが少ないように思われました。個々の問題に付いての優劣の比較はともかく、何事も最終的に「優劣」の比較で結論づけるという行き方には問題があるように思います。総合評価としての抽象的な優劣の比較は、よほど大きな差が無い限り行ってはならない事だと思います。優劣はすべてケースバイケースで具体的に判断すべきものと思います。ただ、この本の場合は「優劣はない」という結論になっていることは救いだと思います。


優劣という評価を離れた、縦書きと横書きそれぞれの特質という面で、この本の中で最も興味深く思われた箇所は、日本の江戸末期に本格的な横書きが登場するようになってから左横書きが定着するまでの期間に生じた右横書きと左横書きとのせめぎ合いについて考察された部分です。このことの前提としてまず、縦書きの場合は実用上、上から下に向けて読み書きする以外にあり得ないのに対し、横書きの場合は右から左に読み進む右横書きも左から右に読み進む左横書きのいずれも可能だという事実があり、このことはこの本でも論じられています。この事実こそが、縦書きと横書きそれぞれの最大の特質につながることなのであり、さらに深く掘り下げることが必要なのです。

横書きの場合に左横書きと右横書きの何れも可能であるのに対し、縦書きの場合は実用上、上から下への方向しか取り得ないという事実は、鏡像問題、すなわち鏡に映った鏡像の左右が逆転して見えるという現象とまったく同一の原理に由来している。

1つの結論から言って、横書きの場合に左横書きと右横書きの何れも可能であるのに対し、縦書きの場合は実用上、上から下への方向しか取り得ないという事実は、有名な鏡像問題、すなわち鏡に映った鏡像の左右が逆転して見えるという現象とまったく同一の原理に由来していると言って差し支えありません。

鏡像問題について

鏡像問題という言葉がどういった種類の言葉であるのか、どういった分野あるいは学会または業界でどのように定義されて通用しているのか、よく分かりませんが、過去に新聞の科学欄にこの話題が掲載され、鏡像問題というテーマの下に心理学と物理学の研究者による研究が現在に至るまで発表され続け、専門の学術誌もあると言う事を知りました。それまで心理学方面で鏡像認識という術語があることは知っていました。これは人間や動物が鏡像を見て自分自身の姿であると認識できるかどうかという問題のようですが、鏡像問題の方は鏡像では現実と左右が逆転して見えるのは何故か、という問題のようです。しかし、鏡像認識の問題も鏡像問題に含まれることもあるようで、この場合は広義の鏡像問題とされ、左右が逆転して見える問題は狭義の鏡像問題とされるようなので、とりあえず虚像問題は鏡像の左右が逆転して見えるのは何故かという問題とみなして良さそうです。この問題に付いて、上記の新聞記事、ネット版毎日新聞の記事に触発され、この問題に付いて当時以前に考えたことや、当時改めて考えたことをブログに書いて公開しました。このブログ記事は、当のブログ記事の中では比較的多くのアクセスがあったようです。

この問題は基本的には次の様に整理できるように思われます。

1.鏡像の空間は現実の空間に対して、空間を構成する縦、横、および前後方向の3軸の中の1つの方向が逆転する。
2.逆転する軸方向は縦、横、および前後の何れともみなすことができるが、人は普通、それを横方向、すなわち左右方向に充てる。

問題は何故それが縦方向でも前後方向でもなく左右の横方向であるのか、ということにあり、ここで地球の引力が持ち出されたり、いろいろ議論があるようですが、基本的には、生命、生物の本質に関わる様に思われます。人間を含め、殆どの生物、とくに動物の身体は左右対称が基本型になっています。逆に言えば、鏡面対象になっている方向を横方向、すなわち左右と呼んでいるという事になります。

ちょうど当時、少しづつ読み進めていたカッシーラーの「シンボル形式の哲学」に見出された次の記述がもっとも根本的にこの原理を表しているように思われました。

☆ 視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに「異方性」と「異質性」をもつという点で一致している。「生物のもつおもな方向性、前と後・上と下・左と右は、視空間と蝕空間という二つの生理的空間において、ともに等価的でないという点で一致している。」 ― カッシーラー、「シンボル形式の哲学(木田元訳、岩波文庫)第二巻、神話的思考」より引用。引用中の引用は、原文の注記によればマッハによるそうです。

以上の引用中にある、前と後、上と下、左と右それぞれにおける異質性にもそれぞれ個性と違いがあり、少なくとも非常に明白に思われることは、前と後の異質性や上と下の異質性は、左右の異質性に比べて遙かに大きいとみなして差し支えないことです。現実の物や光景でも、絵でも、上下が逆さまになったり前後が逆になったりすれば誰でも気付きますが、左右が入れ替わってもすぐには気付かないし、気付いてもそれ程の違和感を感じません。何事においても天地が逆さまになればそれこそ大騒ぎですし、前と後もそうです。行列で並んでいても前と後の差は絶対的なものですが、左右の差は微妙なものです。左大臣と右大臣、右翼と左翼、左側通行と右側通行、こういう場合の左右の差は微妙なもので、いつの間にか入れ替わったりしています。その反面、論争の対立は常に左右の対立にされます。つまり同一平面上での対立は常に左右の対立になってしまいます。

以上のような上下と左右(前後はこの際除外し)それぞれが持つ本質的な個性が文字の縦書きと横書きの機能的な差異に関わってくるのは当然のことと思われます。端的に言って縦書きにおける上下の異質性に比べ、横書きにおける左右の異質性は遙かに少ないという事が言えるのです。このことから以下のようなことがすべて説明できるようになると思われます。

■ アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
■ 数式が横書きに適していること。
■ 漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
■ 横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
■ 漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
■ 縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
■ 横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。

以上の項目それぞれ、回を改めて考察してみたいのですが、最後に掲げた、横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性に優れるという点は、これまで指摘されたことはないのではないか、と推測しています。「横書き登場」においてもこのことには触れられていません。

速読性に優れることは、他方、誤りが生じやすいという可能性につながるように思われます。確かめたわけではありませんが、横書きでは誤記、誤読の可能性が高いような気がします

以上、今回はこれまでにします。

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