鏡像は鏡像だけを単独で見る限り、通常の像、つまり鏡を介さないで見ている像と何も変わるところはありません。鏡の像を直接の像と間違えることは結構よくあることです。鏡の像は平面的だとか、奥行きが少ないとかいう人がいますが、鏡を通さない像でも同様に平面的に見える時も見えない時もあります。片目でしか見えない部分が生じたりするにしても、そういうことは鏡を通さない光景でもよくあることです。鏡像が鏡像を介さない像と異なるのは、同じ対象を鏡像と鏡像を介さない像とで比較した場合だけです。なお鏡を介さない像を「実物」と表現する場合がありますが、視覚を問題にする以上、「実物」とは表現しないほうが良いと思います。
ですから、鏡像に特有の認知現象をあつかう際には鏡像特有の問題に純化する必要があります。したがって鏡像ではない場合にも生じる現象を排除する必要があるのですが、これが徹底されていないところに鏡像問題がなかなか解決しない一つの原因があるように思われます。このシリーズの「その5」で、指摘したような「三種類の逆転」を明確に区別することはこの意味で重要です。
端的に言って、鏡像に特有の問題に関係するのは「形状の逆転」だけです。「意味的逆転」と「方向軸の逆転」とは鏡像に特有の逆転ではなく、鏡像であるかないかにかかわらず極めて普通に生じうる逆転現象であると言えるでしょう。例えば、向かい合っている人の左右を自分自身の左右で判断した結果、左右を取り違えることはよくあることです。左右がはっきりしない対象の場合、よく「向かって右」というような表現をしますが、これはこの間違いを犯さないための配慮にほかなりません。鏡像問題の考察で「共有座標系」を使った理論というか説明がありますが、どうもこの理論は結果的に「意味的逆転」のことを指しているのではないかと思うのです。とすれば、その議論は鏡像に特有の現象を指しているのではないことになります。
一方、「方向軸の逆転」を「形状の逆転」と区別することは、さらに複雑な問題になります。というのも、「形状の逆転」は通常、「方向軸の逆転」を伴って認知されるからです。しかし、方向軸の逆転は鏡像に関係なく、日常的に極めて普通にみられる現象です。例えば人と対面しているとき、人は明らかに対面している人物の前後が自分とは逆向きであることを認知しているはずです。また逆立ちしている人がいれば、明らかに普通に立っている人とは上下が逆転していると認知することでしょう。
鏡像で例を挙げれるとすれば、静かな水面に映った光景などの場合、だれもが上下が逆に映っていると判断します。さらに注意すれば、「左右が逆に映っていないのに上下だけが逆転するのはなぜか?」、という疑問に発展しますが、左右の問題に気付く以前に、逆立ちしている人の場合と同様、誰もが上下の逆転に気づきます。この時点では鏡像に特有の「形状の逆転」ではなく「方向軸の逆転」だけが認知されていると言えます。方向軸の逆転だけが認知される場合に加えて形状の逆転の認知の両方が共存して認知される場合があるというだけのことです。
鏡像に向かい会っている人の場合も同様のことが言えます。鏡に向き合っている人物の姿とその鏡像とは互いに前後が逆転していることに誰もが気づくはずです。この逆転は二人の人物が互いに向かい合っている場合と同じ種類の逆転なのです。ただし二人の別人が向き合っている場合は左右も同時に逆転しています。しかし鏡像の場合に二つの人物像で左右が逆転していないことに気付く認識に至れば、形状の逆転に気づいたといえるでしょう。従って鏡像の場合は前後一方向だけの逆転となります。形状の逆転は一方向のみの逆転になるからです。しかしこのような状況で形状の逆に気づくとき、たいていの人は前後ではなく左右が逆転していると考えるわけです。実際には形状の逆転の場合、前後で逆転していると見ることも左右で逆転していると見ることもできるし、さらに想像力をたくましくすれば、上下で逆転しているとみることも、その他の方向で逆転しているとみることもできるわけですが、そこまで想像力をめぐらす人はあまりいないでしょう。
以上の通り、形状の逆転が認知される場合、必ずそれ以前に方向軸の逆転が認知されています。したがって、鏡像に特有の認知現象を考察するには単純な方向軸の逆転のみの認知を排除しなければなりません。これがなかなか困難であるといえます。それを確実にする方法は、条件に形状の逆転、言い換えれば形状の差異、つまり対象を直接見る像と鏡を介してみる像との形状の差異が認知されることを条件に加えることが必要です。
上述の意味で、鏡像と直接像との違いの認知現象において、対掌体の成立を、原因から排除することは許されないことだと考えます。もちろん対掌体という用語や概念を使わずとも、この種の形状の逆転が表現されていればそれでよいわけです。
