「意味」にまつわる意味深長で多様なテーマを取り上げています。 2011年2月13日から1年間ほどhttp://yakuruma.blog.fc2.com に移転して更新していましたが、2011年12月28日より当サイトで更新を再開しました。上記サイトは現在『矢車SITE』として当ブログを含めた更新情報やつぶやきを写真とともに掲載しています。
2011年2月13日日曜日
2011年2月1日火曜日
縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その4 (まとめ)
はじめに ― 前回の記事では筆者が何を言いたいのかがよく分からない・・、どこに新しい主張や発見があるのか分からないという感想がありましたので、今回はまずそこのところから始めたいと思います。
【何が言いたいのか】
何を言いたいのか?一言でいって量より質、量的な問題よりも質的な問題に注目すべきであるということに尽きます。
単に眼球運動の速さ、あるいは読みの速さや視野の広さといった数量的な比較ではなく、文章の理解の質にまで及ぶような、また優劣という比較ではない、個性の質的比較を問題にしたいということです。単に眼球運動の速さというのでは読みの速さですらありません。また、読みの速さを測定できたところで、読みの質の問題、理解度とか、間違いの無さ、また集中度などにまで及ばなければ優劣の比較に至ることはできないのではないでしょうか。
『横書き登場』(屋名池誠著、岩波新書)について
この連載の初回以来、この本を叩き台のようにさせていただいていますが、それは、この本が当時までの日本における横書きに関する情報の集成であると想定し、断片的な情報を除いては、この本一冊を参考に基に考察していますので、これは一面、筆者の怠慢に違いありません。しかし著者の屋名池教授ご自身が、「本書は初めて本格的に日本語書字方向の研究をこころみたものである」と書かれています。おそらく教授ご自身が ― 言葉の響きは良くないかも知れませんが ― 叩き台とされることを前提にされているのではないかと推察します。また、ツイッターなどのネット情報を見ても、印刷出版IT関係者の発言などを見ても今のところ、この本以上の情報には遭遇できていないように思います。
このように、この本では縦書きと横書きの厳密な定義に始まり、縦書きとは異なった横書きの性格とそれに起因する右横書きと左横書きとの競合について歴史的に詳しく調査され、さらに日本語における縦書きと横書きの質的な違いに及んでいると思います。そこで、縦書きと横書きの定義と質的な相違に関わる議論で、ゲシュタルトの概念が用いられていることは重要であると考えられます。
それにも関わらず、最終的には縦書き文と横書き文の読みの比較を眼球運動や視野の広さとの量的な優劣の比較で終わらせていることがもったいないと思うのです。結論的に、縦と横では眼球運動にも視野の広さにも大きな差はないという事から、縦書きと横書きに優劣は無いという結果に至っている訳ですが、それなら、わずかでも視野の広い横書きの方が良いではないかという結論に達しても不合理ではないということになりかねません。また数字や英文との混在の問題や、フォーマットの容易さという観点から、横書きに統一されてしまっても文句は言えないことになってしまします。
【縦と横の質的な違い】
縦書きと横書きの質的な違いは結局のところ縦、すなわち上下と横、すなわち左右という2つの方向性の質的な違いに帰着します。三次元の座標に対応させれば縦と横と前後の3つになり、x、y、z、の3つの軸の2つに対応しているわけですが、数学的な座標軸ではこの3つの軸に質的な差はありません。それが、上下や左右や前後といった概念になると質的な差が出て来ます。何度か引用したカッシーラーの著書からの引用はこのことを述べているように思われます。もう一度引用してみます。
『視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに「異方性」と「異質性」をもつという点で一致している。「生物のもつおもな方向性、前と後・上と下・左と右は、視空間と蝕空間という二つの生理的空間において、ともに等価的でないという点で一致している。」 ― カッシーラー、「シンボル形式の哲学(木田元訳、岩波文庫)第二巻、神話的思考」より引用。』
