2014年2月4日火曜日

E・カッシーラー『啓蒙主義の哲学』読了 ― 哲学の最終目標は美学なのか

数日前に表記の本を読了した。この本を読み始めた経緯は、このブログか別のブログに書いたが、これはおそらく20年ほども以前に購入して殆ど読んでいなかった本である。同じ著者の『シンボル形式の哲学』は数年前に一通り読了したが、つい昨年には学生時代に読んだ、やはり同じ著者の『人間』を再読したところであり、一応だがカッシーラーの重要な著作を三冊読んだことになる。こういうこと、一人の大哲学者の著書三冊を読了したといえるのは初めてのことで、ちょっとした満足感がある。もっとも『人間』は一般人を対象に書かれた本であると言われているし、今回の『啓蒙主義の哲学』も最初に購入したのは哲学史の教科書的な印象で購入したものだったが。

そういう次第なので、どうしてもこの三冊を、どれだけ理解できたかはさておき、自分なりに比較する気が起きる。もちろん先に読んだ二著作、特に主著と言われる『シンボル形式の哲学』がどれほど頭に残っているかと言えばまったく心もとない次第である。とはいえ、先日脱稿し、テクニカルレポートとして日本認知学会に投稿して再録された鏡像問題に関わる論考は、『シンボル形式の哲学』の第二巻である『神話的思考』を読んでいなければ成立することがあり得なかったものなのである。ちょうどブログで鏡像問題の新聞記事に触れた頃に、まさに今回のレポートで引用したあたりを読んでいたのだから。

とにもかくにも少なくとも個人的に、これらの三著作を比較することは特に興味深いのである。

『シンボル形式の哲学』は第一巻が『言語』、第二巻が『神話的思考』、第三巻が『認識の現象学』というタイトルになっているが、第三巻『認識の現象学』 の後半では自然科学と数学がテーマとなり、訳者の解説によるとこの部分がこの書の「クライマックス」とされている。それに対して『人間』では人間の「文化」を対象とし、文化の要素として神話と宗教、言語、芸術、歴史、そして科学が、どちらかというと並列的に扱われていたような印象があったが、比較的に芸術と歴史に重点が置かれていたような気がする。

今回の『啓蒙主義の哲学』では、対象は表題の通り啓蒙主義の哲学という、哲学そのものである。それが自然と自然認識という認識の基礎から始まり、心理学、宗教、歴史、法、国家、社会、と、この順序で著述が進められ、最後は『美学の基本問題』という章タイトルのとおり、美学が対象となっている。分量的にも、この書物では美学の問題が「クライマックス」となっている印象であった。これにはかなり強烈な印象を受けたといってもいい。 個人的に「啓蒙主義の哲学」についても、一般人としても殆ど知識と明確な印象を持っていたわけではなかったが、それでも、美学が啓蒙主義の哲学の中で重要な位置を占めているという印象は殆どなかったからである。それがこの著作を読了することで、美学こそが哲学の最終目標であるかのような印象が得られた次第なのである。それは単に啓蒙主義の哲学についてのことではなく、哲学そのものの目標が美学にあるといえるのではないかということなのだ。

改めて木田元氏による『シンボル形式の哲学』の解説を少しだけ拾い読みしてみたところ、次のような記述があった。「彼はこの〔シンボル形式〕という概念をどこから汲みとってきたのであろうか。カッシーラー自身は、その直接の源泉として美学と物理学を挙げている」

「美学と物理学」―なるほど、意味深長。











2014年1月24日金曜日

テクニカルレポートについてのお知らせ

2007年暮に鏡像問題をテーマとした毎日新聞記事を取り上げた記事を筆者の別ブログ『発見の発見』に書いてからもう7年目になります。それ以来、鏡像問題の根底にある認知現象の問題が鏡像問題を離れて空間認識に関わる様々な現象、問題に関わっていることに気付くようになり、それが言葉や意味の問題に深く関わっていることがますます明らかとなり、例えば縦書きと横書きの機能性の問題などをとりあげて考察し、本ブログの記事にしてきました。昨年来、鏡像問題そのものについて本格的に考察を行い、今般テクニカルレポートという形で日本認知科学会のサイトで再録して頂きました。日本認知科学会のホームページ(「出版物」欄、テクニカルレポートのページ)からダウンロードできますので、興味ある方はご覧ください。タイトルは『鏡像を含む空間の認知構造に向けての予備的考察』となっています。

2013年10月2日水曜日

『漱石と温かな科学』(小山慶太)の読了にいたるまで

表題の本は、もう10年以上も前に購入した新刊書をこれまで読まずにいたものである。永らく放置していたこの本に手を伸ばしたきっかけは、一連の最近の読書である。読了した順を遡って列記してみると次のようになる。



岡潔 『春宵十夜』、ごく最近再刊された文庫本

太田文平 『寺田寅彦』、古書店の店先で偶然に見つけて購入

中谷宇吉郎著、福岡伸一編、『科学以前の心』、最近の文庫本

高瀬正仁 『岡潔 数学の詩人』、岩波新書

小林秀雄+岡潔 『人間の建設』、新潮文庫、最近の刊

白洲次郎 『プリンシプルのない日本』、最近の文庫本

白洲正子 『隠れ里』、『白洲正子自伝』、『西行』、いずれも購入した文庫本


とまあこんなところ。

小林秀雄の本は書店の文庫本コーナーの平積みで見つけたが、昨年あたりから読んでいた白洲正子と白洲次郎が作品と私生活でも影響を受けていたことで念頭にあったことは確かだ。もちろん小林秀雄は現在なお多数の著者やジャーナリズムで言及され続けている人物でもあり、多く人々の念頭に常にあるのだろう。哲学者の木田元氏の近年の著書でもかなり目立って言及されていた。しかし個人的には若いころにあの有名な『モオツァルト』を読んだだけだった。それが岡潔との対談ということで新たな興味が湧いたことは確かである。