鏡像関係において形状の逆転とはより正確には「二つの形状に何らかの規則的な差異が生じている 」と表現すべきでしょう。「形状の逆転」は、この表現、すなわち「形状の逆転」という表現自体では正確に表現しきれないからです。それをこのシリーズの「その5」で説明しているわけですが、とりあえず「逆転」という概念を使って簡単に表現するとすれば「形状の逆転」としか表現しようがないように思えます。
次回は形状そのものについて、もう少し掘り下げて考察してみたいと思います。「特定の形状は意味を持つ」ということについて、逆に形状は単に点の集まりに過ぎないと考えることが如何におおざっぱで、安易な誤った考えであるか、について考察したいと思います。
「意味」にまつわる意味深長で多様なテーマを取り上げています。 2011年2月13日から1年間ほどhttp://yakuruma.blog.fc2.com に移転して更新していましたが、2011年12月28日より当サイトで更新を再開しました。上記サイトは現在『矢車SITE』として当ブログを含めた更新情報やつぶやきを写真とともに掲載しています。
2015年12月9日水曜日
2015年5月16日土曜日
科学哲学について思うこと ― 『科学哲学への招待(野家啓一著)』および『科学哲学(ドミニック・ルクー著)』の読後メモ
タイトルにある二著作のうち、今回読了したのはこの3月に文庫本形式で刊行されたばかりの『科学哲学への招待(野家啓一著)』の方である。一言でいって専門用語としての「科学哲学」の概念が、かなり明瞭に提示されている本である。実のところ、科学哲学という言葉は見聞きしていたという意味では知っていたが、専門的に定義されているような意味ではよく理解していなかったので、この用語の概念がかなり明瞭に把握できたことは個人的に意義のある契機となった。
しかし、読み進むうちに、1~2年ほど前だったか、後者の方『科学哲学(ドミニック・ルクー著、文庫クセジュ日本語訳)』を読みかけて放棄したままだったことを思い出した。あまり内容も記憶しておらず、やはり翻訳本であるということもあって、読みづらく面白く読めなかったせいかとも思ったが、あらためてこの本を取り出してページをめくってみたところ、半ばあたりまで、ところどころ色鉛筆で線が引いてあり、自分のことながら結構まじめに読んでいたらしいのだった。しかしやはり翻訳本の文章が持つ宿命で、表現のインパクトが弱かったのだろう。
という次第で、後者の方も、正確に前回中断した個所からというわけではないが、目次を見て興味深く思われた箇所、結果的に、前回中断した個所よりも少し後の方からもう少し真面目に読み直してみた。その個所というのは、フランスの伝統、学者、特にバシュラールという哲学者を中心に解説した個所から始まっていた。この学者については前者に言及がなかったこともあり、短い本でもあるので改めて真面目に読んでみたのである。
両者の内容はだいたい重なっていると言える。前者は、「第一部・科学史」、「第二部・科学哲学」、「第三部・科学社会学」の三部構成になっているのに対し、後者は第1章から第21章まで切れ目なしにつながっているだけだが、前者と同様に三部構成として見ることができる。というのは、第一部と第二部はテーマとしてかなり共通しているといえるからである。特に第二部に相当する部分がクーンのパラダイム論で終了し、そこから第三部の科学社会学なり、科学論、あるいは別の展開といった方に移行するという構成で共通している。ただ後者では、この前者の第三部に相当する部分がバシュラールを中心としたフランスの哲学者の仕事と、生物学における科学哲学の問題が扱われている。前者では、この部分は科学社会学という範疇の中で多様な問題が扱われているわけだが、当然、後者と重なる部分もあり、互いに重ならない部分もある。
両者それぞれに意義があると思うけれども、個人的には後者の方が興味深く思われた。というのも、後者の行き方の方がそれまでの第二部までの内容と密接につながっていると思われる点で私の個人的な関心に対応しているように感ぜられたからである。しかし現在日本の社会的関心からいえば、前者の方が有意義かもしれない。
という次第で、両者共に第二部に相当する部分、すなわちクーンのパラダイム論に至るまでの内容が事実上、狭い意味の「科学哲学」であることが、今回の読書でかなり明瞭に理解できたことが、今回の個人的な収穫だったといえるかもしれない。
今回、この「科学哲学」について改めて、今回理解できた範囲で考えてみたのだが、基本的にこの「科学哲学」は論理学であり、それも形式論理を基礎に展開されてきたのであり、「意味」の領域に踏み込む程度が貧弱なのではないかと思われた。