この書物の第二巻、第二章のセクション1で、この知覚空間について論じられていますが、ここでいう視空間蝕空間は、著者によると知覚空間のことを指しています。もう少し前のセクションの書き出し近くから引用すると、「知覚空間、すなわち視空間や蝕空間と、純粋数学でいう空間とがけっして一致しないどころか、この二つのあいだには一貫した齟齬があるということはよく知られていよう。」という文章で始まり、幾何学的空間が「等質的」であるのに対して、「知覚空間には位置と方向の厳密な同等性などなく、一つひとつの位置がその固有の性質と固有の価値をもっている。」と続き、先の引用箇所に続いています。この箇所を引用する方が適切であったかも分かりません。この、一つひとつの位置が固有の性質と価値をもつということは当然、縦と横、あるいは前と後という方向それぞれについても固有の質的な違いがあるということになります。この書物のこの章、この箇所の記述は上と下、右と左、そして前と後の性質に関わる諸々を考察する際の基本的な出発点になるのではないでしょうか。
【どこに新しい主張があるか】
次に、「どこに新しい主張や発見があるのか」ということですが、それはこの連載の初回で述べていることで、それは初回のタイトルのとおりなのですが、一言で言って、縦書きと横書きの差異の問題と鏡像問題との関連性、あるいは共通性を指摘した点にあると考えています。どこに共通部分があるのかというと、それは先に述べた上下と左右、および前後という3つの方向の質的な差異が係わっているという点にあります。縦書き横書き問題ではさしあたって上下と左右の2方向だけで議論しているのに対して、鏡像問題の場合は三次元的3方向の軸について議論しなければならないわけですが、基本は同じです。前回にはたまたまその時に思い浮かんだことなのですが、地球の緯度と経度の問題を取り上げました。このように、この問題は鏡像の問題に限らず、日常、非日常のあらゆるところに潜んでいるように思われます。こういった問題はいろいろなところで、これまでにも哲学者や心理学者、あるいは美学者など、或いはそういう分野やジャンルに関わらず、取り上げられているかもしれません、というより、取り上げられ、考察されていないということは殆どあり得ないといってもいいかもしれません。ただし、縦書きと横書きの問題と鏡像問題の共通性という視点はおそらく初めてではないかと想像しています。
『横書き登場』における示唆的な指摘
ただ、『横書き登場』には鏡像問題への言及はありませんが、かなり示唆的な箇所があります。それは第1章で縦書きと横書きの厳密な定義がされている箇所です。ここで「横書き・縦書き」は文字と画面との関係ではなく、列びあう単字同士の関係なのである」という定義があり、その根拠として、単字すなわち単独の文字自体に方向性があることが指摘されています。これは、一つ一つの文字自体が上下左右を持つというように言い換えられると思うのですが、この本には、「しかし普通、単字には『この向きから見る』という一定の方向性がある」、と書かれています。「この向きから見る」ということは見る人の向きのことになりますが、結局見る人の向きと文字自体の向きとの関係ということになり、文字を裏側から見たりすることも含まれ、三次元的な方向性を指していることになり、鏡像問題で議論されている問題に非常に近い問題であることが分かります。ただしここでは、縦書きと横書きの定義で用いられているのであって、縦書きと横書きの性質、機能性、あるいは優劣等に関わる問題として言及されているわけではありません。しかしまた、同じ章に「重力のもとで暮らしているわれわれにとっては抵抗感の多い『上←下』という方向」、という既述があります。ここでは、縦書きの性質を検討する上で、この種の議論が用いられています。というのも、この、下から上に向かう方向の抵抗感が重力の方向に起因しているという考え方は、それが正解かどうかは別として、鏡像問題にも出てくる議論であるからです。要するに人間の持つ上下感覚の原因を論議していることで、鏡像問題と共通する部分があることがわかります。
以上、今回のシリーズで筆者が何を言いたかったのか、そしてどこに新しい主張や発見があると考えているかについて述べました。以下は前回に引き続いての、欧文や和文における具体的な考察です。
前回は数式が横書きに適している理由まで考察しました。以下にそれ以後の問題を順に検討してゆきたいと思います。
【欧文と横書きの親和性が高いはなぜかという問題】
欧文は縦書きが事実上、実用が不可能であること、つまり縦書きにしても読めないか、横書きに比べて著しく読みづらいということは、殆ど自明のことですが、何故そうなのかという理由についても概念的には一般に了解されていると思われます。『横書き登場』の第7章には「横転縦書き」と横書きについて解説があり、欧文の場合は縦書きにすると横転横書きにならざるを得ないということから、欧文では縦書きが難しいということの説明に言及されていますので引用してみます。