上記の中、『人間の建設』までは、すでに当ブログの記事にしている。

『人間の建設』を読了した後、続いて小林秀雄とその周辺に向かう気もあったが、結果的に岡潔の周辺に向かっていったようだ。岡潔と親交があった中谷宇吉郎の本も偶然なのかどうか、新刊文庫本のコーナーで目が止まり、もともと関心のある人でもあったので購入して比較的すぐに読了した。その後、中谷宇吉郎の先達でもあり、先生でもあったともいえる寺田寅彦の伝記を古書店で見つけてそれも積読にはならず比較的早期に読了した。それと殆ど同時にまた岡潔の恐らく処女作だろうと思われる『春宵十夜』を読了したわけである。この本が新刊書として刊行されたとき、恐らく立ち読みした記憶がある。数学志望でそれが果たせなかった大学の同級生が読んで憧れていたことは確実だったが、なぜか自分は購入してまで読む気にはならなかった。


寺田寅彦と親密な関係にあってその弟子であったところの先生であり、中谷宇吉郎と岡潔にも特別深く敬愛されていたといえるのが漱石にほかならないが、その漱石と科学との関わり、あるいは接点とも言えるかもしれないが、漱石のその面にフォーカスを当てた漱石論とも言えるのがこの本、『漱石と暖かな科学』と言っても良いだろうと思う。著者のあとがきによると、「漱石の作品や生きざまを通して織りなされる文学と科学の綾を、七つの物語にしてまとめて描いてみたのが本書である」となっているが、「織りなされる文学と科学の綾」とは実にうまく表現したものだと思う。この表現自体が非常に文学的で、あまり科学的でも論理的でもないが、実に適切で、他に言い様がないとも言える。私には接点とでも表現するしか能がないが。

ともかく、漱石の思想や文学と科学との関係を理論的に解明できたものとも説明できたものとも思えないが、それでも確実に漱石あるいはその周辺と時代そのものと科学との深い関わりを暗示する含蓄のある本だったと思う。もちろん、作品以外に、寺田寅彦や科学の面で関わりのあった何人かの人物も登場する。

さらに文学一般と科学の関係などを掘り下げることや漱石の科学性や科学観について考究することも意義あることだろうが、今これ以上この問題で考えるいとまも能力もない。ただ、「話変わって」、というべきかもしれないが、個人的には鴎外との関係または対比で、少し思うところがある。今のところ寺田寅彦、中谷宇吉郎、岡潔の三人共に、鴎外について語っている文章に行き当たっていないが、少なくとも漱石ほどには評価していなかったのだろう。現在の一般的な人気においてもそういえる。しかし私的には、最初に両者の作品群を多少とも読んだ頃から、鴎外のほうが偉いという感想をもっていた。

鴎外は、漱石が意識的にかどうかは分からないが、扱うことを避けたと思われる人生の重要事に重点をおいて追求しつづけていたように思う。それは職業、仕事、あるいは使命、天職という問題で、見方によっては立身出世の問題になってしまい、そういう問題を避ける事で漱石は人間関係の深みを追求する事ができたのかも知れないとも思う。その辺りについては、漱石の作品群もごく通り一遍にしか読んでいないので何も言えない。

過去に、漱石の代表作をひと通り読んだ頃と同時期に鴎外選集をかなり読んだので、その頃から私は鴎外と漱石について上記のような印象を持っていた。後年の史伝と呼ばれる作品群になると難しくてとても読めなかったが、渋江抽斎までは、一応面白く読めた記憶がある。鴎外が描いたそういう人物は過去の武士を含めた役人や学者の場合が多いが、初期の短編ではもっと身近な職業人や職人も多く、漱石の描いた人物よりもはるかに多様であるといえる。女性を描くの場合もそういうところがあり、有名な「安井夫人」は変な言い方だが、学者の妻という、一つの天職に取り組む女性を描いたと言えないこともない。夫との感情的な人間関係については何も書いていないし推測も憶測もしていない。著者が推測しているのは彼女の「あこがれ」であって、確かにそれはあまりにも茫漠としたものではある。が、やはり漱石作品と同様に純然たる文学である。やはりゲーテの影響は否定出来ないと思うが、漱石がゲーテをどう思っていたのだろうかと思うことはある。

・・・今はこの記事でもうあまり時間をとる気にもなれないので、あとはちょっと断片的なメモをいくつか。

◆岡潔は、世界的にいっても女性を本当に描くことができたのはドストエフスキーと漱石だけだと言っている。他にも断片的だが岡潔の文学論で意味深長な発言は多い。

◆しばらく前からカッシーラーの「啓蒙主義の哲学」を少しづつ読んでいる。ちょうどデカルトからニュートンにいたる時代の考察を読んでいて、「漱石と暖かな科学」の記述と重なるところがあり、興味深かった。

◆寺田寅彦は俳句の創作で漱石と深くつながっていた。岡潔も芭蕉と俳句そのものを高く評価していた。それに対して鴎外はどちらかと言うと短歌や歌人達と関わりが深かったようなところがある。岡潔はまた「佐藤春夫は芥川は詩がわからないといっているが、むしろ佐藤春夫は詩人ではなくうたびとだという気がする」と書いている。これと関係があるかどうか分からないが、太田文平著『寺田寅彦』には次のような一節がある。「俳諧の精神はロマンよりも写実をとるということであり、抽象的なものより具体的なものを対象にするのが、科学における寅彦の俳諧の私信の真髄である。・・・」この辺りの事は個人的に、短歌も俳句も理解しているとはいえないのでよくわからないが気になるところではある。どちらかと言えば短歌の方が好きかなという程度だ。