もちろん、「意味」が重要な要素として扱われていないわけではない。しかしそれは意味の定義とか、「意味とは何か」あるいはある要素が「意味を持つ」か「持たない」か、といった、意味を中身の見えないパッケージとして扱うにとどまるかのような印象を受けるのである。そこが、「意味」の内容に深く関わっているカッシーラーの哲学などとの違いではないかと思うのだが。
後者(ルクーの著作)でかなり重点的に解説されているバシュラール等の哲学者の言説は、この短い解説書から漠然と読み取れた限りでは、カッシーラー同様に意味の中身にまで踏み込んでいるような印象を受ける。
それにしても、引き続きこの本で紹介されている生物学的な科学哲学の興味深い解説を読むにつけても、科学は永久に言葉の枠から抜け出すことができないという、一種の絶望に行き着くようにも思われる。ただしそれは科学にとっての絶望である。
カッシーラーは『シンボル形式の哲学』第三部の序文で次のように述べている。
しかし、読み進むうちに、1~2年ほど前だったか、後者の方『科学哲学(ドミニック・ルクー著、文庫クセジュ日本語訳)』を読みかけて放棄したままだったことを思い出した。あまり内容も記憶しておらず、やはり翻訳本であるということもあって、読みづらく面白く読めなかったせいかとも思ったが、あらためてこの本を取り出してページをめくってみたところ、半ばあたりまで、ところどころ色鉛筆で線が引いてあり、自分のことながら結構まじめに読んでいたらしいのだった。しかしやはり翻訳本の文章が持つ宿命で、表現のインパクトが弱かったのだろう。
という次第で、後者の方も、正確に前回中断した個所からというわけではないが、目次を見て興味深く思われた箇所、結果的に、前回中断した個所よりも少し後の方からもう少し真面目に読み直してみた。その個所というのは、フランスの伝統、学者、特にバシュラールという哲学者を中心に解説した個所から始まっていた。この学者については前者に言及がなかったこともあり、短い本でもあるので改めて真面目に読んでみたのである。
両者の内容はだいたい重なっていると言える。前者は、「第一部・科学史」、「第二部・科学哲学」、「第三部・科学社会学」の三部構成になっているのに対し、後者は第1章から第21章まで切れ目なしにつながっているだけだが、前者と同様に三部構成として見ることができる。というのは、第一部と第二部はテーマとしてかなり共通しているといえるからである。特に第二部に相当する部分がクーンのパラダイム論で終了し、そこから第三部の科学社会学なり、科学論、あるいは別の展開といった方に移行するという構成で共通している。ただ後者では、この前者の第三部に相当する部分がバシュラールを中心としたフランスの哲学者の仕事と、生物学における科学哲学の問題が扱われている。前者では、この部分は科学社会学という範疇の中で多様な問題が扱われているわけだが、当然、後者と重なる部分もあり、互いに重ならない部分もある。
両者それぞれに意義があると思うけれども、個人的には後者の方が興味深く思われた。というのも、後者の行き方の方がそれまでの第二部までの内容と密接につながっていると思われる点で私の個人的な関心に対応しているように感ぜられたからである。しかし現在日本の社会的関心からいえば、前者の方が有意義かもしれない。
という次第で、両者共に第二部に相当する部分、すなわちクーンのパラダイム論に至るまでの内容が事実上、狭い意味の「科学哲学」であることが、今回の読書でかなり明瞭に理解できたことが、今回の個人的な収穫だったといえるかもしれない。
今回、この「科学哲学」について改めて、今回理解できた範囲で考えてみたのだが、基本的にこの「科学哲学」は論理学であり、それも形式論理を基礎に展開されてきたのであり、「意味」の領域に踏み込む程度が貧弱なのではないかと思われた。
もちろん、「意味」が重要な要素として扱われていないわけではない。しかしそれは意味の定義とか、「意味とは何か」あるいはある要素が「意味を持つ」か「持たない」か、といった、意味を中身の見えないパッケージとして扱うにとどまるかのような印象を受けるのである。そこが、「意味」の内容に深く関わっているカッシーラーの哲学などとの違いではないかと思うのだが。
後者(ルクーの著作)でかなり重点的に解説されているバシュラール等の哲学者の言説は、この短い解説書から漠然と読み取れた限りでは、カッシーラー同様に意味の中身にまで踏み込んでいるような印象を受ける。
それにしても、引き続きこの本で紹介されている生物学的な科学哲学の興味深い解説を読むにつけても、科学は永久に言葉の枠から抜け出すことができないという、一種の絶望に行き着くようにも思われる。ただしそれは科学にとっての絶望である。