「ラテン文字のように一字一字が音素(母音や子音のひとつひとつに相当する単位)という小さな単位に対応する音素文字では、一語をあらわすのに多くの文字が必要となり、文字を読むときは一字一字を読みとってゆくのではなく、語をあらわす文字列をひとつのまとまった形(ゲシュタルト)としてひと目で読みとることになる。こうした文字体系では文字列を一字ごとにばらしてしまうと、ゲシュタルトがくずれて、読み取りの効率が非常に悪くなる。このような文字体系では、文字列全体を回転させるのでなければ書字方向を変えることはむずかしいのである。一方、日本語では長大なゲシュタルトは必要ないので、文字列全体を回転させる必要性が乏しかったわけである。」
ここで、「何故欧文は縦書きでは読めないのか」という設問とは独立して「何故欧文は横書きとの親和性が高いのか」という設問を立てることができると思います。これについても、『横書き登場』における前記の引用との関連で一応その説明にはなっていると思われますが、ただ、縦読みと横読みの眼球運動や注意点の移行といった読み手の視覚の動的なメカニズムとの関連で具体的に説明されるには至っていないと言えます。そこで読み手の視覚の動的なメカニズムが縦と横とで、どのよう違いがあるかを知る必要が出てきます。
繰り返しになりますが、前回、視線と注視点の動きについて次のような仮説を立ててみました。
1) 書字方向において上から下への方向性あるいは秩序感覚は人間には自然に備わっているものであり、これに従って視覚的な注意力と視線、さらに眼球の動きも比較的よどみなく上から下へと流れることができる。少なくとも意識しない限りは自然に逆向きになる事はない。また目移りすることも少ない。
2) 横方向における左右には基本的に縦方向における上下のような価値的に歴然とした差がないため、書字方向において、左右の方向は上下のように自然に定まることはなく、強制的な規則あるいは習慣性が必要になってくる。そのために注意力の動きも、それに伴う視線の動き、したがって眼球の動きも付加的ないし偶然的な要素に左右されやすい。例えば、文字の場合は文字の大きさ、太さ、眼を引く特徴、等々に左右されやすく、移ろいやすい。目移りし易いとも言える。しかし、反面、左右両方向を一覧し易い傾向はある。これは横方向という方向性自体とともに両眼が横に並んでいることと、それに起因する両眼視差の性質にも関わっている可能性がある。
2-2) 横方向の場合、注意力と視線が左右何れかの方向に一貫して流れる場合であっても、滑らかというよりも飛び飛びに、あるいは条件によってはリズミカルに移動する傾向がある。
2-3) 横方向の文字列の方が縦方向の文字列よりも一時に全体として知覚し易い、あるいは自然に全体を1つのまとまりとして知覚する傾向がある。
2-1) から2-3)までは横書きに関わります。これらの特徴が欧文の特徴によく適合することはすぐに気付かれるのではないでしょうか。その欧文の特徴とは、スペースで区切られる単語で構成され、単位となる単語は横方向に変化する長さを持ち、したがって1文字か2文字の単語の一部以外は横長です。したがって、基本的に横長のゲシュタルト単位(こういう言い方があるかどうか分かりませんが)が横に並んでいることになります。こういう場合、視点あるいは注目点、(両方の意味を込めて注視点と呼びます)が連続的に、一様に流れて行くよりもゲシュタルト単位毎に飛び飛びに動く方が都合が良いのでは無いでしょうか。これは右仮説による注視点の横向きの動きにぴったりと当てはまります。もちろん、綴りの長い単語では1つのまとまりとして読むのは難しいので連続的に視点を追ってゆくことになりますが、とかく欧文では綴りの読み間違いや記憶違いが発生しやすいものです。漢字の場合、画数の多い文字は正確に記憶するのが難しいのと同様ですが、漢字の場合は書くことはできなくても読めることは多いものです。英語の場合、結構綴りの誤読も発生しやすいように思います。こういう欠点はあっても、英語の場合はこういう現在の横書きによる特徴が横向きの眼球運動と注視点の横の動きに適していることは確かです。
ここで現在の問題をわかりやすく整理するためにひとつ定義の追加ないし区別をしたいと思います。
◆縦書き::縦に筆記すること
◆縦読み::縦に読むこと
◆横書き::横に筆記すること
◆横読み::横に読むこと