カッシーラーは『シンボル形式の哲学』第三部の序文で次のように述べている。
「哲学は、言語という媒体と言語的諸概念という乗り物に分かちがたく結びつけられている単なる科学が達成し得ない事を達成してみせる。」
2015年4月10日金曜日
鏡像の意味論―その7―擬人化と鏡像問題
擬人化は科学のあらゆる領域に広く行き渡っている。浸潤しているとも浸食しているともいえる。言葉の本質上、避けられないことではあるかも知れないが、それでも常に意識し、反省すべき問題であることに変わりはないだろう。
技術的な達成が目的であれば、その過程の言葉として使われる擬人化はロボットやソフトウェアで用いる言葉と同様、便利な道具であり、なんら問題にならない。技術は結果がすべてなのだから。しかし鏡像問題は技術的目的の追求ではなく「なぜ?」を問う意味の探求である。
シリーズ2回目で「変換」の意味について考察したように、変換とは人間が明確な目的を持って行う行為であって、人間以外のものが何かを「変換」したと表現すればそれは擬人化に他ならない。鏡像を見て左右なり上下なりが変換されたと見、ある場合を「光学変換」として物理現象とみなし、ある場合を別の種類の変換として心理現象とみなして、別種の現象とみなされる場合、明らかに物理現象とみなされた「光学変換」は物理現象が擬人化されていると見ることができる、というより、擬人化そのものである。
「光学変換」というような名詞化された科学的な響きを持つ用語を使っていると擬人化という印象は薄れがちであるが、「鏡はその垂直な方向だけを反転する」、というような動詞的な表現になると擬人化であることはより明白となる。
(但しこのような「鏡は~反転する」といった表現では少なくとも日本語の場合、擬人化していることがよりあからさまに感じられ、擬人化表現であるという自覚が伴うように感ぜられるのである。英語の場合この種の表現はより普通で、自然でもあり、あまり擬人化と意識されないのではないかと思うのだがどうだろうか。ともあれ、「~変換」というように名詞化されてしまうとさらに擬人化の構造が覆い隠され、科学的な外見を付与されたような形となり、擬人的表現が科学的な表現として独り歩きしてしまっているのではないだろうか?)
当然ながら、鏡はそのような能動的な行為は何も行っていない。現実には人間が網膜に映った映像を元に様々なことを認知したり考えたりしているだけのことである。網膜に映る映像はもちろん幾何光学の法則に従って生じている。だから、鏡映反転とは、人がある対象から発せられる光が鏡に反射せずに直接網膜に映った像を元にして認知した形象と、その対象から発せられる光が鏡に反射して網膜に映った像を元にして認知した形象とを比較した際に生じる現象である。
今ここで幾何光学の意義を考察するのは難しい。しかし少なくとも、光も鏡も何ものをも変換したり、変化させたりしているとは言えないことは明らかだろう。少なくとも、光も鏡も、一つの像を別の像に変換するようなことは行っていない。まして、ある実物、多くの場合は人間であるから人間とすれば、人間そのものを鏡像という虚像に変換するようなことはあり得ないことは自明のことである。
こういうことはヒトが自分自身以外の対象の鏡像を見ている状況では理解しやすいだろう。他人を見ている限り、直接見る姿も鏡に映る姿も同様に視覚に由来し、現代人の大人であれば網膜に映った映像に由来していることが判っているからである。しかし全体としての姿を直接見ることのできない自分自身を対象にするから、問題が込み入って錯綜してくるのである。
自分自身の鏡像を考える場合、自分自身の身体の認知と自己鏡像の認知の問題が関わってくるのであり、感覚、知覚だけをとってみても視覚以外の様々な身体感覚が関わってくるのであり、鏡映反転の問題として処理できるような問題ではないといえる。これは鏡映反転をも含む広い意味の鏡像認知の問題であり、自己認識の問題であり、もっと広く認識論にも関わってくる問題なのである。
したがって鏡映反転の基本的な構造は自己鏡像を除外したところから始めるべきなのである。自己像の鏡映反転を客観的に認識するには他人を自己に見立てることで可能になる。上下・前後・左右はあらゆる人間に共通する方向軸なのだから、他人を自己に見立てて一向に差支えないと言える。左右が外見上区別できない場合が多いことは確かだが、たいていは何らかの識別要素を備えているものだし、実験をするなら他人の右手を動かしてもらうだけでも良いし、何か判り易いものを持ってもらっても良い。
このように鏡像問題にはあらゆる科学に深く浸透している擬人化の問題が露わにされるという面白さがある。擬人化の問題に限らず、科学についての、特に言葉に関して様々な問題があぶりだされ、じつに興味深い問題なのである。
◆ 4月13日、緑色文字の部分を追記しました。
◆ 4月14日、青色文字の部分を追記しました。この擬人化の問題については特にコメントをお寄せ頂けることを希望します。
技術的な達成が目的であれば、その過程の言葉として使われる擬人化はロボットやソフトウェアで用いる言葉と同様、便利な道具であり、なんら問題にならない。技術は結果がすべてなのだから。しかし鏡像問題は技術的目的の追求ではなく「なぜ?」を問う意味の探求である。
シリーズ2回目で「変換」の意味について考察したように、変換とは人間が明確な目的を持って行う行為であって、人間以外のものが何かを「変換」したと表現すればそれは擬人化に他ならない。鏡像を見て左右なり上下なりが変換されたと見、ある場合を「光学変換」として物理現象とみなし、ある場合を別の種類の変換として心理現象とみなして、別種の現象とみなされる場合、明らかに物理現象とみなされた「光学変換」は物理現象が擬人化されていると見ることができる、というより、擬人化そのものである。
「光学変換」というような名詞化された科学的な響きを持つ用語を使っていると擬人化という印象は薄れがちであるが、「鏡はその垂直な方向だけを反転する」、というような動詞的な表現になると擬人化であることはより明白となる。
(但しこのような「鏡は~反転する」といった表現では少なくとも日本語の場合、擬人化していることがよりあからさまに感じられ、擬人化表現であるという自覚が伴うように感ぜられるのである。英語の場合この種の表現はより普通で、自然でもあり、あまり擬人化と意識されないのではないかと思うのだがどうだろうか。ともあれ、「~変換」というように名詞化されてしまうとさらに擬人化の構造が覆い隠され、科学的な外見を付与されたような形となり、擬人的表現が科学的な表現として独り歩きしてしまっているのではないだろうか?)
当然ながら、鏡はそのような能動的な行為は何も行っていない。現実には人間が網膜に映った映像を元に様々なことを認知したり考えたりしているだけのことである。網膜に映る映像はもちろん幾何光学の法則に従って生じている。だから、鏡映反転とは、人がある対象から発せられる光が鏡に反射せずに直接網膜に映った像を元にして認知した形象と、その対象から発せられる光が鏡に反射して網膜に映った像を元にして認知した形象とを比較した際に生じる現象である。
今ここで幾何光学の意義を考察するのは難しい。しかし少なくとも、光も鏡も何ものをも変換したり、変化させたりしているとは言えないことは明らかだろう。少なくとも、光も鏡も、一つの像を別の像に変換するようなことは行っていない。まして、ある実物、多くの場合は人間であるから人間とすれば、人間そのものを鏡像という虚像に変換するようなことはあり得ないことは自明のことである。
こういうことはヒトが自分自身以外の対象の鏡像を見ている状況では理解しやすいだろう。他人を見ている限り、直接見る姿も鏡に映る姿も同様に視覚に由来し、現代人の大人であれば網膜に映った映像に由来していることが判っているからである。しかし全体としての姿を直接見ることのできない自分自身を対象にするから、問題が込み入って錯綜してくるのである。
自分自身の鏡像を考える場合、自分自身の身体の認知と自己鏡像の認知の問題が関わってくるのであり、感覚、知覚だけをとってみても視覚以外の様々な身体感覚が関わってくるのであり、鏡映反転の問題として処理できるような問題ではないといえる。これは鏡映反転をも含む広い意味の鏡像認知の問題であり、自己認識の問題であり、もっと広く認識論にも関わってくる問題なのである。
したがって鏡映反転の基本的な構造は自己鏡像を除外したところから始めるべきなのである。自己像の鏡映反転を客観的に認識するには他人を自己に見立てることで可能になる。上下・前後・左右はあらゆる人間に共通する方向軸なのだから、他人を自己に見立てて一向に差支えないと言える。左右が外見上区別できない場合が多いことは確かだが、たいていは何らかの識別要素を備えているものだし、実験をするなら他人の右手を動かしてもらうだけでも良いし、何か判り易いものを持ってもらっても良い。
このように鏡像問題にはあらゆる科学に深く浸透している擬人化の問題が露わにされるという面白さがある。擬人化の問題に限らず、科学についての、特に言葉に関して様々な問題があぶりだされ、じつに興味深い問題なのである。
◆ 4月13日、緑色文字の部分を追記しました。
◆ 4月14日、青色文字の部分を追記しました。この擬人化の問題については特にコメントをお寄せ頂けることを希望します。
登録:
投稿 (Atom)