一言で言って現在の横書きの欧文は、横読みの際の注視点の移動の仕方、性質に適しているといえます。
ここで歴史的になぜ欧文が横書きとして発達してきたかが気になるところですが、歴史的なこととは別に、英語についていえば、英文の構造や閉音節の発音が単語単位で区切れのある横書き構造に適していることは確かであるし、とくにそのリズム感は横読みの際の注視点のリズミカルな動きに調和する面があるのも事実ではないかと思います。
【日本語の場合】
日本語の場合は現行で縦書きと横書きの両方が存在していますが、それは当然、縦横いずれにも書くことと読むことが可能であるから、ということは明白です。その理由については、「横書き登場」などでもすでに説明されていると思います。それは基本的に正方形の文字が句切れなく続くという点で、基本的に縦横が同じサイズの、いわばゲシュタルト単位が単調に連なってゆくという点では縦書きと横書きとで違いがありません。
一方、縦書きまたは横書きとして表現される以前の、発音した際に感じられる日本語自体の性質として、単語による句切れが無く、句読点による休止以外はなだらかに連続してゆきます。特にはっきりとしたリズム感もありません。この性質が、縦読みの自然に流れる連続した、なだらかな注視点の動きにかなっています。横書きの場合は、横読みの際に起こりがちな注視点のスポット的にステップを踏むような移動が邪魔になると言えます。
それでも習慣づけられることによって横書きの横読みは可能で十分実用になり、読みの速さにおいても特別問題になることはなく、場合によっては縦書きよりも早く読める場合もあるかも知れません。ただし、読みの質というものを考える必要があります。英語でも綴りの読み間違いはよくあることで、書き間違いも結局は書き間違いに気付かないという事すから、読み間違いと同じことになります。
【さらに考察すべき種々の問題】
最後に、当然ですが、さらに考察すべき様々な問題があると思われます。中文やハングルについては筆者が中国語や朝鮮語知らないためもあり、今回はこれ以上考察は避けたいと思いますが、中でも次のような問題を検討することは和文と欧文、また和文と中文や韓文等の比較の上で重要であるものと考えます。
◆欧文の場合、文字のデザインを変えるなどして現在の横書きにおける特徴をそのまま縦書きに移すことが可能とすれば、縦書きの方が有利になるかどうか。 ― これまでの仮説と推論から推定すると、縦読みの自然さから綴りの読み間違いなどは減少する筈ですが、一方、長い単語の一覧性(ゲシュタルト性)は低下する可能性も考えられます。
◆和文における漢字やカタカナの混在する状態は、欧文における、スペースで単語が区切られる状態と同一の効果を持っているか、或いは異なるものであるかどうか。 ― 和文における漢字やカタカナの混在は縦書きと横書きとを問わず、読みやすさに寄与していることは明らかです。
◆和文における分節の分かち書きが持つ意味と、欧文におけるスペースで単語を区切ることが持つ意味の比較。分かち書きが縦書きと横書きそれぞれに関して持つ意味と漢字混在が縦書きと横書きにおいて持つ意味の違い。
【まとめ】
ここまで来て、これまでの考察を簡明に定式化する表現方法を見出すことができたようにと思います。次の2項目による定式化です。
◆次の2項目に定式化が可能。
① 縦横比が1に近い(円や正方形)の比較的小さいゲシュタルト単位、或いは縦横比が不定の比較的小さいゲシュタルト単位が一様に連なるような文字列の場合は縦書きの方がより正確に漏れなく読みとることが可能になる。
② 縦横比の長い、すなわち縦か横の何れかに細長く伸びた複合的な(ただし長さは必ずしも一定ではない)ゲシュタルト単位(英単語など)が連なる文字列の場合は、横書きの方が効率的に読みとることが可能になる。
ただし、欧文、和文を含めてすべての文には①と②両方の要素が含まれます。例えば英単語は横長のゲシュタルト単位といえるので、英単語に注目すれば英語は②になりますが、一つの英単語は一つ一つの文字の連なりであり①に該当すると言えます。和文ではもちろん全体として①に該当しますが、短い漢字の熟語など、②の要素も無視できないでしょう。①と②のそれぞれの作用の仕方は非常に複雑なものになると思われます。
【最後に】
今回の一連の考察は言語学などの専門的な用語や概念を踏まえたものになっていないかも知れません。また歴史的な調査やデータの統計的な解析、あるいは実験的な検証などは行っておらず、推論に終始しています。しかし、この推論で得られた考察を念頭に置いた上で、以下のような項目について縦書きと横書きとを比較してみることで、改めて縦書きと横書きの差が意識されてくるのではないかと思われます。
◆眼の疲れ具合に差はないかどうか。
◆読み間違いの頻度に差はないかどうか。
◆読んだ内容の記憶の強度(記憶に残る程度)に差はないかどうか。
◆理解の速度と注視点の動きとのあいだで調和がとれているかどうか、視点の動きが先走るようなことはないだろうか。
◆一字一句を漏らさず読めているだろうか。
◆読んだ後の充足感に違いは無いだろうか。
筆者自身、これらのことに気付いてから書物の縦書きを読む際と、PCソフトで作業する時やウェブサイトの横書きを読む際に縦横の違いに注意するようになり、個人的には今回の考察がかなり検証されているように考えています。可能な場合は縦横変換できるテキストエディターで作業もしていますが、縦書きで入力すると、横書きの場合に比べて誤変換に気がつきやすいように思います。横書きでの作業に比べて誤変換を見逃すことが少ない印象です。また句点の打ち方も自然に、読みやすいように打てるように思います。あるいは、不必要な句点が少なくなるような気がします。さらに文章自体の作成にも影響を及ぼす可能性もないとは言えない気がします。
以上。
付記
鏡像問題に付いては http://d.hatena.ne.jp/quarta/ に幾つかの記事を書いています。
鏡像問題を扱った認知科学学会誌の論文が下記からダウンロードできます。
以下、多幡大阪府立大学名誉教授のツイートからコピー
「tttabata 小特集-鏡映反転:「鏡の中では左右が反対に見える」のは何故か? JCSS Vol. 15, No. 3 (2008). 小亀、多幡、高野の各説、相互批判、批判への回答、の各論文が無料ダウンロードできます。 http://bit.ly/eeGxWO」
(2011年2月1日 田中潤一)
2011年2月13日追記
参考文献としてもう1件、ツイッターより多幡名誉教授のツイートを転載させて頂きます。
「ウエブから消失していたブログ記事 「鏡の世界」 http://bit.ly/hmICZq 「鏡の世界:解答編」 http://bit.ly/dEWmZE を復活。解答編のコメント欄で、左右の定義、その概念の性質などについて、哲学の先生と有意義な議論をしていた。 @yakuruma 」
2010年12月17日金曜日
縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その3 ― 縦と横、それぞれの方向性と文字と文字列のゲシュタルトとの関係の導入。
ゲシュタルトの概念導入の必要性
前々回、このテーマの第1回目では鏡像問題とされる現象の根底に横たわる原理が縦書きと横書きの機能的な差異にも関係していると考えられる根拠を述べ、回を改めて下記項目をこの原理から説明してみたいと述べました。2回目の前回は、その本題の考察に入る前に、両眼視差の問題を提起して終わったのですが、今回は本題、すなわち鏡像問題の縦書き横書き問題への応用とでも言える問題に入りたいと思います。
■ アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
■ 数式が横書きに適していること。
■ 漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
■ 横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
■ 漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
■ 縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
■ 横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。
これらは、今や直感的に理解して貰えるように思われますし、具体的に論証することも容易であろう予想していたのですが、いざ、文章に表現しようと思うとなかなか難しく、思うように言葉と表現が見つかりません。そうこうする中に気付いたことは、ここで1つ、少なくとも1つの概念、短い言葉で言い表せる概念を定義し、その重要性を認識することが必要であるということです。少なくとも、英語やそれを含めた欧文、和文、中文、韓文など、個々の言語の文章に適用して考察するにはそれが必要になってきます。その概念というのは実は、前掲の「横書き登場」でも取り上げられています。それは「横書き登場」の第7章で「横転縦書きと左横書きの関係」という小見出しの付けられた段落に、次のように書かれています。
「ラテン文字のように一字一字が音素という小さな単位に対応する音素文字では、一語を表すのに多くの文字が必要となり、文字を読むときは一字一字を読みとってゆくのではなく、後を表す文字列を1つのまとまった形(ゲシュタルト)としてひと目で読みとることになる。こうした文字では文字列を一字ごとにばらしてしまうと、読み取りの効率が非常に悪くなる。このような文字体系では、文字列全体を回転させるのでなければ書字方向を変えることはむずかしいのである。」 ― 屋名池誠著、「横書き登場」第7章より―。
このように、「横転縦書き」の意味に関わる箇所でゲシュタルトの概念が使われているわけですが、著者はこのゲシュタルトの概念をここでしか使っていません。ゲシュタルトの概念を、さらに根本的な、なぜ欧文では横書きが相応しく、和文、中文、韓文では縦書きで発展して来たのかという問題に適用できる筈、と思われるのです。つまり、なぜ欧文では横書きが自然であり、和文では縦書きが自然であったのかという問題、さらに、縦書きと横書きそれぞれの機能性の分析のそもそもから、ゲシュタルトの概念を用いて考察すべきなのです。その際、鏡像問題の根底に横たわるところの、人間にとって上下と左右、あるいは縦と横というそれぞれの方向性自体が持っている性質と併せて考察することが必要になるという事ではないか、と思われるわけです。
さらにはこの、ゲシュタルトと言われる現象とこの縦横の感覚それぞれ自体が同根のものなのではないか、とも思われるのですが、いまはそこまで考察する必要はないと思います。
しかしその前に、個々の言語の表記とは関係なく、一般的に縦方向と横方向における方向性、あるいは秩序感覚とでも言うべき問題を考察してみたいと思います。まず、初回の冒頭で述べたことですが、彩度、改めて鏡像問題の根底に横たわる基本原理と思われる箇所を繰り返すことから始めます。
マッハとカッシーラーによる次の引用文
『視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに「異方性」と「異質性」をもつという点で一致している。「生物のもつおもな方向性、前と後・上と下・左と右は、視空間と蝕空間という二つの生理的空間において、ともに等価的でないという点で一致している。」 ― カッシーラー、「シンボル形式の哲学(木田元訳、岩波文庫)第二巻、神話的思考」より引用。』
これが鏡像問題とされる現象を説明できる根本的な原理であると考える訳ですが、この、「視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに『異方性』をもつという点で一致している。」という説明自体は特に鏡像問題のみに関わる原理ではなく、人間、さらには動物一般の知覚そのものに関わる普遍的な問題に関わるものであるはずです。縦とか横とか前後ろと言った概念そのものに関わっているとも言えます。(これを概念と言うべきなのか、感覚と言うべきなのか、あるいは知覚と言うべきなのか、今は分かりませんが、とりあえずこれらの言葉を適当に用います。)ですから、当然、これに関係する現象あるいは、習慣はいくらでも挙げることができそうです。とはいえ、意識的に例を見つけるのは必ずしも容易では無いかも知れません。というのも、縦とか横とか、前、後などの概念は余りにも基本的な概念、というか、感覚、あるいは知覚であり、主観的に身についた感覚であるため、意識するのは難しいのかも知れません。しかし、その気になって探せばいくらでも見つかる筈のものでしょう。
例えば、地球儀がなぜ緯度と経度で表され、地図で経度が縦、緯度が横に表現されるのか?という問題
例えば、地球儀や地図で経度が縦の方向、そして南北方向に充てられ、緯度が横方向東西方向に充てられていると言う事実。これは地球の公転と自転、太陽や星との位置関係といった外的な、あるいは物理的な条件と共に、鏡像問題と共通する心理的ないし、認知科学的な要素が関わっているものと考えられます。これは、鏡像問題において光の反射や眼の位置といった物理的な要素と心理的ないし認知的な要素とが関わっているのとパラレルな関係であるとも言えます。
そこで、この普遍的な原理が縦書き横書きの機能性の問題にどのように適用できるのかという事を考えた場合、以下を基本原理とみなして考察を進めたいと思います。詳細な推論は省略しますが、何れも物理的ないし幾何学的、あるいは生理的な要素と心理的ないし知覚の要素の両者が関わっているものと考えられます。
上から下への方向感覚、秩序感覚は人間に自然に備わったものであるのに対し、左右間の方向感覚、秩序感覚は規則や習慣で強制されたものであること
書字方向に限らず、一般的に上から下への方向感覚、流れ、あるいは秩序感覚は自然に備わっているのに対し、左右の方向感覚における流れ、秩序感は何らかの規則によって強制されなければならないものです。基本的に、左右には上下のような自然な秩序感覚がありません。左右は本来殆ど平等であり、何らかの強制的な秩序が押しつけられて始めて方向性が定まるのだと思います。これを書字方向における注意の向け方に適用すれば、以下の各項目を仮説として挙げることができるでしょう。
1)書字方向において上から下への方向性あるいは秩序感覚は人間には自然に備わっているものであり、これに従って視覚的な注意力と視線、さらに眼球の動きも比較的よどみなく上から下へと流れることができる。少なくとも意識しない限りは自然に逆向きになる事はない。また目移りすることも少ない。
2-1)横方向における左右には基本的に縦方向における上下のような価値的な差がないため、書字方向において、左右の方向は上下のように自然に決まることはなく、強制的な規則あるいは習慣性が必要になってくる。そのために注意力の動きも、それに伴う視線の動き、したがって眼球の動きも付加的ないし偶然的な要素に左右されやすい。例えば、文字の場合は文字の大きさ、太さ、眼を引く特徴、等々に左右されやすく、移ろいやすい。目移りし易いとも言える。しかし、反面、左右両方向を一覧し易い傾向はある。これは横方向という方向性自体とともに両眼が横に並んでいることと、それに起因する両眼視差の性質にも関わっている可能性がある。
2-2)横方向の場合、注意力と視線が左右何れかの方向に一貫して流れる場合も、滑らかというよりも飛び飛びに、あるいは条件によってはリズミカルに移動する傾向がある。
2-3)横方向の文字列の方が縦方向の文字列よりも一時に全体として知覚し易い、あるいは自然に全体を1つのまとまりとして知覚する傾向がある。
(気がついてみると、これらの中にすでにゲシュタルトの現象が入っていることが分かりますが・・・)
これらを欧文や和文など具体的な言語表記に適用しようとする場合、冒頭に述べた文字と文字列におけるゲシュタルトの問題を縦横それぞれの性質の問題に組み入れる必要があるわけです。
まず、方向性の流れとしては上から下への縦方向が自然であるとするなら、なぜ欧文は横書きが自然なものとして発達してきたのであろうか?という問題が生じます。この場合、もしも、各行、1行全体にゲシュタルトが適用できるもの仮定すれば、行移りが上から下に進行するので、まったく横書きが自然なものになるといえます。しかし欧文の1行が漢字1字と同じようにゲシュタルトとして認識できると考えるのは無理です。しかしこれは程度の問題もあるでしょう。少なくとも多少はゲシュタルトが作用していることは明らかです。以下、この問題を冒頭に掲げた、連載の1回目から引き継いだ7つの項目に適用して考察してみたいと思います。これは次回にしたいと思いますが、これらの項目の中で2番目の数式の問題は基本的に縦と横それぞれの性質からだけでも大部分が説明できるように思われますので、この項だけを今回、先に考察しておきます。
■ 数式が横書きに適していること。
これは基本的に、横方向の左右には上下や前後に比べて異方性が小さい、価値的な差がない、あるいは価値付けが任意的であるという事から、誰でもすぐに納得できる事だと思います。そもそも数式には方向性というものがあまりありません。少なくとも等式や不等式の左右の項に方向性はありません。等式では、左右の項を入れ替えるのは自由だし、不等式であっても記号を変えれば左右を入れ替えることができます。ただ十進法で表現された数自体には位取りという方向性はあります。当然、十進法の位取りによる数はアラビア数字でも漢数字でも縦書きは可能で、ことによれば縦書きの方が書き間違いや読み違いは少ないかも知れないと思います。しかし、数式となるとやはり、方向性の無さというか、入れ替えの可能性、一覧性などから、どうしても横書きが有利なのは自然に理解できると思います。数式というのは全体の形で理解するという面もあり、また逆方向に右から左に読むこともできない訳ではないと思います。特に等号や不等号の右側を先に読んだりすることは、十分にあり得ることです。全体の形の一覧性という点でも横長が有利であると言えます。
今回、以上。
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